西 暦
年 代
中世奥州葛西領内歴史動向
1148年
久安4年
・1148年久安2年に、
1172年
承安2年
・1172年承安2年頃、
1180年
治承4年
・1180年治承4年、葛西清重は、33才の頃に、頼朝旗下に馳せ参じる。
1189年
文治5年
葛西清重が、「陸奥国御家人事」を奉行すべしと任じられ、
源頼朝は平泉を離れ、鎌倉に向かい、清重は奥州惣奉行として、平泉に留まり、「奥州所務」の遂行として、奥州征伐後の戦災復興に尽力したという。
頼朝からも、所務遂行に当たって清重に三ヶ条の指示命令が出された。
・1189年文治5年9月14日に、源頼朝が平泉に来て、奥羽両国の
・1189年文治5年9月には、平泉藤沢一族滅ぼした後、9月19日には、岩手厨川を出て帰路についた。途中、奥州征伐に武勲のあった者に賞を与えている。
・9月21日には、伊沢鎮守府八幡の八幡宮に
・9月22日には、平泉に帰着した。
平泉に数日間滞在し、「
特に重要な指示命令は次に様なものである。
・葛西三郎清重を奥州54郡の奉行に任じた。
・今後、鎌倉に所用の為出向く者は、あらかじめ清重の指示を受けること等である。
さらに、5項目の指示命令を出している。
1. 現地の農科種子を確保すること。
2. 泰衡に協力していた佐竹太郎を捜すため、宿場を固めること。
3. 所在不明の泰衡の子息を探すこと。
4. その子息と若宮(頼朝嫡子頼家)が同名であったのを改名すること。
5. 師衡の乗馬を捜すこと。
などである。
・1189年文治5年9月20日、熊谷氏所領について、頼朝より武蔵国熊谷の住人、熊
9月23日には、頼朝は、
9月24日には、
さらに、平泉より帰途するなか、多賀国府に立ち寄り「郡・郷・荘園所務の事」を定めて、陸奥国内の地頭等に布令をだし、国・郡などの経費を入用する為に、住民を苦しめることなきよう進めること、また、国費をあまり費やさないようにすることも布令した。多賀城国府には、特に、「張り文」を貼って「国中の諸事は秀衡、泰衡の先例に任せて沙汰すべきこと」を命じた。また、奥州征伐で、平泉藤原方で敵対しなかった者達の所領を没収しなかったとも伝えられている。
葛西三郎清重は、地頭職の次男でありながら、奥州征伐において抜群の功績を挙げ、42歳で重要な鎌倉御家人の統治を任され、平泉保内の検非違使所の最高責任者まで上り詰めた人物であった。
・10月24日には、頼朝は鎌倉に帰還したが、清重は平泉に残り、奥州征伐後の処理にあたった。
・1189年文治5年、清重は、42才の頃に、奥州征伐に参陣、総奉行、留守職を拝命し胆沢・磐井・牡鹿の三郡を拝領する。
清重が頼朝より奥州征伐の恩賞として伊沢・磐井・牡鹿の三郡を賜ったが、まだまだ強力な大名とは言えず、一郡領主でもなかったことでもあり、領内には鎌倉家人や荘園が混在している状況だった。従って鎌倉では目立つ程の大身ではなかったと思われる。
このことがかえって功を奏し、幕府内の血なまぐさい粛清などから免れることができた。しかも、清重は常に勝利者側に身を置き、一族の畠山重忠や本家筋の千葉家の悲劇を目の当たりしながら難を逃れたりしている。
(※)
気仙郡には、鎌倉御家人の下向をみることなく、金為時の末裔が「気仙郡司」という律令制のそのままの職名で気仙郡を支配したと言われている。
気仙の金氏は、頼朝の平泉征伐(奥州征伐)の折、平泉藤原氏に味方し戦い、金秀時がその時戦死をしている。その子為俊は山中に身を隠し、翌年(1190年)の
1190年
建久元年
大河兼任の乱が羽州秋田で起こり、清重は鎮圧の役目もあり、戦局の詳細を頼朝に言上する為に鎌倉に入った。兼任の乱は多賀城国府の「新留守役・本留守役」二人が与力したことがわかり、鎌倉より責任追及され、二人は葛西清重の預かりとなり、鎧ニ百両の過料が課せられた。
源頼朝は、上洛し、右近衛大将に任命され、武家政権の首長に相応しい処遇を得た。さらに、主要御家人十人が、左右兵衛尉・左右衛門尉に任命された。
・1190年建久元年、大河兼任の乱が起こり、清重は、鎮定後に加増され、二郡 が加わり五郡となった。
さらに、4代清信が奥州下向の際、本家筋の千葉家や一族の畠山氏より持参した領地があり、栗原郡、登米郡、遠田郡が加わりに領地が拡大したと同時に、清信に同行家臣団も加わり、著しく領内強化が進んだ。従って、鎌倉時代の葛西領は、最初は三郡で、間もなく五郡となり、清信下向により七郡となったという説が有力であると言われている。
・1190年建久元年11月に、葛西清重は、右大将源頼朝に同行して、朝廷より右兵衛尉を任じられた。
1191年
建久2年
・1191年建久2年正月に、
1192年
建久3年
・1192年建久3年に、兄の豊前介
弟実昌は、そのまま胆沢地方に残り、胆沢地方の開発に貢献努力したと伝えられている。
・1192年建久3年に、頼朝に陰口をしたということで、鎌倉老臣熊谷直実が出家させられた。これは、北条氏の陰謀と言われている。
1193年
建久4年
・1193年建久4年5月に、
1194年
建久5年
・1194年建久5年4月に、葛西清重は自領の本拠を寺池(登米郡)に置き、代官を定住させ、自身は鎌倉将軍の側近にいて、ほとんど鎌倉に居たとされている。鎌倉の情勢は、幕府創業の功臣間の政争、北条氏の陰謀による有力一族の没落と滅亡、果てには将軍と源氏の抹殺など陰湿極まりない策謀の時代であった。
清重は、も妻の兄で、鎌倉武士の手本となる清廉な人格者の畠山重忠が殺され時、本家筋の千葉一族の難儀を見過ごす態度をとっていたようである。この様な情勢下で清重が粛清
の難から逃れられたのは、時流を見る目を兼ね備えた人物であったことや幕府の重鎮と言っても、北条氏から疎まれるほどの大領地をもっていなかったことなどや、清重自身の人柄が多くの人々や北条一族の頼朝夫人政子からも信頼されたことが挙げられる。
・1194年建久5年4月頃、清重47才の頃で、寺池を治府としたとき代官を置いた。一説では、代官は、清重次男の朝清ではないかと言われている。
1195年
建久6年
頼朝は、陸奥国平泉寺塔の修理を実施することを、葛西清重、伊澤家景の両人に命じている。
・9月29日には、「故秀衡入道後家」として保護をすることも、両人に命じられた。
1199年
正治元年
源頼朝が急逝。嫡子頼家が家督を継いで将軍職となった。この事態においても、葛西清重の立場は変っていない。
・1199年正治元年12月13日には、頼朝が落馬の原因で落命した。これも、北条氏の陰謀ではと言われている。
この様な事態に、老臣
1200 年
正治2年
勧農推進に荒野開発奨励をして、褒美に免税をしたりして勧農を進め、浮浪人の吸収を実施したが、裁判が頻繁に発生したため、源頼家の指示で地頭達の暴走を抑える様にした。
1203 年
建仁3年
・1203年建仁3年に、北条時政と政子が鎌倉幕府2代将軍頼家の妻の父でもある比企 能員を滅ぼした。
・1203年建仁3年6月には、北条時政が2代将軍頼家を伊豆修善寺に幽閉し、政所別当(執権)となつた。
1204 年
元久元年
・1204年元久元年7月18日に、頼家は、伊豆修善寺で暗殺された。
三代将軍として
1205 年
元久2年
・1205年元久2年6月に、畠山重忠が由比が浜で、北条義時の先陣として、重忠の妹の夫葛西清重によって討ち取られてしまった。
1211 年
承久3年
・1211年承久3年9月4日に、74才で没したとして「
「備州笠井系図」に記されている1237年
1214 年
建保2年
・1214年建保2年に、清重は、和田
・1214年建保2年5月に、和田義盛も誅殺され、北条氏が権力基盤を確立する。
葛西清重は、時世の波を上手にわたり、義兄弟を殺しながら、一族安泰を堅守したが、我が家大事とはいえ、断腸の思いであったと思われる。
1215 年
建保2年
・1215年建保2年に、執権
1216 年
建保4年
・1216年建保4年4月24日に、北条方の
これによって、奥州葛西・伊沢両氏の治政が変わることになり、葛西奉行・伊沢留守職が廃止されてしまい、鎌倉の直轄地となった。
1217 年
建保5年
・1217年建保5年12月13日に、北条泰時が陸奥守も兼務するようになり奥州の大半を管轄することになった。
1219 年
承久元年
・1219年承久元年12月23日に、源実朝が、鶴岡八幡宮で、北条氏に唆された甥の
これにより、鎌倉源氏が滅亡し、北条時政の子義時が執権についた。義時は、将軍になるものと思っていたが、周囲の状況から見てどうしても将軍になれず、自ら執権職に就かざるを得なかった。
1221 年
承久3年
・1221年承久3年の頃になると、北条氏の陰謀や粛正を怨む幕臣も出てきて、幕府内部で動揺が生じるようになと、この状況を、朝廷・天皇・公家が知るところとになり、天皇・朝廷は幕府転覆を図る企てをし、後鳥羽上皇が討幕の兵を集め、北条義時「
ところが、幕府の知ることとなり、坂東・奥州の諸氏に、次の様な書状を送られた。
「京都より 坂東を襲うべき由、その関之ある間、相模権守・武蔵守御勢い相具して打立つる所なり。
1223 年
貞応2年
葛西清重は渋江に隠居して74歳で死去したとあるが、別伝では、1237年十二月五日に80歳で没したと伝わっている。
・1223年貞応2年8月に、
しかしながら、「本吉郡食邑(知行所、領地)一千余町」は、気仙沼地区を指すものではなく、気仙沼に接する松崎邑から
津谷邑以南は小泉庄などの荘園地域で、この地域の荘司であった馬籠邑信夫館の佐藤氏が所領を安堵されたところでもある。従って、本吉郡の全域が熊谷氏の所領であることにはならないことが明白である。
※本吉郡は、平泉藤原時代末期に桃生郡の中に、松崎を北限にしできたものと思われる。鎌倉時代に入ると、気仙沼地方は桃生郡の飛び地のようなところになってみたり、南北朝時代になると気仙沼地区も葛西領となり気仙郡のうちとされたようである。
しかしながら、気仙風土草(気仙郡相原友直記)には、長老の話として、気仙郡を30邑又は33邑といって、気仙沼地方を入れていた模様である。33邑には旧階上村地区も含まれていたように記されている。旧階上村地区は、気仙沼地区を本拠とする熊谷氏の所領でもあったので、気仙郡からみた場合に気仙郡内と見られていたものと推測される。
封内名跡志には、気仙沼地区が、本吉郡になったのは永禄年間(1556~1580年)であったと記されている。真さに、葛西氏が勢力拡大していた時期でもある。
(参考)
・1223年貞応2年8月には、熊谷直家の次男である直宗が、気仙沼赤岩に「
その後、
1225 年
嘉禄元年
・1225年嘉禄元年3月に、葛西清重の四男
1230 年
寛喜2年
・1230年寛喜2年8月に、
1239 年
嘉禎4年
・1239年嘉禎4年に、陸奥国の人民に対して、布の代わりに銭貨を以て貢納することを禁止した。白河関より北での銭貨の停止する奇妙な命令を発した。(白河以北の人民への蔑視と搾取する政策であることがわかる。)
1247 年
宝治元年
・1247年宝治元年6月に、
1252 年
建長4年
・1252年建長4年8月に、
1256 年
建長6年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、10月頃、伊達義広は、従五位下、蔵人大夫に任じられたが、72歳で没した。義広の第二子の政依が第四代となる。
仏教を信じ、東昌、光明、満勝、観音、光福寺の五山を創った。光福は生母の院号である。光福夫人の出自は明らかでない。
1264 年
文永元年
・1264年文永元年に、千葉氏の一族星五郎
この時代の葛西家督は、
1266 年
文永3年
元のフビライが、日本に朝貢を促す使者を送ってきたが、時の執権
・1266年文永3年7月以降に、奈良坂葛西氏は、来住したと言われている。葛西清重の子
朝重は、鎌倉将軍
1274 年
文永11年
文永の役、元が10月に9百隻の船と3万数千の兵士を乗せ、九州に侵攻、10月20日には、博多湾に上陸したが、一夜にして台風により船団が壊滅的打撃を受け、元軍が総退却をした
1276年
建治2年
・1276年建治2年8月頃に、葛西領地掌握の為に
太守清信の下向にあたり、千葉介からも所領の分与があり、さらに、
期日はずれるが、
・1276年建治2年10月、家督を嗣いだ清信は、奥州に下向した際、に千葉・畠山の両家から葛西領に接続する栗原・登米・遠田の三郡の領地を与えられ、家臣数百騎に守られて下向したと言われている。
しかし、与えられた3郡といえども、郡内に点在する所領なので、実質領地としてはさほどのものではなかったようである。同行家臣数百騎の数などは言い伝えられたもので、誇張されたもと考えられる。
この頃、千葉・畠山の一族が、奥州に所領する土地を清信下向に与えたのは、奥州での一族の強化を図る狙いがあったと思われる。これにより、飛び地であった牡鹿方面と磐井方面が、点であった寺池を包含できる所領一体化となったことは言うまでもない。只し、登米・遠田両郡には千葉氏の所領が多く、栗原郡には畠山氏の所領が多かったことも忘れたはならない。
1277年
建治2年
奥州中尊寺と葛西氏との領地争いが起き、建治~弘安~正応にかけて継続していくことになる。この頃、
1281 年
弘安3年
元軍が再侵攻、元の
1285 年
弘安8年
この乱においても、討伐軍が編成され、葛西氏も三代太守清時が、泰盛の弟
・1285年弘安8年11月に、
1288 年
正応元年
葛西中尊寺争いの裁断が下ったものがある。7月9日付けで、
・1288年正応元年7月9日に、
1289 年
正応2年
・1289年正応2年に、馬籠千葉氏が鎌倉幕府直属の地頭として
1293 年
永仁元年
・1293年永仁元年2月に、黒沢式部少輔繁村の子従五位下播磨守重弘が、鎌倉奉行となった。重弘の子
1300 年
正安2年
・1300年正安2年前後に、葛西清信は、北条相模守貞時の引付人評定衆となり、鎌倉に上り
1301 年
正安3年
北条貞時が執権を師時に譲り出家して崇暁と名乗ったが、権力は貞時の手中にあった。
1305 年
嘉元3年
・1305年嘉元3年3月に、
・1305年嘉元3年4月に、
これによって、幕府と朝廷との間は、六波羅探題が朝廷の動きを厳しく監視するようになった。
参考
・1305年嘉元3年に、藤沢岩淵氏は、下総国猿島郡岩渕郷の住人、
・1305年嘉元3年9月には、藤沢城にいたと言われている。1306年徳治元年3月12日卆、58才であった。
1309年
延慶2年
・1309年延慶2年春に、清水葛西氏は、本吉郡大谷郷より
1317年
正和5年/文保元年
葛西氏大きな動きなし。
伊達宗綱が54歳で没したが、明確ではない、信夫郡沢又村(福島市沢又)の全福寺に葬むられていると伝えられる。第六代には、宗綱の子である基宗が継ぐことになる。六代の関連は不明となれている。 基宗の子が第七代の伊達行宗である。母は泰昌夫人で出自は不明である。初名は、行朝又は朝村とも伝えられている。
1321年
元応2年/元享2年
1324年
正中元年
「正中の変」が起こり、幕府討伐の計画が洩れ、多治見・土岐氏が殺され、天皇の関わりが無いことが弁明され、
主謀者として、幕府は
・1324年正中元年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近の日野資朝らを佐渡に流す処分する「正中の変」が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もされなかったが、多治見・土岐氏が殺された。
天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習として近づけた。
・1324年正中元年に、黒沢式部少輔繁村の子従五位下播磨守重弘は、病を告げて奥州に帰る。
1327年
嘉暦2年
・1327年嘉暦2年3月に、大衆訴状があり、寺役以下堂社破壊について注文があった。
これらの文章から、葛西領内の地頭が、寺領の濫妨をし、公事課役(鎌倉幕府が御家人に負担させた課役で、いわゆる御家人役のうち、軍役以外の経済的奉仕義務をさす。)を怠り、仏神の用途を果たさないので、供養、
1329年
嘉暦3年
・1329年嘉暦3年には、後醍醐天皇は、中宮のお産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近したとも言われている。
1331 年
元弘元年
・1331年元弘元年には、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕として「元弘の乱」が起る。朝廷側の楠木正成が千早城や赤坂城に立籠り、幕府軍と戦って勝利したことが、各地に伝えられ南北朝動乱が始まった。地方でも争乱が続き、各領主が築城の必要に迫られ盛んに山城が築かれ言われている。
この様な状況を、二度遠征した葛西氏が、奥州~畿内を見聞したことから、築城の必要性を感じたとも言われている。
・1331年元弘元年に、葛西家臣
その恩賞として、小野寺掃部介胤正は、中里・三関ほか千七百貫の領地を賜った。
1332 年
正慶元年
・1332年正慶元年5月に、
このころから見ると、1189年文治5年より36年後に時重が黒沢邑に三千余町を拝領したが、奥州下向したのは、1324年正中元年の重尚の時である。
1333年
正慶2年
・1333年正慶2年5月に鎌倉幕府が滅亡した為奥州に戻り、建武年間に
・1333年正慶2年になると、後醍醐天皇は、流された隠岐島を脱して京都に入った。
・1333年正慶2年/元弘3年に、後醍醐天皇の討幕軍に加わり、京都に進撃したはずの足利高氏が、逆に幕府監視役の六波羅探題を攻めた。また、新田義貞が鎌倉幕府に進撃し、北条高時を破り、北条高時と一族は滅び、鎌倉幕府は、おおよそ150年の終焉となった。
これにより、足利高氏の戦功が大きく、後醍醐天皇より
・1333年正慶2年5月には、北条氏の擁立した光源天皇を廃位することになった。
このれにより、後醍醐天皇の新政が誕生、「建武新政」となった。しかしながら、武士団の多くは公家政治を嫌がり、武家政治の継続を待望するようになり、源氏の血を引く足利尊氏を武家政治の統領として迎い入れることになった。ここより、武家対公家の対立の始まり、長年継続することになる。
・1333年正慶2年10月には、後醍醐天皇の新政に伴う前に、北畠親房の子顕家を16歳で従三位の陸奥守に任じた。
・1333年正慶2年11月29日には、北畠顕家が、多賀城国府に入城した。また、父親房は、後醍醐天皇の皇子6歳の
これを受けて、鎌倉幕府の崩落に伴い東国地頭は、所領安堵を求め、多賀城国府に押し寄せた。その結果、所領安堵を賜ったと言われている。
顕家が、多賀城国府に滞在中は、長坂千葉氏一族が出仕し、警護にあたったと記されている。また、平泉警護を携わった千田信親の「千田氏系譜」に記され残されている。
「元弘三年、奥州太守鎮守府将軍源顕家公仕。長坂大膳大夫以下一族皆随身して岩井郡中尊寺出張云云」とある。
1334年
建武元年
足利尊氏は、奥州への対抗措置として、弟の直義を相模守に要請し、
顕家は、陸奥の領主を多賀城国府に召集し、土地領知権が鎌倉幕府と朝廷の二本立てであったものを、朝廷一本化にする土地給与権の統一することを指示した。陸奥国領主は、自らの領地安堵を守る為に、この指示に従があったが、各地で建武新政に対する不満が高まり、一層深刻な事態に発展していった。
1335年
建武2年
足利尊氏が鎌倉に将軍邸を構え、天皇に帰京を促されても応じず鎌倉に滞在した。また、尊氏が新田義貞を討つ為に諸国の武士を集めている噂を、後醍醐天皇が知り、逆に、11月19日に、新田義貞に足利尊氏追討を命じた。さらには、奥州北畠顕家にも尊氏を背後から攻めさせる為に、奥州軍編成をさせ追討を命じた。
この頃、足利方の斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払った。
・1335年建武2年2月7日には、
・1335年建武2年8月には、足利尊氏は、私任として足利一族である
・1335年建武2年10月に、足利尊氏が宮方を離反した後、千葉氏・熊谷氏が共に足利方に味方した為、南朝方の北畠顕家に味方する葛西氏と対立するようになった。
・1335年建武2年12月15日には、足利尊氏は、不満を抱く同調する武将と共に京都を目指した。
・1335年建武2年12月22日付けの勅令において、奥州
・1335年建武2年冬頃から葛西氏は、南朝に味方するようになって、1343年興国4年までの約10年間南朝方に尽力を尽くすことになったが、1343年興国4年の北畠顕信将軍が北朝方に敗れて、滴石(岩手県雫石)に退いたころから、葛西氏の北朝に転じたことが起きている。
・1335年建武2年に、葛西信元(千厩)は、北畠顕家に従い、摂津阿倍野の戦いで討死した。千厩折戸館主小野寺氏一族である。
・1335年建武2年頃は、本吉・気仙両郡はまだ葛西領でなかった。
1336 年
建武3年
後醍醐天皇は京に戻り、顕家軍をねぎらい、鎮守府将軍と中納言に任じ論功を称えた。
この頃、関東・奥州では、宮方と足利方、北条方が入り乱れて、局地的な合戦が始まっており、1335年(建武2年)に、斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払ったり、1336年(延元元年)3月には、斯波兼頼が、氏家・相馬氏と共に、東海道の小高城(福島県相馬郡小高町)を制したりしていた。
「熊谷系譜」によると、葛西高清が馬篭氏を遠野城(宮城県本吉郡本吉町馬篭)を囲み、城主因幡守千葉行胤が五百騎をもって迎撃、赤岩城(宮城県気仙沼市松川)の熊谷直時の千五百騎の支援をもらい抵抗したが、葛西高清に屈した。さらに、赤岩城まで攻撃され攻略されてしまった。高清は馬篭に佐藤氏(信夫館)を置いて、「兵を領して、登米に帰る」と記されている。
足利尊氏が擁立した豊仁を、
足利尊氏は「建武式目」17条を定め、足利尊氏が軍事、足利直義が政治を司ることを決めた、二頭制を打ち出して室町幕府を造った。奥州においては、顕家軍が西上している間、留守役を務めたのが
・1336年建武3年/延元元年正月13日には、北畠顕家は、尊氏を追って比叡山(京都府)に陣取り、後醍醐天皇と共に尊氏に対抗した。
・1336年建武3年正月三十日には、足利勢は敗れ、尊氏は九州に敗走した。
この戦闘で奥州勢の葛西江判官三郎左衛門が、正月28日京都神楽岡で新田義貞の身替わりとなって戦死した(「梅松論」)。
葛西江とは「葛西」が奥州なまりで「カサエ」と聞こえたのであろう。又渋江(葛西庄内)の判官の意ともいう。
葛西軍の中には、奥州葛西領に居住していた関東葛西氏の惣領高清も手勢を率いて従軍していたという。
中舘系譜によると、
・1336年正月27日京都七条河原において、高清の弟葛西孫八郎信□(21歳)も戦死している。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、
・1336年建武3年春に、顕家は、尊氏の足利軍勢を圓城寺、加茂河原、神保岡、
この間、奥州の状況を知り得た朝廷は、顕家を、急遽、奥州に帰還させ鎮圧させることにした。
足利方の多賀城近辺の勢力が強く、福島の霊山に帰らざるを得なかったようである。
・1336年延元元年(建武3年)4月には、尊氏は、体制を整え京都を目指した。
・1336年建武3年4月になると、葛西高清は、本吉郡の馬籠に進出し、地頭の千葉 周防守行胤を威嚇牽制し降伏を強要して寺池に引き返した。
この事を物語る様に「熊太説」に次の様に記されている。
「奥州探題葛西高清が手勢を率いて本吉郡の馬籠に現れ、地頭千葉周防守行胤の居館を襲い、降伏を強要した。行胤は、これに屈せず応戦したので、高清は、後日大軍で来襲すると威嚇して登米寺池に引き揚げた。行胤は、すぐに気仙沼赤岩城(新城邑)の熊谷佐渡守直時に状況報告するとともに、高清が後日大軍で来襲することは確実として熊谷氏の救援を求めた」とある。
何故に、馬籠千葉氏が気仙沼の熊谷直時を頼ったかであるが、熊谷直時の母は、馬籠千葉氏の娘で 行胤の伯母にあたり、両家は姻戚関係であったからである。直時は、事態の深刻さを受けとめ、万一千葉氏が敗退すれば、次に赤岩城が襲われると判断、一門の総力を挙げて救援する決意をした。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、馬籠千葉氏が葛西高清に攻められたが、千葉氏は頑強に抵抗したが、葛西高清の数千の大軍と千葉行胤手勢五百兵では支えきれないと判断し、気仙沼赤岩館の熊谷氏へ救援を求めた。
救援依頼に対して、熊谷直時は、一族を総動員して約六百の軍勢を率いて馬籠城に駆けつけた。しかしながら、葛西の大軍には及ばず、結局のところ、千葉・熊谷氏は大敗し、千葉行胤も熊谷直時も討死してしまった。
この時、気仙郡矢作の千葉胤重(矢作氏)は、本家筋の馬籠千葉氏に加勢せず、葛西方に味方して軍功を挙げたと伝えられている。これが、「
葛西高清は、本吉馬籠を打ち破り滅ぼしたあと、鋒先を向けたのが、気仙郡の
「馬籠合戦」に関して
・1336年建武3年4月21日に、葛西高清が大軍を率いて馬籠に攻め込んだ。高清軍は、高清手勢ばかりでなく、臣下の諸勢も各地から参陣した模様である。一方、馬籠千葉勢は、遠野城千葉周防守刑部行胤嫡子新左衛門
これらの馬籠勢は、遠野館に立籠り高清軍と対峙した。伝えられていることとして「馬籠塞に立籠る」とあり、「馬籠塞」は遠野館のことである。遠野館の城館跡から見ると、周囲が険しい断崖に囲まれ、二重の空濠や土塁があり、典型的な戦国時代の城構えと推察される。
馬籠合戦には、天然の要害に馬籠勢は立籠、土塁を背後に陣を構え、葛西軍は馬籠塞を囲むように配陣し、攻撃を続け伝えられている。
この馬籠塞は、現在、馬籠小学校のある午王野沢の台地が、昔から
また、寺要害や下要害と呼ばれる字名は、馬籠合戦によって生まれた地名でもある。大正時代にこの地の畑から朽ち果てた刀剣出土したりしている。
馬籠合戦は、馬籠勢にとって多勢に無勢で次々と壊滅、最後は、城中にあって勇猛果敢の行胤の長男胤宣と直時の末弟直久が生き残り、残った兵たちと城を固守して敵勢を寄せつけなかったと言われている。葛西高清のねらいは、千葉氏を壊滅させることではなく、降伏をさせることが目的であったと思われる。それは、高清が遠野城の附近に監視勢(佐藤氏等)を配陣させて馬籠を去り本拠の登米寺池へ引き揚げたからである。
さらに、葛西軍が引き揚げたすきを見て、熊谷直久も残兵をまとめ気仙沼の地に引き揚げた。馬籠合戦で葛西氏に参陣した武将は、気仙郡矢作に住む千葉重胤、藤沢の岩渕氏、同族の涌津の岩渕氏、信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継等である。気仙郡矢作の千葉重胤は、葛西高清に威嚇され降伏し参陣を余儀なくされ臣下となって功を挙げ高清より本領安堵をされた。涌津岩渕氏は、孫六郎直経が高清に従い参陣して、軍功を挙げて磐井・胆沢・本吉・気仙・登米の五郡内に采地五百余町を賜った。信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継も高清の臣下となり参陣し、戦功を挙げて「信夫邑の馬籠塁(馬籠邑信夫館)」に居住を許された。
足利尊氏動向として
・1336年延元元年(建武3年)5月25日に、尊氏は、摂津兵庫・湊川において、湊川の戦いで
・1336年建武3年6月14日には、足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、京都を確保すると光厳上皇を奉じて入京する。
・1336年建武3年7月に、山田氏の先祖菅原長顕は、奥州に下向し、国司北畠顕家に属して伊達郡石田郷に住まいした。
・1336年延元元年(建武3年)8月には、光明天皇を擁立したが、三種の神器は欠いたままであった。
・1336年建武3年8月7日に、高清が足利尊氏より「奥陸探題職」を任命されたと言う記録が残されている。このことにより、葛西一族ないで、高清を取り巻く寺池派が北朝方に傾く一方、清貞を取り巻く石巻派が競い合うようになった。この現れとして、登米町はもとより仙北地方のほとんどの板碑には、北朝の年号が多いとされている。葛西氏南朝忠節の期間は短く、第一次遠征後は挙党体制が崩れていった。
・1336年建武3月10日義良親王は陸奥太守に、北畠顕家は陸奥大介に任命され、4月京都を去り、5月末多賀国府に戻った。しかし、葛西高清は一足先に帰国し、3月には既に登米にいたようである。奥州情勢が緊迫化した理由から早急に帰国したと思われる。しかしながら、帰国後の高清の動きは、多賀城の警備した気配もないところか、逆に顕家や葛西勢の留守を狙ったと思われる行動にでた。
・1336年延元元年(建武3年)11月には、講和が成立し、後醍醐天皇は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇即位となる。この間、足利尊氏は、武士政権構築に力を注いだ。
・1336年延元元年(建武3年)末には、建武式目17状を制定させ、武士政権を確立させた。しかし、後醍醐天皇方は、光明天皇に渡した神器は
・1336年延元元年(建武3年)12月21日に、後醍醐天皇は、南朝を樹立させた。これにより、南北朝時代の始まりとなる。
・1336年建武3年(延元元年)に、尊氏は光明院を擁立したことにより、南北二つの朝廷が並立する。1392年明徳3年に南北合一するまで56年間続いた。
・1336年建武3年に、後醍醐天皇は吉野に遷幸したので、足利尊氏は、京都に光明天皇を擁立して吉野と対抗する様になった。これが、南朝と北朝が成立するとともに「南北朝時代」の始まりとなる。この南北朝対立が、全国に波及し、各地で南朝・北朝のいずれかに属し、各地で対立を始めたが、しだいに北朝方(足利方)が勢力を伸ばす傾向になった。
・1336年建武3年(延元元年)に、奥州葛西系図によると、奥州葛西五代宗清、六代清貞父子は南朝方に参じ、北畠顕家を助けて京都神楽岡で戦った。
「梅松論」には、この戦いにより「葛西江判官三郎左衛門」が戦死したと記されている。この江判官は、葛西宗清と思われる。この戦いで勝利を収めた南朝軍(北畠軍)は、追撃もすることもなく、急ぎ奥州に引き上げている。(足利軍は西国に落ちると同時に)これは、1335年建武2年12月22日に多賀城を出発して、建武3年(延元元年)に早く帰着しているからである。これは何故かと見ると、奥州においては、足利方が急速に勢力を増してきたからであり、葛西一族の中にも足利方に傾く気配や本流寺池の動きも気になることから早期帰着に至ったと思われる。
足利軍が急速に盛り返し、楠木正成、新田義貞軍を兵庫で撃破し、京都に入った為、後醍醐天皇は吉野に遷幸し、北畠顕家に救護要請を勅令した。これを受け北畠顕家は、奥州の厳しい情勢の中第二次遠征軍を編成して進発した。この時、葛西軍は1500騎参陣したと伝えられている。
・1336年建武3年延元元年に、
1337年
建武4年/延元2年
陸奥国府を急遽伊達郡の霊山(福島県霊山町)に移さざるを得なかった。霊山と言えども、東方には相馬氏をはじめ海道筋の武家方が機を狙っている所でもあった。
足利幕府が
顕家は霊山に立て篭もり防戦をしていたが、3月5日に小山・宇都宮方面へ遠征し、下条・下河原近郊で戦ったといった伝えがあり、霊山から城外に出て討伐戦を行っていたと思われる。
帝の再上洛の依頼を受けた顕家は、再度、西上するに至ったが、四面楚歌状態での苦慮して奥州軍を召集し、第二次遠征軍を編成した。この時、
・1337年延元2年正月には、後醍醐天皇は、北畠顕家、結城宗広に上洛の勅命を発した。しかしながら、奥州において、北朝の勢力が増え、北畠顕家は、多賀城国府を支えることができず苦戦していた。
・1337延元2年正月、多賀城の北畠顕家は義良親王を奉じて
・1337年延元2年4月~7月頃まで、顕家は、奥州の南朝方苦戦のなかで、上洛軍の召集を行なった。
・1337年延元2年5月に、顕家に従った清水弾正重長が、多賀城の合戦で討死している。
・1337年延元2年8月11日に、北畠顕家は義良親王を奉じて、再度上洛の途についた。石巻日和山城の
顕家は、義良親王をたてて、奥州勢として伊達行朝、結城宗広、
・1337年延元2年8月に、葛西高清は、遠征軍に参陣せず、南朝方守備の為離脱したようである。顕家が霊山を出発した8月には、気仙郡に侵入して、地頭金弥四郎俊清を襲い降伏させた。阿部姓の金家系らは敗れ降伏した。それにより高清の臣下となり、旧領を安堵されたと伝えられている。さらに、気仙郡の南方の矢作の千葉氏(馬籠千葉氏の分流)は、馬籠合戦の直前には降伏しており、気仙郡も本吉郡と同様に高清に掌握されたことがわかる。しかも葛西領内の反高清の家臣も降伏させたことは言うまでもない。この様に、高清は次第に勢力を拡大し、臣下となる武士を増やしていったと思われる。気仙郡金弥四郎俊清も、寺池の葛西高清に征服され、その臣下となったとも伝えられている。
・1337年延元2年に、
・1337年延元2年に、
・1337年延元2年に、
・1337年延元2年に、
・1337年延元2年12月10日に、小野寺信道は、関東にて合戦に参陣、1338年正月に
・1337年延元2年12月に、奥州勢は、利根川で斯波家長と戦い打ち破り、鎌倉に迫った。その後、北畠顕家は、顕信に山城男山(現在の京都府八幡市)に布陣させ、南朝軍の兵を集め、京都進撃の 機会を窺っていた。顕信の役割は北朝軍を男山の要害に引きつけて、和泉の顕家軍を 側面から援護することであった。
1338年
延元3年/暦応元年
・1338年暦応元年(延元3年)の北畠顕家第二次遠征軍は敗退し、5月22日和泉国石津で顕家並びに多くの武将を討死させている。
・1338年延元3年5月22日に、北畠顕家率いる南朝軍と足利方の北朝軍とが泉州堺浦で一大決戦となる。所謂、石津の戦いと言われている。
この戦いで、
南朝は、顕家が戦死したので、弟の顕信を陸奥介兼鎮守府将軍に任じて、陸奥の国司として、奥州統治を任せることにした。顕信は、奥州に戻り、再挙すべく義良親王をたて、父北畠親房や結城宗広とともに船で帰還すべく伊勢国大湊より出帆した。折りしも、途中台風に遭い、親王、顕信、宗広の舟は、漂流して伊勢の篠島に打ち上げられた、一方、親房らの舟は、常陸の東条浦に漂着したと言われている。宗広は篠島で病死をしたので、義良親王、顕信は、奥州帰還を中止せざるを得ず吉野に戻ったとされている。
ここに至り、1338年暦王元年には、足利尊氏が権勢を掌握し、南朝に劣らぬ勢力となっていた。南北朝時代の始まりと言って過言ではない。
・1338年延元3年に、
・1338年延元3年に、
・1338年暦応元年8月に、足利尊氏は征夷大将軍となり、権勢を思うがままにうごかした始めた。
・1338年~1342年暦応年間に、
1339年
延元4年/暦応2年
・1339年暦応2年5月に、葛西高清が上洛し、足利尊氏より葛西領の太守として認められたが、石巻日和山城には葛西清貞が南朝側の葛西太守として存在していたので、足利政権からはあまり重宝されなかったようである。このことは、盛岡葛西系図・高野山五大院系図の高清の所に記されている。
盛岡葛西氏系図には
「建武三年四月、奥州本吉郡真籠(馬籠)城主千葉因幡守(周防守の誤記)平行胤北条家に党する。高清これを討つ。本吉・気仙南部を掌握し奥七郡の太守となる。」
「高野山五大院系図」の高清の項には
「建武三年四月、奥州奉行人、同国本吉郡馬籠城主千葉周防守平行胤と楯鉾に及び合戦し大利を得。是れより近郡諸将と争戦す、暦応二年五月、咎に於いて宮方討平げ上洛奉謁。将軍尊氏卿因幡守に任じ、奥州北方探題と為りて下向す。云々」
・1339年暦応2年6月に、生き残った長男胤宣が、葛西高清に降伏し、葛西の傘下になったと伝え られている。これ以後、馬籠千葉氏は「馬籠」と苗字を改称した。
・1339年延元4年8月14日に、後醍醐天皇が五十二歳で逝去。義良親王が即位し後村上天皇となる。石巻市多福院境内の供養碑に「延元四年霜月二十四日・・先有菩薩」とある。
これにともない、北畠顕信は、奥州立て直しを図るために下向することになった。
・1339年延元4年(暦応2年)に、
1340年
暦応元年/延元5年
・1340年興国元年5月頃に、
1341年
興国2年/暦応4年
・1341年暦応4年/興国2年3月に、清貞の姪である
・1341年興国2年春には、葛西清貞兄弟一族や紫波の
・1341年暦応4年/興国2年に、多賀城の攻撃に参加したが、事態は好転せず、一族や家臣の間には南朝への不信感がつのり、清貞とは反対方向に傾いていった。本流の寺池を本拠としている葛西高清は、北朝の足利方に一層支持するようになり、領内の家臣をまとめる動きをはじめたと言われている。
1342年
興国3年
・1342年興国3年3月の春に、再度、戦いがはじまり、三迫では南朝方が優り、三迫を突破し多賀城国府を目指す勢いであった。石塔義房軍は、防戦に走らざるを得ない状態に陥ってた。が、しかし、両軍とも100余日の戦いで疲弊している状況で思うように戦いが進展せず小康状態になった。そのような中、石塔義房は、鬼柳氏に支援を依頼する書状を送る。
・1342年興国3年4月8日頃に、義房は、
1343年
興国4年/康永2年
・1343年興国4年6月には、北朝方の指導的立場の結城氏が、北朝に寝返りをした。
・1343年興国4年7月12日には、
・1343年興国4年7日には、北朝方(足利方)の石塔義房と
・1343年康永2年/興国4年に、清貞は、1339年暦応2年(延元4年)に急逝された後醍醐 天皇の菩提を弔って、石巻に供養塔を建てた。1343年「興国4年蓮河」という供養塔である。恐らくは、清貞の法号が蓮河であるから間違いなく清貞が建てたものである。
・1343年康永2年/興国4年に、清貞が没する前に、高清が信常の後見で奥州領葛西太守になった。奥州下向以来三代経過して関東葛西が名実共に領主なった。
1345年
貞和元年
・1345年貞和元年に、奥州総大将として石塔義房が、奥州統治をしていたが、南朝勢の勢力が増し、統治に失敗したと見られ、石塔氏の交代として、
・1345年興国6年(貞和元年)7月には、北朝方は、幕府の地方官として「奥州管領」を設けて、畠山国氏と吉良貞家が任じらて奥州に下向した。
その後、観応擾乱が起こり、吉良貞家は直義方、畠山国氏(後見人として父高国であった。)は尊氏方として争うことになる。この頃に、葛西太守高清も結城氏同様北朝方となったので、北畠顕信は、北方の岩手郡滴石城に逃れざ得なかった。吉良貞家、畠山高国(父国氏)は、奥州探題として北朝勢の強化を図り、数々の実績を挙げるなか、北方の滴石城に居る顕信を攻めようとしたが、すでに顕信は出羽に逃げてしまった後であった。
1346年
貞和2年
・1346年貞和2年に、奥州管領斯波氏の一族である
「余目記録」によると次の様に記されている。
京都七条より貞和二年伊達郡りょうせん(霊山)と申山寺へ先御下り、彼所に三年御座候て、其れより河内志田郡師山へ御つき有しより、無二無三留守殿大崎を守り
候。
とあり、三年後
斯波氏は足利氏の支流で家氏が、鎌倉時代に紫
・1346年貞和2年に、吉良貞家きらさだいえが奥州探題として
1347年
貞和3年
・1347年貞和3年頃に、多賀城国府は、北朝方吉良貞家によって攻略されたが、その後も何度か攻防戦が行われたようである。
1349年
貞和5年
・1349年貞和5年/正平4年に、足利尊氏の4男
1350年
観応元年
・1350年観応元年10月には、
1351年
観応2年
・1351年正平6年(観応2年)正月に、足利直義が南朝方に下り、その支援を受けて、尊氏・師直方に攻撃をかけた。所謂、「
・1351年観応2年2月21日に、奥州において、尊氏方の畠山氏と直義方の吉良貞家が対立抗争となる。尊氏方の畠山国氏(父高国)と留守氏が拠点岩切城に籠城し、直義方の吉良貞家と攻防戦となった。が、岩切城は攻め落とされ、畠山国氏、高国は戦死した。所謂、「岩切合戦」である。この間、南朝方の北畠顕信は、陣容を整え、守永親王(もりながしんおう)をたて勢力を結集し多賀城国府奪還に動き出していた。
・1351年観応2年/正平6年11月に、顕信は、南部信光・信助、伊達、田村の兵と共に和賀氏(この時点で和賀氏は北朝方に寝返りをしていたが)所領を羽州仙北郡を経て多賀城国府を目指していた。
・1351年観応2年/正平6年12月には、北畠顕信が、多賀城国府を急襲し多賀城国府奪還に成功した。しかし、これはつかの間のことで、吉良貞家は、再度奪還すべく動き出している。
1352年
観応3年/正平7年
・1352年観応3年/正平7年3月15日に、奥州探題吉良貞家は、多賀城国府を奪回に成功した。その後、多賀城国府は、足利方の決定的支配下になったと言われている。
吉良貞家は、再び多賀城国府を奪還し、その勢いで南朝拠点を次々と攻めたて、悉く南朝方は敗北、北畠顕信は、滴石(岩手県雫石)に逃れる状況に至った。
この頃、気仙郡の金俊清は、葛西高清に破れ、その後に降伏した。しかし、旧領安堵がされたが、金氏の勢力の分散が行われている。金俊清の子弟が移封措置を取られたと言われている。
・1352年文和元年(正平7年)に、金俊清の次男定俊は、磐井郡千厩邑に采地三百町を与えられ移った。
・1352年文和元年/正平7年に、足利尊氏は、弟直義を殺した。それに伴い、直義方の吉良貞家も失脚してしまったので、奥州を含め地方情勢が、一層に混乱を来すことになった。
奥州においては、奥州探題の吉良貞家や畠山国氏・高国父子が亡くなったこともあり、幕府は、足利一族の斯波家兼を奥州探題に任じた。これにより、吉良氏、畠山氏、斯波氏、石塔氏の4人の奥州探題が同時に存在することになった。
1353年
文和2年
・1353年文和2年正月に、
千厩には、1336年建武3年(延元元年)以来、
・1353年文和2年1月頃、
1354年
文和3年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、斯波家兼が吉良貞家の死去にともない奥州管領に任じられた。斯波氏の始祖は、
1355年
文和4年
北奥では、
1356年
延文元年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして
・1356年延文元年8月に、斯波家兼の嫡子
・1356年延文元年10月22日には、直持は管領職としての職務をこなしている。幕命を奉じて領国内の地頭に、所領の宛行や下地沙汰状の施行を行っている。
1359年
延文4年
・1359年延文4年2月に、京都より斯波郡に、足利幕府要人として、佐々木直綱、定綱父子が、奥州北方奉行として派遣された。これは、南部氏の動向監視の為と思われる。また、佐々木直綱が派遣されたのは、葛西詮清の娘が、佐々木直綱の妻でもあることも派遣の要因と考えられる。その後、配置替えされた。
1361年
康安元年
・1361年康安元年に、江刺で
一方、吉良満家の死後、子の
1364年
貞治3年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、
・134年貞治3年10月10日に、足利尊氏の下文と大崎直持の宛行状によって、留守氏の本領が回復された。
1367年
貞治6年
・1367年貞治6年に、
関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなったので、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の各地では、中央権力の
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
1371年
応安4年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとて
・13712年応安4年10月10日に、三代として
1372年
応安5年
・1372年応安5年春に、薄衣邑
1373年
応安6年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、
1373年応安6年12月2日に、詮持は、
1381年
永徳元年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きといて
・1381年永徳元年秋に、
1383年
永徳3年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして
・1383年永徳3年8月15日uには、
1385年
元中2年/至徳3年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、伊達宗遠は62歳で没した。宗遠の第一子で、母が高明夫人(結城上野介宗広の娘と思われる)
1386年
元中3年/至徳4年
・1386年至徳4年には、
この会津鎮定出陣中に、奥州各地で局地戦が頻繁に起きた。特に、岩手南部より宮城北部に至り、かなり頻繁に起きた。大崎探題職の働きが大きく、局地戦に収まるなかで、大崎氏の権力が強くなり勢力拡大をしていった。中でも留守氏に対して攻略をせしめたことは、大崎氏に有利に働いた。
奥羽諸将の動きとして
・1386年至徳4年12月2日に、
1391年
明応2年
・1391年明応2年7月には、大崎氏が留守氏を攻め、留守詮家を切腹せしめた。これにより、留守氏が衰退する結果となった。
・1391年明応2年には、足利幕府は、鎌倉公方
鎌倉公方足利氏満は、奥州支配強化の為、氏満の子満直・満貞の二人を須賀川市稲村と郡山市篠川に派遣し、満直を稲村公方、満貞を篠川公方と称させて、権限強化を図った。
1392年
明徳3年
・1392年明徳3年には、大崎氏は、二本松の畠山氏と一族を討つまでの勢力となった。
・1392年明徳3年に、鎌倉府に属した
畠山氏は、大崎氏の度重なる攻撃に負け、
この様な状況に至り、留守氏、葛西氏、山内氏、長江氏、登米氏の5氏は、一揆契約を結び大崎氏に対抗する勢力となった。
朝廷の動きとして
・1392年明徳3年/元中9年には、後亀山天皇(南朝)から神器を後小松天皇(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約60年近く続いた大乱であったが、これで終息した。
1395年
応永2年
葛西氏大きな動きなし。
大崎氏としての動きとして
・1395年応永2年9月26日には、
1397年
応永4年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、
1398年
応永5年
葛西氏大きな動きなし。
鎌倉府の動きとして
・1398年応永5年11月4日に、足利氏満が没した。鎌倉公方は、氏満の嫡子
1399年
応永6年
・1399年応永6年春に、陸奥、出羽が鎌倉府の管轄となった。鎌倉公方満兼は、奥州支配強化の為に、満直・満貞の兄弟を
ところが、満兼はこれに承服せず郡単位を要求するにいたったので、奥羽諸将は、これを拒否した。このことから、大崎氏・伊達氏が鎌倉府と対立する様になった。
1400年
応永7年
・1400年応永7年に、足利満直・満貞は、吉良氏と代わった奥州探題宇都宮氏広と職権等で対立。満直・満貞は、奥州武将等と
・1400年応永7年秋頃に、宇都宮氏広の反乱が起こり、鎌倉公方満兼らの要請を受けた葛西満信・大崎詮持らに攻められ栗原郡三迫の戦いで、宇都宮氏広は戦死した。この戦いで、
しかし、鎌倉公方満兼の独断すぎることに、将軍足利義満は、懸念を抱き、京都扶持衆である伊達大膳政宗や探題大崎氏に牽制をさせようとした。
1402年
応永9年
・1402年応永9年に、伊達政宗が、京都足利幕府と結び反乱を起こした為、急遽、身を按じた斯波満詮と子満持が鎌倉を脱出して本領に向かった。が、途中、満貞の追手に追い込まれ満詮は自刃し、その子満持は、伊達大膳大夫政宗に救われ大崎に帰ることができた。
伊達政宗は、
「伊達世次考」には、葛西・桃生・深谷氏の侵攻を伊達氏が、大崎地方で撃退し敗退したと記されている。それにより、亘理、黒川、宇多、名取、宮城、深谷の武将が伊達氏に従ったとあるが、この様な状況では、関東管領に攻められている段階では難しい対応と考えられるので、疑問を呈する。逆に、奥州諸侯は、関東管領の統治下にありながら、未だ探題の勢力が保持されている状況である為、混迷を来たしていた。
1413年
応永20年
・1413年応永20年6月に、気仙郡長部館主
長部館の慶宗と高田城城主の胤慶とは兄弟で、共に千葉重慶の子である。骨肉の争いを繰り返しおり、気仙郡では「高田・長部館の二兄弟の争い」として語り継がれている。
1421年
応永28年
・1421年応永28年2月に、佐藤五代信季の弟五郎信行は、葛西持信より「切符月棒」を賜り登米城に仕えた。
1424年
応永31年
・1424年応永31年8月に、佐藤五郎信行は、功により登米郡内に采地2百余町を賜り、郡内の弥勒寺邑に居住した。
1437年
永享9年
・1437年永享9年3月に、
1438年
永享10年
・1438年永享10年には、鎌倉公方在任20余年の足利持氏が、将軍足利義教(義満5男)によって討伐され、翌年、上杉憲実の追討軍に再度攻められ自害した。持氏の(嫡子元服の慣例を無視、
・1438年永享10年に、
1439年
永享11年
・1439年永享11年元日9日に、五代信季は、
・1439年永享11年3月19日に、
1440年
永享12年
・1440年永享12年の「嘉吉の乱」が全国的に波及した時期に、奥州葛西氏と大崎氏との間でも戦禍が広がっていた。この戦乱で敗れた武将が奥州に下向し、奥州葛西氏や奥州有力な諸侯に頼って、奥州に根を下ろし活動する様になった。
奥州葛西氏にも、奥州に下向し臣下となった武将もいた。その中に、登米大泉の石川氏、東山の及川氏、気仙高田の村上氏がいる。気仙郡関連では、
気仙郡高田は、
村上定綱は、1444年文安元年の生まれ、嘉吉年間(1441年~44年)に気仙郡に入ったと思われる。定道は早世、定春は、弓馬の達人で
1441年
嘉吉元年
・1441年嘉吉元年に、伊達氏が、葛西氏と大崎氏の仲裁に入り仲裁調停を行なった。
1442年
嘉吉2年
・1442年嘉吉2年7月には、
1400年年代後期は、「下克上」と言われる乱世の時代でもあった。関東管領や奥州探題の権威は、有名無実化し、弱肉強食の実力時代となり、領土拡大に血眼になって戦が行われた。
1460 年
寛正元年
・1460年から1465年寛正年間に、葛西の臣の
岩村文書による風土記には、
1465年
寬正6年
・1465年寬正6年に、
1467年
応仁元年
・1467年応仁元年には、
・1467応仁元年11月4日には、葛西一族の
1469年
文明元年
・1469年文明元年の頃に、葛西氏は十三代
・1469年文明元年6月に、葛西十代太守持信が没すると、
1470年
文明2年
・1470年~1474年文明2年~4年には、
・1470年文明2年に、宮城県本吉郡馬籠館の館主、
1471年
文明3年
1471年文明3年2月、気仙郡の
・1471年文明3年8月7日/に、南部氏が、葛西氏の北進牽制の為に胆沢郡に侵攻したが、北七郎、六戸弥太郎等馬上10騎の討死もあり退却した。
1472年
文明4年
・1472年文明4年に、大崎教兼が西磐井郡流庄油田に侵入したので、葛西朝信に撃退された。
・1472年文明4年に、伊達仲裁により、遠田郡より小田郡(荒谷・田尻・
1475 年
文明7年
・1475年文明7年3月、東山の大原城主
大原氏は、薄衣・柏山・江刺・岩渕等の豪族や周辺の千厩の金氏、曽慶の鳥海氏等との血縁関係があり、東山方面では強力な勢力になっていた。
千葉広忠の次男の行綱は、葛西家の
五女は、曽慶の
尚、
・1475年文明7年に、小野寺氏は、西磐井前堀の黒沢城主
小野寺氏は、日形石畑館に移封され、小野寺秀家から幸通・充興・通教と続きたが、1555年弘治元年に故あって滅亡している。
1476年
文明8年
・1476年文明8年には、和賀の岩崎城主
1480年
文明12年
・1480年文明12年8月には、
1482年
文明14年
・1482年文明14年には、
その後、朝信の後継者として、
このような事態となったので、南部氏との姻戚関係による結びつきも悪化していった。また、太守継承に不満をもった葛西重臣
1483年
文明15年
・1483年文明15年6月に、尚信は在職3年で早世してしまう、嫡子も無いために、急遽叔父の
・1483年文明15年9月に上洛をし、将軍
五大院系図の政信の譜には、「文明十五年嫡流尚信早世にて葛西家督となり、同年九月上洛、将軍義政公より御諱字を賜わって政信と改名云々」とある。
1485年
文明17年
・1485年文明17年春に、葛西重臣江刺隆見は、
江刺郡岩谷堂城主の葛西宗族江刺氏が、政信と衝突した。政信は、本吉郡気仙沼赤岩城城主熊谷氏等を率いて、江刺郡に出動して、江刺美濃守隆見と高寺村で戦い、江刺勢を打ち破り難を逃れた。
・1485年文明17年8月4日には、和賀郡(今の胆沢郡)相去郷で、
「定義云々。同十七年八月四日与二葛西壹岐守平政信戦一、中二流矢一傷死年四十九」とある。
一方、計画通り南部政盛は、同日に有住郷(今の気仙郡住田町)に侵攻した。葛西太守政信は、(未だ葛西重臣の意見統一できない混沌とした状況であった)涌津城主
・1485年文明17年8月には、三戸の南部政盛が気仙郡の有住郷に侵入し、葛西勢と交戦したが敗退し退いた。
この戦いで、桃生郡大窪の
この南部氏侵攻は、葛西内訌により
有住郷の戦場は、現在の住田町上有住の十文字、根岸、八日町などで、この地で、南部勢の指揮者格の
また、胆沢郡小沢城より参陣した佐々木信綱が、南部勢の指導者格の一人である金沢盛弘を討ち取ったと言われている。南部方には記録がなく、葛西方には語り継がれている。恐らく、軍監として出陣した岩渕経定が、南部の大軍を撃破したとも言われており、南部方として戦いの記録として残さなかったのではと推測する。
この戦いで軍功をあげた佐々木泰綱が、葛西政信より与えられた恩賞の詳細は、気仙郡北部に三百余町の地と、その年の10月には、
1487年
文明19年
・1487年文明19年には、大崎氏は、薄衣氏により佐沼城を大崎氏手中にさせた。
1488年
長享2年
・1488年長享2年10月に、
1489年
延徳元年
・1489年延徳元年には、磐井郡流地方に内乱が起きてしまった。
この様に、葛西領内が
1495年
明応4年
・1495年明応4年5月に、再度、江刺隆見が高寺邑で反乱を起こしたが、葛西領内に波及し争乱状態となった。
・1495年明応4年6月に、再び江刺隆見が政信に反旗を翻し再び高寺村で戦い、江刺勢を破り江刺隆見を降伏させた。この戦いには涌津城主岩渕参河守経定も参陣していたと言われている。この後、江刺氏は葛西宗家に従ったと言われている。その証して、
その時、伊達家より嗣子として宗清を迎いれていた為に、日和山城主となるべく重親を廃嫡させ江刺城主にしたと思われる。この経緯がある為に、重親の第三子重信(後の晴重)を寺池の正嫡としている。
1497年
明応6年
・1497年明応6年には、江刺隆見の江刺方が敗走し、争乱は収まっかのようになった。
1498年
明応7年
・1498年明応7年には、
・1498年から1499年明応7年から8年には、大崎氏の内紛が葛西領内も波及し、奥州探題
この合戦は、明応8年の冬になると、ますます激しさを増し、葛西領内全域に広まったともいわれている。この合戦には、本吉郡の
・1498年明応7年~1499年明応8年に、葛西領内で
1499年
明応8年
・1499年明応8年10月に、
・1499年明応8年には、薄衣氏の反乱が起こり、葛西宗家の率いる大軍に攻撃された。この苦境に、薄衣氏は、伊達成宗に救援を依頼する文書を送った。所謂、1499年12月13日付けの「薄衣状」である。
・1499年明応8年12月13日の大崎氏に味方した「
・1499年明応8年には、葛西一族の磐井郡薄衣美濃入道経連が、大崎探題に協力して、大崎探題義兼に叛く佐沼城主を攻め落した。しかし、逆に、葛西太守政信が、薄衣氏の居城を攻撃した為に、伊達成宗に援軍を要請せざるをえなくなった。
このことを契機に南部・秋田・葛西氏はもちろん、奥州全体が騒乱になるかと懸念していたけれど、伊達成宗がこの大崎内乱の仲裁に入り収拾させた。
1503 年~
永正年代
・1503年~1517年永正年代に入ると、石巻日和山派の家臣が、
1504年
永正元年
・1504年~1510年の永正年間には、葛西氏十四代太守
・1504年永正元年春に、磐井郡東山大原氏と気仙郡浜田氏の争いが起こった。
・1504年永正元年に、信夫館を退去したと言われてる弟
・1504年永正元年7月には、
1505 年
永正2年
・1505年永正2年には、薄衣氏、江刺氏と葛西氏、柏山氏、本吉氏、馬籠氏が戦いを始めた。さらには、葛西太守支流の本吉郡の清水川の本吉氏と本吉郡馬籠城主馬籠氏とが争いを始めた。この時、馬籠氏の子政次が永正2年に、領地をめぐって本吉信胤と合戦し戦死した。 これ以降馬籠氏と本吉氏は犬猿の仲となって代々合戦を繰り広げている。
・1505年永正2年に、薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していった。
一方、大崎探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものとされる。
1506 年
永正3年
・1506年永正3年には、葛西氏に対抗する為に、
1507 年
永正4年
・1507永正5年6月8日に、
・1507年永正4年9月に、
・1507年永正4 年11月26 日の
・1507年永正4年には、馬籠長之助成胤は、堀切に舘を築いて移り葛西氏配下の堀切、馬籠舘の祖となりました。
・1507年永正4年には、大崎義兼と葛西稙信(政信の子)とで戦いが起こった。
・1507年永正4年に、金沢の金沢氏は、峠城の千葉下野との争いがあった。金沢の金沢氏は、朝日館を居城に活動していたが、衰退し、1544年天文13年に没落している。また、金沢氏は、薄衣千葉氏の一族とも言われている。
・1507年永正4年に、桃生郡寺崎より弱体化した峠城の千葉氏に変わり移り住んだ。寺崎氏は、葛西氏の信任が厚く、天正末期まで流地域の重鎮で在り続けた。(寺崎氏)
・1507年永正4年に、長江氏と葛西氏が、矢本で戦っている。
1510年
永正7年
・1510年永正7年に、
1511年
永正8年
・1511年永正8年8月4日~10月まで続き、
<この戦いの経緯は>
・1511年永正8年8月4日に、
・1511年永正8年9月には、中島七尾城を包囲し、10月8日に首藤貞通が降伏した。
<以上のようであった>
・1511年永正8年に、桃生の
1512年
永正9年
・1512年永正9年9月に再度合戦が起こり、1512年永正9年9月3日に
葛西宗清は、永正8年~9年で桃生郡山内首藤氏を滅ぼすと、寺池の太守の重信(後の稙信)の許可をもらい、寺池に参じ、引き続き寺池に留まったと言われている。この一連の行動は何故であろうか、推測してみる価値がある。宗清は、石巻葛西氏に伊達家より嗣子として迎え入れられた人物、当時の石巻日和山城主
この様に、永正年間は、宗清よりの石巻派と寺池派に分かれ、対立が激しさを増し、紛争が絶えぬ様になった。さらには、葛西宗族の本吉北方の熊谷氏ような豪族までもが反抗を繰り返すようになったとも言われている。宗族が反抗するわけは、先代政信が寺池出身というだけで、石巻支流から宗家を継承したことへの不満からであったともいわれている。
1514年
永正11年
・1514年永正11年に、葛西領内の東山城主が、家臣
「若柳中屋敷千田亀治氏蔵書」によると
「千田隼人勝政、母ハ薄衣日向女。東山ノ内薄衣郷知行三拾貫文、長坂家より拝領之所、薄衣無調法 ノ為、知行召上相成、薄衣隼人残念二思。永正十一年五月二日主人長坂殿ヲ殺害及怠多所、遂二当家親子間柄知行召上相成、無二余儀一百岡柏山家旧縁二付、柏山刑部少輔胤定之口入以而、紫波皆川御所城主志和家老二相成、館脇二居住。是当千田氏 初代七十三貫文知行拝領」
とある。
・1514年永正11年5月に、柏山氏は、百岡二郎の支流水沢
この与えられた領地内には、
・1514年永正11年に、
1515年
永正12年
・1515年永正12年には、
・1515年頃永正年間に、磐井郡津谷川邑の
1519年
永正16年
・1519年永正16年4月3日に、
・1519年永正16年には、
大崎氏の動きとして
・1519年永正16年に、
1521年
大永元年
・1521年大永元年に、
・1521年大永元年に、
・1521年大永元年に、
・1521年大永元年に、小岩氏は、柏山氏の推挙により。
したがって、小岩一族の所領として、市野々、上黒沢、達古袋、沼倉、赤児、赤荻の各地となり、葛西領西北部の守りを固めることになったと言われている。
小岩氏は、甲斐源氏武田氏の出自で、寛正年中(1461年から1466年)間に、忠成が足利将軍義政から封を信濃に与えられ、小岩郷(埴科郡ヵ)にいたので小岩氏を称した。その子忠行に至り、1479年文明11年羽州奉行となり河辺郡に移った。忠行の子定行を経て孫信実・信行の兄弟が、1518年永正15年に故あって将軍家の咎めを受け、出羽所領を没収され子弟宗族を挙げて外祖父である胆沢郡永岡村の柏山兵部に身を寄せた。
1522年
大永2年
・1522年大永2年に、
伊達氏の動きとして
伊達稙宗は、従四位下奥州守護職となり、最上氏と葛西氏と争った。
1523年
大永3年
・1523年大永3年に、
1524年
大永4年
・1524年大永4年に、10月24日付けの12月7日着の管領細川高国の書状が残されている。「公方様の御礼のことについて、葛西陸奥守の使者として、岩渕紀伊守・伊藤大倉少丞が参詣し、今下国する 路次煩い無く様に思う、
伊達氏の動きとして
伊達氏は、大崎氏に代わり守護職となる。伊達家文書にも、細川高国が伊達稙宗へ守護職選任を報じた書状が残っている。「奥州の守護式は秀衡己来・・・種々苦労仕り調下申し候」とあり、幕府内でも相当な異論があったと推察される。
これについて、少々疑問を呈するところがある。奥州藤原氏以来の守護職と言えば、陸奥守であるわけであるが、葛西氏も満重に続いて晴重も陸奥守と称した事が、幕府文書にも残されていた。同時期に容易に与えられない陸奥守が、葛西氏と伊達氏が重複した事がどの様なことを意味するものか疑問である。 恐らく、葛西氏は、幕府において評価が高かった事もあったので、単なる修飾的称号で与えられたと思われる。葛西氏にとっては、相応しい権威の象徴となったのであろう。一方、伊達稙宗は、これを契機に奥羽諸将に対して守護職の職権を行使していく事になった。
・1524年大永4年に、東山では、薄衣清貞と千田重政と争っている。
1528年
享禄元年
・1528年享禄元年頃には、大崎領内であった佐沼が葛西領地になった。
・1528年享禄元年頃に、伊達氏と芦名氏が、葛西氏を攻めて、りんこう館(石巻日和山城と思われる。)を攻略した。この戦いは、伊達稙宗が何らかの理由で葛西氏を咎めるために、
伊達氏の動きとして
・1528年享禄元年頃に、4月13日に伊達家臣桜田氏が、長井(長江氏の小野城と思われる。)に陣を構え、芦名軍も先陣四隊と後陣ニ隊が参加し、葛西氏拠点を包囲する中、6月13日に葛西太守が病死する。葛西軍は動揺し、遂には、9月30日に陥落した。戦いは、凄惨を極め、死者が多数出て伊達軍の勝利となり、葛西を領地化することになった。
この事件は、葛西関係文書にはどこのにも見えないが、福島県会津で発見された古文書がある。「塔寺八幡宮帳帖」と言われるものが、塔寺村の八幡神社に残されていた。その中には、 葛西主城攻略と太守死亡の事件が記されいた。
又、伊達文書「伊達・蘆名両家関係覚書」にも「・・・亨録(大永八年が8月20日に年号が改める)9月晦日 伊達家 葛西を被領侯由、葛西病死に付、如此之由 依って蘆名盛舜御加勢、人数被遺侯、後二番侯由・・・」と記されている。
1529年
享禄2年
・1529年享禄2年に、
・1529年享禄2年に、
1531年
享禄4年
・1531年享禄4年8月にも、葛西晴重と大崎義直が、佐沼及び新田を中心に衝突が起こり、磐井郡からも参陣する武将がいた。次のごとくである。
磐井郡 東小梨郷 西条景則
流の庄 日形郷 佐々木康綱
流の庄 奈良坂郷奈良坂貞信
流の庄 清水郷 高藤大学
西磐井 黒沢郷
1532年
天文元年
・1532年天文元年に、東山の
伊達氏の動きとして
・1532年天文元年に、稙宗は、伊達郡西山城に移り、亀岡八幡宮を梁川から西山に移築創建した。
1533年
天文2年
・1533年天文2年夏頃に、
・1533年天文2年に、気仙沼(新城邑)赤岩城主
・1533年天文2年には、葛西太守晴重・晴清が、再び大崎義直と因縁の佐沼で戦いを起こし、葛西氏の勝利に終わったはずが、伊達稙宗の仲裁が入った。この仲裁で、大崎氏の探題としての威信が落ちた。
・1533年天文2年に、葛西晴重が、気仙沼熊谷直影と戦い、熊谷直影を討ち取った。この時の軍功により、
伊達氏の動きとして
・1533年天文2年に、伊達稙宗は、家老六人衆の連署による
大崎氏の動きとして
・1533年天文2年に、大崎義直29歳で葛西晴重と境界線争いで敵地佐沼に侵攻した。これは、義直が奥州探題命(幕府より権限委任)で葛西側の訴えを退けようとしたが、葛西が従わなかった為の戦いとなった。しかし、大崎氏は惨敗してしまい、奥州守護職(守護大名)の伊達稙宗の仲裁で和睦を結び、葛西側の主張通りの境界線を引いて終わった。
惨敗の敗因は、大崎軍団の統率の乱れ、騎馬攻撃を生かしきれなかったことや、義直の強引な先制攻撃が原因であった。元来、義直自身が幼いころから”我儘で強引な性格”、家臣からも煙たがられた存在であった。
この惨敗を覆すかのように、その後、強引に上洛を決行する。
1534年
天文3年
・1534年天文3年 月に、葛西太守が、磐井郡西部方面強化の為、胆沢郡百岡から小岩一族を転任させた。小岩一族は、武略に優れ、戦闘能力が高く評価されている一族で、磐井郡百岡に配置されたり、磐井郡西部に配置されたりしている。
・1534年天文3年6月に、
「石川彦次郎氏所蔵文書」(奥州市水沢区佐倉河半入)
「今度南部衆与遂二一戦一、北七郎、六戸弥太郎始馬上十騎、雑兵共に、打取方無二比類一候、依レ之伊沢郡下河原ニテ三千苅、若柳村二而五千苅、磐井郡日形二二千苅、机島村二而三千苅、此度為二忠賞一、本領二相添、永代宛行者也、
天文三年八月七日 明吉(黒印)
石川越後殿 」
1536年
天文6年
・1536年天文6年2月に、大崎義直は、再び新田頼遠を攻めようと進軍したが、玉造の岩手沢城主氏家氏に妨害され攻め入ることを阻まれた。これに対応すべく、やもう得ず伊達郡西山城の伊達稙宗のもとに赴き援兵を要請する。稙宗は、奥州北部への思惑を含め、この要請を受け入れることを決定をした。
・1536年天文6年5月下旬に、伊達稙宗は、大崎に出兵し、4ヶ月を費やして、9月11日に、
このことから、伊達稙宗は、勢力拡大に絶好の機会と捉え、宮城の国分市氏、高森の留守氏、志田 郡の古川氏、桃生郡深谷の長江氏、岩手沢の氏家氏等を迎合(相手に調子を合わせて気に入られようと努 める こと)させた。
一方、この時期には、三戸(糠部)南部氏の動きも活発となり、岩手郡の雫石氏、志和郡の和賀氏、 稗貫郡の稗貫氏、遠野の阿曽沼氏を制したことから南部氏と葛西氏の攻守同盟が、険悪な状態に陥った。
伊達氏の動きとして
・1536年天文6年に、伊達稙宗は、家老、評定人等と合議して、式目六十九条を定めた。戦国時代の
1537年
天正6年
・1537年天文6年に、三戸南部氏が、南進して再び和賀氏と交戦する事態となった。
1538年
天正7年
・1538年天正7年4月に、
・1538年天文7年に、
・1538年天文7年に、葛西高信は、勢力拡大のため、大崎義直と遠田郡西郷で戦っている。
1539年
天文8年
・1539年天文8年9月10日には、三戸南部氏の南進を阻止すべく戦いで、武勲を挙げた者に恩賞が賜われた。その文書として残された「明吉状」がある。
柏山明吉の書状
「今度軍功比類なく候 これによって忠賞として伊沢郡柳田村にて二千苅、八幡村にて 三千苅 知行せしむべき者也
天文八年九月十日
明吉(判)
石川又十郎殿」
とある。
1540年
天文9年
・1540年天文8年には、大崎地方へ領地拡大を狙っていた
1541年
天文10年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして
・1541年天文10年には、田村郡主の
1542年
天文11年
・1542年天文11年2月に、山田邑の初代常勝
・1542年天文11年2月17日頃、葛西高信(後の晴胤)が、
「長沢ノ惣太郎が注進してきた。それで、そのことによってよくお前達三人で相談協議し仕置するように、もし相違あって意見ある場合は、後刻申し越されたい」との書状であった。
これから推測するに、胆沢郡内に何か騒乱が発生したか、胆沢郡主に相談なくして、太守葛西氏に相談したところから、柏山氏自身の問題なのか、に推測される。太守葛西氏は、
・1542年天文11年3月に、葛西高信が、自ら領内鎮定の為、
・1542年天文11年6月に、「天文の乱」と言われる、伊達氏内部で内訌が発生した。
その内訌の経緯は、伊達稙宗が5男
「天文の乱」の影響を受け葛西領内でも争乱が起きている。
1543年
天文12年
・1543年天文12年に、伊達晴宗が葛西家臣大原氏とよしみを通して、柏山氏、富沢氏を巻き込み、栗原郡二迫の袋中に進撃する依頼を受け、稙宗と行動を密にしていた葛西太守高信とこの袋中で一戦を交えている。
しかし、葛西高信は、稙宗と密接な関係ばかりではなく、稙宗と一戦交えている時もあったようである。
・1543年天文12年9月7日の「高信状」に、葛西高信が、伊達稙宗と一戦を交えた時、危急の状況に陥いった高信を三田主計頭が武略を使い、危急を救い勝利に導いたとのことで、高信より恩賞を賜った内容である。
「今度 伊達稙宗と一戦を遂ぐ、味方敗軍に及び候処、其方武略をもって諸勢を略し、勝利を得候事、葛西前代未聞、此の事に候。これに依って忠賞として伊沢郡の内白鳥村五千苅、本領に相添永代に宛行う者也。仍て証文如件
天正十ニ年九月七日
高信(香炉印)
三田主計頭殿 」
とある。
戦いの訳は定かではないが、葛西高信と伊達稙宗と戦ったが、敗北寸前に、家臣
1544年
天文13年
・1544年天文13年に、葛西氏の稙宗派と大崎氏の稙宗派の派内争いが起こり、伊達家家臣国分能登守が斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、伊達稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った。
・1544年天文13年には、奥州各地の戦いの継続で、各諸将が疲弊したのか、葛西氏、大崎氏、伊達氏が和睦したと「南部葛西系図」に記されている。
1545年
天文14年
葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして
・1545年天文14年に、葛西太守が、花泉の
大崎氏の動きとして
・1545年天文14年には、大崎義直は、大崎一族の羽州山形城主10代
その後、義直は左京太夫任官後上洛したが、将軍足利義晴に拝謁できず、足利一門でもある「大崎公方」として、著しく権威を損なわれる形となった。 拝謁ができなかったのは、将軍足利義晴が当時流行した疫病を恐れ、越前国へ行き、義直と対面できなかった為であった。将軍からは書状つきの鎧一式を拝領したが、奥州諸大名からは軽んじられ、家臣からも不協和音がで始めた。
1546年
天文15年
・1546年天文15年6月には、伊達稙宗が西山城を奪還、
1547年
天正16年
・1547年天正16年6月に、
・1547年天文16年には、葛西高信が、三迫を取り戻し鎮定した。所謂、葛西「
1548年
天正17年
・1548年天文17年4月に、葛西高信は、葛西家臣東山の長坂氏と松川の鳥畑氏と戦っていた。また、留守氏(晴宗派)と三分一所氏(稙宗派)も争っている。しかしながら、伊達氏内部では、稙宗派が晴宗派に敗れている状況になっていた。
・1548年天文17年5月には、将軍足利義晴が、晴宗に書状 を持って稙宗と晴宗父子の和睦を命じた。9月には、ようやく和解が成立した。
1549年
天文18年
・1549年天文18年に、葛西太守高信は、晴胤と改名し間もなく、三迫の
1550年
天文19年
・1550年天文19年6月には、長部氏と浜田氏が境界争いをしている。
・1550年天文19年8月には、大原の
大崎氏の動きとして
・1550年天文19年に、
1551年
天文20年
・1551年天文20年に、黒石常陸守と江刺三河守とが境界争いで争って、江刺氏が敗北し領地を逃れたが、翌年春に再び戦をして、江刺氏が黒石氏を討死させた。ところが、江刺氏は、江刺郡内で兵糧を徴収できないばかりか、民心が動揺し統治することができない状態に追い込まれ、さらに、郡内から反対され戻ることができずに、東山の興田に浪人せざるを得なくなった。これにより、江刺三河守も黒石氏も姿を消してしまった。しかし、別の江刺氏が史上に現れる。
1552年
天文21年
・1552年天文21年には、葛西太守晴胤は、大崎氏と戦っている。
伊達氏の動きとして
・1552年天文21年に、
伊達晴宗は、家臣に知行地の証として証文を与えて、騰本三冊製本し保存した。所謂、「
1553年
天文22年
・1553年天文22年6月には、葛西晴胤の6男
本吉氏(葛西持信の弟重信からわかれた直系)が謀反を起こして争いが起こったり、遠野の阿曽沼氏と江刺氏も争っていた。
・1553年天文22年9月には、松川氏と門崎氏が同族間紛争を起こしている。
・1553年天文22年に、定時の長男長三郎時光が、葛西晴胤の臣下となり、牡鹿郡渡波に住まいしたが、1557年弘治3年春に、亡父定時の住まいした本吉郡山田邑の要害に移り住んだ。時光は、隣邑の馬籠遠野館の馬籠氏とは姻戚関係で、時光の妹は、
時光の長男
「葛西真記録諸氏ノ輩」によると、「
1555年
弘治元年
・1555年弘治元年3月に、
・1555年~1557年弘治元年~永禄初め頃に、伊達晴宗が、従四位下奥州探題に任じられ、同行した重臣の
1558年
天正16年/永禄元年
・1558年天正16年4月16日に、長成の子の
・1558年天正16年春に、気仙郡の葛西宗族
浜田勢は、鹿折から気仙沼にしばしば出兵し、気仙沼の情勢を窺っていたが、5月半ばに下鹿折忍館の
・1558年から1570年永禄年間に、猪岡氏は、活動を初め、磐井川西北部猪岡村の地頭になっていると言われている。猪岡氏は、近世末期の伝承記録に載っていないけれど、猪岡家(宮城県刈田郡宮村)蔵で大現蔵の猪岡文書が残されている。
猪岡氏は、1400年応永7年から1590年天正18年の196年間猪岡村を領し、葛西晴信の信任厚く領内安堵に尽している。とある。
さらに、岩手県中世文書の中にも、猪岡氏に関する文書が、次の様に記されている。
満信軍忠状41
此度宇都宮逆意及二一戦一之所二軍功甚依レ之為二忠賞一岩井郡猪岡村一宇宛行任レ望自今以後可レ為二猪岡者一也仍証文如レ件
応永七年八月七日 満信(黒印)
猪岡丹後守
葛西晴信知行状203
此度為二軍功賞一岩井郡之山ノ目中尊寺村而堀村可レ為二旗頭一
一馬上 五拾騎
一与力 百人
一弓 三拾人
一鑓 弐拾人
右相付候 依レ之為二加増一岩井郡之内平泉村二而三千苅黒沢村二而弐千苅猪岡二指添永代宛行者也仍如レ件
永禄三年七月十一日 晴信(黒印)
猪岡又太郎殿
等の文書が残されている。
1559年
永禄2年
・1559年永禄2年に、
1560年
永禄3年
・1560年永禄3年4月に、叔父の
先代
そのこともあるのか、晴信は寺村に寄進をしている。
伊沢郡永徳寺一村無レ構事 「花押」
為二亡親石見守親平親((親信))永徳寺菩提一、令二寄進一者也。仍如(よって)レ件(くだん)
永禄三年四月弐十四日
葛西壱岐守
平晴信 花押
(胆沢郡金ヶ崎町永徳寺文書)
・1560年永徳3年8月に、
・1560年永禄3年に、葛西十七代晴信は、遠田郡全域を取り戻し、領内に残る他氏をも征伐して家 臣団に組み入れた。
領内は元亀・天正時代になっても、領内での小乱が絶えなかったが、葛西の領地が田尻・松山・黒川にもおよび、胆沢(奥州市江刺区)・東磐井・西磐井・気仙・本吉・登米・栗原・桃生・牡鹿・遠田郡の10郡にもおよび石高35万石と呼ばれる大大名になっていたと思われる。
元亀・天正の頃には、日本の戦国末期で、中世の殻を打ち破り、新たな戦国大名が台頭し始めた時代でもあった。しかし、葛西氏は古い慣習から抜け出すこともできず、新たな時代に対応した組織作りが遅れ、領内統一も遅れ気味となり、他氏、特に、伊達の巨大化が進んでいるのを見過さざるを得なかった。依然として、葛西領内の小競り合いが続き、外への働きかけもできない(今で言う外交)状況で、領内統一が出来つつある頃には、天下の情勢も大きく変化し、豊臣の全国統一が間近に迫っていた。やがて、奥州仕置きを迎え葛西氏滅亡の時期を迎える。
1561
永禄4年
・1561年永禄4年11月に、散発的に
・1561年永禄4年に、
1563年
永禄6年
・1563年永禄6年2月21日に、
1564年
永禄7年
・1564年永禄7年頃に、浅野氏が山田村から歌津村の三島館に移住しのは、本吉大膳に備えるためで、馬籠氏からの要請があったからと推測される。
1565年
永禄8年
・1565年永禄8年6月に、江刺郡((今の胆沢郡)
1569年
永禄12年
・1569年永禄12年8月15日に、国見((北上の国見の寺)峠(ヵ))で江刺((
この協議の後、葛西晴信は、南部氏に先制するために遠野の阿曽沼氏を攻めたが、敗退してしまっている。
1570年
元亀元年
・1570年元亀元年7月に、
岩淵氏は、藤沢を拠点に、一族を曾慶・摺沢に居住させて、岩淵氏・摺沢氏と名乗った。1570~1590年元亀元年から天正年間に勢力を拡大しているなかで、1586年天正11年8月に、砂子沢の千葉氏を攻撃し破り、千葉氏を薄衣氏へ逃亡させた。
1571年
元亀2年
・1571年元亀2年3月上旬には、
・1571年元亀2年4月11日に、葛西太守晴信は、柏山兄弟の内紛の情報をえて、上胆沢下姉体館主大内氏と下胆沢前沢村の折居館主三田氏に結束を固める様に指示を出している。
・1571年元亀2年9月13日には、磐井郡内に一揆が起こり、
1572年
元亀3年
・1572年天正2年春に、本吉郡志津川城主(朝日館)
この戦いで、西磐井の
・1572年元亀3年に、葛西晴信は、大崎勢力が侮れない程に強まっている状況なので、翌年2月の雪解けを待って三迫諸郷と西磐井郡の小岩一族(武勇に優れた家臣団)に出陣の命令を出している。
1573年
天正元年
・1573年天正元年3月4日に、葛西晴信は、三迫の岩ケ崎城を攻め落とした為、敗退旧葛西家臣で大崎方についた富沢氏、沼倉氏や大崎方の尾形、渋谷、狩野氏の3氏が葛西晴信についたとされている。この戦いで、前沢村三田弾正少輔が勲功抜群として、桃生郡内の寺崎村五千苅を8月2日付けで拝領した。
・1573年天正元年に、葛西晴信は、
1574年
天文2年
・1574年天文2年春に、本吉郡志津川村朝日館城主本吉大膳重継が反乱を起こし、横山村北沢で戦いが行われた。北沢の
この戦いに参陣した葛西家臣には、17~18名の軍功を挙げたものがいたと伝えられている。その中で、本吉郡平磯前浜の小野寺家所蔵の小野寺系譜に記されていたのは、東山小梨村の
1575年
天正3年
・1575年天正3年春に、本吉方面に反乱がおこり、南は志津川湾から気仙湾と中を挟んで北辺の広田湾に至る地域で争いが起こった。この争いは、本吉氏、熊谷氏、高田氏の沿岸地頭が、海上権益とで争ったのが要因である。
・1575年天正3年春に、本吉方面に反乱がおこり、南は志津川湾から気仙湾と中を挟んで北辺の広田湾に至る地域で争いが起こった。この争いは、本吉氏、熊谷氏、高田氏の沿岸地頭が、海上権益とで争ったのが要因である。
・1575年天正3年8月にも、本吉氏と気仙郡長部氏とお間で争いが起こったが、西磐井、胆沢の城主が動員され鎮圧された。その軍功に対して、各武将に晴信より恩賞が与えられた。
磐井関連武将として、次の文書が残されている。
今度元良大膳大夫長部長門守出入有レ之其方取扱ヲ以無事有レ之大悦此事侯 依レ之白馬村ニ而ニ千苅本領之猪岡村相添、永代宛行者也 仍証文如レ件
天正三年八月十七日 晴信(黒印)
猪岡弥太郎殿 (猪岡文書)
此度忠節無ニ余儀一事侯 依レ之一、蔵三柏一、小旗赤地白鳥井先年相免侯得共依二忠節一 我々家紋一、浅黄二三柏一、小旗黒地白ク月二星相逸者也 仍(より)如レ件
天正三年八月十七日 晴信(黒印)
猪岡左馬之助殿 (猪岡文書)
・1575年から1577年頃には、栗原郡の富沢氏が、三迫岩ケ崎城を拠点として、勢力を拡大し栗原郡の大半を勢力下に治めるようになっていた。富沢氏は、葛西一族の中でも巨族の位置にあった。しかし、その勢力拡大には精力的で、葛西領内でも他領域に侵入をしている。
・1575年天正3年に、富沢氏は、葛西氏に叛旗を翻した。
1577年
天正5年
・1577年天正5年には、富沢氏は、流の庄の旗頭奈良坂氏と軋轢(仲が悪くなること)を生じて、小康状態を保っていた。
1579年
天正7年
・1579年天正7年春には、流の庄峠城主
この戦いは、富沢勢力が流の庄に侵入したので、寺崎氏が葛西諸勢力の支援を受け富沢勢力を撃退し、追撃を加え岩ケ崎城まで追い詰め、富沢直綱を降参させた。尚、この戦いで多くの民家、寺社、仏閣が焼かれて焼失してしまった。富沢氏が、磐井郡の西南の山嶺を越えて流の庄に侵入した為、その通り道の民家、神社、仏閣がほとんどであった。この時に、大門地蔵堂が焼失したと言われている。
(別見解として、若干の相違点)
・1579年天正7年春に、磐井郡流れ郷寺崎良継が富沢日向直継に攻められ戦っている。この富沢氏の反逆に対抗して太守晴信は、東山□の
晴信が参陣依要請の文書がある。
今度、富沢日向守逆意す。其辺の野心の輩に同心令め、流の大門迄出馬の刻、寺崎岩見二打続き早速向て動き比類無く候。之に依って証文如件。
天正七年二十七日
晴信 黒印
石川丹波守殿
この戦いにおいて、栗原郡岩崎の鶴丸城主富沢日向守直綱が挙兵し、磐井郡流郷に出陣して清水で戦い、峠の
増子七郎重清もこの戦いに貢献したので晴信より恩賞を賜っている。
・1579年天正7年3月28日に、増子左七郎は、太守葛西晴信より、寺崎に五千苅、大森山に五千苅、太田に二千苅、中津山に三千苅を賜った。また、増子左七郎は、東磐井花泉の
この頃、胆沢の柏山の内紛が元亀年間から続いており、葛西晴信の戒告や三田・大内両氏の和解斡旋などをしているが、一向に
南部氏の南進を阻止する協議においても、柏山氏内では意見がまとまらず、意見が2分する程であった。
葛西晴信は、この様な状況から胆沢諸氏に鎮定を命じたり、水沢城主
1580年
天正8年
・1580年天正8年に、塚館の千葉氏は、葛西家臣同士の争いを避けるべく葛西太守に領地替えを申し出たといわれている。
1581年
天正9年春
・1581年天正9年春に、磐井郡の黒沢氏と胆沢郡の柏山氏との間でも争乱が起きている。胆沢郡の柏山氏は、上胆沢大林(永岡)に居住していた、葛西有力家臣の大身者である。柏山明吉が没してから、その子明国と明宗の兄弟が、お互いに不和となり戦い争うようになった。家督相続は弟明宗が嗣いでいたが、争いに発展した。明国の娘が、下黒沢城主
・1581年天正9年7月12日に、磐井郡内の黒沢氏と長部氏との間でも争乱が起きた。
黒沢豊前信明と東山の
1582年
天正10年
・1582年天正10年4月に、胆沢方面の騒乱に乗じて、
この急襲に城主小野寺宗道は、折しも柏山内紛の重大局面に身動きできずに敗退してしまう。小野寺宗道は、葛西領内に逃げ込む事態となった。これを知った葛西晴信は、5月に和賀の多田氏や胆沢の柏山氏をして北上川沿いに布陣した。わずか4000騎であった。流郷の寺崎石見守良継を大将に参陣し防戦したが、既に落城寸前であった。
・1582年天正10年7月12日には、小野寺宗道は寺崎氏と共に戻るが、寺崎良次は討死、小野寺宗道は登米に遁走した。
小野寺宗道は、戦いに敗れたが、葛西晴信の思惑があったのか恩賞として「山目や中津山に四千五百苅」を賜った。
葛西晴信宛行状
江刺二寺山衣月と一戦侯処二、其方武略之働無比類侯、依之磐井郡山目村前堀二而三千苅、桃生郡中津山二而千五百苅永代宛行者也、仍而証文如件
天正十年七月廿日 晴信(香炉印)
小野寺前司殿
1584年
天正12年
・1584年天正12年8月には、富沢直綱が再び反乱を起こしたが、葛西太守の命を受けた寺崎信綱が、三迫に出陣して撃退せしめた。
1585年
天正13年
・1585年天正13年にも、富沢直綱が反乱を起こした。
この様に執拗な反乱を起こしていたかが問われるところで、これは、背後で大崎義隆、最上義光の扇動であることが大であると思われる。この反乱により、富沢直綱は、一迫、金成の所領を失ったもようで、日形増子文書に記されている。次の様な文書である。
今度其許依二先例一宛行之内栗原郡富沢日向跡一之迫之内三千苅、磐井郡黄海ノ内弐千苅、日形及金成郷ノ内弐千苅、右子細不レ可レ有也妨あらは可二申出一為二永代一依而如レ件追而知行書可二宛行一事也
天正十四年七月十四日
大崎帰退書上由
晴信(花押)
増子与左衛門殿(寺崎家臣)
1586年
天正14年
・1586年天正14年4月に、本吉郡の歌津村で
・1586年天正14年にも、富沢直綱が反乱を起こした。
この様に執拗な反乱を起こしていたかが問われるところで、これは、背後で大崎義隆、最上義光の扇動であることが大であると思われる。この反乱により、富沢直綱は、一迫、金成の所領を失ったもようで、日形増子文書に記されている。次の様な文書である。
今度其許依二先例一宛行之内栗原郡富沢日向跡一之迫之内三千苅、磐井郡黄海ノ内弐千苅、日形及金成郷ノ内弐千苅、右子細不レ可レ有也妨あらは可二申出一為二永代一依而如レ件追而知行書可二宛行一事也
天正十四年七月十四日
大崎帰退書上由
晴信(花押)
増子与左衛門殿(寺崎家臣)
1587年
天正15年
・1587年天正16年2月、本吉・気仙方面に騒乱がおこり、浜田城主
・1587年天正15年2月末~3月中旬に、気仙郡浜田安房守広綱と本吉郡志津川城主本吉大膳大夫との間で衝突が起こった。浜田勢が本吉郡岩月村に侵入した為、気仙、本吉、磐井郡東山一帯に動揺が走った。そのこで、葛西晴信は、使者を送り、両者を和議させることをした。しかし、浜田広綱は、葛西晴信の和解措置に不満を抱き、争乱後出仕することをしなかった。
・1587年天正15年中頃に、
・1587年天正16年歌津合戦の翌年、本吉大膳重継は、気仙郡高田城主浜田安房広綱と再度衝突を繰り返した。
本吉・浜田の乱について
浜田氏は、本吉氏と戦う為に本吉郡岩月村に侵入してきた。この騒動に、男沢越後守・
・1587年天正15年秋に、事態が再燃した為、太守晴信は、大乱になることを恐れて胆沢郡の柏山氏に出陣を命じた。しかし、柏山氏の当主
1588 年
天正16年
・1588年天正16年に、再び浜田広綱は本吉郡に侵入した為、4月から5月まで合戦の状態に陥った。結果は、浜田氏が敗退する結果となった。この時、磐井郡の流の庄老松の千葉氏や日形小野城主小野寺氏、西磐井の小岩氏が参陣し軍功を挙げたと伝えられている。
・1588年天正16年に、二代利徳 斎藤越中利徳は九郎右衛門と父と共に、葛西の家臣となり、気仙沼の浜田陣に参陣し、軍功を挙げ、葛西晴信より黒印状を賜ったとある。
1590年
天正18年
・1590年天正18年葛西家滅亡後、信貞は、、
・1590年天正18年に、葛西氏滅亡後、馬籠氏嫡系は、津谷城の下に移り住み、
・1590年天正18年に葛西氏滅亡となり、芳賀家は要害館を出て、山田邑に分かれて住み、宗家は
・1590年天正18年の葛西滅亡時に、
<葛西氏家臣の動きとして>
大原氏は、
1591 年
天文19年
・1591年天文19年8月14日に、長時は、桃生郡深谷の須江山で伊達勢に斬殺された。長時の弟長周も兄と共に殺された。
・1591年天文19年8月14日に、近春は、葛西大崎一揆後、伊達政宗に呼び出され、桃生郡広渕郷辺で伊達勢に捕まり殺されたと言われている。この日には、葛西浪人が多数須江山に集められて惨殺された中に三条近春もいたであろうと思われている。