郷土歴史倶楽部(伊達一族)

伊達一族について 
 <<伊達氏由来>>

伊達氏の由来は、本姓藤原で、大職冠鎌足より出ている。鎌足の曾孫に河辺左大臣魚名の玄孫従三位中納言山蔭が伊達氏の祖である。山蔭の子孫に従五位侍賢明院(鳥羽院中宮藤原瓊子)非蔵人光隆というものがいる(その光隆は源為義の婿)。この光隆の第ニ子が朝宗であり、伊達氏の第一代 (初代)である。(伊達治家記録より)
初代朝宗は、藤原鎌足17世の子孫にあたり、母は源為義の女であり、初めは時長と称し、東宮帯刀、高松院非蔵人、院判官代、従五位下遠江守、常陸介を歴任、常陸国真壁郡伊佐荘中村に住むことになり、伊佐あるいは中村を姓とした。
○1189年文治五年には、源頼朝の奥州征伐に庶子(為宗、為重、資綱、為家)を率いて従軍し戦功を挙げ、伊達郡(福島県伊達郡)を賜った。依って、伊達氏に改名し、伊達郡高子岡(たかこおか)(福島県伊達郡保原町高子)に城を構えて移住した。
朝宗の戦功とは、石那坂の戦いで先登し、信夫郡の佐藤荘司以下18人斬りした事や、奥州征伐の最大決戦である阿津賀志山で、山上に夜半背後に廻り勝利に導いた戦功を挙げた事である。
○1199年正治元年十月二日に、伊達朝宗が71歳で没し、朝宗の第ニ子の為重が、宗村と改名し、第二代目後継者となった。宗村の母は、結城氏であり、幼名次郎、後に殖野安芸守と称し、従五位下に叙された。没年は不明とされる。 三代目後継者は、後継年代は不明であるが、宗村の第二子の義広が後を継いだ。伊達郡桑折郷粟野大館に居館を構え、城辺に亀岡八幡を移した。
○1256年康元元年九月ニ十三日に、義広は72歳で没した。義広の第二子の政依が第四代となる。
初代伊達朝宗墓 高子岡城址(遠景)
初代伊達朝宗墓 高子岡城址(遠景)
義広は、従五位下、蔵人大夫に任じられた。仏教を信じ、東昌、光明、満勝、観音、光福寺の五山を創った。光福は生母の院号である。光福夫人の出自は明らかでない。




 

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 <<伊達氏由来Ⅱ>> 

○1301年正安三年七月九日には、政依が57歳で没し、第一子の宗綱が第五代を継ぐことになる。政依は、伊達郡成田村東福寺に葬られた。 母は、真如夫人であり、近江伊達系図に佐竹十郎昌長の女とある。
○1317年文保元年二月七日に、宗綱が54歳で没したが、明確ではない、信夫郡沢又村(福島市沢又)の全福寺に葬むられていると伝えられる。第六代には、宗綱の子である基宗が継ぐことになる。六代の関連は不明となれている。 基宗の子が第七代の伊達行宗である。母は泰昌夫人で出自は不明である。初名は、行朝又は朝村とも伝えられている。
○1333年元弘三年の頃に、蔵人、左近衛将監、次に従五位下、宮内大輔に叙されている。
○1335年建武二年に、奥州国司義良親王に従い、奥州式評定衆となり、引付職を兼ねるとともに、戦功を挙げ高野郡の北方を賜る。この時点で、奥州南朝方の柱石となった。
○1336年延元元年~二年に、北畠顕家に従い上洛し、所々に軍功を挙げた。
○1338年延元三年には、北畠顕家が石津(大阪府堺市近郊)で戦死した後、北畠親房に従って常陸国(茨城県)に入り、伊佐城に籠城し北朝軍を迎え撃った。
○1344年興国五年十一月には、高師冬の軍が来襲したが、伊佐城は陥落し、北畠親房は高野へ逃れ、行宗は陸奥に逃れた。
○1348年正平三年五月九日に、55歳で没した。常陸中村の観音堂の片隅に葬むられている。行宗の子である宗遠が第八代となる。宗遠の母は、静照院夫人田村氏である。伊達郡に居館を構え、従五位下弾正少弼に任じられ、 父行宗の意志を継いで南朝方につき、南朝の為に尽力した。宗遠は、米沢の長井道広を討ち出羽国置賜郡長井荘を攻略奪取した。
○1381年永徳元年には、亘理行胤と刈田郡で戦い、これを降伏させ、大崎ニ郡、信夫・刈田・柴田三郡・伊具荘を手中に治めた。この勢いを背に、上洛し足利将軍に朝貢をし、領地安堵を得た。伊達氏は、初めは奥州の南朝方として 活躍していたが、宗遠に至っては、足利将軍に帰服したようである。以後、鎌倉公方、関東管領の支配に入ったが、直接、京都の足利将軍との結びつきを強める政策を打った。
○1385年至徳ニ年五月二十日に、伊達宗遠は62歳で没した。母が高明夫人(結城上野介宗広の娘と思われる。)である宗遠の第一子が、兵部権少輔、大膳大夫に任じられ、伊達政宗として第九代となった。
○1397年応永四年に、伊達政宗が、嫡子氏宗と共に上洛し、将軍足利義満に拝謁した。
○1398年応永五年には、鎌倉公方の足利氏満が亡くなり、満兼が後継となったが、伊達政宗等が、満兼を非難したところ、氏満夫人が、足利満兼の弟満貞と満重を政宗と白川満朝に(依託)任せてしまった。満貞・満重は奥州下向を余儀なくされ、満貞は岩瀬村稲村(福島県須賀川市)に居を構え、「稲村公方」と呼ばれ、満重は笹山(福島県郡山市)に居を構えて、「笹山公方」と 呼ばれた。




 

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 <<伊達氏由来Ⅲ>> 

○1398年応永五年には、鎌倉公方満兼は、政宗等奥州諸将に対して「御料所」として、領地の一部割譲を命じたため、伊達政宗と斯波満詮は、不満を抱き満貞のもとを去った。
一方、政宗は、稲村公方の暴挙を、京都の将軍に対して上訴を行った。
○1400年応永七年には、伊達政宗(九代)が挙兵した頃、大崎詮持は鎌倉に出向いており、身の危険を感じて、瀬崎邸から奥州本領に逃げるべく、間道を辿ったが、田村荘大越で稲村御所の足利満貞に追跡され、9月7日に自刃した。息子の満詮は、15歳であったが、伊達政宗 が匿い、稲村・笹川御所の追及をかわし難を逃れた。伊達政宗は、政宗(九代)夫人が、将軍足利義満の生母の妹にあたり、将軍家との血縁関係もあったことで、関東府対決も幕府の後ろ盾があったからと推測される。鎌倉公方満兼は、赤松氏に伊達政宗を討伐する命をだしたが、敗退し失敗に終わった。
○1402年応永九年にも、鎌倉公方は、関東管領上杉氏憲に、再度、伊達政宗の討伐命令を出し、出向かせた。氏憲は、伊達氏の本拠地赤館城(西山城、福島県伊達郡桑折町)を攻めたが、撃退されてしまった。が、再度、鎌倉公方足利満貞を大将とし、上杉氏憲が来襲、赤館城を包囲した為、 伊達軍は籠城することになった。結末は、兵糧がつき、政宗は会津に逃れた。史実的には、詳細は明らかではない。
九代政宗は、文武兼備の武将として名を馳せていて、隣国諸将の争いごとには仲裁に入り、これを収めたことで、亘理・黒川・宇多・名取・宮城の諸郡、桃生郡深谷、志田郡松山方面の諸将は政宗に服従した。又、和歌を詠み、新後拾遺和歌集にも収められる程のであった。「明けは又独り ゆかむ夜もすがら、日に伴宇都の山越」 の一首を詠んでいる。
○1405年応永十二年九月十四日に、政宗53歳で没し、刈田郡湯原(宮城県七ヶ宿湯原)に葬むられた。政宗の嫡子が、鎌倉公方足利氏満の偏緯を受けて、伊達氏宗と称し第10代として後を継いだ。
○1412年応永十九年七月十七日に、氏宗42歳で没した。氏宗の嫡子が、将軍足利義持に偏諱(へんぎ)を受け、伊達持宗として第十一代として後を継いだ。初めは、泰宗と称した、幼名は松犬丸、従五位下、兵部大輔、大膳大夫に任ぜられた。持宗は、政宗の志を継ぎ、稲村公方らの勢力に対抗し続 けた。
○1413年応永ニ十年に、持宗は、播磨守懸田定勝(入道玄昌)の援助を受け、密かに五~六百騎を集め、大仏城(福島市)で叛旗を翻した。大将には、当時羽州三崎山下に隠れていた南朝方の脇屋義治(新田義貞の弟)を迎えた。義治は、稲村公方足利満隆を破り、笹川公方足利義直は城を捨てて逃走した。 これにより、安積・岩瀬方面の敗将二千余りが服従した。齢八十歳余りの義治であったが、南朝方の歴戦の勇将として名高く、奮戦した結果が勝利した由と思われる。そもそも、稲村公方足利義貞、笹川公方足利満直は、鎌倉公方義兼の弟で、鎌倉公方の意図で、奥羽に勢力の拡大を図り、奥羽の武士の支配を強化することであった。 結城・白川氏や奥州の南部の諸将は指示していたが、伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部の勢力拡大を警戒し対抗した。伊達氏は、領地の立地から奥羽南部勢力にさし当り脅威を抱いてので、中奥羽諸将の支援を受け、赤館城、大仏城に 立て籠もり、脇屋義治を迎い入れ立ち向かった。




 

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 <<伊達氏由来Ⅳ>> 

○1413年応永ニ十年の、この反抗で、伊達軍は、稲村公方・笹川公方を破ったが、鎌倉公方足利持氏が、修理大夫畠山国詮に八千の兵を与え討伐を指揮させた。懸田定勝と脇屋義治は、一度、畠山軍を破ったが、その後、衆寡(しゅうか)敵なし、多勢に無勢であり、大仏城は失火を起こしたりしながら、畠山軍の強襲に防戦したが、落城し、12月21日には、伊達持宗は 会津に逃れた。畠山国詮は、持宗を逃して、戦功もなく、鎌倉に帰還した。
○1416年応永ニ十三年冬に、上杉禅秀の乱が起こった。禅秀は出家名で、関東管領上杉氏憲である。鎌倉公方足利持氏との不和が、将軍足利義時の弟義嗣と鎌倉公方持氏の叔父満隆らの不平分子と禅秀(管領上杉氏憲)が叛乱を起こした。足利持氏は駿河に追放されたが、関東は、鎌倉公方派と関東管領派に分かれ、混乱してしまった。 この様な状況を上手くとらえた伊達持宗は、奥羽に失地回復をはたすことができた。
○1417年応永ニ十四年に、上杉氏憲(入道禅秀)が滅亡した為に、奥州中部における伊達氏の地位が確立した。
○1426年応永三十三年には、伊達持宗は居城を梁川(福島県梁川町)に構え、梁川八幡宮を造営した。
○1441年嘉吉元年には、第九代政宗夫人紀氏の為の寺を梁川に創建した。宸筆(しんぴつ)の扁額を賜り金剛宝山輪王禅寺と称したと伝えられている。
参考として、1440年(永享十二年)に、足利持氏の遺児が結城氏朝の支援を受け挙兵した。所謂、「結城合戦」が起こった。1441年(嘉吉元年)に、結城氏朝が40歳で自刃した。
○1449年宝徳元年には、足利成氏が、鎌倉公方となる。
○1455年享徳四年には、将軍足利義政が、鎌倉公方成氏を討伐する命の書状を出した。しかし、出兵されたかは確かではない。尚、1460年長禄四年にも、同様な書状が出されたが、出兵されたかは不明である。
○1459年長禄三年八月には、芦名氏が兵を向けて、伊達氏を攻めたが、戦況不利として軍を引き揚げた。
○1462年寛正三年には、伊達持宗が上洛し、将軍足利義政に拝謁し、黄金三万疋を献上したと伝えられる。
○1469年文明元年には、持宗が77歳で没し、その第二子が、上洛し、将軍足利義成(後の義政)の偏諱を賜り伊達成宗として、第十ニ代となった。又、従五位上兵部少輔、従四位下奥州探題に任ぜられた。
亡くなった持宗は、将軍と鎌倉公方の争いや鎌倉公方と関東管領の争いを利用して、伊達氏の勢力を確保する業績を残した。
○1483年文明十五年には、伊達成宗が二度目の上洛をした。その折、将軍義政、子息義尚、夫人日野富子をはじめ、各方面に贈物を献上した。太刀二十三振、馬九十五頭、砂金三百八十両、銭五万七千疋と云う莫大なもので、 その豪勢さには京の人びとを驚かせた。同じ頃、上洛した荘内の武藤氏が、義政に献上したのは、銭一万疋、馬十頭であった。




 

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 <<伊達氏由来Ⅴ>> 

前述の比較として、1440年(永享十二年)に上洛した白河の結城氏朝は、将軍以下に献上したものは、馬七頭、太刀八振、銭六万五千疋であった。如何に、伊達氏の献上品が格段に差異いがあった事が分かる
伊達成宗の頃は、奥羽中部~置田郡方面を有し、奥羽随一の有力大名にのしがあがっていた。成宗は、上洛の帰路に伊勢神宮を参拝した帰国したと伝えられている。又、京を去る前に「都出る名残りは 誰としらねども・・思う袖かな」と和歌を詠んでいる。
○1488年長享ニ年正月には、大崎義兼が領内の内訌によって、伊達領に出奔し、成宗は兵に護衛させて大崎に帰還させた。
成宗は53歳で没し、伊達郡西山城の北の松箇峯に葬むられ、五峰山松音寺が建てられた。没年に関して定かになっていない。
○1488年長享ニ年以降には、成宗の第一子が上洛し、将軍足利義尚より偏諱を賜り尚宗とし第十三代となる。又、従五位下大膳大夫に任ぜられる。
○1504年永正元年以降に、尚宗は、将軍義澄に叔父小梁川盛宗をつかわしている。
将軍義澄は、将軍義政の弟で、堀越公方(伊豆堀越)の足利政知の子である。細川政元が擁立して、10代将軍義稙の後を継いで11代将軍とった。しかしながら、権臣の力が強く実権がなく、その地位は不安定なものであった。1509年(永正5年)に、前将軍義稙が 、大内義興に擁されて入京し、近江に逃れて将軍職を退いた。当時の将軍職とはいっても、権威を失い、地方の有力大名に依存して地位を保持する有様であった。義稙などは「流れ公方」と揶揄された程であった。従って、代々京都と関係を結んでいた伊達氏が、将軍 をお迎えする計画を持っても不思議ではなかった時代である。
○1514年永正十一年五月五日に、伊達尚宗が62歳で没し、第二子の稙宗が十四代になった。母は越後国主上杉定実の娘、積翠院である。従四位下左京大夫に任じられた。
守護とは、鎌倉時代には大番役を国の武士に催促し、謀叛人、殺害人を検断する役職であったが、有力者が任命されるようになると、地方の武士や地頭を支配する立場になった。室町時代に入ると、各有力諸将の力が増し、将軍もその横暴を抑制することもできなくなった。奥州においても、 門閥の公方や探題の実際の力がなく、奥州武士を統卒できない状況に至っていた。
伊達稙宗氏が守護職を望んだ訳は、実力を持って奥州支配を考えていたので、敢えて、是までにない奥州守護の地位を幕府に要望した為、守護職に任じられた。伊達稙宗はこれまでの 探題や稲村公方、笹川公方とは別に、奥州の諸大名に命令を発し、これを支配する名目的証とした。名実共に奥州の覇者として、飛躍する素地ができ、活発な軍事的・外交的活動を展開した。




 

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 <<伊達氏由来Ⅵ> 

○1514年永正十一年二月に、伊達稙宗が、最上氏と村山郡長谷堂戦い、一千人余りを斬って勝利した。
○1514年永正十一年十二月には、稙宗の妹を最上義定に嫁がせた。
○1516年永正十三年に、将軍足利義稙に、太刀・黄金・馬などを献上した。
○1517年永正十四年にも、将軍に太刀・黄金・馬を献上し、将軍義稙より偏諱を賜り伊達稙宗と称し、左京大夫に任じられた。
○1522年大永ニ年に、稙宗は、従四位下奥州守護職となり、最上氏と葛西氏と争った。
○1532年天文元年に、稙宗は、伊達郡西山城に移り、亀岡八幡宮を梁川から西山に移築創建した。
○1533年天文ニ年三月に、稙宗は、家老六人衆の連署による土倉定目を定めた。家老六人衆は、金沢弾正左衛門尉宗朝、牧野紀伊景仲、牧野安芸宗興、中野上野親村、 浜田伊豆守宗景、富塚近江仲綱の重臣たちである。
○1533年天文ニ年五月十日に、稙宗の嫡男(母は会津領主蘆名盛高の娘)は、将軍義晴の偏諱を賜り晴宗と名乗った。
○1536年天文五年ニ月に、大崎左京大夫義直の家臣に内訌が起こり、家臣新田頼遠が反乱を起こした。義直は、これを討伐できず、伊達稙宗に援軍を請う為に、西山城に伺った。
○1536年天文五年四月十四日に、家老、評定人等と合議して、式目六十九条を定めた。戦国時代の分国法として名高い「塵芥集」である。この塵芥集に署名した者は、 金沢宗朝、国分景広、中野親時、万年斎長悦、富塚仲綱、伊達宗良、峰重親、浜田宗景、牧野景伴、牧野宗興、牧野沙弥出木、中野宗時等である。
○1536年天文五年五月に、伊達稙宗は、兵三千余り率いて西山城を出発した。大崎義直が、援軍要請の為に西山城を訪れ留守に、留守役の百々弾正少弼直孝が、古川直孝(新田頼遠派)を襲い、婦女子・子供 までも斬殺してしまった。
○1536年天文五年十九日には、義直の反対の将古川形部大輔持煕の古川城(宮城県古川市)を攻撃した。大崎義直は五百騎で東門へ、稙宗は千騎で南門へ、牧野宗朝、浜田宗景は各々千騎で北門・西門へ、さらに、 黒川景氏、内崎宗忠、留守景宗、懸田俊宗、武石宗隆、長江宗武、遠藤左近将監が伊達軍を固め攻撃したので、六月ニ十一日早朝に、古川持煕は子弟共々自害した為、堅固な古川城は陥落した。稙宗は、古川城に長逗留し、西山城に 帰還しなかった。
○1536年天文五年七月十三日には、稙宗と義直は、玉造郡の岩手沢(宮城県玉造郡岩出山町)に向かい、青塚より冨田・一栗に至る二十余郷を悉く焼き払い、七月十六日に、三千余人が立て籠もる岩手沢城に進攻した。 岩手沢城は、大崎家臣の氏家又十郎直継の居城であるが、新田頼遠がこれを攻略くしていたからである。城は要害堅固で、容易に攻めとる事が出来るものではなかつた。九月に入り、最上義光の仲裁で、新田頼遠は最上に逃れ、稙宗は、 氏家直継を岩手沢城に戻して、兵を引き返した。又、稙宗のこの遠征により、大崎地方・黒川郡等は伊達氏に従属する事になつた。
○1541年天文十年五月には、田村郡主の田村隆顕が服属し、これによって、伊達氏の四方の群雄は服属することになった。




 

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 <<伊達氏由来Ⅶ>> 

伊達稙宗は、群雄を服属させるだけでなく、抗争を調停する為に、政略結婚を積極的に展開した。そもそも、十四男七女のニ十一人の子があつたので、その内で二男六女を相馬・蘆名・大崎・二階堂・田村・懸田・葛西の諸氏に入嗣・入嫁をさせた。 奥州守護職の地位を背景に、勢力を拡大するとともに、奥州の和平維持に積極的に努力したことが、これによって分かることができる。
稙宗時代の領地は、伊達・信夫・置賜・刈田・柴田・名取・伊具・宇多・の諸郡から宮城郡高城・志田郡松山・黒川郡大松の諸荘にわたり、福島県北部~山形県県南部~宮城県県南部と広範囲であった。又、亘理郡の亘理氏・宮城郡の留守や国分氏・黒川郡の黒川氏・桃生郡 深谷の長江氏も伊達氏に帰服しており、田村氏の田村郡・大崎諸郡・氏家氏の玉造郡・葛西氏の北上沿岸諸郡なども伊達氏の勢力範囲になったと云える。
○1542年天文十一年六月には、稙宗が五男実元を越後国主上杉兵庫頭定実の養嗣子になることを約束した為、使者が迎えに遣わされた。
稙宗は、実母が上杉定実の娘でもあり、上杉氏は越後の守護の家柄でもあり、政略的には十分すぎる縁組であった。稙宗は、精鋭の兵千騎を従えて、越後に送ろうとしたが、嫡男晴宗が縁組に反対し、父稙宗を西山城に幽閉してしまった。その為、縁組は破談となってしまった。
晴宗が反対した理由は、中野宗時や桑折景長等が、「多くの精鋭の兵を越後に送ることは、伊達の家中が蝉の抜け殻同様になり」と忠告を受けた為である。
一つの見方として、稙宗は、守護職の立場として、諸大名の豪族間融和を図る為には、多少の兵力割譲はやむなしと考え、恩義を施すことにより、伊達氏の勢力拡大を図る大国的外交政策と、晴宗の領国内を堅め、精鋭の兵を養うことが重要との戦国大名政策が対立した為であつた。 家老中野宗時は、領内政治を束ねる実務を預かっており、内情には詳しいことから不満を抱いていたようで、桑折景長は、支族の長クラスの家臣に不安を抱かせることや、精鋭の割譲は伊達軍団の中枢の割譲なる事から晴宗に進言した結果ではと考えられている。
この事態によって、稙宗派と晴宗派に二分し、領国内ばかりでなく、隣国諸大名を巻き込む内乱に発展した、所謂、伊達の「天文の乱」である。
稙宗派は、娘婿の蘆名盛氏、相馬顕胤、田村隆顕、二階堂照行、その他として、安達郡二本松の畠山義氏、安達郡塩松の石橋尚義、伊達郡懸田の懸田俊宗父子、亘理郡の亘理宗隆、山形城主の最上義守、黒川郡の黒川景氏、宮城郡の国分宗継、稙宗の子葛西晴胤、大崎義宣、家中では、 小梁川宗朝、宗城父子、石母田安房、宿老の堀越能登、・・・が荷担した。
一方、晴宗派は、妻の父岩城重隆、本宮宗頼、大崎義直、黒川藤十郎、留守景宗、家中では、桑折景長、小梁川親宗、大波稙景、新田景綱、白石宗綱、村田近重、宿老の中野宗時、牧野宗興であった。
大勢としては、近隣の諸大名の多くは稙宗派に味方し、伊達家臣から晴宗に荷担するものが多かった。
稙宗は、西山城に幽閉されたが、懸田俊宗父子が相馬顕胤と連絡をしつつ、西山城から救出して、懸田城に移した。




 

伊達一族について 
 <<伊達氏由来Ⅷ>> 

この内乱は、稙宗派から晴宗派に転じた為、晴宗派の優勢が歴然となり、芦名、二階堂、相馬、田村、岩城氏等の仲介や1548年(天文十七年)に将軍足利義政の和解命令の書状も届き、両者和睦することになつた。六十歳の稙宗が伊具郡丸森に隠退、三十歳の晴宗が15代の当主となった。
○1542年天文十一年十月九日に、晴宗は左京大夫に任ぜられた。
○1548年天文十七年九月には、伊達晴宗は、伊達家15代当主として家督を継いで、羽州(山形県)置賜郡米沢に居城を構えた。
○1552年天文二十一年には、懸田俊宗父子が謀叛を起こし、翌年7月に討伐された。
○1553年天文二十ニ年に、晴宗は、家臣に知行地の証の証文を与え、騰本三冊製本し保存した。所謂、「晴宗采地下賜目録」という。これにより、晴宗が部下との結びつきを確認したもので、戦国大名としての伊達氏の主従関係を確立した。
○1555年~1557年(弘治~永禄年間)に、幕府は、晴宗を奥州探題に任じ、桑折景長・牧野久仲の伊達家臣の両者を守護代に補任された。
注)守護と探題について
守護は各国に置かれたのに対して、探題は、鎌倉幕府時代では、六波羅探題、鎮西探題、長門探題、に置かれ、室町幕府時代では、中国・九州・奥州・羽州探題と数少なくおかれた。探題は、国を越えた地域の政治や軍事・検断の権限を掌握するものである。
○1555年(弘治元年)三月十九日に、晴宗の第二子で、母が岩城左京大夫重隆の娘、裁松院夫人の子が、将軍足利義輝の偏諱を受け輝宗を名乗った。輝宗は、山形城主最上義守の娘、義姫(保春院殿花窓久栄尼大姉)を夫人として、ニ男ニ女をもうけた。
輝宗は、伊達家が歴代続けてきた足利将軍との関係を、奥州での地位を高める為に維持してきたが、中央政治情勢の変化に対応して織田信長に接近していった。又、内部を固める為に様々な手を打った。
○1561年(永禄四年)には、内紛の元凶となる中野常陸宗時・牧野弾上忠久等を粛正した。又、外部に対しても、最上・相馬氏とは、戦いの連続であった。相馬氏とは、度重なる死闘を続けて、最上氏とは、本拠地米沢を窺う最上氏の南下を阻止をした。特に、 相馬氏とは、伊達信夫に侵入し、伊達領を分断しようとした相馬勢力を撃退し、逆に、伊具郡を大かた輝宗の手中に収めた。
○1565年永禄八年に、伊達家「中興の祖」稙宗が78歳で没し、丸森の松音寺に葬むられた。又、晴宗が、信夫郡杉目城(福島市)に隠退した。
○1575年(天正三年)には、従四位下左京大夫に任じられた。
○1577年天正五年十月八日に、輝宗が、相馬氏を抑え、安達・田村郡への南下に転じ様とする時に、安達郡高田原において、畠山義継の謀略に遭い42歳で謀殺された。 羽州置賜郡見刈村資福寺に葬むられた。
○1577年天正五年十二月五日に、晴宗が59歳で没し、杉目城辺の宝積寺に葬むられた。




伊達一族について 
 <<伊達氏由来Ⅸ>> 

○1584年天正十二年に、伊達家の嫡男の政宗が、第十七代として伊達家の当主となった。
注)第十七代政宗時代の伊達氏の躍進の基礎を築いた輝宗は、その生涯業績を収めた「性山公治家記録」に残された。
伊達稙宗像 伊達晴宗像
伊達稙宗像 伊達晴宗像
伊達輝宗像 伊達政宗像
伊達輝宗像 伊達政宗像
桑折西山城址(福島市) 米沢城址(米沢市)
桑折西山城址 米沢城址




伊達一族について
伊達家家臣序列に関して 

白石城山門写真 伊達家家臣の序列は、直属家臣と、その家臣である陪臣を含めると、約3万3800余人(幕末期)、諸藩随一の兵力を誇った。家臣の多くは、戦国末期から近世初頭の領国拡張時期に登用された。 家臣団は大別して、門閥・平士・組士・卒の四等級から編成され、組士以上が士分で、原則として、知行は土地で与えられた。藩政を握ったのが、上層家臣の門閥であった。
仙台城址本丸跡 仙台城隅櫓
仙台城本丸跡写真 仙台城隅櫓写真
門閥には、一門(11家)、一家(17家)、準一家(10家)、一族(22家)、宿老(3家)、着坐(28家)、太刀上(10家)、召出(89家)の家柄があった。それぞれの由緒・功績などにより、列せられ、政宗時代から4代藩主綱村時代にかけ、整えられた。(藩政の執行にあたったのは、一家以下の家臣であった。)、尚、呼称に関して、一家・一族は、戦国時代より、伊達氏に服属した、有力家臣 で藩奉行(家老職)の重職に就いた。・・大条・石母田・片倉ら諸氏、準一家は、政宗の時代に伊達氏に服属した外様の有力家臣。宿老は、本家家老の意味で、遠藤・但木・後藤の3家が奉行職に就いた。着坐は、低い身分から登用された功績のあった者のうち、登城し、藩主に太刀・馬を献上し、盃を賜わったもので、奉行職に任じられた家もあった。太刀上は、正月の賀礼に際し、藩主に太刀を 献上し、盃を頂戴できる家柄である。召出は、毎年正月の宴会に召し出される家柄の武士であった。 又、妻側の虹梁の上にあるかえる股の意匠は地方色に富む。
白石城本丸跡 城門より隅櫓
白石城本丸跡写真 城門より城隅櫓を望む写真




伊達一族について
伊達藩(仙台藩)要害に関して

寺池城社写真   要害の重臣たちは、知行を土地で与えられ、家臣は、城下の屋敷のほか、知行地に館・屋敷を備え、知行の支配をおこなった。なかでも、上級の門閥は中世以来の城館を構える要地に配置され、城館を居所としていた。 (近世の一国一城制の下では、藩主の居城を除き、破却されるのが原則であったが、仙台藩は破却されなかった。)各要害地は政治的・軍事的重要性から城・要害・所・在所の四種に区分された。
 
仙 台 藩 要 害・城 祉
要害・城名 型式 拝領家臣 拝領年月 家柄 知行高 備考
白石城 平城 片倉小十郎 慶長7年12月 一家 13000石→18000石 白石市内
亘理要害 平城 伊達成実 慶長7年 一門 6113石→23853石 亘理神社跡
角田要害 平城 石川昭光 慶長3年 一門 10000石→21380石 角田高校敷地
涌谷要害 平山城 伊達重宗 天正19年12月 一門 8850石→22640石 亘理氏→養子縁組
寺池要害 平山城 伊達宗直 慶長9年12月 一門家 15000石→21000石 白石氏→養子縁組
水沢要害 平城 伊達宗利 寛永6年 一門 16130石 留守氏→養子縁組
岩出山要害 山城 伊達宗泰 慶長8年11月 一門 14643石 岩出山高校隣接
岩谷堂要害 山城 伊達左兵衛 万治2年 一門 5019石 岩城氏→養子縁組
川崎要害 平山城 伊達村詮 享保7年 一門 2000石 川崎町付近
舟岡要害 山城 柴田宗意 天和1年 一家 5000石 山本周五郎小説

寺池城址写真




伊達一族について
伊達藩(仙台藩)要害に関して

仙 台 藩 要 害・城 祉
要害名 型式 拝領家臣 拝領年月 家柄 知行高 備考
金ケ崎要害 平城 大町定顕 寛永21年 一族 2000石→3000石 金ケ崎近郊
高清水要害 平城 石母田興頼 宝暦7年11月 一族 4000石 高清水中敷地内
坂元要害 平山城 大條宗綱 元和2年9月 一家 2000石→4000石 坂元小学校側
金山要害 山城 中島伊勢 寛永21年 一族 2000石 瑞雲寺近郊
上口内要害 平山城 中島利成 元禄7年11月 一族 2000石 調査中
人首要害 山城 沼田重信 慶長11年 一族 1260石 調査中
佐沼要害 平城 津田景康 文禄4年 宿老 1500石→8000石 鹿ヶ城公園内
不動堂要害 平城 後藤近元 元和6年 宿老 1000石→7000石 調査中
岩沼要害 平山城 古内広慶 貞享4年 着坐 7042石 鵜ヶ崎公園側
平沢要害 平城 高野光兼 慶長4年 着坐 1650石 グランド敷地
宮沢要害 平城 長沼致貞 延亨4年 着坐 1500石 調査中

<<特記事項>>伊達政宗岩出山入部(1591年9月23日)時領域と石高に関して、伊達領として、江刺・胆沢・気仙・磐井・本吉・登米・牡鹿・加美・玉造 ・栗原・遠田・志田の旧葛西・大崎の諸郡とそれ以前の伊達領である桃生・黒川・宮城・名取・亘理・伊具・柴田・宇田を加え計20郡、刈田郡を除く、宮城全域と福島県 の一部、岩手県南部を加え、石高約58万石の領域、関ヶ原以後刈田郡が加わり仙台藩は陸奥領約60万石、その他に、近江領、常陸領も加わり約62万石の構成となった。




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