郷土歴史倶楽部

中世奥州葛西一族歴史年表



奥州葛西一族歴史動向

西 暦 年 代 中世奥州葛西領内歴史動向
1148年 久安4年 ・1148年久安2年に、葛西清重かさいきよしげは、豊島氏として武蔵国の豊島に生まれる。
1172年 承安2年 ・1172年承安2年頃千葉重高ちばしげたかの嗣子となり、畠山重能はたけやましげよしの娘を妻とする。
1180年 治承4年 ・1180年治承4年、葛西清重は、33才の頃に、頼朝旗下に馳せ参じる。
1189年 文治5年 葛西清重が、「陸奥国御家人事」を奉行すべしと任じられ、平泉郡検非違使ひらいずみけびいしの長官にも任じられる。
源頼朝は平泉を離れ、鎌倉に向かい、清重は奥州惣奉行として、平泉に留まり、「奥州所務」の遂行として、奥州征伐後の戦災復興に尽力したという。
頼朝からも、所務遂行に当たって清重に三ヶ条の指示命令が出された。
・1189年文治5年9月14日に、源頼朝が平泉に来て、奥羽両国の省帳しょうちょう田文たぶみ(省帳(しょうちょう:公の土地台帳)、田文(たぶみ:田地の 面積や地籍を記した帳簿))等の重要書類を探す事を命じている。 しかし、平泉館の焼失により書類も焼失してしまったものと思われ難渋してしまい、古老より泰衡の家臣であった橘実俊、実昌兄弟が、土地台帳や田地の面積に関する帳簿に詳しいとの情報を得たので、その兄弟を呼び出し、尋問し「奥羽領国絵図」を作らせた。諸郡の実態をつぶさに調べた所、郷里ごうりの田畑・山野・河海の実態と僅かに3ヶ所の違いだけで、ほぼ一致したと言われている。それを基本に、秀衡領地を没収し、奥州征伐の論功行賞として、鎌倉の関東御家人に与えられた。論功功賞を得た御家人は、地頭や守護に任じられ各地に赴任したと伝えられている。また、このことで、この兄弟は、泰衡の旧家臣で奥州に住んでいたが、召抱えられることになった。
・1189年文治5年9月には、平泉藤沢一族滅ぼした後、9月19日には、岩手厨川を出て帰路についた。途中、奥州征伐に武勲のあった者に賞を与えている。
・9月21日には、伊沢鎮守府八幡の八幡宮に瑞籬みずがきを捧げている。
・9月22日には、平泉に帰着した。 平泉に数日間滞在し、「吉書始めきっしょはじめ」として、様々な指示命令を下している。
特に重要な指示命令は次に様なものである。
・葛西三郎清重を奥州54郡の奉行に任じた。
・今後、鎌倉に所用の為出向く者は、あらかじめ清重の指示を受けること等である。
さらに、5項目の指示命令を出している。
1. 現地の農科種子を確保すること。
2. 泰衡に協力していた佐竹太郎を捜すため、宿場を固めること。
3. 所在不明の泰衡の子息を探すこと。
4. その子息と若宮(頼朝嫡子頼家)が同名であったのを改名すること。
5. 師衡の乗馬を捜すこと。
などである。
・1189年文治5年9月20日、熊谷氏所領について、頼朝より武蔵国熊谷の住人、熊谷小次郎直家くまがいこじろうなおいえに、気仙沼地方の地頭として所領を賜った。熊太系譜くまたけいふによると、「本吉郡気仙沼荘七県及び数邑」と伝えられている。直家は1198年(建久9年)3月に、安芸国の奉行となり、豊田郡高山城に移居し、長男直国も父直家の後を嗣いで高山城主になったので、気仙沼地域には熊谷直家父子は来住しなかったようである。これは、奥州征伐によって鎌倉御家人に与えられた奥州の所領は、大方嫡子系以外の庶流に与えられた傾向があり、熊谷氏も同様で、1196年建久7年に生まれた、二男平三直宗に与えられたようである。
9月23日には、頼朝は、橘実俊たちばなさねとしの案内で、無量光院をはじめ、諸堂伽藍もろどうがらんを訪れた。
9月24日には、葛西三郎清重かさいさぶろうきよしげに、伊沢、磐井、牡鹿郡及び数ヶ所を与え、さらに、法や道理に合わぬ者を検察し、場合により糾弾、追捕、断罪などの訴訟を裁く、検非違使所けびいししょの管領にも任じた。
さらに、平泉より帰途するなか、多賀国府に立ち寄り「郡・郷・荘園所務の事」を定めて、陸奥国内の地頭等に布令をだし、国・郡などの経費を入用する為に、住民を苦しめることなきよう進めること、また、国費をあまり費やさないようにすることも布令した。多賀城国府には、特に、「張り文」を貼って「国中の諸事は秀衡、泰衡の先例に任せて沙汰すべきこと」を命じた。また、奥州征伐で、平泉藤原方で敵対しなかった者達の所領を没収しなかったとも伝えられている。
葛西三郎清重は、地頭職の次男でありながら、奥州征伐において抜群の功績を挙げ、42歳で重要な鎌倉御家人の統治を任され、平泉保内の検非違使所の最高責任者まで上り詰めた人物であった。
・10月24日には、頼朝は鎌倉に帰還したが、清重は平泉に残り、奥州征伐後の処理にあたった。
・1189年文治5年、清重は、42才の頃に、奥州征伐に参陣、総奉行、留守職を拝命し胆沢・磐井・牡鹿の三郡を拝領する。
清重が頼朝より奥州征伐の恩賞として伊沢・磐井・牡鹿の三郡を賜ったが、まだまだ強力な大名とは言えず、一郡領主でもなかったことでもあり、領内には鎌倉家人や荘園が混在している状況だった。従って鎌倉では目立つ程の大身ではなかったと思われる。
このことがかえって功を奏し、幕府内の血なまぐさい粛清などから免れることができた。しかも、清重は常に勝利者側に身を置き、一族の畠山重忠や本家筋の千葉家の悲劇を目の当たりしながら難を逃れたりしている。
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気仙郡には、鎌倉御家人の下向をみることなく、金為時の末裔が「気仙郡司」という律令制のそのままの職名で気仙郡を支配したと言われている。
気仙の金氏は、頼朝の平泉征伐(奥州征伐)の折、平泉藤原氏に味方し戦い、金秀時がその時戦死をしている。その子為俊は山中に身を隠し、翌年(1190年)の大河兼任おおかわかねとうの乱の時に、鎌倉幕府側に属して功績を挙げ、郡司の地位を回復させたと伝えられている。

1190年 建久元年 大河兼任の乱が羽州秋田で起こり、清重は鎮圧の役目もあり、戦局の詳細を頼朝に言上する為に鎌倉に入った。兼任の乱は多賀城国府の「新留守役・本留守役」二人が与力したことがわかり、鎌倉より責任追及され、二人は葛西清重の預かりとなり、鎧ニ百両の過料が課せられた。
源頼朝は、上洛し、右近衛大将に任命され、武家政権の首長に相応しい処遇を得た。さらに、主要御家人十人が、左右兵衛尉・左右衛門尉に任命された。
・1190年建久元年、大河兼任の乱が起こり、清重は、鎮定後に加増され、二郡 が加わり五郡となった。
さらに、4代清信が奥州下向の際、本家筋の千葉家や一族の畠山氏より持参した領地があり、栗原郡、登米郡、遠田郡が加わりに領地が拡大したと同時に、清信に同行家臣団も加わり、著しく領内強化が進んだ。従って、鎌倉時代の葛西領は、最初は三郡で、間もなく五郡となり、清信下向により七郡となったという説が有力であると言われている。
・1190年建久元年11月に、葛西清重は、右大将源頼朝に同行して、朝廷より右兵衛尉を任じられた。
1191年 建久2年 ・1191年建久2年正月に、千葉頼胤ちばよりたねの長男太郎良胤よしたねが東山長坂郷の唐梅館からうめかんに転任してから、長坂氏を称するになった。また、百岡ももおか(胆沢郡)には、二男の二郎胤広が転任して百岡氏と称する様になったと伝えられている。
1192年 建久3年 ・1192年建久3年に、兄の豊前介橘実俊たちばなさねとしが、内舎人うちとねり(召使)となり、同年8月5日の「政所始め」に着座が認められるまでとなり、幕府公事奉行人をつとめた。
弟実昌は、そのまま胆沢地方に残り、胆沢地方の開発に貢献努力したと伝えられている。
・1192年建久3年に、頼朝に陰口をしたということで、鎌倉老臣熊谷直実が出家させられた。これは、北条氏の陰謀と言われている。
1193年 建久4年 ・1193年建久4年5月に、曽我十郎裕成そがじゅうろうすけなり、五郎時政兄弟が、親の仇討ちとして、工藤左衛門尉裕任くどうさえもんのじょうすけとうを討った。これは、北条氏が、曽我兄弟をさとしして、頼朝の重臣暗殺を企てたものとい言われている。その後、曽我兄弟は、証拠隠滅罪の為処刑された。
1194年 建久5年 ・1194年建久5年4月に、葛西清重は自領の本拠を寺池(登米郡)に置き、代官を定住させ、自身は鎌倉将軍の側近にいて、ほとんど鎌倉に居たとされている。鎌倉の情勢は、幕府創業の功臣間の政争、北条氏の陰謀による有力一族の没落と滅亡、果てには将軍と源氏の抹殺など陰湿極まりない策謀の時代であった。
清重は、も妻の兄で、鎌倉武士の手本となる清廉な人格者の畠山重忠が殺され時、本家筋の千葉一族の難儀を見過ごす態度をとっていたようである。この様な情勢下で清重が粛清 の難から逃れられたのは、時流を見る目を兼ね備えた人物であったことや幕府の重鎮と言っても、北条氏から疎まれるほどの大領地をもっていなかったことなどや、清重自身の人柄が多くの人々や北条一族の頼朝夫人政子からも信頼されたことが挙げられる。
・1194年建久5年4月頃、清重47才の頃で、寺池を治府としたとき代官を置いた。一説では、代官は、清重次男の朝清ではないかと言われている。
1195年 建久6年 頼朝は、陸奥国平泉寺塔の修理を実施することを、葛西清重、伊澤家景の両人に命じている。
・9月29日には、「故秀衡入道後家」として保護をすることも、両人に命じられた。
1199年 正治元年 源頼朝が急逝。嫡子頼家が家督を継いで将軍職となった。この事態においても、葛西清重の立場は変っていない。
・1199年正治元年12月13日には、頼朝が落馬の原因で落命した。これも、北条氏の陰謀ではと言われている。
この様な事態に、老臣梶原景時かじわらかげときは、頼朝死後間もなく讒元ざんげんの罪で和田義盛わだよしもり等の御家人66名から弾劾され誅された。また、北条執権の陰謀を察知し逃亡を図ったが、北条氏によって「清見関きよみがせき」で討たれてしまったとも言われている。
1200 年 正治2年 勧農推進に荒野開発奨励をして、褒美に免税をしたりして勧農を進め、浮浪人の吸収を実施したが、裁判が頻繁に発生したため、源頼家の指示で地頭達の暴走を抑える様にした。

1203 年 建仁3年 ・1203年建仁3年に、北条時政と政子が鎌倉幕府2代将軍頼家の妻の父でもある比企 能員を滅ぼした。
比企能員ひきよしかずも頼朝の乳母うば比企の尼の養子として、頼朝の側近となり、権勢を奮ったが、梶原同様、頼朝死後に忌避きひ(ある人物や事柄を存在してほしくないとして避けること や、ある人物や事柄のようになりたくないと念ずる感情である。)され討伐された。
・1203年建仁3年6月には、北条時政が2代将軍頼家を伊豆修善寺に幽閉し、政所別当(執権)となつた。

1204 年 元久元年 ・1204年元久元年7月18日に、頼家は、伊豆修善寺で暗殺された。
三代将軍として源実朝みなものさねともとが就任した。
1205 年 元久2年 畠山重忠はたけやましげただが、北条義時ほうじょうよしときにうとまれ、父時政の内妻牧の方の平賀朝雅ひらがともまさと組んで、幕府転覆を図ったと濡れ衣を着せられ追討された。この時、追討に、親族であり盟友の葛西清重や安達景盛あだちかげもりが先陣の大将となった。
・1205年元久2年6月に、畠山重忠が由比が浜で、北条義時の先陣として、重忠の妹の夫葛西清重によって討ち取られてしまった。
1211 年 承久3年 ・1211年承久3年9月4日に、74才で没したとして「龍源寺過去帳りゅうげんじかこちょう」に記されているが、「東鑑」(吾妻鏡のこと)の1222年貞応元年5月24日の条に、清重の名がでてきたり、葛飾の西光寺創建の1225年嘉禄かろくにも名がでてくるので、恐らくは、出家して渋江に隠棲したことが死去したと記録された様に思われる。
「備州笠井系図」に記されている1237年嘉禎かてい3年12月5日に、81才で死去したとある。、これが正しと思われる。
1214 年 建保2年 ・1214年建保2年に、清重は、和田左衛門尉さえもんのじょう義盛の反乱いわれるで和田合戦で勲功を挙げ、執権北条義時より壱岐守いきのかみに任じられ、幕府直属に昇進した。
・1214年建保2年5月に、和田義盛も誅殺され、北条氏が権力基盤を確立する。
葛西清重は、時世の波を上手にわたり、義兄弟を殺しながら、一族安泰を堅守したが、我が家大事とはいえ、断腸の思いであったと思われる。

1215 年 建保2年 ・1215年建保2年に、執権北条時政ほうじょうときまさが急死し、尼将軍政子が実権を掌握した。
1216 年 建保4年 ・1216年建保4年4月24日に、北条方の大江広元おおえひろもとが陸奥守に任じられた。
これによって、奥州葛西・伊沢両氏の治政が変わることになり、葛西奉行・伊沢留守職が廃止されてしまい、鎌倉の直轄地となった。
1217 年 建保5年 ・1217年建保5年12月13日に、北条泰時が陸奥守も兼務するようになり奥州の大半を管轄することになった。


1219 年 承久元年 ・1219年承久元年12月23日に、源実朝が、鶴岡八幡宮で、北条氏に唆された甥の阿闍梨公暁あじゃりくぎょう(頼家の子)により殺された。翌日、北条政子及び主な御家人100人余りが出家した。(もちろん、葛西清重も出家し「壱岐入道いきにゅうどう」となった。)
これにより、鎌倉源氏が滅亡し、北条時政の子義時が執権についた。義時は、将軍になるものと思っていたが、周囲の状況から見てどうしても将軍になれず、自ら執権職に就かざるを得なかった。

1221 年 承久3年 ・1221年承久3年の頃になると、北条氏の陰謀や粛正を怨む幕臣も出てきて、幕府内部で動揺が生じるようになと、この状況を、朝廷・天皇・公家が知るところとになり、天皇・朝廷は幕府転覆を図る企てをし、後鳥羽上皇が討幕の兵を集め、北条義時「追討の宣旨ついとうのせんじ」を発する。
ところが、幕府の知ることとなり、坂東・奥州の諸氏に、次の様な書状を送られた。
「京都より 坂東を襲うべき由、その関之ある間、相模権守・武蔵守御勢い相具して打立つる所なり。式部亟しきぶじょうを以て北国に差し向け、此の趣、一家の人々に相触し向うべき者なり」と、機先を制された朝廷はこの企てに敗れてしまった。所謂、1221年の「承久の変じょうきゅうのへん」と言われものである。
後鳥羽法皇ごとばじょうこう、他三上皇は島流刑にされ、関係する武士等も斬罪に処せられた。承久の乱以後、西国に欠所地けっしょちができ、幕府関連の御家人が、守護・地頭に任じられ、全国に幕府関連の武士たち(前近代において財産没収刑又はその刑罰 により所有者がいなくなった所領のことである。)が領地を展開して繁栄していった。

1223 年 貞応2年 葛西清重は渋江に隠居して74歳で死去したとあるが、別伝では、1237年十二月五日に80歳で没したと伝わっている。
・1223年貞応2年8月に、熊谷直宗くまがいなおむね奥州主政おうしゅうしゅせい(郡司の三等官)となり「本吉郡食邑一千余町、於桃生郡二千余町之地」を賜り「本吉郡計仙麻(後改気仙沼)新城邑赤岩城に移り住んだと言われている。このことより、居城が新城邑赤岩城であることが判断できる。
しかしながら、「本吉郡食邑(知行所、領地)一千余町」は、気仙沼地区を指すものではなく、気仙沼に接する松崎邑から旧階上村きゅうはしかみむらを経て旧大谷村の平磯に至る七邑を指すものと思われる。七邑とは、松崎・岩月・長磯・波路上・岩尻・平磯の邑々である。この地域は、平泉藤原氏末期に本吉郡を宰領さいりょう(監督すること)した本吉冠者高衡もとよしかんじゃたかひらの老臣大谷太郎が大谷拠点に支配していた地域と言われている。
津谷邑以南は小泉庄などの荘園地域で、この地域の荘司であった馬籠邑信夫館の佐藤氏が所領を安堵されたところでもある。従って、本吉郡の全域が熊谷氏の所領であることにはならないことが明白である。
※本吉郡は、平泉藤原時代末期に桃生郡の中に、松崎を北限にしできたものと思われる。鎌倉時代に入ると、気仙沼地方は桃生郡の飛び地のようなところになってみたり、南北朝時代になると気仙沼地区も葛西領となり気仙郡のうちとされたようである。
しかしながら、気仙風土草(気仙郡相原友直記)には、長老の話として、気仙郡を30邑又は33邑といって、気仙沼地方を入れていた模様である。33邑には旧階上村地区も含まれていたように記されている。旧階上村地区は、気仙沼地区を本拠とする熊谷氏の所領でもあったので、気仙郡からみた場合に気仙郡内と見られていたものと推測される。
封内名跡志には、気仙沼地区が、本吉郡になったのは永禄年間(1556~1580年)であったと記されている。真さに、葛西氏が勢力拡大していた時期でもある。
(参考)
・1223年貞応2年8月には、熊谷直家の次男である直宗が、気仙沼赤岩に「赤岩館あかいわかん」を構え定住したところから、気仙沼熊谷氏の始まりとも伝えられている。
その後、馬籠まごめ千葉行胤ちばゆきたねの叔母(千葉広忠の娘)が熊谷直方に嫁いだところから姻戚関係となったことも伝えられている。
1225 年 嘉禄元年 ・1225年嘉禄元年3月に、葛西清重の四男時重ときしげが、鎌倉将軍頼経卿よりつねきょう近侍きんじ(主君のそば近くに仕えること。また、その 人。近習きんじゅ。)し、三千余町の奥州磐井郡黒沢邑を給う。よって、この地を字名と称した。黒沢氏の旗印は七曜星しちょうせいを赤地に貼り、下は黒石をもって畳石状になっている。墓は三葉柏と白地を貼ったものである。
1230 年 寛喜2年 ・1230年寛喜2年8月に、千葉飛騨守頼胤ちばひだのかみよりたねが、鎌倉将軍頼経に仕え奥州探題として下向、始め箱崎に住んだという。しかし、鎌倉時代には、奥州探題の役職はなく、頼胤は、九州に下向したとも言われ、この記述は不明な点が多く不確かである。
1239 年 嘉禎4年 ・1239年嘉禎4年に、陸奥国の人民に対して、布の代わりに銭貨を以て貢納することを禁止した。白河関より北での銭貨の停止する奇妙な命令を発した。(白河以北の人民への蔑視と搾取する政策であることがわかる。)
1247 年 宝治元年 ・1247年宝治元年6月に、黒沢時重くろさわときしげの子六位下式部少輔繁村ろくいしぶしょうゆしげむらは、三浦若狭守みうらわかさのかみ謀反の時に、北条相模守時頼ほうじょうさがみにかみときよりに従軍し先陣をとり戦功をあげた。
1252 年 建長4年 ・1252年建長4年8月に、千葉弥四郎堅胤ちばしろうかたたねが奥州栗原郡に三千余町を賜り、奥州の押さえとして下向、磐井郡の薄衣庄うすきぬしょうに居住し、1253年建長5年3月に城を構えた。(薄衣氏うすきぬし
1256 年 建長6年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、10月頃、伊達義広は、従五位下、蔵人大夫に任じられたが、72歳で没した。義広の第二子の政依が第四代となる。
仏教を信じ、東昌、光明、満勝、観音、光福寺の五山を創った。光福は生母の院号である。光福夫人の出自は明らかでない。
1264 年 文永元年 ・1264年文永元年に、千葉氏の一族星五郎左衛門尉春胤さえもんのじょうはるたねが、葛西信茂かさいのぶしげに仕え、代官として磐井郡徳田郷に七十貫文の地を給されたと言われている。(東山星氏)
この時代の葛西家督は、葛西清親かさいきよちかである。
1266 年 文永3年 元のフビライが、日本に朝貢を促す使者を送ってきたが、時の執権北条時宗ほうじょうときむねは朝廷の意向を受けず、一方的に握りつぶした。その後、度々元より使者が送られてきている。
・1266年文永3年7月以降に、奈良坂葛西氏は、来住したと言われている。葛西清重の子朝清あさきよの子朝重あさしげが来住して奈良坂氏と称したと言われている。
朝重は、鎌倉将軍惟康親王これやすしんのう(京都鎌倉幕府7代将軍 (在職 1266~89))に仕え、従六位下中務少輔じゅうろくいげなかつかさしょうゆに任じられ、陸奥国に領地三千余町を給われたと言われている。
1274 年 文永11年 文永の役、元が10月に9百隻の船と3万数千の兵士を乗せ、九州に侵攻、10月20日には、博多湾に上陸したが、一夜にして台風により船団が壊滅的打撃を受け、元軍が総退却をした
1276年 建治2年 ・1276年建治2年8月頃に、葛西領地掌握の為に葛西太守清信かさいたいしゅきよのぶが、奥州下向して居住したと言われている。
太守清信の下向にあたり、千葉介からも所領の分与があり、さらに、千葉介の名将千葉飛騨守平胤常ちばひだのかみたいらのたねつね亀卦川左馬助平胤氏きけがわさまのすけたいらのたねうじ臼井三郎右衛門平常俊うすいさぶろううえもんつねとしの三武将を後見人として同行させた。また、さらに、守護の為、数百騎を率いて下向した言われている。
期日はずれるが、
・1276年建治2年10月、家督を嗣いだ清信は、奥州に下向した際、に千葉・畠山の両家から葛西領に接続する栗原・登米・遠田の三郡の領地を与えられ、家臣数百騎に守られて下向したと言われている。
しかし、与えられた3郡といえども、郡内に点在する所領なので、実質領地としてはさほどのものではなかったようである。同行家臣数百騎の数などは言い伝えられたもので、誇張されたもと考えられる。
この頃、千葉・畠山の一族が、奥州に所領する土地を清信下向に与えたのは、奥州での一族の強化を図る狙いがあったと思われる。これにより、飛び地であった牡鹿方面と磐井方面が、点であった寺池を包含できる所領一体化となったことは言うまでもない。只し、登米・遠田両郡には千葉氏の所領が多く、栗原郡には畠山氏の所領が多かったことも忘れたはならない。
1277年 建治2年 奥州中尊寺と葛西氏との領地争いが起き、建治~弘安~正応にかけて継続していくことになる。この頃、伯奢新右衛門経連ほうきしんうえもんきょうれん葛西清時かさいきよとき)と白山別当との寺社領争いが起こったと言われている。
1281 年 弘安3年 元軍が再侵攻、元の洪茶丘こうちゃきゅうが大将とする高麗軍4万人と9百隻の舟、範文虎はんぶんこを大将とする江南軍(宗国)10万人と3千5百隻の舟で侵攻、6月6日合戦開始、7月3日には元軍大挙上陸し優勢に進軍したが、7月30日晩にまたもや大風が襲来し、舟の多くは大破し、海の藻屑もくずに消え、元軍はまたもや敗退する結果となった。
1285 年 弘安8年 北条貞時ほうじょさだときが4歳で執権に就き、後見役に安達泰盛が就任した。安達氏が権勢を手中に治めていくことを羨望として、また、元寇の恩賞として欠所地探として(外国元との戦いの為、恩賞とす領地が発生しなかった。)、時の執権の乳母の夫管領平頼網たいらのよりつなが先手を打って、安達一族を排し誅したと言われている。(安達家は代々秋田介城の家柄で、羽州における権勢は大きかった。)
この乱においても、討伐軍が編成され、葛西氏も三代太守清時が、泰盛の弟秋田城介長景あきたじょうすけながかげを討ったと言われている。
・1285年弘安8年11月に、黒沢式部少輔繁村くろさわしきぶしょうゆの子従五位下播磨守重弘じゅうごいげはりまのかみしげひろが、秋田城介安達泰盛が反乱を起こした時、北条最円寺貞通ほうじょうさいえんじさだみちに従軍し、先陣を切り戦功をあげた。
1288 年 正応元年 葛西中尊寺争いの裁断が下ったものがある。7月9日付けで、葛西三郎左衛門尉宗清かさいさぶろうさえもんのじょうむねきよ伊豆太郎左衛門尉時員いずたろうさえもんのじょうときかず彦三郎親時ひこさぶろうちかときに対する関東裁許状がある。中尊寺葛西の争論の証となるもので、代々中尊寺に関わってきていることが分かる。
・1288年正応元年7月9日に、相模守平朝臣さがみのかみあそん前武蔵守平朝臣ぜんむさしのかみあそん連名の下知状がある。内容は、葛西宗清、公事課役くじかやくを背いていという内容である。
1289 年 正応2年 ・1289年正応2年に、馬籠千葉氏が鎌倉幕府直属の地頭として本吉郡馬籠村もとよしぐんまごめむらに下向して、馬籠氏まごめしと称した。
1293 年 永仁元年 ・1293年永仁元年2月に、黒沢式部少輔繁村の子従五位下播磨守重弘が、鎌倉奉行となった。重弘の子従五位下兵庫介重尚じゅうごいげひょうごのすけしげなおをはじめ、元応元年頃(1319~1320年)より鎌倉に居住した。
1300 年 正安2年 ・1300年正安2年前後に、葛西清信は、北条相模守貞時の引付人評定衆となり、鎌倉に上り近仕きんしとして仕えた。
1301 年 正安3年 北条貞時が執権を師時に譲り出家して崇暁と名乗ったが、権力は貞時の手中にあった。
1305 年 嘉元3年 ・1305年嘉元3年3月に、大衆だいしゅう訴状(鎌倉期では僧兵では)があり、葛西宗清が仏神事の用途未達との訴えである。
岩淵讃岐守清経いわぶちさぬきのかみきよつねは、将軍式部卿久明親王ひさあきしんのうの近習になり、1301年正安3年4月に采地三千余町を賜った。
・1305年嘉元3年4月に、北条駿河守宗方ほうじょうするがのかみむねかたが謀反を起こし、清信は幕府側として活躍したが、叔父清経が宗方側に付き敗北、清経は失脚し、清信に預けられた。
これによって、幕府と朝廷との間は、六波羅探題が朝廷の動きを厳しく監視するようになった。
参考
・1305年嘉元3年に、藤沢岩淵氏は、下総国猿島郡岩渕郷の住人、岩淵近江守清経いわぶちおおみのかみきよつねが、鎌倉の北条宗方事件に連座して領地を没収された為、奥州葛西家を頼った。岩淵清経は、葛西清親(文永7年56才)の第4子でもあったことから生家を頼ったことになる。
・1305年嘉元3年9月には、藤沢城にいたと言われている。1306年徳治元年3月12日卆、58才であった。

1309年 延慶2年 ・1309年延慶2年春に、清水葛西氏は、本吉郡大谷郷より葛西和泉守清秀かさいいずみのかみきよひでが磐井郡流れ庄清水郷に転住してからその子孫が清水氏を称した。
1317年 正和5年/文保元年 葛西氏大きな動きなし。
伊達宗綱が54歳で没したが、明確ではない、信夫郡沢又村(福島市沢又)の全福寺に葬むられていると伝えられる。第六代には、宗綱の子である基宗が継ぐことになる。六代の関連は不明となれている。 基宗の子が第七代の伊達行宗である。母は泰昌夫人で出自は不明である。初名は、行朝又は朝村とも伝えられている。
1321年 元応2年/元享2年 後宇多川法皇ごうたがわほうおうが院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まった。
1324年 正中元年 「正中の変」が起こり、幕府討伐の計画が洩れ、多治見・土岐氏が殺され、天皇の関わりが無いことが弁明され、 主謀者として、幕府は日野資朝ひのすけともを佐渡に流す結果に終わった。
・1324年正中元年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近の日野資朝らを佐渡に流す処分する「正中の変」が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もされなかったが、多治見・土岐氏が殺された。
天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習として近づけた。
・1324年正中元年に、黒沢式部少輔繁村の子従五位下播磨守重弘は、病を告げて奥州に帰る。
1327年 嘉暦2年 ・1327年嘉暦2年3月に、大衆訴状があり、寺役以下堂社破壊について注文があった。
これらの文章から、葛西領内の地頭が、寺領の濫妨をし、公事課役(鎌倉幕府が御家人に負担させた課役で、いわゆる御家人役のうち、軍役以外の経済的奉仕義務をさす。)を怠り、仏神の用途を果たさないので、供養、祭祀さいしに事欠く様子を幕府に訴えていることや、1327年嘉暦2年には、堂社の破壊が甚だしいので、修理を幕府に訴えている訴状である。
1329年 嘉暦3年 ・1329年嘉暦3年には、後醍醐天皇は、中宮のお産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近したとも言われている。
1331 年 元弘元年 ・1331年元弘元年には、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕として「元弘の乱」が起る。朝廷側の楠木正成が千早城や赤坂城に立籠り、幕府軍と戦って勝利したことが、各地に伝えられ南北朝動乱が始まった。地方でも争乱が続き、各領主が築城の必要に迫られ盛んに山城が築かれ言われている。
この様な状況を、二度遠征した葛西氏が、奥州~畿内を見聞したことから、築城の必要性を感じたとも言われている。
・1331年元弘元年に、葛西家臣小野寺掃部介胤正おのでらかもんのすけたねまさは、北畠中納言顕家きたばたけちゅうなごんあきいえに従い、伊達霊山合戦で軍功をの挙げたと言われている。
その恩賞として、小野寺掃部介胤正は、中里・三関ほか千七百貫の領地を賜った。
1332 年 正慶元年 ・1332年正慶元年5月に、北条相模守高時入道ほうじょうさがみのかみたかときにゅうどう 崇鑑そうかん(法名)誅に伏する後に(鎌倉幕府滅亡)、葛西因幡守高清かさいいなばのかみたかきよに属する。と言うような内容が記されている。
このころから見ると、1189年文治5年より36年後に時重が黒沢邑に三千余町を拝領したが、奥州下向したのは、1324年正中元年の重尚の時である。
1333年 正慶2年 ・1333年正慶2年5月に鎌倉幕府が滅亡した為奥州に戻り、建武年間に葛西陸奥権守高清かさいむつのごんしゅたかきよの臣下になり軍忠に励んだと言われている。
・1333年正慶2年になると、後醍醐天皇は、流された隠岐島を脱して京都に入った。
・1333年正慶2年/元弘3年に、後醍醐天皇の討幕軍に加わり、京都に進撃したはずの足利高氏が、逆に幕府監視役の六波羅探題を攻めた。また、新田義貞が鎌倉幕府に進撃し、北条高時を破り、北条高時と一族は滅び、鎌倉幕府は、おおよそ150年の終焉となった。
これにより、足利高氏の戦功が大きく、後醍醐天皇より偏諱へんき(将軍や大名が、功績のあった臣 や元服する者に自分の名の一字を与える。) を賜り、足利尊氏と称した。
・1333年正慶2年5月には、北条氏の擁立した光源天皇を廃位することになった。
このれにより、後醍醐天皇の新政が誕生、「建武新政」となった。しかしながら、武士団の多くは公家政治を嫌がり、武家政治の継続を待望するようになり、源氏の血を引く足利尊氏を武家政治の統領として迎い入れることになった。ここより、武家対公家の対立の始まり、長年継続することになる。
・1333年正慶2年10月には、後醍醐天皇の新政に伴う前に、北畠親房の子顕家を16歳で従三位の陸奥守に任じた。
・1333年正慶2年11月29日には、北畠顕家が、多賀城国府に入城した。また、父親房は、後醍醐天皇の皇子6歳の義良のりよし親王(後の後村上天皇)を擁護し国府に入った。
これを受けて、鎌倉幕府の崩落に伴い東国地頭は、所領安堵を求め、多賀城国府に押し寄せた。その結果、所領安堵を賜ったと言われている。
顕家が、多賀城国府に滞在中は、長坂千葉氏一族が出仕し、警護にあたったと記されている。また、平泉警護を携わった千田信親の「千田氏系譜」に記され残されている。 「元弘三年、奥州太守鎮守府将軍源顕家公仕。長坂大膳大夫以下一族皆随身して岩井郡中尊寺出張云云」とある。
1334年 建武元年 足利尊氏は、奥州への対抗措置として、弟の直義を相模守に要請し、成良なりよし親王を奉じて鎌倉に下向させ、関東十ヶ国を管轄させた。後醍後天皇は、律令制度復活を目指し、奥州も義良親王のりよしを多賀城国府に下向させたつもりが、顕家の後見役の親房が、藤原平泉王国を夢見みたか、奥州の地に鎌倉幕府の様に、引付・政所・侍所・式評定衆・寺社奉行・安堵奉行を設け、小型幕府を奥州で作りあげてしまった。
顕家は、陸奥の領主を多賀城国府に召集し、土地領知権が鎌倉幕府と朝廷の二本立てであったものを、朝廷一本化にする土地給与権の統一することを指示した。陸奥国領主は、自らの領地安堵を守る為に、この指示に従があったが、各地で建武新政に対する不満が高まり、一層深刻な事態に発展していった。
1335年 建武2年 足利尊氏が鎌倉に将軍邸を構え、天皇に帰京を促されても応じず鎌倉に滞在した。また、尊氏が新田義貞を討つ為に諸国の武士を集めている噂を、後醍醐天皇が知り、逆に、11月19日に、新田義貞に足利尊氏追討を命じた。さらには、奥州北畠顕家にも尊氏を背後から攻めさせる為に、奥州軍編成をさせ追討を命じた。
この頃、足利方の斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払った。
・1335年建武2年2月7日には、北条時行ほうじょうときゆき(高時の遺児)が挙兵し鎌倉を占領したが、これを討伐する為に足利尊氏が東国に下向、北条時行を敗退させた。これを機に、尊氏は、公然と朝廷に叛旗を翻した為、朝廷は、これを新田義貞に追討の命を発したが、1335年12月に、尊氏が箱根・竹の下の戦いで新田軍を破り、京都を目指し西上するになった。
・1335年建武2年8月には、足利尊氏は、私任として足利一族である斯波家長しばいえながを陸奥守に任じて、奥州斯波郡高水寺こうすいじに下向させた。奥州には既に、朝廷より陸奥守北畠顕家が任じられていたので、二人の管領職が存在することになった。これは、尊氏が多賀城国府の北畠顕家を牽制し、奥州勢の攪乱を図る目論見であったので、奥州諸将も、二人管領に翻弄されることになった。
・1335年建武2年10月に、足利尊氏が宮方を離反した後、千葉氏・熊谷氏が共に足利方に味方した為、南朝方の北畠顕家に味方する葛西氏と対立するようになった。
・1335年建武2年12月15日には、足利尊氏は、不満を抱く同調する武将と共に京都を目指した。
・1335年建武2年12月22日付けの勅令において、奥州北畠顕家きたばたけあきいえは、足利尊氏の叛旗を翻したことを知った。顕家は、奥州討伐軍を編成し、奥州の相馬胤平たねひらそうま(相馬)、結城宗広ゆうきむねひろ父子(白河)、伊達行朝だてゆきとも(信夫郡)、葛西宗清かさいむねきよ(日和山)、南部信政なんぶのぶまさ糠部ぬかべ)、和賀氏等諸氏総勢5万余騎を率いて西上した。途中、足利方の佐竹貞義、斯波家長と戦火を交えて、これを打ち破り西上を続けた。
・1335年建武2年冬頃から葛西氏は、南朝に味方するようになって、1343年興国4年までの約10年間南朝方に尽力を尽くすことになったが、1343年興国4年の北畠顕信将軍が北朝方に敗れて、滴石(岩手県雫石)に退いたころから、葛西氏の北朝に転じたことが起きている。
・1335年建武2年に、葛西信元(千厩)は、北畠顕家に従い、摂津阿倍野の戦いで討死した。千厩折戸館主小野寺氏一族である。
・1335年建武2年頃は、本吉・気仙両郡はまだ葛西領でなかった。

1336 年 建武3年 後醍醐天皇は京に戻り、顕家軍をねぎらい、鎮守府将軍と中納言に任じ論功を称えた。
この頃、関東・奥州では、宮方と足利方、北条方が入り乱れて、局地的な合戦が始まっており、1335年(建武2年)に、斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払ったり、1336年(延元元年)3月には、斯波兼頼が、氏家・相馬氏と共に、東海道の小高城(福島県相馬郡小高町)を制したりしていた。
「熊谷系譜」によると、葛西高清が馬篭氏を遠野城(宮城県本吉郡本吉町馬篭)を囲み、城主因幡守千葉行胤が五百騎をもって迎撃、赤岩城(宮城県気仙沼市松川)の熊谷直時の千五百騎の支援をもらい抵抗したが、葛西高清に屈した。さらに、赤岩城まで攻撃され攻略されてしまった。高清は馬篭に佐藤氏(信夫館)を置いて、「兵を領して、登米に帰る」と記されている。
足利尊氏が擁立した豊仁を、光源上皇こうげんてんのうの院宣いんぜんにより、三種の神器の無い状態で、光明天皇こうめいてんのうとして即位させた。しかし、後醍醐天皇は、12月21日京都をのがれ吉野に移り、天皇復帰を宣言した。所謂、南北朝の時代の始まり、前代未聞の「一天両帝」の時代となる。これ以後、光明天皇方を北朝、後醍醐天皇方を南朝といわれている。南北朝の時代の争いは、必ずしも朝廷内の争いだけでなく、北条打倒した足利氏の指導権争いでもあった。この南北朝時代の中、激しい合戦が続き、護良親王もりよししんのう楠正義たちばなまさよし新田義貞にったよしさだ北畠顕家きたばたけあきいえ高師直こうもろなお足利直義あしかがただよしなどが討ち死にしている。
足利尊氏は「建武式目」17条を定め、足利尊氏が軍事、足利直義が政治を司ることを決めた、二頭制を打ち出して室町幕府を造った。奥州においては、顕家軍が西上している間、留守役を務めたのが南部師行なんぶもろゆきであった。しかしながら、多賀城国府近辺では足利方の武士達の動きが活発となっており、さらには、常陸国瓜連城ひたちのくにうりずらじょうが落ち、顕家が帰着しても容易ならざる状況に至っていた。
・1336年建武3年/延元元年正月13日には、北畠顕家は、尊氏を追って比叡山(京都府)に陣取り、後醍醐天皇と共に尊氏に対抗した。
・1336年建武3年正月三十日には、足利勢は敗れ、尊氏は九州に敗走した。
この戦闘で奥州勢の葛西江判官三郎左衛門が、正月28日京都神楽岡で新田義貞の身替わりとなって戦死した(「梅松論」)。
葛西江とは「葛西」が奥州なまりで「カサエ」と聞こえたのであろう。又渋江(葛西庄内)の判官の意ともいう。
葛西江判官左衛門かさいえはんがんさえもんとは、1288年正応元年7月9日の中尊寺文書には葛西三郎左衛門宗清かさいさぶろうさえもんむねきよのこととされている。宗清は嫡子清貞と共に、奥州勢中最大の兵力を率いて従軍したと言われている。
葛西軍の中には、奥州葛西領に居住していた関東葛西氏の惣領高清も手勢を率いて従軍していたという。
中舘系譜によると、
・1336年正月27日京都七条河原において、高清の弟葛西孫八郎信□(21歳)も戦死している。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、馬籠千葉氏三代目周防守刑部行胤まごめちばしさんだいめすおうのかみぎょうぶゆきたねが、葛西高清に襲われ討死した。
・1336年建武3年春に、顕家は、尊氏の足利軍勢を圓城寺、加茂河原、神保岡、糺河原ただすかわらで打ち破り、尊氏を西国九州に敗走させた。京都周辺のた戦いが継続しているなかで、奥州において、斯波家長は、顕家等の不在中に、足利方の結束を強化図るとともに、多賀城国府周辺や奥州各地に侵攻していた。
この間、奥州の状況を知り得た朝廷は、顕家を、急遽、奥州に帰還させ鎮圧させることにした。
足利方の多賀城近辺の勢力が強く、福島の霊山に帰らざるを得なかったようである。
・1336年延元元年(建武3年)4月には、尊氏は、体制を整え京都を目指した。
・1336年建武3年4月になると、葛西高清は、本吉郡の馬籠に進出し、地頭の千葉 周防守行胤を威嚇牽制し降伏を強要して寺池に引き返した。
この事を物語る様に「熊太説」に次の様に記されている。 「奥州探題葛西高清が手勢を率いて本吉郡の馬籠に現れ、地頭千葉周防守行胤の居館を襲い、降伏を強要した。行胤は、これに屈せず応戦したので、高清は、後日大軍で来襲すると威嚇して登米寺池に引き揚げた。行胤は、すぐに気仙沼赤岩城(新城邑)の熊谷佐渡守直時に状況報告するとともに、高清が後日大軍で来襲することは確実として熊谷氏の救援を求めた」とある。
何故に、馬籠千葉氏が気仙沼の熊谷直時を頼ったかであるが、熊谷直時の母は、馬籠千葉氏の娘で 行胤の伯母にあたり、両家は姻戚関係であったからである。直時は、事態の深刻さを受けとめ、万一千葉氏が敗退すれば、次に赤岩城が襲われると判断、一門の総力を挙げて救援する決意をした。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、馬籠千葉氏が葛西高清に攻められたが、千葉氏は頑強に抵抗したが、葛西高清の数千の大軍と千葉行胤手勢五百兵では支えきれないと判断し、気仙沼赤岩館の熊谷氏へ救援を求めた。
救援依頼に対して、熊谷直時は、一族を総動員して約六百の軍勢を率いて馬籠城に駆けつけた。しかしながら、葛西の大軍には及ばず、結局のところ、千葉・熊谷氏は大敗し、千葉行胤も熊谷直時も討死してしまった。
この時、気仙郡矢作の千葉胤重(矢作氏)は、本家筋の馬籠千葉氏に加勢せず、葛西方に味方して軍功を挙げたと伝えられている。これが、馬籠合戦まごめがっせんと言われている。
葛西高清は、本吉馬籠を打ち破り滅ぼしたあと、鋒先を向けたのが、気仙郡の金俊清こんとしきよであった。俊清は、先に郡司職を務めらていた金為俊こんためとしの6代目金孫四郎俊長こんまごしろうとしながの長男、金弥四郎兵庫俊清こんやしろうひょうごとしきよと名乗っていたが、高清に攻め込まれ降伏をした。その後、葛西氏の麾下きか(ある人の指揮下にあること。)となり旧領を安堵されたが、子孫には郡司職の肩書はなくなった。
「馬籠合戦」に関して
・1336年建武3年4月21日に、葛西高清が大軍を率いて馬籠に攻め込んだ。高清軍は、高清手勢ばかりでなく、臣下の諸勢も各地から参陣した模様である。一方、馬籠千葉勢は、遠野城千葉周防守刑部行胤嫡子新左衛門胤宣たねのぶ・次男の帯刀行重たてわきゆきしげ・三男の小五郎広沢こごろうひろさわ・行胤の弟掃部丞胤久かもんのじょうたねひさ・同じく弟三郎右衛門尉行範さぶろううえものじょうゆきのり・宗族従兵騎歩僅かに五百の輩と記されている。援軍の熊谷勢は、直時の嫡子弾正忠直明だんじょうちゅうなおあきに赤岩城を守らせ、親族八人の総力を挙げ馳せ参じている。総大将は、赤岩城主熊谷佐渡守直時・直時の弟桃生郡寺崎邑主四郎左衛門尉直能(手勢百余人)・同じく嫡子小平次直常・同じく次男九郎直朝、さらに、直時の弟気仙沼庄掃部助直嗣(手勢百余人)・同じく気仙沼庄六郎左衛門尉顕直(手勢百余人)・同じく弟洲崎の洲崎館主七郎左衛門尉直久(手勢百余人)・親族八人・宗族従卒騎兵総勢六百余りと言われている。
これらの馬籠勢は、遠野館に立籠り高清軍と対峙した。伝えられていることとして「馬籠塞に立籠る」とあり、「馬籠塞」は遠野館のことである。遠野館の城館跡から見ると、周囲が険しい断崖に囲まれ、二重の空濠や土塁があり、典型的な戦国時代の城構えと推察される。
馬籠合戦には、天然の要害に馬籠勢は立籠、土塁を背後に陣を構え、葛西軍は馬籠塞を囲むように配陣し、攻撃を続け伝えられている。
この馬籠塞は、現在、馬籠小学校のある午王野沢の台地が、昔から陣平じんだいらとも言われ、昔の遠野館跡が見通せる場所であり、葛西軍が本陣を置いたのではないかと思われている。
また、寺要害や下要害と呼ばれる字名は、馬籠合戦によって生まれた地名でもある。大正時代にこの地の畑から朽ち果てた刀剣出土したりしている。
馬籠合戦は、馬籠勢にとって多勢に無勢で次々と壊滅、最後は、城中にあって勇猛果敢の行胤の長男胤宣と直時の末弟直久が生き残り、残った兵たちと城を固守して敵勢を寄せつけなかったと言われている。葛西高清のねらいは、千葉氏を壊滅させることではなく、降伏をさせることが目的であったと思われる。それは、高清が遠野城の附近に監視勢(佐藤氏等)を配陣させて馬籠を去り本拠の登米寺池へ引き揚げたからである。
さらに、葛西軍が引き揚げたすきを見て、熊谷直久も残兵をまとめ気仙沼の地に引き揚げた。馬籠合戦で葛西氏に参陣した武将は、気仙郡矢作に住む千葉重胤、藤沢の岩渕氏、同族の涌津の岩渕氏、信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継等である。気仙郡矢作の千葉重胤は、葛西高清に威嚇され降伏し参陣を余儀なくされ臣下となって功を挙げ高清より本領安堵をされた。涌津岩渕氏は、孫六郎直経が高清に従い参陣して、軍功を挙げて磐井・胆沢・本吉・気仙・登米の五郡内に采地五百余町を賜った。信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継も高清の臣下となり参陣し、戦功を挙げて「信夫邑の馬籠塁(馬籠邑信夫館)」に居住を許された。
足利尊氏動向として
・1336年延元元年(建武3年)5月25日に、尊氏は、摂津兵庫・湊川において、湊川の戦いで楠木正成くすのきまさしげを打ち破った。
・1336年建武3年6月14日には、足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、京都を確保すると光厳上皇を奉じて入京する。
・1336年建武3年7月に、山田氏の先祖菅原長顕は、奥州に下向し、国司北畠顕家に属して伊達郡石田郷に住まいした。
・1336年延元元年(建武3年)8月には、光明天皇を擁立したが、三種の神器は欠いたままであった。
・1336年建武3年8月7日に、高清が足利尊氏より「奥陸探題職」を任命されたと言う記録が残されている。このことにより、葛西一族ないで、高清を取り巻く寺池派が北朝方に傾く一方、清貞を取り巻く石巻派が競い合うようになった。この現れとして、登米町はもとより仙北地方のほとんどの板碑には、北朝の年号が多いとされている。葛西氏南朝忠節の期間は短く、第一次遠征後は挙党体制が崩れていった。
・1336年建武3月10日義良親王は陸奥太守に、北畠顕家は陸奥大介に任命され、4月京都を去り、5月末多賀国府に戻った。しかし、葛西高清は一足先に帰国し、3月には既に登米にいたようである。奥州情勢が緊迫化した理由から早急に帰国したと思われる。しかしながら、帰国後の高清の動きは、多賀城の警備した気配もないところか、逆に顕家や葛西勢の留守を狙ったと思われる行動にでた。
・1336年延元元年(建武3年)11月には、講和が成立し、後醍醐天皇は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇即位となる。この間、足利尊氏は、武士政権構築に力を注いだ。
・1336年延元元年(建武3年)末には、建武式目17状を制定させ、武士政権を確立させた。しかし、後醍醐天皇方は、光明天皇に渡した神器は贋物がんぶつであると宣言して、京都比叡山を逃れ吉野に遷幸した。
・1336年延元元年(建武3年)12月21日に、後醍醐天皇は、南朝を樹立させた。これにより、南北朝時代の始まりとなる。
・1336年建武3年(延元元年)に、尊氏は光明院を擁立したことにより、南北二つの朝廷が並立する。1392年明徳3年に南北合一するまで56年間続いた。
・1336年建武3年に、後醍醐天皇は吉野に遷幸したので、足利尊氏は、京都に光明天皇を擁立して吉野と対抗する様になった。これが、南朝と北朝が成立するとともに「南北朝時代」の始まりとなる。この南北朝対立が、全国に波及し、各地で南朝・北朝のいずれかに属し、各地で対立を始めたが、しだいに北朝方(足利方)が勢力を伸ばす傾向になった。
・1336年建武3年(延元元年)に、奥州葛西系図によると、奥州葛西五代宗清、六代清貞父子は南朝方に参じ、北畠顕家を助けて京都神楽岡で戦った。
「梅松論」には、この戦いにより「葛西江判官三郎左衛門」が戦死したと記されている。この江判官は、葛西宗清と思われる。この戦いで勝利を収めた南朝軍(北畠軍)は、追撃もすることもなく、急ぎ奥州に引き上げている。(足利軍は西国に落ちると同時に)これは、1335年建武2年12月22日に多賀城を出発して、建武3年(延元元年)に早く帰着しているからである。これは何故かと見ると、奥州においては、足利方が急速に勢力を増してきたからであり、葛西一族の中にも足利方に傾く気配や本流寺池の動きも気になることから早期帰着に至ったと思われる。 足利軍が急速に盛り返し、楠木正成、新田義貞軍を兵庫で撃破し、京都に入った為、後醍醐天皇は吉野に遷幸し、北畠顕家に救護要請を勅令した。これを受け北畠顕家は、奥州の厳しい情勢の中第二次遠征軍を編成して進発した。この時、葛西軍は1500騎参陣したと伝えられている。
・1336年建武3年延元元年に、小野寺通治おのでらみちはるは、北畠顕家に従い、軍功を揚げて、奥州磐井郡に采地千四百余町を賜り、出羽稲庭城より流の庄日形邑小野山城に移った。その後、越前金崎にて足利方の足利尾張守高経あしかがおわりのかみたかつねとの戦いで討死した。小野寺信道おのでらのぶみちは、建武3年に父と顕家に従い、江州三井寺合戦で抜群の軍功を揚げ、磐井郡に采地ニ千八百余町を賜った。日形邑小野山城を築き住まいした。しかし、これは前日の小野寺通治と同時期であるので信憑性が薄い。

1337年 建武4年/延元2年 陸奥国府を急遽伊達郡の霊山(福島県霊山町)に移さざるを得なかった。霊山と言えども、東方には相馬氏をはじめ海道筋の武家方が機を狙っている所でもあった。
足利幕府が石塔義房いしどうよしふさを奥州の総大将に任じ派遣した石塔氏は。海道筋平の伊賀盛光いがもりみつ、中村の相馬氏、亘理の武石胤顕たけいしたねあき、宮城の留守家任るすいえとうを従えて多賀城に入城した。石塔氏は、奥州の行政機能を整える為に奉行衆を整えた。
顕家は霊山に立て篭もり防戦をしていたが、3月5日に小山・宇都宮方面へ遠征し、下条・下河原近郊で戦ったといった伝えがあり、霊山から城外に出て討伐戦を行っていたと思われる。
帝の再上洛の依頼を受けた顕家は、再度、西上するに至ったが、四面楚歌状態での苦慮して奥州軍を召集し、第二次遠征軍を編成した。この時、葛西対馬守武治かさいつしまのかみたけはる(貞清と思われる)が1500騎の軍勢で参加したと伝えられている。西上は、並大抵ではなかった。白河近辺では頑強な抵抗を受け突破し、12月8日にやっと小山城に着いた。さらには、12月14日までに、防戦する斯波家長を倒して鎌倉に入った。
・1337年延元2年正月には、後醍醐天皇は、北畠顕家、結城宗広に上洛の勅命を発した。しかしながら、奥州において、北朝の勢力が増え、北畠顕家は、多賀城国府を支えることができず苦戦していた。
・1337延元2年正月、多賀城の北畠顕家は義良親王を奉じて伊達霊山だてりょうざんに国府を移した。南朝方は、次第に衰退してゆき、多賀城も足利方に属するようになった。
・1337年延元2年4月~7月頃まで、顕家は、奥州の南朝方苦戦のなかで、上洛軍の召集を行なった。
・1337年延元2年5月に、顕家に従った清水弾正重長が、多賀城の合戦で討死している。
・1337年延元2年8月11日に、北畠顕家は義良親王を奉じて、再度上洛の途についた。石巻日和山城の葛西清貞かさいきよさだも遠征軍に加わり、葛西領からも多くに家臣団が従軍したと言われている。
顕家は、義良親王をたてて、奥州勢として伊達行朝、結城宗広、葛西武蔵守清貞かさいむさしのかみきよさだ南部伊予守信長なんぶいよのかみのぶなが(盛岡南部氏)、南部又次郎師行なんぶまたじろうもろゆき(八戸南部氏)、武石石見守高広たけいしいわみのかみたかひろ下山修理亮家長しもやましゅりのすけいえながを引率して上洛した。しかし、途中の白河で、これを阻止せんとする斯波家長らの足利方と交戦したが、これを打ち破り西上を続けた。
・1337年延元2年8月に、葛西高清は、遠征軍に参陣せず、南朝方守備の為離脱したようである。顕家が霊山を出発した8月には、気仙郡に侵入して、地頭金弥四郎俊清を襲い降伏させた。阿部姓の金家系らは敗れ降伏した。それにより高清の臣下となり、旧領を安堵されたと伝えられている。さらに、気仙郡の南方の矢作の千葉氏(馬籠千葉氏の分流)は、馬籠合戦の直前には降伏しており、気仙郡も本吉郡と同様に高清に掌握されたことがわかる。しかも葛西領内の反高清の家臣も降伏させたことは言うまでもない。この様に、高清は次第に勢力を拡大し、臣下となる武士を増やしていったと思われる。気仙郡金弥四郎俊清も、寺池の葛西高清に征服され、その臣下となったとも伝えられている。
・1337年延元2年に、岩淵重時いわぶちしげとき曾慶そけい(現:大東町))は、東山曾慶中館主で、北畠顕家に従い、白河合戦に参陣している。
・1337年延元2年に、千葉胤常ちばたねつね(薄衣)は、薄衣米倉城主で、北畠顕家に従い、多賀城攻略に参陣した後、1337年建武4年5月に白河の戦いで討死している。
・1337年延元2年に、千葉安胤ちばやすたね(奥玉)は、東山奥玉□館主で、北畠顕家に従い、多賀城攻略に参陣し討死している。
・1337年延元2年に、千田信親ちだのぶちか(長坂(現:花泉町)は、東山長坂城の家老で、北畠顕家に従い、中尊寺の戦いに参陣後、白河合戦後摂津阿倍野で没している。
・1337年延元2年12月10日に、小野寺信道は、関東にて合戦に参陣、1338年正月に美濃青野原みのあおのはら(関ヶ原)に奮戦月には奥州に帰還した。小野寺時道は、1332年建武2年12月に、顕家に従って上洛したが、1336年建武3年2月に近江坂本で亡くなったと言われている。
・1337年延元2年12月に、奥州勢は、利根川で斯波家長と戦い打ち破り、鎌倉に迫った。その後、北畠顕家は、顕信に山城男山(現在の京都府八幡市)に布陣させ、南朝軍の兵を集め、京都進撃の 機会を窺っていた。顕信の役割は北朝軍を男山の要害に引きつけて、和泉の顕家軍を 側面から援護することであった。
1338年 延元3年/暦応元年 ・1338年暦応元年(延元3年)の北畠顕家第二次遠征軍は敗退し、5月22日和泉国石津で顕家並びに多くの武将を討死させている。
・1338年延元3年5月22日に、北畠顕家率いる南朝軍と足利方の北朝軍とが泉州堺浦で一大決戦となる。所謂、石津の戦いと言われている。
  この戦いで、北畠顕家きたばたけあきいえ南部師行なんぶものゆき長坂顕胤ながさかあきたね(長坂(現:花泉町)長坂城家老千田和泉守信頼ちだいずみのかみのぶより長坂治部少輔顕胤ながさかじぶしょうゆあきたね、黒沢尻大館館主阿部掃部介頼任あべかもんすけよりとう佐々木義基ささきよしもと、山ノ目中里城主小野寺掃部介胤正おのでらかものすけたねまさ馬籠長胤まごめながたね伊沢日高社妙見社法印弘昌いさわひだかしゃみょうけんほういんひろまさ大嶽山法印おおだけやまほういん等190人が戦死した。平泉館主葛西掃部則成かさいかもんのりなり、水沢の羽黒堂館主千葉左京大夫春行は生き残ったと言われている。この様に、岩手県南部から奥州顕家軍に大量投入されたとことが分かる。
南朝は、顕家が戦死したので、弟の顕信を陸奥介兼鎮守府将軍に任じて、陸奥の国司として、奥州統治を任せることにした。顕信は、奥州に戻り、再挙すべく義良親王をたて、父北畠親房や結城宗広とともに船で帰還すべく伊勢国大湊より出帆した。折りしも、途中台風に遭い、親王、顕信、宗広の舟は、漂流して伊勢の篠島に打ち上げられた、一方、親房らの舟は、常陸の東条浦に漂着したと言われている。宗広は篠島で病死をしたので、義良親王、顕信は、奥州帰還を中止せざるを得ず吉野に戻ったとされている。  ここに至り、1338年暦王元年には、足利尊氏が権勢を掌握し、南朝に劣らぬ勢力となっていた。南北朝時代の始まりと言って過言ではない。
・1338年延元3年に金野康長こんのやすなが千厩せんまや)は、東山千厩に住まい、北畠顕家に従い、中尊寺の戦いに参陣後、白河合戦にも参陣したと言われている。
・1338年延元3年に、佐藤元治さとうもとはる(長坂(現:花泉町))は、千葉家中で、北畠顕家に従い、中尊寺の戦いに参陣、建武4年に霊山城(福島県)に籠城後、白河合戦にて軍功揚げて、顕家より太刀を拝領した。建武5年5月22日に、摂津阿倍野の戦いで討死した。享年34才であったと言われている。
・1338年暦応元年8月に、足利尊氏は征夷大将軍となり、権勢を思うがままにうごかした始めた。
・1338年~1342年暦応年間に、菅原長顕すがわらながあきが、葛西高清の臣下となり、采地五百貫を領して桃生郡長井郷に居住したと伝えられている。長顕から三代目長朝の二男朝光が葛西満信かさいみつのぶの近習となり、桃生郡津谷川邑に分居居住したと言われている。
1339年 延元4年/暦応2年 ・1339年暦応2年5月に、葛西高清が上洛し、足利尊氏より葛西領の太守として認められたが、石巻日和山城には葛西清貞が南朝側の葛西太守として存在していたので、足利政権からはあまり重宝されなかったようである。このことは、盛岡葛西系図・高野山五大院系図の高清の所に記されている。
盛岡葛西氏系図には
建武三年四月、奥州本吉郡真籠(馬籠)城主千葉因幡守(周防守の誤記)平行胤北条家に党する。高清これを討つ。本吉・気仙南部を掌握し奥七郡の太守となる。
「高野山五大院系図」の高清の項には
建武三年四月、奥州奉行人、同国本吉郡馬籠城主千葉周防守平行胤と楯鉾に及び合戦し大利を得。是れより近郡諸将と争戦す、暦応二年五月、咎に於いて宮方討平げ上洛奉謁。将軍尊氏卿因幡守に任じ、奥州北方探題と為りて下向す。云々
・1339年暦応2年6月に、生き残った長男胤宣が、葛西高清に降伏し、葛西の傘下になったと伝え られている。これ以後、馬籠千葉氏は「馬籠」と苗字を改称した。
・1339年延元4年8月14日に、後醍醐天皇が五十二歳で逝去。義良親王が即位し後村上天皇となる。石巻市多福院境内の供養碑に「延元四年霜月二十四日・・先有菩薩」とある。
これにともない、北畠顕信は、奥州立て直しを図るために下向することになった。
・1339年延元4年(暦応2年)に、薄衣清村うすきぬきよむら(薄衣(現:川崎町))は、東山薄衣城主で、北畠顕家に従い、葛西氏との戦いで敗退し討死した。

1340年 暦応元年/延元5年 ・1340年興国元年5月頃に、北畠顕信きたばたけあきのぶが、下向途中に、父親房の居る常陸小田城に立ち寄り、石巻の日和山に到着した。この頃になると、足利方の勢力が強まり、多賀城国府には、足利方の石塔少輔良房が管領として統治していた。石塔義房は、顕信が、常陸の小田城の親房や奥州南朝方の南部・葛西氏との連絡を阻もうとしていたが、顕信は、葛西一族や白河の結城氏と連絡を取り合い多賀城国府に迫ろうとしていた。
1341年 興国2年/暦応4年 ・1341年暦応4年/興国2年3月に、清貞の姪である葛西遠江守清明かさいとうとうみきよあきを誅伐した趣旨の書が北畠親房きたばたけちかふさに伝えている。清貞も一族内部の統制を図るためと思われる。この様なことから、清貞に反する者が増え内訌が激しくなった。
・1341年興国2年春には、葛西清貞兄弟一族や紫波の河村六郎かわむらろくろう和賀氏わがし滴石氏しずくいししと共に斯波郡を掃討し稗貫出羽権守ひえぬきでわごんすを討ち取り南進し、南部直江守政長なんぶなおえのかみながまさや薄衣氏うすきぬしと合流して多賀城国府を目指した。南朝方の南進する勢いが強く、多賀城国府の石塔義房いしどうよしふさは、防戦一方となり苦戦をしていが、相馬親胤そうまちかたねの援軍を得て栗駒郡三迫で対峙することになった。三迫での戦いは、50日余り続き、決着がつかず、冬場を迎えるにあたり休戦となった。
・1341年暦応4年/興国2年に、多賀城の攻撃に参加したが、事態は好転せず、一族や家臣の間には南朝への不信感がつのり、清貞とは反対方向に傾いていった。本流の寺池を本拠としている葛西高清は、北朝の足利方に一層支持するようになり、領内の家臣をまとめる動きをはじめたと言われている。
1342年 興国3年 ・1342年興国3年3月の春に、再度、戦いがはじまり、三迫では南朝方が優り、三迫を突破し多賀城国府を目指す勢いであった。石塔義房軍は、防戦に走らざるを得ない状態に陥ってた。が、しかし、両軍とも100余日の戦いで疲弊している状況で思うように戦いが進展せず小康状態になった。そのような中、石塔義房は、鬼柳氏に支援を依頼する書状を送る。
・1342年興国3年4月8日頃に、義房は、鬼柳兵庫亮きやなぎようごのすけに後攻めを依頼している。この頃になると、やっと、石塔義房に組みする磐城国岩崎の金成地頭岡本孫四郎重親おかもとまごしろうしげちかの代理山田六郎重教やまだろくろうしげのりなど海道筋より援軍が来た為、戦況が一変する。南朝の顕信勢は敗退して、滴石へ逃げ延びた。葛西領内においては、清貞に不信感を抱き、足利方に寝返るものが現れる状況にいたった。
1343年 興国4年/康永2年 ・1343年興国4年6月には、北朝方の指導的立場の結城氏が、北朝に寝返りをした。
・1343年興国4年7月12日には、葛西清貞かさいきよさだが没し(法名蓮阿れんあ)た。この事より、葛西高清は、葛西領内をまとめ、結城氏の影響もあり、北朝方になった。
・1343年興国4年7日には、北朝方(足利方)の石塔義房と葛西親家かさいちかいえの連名で、平泉中尊寺に鐘を寄進している。これは、石塔義房が勝利し、葛西氏が北朝方に転じた意味を示すものである。親家は、葛西清貞の子とも言われている。
・1343年康永2年/興国4年に、清貞は、1339年暦応2年(延元4年)に急逝された後醍醐 天皇の菩提を弔って、石巻に供養塔を建てた。1343年「興国4年蓮河」という供養塔である。恐らくは、清貞の法号が蓮河であるから間違いなく清貞が建てたものである。
・1343年康永2年/興国4年に、清貞が没する前に、高清が信常の後見で奥州領葛西太守になった。奥州下向以来三代経過して関東葛西が名実共に領主なった。
1345年 貞和元年 ・1345年貞和元年に、奥州総大将として石塔義房が、奥州統治をしていたが、南朝勢の勢力が増し、統治に失敗したと見られ、石塔氏の交代として、吉良貞家きらさだいえ畠山国氏はたけやまくにうじ高国たかくにを奥州探題として任じられた。いかに足利幕府が、奥州を重視していたかの現れであった。南朝勢力を払拭できなかったことや北畠顕信を討つことができなかったことが、石塔義房の人事更迭の理由と思われる。
・1345年興国6年(貞和元年)7月には、北朝方は、幕府の地方官として「奥州管領」を設けて、畠山国氏と吉良貞家が任じらて奥州に下向した。
その後、観応擾乱が起こり、吉良貞家は直義方、畠山国氏(後見人として父高国であった。)は尊氏方として争うことになる。この頃に、葛西太守高清も結城氏同様北朝方となったので、北畠顕信は、北方の岩手郡滴石城に逃れざ得なかった。吉良貞家、畠山高国(父国氏)は、奥州探題として北朝勢の強化を図り、数々の実績を挙げるなか、北方の滴石城に居る顕信を攻めようとしたが、すでに顕信は出羽に逃げてしまった後であった。

1346年 貞和2年 ・1346年貞和2年に、奥州管領斯波氏の一族である斯波家兼しばいえかねが、奥州探題に任じられ京都から伊達霊山に下向した。
「余目記録」によると次の様に記されている。
京都七条より貞和二年伊達郡りょうせん(霊山)と申山寺へ先御下り、彼所に三年御座候て、其れより河内志田郡師山へ御つき有しより、無二無三留守殿大崎を守り 候。
とあり、三年後志田郡師山しだぐんもろやまに移たとある。
斯波氏は足利氏の支流で家氏が、鎌倉時代に紫波郡高水寺城しわぐんとうすじじょうに赴任したことで斯波氏を称したと言われている。その後、下総国大崎地方にも領地を持ったので大崎氏と称したと言われているが、諸説があり定かではない。大崎氏の所領は、加美・玉造・志田・遠田・栗原郡(宮城県内)で中新田を拠点としていた。葛西氏と大崎氏が、西北部(遠田・栗原)で隣接していたので、境界を巡って衝突・合戦が絶えず生じていたと伝えられている。
・1346年貞和2年に、吉良貞家きらさだいえが奥州探題として四本松城しほんまつじょうに入城している。四本松城は、福島県二本松市上長折四本松に立地している。
1347年 貞和3年 ・1347年貞和3年頃に、多賀城国府は、北朝方吉良貞家によって攻略されたが、その後も何度か攻防戦が行われたようである。
1349年 貞和5年 ・1349年貞和5年/正平4年に、足利尊氏の4男足利基氏あしかがもとうじを関東に管領任命し、鎌倉に向かわせた。基氏は、関東地方の治安を守り、東国の統治に尽力したようである。その後も、基氏の子孫は鎌倉に住んで東国の統治を行った。二代氏満の時に、足利幕府は、鎌倉府に陸奥・出羽両国を関東管領の統治下に入れた。これを機に氏満うじみつは、その子満直みつなお満貞みつさだ兄弟を岩瀬郡稲村いわせぐんいなむら安積郡笹村あさかぐんあささむらに下らせ奥羽の管領統治強化を図った。
1350年 観応元年 ・1350年観応元年10月には、足利尊氏あしかがたかうじの指示を受ける執権高師直こうもろなおが、足利直義あしかがただよしと意見争いから抗争に発展。(観応擾乱かんのうじょうらんのはじまり)これを境に、足利尊氏と直義の兄弟の抗争が激化していった。この影響を受け、抗争が全国的に波及、もちろん、奥州においても尊氏方と直義方とわかれて抗争を繰り返し起こった。
1351年 観応2年 ・1351年正平6年(観応2年)正月に、足利直義が南朝方に下り、その支援を受けて、尊氏・師直方に攻撃をかけた。所謂、観応擾乱かんのうじょうらんの始まりである。この中央での争いは、奥州にも伝播して大きな影響を及ぼしている。
・1351年観応2年2月21日に、奥州において、尊氏方の畠山氏と直義方の吉良貞家が対立抗争となる。尊氏方の畠山国氏(父高国)と留守氏が拠点岩切城に籠城し、直義方の吉良貞家と攻防戦となった。が、岩切城は攻め落とされ、畠山国氏、高国は戦死した。所謂、「岩切合戦」である。この間、南朝方の北畠顕信は、陣容を整え、守永親王(もりながしんおう)をたて勢力を結集し多賀城国府奪還に動き出していた。
・1351年観応2年/正平6年11月に、顕信は、南部信光・信助、伊達、田村の兵と共に和賀氏(この時点で和賀氏は北朝方に寝返りをしていたが)所領を羽州仙北郡を経て多賀城国府を目指していた。
・1351年観応2年/正平6年12月には、北畠顕信が、多賀城国府を急襲し多賀城国府奪還に成功した。しかし、これはつかの間のことで、吉良貞家は、再度奪還すべく動き出している。
1352年 観応3年/正平7年 ・1352年観応3年/正平7年3月15日に、奥州探題吉良貞家は、多賀城国府を奪回に成功した。その後、多賀城国府は、足利方の決定的支配下になったと言われている。
吉良貞家は、再び多賀城国府を奪還し、その勢いで南朝拠点を次々と攻めたて、悉く南朝方は敗北、北畠顕信は、滴石(岩手県雫石)に逃れる状況に至った。
この頃、気仙郡の金俊清は、葛西高清に破れ、その後に降伏した。しかし、旧領安堵がされたが、金氏の勢力の分散が行われている。金俊清の子弟が移封措置を取られたと言われている。
・1352年文和元年(正平7年)に、金俊清の次男定俊は、磐井郡千厩邑に采地三百町を与えられ移った。
・1352年文和元年/正平7年に、足利尊氏は、弟直義を殺した。それに伴い、直義方の吉良貞家も失脚してしまったので、奥州を含め地方情勢が、一層に混乱を来すことになった。
奥州においては、奥州探題の吉良貞家や畠山国氏・高国父子が亡くなったこともあり、幕府は、足利一族の斯波家兼を奥州探題に任じた。これにより、吉良氏、畠山氏、斯波氏、石塔氏の4人の奥州探題が同時に存在することになった。

1353年 文和2年 ・1353年文和2年正月に、金俊清こんとしきよの三男金孫三郎俊持こんまごさぶろとしもちは、高清に仕え、磐井郡に采地三百町を賜り郡内の薄衣邑米倉塞に住み米倉氏と称したと伝えられている。また、俊持は嗣子が無く、郡内の薄衣邑内匠頭清村たくみのかみきよむらの二男玄蕃持村げんばもちむらを迎え嗣子としたと伝えられている。津谷邑霊峰峰仙寺の縁起にも、同様なことが記されている。
千厩には、1336年建武3年(延元元年)以来、里見義綱さとみよしつなが地頭として来住していた。この後、里見氏は、母方の金野姓になっていることから、気仙金氏のつながりがあり、金定俊が相続するような形になって気仙から千厩に移ったものと思われている。
・1353年文和2年1月頃吉良貞家きらさだいえは、大河戸氏おおかわどし山村城やまむらじょう(宮城郡実沢村朴沢)を拠点とする山村宮やまむらのみや正平親王まさひらしんのう)を奉じた宮方を攻撃し、1月10日には小曾根城こそねじょう(大河戸氏(山村城)の出城)、1月18日には市名坂城いちなざかじょう(山村城の出城)、1月19日には、 山村城を攻撃・陥落させて南部伊予なんぶいよ(八戸系)・浅井尾張あさいおわり(大館系)を投降させた。
結城顕朝ゆうきあきとも伊賀盛光いがもりみつは、南朝軍の最後の砦の宇津峯城うつみねじょうを陥落せしめた。1月早々に、足利尊氏より討伐せよとの命を受けた、結城顕朝・伊賀盛光が攻撃を再開し、4月5日に柴塚城しばずかじょうを、4月15日には切岸城きりぎしじょうで戦った後に宇津峯を攻撃、宇津峯城をは陥落せしめた。ことにより、北畠顕信きたばたけあきのぶは北奥羽に逃げ、その後吉野に戻り中納言となったと伝えられている。又、南部信光は、北奥羽の地で、孤立したまま南朝方を貫いたとされていたが、奥州南部の宮方の拠点は、悉く攻撃さえれ破壊され、二度と再起できない状態に陥った。 この様な状況で、奥羽は、殆ど北朝の支配下となり次の時代を向かえる事になった。
1354年 文和3年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、斯波家兼が吉良貞家の死去にともない奥州管領に任じられた。斯波氏の始祖は、斯波家兼しばいえかね、 暦応元年(1338年)閏7月、兄高経と共に越前藤島の戦いで、南朝方の大将新田義貞を討死にさせ た武勲をあげた人物。
1355年 文和4年 北奥では、北畠顕信きたばたけあきのぶの活動が活発化して、津軽郡浪岡には、北畠守親きたばたけもりちかが現れ、浪岡御所と呼ばれ北畠顕信と共に南下する機会を窺っていた。一方、中奥では、管領斯波直持しばのもちが、多賀城にいて活動を続けており、観応の擾乱で大敗した畠山国氏の子の国詮くにあきも、 芦名氏を頼り会津におり、また、吉良満家きらみついえ治家はるいえや石塔義元いしどうよしもと、さらには、宇都宮守氏うつのみやもりうじ氏広うじひろ父子等が、塩松しおまつ(福島県二本松市周辺)で、虎視耽々と奥州の支配権を狙っていた。 一方、葛西氏は、「中尊寺文書」に葛西大檀那若狭守行重名かさいおおだんなわかさのかみゆきしげが残されていたり、「葛西家譜」には、葛西高清が没し、葛西詮清かさいあききよが、 上洛して、奥州探題職に補されたと記されていいたり、江刺高嗣えさしたかつぐを浅井村で討伐したとか、佐々木直綱ささきなおついな宗綱むねつな父子が胆沢に北方奉行人として下向してきたとか、湯沢小野ゆざわおの等の一族伊賀道綱いがみちつなが、葛西氏を頼り寺池に移ったと記されていたりして、中奥でも、大きな動きがあったものと窺われる。 幕府・関東府においても動きが変動しており、さらに混迷した時期を迎えることになる。

1356年 延文元年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして
・1356年延文元年8月に、斯波家兼の嫡子左京大夫直持さきょうだいふなおもちは、奥州探題に任じられた。建武年間に没収された泉田、渋谷、上形、狩野四氏の旧領地の志田、遠田、玉造、加美、黒川の河内5郡が与えられ、玉造郡名生城を居城とし、その後、栗原郡小野、加美郡中新田に居住したと言われている。
・1356年延文元年10月22日には、直持は管領職としての職務をこなしている。幕命を奉じて領国内の地頭に、所領の宛行や下地沙汰状の施行を行っている。大掾下総守おおじょうしもおさのかみ氏家彦十郎うじいえひこじゅうろう遵行使じゅんこうし(両使)として、八幡氏の押領おんりょうを排除して、宮城郡内の余目郷以下の留守領の下地を留守領に渡すべしと命じた。が、しかし、八幡氏は、催促にも屈せず留守領を押領を続けた。
1359年 延文4年 ・1359年延文4年2月に、京都より斯波郡に、足利幕府要人として、佐々木直綱、定綱父子が、奥州北方奉行として派遣された。これは、南部氏の動向監視の為と思われる。また、佐々木直綱が派遣されたのは、葛西詮清の娘が、佐々木直綱の妻でもあることも派遣の要因と考えられる。その後、配置替えされた。
1361年 康安元年 ・1361年康安元年に、江刺で葛西太守詮清かさいたいしゅあききよ江刺高副えさしたかふくの争いが起こっている。佐々木直綱の配置転換に対する不満が要因であったとも言われている。佐々木直綱は、僅か3年での職を解任され配置転換されている。
一方、吉良満家の死後、子の吉良持家きらもちいえが跡を継ぐが幼少のため、満家の叔父貞経と満家の弟治家が権力争いをした。
1364年 貞治3年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、 ・134年貞治3年10月10日に、足利尊氏の下文と大崎直持の宛行状によって、留守氏の本領が回復された。
1367年 貞治6年 ・1367年貞治6年に、足利義詮あしかがよしあき斯波直持しばなおもち吉良貞経きらさだつねを奥州管領として吉良治家きらはるいえを追討するように命じた。さらに奥州総大将として石橋棟義いしばしむねよしを派遣したため吉良治家は敗れて逐電してしまった。奥州吉良氏も往時の勢力を回復するに至らず、衰退の一途を辿ることになり、また、1300年代後半になると、葛西氏も衰退の一途を辿るようになり、大崎氏、伊達氏の伸長が際立ってくるようになった。
関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなったので、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の各地では、中央権力のくびきから逃れ、暫くの間、奔放な活動を許される事になり、この期を逃さず奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
1371年 応安4年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとて
・13712年応安4年10月10日に、三代として斯波詮持しばあきもち(直持の嫡子として幼名彦三郎を襲名)が奥州管領となった。
1372年 応安5年 ・1372年応安5年春に、薄衣邑内匠頭清村たくみのかみのきよむら二男玄蕃持村げんばもちむらは、本吉郡に移封され、津谷・平磯・岩尻の三邑を与えられ津谷邑の津谷城つやじょう(獅子館)に居住したと記されている。

1373年 応安6年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして、
1373年応安6年12月2日に、詮持は、相馬胤弘そうまたねひろに対して将軍の命によって、高城保の赤沼郷を本領とし、元の如く知行すべくと命じた。その施行状によって、 1373年12月11日に、葛西清光かさいきよみつと留守氏が遵行使(両使)として下地を相馬胤弘の代官に渡した。

1381年 永徳元年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きといて
・1381年永徳元年秋に、伊達宗遠むねとうが、刈田郡の亘理肥前守行胤わたりひぜんのかみゆきたねを破り、大崎二郡と信夫、刈田、柴田の三郡、伊具郡の伊具荘を手に入れ、足利方に寝返えった。これは、確保した所領安堵の為、伊達宗遠が南朝より足利将軍に帰服したことになる。その後、伊達氏の勢力が拡大し、鎌倉公方や関東管領の統治も退け京都の足利幕府と直接結びつくことになる。所謂、京都扶持衆きょうとふちしゅうとなっていった。
1383年 永徳3年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏の動きとして
・1383年永徳3年8月15日uには、大崎詮持おおさきあきもちは、南奥の岩崎郡の岡本太郎を伊勢守に推挙するなどの官途の職権を行使している。
1385年 元中2年/至徳3年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、伊達宗遠は62歳で没した。宗遠の第一子で、母が高明夫人(結城上野介宗広の娘と思われる)兵部権少輔ひょぶごんしょうゆ大膳大夫だいぜんだいふに任じられ、伊達政宗だてまさむねとして第九代となった。
1386年 元中3年/至徳4年 ・1386年至徳4年には、田村荘司坂上義則たむらしょうしさかのうえよしのりが謀反を起こし、足利幕府は、大崎氏、葛西詮清の両氏に会津鎮定を命じて出陣あさせた。結果は、坂上義則が成敗され鎮圧された。
この会津鎮定出陣中に、奥州各地で局地戦が頻繁に起きた。特に、岩手南部より宮城北部に至り、かなり頻繁に起きた。大崎探題職の働きが大きく、局地戦に収まるなかで、大崎氏の権力が強くなり勢力拡大をしていった。中でも留守氏に対して攻略をせしめたことは、大崎氏に有利に働いた。
奥羽諸将の動きとして
・1386年至徳4年12月2日に、石橋棟義いしどうむねよしが、相馬冶部少輔憲胤そうまじぶしょうゆのりたねに対して、名取郡南方増田郷下村を兵糧料所ひょうろうりょうしょ(中世、 年貢の一部もしくは全部が、武家政権のもとに兵糧米として供出されることが定められた 所領)として預け置きとしたとの発給文書が最後に、奥州総大将としての権威を失った。
1391年 明応2年 ・1391年明応2年7月には、大崎氏が留守氏を攻め、留守詮家を切腹せしめた。これにより、留守氏が衰退する結果となった。
・1391年明応2年には、足利幕府は、鎌倉公方足利氏満あしかがうじみつに、陸奥出羽両国を関東管領統治下に編入することにした。幕府が鎌倉府との和解の一つとして打ち出した策でもあった。この結果、奥州・羽州探題職はなくなることなった。関東管領は、大崎氏の権勢を恐れて、牽制する為に、伊達氏、葛西氏に仲裁を命じた。しかし、効果が薄く、大崎氏自体は、名生城みょうじょうに拠点に権勢を強よめていった。
鎌倉公方足利氏満は、奥州支配強化の為、氏満の子満直・満貞の二人を須賀川市稲村と郡山市篠川に派遣し、満直を稲村公方、満貞を篠川公方と称させて、権限強化を図った。
1392年 明徳3年 ・1392年明徳3年には、大崎氏は、二本松の畠山氏と一族を討つまでの勢力となった。
・1392年明徳3年に、鎌倉府に属した宇都宮氏広うつのみやうじひろが奥州探題として塩松に入部した。
畠山氏は、大崎氏の度重なる攻撃に負け、畠山国詮はたけやまくにあきの孫義泰よしやすは蘆名氏を頼って安積郡二本松(福島県)に逃げたが、すでに、宇都宮氏広が奥州探題として赴任していたので、ここも追われて和賀氏を頼ったと言われている。
この様な状況に至り、留守氏、葛西氏、山内氏、長江氏、登米氏の5氏は、一揆契約を結び大崎氏に対抗する勢力となった。 朝廷の動きとして
・1392年明徳3年/元中9年には、後亀山天皇(南朝)から神器を後小松天皇(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約60年近く続いた大乱であったが、これで終息した。
1395年 応永2年 葛西氏大きな動きなし。
大崎氏としての動きとして
・1395年応永2年9月26日には、斯波満持しばみつもちが石川郡の蒲田民部少輔うらたみんぶしょうゆの勲功を賞して本領安堵状を発給している。この時期には、満持が父詮持の名代として、大将として出陣したり、諸氏に対して、本領安堵、官途推挙、感状授与等の奥州管領としての職務を代行していた。
1397年 応永4年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして、伊達政宗だてまさむねが、嫡子氏宗うじむねと共に上洛し、将軍足利義満あしかがよしみつに拝謁した。
1398年 応永5年 葛西氏大きな動きなし。
鎌倉府の動きとして
・1398年応永5年11月4日に、足利氏満が没した。鎌倉公方は、氏満の嫡子満兼みつかねが嗣いだ。
1399年 応永6年 ・1399年応永6年春に、陸奥、出羽が鎌倉府の管轄となった。鎌倉公方満兼は、奥州支配強化の為に、満直・満貞の兄弟を伊達大膳大夫政宗だてだいぜんだいふまさむね白河左兵衛尉満朝しらかわさひょうのじょうみつともに託し、篠川御所・稲村御所として下した。さらに、奥州諸将に対して「御料所」として、領地の一部の割譲を命じ、伊達・白河及び奥羽諸氏は、領地を割いてその所領を献上した。
ところが、満兼はこれに承服せず郡単位を要求するにいたったので、奥羽諸将は、これを拒否した。このことから、大崎氏・伊達氏が鎌倉府と対立する様になった。
1400年 応永7年 ・1400年応永7年に、足利満直・満貞は、吉良氏と代わった奥州探題宇都宮氏広と職権等で対立。満直・満貞は、奥州武将等と宇都宮越中守氏広うつのみやえっちゅうのかみうじひろを攻めて職を解任した。その後任として、足利幕府は、斯波詮持しばあきもちを奥州探題に起用したと伝えられている。
・1400年応永7年秋頃に、宇都宮氏広の反乱が起こり、鎌倉公方満兼らの要請を受けた葛西満信・大崎詮持らに攻められ栗原郡三迫の戦いで、宇都宮氏広は戦死した。この戦いで、大内土佐守常次おおうちとさのかみつねつぐ三田丹波重盛みたたんばしげもりが軍功を挙げたので、将軍義持よしもちの恩命により、葛西満信かさいみつのぶの家臣になり胆沢郡の数ヶ所の知行を与えられ、下姉体館主しもあねたいかんしゅ前沢村折居館主まえさわむらおりいかんしゅとなった。
しかし、鎌倉公方満兼の独断すぎることに、将軍足利義満は、懸念を抱き、京都扶持衆である伊達大膳政宗や探題大崎氏に牽制をさせようとした。
1402年 応永9年 ・1402年応永9年に、伊達政宗が、京都足利幕府と結び反乱を起こした為、急遽、身を按じた斯波満詮と子満持が鎌倉を脱出して本領に向かった。が、途中、満貞の追手に追い込まれ満詮は自刃し、その子満持は、伊達大膳大夫政宗に救われ大崎に帰ることができた。
伊達政宗は、蘆名満盛あしなみつもり大崎満詮おおさきみつあきと図り、篠川公方満貞を攻めたが、関東管領上杉氏憲うえすぎうじのりが乗り出し、28万騎の大軍勢で押し寄せ、伊達一族の長倉入道が攻められ、入道は寡兵かへいで防ぐことができず、西根赤館に撤退し迎え討った。それにより、勅使河原兼貞てしがわらかねさだを捕虜とした。大崎氏・山内氏・登米氏も加勢したが、長倉・赤館城が度重なる攻撃に敗退、伊達大膳政宗は、会津の山奥に遁走した。この隙に、葛西・桃生・深谷氏が、留守中の大崎・登米に侵攻した。
「伊達世次考」には、葛西・桃生・深谷氏の侵攻を伊達氏が、大崎地方で撃退し敗退したと記されている。それにより、亘理、黒川、宇多、名取、宮城、深谷の武将が伊達氏に従ったとあるが、この様な状況では、関東管領に攻められている段階では難しい対応と考えられるので、疑問を呈する。逆に、奥州諸侯は、関東管領の統治下にありながら、未だ探題の勢力が保持されている状況である為、混迷を来たしていた。
1413年 応永20年 ・1413年応永20年6月に、気仙郡長部館主千葉安房守慶宗ちばあわのかみよしむねが、突如として気仙郡の高田城を襲撃した。千葉大膳亮胤慶ちばだいぜんのすけたねよしは、防ぎきれずに自害してしまった。63歳であった。
長部館の慶宗と高田城城主の胤慶とは兄弟で、共に千葉重慶の子である。骨肉の争いを繰り返しおり、気仙郡では「高田・長部館の二兄弟の争い」として語り継がれている。
1421年 応永28年 ・1421年応永28年2月に、佐藤五代信季の弟五郎信行は、葛西持信より「切符月棒」を賜り登米城に仕えた。
1424年 応永31年 ・1424年応永31年8月に、佐藤五郎信行は、功により登米郡内に采地2百余町を賜り、郡内の弥勒寺邑に居住した。
1437年 永享9年 ・1437年永享9年3月に、阿曽沼一族あそぬまいちぞくで大槌城主大槌孫三郎おおつじまごさぶろうと気仙の岳波太郎すわたろう唐鍬崎四郎からくわさきしろうの連合軍が、遠野(岩手県)の横田城に押し寄せた。横田城主は阿曽沼一族の長である阿曽沼秀氏である。
1438年 永享10年 ・1438年永享10年には、鎌倉公方在任20余年の足利持氏が、将軍足利義教(義満5男)によって討伐され、翌年、上杉憲実の追討軍に再度攻められ自害した。持氏の(嫡子元服の慣例を無視、上杉憲実うえすぎのりざねとの対立など)将軍義教よしのりに対する非礼など対立した為と言われている。
・1438年永享10年に、葛西太守持信かさいたいしゅもちのぶは、鎌倉公方足利持氏あしかがもちうじが兵を起こした時に従い、相州鎌倉で会戦したが、敗退し大打撃を受けた。これにより、 葛西氏の力が著しく減ずることになった。
1439年 永享11年 ・1439年永享11年元日9日に、五代信季は、葛西伯耆守持信かさいほおきのかみもちのぶ大崎左京大夫満持おおさきさきょうだいふみつもちとの戦で、栗原郡佐沼にて大崎方屯将松山平左衛門康次まつやまたいらのさえもんやすつぐ及び武将5人を討ち取ったり、抜きん出た功を挙げたことにより、采地を加増されたと伝わっている。
・1439年永享11年3月19日に、葛西持信かさいもちのぶは、大崎氏を攻め、志田郡千石邑(宮城県松山町)に侵入した。急をつかれた大崎持詮おおさきもちあきは、和賀時国わがときくに鬼柳実行きやなぎさねゆきの支援を受け、北から挟撃を加えたので戦況が互角の状況になった。 ・1439年永享11年8月に、葛西大崎の佐沼合戦に参陣して31歳で戦死したという。
1440年 永享12年 ・1440年永享12年の「嘉吉の乱」が全国的に波及した時期に、奥州葛西氏と大崎氏との間でも戦禍が広がっていた。この戦乱で敗れた武将が奥州に下向し、奥州葛西氏や奥州有力な諸侯に頼って、奥州に根を下ろし活動する様になった。
奥州葛西氏にも、奥州に下向し臣下となった武将もいた。その中に、登米大泉の石川氏、東山の及川氏、気仙高田の村上氏がいる。気仙郡関連では、村上丹波守則弘むらかみたんばのかみのりひろがいる。村上氏は、結城氏(関東管領足利持氏あしかあがもちうじの子義久の弟春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるを奉じて結城城に籠城したが、結城城は陥落した。)関東管領足利持氏の近習として仕えた人物で、結城氏が敗れた後、奥州葛西氏の葛西持信を頼り臣下となった。村上則弘むらかみのりひろ定広さだひろ父子は、葛西持信の臣下となって以来、その子孫が気仙郡高田に住まいし、浜田氏に旗下に属することになった。気仙郡高田には、以前より鈴木三郎重行すずきさぶろうしげゆきがいたが、葛西持信に叛き和賀郡に出奔した後に気仙高田に入ったと言われている。
気仙郡高田は、千葉胤長ちばたねなが(浜田安房守)の領域であったこともあり、村上定広の夫人は胤長の次弟又三郎宗胤の娘であり、村上定綱・定道・定春の三子の母でもある。
村上定綱は、1444年文安元年の生まれ、嘉吉年間(1441年~44年)に気仙郡に入ったと思われる。定道は早世、定春は、弓馬の達人で浜田遠江守信継はまだととうみのぶつぐに仕え、分家独立して50余町を領有し、浜田村に住んで村上氏の祖となった。
1441年 嘉吉元年 ・1441年嘉吉元年に、伊達氏が、葛西氏と大崎氏の仲裁に入り仲裁調停を行なった。
1442年 嘉吉2年 ・1442年嘉吉2年7月には、大崎持詮おおさきもちあきの娘を葛西持信かさいもちのぶの子朝信あさのぶに嫁がせることで和解が成立した。
1400年年代後期は、「下克上」と言われる乱世の時代でもあった。関東管領や奥州探題の権威は、有名無実化し、弱肉強食の実力時代となり、領土拡大に血眼になって戦が行われた。
1460 年 寛正元年 ・1460年から1465年寛正年間に、葛西の臣の千葉豊後ちばぶんごの先祖が居住したとある。
岩村文書による風土記には、土久戦場館どくせんじょうだて塚館つかだては地続きとある。
1465年 寬正6年 ・1465年寬正6年に、富沢河内守とみざわかわちのかみが、葛西氏にそそのかされて、三迫岩ケ崎さんはざまいわがさき大崎政兼おおさきまさかねを攻めたが追い返された。
1467年 応仁元年 ・1467年応仁元年には、大崎持詮おおあきもちあき葛西持信かさいもちのぶとが、三迫さんはざまで戦った。
・1467応仁元年11月4日には、葛西一族の清蓮きょうれん(葛西持信の弟末永清蓮すえながきょうれん)が、大崎教兼おおさきのりかねに唆され、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。
1469年 文明元年 ・1469年文明元年の頃に、葛西氏は十三代満重みちしげ(後の政信)の時代であるが、領内改革を実行に移らざるを得ない状況に陥ったからである。その理由は、領内の擾乱が起こり、各地で騒動が相次ぎ、葛西氏自体が滅亡の危機に陥ったからである。太守政信まさのぶ(満重改め)は、妨げになる家臣を排除することで、この難局を乗り越えることができたと言われている。
・1469年文明元年6月に、葛西十代太守持信が没すると、葛西壹岐守朝信かさいいきのかみあさのぶが葛西太守十一代となる。朝信が太守を継いだ頃から、異母弟の石巻日和山城主満重が、宮城郡の留守氏に接近したり、伊達氏に取り入ったり、動きが寺池の太守より活発に動き始めた。
1470年 文明2年 ・1470年~1474年文明2年~4年には、葛西朝信かさいあさのぶ大崎教兼おおさきのりかね西磐井油田にしいわいぐんゆたで戦い、登米郡弥勒寺城主とめぐんみろくじじょうしゅ佐藤主膳信綱さとうしゅぜんのぶつな涌津北館城主わくつきたかんじょうじょうしゅ岩淵対馬守真経いわぶちつしまのかみさねつねらが参陣した為、葛西氏が大敗した。ところが、大崎教兼が急死した為、伊達成宗だてなりむねが仲裁に入り、葛西満重が領する遠田郡と大崎教兼おおさきよしかねが領する小田郡を交換することで決着した。
・1470年文明2年に、宮城県本吉郡馬籠館の館主、馬籠治郎左衛門胤宗まごめじろうさえもんたねむね長坂七郎ながさかしちろうと知行地争い、東山長坂で馬籠治郎左衛門が討死をした。
1471年 文明3年 1471年文明3年2月、気仙郡の金野出雲守時弘こんのいずものかみときひろが、葛西朝信かさいあさのぶに仕え、気仙郡立根邑舞良たっこんむらもうりょうに住まいし、食邑二百余町を有することになった。「金氏の中興の人」とも称されている。
金野時弘こんのときひろの出自は、弥三郎とも称していたが、金野出羽守時親こんのでわのかみときちかの三男だと思われている。そもそも、金野氏は、気仙郡の末裔とも言われているが定かではなく、恐らくは、金右馬助為俊(1191年 卒)--為広—時宗—知義—時春—時明—為光—時親と家を継いでいるので、その系統と同じであると推測される。
・1471年文明3年8月7日/に、南部氏が、葛西氏の北進牽制の為に胆沢郡に侵攻したが、北七郎、六戸弥太郎等馬上10騎の討死もあり退却した。
1472年 文明4年 ・1472年文明4年に、大崎教兼が西磐井郡流庄油田に侵入したので、葛西朝信に撃退された。
・1472年文明4年に、伊達仲裁により、遠田郡より小田郡(荒谷・田尻・崑嶽こんだけ・南方の地域)を交換する領域協定がなされた。小田郡は大崎氏拠点の古川に近く、遠田郡は葛西氏拠点の寺池に近く、双方とも本拠地への脅威がなくなることからと考えられる。しかしながら、20年も経たぬうちに、佐沼方面で戦いが始まり繰り返し争いが起こったと言われている。ちょうどこの頃は、葛西領内統一も進み太守の力も増大しつつある時期でもあり、しだいに大崎を圧迫し始めていた。
1475 年 文明7年 ・1475年文明7年3月、東山の大原城主千葉肥前守広忠ちばひぜんかみほろただと気仙の矢作城主豊前守重信ぶぜんかみしげのぶが、戦いが行われた。この戦いでは、大原方の六郎信綱ろくろうのぶつなが16歳で討死したとも伝えられてる。
大原氏は、薄衣・柏山・江刺・岩渕等の豪族や周辺の千厩の金氏、曽慶の鳥海氏等との血縁関係があり、東山方面では強力な勢力になっていた。
千葉広忠の次男の行綱は、葛西家の小島行光こじまゆきみつの養子となり、三男の広常は宗家葛西持信の近習となり、采地百余町を東山長坂に拝領し、東山長坂に居住して長坂氏と称した。
五女は、曽慶の岩渕経時いわぶちつねときに嫁ぎ、六女は、気仙郡浜田城主千葉泰樹ちばやすきに嫁いでいる。また、千葉広光の生母は、葛西太守詮清かさいたいしゅあききよの娘にあたり、葛西家の外孫として権勢を奮った。
尚、葛西満信かさいみつのぶの三男五郎重信が西館家を出て本吉郡に千余貫を領有し、その長男は東山の薄衣氏の養子、次男は気仙郡高田城主高田宮内少輔信綱たかだくないしょうゆのぶつなの養子となり、浜田安芸守基綱はまだあきのかみもとつなと称した。従って、基綱も太守一族から養嗣子でもあり、広田湾岸および周辺諸領主の束ねとして大きな勢力保持をするに至ったと言われている。
・1475年文明7年に、小野寺氏は、西磐井前堀の黒沢城主黒沢重時くろさわしげときが推挙して葛西氏に仕え、日形石畑館ひがたいしばたかんを賜り居住した人物である。小野寺秀家おのでらひでいえは、羽後稲庭城主と称したようであるが、出自は明確ではない。
小野寺氏は、日形石畑館に移封され、小野寺秀家から幸通・充興・通教と続きたが、1555年弘治元年に故あって滅亡している。
1476年 文明8年 ・1476年文明8年には、和賀の岩崎城主多田忠氏ただただよしが、柏山清良かしわやまきよよしの3男金ケ崎彦右衛門かねがさきうえもんを斬殺した為、柏山氏は、報復として和賀の二子城と岩崎城主を攻めた。
1480年 文明12年 ・1480年文明12年8月には、葛西朝信かさいあさのぶが没し、嫡子の葛西兵庫頭尚信かさいひょうごのかしらひさのぶが12代太守となった。しかしながら、葛西満重かさいみつしげは叔父の地位を利用して寺池に近寄り内外にわたり干渉するようになった。
1482年 文明14年 ・1482年文明14年には、葛西太守朝信かさいたいしゅあさのぶが、深谷の小野邑(桃生郡鳴瀬町)で、長江氏と戦った。ところが、戦いの最中に太守朝信が変死を遂げたと伝えられている。
その後、朝信の後継者として、尚信ひさのぶ(母は大崎左京大夫持詮の娘)が後継したが、僅か3年で急死してしまった。尚信のあと、伯父政信まさのぶが強引に後継となったとされ、一説では、政信の謀略で、朝信も尚信も毒殺されたとも言われている。
このような事態となったので、南部氏との姻戚関係による結びつきも悪化していった。また、太守継承に不満をもった葛西重臣江刺隆見えさしたかみが動いた。
1483年 文明15年 ・1483年文明15年6月に、尚信は在職3年で早世してしまう、嫡子も無いために、急遽叔父の満重みつしげが寺池宗家を嗣ぐことになり13代太守となって寺池に移動した。
・1483年文明15年9月に上洛をし、将軍足利義政あしかがよしまさに拝謁し、諱字いなみあざなを賜り政信と改名した。
五大院系図の政信の譜には、「文明十五年嫡流尚信早世にて葛西家督となり、同年九月上洛、将軍義政公より御諱字を賜わって政信と改名云々」とある。伯耆守政信ほおきのかみまさのぶが葛西太守となり、寺池に住まいする様になると、領内が騒然となりはじめ、次々と戦乱状態に陥った。
1485年 文明17年 ・1485年文明17年春に、葛西重臣江刺隆見は、南部政盛なんぶまさもり和賀定義わがさだよしの後押しで、江刺高寺邑えさしこうじむらで叛旗を翻した。一方、南部氏と和賀氏は、葛西領侵攻計画を立ていた。
江刺郡岩谷堂城主の葛西宗族江刺氏が、政信と衝突した。政信は、本吉郡気仙沼赤岩城城主熊谷氏等を率いて、江刺郡に出動して、江刺美濃守隆見と高寺村で戦い、江刺勢を打ち破り難を逃れた。
・1485年文明17年8月4日には、和賀郡(今の胆沢郡)相去郷で、葛西壱岐守政信かさいいきのかみまさのぶ和賀右衛門尉定義わがうえもんのじょうさだよしと戦い、葛西壱岐守政信が傷死した。この時の史料として、「摺沢小原家蔵和賀系図」にいかのような事が記されている。
「定義云々。同十七年八月四日与葛西壹岐守平政信戦、中流矢傷死年四十九」とある。
一方、計画通り南部政盛は、同日に有住郷(今の気仙郡住田町)に侵攻した。葛西太守政信は、(未だ葛西重臣の意見統一できない混沌とした状況であった)涌津城主岩淵三河守経定いわぶちみかわのかみつねさだや水沢城主佐々木将監秀綱ささきしょうげんひでつなの子豊前信綱ぶぜんのぶつなの参陣により勝利することができた。しかし、この様な葛西領内の議論が纏まらず、混迷した状況が長く続いた為、事態がおこった。
・1485年文明17年8月には、三戸の南部政盛が気仙郡の有住郷に侵入し、葛西勢と交戦したが敗退し退いた。
この戦いで、桃生郡大窪の佐々木泰綱ささきやすつなが軍功を揚げ、葛西政信より気仙郡の郡北の盛郷さかりのさとに所領を与えられ、田茂山館に居住したと言われている。
この南部氏侵攻は、葛西内訌により南部義政なんぶよしまさの外孫である葛西朝信やその子尚信が、立て続けに死亡したことや、特に、尚信の早世が、叔父政信が謀ったとの噂などから、三戸南部氏が葛西政信の反対派である江刺隆見を支援したので、その親戚でもある和賀氏にも類が及ぶ事を懸念して気仙に侵攻したものである。(葛西政信が江刺隆見に軋轢あつれきを持っており、その上、和賀氏とも衝突していた。)
有住郷の戦場は、現在の住田町上有住の十文字、根岸、八日町などで、この地で、南部勢の指揮者格の下条行長しもじょうゆきなが金沢盛弘かなざわもちひろが討ち取られ大敗したところである。この下条行長を討ち取ったのが、桃生郡大窪邑の佐々木泰綱である。
また、胆沢郡小沢城より参陣した佐々木信綱が、南部勢の指導者格の一人である金沢盛弘を討ち取ったと言われている。南部方には記録がなく、葛西方には語り継がれている。恐らく、軍監として出陣した岩渕経定が、南部の大軍を撃破したとも言われており、南部方として戦いの記録として残さなかったのではと推測する。
この戦いで軍功をあげた佐々木泰綱が、葛西政信より与えられた恩賞の詳細は、気仙郡北部に三百余町の地と、その年の10月には、さかり猪川いのかわ立根たっこん日頃市ひごろいち赤崎あかさき綾里あやおり越喜来おきらい吉浜よしはま等が与えられ、気仙北部の旗頭として桃生郡から気仙郡田茂山館たもやまかんに移居した。これは、南下する南部氏の防衛措置としての配置ではないかと言われている。
1487年 文明19年 ・1487年文明19年には、大崎氏は、薄衣氏により佐沼城を大崎氏手中にさせた。
1488年 長享2年 ・1488年長享2年10月に、菅原長房すがわながふさは、采地百余貫を給わり、郡内の山田邑に居住し、家号を山田氏と称した。長房二代目、長秀ながひで 山田藤九郎やまだとうくろう 新右衛門尉しんうえもんのじょう 掃部助かもんのすけは、葛西重信かさいしげのぶ(後の稙信)の近習となり、弓馬の達人で所々で葛西合戦で度々武功を挙げたと言われている。
1489年 延徳元年 ・1489年延徳元年には、磐井郡流地方に内乱が起きてしまった。
この様に、葛西領内がまとまらに状況では、本拠地寺池周辺を朝信、尚信の一族が守り、太守政信は、石巻の日和山付近の所領を守る状況に至った。しかし、大崎氏の侵攻が有利ではあったが、大崎氏の領内でも内乱が起き、身動きできない状況でもあった。
1495年 明応4年 ・1495年明応4年5月に、再度、江刺隆見が高寺邑で反乱を起こしたが、葛西領内に波及し争乱状態となった。
・1495年明応4年6月に、再び江刺隆見が政信に反旗を翻し再び高寺村で戦い、江刺勢を破り江刺隆見を降伏させた。この戦いには涌津城主岩渕参河守経定も参陣していたと言われている。この後、江刺氏は葛西宗家に従ったと言われている。その証して、葛西晴胤かさいはるたねの長子親信ちかのぶの生母は江刺美濃守隆見えさしみののかみたかみむすめである。重親は、石巻日和山城主満重(後の政信)の長男で、寺池系図には「家督を継がず剃髪して江刺に居する」とある。これは、恐らく、満重が伊達家より宗清(武蔵守)を迎えて嗣子とする為、長男重親しげちかの廃嫡をしたことから「家督を継がず」とされたと思う。まさに、政信の政治的戦略であった様に思われる。これをまとめると、文明15年に、12代尚信が早世した為、急遽、満重が寺池宗家を継ぐことになった。
その時、伊達家より嗣子として宗清を迎いれていた為に、日和山城主となるべく重親を廃嫡させ江刺城主にしたと思われる。この経緯がある為に、重親の第三子重信(後の晴重)を寺池の正嫡としている。
1497年 明応6年 ・1497年明応6年には、江刺隆見の江刺方が敗走し、争乱は収まっかのようになった。
1498年 明応7年 ・1498年明応7年には、富沢氏とみざわし上形氏うわがたしの両氏が、私事の怨みより、二迫彦二郎にはざまひこじろうを強引に切腹させた。大崎探題により上形氏が仕置されたので、この片手落ちに不服を持つた、葛西家臣柏山氏、栗原郡の金沢氏、磐井郡の黒沢氏は、富沢河内守を討ち取り大崎探題に背いた。
・1498年から1499年明応7年から8年には、大崎氏の内紛が葛西領内も波及し、奥州探題大崎義兼おおさきよしかねを支持する薄衣氏うすきぬし江刺氏えさしし葛西太守政信かさいたいしゅまさのぶ柏山氏かしわやまし大原氏おおはらし等との対立争乱が起きた。所謂、「明応の合戦めいおうのがっせん」が始まった。
この合戦は、明応8年の冬になると、ますます激しさを増し、葛西領内全域に広まったともいわれている。この合戦には、本吉郡の元良信濃守清継もとよししなののかみきよつぐ小泉備前守こいずみびぜんのかみ岩月式部少輔等いわつきしきぶしょうゆも加わっていたと見られる。薄衣氏が、この合戦の窮状を伊達成宗だてなりむねに書状持って救援依頼したのが、「薄衣状うすきぬじょう」である。このような事態に、伊達成宗が仲裁に入り合戦は終了している。しかしながら、これ以降、家臣団の統制や支配が容易でなくなったと思われる。
・1498年明応7年~1499年明応8年に、葛西領内で擾乱じょうらん(入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと。)が起こった。この頃は、葛西・大崎氏の両氏間で領地境界の問題で対立し、時期で、余目記録によると小田保・荒井七郷は従文治給主の知行。大崎御下候て十二郷大崎御知行候を、伊達成宗以調法遠田之為替地遠田四十七郷・荒井七郷当年永正十一年より四十三年前也。かさい浄蓮へ相渡也と記されている。小田保は後の涌谷を中心とした地域で、荒井郷もその近辺であったと思われる。伊達成宗の調停により、小田保は葛西氏に、遠田郡西部は大崎氏の所管となった。
1499年 明応8年 ・1499年明応8年10月に、葛西政信かさいまさのぶが、宗清むねきよに改名(疑問はあるが)した矢先に、葛西一族吉田村(宮城県登米郡米山町)の末永兄弟すえながきょうだい清蓮きょうれん)の政信暗殺未遂が起きた。このれは、30年前に葛西太守持信に背き殺された末永一族の遺恨によるもので、末永氏が剃髪して出家することで落着した。
・1499年明応8年には、薄衣氏の反乱が起こり、葛西宗家の率いる大軍に攻撃された。この苦境に、薄衣氏は、伊達成宗に救援を依頼する文書を送った。所謂、1499年12月13日付けの「薄衣状」である。
薄衣美濃入道経蓮すすきぬみのにゅうどうきょうれんは、大崎公方に協力し、佐沼城攻略に参加した。この時佐沼城主は、大崎義兼に拮抗していたからである。経蓮が大崎氏に通じていることで、葛西宗家が大軍を率いて薄衣氏の居城に襲いかかった。この苦戦の中、伊達氏に支援の依頼したことである。佐沼近郊は、葛西・大崎両氏の拮抗する場所で、衝突が絶えず行われた。
・1499年明応8年12月13日の大崎氏に味方した「薄衣美濃入道の状うすきぬにゅうどうのじょう」をみると、大崎氏は、胆沢の柏山氏を攻めるべく為に、石川越前禅門いしかわえちぜんぜんもん中目禅門なかめぜんもんの二人を使者に、江刺三河守えさしみかわに支援の要請をしたり、南部糠部なんぶぬかべ三千騎と斯波・稗貫・遠野・和賀の煤孫すすまご氏の軍勢を胆沢の大林(百岡)に布陣させたり、羽州の仙北・由利・秋田等の兵を颪江おろしえ(仙北街道)を越えさせて寺窪(金ヶ崎町永徳寺)に陣を置き柏山氏包囲を手筈てはずさせたとある。
・1499年明応8年には、葛西一族の磐井郡薄衣美濃入道経連が、大崎探題に協力して、大崎探題義兼に叛く佐沼城主を攻め落した。しかし、逆に、葛西太守政信が、薄衣氏の居城を攻撃した為に、伊達成宗に援軍を要請せざるをえなくなった。
このことを契機に南部・秋田・葛西氏はもちろん、奥州全体が騒乱になるかと懸念していたけれど、伊達成宗がこの大崎内乱の仲裁に入り収拾させた。
1503 年~ 永正年代 ・1503年~1517年永正年代に入ると、石巻日和山派の家臣が、日和山城主武蔵守宗清ひよしじょうしゅむさいのかみむねきよを担ぎ、桃生郡七尾城主山内首藤貞通ものうぐんななおじょうやまうちさだみちと戦いを始めた。所謂、桃生中島合戦と言われる。
1504年 永正元年 ・1504年~1510年の永正年間には、葛西氏十四代太守晴重はるしげ(稙信)の頃、他諸氏を排除すべく攻略をはじめた。
・1504年永正元年春に、磐井郡東山大原氏と気仙郡浜田氏の争いが起こった。
・1504年永正元年に、信夫館を退去したと言われてる弟佐藤信宗さとうぼぶむねは、下信夫館(大東地内)に住み、八代信郷のぶさと 佐藤四郎大夫佐渡さとうしろうだいふさどは、上信夫館(大柴奥地)を築城し居住した。
・1504年永正元年7月には、大原信明おおはらのびあき浜田基綱はまだのぶつなが戦っている。この戦いで、熊谷直氏くまがいなおうじの長男の直恒なおつねが、浜田軍を破り、永正元年7月27日に、葛西重信かさいしげのぶ(別名:晴重、稙信)より小梨村こなしむらに三千苅、月館村(東山築館村)に八千苅の領地を加増された。この熊谷直氏は、気仙沼から大原に移住してきた人物であり、大原熊谷氏の祖となった。
1505 年 永正2年 ・1505年永正2年には、薄衣氏、江刺氏と葛西氏、柏山氏、本吉氏、馬籠氏が戦いを始めた。さらには、葛西太守支流の本吉郡の清水川の本吉氏と本吉郡馬籠城主馬籠氏とが争いを始めた。この時、馬籠氏の子政次が永正2年に、領地をめぐって本吉信胤と合戦し戦死した。 これ以降馬籠氏と本吉氏は犬猿の仲となって代々合戦を繰り広げている。
・1505年永正2年に、薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していった。
一方、大崎探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものとされる。

1506 年 永正3年 ・1506年永正3年には、葛西氏に対抗する為に、桃生郡山内首藤氏ものうぐんやまうちすどうし深谷郡長江氏ふかやぐんながえし登米郡登米氏とめぐんとめしは、三郡一揆を結んで、谷冶部大輔たにじぶだいゆうが葛西重信(晴重、稙信)と中津山で戦っている。又、以前にも、長江尚宗ながえひさむね葛西政信かさいまさのぶと中津山で戦っている。
1507 年 永正4年 ・1507永正5年6月8日に、馬籠治郎左衛門胤宗まごめさえもんたねむねが、東山長坂で討死した。
・1507年永正4年9月に、流郷ながれのさとで、金沢氏と寺崎氏が領地争いをして戦った。
・1507年永正4 年11月26 日馬籠長之助成胤まごめちょうのすけなりたね宛、葛西左衛門尉かさいせもんのじょうの実行状によると 姉帯郷、 中野郷、 小山郷、 百岡郷、 堀切郷の5 郷を与える。とある。堀切郷のほか4 郷から170 貫の知行を与えられたことになる。
・1507年永正4年には、馬籠長之助成胤は、堀切に舘を築いて移り葛西氏配下の堀切、馬籠舘の祖となりました。
・1507年永正4年には、大崎義兼と葛西稙信(政信の子)とで戦いが起こった。
・1507年永正4年に、金沢の金沢氏は、峠城の千葉下野との争いがあった。金沢の金沢氏は、朝日館を居城に活動していたが、衰退し、1544年天文13年に没落している。また、金沢氏は、薄衣千葉氏の一族とも言われている。
・1507年永正4年に、桃生郡寺崎より弱体化した峠城の千葉氏に変わり移り住んだ。寺崎氏は、葛西氏の信任が厚く、天正末期まで流地域の重鎮で在り続けた。(寺崎氏)
・1507年永正4年に、長江氏と葛西氏が、矢本で戦っている。
1510年 永正7年 ・1510年永正7年に、薄衣上総介貞員すきぬかずさのすけさだかずが流の金沢兵庫介冬胤かなざわひょうごのすけふゆたねと戦いを起こし敗れた後、しだいに衰退の一途をたどる。薄衣氏は、松川・門崎に一族を分かち、松川氏、鳥畑氏と名乗り領地を固めた。(薄衣氏)
1511年 永正8年 ・1511年永正8年8月4日~10月まで続き、石巻日和山城主武蔵守宗清むさしのかみむねきよが永正8年に桃生郡首藤領ものうぐんすどうりょうに侵入し、永正11年10月8日に首藤貞通すどうさだみちの降伏で一応落着した。
<この戦いの経緯は>
・1511年永正8年8月4日に、石巻日和山城主武蔵守宗清むさしのかみむねきよが手勢や援兵を率いて、海路遠島を経て本吉郡南方に着岸上陸した。その所で、待機していた石巻日和山派の葛西家臣と合流し南下を進め、桃生郡首藤領に侵入した。
・1511年永正8年9月には、中島七尾城を包囲し、10月8日に首藤貞通が降伏した。
<以上のようであった>
・1511年永正8年に、桃生の山内首藤やまうちすどう氏を討ち、登米行賢とよまぎょうけんを臣従させ、江刺元良えさしもとよし氏を討つなど、急速に領地を獲得し、諸氏を家臣団に組み入れ領内一元化の構築を図ったと言われている。特に、1511年永正8年の「いたち沢」の戦いについては、石巻城主葛西宗清が桃生郡の山内首藤や登米太郎行賢とよまたろうぎょうけんなどを攻め、石巻から清水川(志津川)に上陸し、北上山地を越えて米谷を排除し、更には楼台を攻め登米行賢(伊藤豊後と記されているが、恐らくは、登米太郎行賢と思われる。登米太郎は、玉山の月輪館の附近で、楼台の近くに住まいして思われるからである。)を、宗清軍は「いたち沢」に追い詰め降参させたと言われている。この後、登米太郎は、葛西氏に臣従することになる。さらに、大崎氏との境界線での争いが絶えず、常に対立関係にあったとされ、時には伊達の仲裁や干渉もあったが、文明年間より両者滅亡するまで対立は途絶えることなく繰り返されたと記されている。
1512年 永正9年 ・1512年永正9年9月に再度合戦が起こり、1512年永正9年9月3日に山内首藤氏やまうちすどうが滅亡したと言われている。資料として、塩釜首藤家しおがますどうけの系譜には、1511年永正8年8月の合戦において、柳津甲斐守直継やないずのかみなおつぐが東方陣将となり、元良播磨守春継もとよしはりまのかみはるつぐが西方陣将となり合戦崎に向かったと記されて残されている。
葛西宗清は、永正8年~9年で桃生郡山内首藤氏を滅ぼすと、寺池の太守の重信(後の稙信)の許可をもらい、寺池に参じ、引き続き寺池に留まったと言われている。この一連の行動は何故であろうか、推測してみる価値がある。宗清は、石巻葛西氏に伊達家より嗣子として迎え入れられた人物、当時の石巻日和山城主葛西満重かさいみつしげ(後の政信)が、長男重親しげちかの廃嫡を決め、宗清を伊達家から嗣子と迎入れた経緯がある。葛西太守の早世により急遽、葛西満重が寺池宗家を相続することになり、満重は寺池に移ることになったが、宗清も同じく寺池に移るべきところを、石巻日和山城主を相続させた。また、廃嫡させた長男重親の第三子重信(後の稙信)を寺池宗家の正嫡にしたことが、後の宗清寺池滞留の引き金となったものと思われる。 葛西太守稙信かさいたいしゅたねのぶが、宗清の心情を考慮して寺池に参じることを許したものと推測される。
この様に、永正年間は、宗清よりの石巻派と寺池派に分かれ、対立が激しさを増し、紛争が絶えぬ様になった。さらには、葛西宗族の本吉北方の熊谷氏ような豪族までもが反抗を繰り返すようになったとも言われている。宗族が反抗するわけは、先代政信が寺池出身というだけで、石巻支流から宗家を継承したことへの不満からであったともいわれている。
1514年 永正11年 ・1514年永正11年に、葛西領内の東山城主が、家臣薄衣隼人うすきぬはやと不調法ぶちょうほう(不始末)により知行地を 没収した。このことにより、薄衣隼人は城主を殺害し逃走、旧縁の柏山氏を頼った。柏山氏の口添 えにより、志和の家老役になって千田氏を名乗った。これに関する文書が残されている。
 「若柳中屋敷千田亀治氏蔵書」によると
「千田隼人勝政、母ハ薄衣日向女。東山ノ内薄衣郷知行三拾貫文、長坂家より拝領之所、薄衣無調法 ノ為、知行召上相成、薄衣隼人残念二思。永正十一年五月二日主人長坂殿ヲ殺害及怠多所、遂二当家親子間柄知行召上相成、無二余儀一百岡柏山家旧縁二付、柏山刑部少輔胤定之口入以而、紫波皆川御所城主志和家老二相成、館脇二居住。是当千田氏 初代七十三貫文知行拝領」 とある。
・1514年永正11年5月に、柏山氏は、百岡二郎の支流水沢安土呂井あとろい(跡土呂井)館主岩渕左京大夫胤成いわぶちさきょうだいふたねなりの二男左京内春信さきょうないはるのぶに、安土呂井郷あとろいのさと内に高七貫文の土地を与えた。これにより、春信は、母方 の三宅姓を名乗るようになった。
この与えられた領地内には、跡呂井水戸あとろいみなとがあり、船の往来や穀物の倉庫が立ち並んでいるところで もある。この地は、現在、前沢町六月入から北上市下鬼柳の白髭社しらひげしゃにあたる。 伊達氏の動きとして
・1514年永正11年に、伊達尚宗だてひさむねが62歳で没し、第二子の稙宗が十四代になった。母は越後国主上杉定実えちごのくにうえすぎさだざねの娘、積翠院せきすいいんである。従四位下左京大夫に任じられた。 伊達稙宗が、最上氏と村山郡長谷堂で戦い、一千人余りを斬って勝利した。 稙宗の妹を最上義定もがみよしさだに嫁がせた。
1515年 永正12年 ・1515年永正12年には、葛西稙信かさいたねのぶ大崎義直おおさきよしなおが吉田村や登米郡大沢村で戦っている。
・1515年頃永正年間に、磐井郡津谷川邑の菅原朝房すがわらともふさの三男小四郎直方こしろうなおかたは、馬籠邑主馬籠修理政次まごめむらしゅまごめしゅりまさつぐが葛西宗族本吉大膳信胤ほとよしだいぜんのぶたねの叛乱で清水川(志津川)の戦いに馬籠氏を応援従軍して先陣をとり軍功挙げたので、葛西稙信より本吉郡小泉邑及び山田邑などの所々に采地百余町を賜り屯将にされた。長方の室(妻)は、馬籠修理政次もむすめと言われている。長方の長男菅原孫四郎長成すがわらまごしろうながなりは、本吉郡山田邑に移り住んだと思われるが、山田邑の居所は記載されてないので、恐らくは山田氏の住む八幡館前に居住していたのではないかと思われる。長成は、葛西氏歴代(晴胤、親信、晴信)に仕えたという。
1519年 永正16年 ・1519年永正16年4月3日に、芳賀新左衛門常俊はがしんざえもんつねとしは、葛西宗族岩渕近江経平いわぶちおおみつねひらと藤沢邑と戦い、敗戦の責任をとり49歳で自害をした。さらに、常俊から代が続き、常定(長男)、常勝(二男)・・
・1519年永正16年には、藤沢岩渕氏ふじさわいわぶちし津谷川芳賀氏つやかわはがしとの争いが起きた。
大崎氏の動きとして
・1519年永正16年に、大崎義直おおさきよしなおは14歳になり、室町幕府十代足利義稙あしかがよしたねから家督相続を意味する「義」の一字を拝領し、正式に家督相続をした。
1521年 大永元年 ・1521年大永元年に、細川高国ほかわたかくに管領の執事の細川平賢ほそかわひらかたから8月23付けの書状を賜る。これによると、「太刀一腰・銭五百足を受領した、有難く思う。ついては祝儀として太刀一振・段子一端・赤引合十貼を送る。」とある。これは、葛西重信が、 後継としての届けと、本領安堵の許しを得る為の貢納品に対しての御礼状と思われる。
・1521年大永元年に、寺崎茂経てらさきしげつね葛西太守重信かさいたしゆすげのぶ晴重はるしげ)に背いき、北部では紫波郡郡山で和賀氏と南進を目指す三戸(糠部)南部氏と戦いが行われた。
・1521年大永元年に、九代信基 佐藤彦四郎 越前きゅうだいさとうひこしろうえちぜんは、葛西左京大夫持信かさいさきょうだいふもちのぶに仕え、登米郡に采地百貫文余りを賜り、寺池城下に居住したと言われている。
・1521年大永元年に、小岩氏は、柏山氏の推挙により。葛西壱岐守政信かさいいきのかみまさのぶの近侍し、封を受け磐岩井郡百岡村に居住する。1534年天文3年4月に、兄播磨守信実はりまのかみのぶざねが、磐岩井郡萩野庄市野々村釣尾館いわいぐんはぎのしょういちののむらつりおかんに、弟越中守信行えっちゅうのかみのぶゆきは同郡市野城に移りのちに黒沢城に居住する。これは、大崎境の守りとして葛西氏が配置したということで、小岩氏の武勇を高く評価していたので、胆沢郡より転住させたということである。
したがって、小岩一族の所領として、市野々、上黒沢、達古袋、沼倉、赤児、赤荻の各地となり、葛西領西北部の守りを固めることになったと言われている。
小岩氏は、甲斐源氏武田氏の出自で、寛正年中(1461年から1466年)間に、忠成が足利将軍義政から封を信濃に与えられ、小岩郷(埴科郡ヵ)にいたので小岩氏を称した。その子忠行に至り、1479年文明11年羽州奉行となり河辺郡に移った。忠行の子定行を経て孫信実・信行の兄弟が、1518年永正15年に故あって将軍家の咎めを受け、出羽所領を没収され子弟宗族を挙げて外祖父である胆沢郡永岡村の柏山兵部に身を寄せた。
1522年 大永2年 ・1522年大永2年に、葛西重信かさいしげのぶが、将軍より緯を拝領し、左京太夫晴重さきょうだいふはるしげと改め、その御礼に御太刀(国吉銘)一腰・黄金十両・御馬(鹿毛)二疋を細川高国管領に献上した。その為、12月21日付け「御教書」を戴いたと伝えられている。「葛西家譜」による。
伊達氏の動きとして
伊達稙宗は、従四位下奥州守護職となり、最上氏と葛西氏と争った。
1523年 大永3年 ・1523年大永3年に、葛西晴重かさいはるしげ守信もりのぶ父子と大崎義直おおさきよしなおが、深谷の矢本で合戦をおこなったが、大崎 氏が敗れた。この時、出陣した水沢城主佐々木信義ささきのぶよしが討死をした。
1524年 大永4年 ・1524年大永4年に、10月24日付けの12月7日着の管領細川高国の書状が残されている。「公方様の御礼のことについて、葛西陸奥守の使者として、岩渕紀伊守・伊藤大倉少丞が参詣し、今下国する 路次煩い無く様に思う、喜悦きえつと為す可く候」とある。
伊達氏の動きとして
伊達氏は、大崎氏に代わり守護職となる。伊達家文書にも、細川高国が伊達稙宗へ守護職選任を報じた書状が残っている。「奥州の守護式は秀衡己来・・・種々苦労仕り調下申し候」とあり、幕府内でも相当な異論があったと推察される。
これについて、少々疑問を呈するところがある。奥州藤原氏以来の守護職と言えば、陸奥守であるわけであるが、葛西氏も満重に続いて晴重も陸奥守と称した事が、幕府文書にも残されていた。同時期に容易に与えられない陸奥守が、葛西氏と伊達氏が重複した事がどの様なことを意味するものか疑問である。 恐らく、葛西氏は、幕府において評価が高かった事もあったので、単なる修飾的称号で与えられたと思われる。葛西氏にとっては、相応しい権威の象徴となったのであろう。一方、伊達稙宗は、これを契機に奥羽諸将に対して守護職の職権を行使していく事になった。
・1524年大永4年に、東山では、薄衣清貞と千田重政と争っている。
1528年 享禄元年 ・1528年享禄元年頃には、大崎領内であった佐沼が葛西領地になった。
・1528年享禄元年頃に、伊達氏と芦名氏が、葛西氏を攻めて、りんこう館(石巻日和山城と思われる。)を攻略した。この戦いは、伊達稙宗が何らかの理由で葛西氏を咎めるために、芦名盛舜あしなもりきよの加勢をもらい出陣 した。葛西太守は、誰かは疑問の余地が残るが、葛西稙清かさいたねきよがその人物であろうと推測される。葛西稙清は、晴重の嫡男であり、1523年(大永三年)伊達稙宗だてたねむねの子である牛猿丸を娘に入嗣させ、後継者とした人物である。 この戦いで包囲された葛西軍が、伊達氏の機嫌の忖度そんたくをし稙清を血祭り上げ、牛猿丸(尚清=晴清)を後継として事態を治めたと思われる。しかし、牛猿丸は、葛西家と意見が合わず、伊達家逃げ戻ったとされ、後に、葛西晴胤かさいはるたねとして伊達家と葛西家の 掛け橋となった。
伊達氏の動きとして
・1528年享禄元年頃に、4月13日に伊達家臣桜田氏が、長井(長江氏の小野城と思われる。)に陣を構え、芦名軍も先陣四隊と後陣ニ隊が参加し、葛西氏拠点を包囲する中、6月13日に葛西太守が病死する。葛西軍は動揺し、遂には、9月30日に陥落した。戦いは、凄惨を極め、死者が多数出て伊達軍の勝利となり、葛西を領地化することになった。
この事件は、葛西関係文書にはどこのにも見えないが、福島県会津で発見された古文書がある。「塔寺八幡宮帳帖」と言われるものが、塔寺村の八幡神社に残されていた。その中には、 葛西主城攻略と太守死亡の事件が記されいた。
又、伊達文書「伊達・蘆名両家関係覚書」にも「・・・亨録(大永八年が8月20日に年号が改める)9月晦日 伊達家 葛西を被領侯由、葛西病死に付、如此之由 依って蘆名盛舜御加勢、人数被遺侯、後二番侯由・・・」と記されている。
1529年 享禄2年 ・1529年享禄2年に、江刺隆見えさしたかみが、東山の鳥海重純とりうみしげずみと境界争いで戦っている。
・1529年享禄2年に、本吉重胤もとよししげたねが、葛西太守晴重に背いている。
1531年 享禄4年 ・1531年享禄4年8月にも、葛西晴重と大崎義直が、佐沼及び新田を中心に衝突が起こり、磐井郡からも参陣する武将がいた。次のごとくである。
磐井郡 東小梨郷 西条景則
流の庄 日形郷 佐々木康綱
流の庄 奈良坂郷奈良坂貞信
流の庄 清水郷  高藤大学
西磐井 黒沢郷  黒沢信資くろさわのぶもと
1532年 天文元年 ・1532年天文元年に、東山の千田重純ちだしげずみと藤沢の岩渕信経いわぶちのぶつねが争いを起こしている。
伊達氏の動きとして
・1532年天文元年に、稙宗は、伊達郡西山城に移り、亀岡八幡宮を梁川から西山に移築創建した。
1533年 天文2年 ・1533年天文2年夏頃に、浅野氏あさのしは、先祖浅野小三郎定時あさのこさぶろうさだときが奥州に下り、葛西晴胤かさいはるたねに仕え、本吉郡山田邑に居住したと言われている。
・1533年天文2年に、気仙沼(新城邑)赤岩城主熊谷備中直景くまがいびっちゅうなおかげが反乱を起こし、同年3月に太守葛西稙信かさいたねのぶが兵を束ねて気仙沼に至り、赤岩城を討伐している。この争いには、涌津城主岩渕経文いわぶちつねぶみも参陣し、武功を挙げて本吉郡に采地十余町を賜ったと伝えられている。また、この争いには、熊谷直景の大叔父にあたる直勝(74歳)が長子と共に直景に味方したが、弟の直光(長崎館主)は、葛西討伐軍に加わり、骨肉の争いとなり、討伐軍の先鋒となって軍功をあげた。が、しかし、直景に味方した一族はみな惨殺されたと言われている。太守稙信は、直光の忠義・貞節を賞して、兄直景の領地を與え、子姪めいこの代まで赤岩城を守り、東山方面の備えをするように命じたと言われている。1533年に直光は、太守稙信に弟主計直脩を赤岩城に移す許しを得た。この様に、赤岩城の熊谷氏が惣領として葛西領東方騎士の将となり、これ以後長崎館主熊谷氏がその地位を占る様になった。
・1533年天文2年には、葛西太守晴重・晴清が、再び大崎義直と因縁の佐沼で戦いを起こし、葛西氏の勝利に終わったはずが、伊達稙宗の仲裁が入った。この仲裁で、大崎氏の探題としての威信が落ちた。
・1533年天文2年に、葛西晴重が、気仙沼熊谷直影と戦い、熊谷直影を討ち取った。この時の軍功により、石川肥前守彦次郎重冬いしかわひぜんのかみひこじろうしげふゆが、足利将軍義輝よしてるより「磐井郡松川村に5万苅」が与えられ、葛西家の旗下に入った。
伊達氏の動きとして
・1533年天文2年に、伊達稙宗は、家老六人衆の連署による土倉定目どそうさだめを定めた。家老六人衆は、金沢弾正左衛門尉宗朝かなざわだんじょうさえもんのじょうむねとも牧野紀伊景仲まきのきいかげなか牧野安芸宗興まきのあきむねおき中野上野親村なかのこうずけちかむら浜田伊豆守宗景はまだいずのかみむねかげ富塚近江仲綱とみずかおおみなかつなの重臣たちである。稙宗の嫡男(母は会津領主蘆名盛高あいずりょうしゅあしなもりたかの娘)は、将軍義晴よしはるの偏諱へんきを賜り晴宗はるむねと名乗った。
大崎氏の動きとして
・1533年天文2年に、大崎義直29歳で葛西晴重と境界線争いで敵地佐沼に侵攻した。これは、義直が奥州探題命(幕府より権限委任)で葛西側の訴えを退けようとしたが、葛西が従わなかった為の戦いとなった。しかし、大崎氏は惨敗してしまい、奥州守護職(守護大名)の伊達稙宗の仲裁で和睦を結び、葛西側の主張通りの境界線を引いて終わった。
惨敗の敗因は、大崎軍団の統率の乱れ、騎馬攻撃を生かしきれなかったことや、義直の強引な先制攻撃が原因であった。元来、義直自身が幼いころから”我儘で強引な性格”、家臣からも煙たがられた存在であった。 この惨敗を覆すかのように、その後、強引に上洛を決行する。
1534年 天文3年 ・1534年天文3年 月に、葛西太守が、磐井郡西部方面強化の為、胆沢郡百岡から小岩一族を転任させた。小岩一族は、武略に優れ、戦闘能力が高く評価されている一族で、磐井郡百岡に配置されたり、磐井郡西部に配置されたりしている。
・1534年天文3年6月に、大崎左京大夫義直おおさきさきょうだいふよしなおは、家臣の新田安芸頼遠にったあきよりとう(泉沢居城)の謀反に対して追討したが、打ち破ることができず引き上げた。頼遠が、謀反を起こした訳は、前年の葛西氏との佐沼の敗戦の責任を取らされたことにはじまる。 ・1534年天文3年8月に、三戸南部氏が北上地方に南侵したが、柏山氏と合戦、柏山氏は、これを打ち負かし敗退させる。この戦いで、石川越後守彦次郎重冬は軍功を挙げた。その功に胆沢郡下河原村内に三千苅、若柳村内に五千苅、磐井郡日形村内に4千苅、長嶋村内に三千苅と合わせて一万五千苅と本領に添えて葛西太守より与えられた。
「石川彦次郎氏所蔵文書」(奥州市水沢区佐倉河半入)
「今度南部衆与遂一戦、北七郎、六戸弥太郎始馬上十騎、雑兵共に、打取方無比類候、依之伊沢郡下河原ニテ三千苅、若柳村二而五千苅、磐井郡日形二二千苅、机島村二而三千苅、此度為二忠賞一、本領二相添、永代宛行者也、よって証文如くだん
天文三年八月七日       明吉(黒印)
石川越後殿  」

1536年 天文6年 ・1536年天文6年2月に、大崎義直は、再び新田頼遠を攻めようと進軍したが、玉造の岩手沢城主氏家氏に妨害され攻め入ることを阻まれた。これに対応すべく、やもう得ず伊達郡西山城の伊達稙宗のもとに赴き援兵を要請する。稙宗は、奥州北部への思惑を含め、この要請を受け入れることを決定をした。
・1536年天文6年5月下旬に、伊達稙宗は、大崎に出兵し、4ヶ月を費やして、9月11日に、氏家三河守直継うじいえみかわのかみなおつぐを打ち破った。
このことから、伊達稙宗は、勢力拡大に絶好の機会と捉え、宮城の国分市氏、高森の留守氏、志田 郡の古川氏、桃生郡深谷の長江氏、岩手沢の氏家氏等を迎合(相手に調子を合わせて気に入られようと努 める こと)させた。
 一方、この時期には、三戸(糠部)南部氏の動きも活発となり、岩手郡の雫石氏、志和郡の和賀氏、 稗貫郡の稗貫氏、遠野の阿曽沼氏を制したことから南部氏と葛西氏の攻守同盟が、険悪な状態に陥った。
伊達氏の動きとして
・1536年天文6年に、伊達稙宗は、家老、評定人等と合議して、式目六十九条を定めた。戦国時代の分国法ぶんこくほうとして名高い「塵芥集じんかいしゅう」である
1537年 天正6年 ・1537年天文6年に、三戸南部氏が、南進して再び和賀氏と交戦する事態となった。
1538年 天正7年 ・1538年天正7年4月に、二代常尚 芳賀新三郎 藤右衛門 薩摩にだいつねのはがしんさぶろうとううえもんさつまは、葛西晴信の近習となった時、葛西宗邑の戦いで、先陣し、著しい功績を挙げたので、晴信から感状を授けられた。
・1538年天文7年に、葛西高信かさいたかのぶ(晴胤)が、本吉の高田氏に、三戸南部氏の教唆にあった江刺氏を攻撃させた。
・1538年天文7年に、葛西高信は、勢力拡大のため、大崎義直と遠田郡西郷で戦っている。
1539年 天文8年 ・1539年天文8年9月10日には、三戸南部氏の南進を阻止すべく戦いで、武勲を挙げた者に恩賞が賜われた。その文書として残された「明吉状」がある。柏山明吉かしわやまあきよし名で、五千苅を賜ったとの内容である。
 柏山明吉の書状
「今度軍功比類なく候 これによって忠賞として伊沢郡柳田村にて二千苅、八幡村にて 三千苅 知行せしむべき者也
  天文八年九月十日 
      明吉(判)
  石川又十郎殿」

とある。
1540年 天文9年 ・1540年天文8年には、大崎地方へ領地拡大を狙っていた伊達稙宗だてたねむねが、小僧丸こぞうまるを強引に大崎義直おおさきよしなおの姪梅香姫ばいこうひめに婿入りさせ入嗣させた。
1541年 天文10年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして
・1541年天文10年には、田村郡主の田村隆顕たむらたかあきが服属し、これによって、伊達氏の四方の群雄は服属することになった。
1542年 天文11年 ・1542年天文11年2月に、山田邑の初代常勝 芳賀孫次郎左京はがまごじろうさきょうは、葛西高信かさいたかのぶ(後の晴胤)の近習となり、本吉郡に采地百余町を賜り、津谷川邑から分出して山田邑要害館に居住した。
・1542年天文11年2月17日頃、葛西高信(後の晴胤)が、蜂屋二郎左衛門はいちやじろうさえもん三田主計頭みたかずえのかみ大内彦三郎おおうちひこさぶろうの胆沢郡内の三諸将に宛てた書状が残されている。
「長沢ノ惣太郎が注進してきた。それで、そのことによってよくお前達三人で相談協議し仕置するように、もし相違あって意見ある場合は、後刻申し越されたい」との書状であった。
これから推測するに、胆沢郡内に何か騒乱が発生したか、胆沢郡主に相談なくして、太守葛西氏に相談したところから、柏山氏自身の問題なのか、に推測される。太守葛西氏は、長沢惣太郎ながさわそうたろうは、胆沢郡永沢邑(現;金ケ崎町)の永沢の人でもあることから、永沢惣太郎ながさわそうたろうが不都合な胆沢情勢を持ち込んだものと思い、胆沢郡内の問題であれば、この書状は三氏諸将に指示依頼したものと思われる。
・1542年天文11年3月に、葛西高信が、自ら領内鎮定の為、江刺重見えさししげみを攻めて討ち取っている。恐らく、長沢惣太郎の注進は、このことに関しての動きと思われる。
・1542年天文11年6月に、「天文の乱」と言われる、伊達氏内部で内訌が発生した。
その内訌の経緯は、伊達稙宗が5男実元さねもとを越後の上杉兵庫頭定実うえすぎひょうのかみさだざねに養嗣子として送り込むため精兵千騎を添えて送り出そうとしていたが(注;稙宗の生母は、上杉定実の娘)、嫡子晴宗の反対にあい、晴宗は、稙宗を西山城に幽門してしまい、縁組を破談にしたところにはじまる。これを機に、伊達稙宗と晴宗の父子対決が始まり、伊達氏内部でも稙宗派と晴宗派に分かれて内乱状態となった。この影響は奥州各地に及ぼし、奥羽諸将は稙宗派と晴宗派と分かれ相争う事態に陥った。
「天文の乱」の影響を受け葛西領内でも争乱が起きている。

1543年 天文12年 ・1543年天文12年に、伊達晴宗が葛西家臣大原氏とよしみを通して、柏山氏、富沢氏を巻き込み、栗原郡二迫の袋中に進撃する依頼を受け、稙宗と行動を密にしていた葛西太守高信とこの袋中で一戦を交えている。
しかし、葛西高信は、稙宗と密接な関係ばかりではなく、稙宗と一戦交えている時もあったようである。
・1543年天文12年9月7日の「高信状」に、葛西高信が、伊達稙宗と一戦を交えた時、危急の状況に陥いった高信を三田主計頭が武略を使い、危急を救い勝利に導いたとのことで、高信より恩賞を賜った内容である。
「今度 伊達稙宗と一戦を遂ぐ、味方敗軍に及び候処、其方武略をもって諸勢を略し、勝利を得候事、葛西前代未聞、此の事に候。これに依って忠賞として伊沢郡の内白鳥村五千苅、本領に相添永代に宛行う者也。仍て証文如件
  天正十ニ年九月七日
                      高信(香炉印)
  三田主計頭殿          」

とある。
戦いの訳は定かではないが、葛西高信と伊達稙宗と戦ったが、敗北寸前に、家臣三田主計頭みたかずえのかみの武略で勝利した模様で、その功績で三田氏が恩賞をもらったようである。
1544年 天文13年 ・1544年天文13年に、葛西氏の稙宗派と大崎氏の稙宗派の派内争いが起こり、伊達家家臣国分能登守が斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、伊達稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った。
・1544年天文13年には、奥州各地の戦いの継続で、各諸将が疲弊したのか、葛西氏、大崎氏、伊達氏が和睦したと「南部葛西系図」に記されている。
1545年 天文14年 葛西氏大きな動きなし。
伊達氏の動きとして
・1545年天文14年に、葛西太守が、花泉の金沢胤正かなざわたねまさを攻めている。
大崎氏の動きとして
・1545年天文14年には、大崎義直は、大崎一族の羽州山形城主10代最上義守もがみよしもりの口添えもあり、室町幕府から左京太夫(奥州探題)に任官を受ける。任官後、小野城(内ヶ崎城)から中新田城に移る。
その後、義直は左京太夫任官後上洛したが、将軍足利義晴に拝謁できず、足利一門でもある「大崎公方」として、著しく権威を損なわれる形となった。 拝謁ができなかったのは、将軍足利義晴が当時流行した疫病を恐れ、越前国へ行き、義直と対面できなかった為であった。将軍からは書状つきの鎧一式を拝領したが、奥州諸大名からは軽んじられ、家臣からも不協和音がで始めた。
1546年 天文15年 ・1546年天文15年6月には、伊達稙宗が西山城を奪還、伊達晴宗だてはるむね白石宗綱しろいしむねつなは白石城に逃げ込んだとある。
1547年 天正16年 ・1547年天正16年6月に、三代朝常 芳賀藤十郎因幡さんだいともつねはがとうじゅうろういなばは、気仙郡の浜田陣に弟朝美、朝時、常清と共に参戦し軍功を挙げた。この時、末弟常清は、先陣したが傷を負い22歳で戦死した。
・1547年天文16年には、葛西高信が、三迫を取り戻し鎮定した。所謂、葛西「三迫戡定みはざまかんてい」と言われている。
1548年 天正17年 ・1548年天文17年4月に、葛西高信は、葛西家臣東山の長坂氏と松川の鳥畑氏と戦っていた。また、留守氏(晴宗派)と三分一所氏(稙宗派)も争っている。しかしながら、伊達氏内部では、稙宗派が晴宗派に敗れている状況になっていた。
・1548年天文17年5月には、将軍足利義晴が、晴宗に書状 を持って稙宗と晴宗父子の和睦を命じた。9月には、ようやく和解が成立した。
1549年 天文18年 ・1549年天文18年に、葛西太守高信は、晴胤と改名し間もなく、三迫の沼倉家頼ぬまくらいえよりを討伐している。
1550年 天文19年 ・1550年天文19年6月には、長部氏と浜田氏が境界争いをしている。
・1550年天文19年8月には、大原の亀卦川氏きけがわしと東山の長坂氏も境界争いをしている。
大崎氏の動きとして
・1550年天文19年に、大崎義宣おおさきよしのぶは、大崎義直より小野城に帰城の命が発せられるが、磐手沢城を密かに脱出をし高泉城に入り、葛西領の石巻の葛西当主葛西晴胤かさいはるたね(伊達稙宗の子牛猿丸、義宣の弟は葛西晴清)を頼ったが、入城認められず、最も頼りとなる伊達稙宗のいる丸森城をめざした。しかし、大崎側の刺客によって、飯野川辺の辻堂で惨殺される。義宣の墓は、桃生郡河北町大森辻堂にある。法名は「玉竜院殿輝山道宣大居士」
1551年 天文20年 ・1551年天文20年に、黒石常陸守と江刺三河守とが境界争いで争って、江刺氏が敗北し領地を逃れたが、翌年春に再び戦をして、江刺氏が黒石氏を討死させた。ところが、江刺氏は、江刺郡内で兵糧を徴収できないばかりか、民心が動揺し統治することができない状態に追い込まれ、さらに、郡内から反対され戻ることができずに、東山の興田に浪人せざるを得なくなった。これにより、江刺三河守も黒石氏も姿を消してしまった。しかし、別の江刺氏が史上に現れる。
1552年 天文21年 ・1552年天文21年には、葛西太守晴胤は、大崎氏と戦っている。
伊達氏の動きとして
・1552年天文21年に、懸田俊宗かけだとしむね父子が謀叛を起こし、翌年7月に討伐された。
伊達晴宗は、家臣に知行地の証として証文を与えて、騰本三冊製本し保存した。所謂、「晴宗采地下賜目録はるむねさいちかしもくろく」という。これにより、晴宗が部下との結びつきを確認したもので、戦国大名としての伊達氏の主従関係を確立した。
1553年 天文22年 ・1553年天文22年6月には、葛西晴胤の6男信胤のぶたねが、柏山氏・赤井氏の支援を受けて大森城に籠城している。この頃は、謀反や境界紛争が絶えず起こっていた。
本吉氏(葛西持信の弟重信からわかれた直系)が謀反を起こして争いが起こったり、遠野の阿曽沼氏と江刺氏も争っていた。
・1553年天文22年9月には、松川氏と門崎氏が同族間紛争を起こしている。
・1553年天文22年に、定時の長男長三郎時光が、葛西晴胤の臣下となり、牡鹿郡渡波に住まいしたが、1557年弘治3年春に、亡父定時の住まいした本吉郡山田邑の要害に移り住んだ。時光は、隣邑の馬籠遠野館の馬籠氏とは姻戚関係で、時光の妹は、馬籠宮内左衛門まごめくないさえもんの室(妻)となっている。
時光の長男浅野三郎左衛門時重あさのさぶろうさえもんときしげは、父に続き山田邑要害に居住した。1564年永禄7年頃に、郡内の歌津邑に移り三島塞(館)に居住したと言われている。
「葛西真記録諸氏ノ輩」によると、「浅野越中三郎本吉伊里前あさのえっちゅうさぶろうもとよしいりまえ」とあるのは時重のことと思われる。浅野氏の先祖は、越中国に居た関係から「越中」と呼ばれたと推測される。
1555年 弘治元年 ・1555年弘治元年3月に、黄海きうみ(川崎村)深堀氏と花泉日形の小野氏が戦っている。
・1555年~1557年弘治元年~永禄初め頃に、伊達晴宗が、従四位下奥州探題に任じられ、同行した重臣の桑折播磨守貞長<こおりはりまかみさだなが牧野弾正正忠まきのだんじょうまさただが、中奥の守護代に補任された。
1558年 天正16年/永禄元年 ・1558年天正16年4月16日に、長成の子の菅原小四郎長定すがわらこしろうながさだは、気仙沼浜田の戦いで、笹ガ嶺の麓ささがねのふもとの浜田陣に参陣し、気仙勢の矢作主計やはぎかずさを討ち取り、6月2日に葛西晴信より気仙郡木田村に二千苅、広田村に三千苅を永代宛行う旨の黒印状を賜ったと言われている。長定は子が無く、母の弟孫九郎長資まごくろうながすけを家督にした。
・1558年天正16年春に、気仙郡の葛西宗族 浜田安房広綱はまだあわひろつなが反乱を起こした。本吉・浜田両氏の乱が、本吉郡内で起こり、浜田氏が本吉郡北方岩月村に侵入し、一端収まりかけたが、年が明けると侵攻を始めた。本吉氏との争いで、太守晴信の裁定に不満を抱いたと思われるからである。浜田安房は、勢力を拡大しながら本吉郡に入り込み、3月に始まってから4月末までには、下鹿折しもしかおりまで到達していたと伝えられている。一方、葛西太守晴信が、浜田の乱と知るや否や、領内勢力に出陣を命を出し、自ら気仙沼に出向いて行、長崎の突端笹が嶺ささがねに布陣した。長崎館主熊谷直資くまがいながすけと嗣子直長なおながに命じて、参陣する領内勢力を笹が嶺の麓に布陣の手配りをさせた。
浜田勢は、鹿折から気仙沼にしばしば出兵し、気仙沼の情勢を窺っていたが、5月半ばに下鹿折忍館の鹿折信濃時兼しかおりしなのときかねの軍を主力に浜田勢は、長崎を目指し侵攻を始めた。太守晴信は、長崎館の熊谷掃部直長くまがいかもんなおながに軍将を命じ、熊谷氏は、笹が嶺の麓に布陣している諸勢と共に、軽卒わずか百人ばかりを笹が嶺の下に陣を構えさせた。また、部下の騎士従卒を伏兵に潜ませた。鹿折信濃は、気仙口まで来ると高所(陣山)から先方を眺め、敵が案外微勢と思い、一挙に攻め寄ったところ、熊谷掃部は機を見て、伏兵を出し、笹が嶺下に入り込んだ敵を追い詰めて、大量の戦死者を出させた。さらに、高所に備えさせた30人の弓隊に後続の騎兵に矢を浴びせた為、鹿折信濃の兵は狼狽し敗走せざるを得なかった。この時、鹿折信濃は矢に当たり落馬し、西磐井郡日形の城主小野信道おののぶみちにより首を斬り取られたという。浜田の残兵は退却したが、並板等の狭い路に阻まれ、北山は高いところでもあるので、進退極まったと伝えられている。これにより、太守晴信は熊谷掃部直長の軍功を賞して、気仙沼七ヶ村の支配を許す感状を与えた。
・1558年から1570年永禄年間に、猪岡氏は、活動を初め、磐井川西北部猪岡村の地頭になっていると言われている。猪岡氏は、近世末期の伝承記録に載っていないけれど、猪岡家(宮城県刈田郡宮村)蔵で大現蔵の猪岡文書が残されている。
猪岡氏は、1400年応永7年から1590年天正18年の196年間猪岡村を領し、葛西晴信の信任厚く領内安堵に尽している。とある。
さらに、岩手県中世文書の中にも、猪岡氏に関する文書が、次の様に記されている。
満信軍忠状41 此度宇都宮逆意及一戦之所二軍功甚依之為忠賞岩井郡猪岡村一宇宛行任望自今以後可猪岡者也仍証文如
 応永七年八月七日           満信(黒印)
  猪岡丹後守
葛西晴信知行状203
此度為軍功賞岩井郡之山ノ目中尊寺村而堀村可旗頭
 一馬上   五拾騎
 一与力   百人
 一弓    三拾人
 一鑓    弐拾人
右相付候 依之為加増岩井郡之内平泉村二而三千苅黒沢村二而弐千苅猪岡二指添永代宛行者也仍如
  永禄三年七月十一日          晴信(黒印)
  猪岡又太郎殿
等の文書が残されている。

1559年 永禄2年 ・1559年永禄2年に、千葉豊後ちばぶんごの父左近大夫胤信さこんだいふたねのぶが没していると伝えているが、寛正年間より百年後に関してなので、出自は定かではない。
1560年 永禄3年 ・1560年永禄3年4月に、叔父の葛西信胤かさいのぶたね等を抑えて晴信が太守となる。
先代親信ちかのぶの死去や兄の信近のぶちかの死によって太守後継者に決まったことには、大きな思惑が絡んでいただと言われている。
そのこともあるのか、晴信は寺村に寄進をしている。
伊沢郡永徳寺一村無構事 「花押」
亡親石見守親平親((親信))永徳寺菩提、令寄進者也。仍如(よって)件(くだん)
 永禄三年四月弐十四日
 葛西壱岐守
       平晴信  花押
        (胆沢郡金ヶ崎町永徳寺文書)
・1560年永徳3年8月に、葛西太守晴信かさいたいしゅはるにぶが、気仙・本吉地方で一揆を起こした浜田広継はまだひろつな本吉重隆もとよししげたかを難なく抑えることが出来た。太守になって初陣の戦勝となり、27歳の若さもあり一気に、大崎地方に攻め込み遠田郡66郷を取り戻した。
・1560年永禄3年に、葛西十七代晴信は、遠田郡全域を取り戻し、領内に残る他氏をも征伐して家 臣団に組み入れた。
領内は元亀・天正時代になっても、領内での小乱が絶えなかったが、葛西の領地が田尻・松山・黒川にもおよび、胆沢(奥州市江刺区)・東磐井・西磐井・気仙・本吉・登米・栗原・桃生・牡鹿・遠田郡の10郡にもおよび石高35万石と呼ばれる大大名になっていたと思われる。
元亀・天正の頃には、日本の戦国末期で、中世の殻を打ち破り、新たな戦国大名が台頭し始めた時代でもあった。しかし、葛西氏は古い慣習から抜け出すこともできず、新たな時代に対応した組織作りが遅れ、領内統一も遅れ気味となり、他氏、特に、伊達の巨大化が進んでいるのを見過さざるを得なかった。依然として、葛西領内の小競り合いが続き、外への働きかけもできない(今で言う外交)状況で、領内統一が出来つつある頃には、天下の情勢も大きく変化し、豊臣の全国統一が間近に迫っていた。やがて、奥州仕置きを迎え葛西氏滅亡の時期を迎える。
1561 永禄4年 ・1561年永禄4年11月に、散発的に鳥畑胤正とりはたたねまさが、薄衣清正うすきぬきよまさを攻めたとされている。
・1561年永禄4年に、十代信敬 佐藤小次郎 越前じゅうだいさとうこじろうえちぜん(初名信種)は、葛西晴信に仕え、清水村・登米郡浅部村・黒沼村・吉田村等及び先代からの遺領一万二千五百苅の領知の「晴信状」を受け取ったと伝えられている。信敬のぶたかの室(妻)は、葛西家族馬籠大和重吉まごめやまとしげよしむすめである。
1563年 永禄6年 ・1563年永禄6年2月21日に、葛西右京大夫晴信かさいうきょうだいふはるのぶ下葉場村しもはばむら((水沢の下幅))三万苅を岩井郡内松河村の本領に加え、石川彦次郎肥後守久重いしかわひこじろうひごかみもりしげに与えて柏山伊勢守旗下としている。
1564年 永禄7年 ・1564年永禄7年頃に、浅野氏が山田村から歌津村の三島館に移住しのは、本吉大膳に備えるためで、馬籠氏からの要請があったからと推測される。
1565年 永禄8年 ・1565年永禄8年6月に、江刺郡((今の胆沢郡)相去あいさり)で、胆沢の伊沢氏と江刺の新渡戸頼長にとべよりながが争って、新渡戸氏が敗れている。これは、跡呂井あとろい館主岩淵胤成いわぶちたねなりの二男三宅左京内春信みやけさきょうはるのぶの子三宅刑部信光みやけぎょうぶのうみつが、同年2月9日に、伊沢郡相去郷に転任してきたことが原因と思われる。(岩淵氏は、跡呂井郷内高七貫文の領地与えられた人物で、百岡二郎ものおかじろうの支流である)
1569年 永禄12年 ・1569年永禄12年8月15日に、国見((北上の国見の寺)峠(ヵ))で江刺((江刺三州信時えさいさんしゅうのぶとき))・柏山((柏山伊勢守))・和賀((和賀丹波守))の三氏が会談協議している。内容は定かではないが、南部氏に対するものか、葛西氏に対するものか、大崎氏に対するものかと思われる。恐らくは、南部氏の南進に対抗する協議と思われ、葛西晴信の指示による密談とも思われる。
この協議の後、葛西晴信は、南部氏に先制するために遠野の阿曽沼氏を攻めたが、敗退してしまっている。
1570年 元亀元年 ・1570年元亀元年7月に、大崎義隆おおさきよしたかは、最上義光もがみよしみつの後ろ盾を利用して葛西領の流れ庄(花泉)に攻め入った。この時に、葛西家臣の間で意見が分かれて、大崎氏に味方する葛西家臣もでて戦いが行われた。
岩淵氏は、藤沢を拠点に、一族を曾慶・摺沢に居住させて、岩淵氏・摺沢氏と名乗った。1570~1590年元亀元年から天正年間に勢力を拡大しているなかで、1586年天正11年8月に、砂子沢の千葉氏を攻撃し破り、千葉氏を薄衣氏へ逃亡させた。
1571年 元亀2年 ・1571年元亀2年3月上旬には、大門仁王ヵ原だいもんにおうがはらで大激戦となり、胆沢郡上姉体かみあねたい館主千田豊後ちだぶんごが討死している。
・1571年元亀2年4月11日に、葛西太守晴信は、柏山兄弟の内紛の情報をえて、上胆沢下姉体館主大内氏と下胆沢前沢村の折居館主三田氏に結束を固める様に指示を出している。
・1571年元亀2年9月13日には、磐井郡内に一揆が起こり、三田刑部少輔義広みたぎょうぶしょうゆよしひろが一揆に参加して鎮静化させた。さらに、前沢村付近の不穏分子を討ち取り成敗してる。これらの動きは、南部氏の南進政策の調略の一貫と思われる。この様に、三田刑部少輔の働きで、南部氏兄弟の内紛注進や磐井郡の一揆を無事鎮静化できたことに、葛西晴信は、恩賞として、三田刑部少輔に、東山に八千苅、胆沢に一万五千苅を与えた。
1572年 元亀3年 ・1572年天正2年春に、本吉郡志津川城主(朝日館)本吉大膳大夫重継もとよしだいぜんだいふしげつぐを中心に、葛西宗家に叛乱を引き起こした。戦いは、本吉郡横山北沢で行われ、葛西晴信率いる胆沢、西磐井、流、東山の各武将が参陣し、本吉氏は降伏せざるを得なかった。
この戦いで、西磐井の小岩信明こいわのぶあきが、隊将となり数々の軍功を挙げたので、葛西晴信が恩賞として、水田三千八百苅と郡の南沢屯(村)に加賜された。
・1572年元亀3年に、葛西晴信は、大崎勢力が侮れない程に強まっている状況なので、翌年2月の雪解けを待って三迫諸郷と西磐井郡の小岩一族(武勇に優れた家臣団)に出陣の命令を出している。
1573年 天正元年 ・1573年天正元年3月4日に、葛西晴信は、三迫の岩ケ崎城を攻め落とした為、敗退旧葛西家臣で大崎方についた富沢氏、沼倉氏や大崎方の尾形、渋谷、狩野氏の3氏が葛西晴信についたとされている。この戦いで、前沢村三田弾正少輔が勲功抜群として、桃生郡内の寺崎村五千苅を8月2日付けで拝領した。
・1573年天正元年に、葛西晴信は、和賀義房わがよしふさに南部氏を攻めさせたが、逆に、7月下旬には九戸政実が南下して河崎城を攻められ、城を追われた河崎城主小野寺前司宗道おのでらぜんじむねみち(和賀氏の娘婿)は、寺池城の葛西晴信に嫡子善次郎信義ぜんじろうのぶよしを差し出し、家臣として従う事を誓った。
1574年 天文2年 ・1574年天文2年春に、本吉郡志津川村朝日館城主本吉大膳重継が反乱を起こし、横山村北沢で戦いが行われた。北沢の宿しゅくを中心に戦いは展開されたが、葛西太守晴信の出馬で鎮定され、本吉重継は降伏した。この戦いは、葛西宗族の主家(葛西宗家)に対する反抗であったようである。
この戦いに参陣した葛西家臣には、17~18名の軍功を挙げたものがいたと伝えられている。その中で、本吉郡平磯前浜の小野寺家所蔵の小野寺系譜に記されていたのは、東山小梨村の小野寺通次おのでらみちつぐが、本吉重継挙兵した時に、本吉郡横山村北沢に先陣切って参陣し、その軍功により葛西太守晴信より磐井郡に七千苅りの地を賜ったと記されている。 また、西磐井の小岩信明が、隊将となり数々の軍功を挙げたので、葛西晴信が恩賞として、水田三千八百苅と郡の南沢屯(村)に加賜された。
1575年 天正3年 ・1575年天正3年春に、本吉方面に反乱がおこり、南は志津川湾から気仙湾と中を挟んで北辺の広田湾に至る地域で争いが起こった。この争いは、本吉氏、熊谷氏、高田氏の沿岸地頭が、海上権益とで争ったのが要因である。
・1575年天正3年春に、本吉方面に反乱がおこり、南は志津川湾から気仙湾と中を挟んで北辺の広田湾に至る地域で争いが起こった。この争いは、本吉氏、熊谷氏、高田氏の沿岸地頭が、海上権益とで争ったのが要因である。
・1575年天正3年8月にも、本吉氏と気仙郡長部氏とお間で争いが起こったが、西磐井、胆沢の城主が動員され鎮圧された。その軍功に対して、各武将に晴信より恩賞が与えられた。
磐井関連武将として、次の文書が残されている。
今度元良大膳大夫長部長門守出入有之其方取扱ヲ以無事有之大悦此事侯 依レ之白馬村ニ而ニ千苅本領之猪岡村相添、永代宛行者也 仍証文如
天正三年八月十七日         晴信(黒印)
   猪岡弥太郎殿          (猪岡文書)
此度忠節無余儀事侯 依之一、蔵三柏一、小旗赤地白鳥井先年相免侯得共依忠節 我々家紋一、浅黄二三柏一、小旗黒地白ク月二星相逸者也 仍(より)如
天正三年八月十七日         晴信(黒印)
   猪岡左馬之助殿        (猪岡文書)
・1575年から1577年頃には、栗原郡の富沢氏が、三迫岩ケ崎城を拠点として、勢力を拡大し栗原郡の大半を勢力下に治めるようになっていた。富沢氏は、葛西一族の中でも巨族の位置にあった。しかし、その勢力拡大には精力的で、葛西領内でも他領域に侵入をしている。
・1575年天正3年に、富沢氏は、葛西氏に叛旗を翻した。
1577年 天正5年 ・1577年天正5年には、富沢氏は、流の庄の旗頭奈良坂氏と軋轢(仲が悪くなること)を生じて、小康状態を保っていた。
1579年 天正7年 ・1579年天正7年春には、流の庄峠城主寺崎石見守良継てらさきいわみのかみよしつぐが、岩ケ崎城主富沢日向守直綱とみざわひゅうがなおつなと軋轢(仲が悪くなること)を生じて、戦いとなった。
この戦いは、富沢勢力が流の庄に侵入したので、寺崎氏が葛西諸勢力の支援を受け富沢勢力を撃退し、追撃を加え岩ケ崎城まで追い詰め、富沢直綱を降参させた。尚、この戦いで多くの民家、寺社、仏閣が焼かれて焼失してしまった。富沢氏が、磐井郡の西南の山嶺を越えて流の庄に侵入した為、その通り道の民家、神社、仏閣がほとんどであった。この時に、大門地蔵堂が焼失したと言われている。
(別見解として、若干の相違点)
・1579年天正7年春に、磐井郡流れ郷寺崎良継が富沢日向直継に攻められ戦っている。この富沢氏の反逆に対抗して太守晴信は、東山□の小野寺主計頭おのでらかずえのかみ、胆沢の石川丹波守いしかわたんばのかみ、日形の増子左七郎ましこさしちろう、永井の加瀬谷源蔵かせやげんぞう、大原の芳賀伊勢守はがいせのかみ、石越の千葉肥前守ちばひぜんのかみ父子、本吉の熊谷菊之進くまがいきくのしんらを参陣させ恩賞を与えた。
 晴信が参陣依要請の文書がある。
今度、富沢日向守逆意す。其辺の野心の輩に同心令め、流の大門迄出馬の刻、寺崎岩見二打続き早速向て動き比類無く候。之に依って証文如件。
    天正七年二十七日
         晴信   黒印
   石川丹波守殿
この戦いにおいて、栗原郡岩崎の鶴丸城主富沢日向守直綱が挙兵し、磐井郡流郷に出陣して清水で戦い、峠の寺崎岩見守吉継てらさきいわみかみよしつぐと衝突して戦っている。寺崎岩見守は苦戦して、増子左七郎重清ましこしちろうしげきよの助けを得ている。(増子左七郎重清の入道名は、浄雲または常雲)
増子七郎重清もこの戦いに貢献したので晴信より恩賞を賜っている。 ・1579年天正7年3月28日に、増子左七郎は、太守葛西晴信より、寺崎に五千苅、大森山に五千苅、太田に二千苅、中津山に三千苅を賜った。また、増子左七郎は、東磐井花泉の日形増子氏ひがたましこしの宅地内に胆沢城主増子刑部□左衛門常雲之墓があることから、胆沢住人であったと思われる。
この頃、胆沢の柏山の内紛が元亀年間から続いており、葛西晴信の戒告や三田・大内両氏の和解斡旋などをしているが、一向にらちが明かない状態であった。
南部氏の南進を阻止する協議においても、柏山氏内では意見がまとまらず、意見が2分する程であった。柏山伊勢守明吉かしわやまいせのかみあきよしの子明国、明宗、明長、明胤が意見対立、明国は、葛西氏と今までとおり太守に協力することを主張、明宗らは、いつまでも葛西を堅持するのではなく、領民の生活を考えれば望みがもてるのは南部氏に求める下剋上的意見を主張した。一向にまとまらず、天正9年に柏山伊勢守明吉が亡くなってもまとまらず、さらに対立が激化していったと言われている。
葛西晴信は、この様な状況から胆沢諸氏に鎮定を命じたり、水沢城主佐々木将監実綱ささきしょうげんさねつなに3百騎をもって出陣させ大森城を攻めさせたりしたと言われている。
1580年 天正8年 ・1580年天正8年に、塚館の千葉氏は、葛西家臣同士の争いを避けるべく葛西太守に領地替えを申し出たといわれている。
1581年 天正9年春 ・1581年天正9年春に、磐井郡の黒沢氏と胆沢郡の柏山氏との間でも争乱が起きている。胆沢郡の柏山氏は、上胆沢大林(永岡)に居住していた、葛西有力家臣の大身者である。柏山明吉が没してから、その子明国と明宗の兄弟が、お互いに不和となり戦い争うようになった。家督相続は弟明宗が嗣いでいたが、争いに発展した。明国の娘が、下黒沢城主黒沢豊前信明くろさわぶぜんのぶあき妻となっていることから、柏山明国かしわやまあきくにを援護し、中務少輔明宗なかつかさしょうゆあきむねと衝突争いとなった。この事態に、太守葛西晴信は、胆沢郡内諸氏に鎮定を命じた。この命に水沢城主佐々木将監実綱が応じて、三百騎を率いて出動し、柏山・黒沢両氏の間を鎮定させた。
・1581年天正9年7月12日に、磐井郡内の黒沢氏と長部氏との間でも争乱が起きた。
黒沢豊前信明と東山の長部忠俊おさべただとしが、磐井郡狐禅寺村こぜんじむらで衝突を起こしている。その時に、西磐井上黒沢城主小岩越中守信明こいわえっちゅのかみのぶあき・栗原郡三迫片馬合上吉目木さんはざまかたませかみよめぎ城主千葉式部大夫胤成ちばしきぶたねなり・同舎弟千葉掃部介胤広ちばかもんのすけたねひろらが援軍支援したと言われている。
1582年 天正10年 ・1582年天正10年4月に、胆沢方面の騒乱に乗じて、糠部九戸左近将監政実ぬかべくのへさこんしょうげんまさざねが、再度攻勢をかけ一挙に和賀氏を制し、黒沢入道梅雪くろさわにゅうどうばいせつ寺山衣月てらやまふげつ等と手を組み三度大道((大迫方面))街道より河崎城を囲み攻めてきた。
この急襲に城主小野寺宗道は、折しも柏山内紛の重大局面に身動きできずに敗退してしまう。小野寺宗道は、葛西領内に逃げ込む事態となった。これを知った葛西晴信は、5月に和賀の多田氏や胆沢の柏山氏をして北上川沿いに布陣した。わずか4000騎であった。流郷の寺崎石見守良継を大将に参陣し防戦したが、既に落城寸前であった。
・1582年天正10年7月12日には、小野寺宗道は寺崎氏と共に戻るが、寺崎良次は討死、小野寺宗道は登米に遁走した。
小野寺宗道は、戦いに敗れたが、葛西晴信の思惑があったのか恩賞として「山目や中津山に四千五百苅」を賜った。
  葛西晴信宛行状
江刺二寺山衣月と一戦侯処二、其方武略之働無比類侯、依之磐井郡山目村前堀二而三千苅、桃生郡中津山二而千五百苅永代宛行者也、仍而証文如件
 天正十年七月廿日      晴信(香炉印)
 小野寺前司殿


1584年 天正12年 ・1584年天正12年8月には、富沢直綱が再び反乱を起こしたが、葛西太守の命を受けた寺崎信綱が、三迫に出陣して撃退せしめた。
1585年 天正13年 ・1585年天正13年にも、富沢直綱が反乱を起こした。
この様に執拗な反乱を起こしていたかが問われるところで、これは、背後で大崎義隆、最上義光の扇動であることが大であると思われる。この反乱により、富沢直綱は、一迫、金成の所領を失ったもようで、日形増子文書に記されている。次の様な文書である。
今度其許依先例宛行之内栗原郡富沢日向跡一之迫之内三千苅、磐井郡黄海ノ内弐千苅、日形及金成郷ノ内弐千苅、右子細不有也妨あらは可申出永代依而如件追而知行書可宛行事也
天正十四年七月十四日
  大崎帰退書上由
                 晴信(花押)
増子与左衛門殿(寺崎家臣)


1586年 天正14年 ・1586年天正14年4月に、本吉郡の歌津村で本吉大膳もとよいだいぜん馬籠四郎兵衛まごめしろべえい等と戦いが始まった。ことの起こりは、稲渕館主千葉播磨ちばはりま(馬籠氏支流)が病死した為、跡目相続がなく馬籠四郎兵衛が播磨の未亡人の婿に入り、後を継いだこと(馬籠四郎兵衛は、この時、妻を亡くしていたことや、歌津十二人衆の要請もあり)で、馬籠四郎兵衛が稲渕館主となり、十二人衆を騎馬武者を四郎兵衛が動員できることに危機感を感じた本吉大膳が、戸倉の黒崎兵部くろさきひょうぶ・平磯の金田九郎治かねだくろじ(掃部氏)、木村加賀みむらかが等の地頭を動員し数百騎の兵力で三島・稲渕両館に押し寄せた事で戦いが起こった。三島館越中三郎みしまかんえっちゅうさぶろう時重ときしげ)が数百騎の兵で石名坂で本吉大膳軍を迎撃した。
・1586年天正14年にも、富沢直綱が反乱を起こした。
この様に執拗な反乱を起こしていたかが問われるところで、これは、背後で大崎義隆、最上義光の扇動であることが大であると思われる。この反乱により、富沢直綱は、一迫、金成の所領を失ったもようで、日形増子文書に記されている。次の様な文書である。
今度其許依先例宛行之内栗原郡富沢日向跡一之迫之内三千苅、磐井郡黄海ノ内弐千苅、日形及金成郷ノ内弐千苅、右子細不有也妨あらは可申出永代依而如件追而知行書可宛行事也
天正十四年七月十四日 
大崎帰退書上由
                 晴信(花押)
増子与左衛門殿(寺崎家臣)


1587年 天正15年 ・1587年天正16年2月、本吉・気仙方面に騒乱がおこり、浜田城主浜田安房守広綱はまだあわのかみひろつな横沢信濃よこざわしなの・今泉氏等が連合して本吉郡の岩月郷に侵入、占領する事態が起こった。葛西晴信は男沢越後守おとこざわえちごのかみ等を調停役として遣わし、一応、終結したけれども、原因は定かではない。しかしながら、和解したはずであったが、1588年天正18年春に、再び本吉郡に侵入した。この状況を「奥州葛西記」には、「浜田陣」と称した戦いと記されている。葛西晴信は、この戦いについて、自筆の書簡を遠野孫次郎とおのまごじろうに送っている。
・1587年天正15年2月末~3月中旬に、気仙郡浜田安房守広綱と本吉郡志津川城主本吉大膳大夫との間で衝突が起こった。浜田勢が本吉郡岩月村に侵入した為、気仙、本吉、磐井郡東山一帯に動揺が走った。そのこで、葛西晴信は、使者を送り、両者を和議させることをした。しかし、浜田広綱は、葛西晴信の和解措置に不満を抱き、争乱後出仕することをしなかった。
・1587年天正15年中頃に、十一代信貞 佐藤弥次郎筑前じゅういちだいさとうやじろうちくぜんは、葛西晴信の近習であった時、葛西支族浜田安房守広綱が叛乱を起こし近隣に侵入したので、葛西晴信は軍勢を率いて気仙沼篠筒嶺ささがねに陣を構え浜田勢を迎え討った。この時、信貞と弟信時が参陣し、浜田先鋒の将及川太郎政長おいかわたろうまさながを討ち取り、6月3日に晴信より江刺郡小田代邑・蔵沢邑を合わせて、稲田五千苅の地を加え賜われ証文を授けられたと伝えられている。
・1587年天正16年歌津合戦の翌年、本吉大膳重継は、気仙郡高田城主浜田安房広綱と再度衝突を繰り返した。
本吉・浜田の乱について
浜田氏は、本吉氏と戦う為に本吉郡岩月村に侵入してきた。この騒動に、男沢越後守・安倍外記之介あべげきのすけ・東山薄衣氏等が奔走し、また、浜田氏に葛西太守晴信も対応して、小康状態に治まった。
・1587年天正15年秋に、事態が再燃した為、太守晴信は、大乱になることを恐れて胆沢郡の柏山氏に出陣を命じた。しかし、柏山氏の当主中務少輔なかつかさしょうゆが病弱で、陣代として前沢城主三田刑部少輔みたぎょうぶしょうゆを派遣、50騎を率いて参陣し、浜田軍の武将を討ち取り、争乱を鎮定させた。この軍功により晴信より軍忠状を賜った。
1588 年 天正16年 ・1588年天正16年に、再び浜田広綱は本吉郡に侵入した為、4月から5月まで合戦の状態に陥った。結果は、浜田氏が敗退する結果となった。この時、磐井郡の流の庄老松の千葉氏や日形小野城主小野寺氏、西磐井の小岩氏が参陣し軍功を挙げたと伝えられている。
・1588年天正16年に、二代利徳 斎藤越中利徳は九郎右衛門と父と共に、葛西の家臣となり、気仙沼の浜田陣に参陣し、軍功を挙げ、葛西晴信より黒印状を賜ったとある。
1590年 天正18年 ・1590年天正18年葛西家滅亡後、信貞は、、馬籠邑大柴まごめむらおおしばに居住して、大柴佐藤家の祖となった。
・1590年天正18年に、葛西氏滅亡後、馬籠氏嫡系は、津谷城の下に移り住み、真田まだの木屋敷と称して鍛冶を生業とし伝えられている。
・1590年天正18年に葛西氏滅亡となり、芳賀家は要害館を出て、山田邑に分かれて住み、宗家は猪鼻いのはなに住んだとのことである。
・1590年天正18年の葛西滅亡時に、三条大夫近晴さんじょうだいふちかはるは、桃生郡深谷和渕に陣をおいた葛西側防禦軍に加わり、生き残りは小泉館に戻ったと伝えられている。
<葛西氏家臣の動きとして>
大原氏は、大原山吹城おおはらやまぶきじょうを拠点に、室町末期には、私闘に敗れた館主たちを取り込み臣下として勢力を維持繁栄させた。臣下となった館主は、新山城主亀掛川氏、奥玉の千葉氏、松川の鳥畑氏、曾慶の岩淵氏等である。亀掛川きけがわ天文19年に滅亡したが、1591年天正20年に家名を再興し、大原氏の陪臣となった。奥玉の千葉氏は、1583年天正11年9月に、薄衣氏と戦い敗れ、大原氏に亡命した。松川の鳥畑氏は、1586年天正13年9月に、薄衣氏と戦い亡命、曾慶の岩淵氏も同様である。
1591 年 天文19年 ・1591年天文19年8月14日に、長時は、桃生郡深谷の須江山で伊達勢に斬殺された。長時の弟長周も兄と共に殺された。
・1591年天文19年8月14日に、近春は、葛西大崎一揆後、伊達政宗に呼び出され、桃生郡広渕郷辺で伊達勢に捕まり殺されたと言われている。この日には、葛西浪人が多数須江山に集められて惨殺された中に三条近春もいたであろうと思われている。






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