みちのく三国史郷土歴史年表


郷土歴史年表


(みちのく三国編)



みちのく三国史


葛西・大崎・伊達一族年代史1

葛西一族について 伊達一族について 大崎一族について

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1189年 文治5年 鎌倉時代 葛西清重が、「陸奥国御家人事」を奉行すべしと任じられる。又、平泉郡検非違使の長官にも任じられる。 伊達朝宗が、奥州征伐に庶子(為宗、為重、資綱、為家)を率いて従軍、戦功を挙げ伊達郡を賜る。 ---
1189年 文治5年 鎌倉時代 源頼朝は平泉を離れ、鎌倉に向かった。清重は奥州惣奉行として、平泉に留まり、「奥州所務」の遂行として、奥州征伐後の戦災復興という 源頼朝の奥州征伐に庶子(為宗、為重、資綱、為家)を率いて従軍し戦功を挙げ、伊達郡(福島県伊達郡)を賜った。依って、伊達氏に改名し、伊達郡高子岡(たかこおか)(福島県伊達郡保原町高子)に城を構えて移住した。
朝宗の戦功とは、石那坂の戦いで先登し、信夫郡の佐藤荘司以下18人斬をした事や、奥州征伐の最大決戦である阿津賀志山で、山上に夜半背後に廻り勝利に導いた戦功を挙げた事である。
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1189年 文治5年 鎌倉時代 頼朝からも、清重に遂行に当っての指示が三ヶ条命じられた。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1189年 文治5年 鎌倉時代 大河兼任の乱が羽州秋田で起こり、清重も鎮圧の役割もあり、戦局の詳細を頼朝に言上する為に鎌倉に入った。兼任の乱は多賀城国府の「新留守役・本留守役」二人が与力したことがわかり 、鎌倉より責任追及され、二人は葛西清重の預かりとなり、鎧ニ百両の過料が課せられた。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1190年 建久元年 鎌倉時代 源頼朝上洛し、右近衛大将に任命され、武家政権の首長に相応しい処遇を得た。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1190年 建久元年 鎌倉時代 主要御家人十人が、左右兵衛尉・左右衛門尉に任命された。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1195年 建久6年 鎌倉時代 頼朝より、陸奥国平泉寺塔の修理を加えることを、葛西清重、伊澤家景の両人に命じられた。九月二十九日には、「故秀衡入道後家」として保護を加えることも、両人に命じられた。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1199年 正治元年 鎌倉時代 源頼朝が急逝。嫡子頼家が家督を継いで将軍職となった。この事態においても、葛西清重の立場は変わらなかった。 伊達朝宗が、71歳で没し、伊達郡桑折の満勝寺に葬むられた。伊達為重が二代跡継ぎとなり、宗村と改名した。 ---
1200年 正治2年 鎌倉時代 勧農推進に荒野開発奨励をして、褒美に免税をしたり、勧農を進め、浮浪人の吸収を実施した為に、裁判が頻繁に発生、源頼家の指示で地頭達の暴走を制した。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1200年 正治2年 鎌倉時代 頼朝の死後、梶原景時が、間もなく讒元(ざんげん)の罪で和田義盛等の御家人66名から弾劾され誅された。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1203年 建仁2年 鎌倉時代 比企能員も頼朝の乳母比企の尼の養子として、頼朝の側近となり、権勢を奮ったが、梶原同様、頼朝死後に忌避され討伐された。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1204年 元久元年 鎌倉時代 三代将軍として源実朝が就任した。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1205年 元久3年 鎌倉時代 畠山重忠が、北条義時にうとまれ、父時政の内妻牧の方の平賀朝雅と組んで、幕府転覆を図ったと濡れ衣を着せられ追討された。この時、追討に、親族であり盟友の葛西清重や安達景盛が先陣の大将となった。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1217年 健保5年 鎌倉時代 北条泰時が陸奥守になり奥州の大半を管轄することになる。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1219年 承久元年 鎌倉時代 将軍実朝が鶴ヶ岡八幡宮にて、公暁(頼家の嫡子)に暗殺された。翌日、北条政子及び主な御家人100人余りが出家した。(もちろん、葛西清重も出家し「壱岐入道」となった。) 伊達氏の大きな動きなし。 ---






みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史2

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1221年 承久3年 鎌倉時代 後鳥羽上皇が討幕の兵を集め、北条義時「追討の宣旨」を発する。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1221年 承久3年 鎌倉時代 後鳥羽法皇、他三上皇を島流しにし、関係する武士を斬罪に処した。承久の乱以後、西国に欠所地ができ、幕府関連の御家人が、守護・地頭に任じられ、全国に幕府関連の武士たちが領地を展開し繁栄していった。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1223年 承久3年 鎌倉時代 葛西清重は渋江に隠居して74歳で死去したとあるが、別伝では、1237年十二月五日に80歳で没したと伝わっている。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1239年 暦仁2年 鎌倉時代 陸奥国の人民に対して、布の代わりに銭貨を以て貢納することを禁止した。白河関より北での銭貨の停止する奇妙な命令を発した。(白河以北の人民への蔑視と搾取する政策であることがわかる。) 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1256年 康元元年 鎌倉時代 葛西氏大きな動きなし 義広は72歳で没した。義広の第二子の政依が第四代となる。
義広は、従五位下、蔵人大夫に任じられた。仏教を信じ、東昌、光明、満勝、観音、光福寺の五山を創った。光福は生母の院号である。光福夫人の出自は明らかでない。
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1266年 文永3年 鎌倉時代 元のフビライが、日本に朝貢を促す使者を送ってきたが、時の執権北条時宗は朝廷の意向を受けず、一方的に握りつぶす。その後、度々元より使者が送られてきている。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1274年 文永11年 鎌倉時代 文永の役、元が十月に九百隻の船と三万数千の兵士を乗せ、九州に侵攻、十月二十日には、博多湾に上陸したが、一夜にして台風により船団が壊滅的打撃を受け、元軍が総退却をした。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1277年 建治3年 鎌倉時代 奥州中尊寺と葛西氏との領地争いが起き、建治~弘安~正応にかけて継続していった。伯奢新右衛門経連(葛西清時か?)と白山別当との寺社領争いが起こった事である。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1281年 弘安4年 鎌倉時代 元軍が再侵攻、元の洪茶丘が大将とする高麗軍四万人と九百隻の舟、範文虎を大将とする江南軍(宗国)十万人と三千五百隻の舟で侵攻、六月六日合戦開始、七月三日には元軍大挙上陸し優勢に進軍したが、七月三十日晩に又もや大風が 襲来し、舟の多くは大破し、海の藻屑に消え、元軍はまたもや敗退する結果となった。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1285年 弘安8年 鎌倉時代 4歳で北条貞時が執権に就き、後見役に安達泰盛が就任、安達氏が権勢を手中に治めていった事や元寇の恩賞の欠所地探しの為(外国元との戦いの為、恩賞とす領地が発生しなかった。)に、時の執権の乳母の夫管領平頼網が先手を打って安達一族を排して誅した。 (安達家は代々秋田介城の家柄で、羽州における権勢は大きかった。)この乱においても、討伐軍が編成され、葛西氏も三代太守清時が、泰盛の弟秋田城介長景を討ったと云われている。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1288年 正応元年 鎌倉時代 葛西中尊寺争いの裁断が下ったものがある。七月九日付けで、葛西三郎左衛門尉宗清と伊豆太郎左之門尉時員と彦三郎親時に対する関東裁許状がある。中尊寺葛西の争論の証となるもので、代々中尊寺に関わってきていることが分かる。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1301年 正安3年 鎌倉時代 北条貞時が執権を師時に譲った。千葉介をはじめとして葛西五代太守清経も宗方側についた為、その罪で領地没収、奥州に下向していた清信に預けられた。清信は、第三代太守清時に子供 がなかった為に、1276年本家筋の千葉頼胤の二男胤信を養子に迎え入れ、元服後胤信改め清信と改め、1276年8月に、千葉介から奥州の所領を分与され、千葉飛騨守平胤常、亀掛川右馬助平胤氏、臼井三郎右衛門平常俊等の有力武将が後見となり数百騎の軍勢に守られ石巻に赴いた。(千葉頼胤の妻は、北条駿河守の娘である。北条家とは姻戚関係) この時点で、葛西の奥州の地が北条氏の息のかかった御内人清信に実権が移ったと考えてよいと思われる。清時が罰せられ、葛西氏としては、北条家に縁のある清信を入嗣させていたことが窮地を救う形となった。 政依が57歳で没し、第一子の宗綱が第五代を継ぐことになる。政依は、伊達郡成田村東福寺に葬られた。 母は、真如夫人であり、近江伊達系図に佐竹十郎昌長の女とある。
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1317年 文保元年 鎌倉時代 葛西氏大きな動きなし 宗綱が54歳で没したが、明確ではない、信夫郡沢又村(福島市沢又)の全福寺に葬むられていると伝えられる。第六代には、宗綱の子である基宗が継ぐことになる。六代の関連は不明となれている。 基宗の子が第七代の伊達行宗である。母は泰昌夫人で出自は不明である。初名は、行朝又は朝村とも伝えられている。
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1321年 元亨元年 鎌倉時代 後宇多川法皇が院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まった。 伊達氏の大きな動きなし。 ---



みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史3


西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1324年 正中元年 鎌倉時代 「正中の変」が起こり、幕府討伐の計画が洩れ、多治見・土岐氏が殺され、天皇の関わりが無いことが弁明され、 主謀者として、幕府は日野資朝を佐渡に流す結果に終わった。
伊達氏の大きな動きなし。 ---
1334年 建武元年 建武新政 建武の中興となる。後醍醐天皇は、北畠親房の進言により、奥州を制する為に多賀国府を再開することになり、北畠顕家(弱冠十六歳)を陸奥守に任じられ、後見役に北畠親房が就いた。これに対して、足利高氏は対抗して、天皇に圧力をかけ、七月に武蔵守上総介を得て、八月には、天皇より一字賜り「尊氏」と名乗らせ、恩賞のバランスを整えた。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1334年 建武元年 建武新政 北畠顕家は、北畠親房と義良親王(当時六歳、のちの後村上天皇)を奉じて、奥州に下り多賀城に向かう。多賀国府を再開し、奥州を掌握、武蔵守の尊氏を北方から牽制する目的 も加えられた。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1334年 建武元年 建武新政 足利尊氏は、奥州に対して対抗措置として、弟の直義を相模守に要請し、成良親王を奉じて鎌倉に下向し、関東十ヶ国を管轄 した。後醍後天皇は、律令制度復活を目指し、奥州も義良親王(のりよし)を多賀国府に下向させたつもりが、顕家の後見役の親房は、藤原平泉王国を夢見みたか、奥州の地に鎌倉幕府の様に、引付・政所・侍所・式評定衆・寺社奉行・安堵奉行を設け、小型幕府を奥州で作りあげて しまった。 伊達氏の大きな動きなし。 ---
1335年 建武2年 建武新政 足利尊氏が鎌倉に将軍邸を構え、天皇の帰京を促されても応じず鎌倉に滞在した。また、尊氏が新田義貞を討つ為に諸国の武士を集めている噂を、後醍醐天皇が知り、逆に、十一月十九日に、新田義貞に 足利尊氏追討を命じた。さらには、奥州北畠顕家に尊氏を背後から攻めされる為に奥州軍編成して追討を命じた。 奥州国司義良親王に従い、奥州式評定衆となり、引付職を兼ねるとともに、戦功を挙げ高野郡の北方を賜る。この時点で、奥州南朝方の柱石となった。。 ---
1335年 建武2年 建武新政 斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払った。 左記同様 ---
1336年 建武3年
延元元年
建武新政 後醍醐天皇は京に戻り、顕家軍をねぎらい、鎮守府将軍と中納言に任じ論功を称えた。
この頃、関東・奥州では、宮方と足利方、北条方が入り乱れて、局地的な合戦が始まっていた。
左記同様 ---
1336年 建武3年
延元元年
建武新政 斯波兼頼が、氏家・相馬氏と共に、東海道の小高城(福島県相馬郡小高町)を制したりしていた。 左記同様 ---
1336年 建武3年
延元元年
建武新政 後醍醐天皇は京に戻り、顕家軍をねぎらい、鎮守府将軍と中納言に任じ論功を称えた。
この頃、関東・奥州では、宮方と足利方、北条方が入り乱れて、局地的な合戦が始まっており、1335年(建武ニ年)に、斯波家長は、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払ったり、1336年(延元元年)三月には、斯波兼頼が、氏家・相馬氏と共に、東海道の小高城(福島県相馬郡小高町) を制したりしていた。
北畠顕家に従い上洛し、所々に軍功を挙げた。 ---
1336年 建武3年
延元元年
建武新政 「熊谷系譜」によると、葛西高清が馬篭氏を遠野城(宮城県本吉郡本吉町馬篭)を囲み、城主因幡守千葉行胤が五百騎をもって迎撃、赤岩城(宮城県気仙沼市松川)の熊谷直時の千五百騎の支援をもらい抵抗したが、葛西高清に屈し、 さらに、赤岩城まで攻撃され攻略された。高清は馬篭に佐藤氏(信夫館)を置いて、「兵を領して、登米に帰る」と記されている。 伊達氏に大きな動きなし。 ---





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葛西・大崎・伊達一族年代史4


西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1336年 建武3年
延元元年
南北朝時代 足利尊氏が擁立した豊仁を、光源上皇の院宣により三種の神器の無い状況で、光明天皇として即位させた。しかし、後醍醐天皇は12月21日 京都をのがれ吉野に移り、天皇復帰を宣した。所謂、南北朝の時代の始まり、前代未聞の「一天両帝」の時代となる。光明天皇方を北朝、後醍醐天皇方を南朝といわれている。南北朝の時代の争いは、必ずしも朝廷内の争いだけでなく、北条打倒と足利氏の指導権争いでもあった。激しい合戦の中、護良親王、楠正義、新田義貞、北畠顕家、高師直、足利直義などが討ち死にした。 左記同様 ---
1336年 建武3年
延元元年
南北朝時代 足利尊氏は「建武式目」17条を定め、足利尊氏が軍事、足利直義が政治を司ることを決めた、二頭制を打ち出して室町幕府を造った。奥州においては、顕家軍が西上している間、留守役を務めたのが南部師行であった。しかしながら、多賀城国府近辺では武家方の動きが活発となっていた。 左記同様 ---
1336年 建武3年
延元元年
南北朝時代 常陸国瓜連城が落ち、顕家が帰着しても容易ならざる状況に至っていた。
左記同様 ---
1337年 延元2年 南北朝時代 陸奥国府を急遽伊達軍の霊山(福島県霊山町)に移さざるを得なかった。霊山と言えども、東方には相馬氏をはじめ海道筋の武家方が機を狙っている所であった。 左記同様 ---
1337年 延元2年 南北朝時代 足利幕府が石塔義房を奥州の総大将に任じ派遣した。石塔氏は海道筋平の伊賀盛光、中村の相馬氏、亘理の武石胤顕、宮城の留守家任を従えて多賀城に入城した。 石塔氏は、奥州の行政機能を整える為に、奉行衆を整えた。 左記同様 ---
1337年 延元2年 南北朝時代 顕家は霊山に立て篭もり防戦をしていたが、3月5日に小山・宇都宮方面へ遠征し、下条・下河原近郊で戦ったとい伝えがあり、霊山から城外に出て討伐戦を行っていたと思われる。 左記同様 ---
1337年 延元2年 南北朝時代 帝の再上洛の依頼を受けた顕家は、再度、西上するに至ったが、四面楚歌状態での苦慮して奥州軍を編成、第二次遠征軍を編成した。この時、葛西対馬守武治(貞清と思われる)が1500騎の軍勢で参加したと伝え られている。西上は、並大抵ではなかった。白河近辺では頑強な抵抗を受け突破して、12月8日にやっとのおもいで小山城に着いた。さらには、12月14日まで費やし、防戦する斯波家長を倒し鎌倉に入った。 左記同様 ---
1338年 延元3年 南北朝時代 鎌倉を出発し、1月28日に青野ヶ原(後の岐阜県関ケ原)で高師冬を大将とする足利軍と戦い勝利したが、進路を伊勢路に変え河内(大阪近郊)に入った。 河内から阿倍野原(和泉国堺浦)まで進軍したが、不運にも、5月22日戦死してしまう。弱冠22歳の若さであった。 北畠顕家が石津(大阪府堺市近郊)で戦死した後、北畠親房に従って常陸国(茨城県)に入り、伊佐城に籠城し北朝軍を迎え撃った。 ---
1338年 延元3年 南北朝時代 奥州軍は総崩れとなり逃げ下り、伊勢国に再集結、熊野水軍の船団で、9月に奥州に向けて出発した。北畠親房・顕信親子は、義良親王と同船したが、途中嵐に遭い、親房・顕信親子と義良親王は伊勢国に戻されてしまった。 親房は再度出発し、辛うじて常陸国辿りついて、伊佐城に籠城し北朝軍を迎え撃った。伊達行朝(行宗)は10月までには帰国できたと伝えられている。葛西清貞も9月(10月から11月とも思われる)に、ほうほうの体で石巻に辿りつく事ができた。 上記同様 ---
1338年 延元3年 南北朝時代 足利尊氏征夷大将軍となり、室町幕府を開府する。 左記同様 ---
1339年 延元4年 南北朝時代 後醍醐天皇が五十二歳で逝去。義良親王が即位し後村上天皇となる。石巻市多福院境内の供養碑に「延元四年霜月二十四日・・先有菩薩」とある。 左記同様 ---
1340年 興国元年 南北朝時代 北畠顕信が鎮守府将軍となり、守親親王を奉じて伊勢を出発、5月には、東国の宮方の糾合に奔走していた北畠親房(顕信の父親)と関東小田城にて出会い、6月には、 宇津峯城(現、福島県郡山市付近)、霊山城に立ち寄り、白河結城、伊達・田村氏を励まし、海路から葛西の渋江城(石巻日和山城と思われる)に、7月20日入城する。 左記同様 ---





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葛西・大崎・伊達一族年代史5

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1342年 興国3年 南北朝時代 葛西清貞は北畠親房に、府中(多賀城国府)攻略に関して、北奥羽から安東・南部・滴石・和賀氏を南下させ、三方より府中 を攻撃すれば容易と献策した。その上で、総大将の催促を清貞が親房に催促し、親房は顕信や奥羽諸国の武将を督励して総攻撃をかけることにした。 左記同等 ---
1342年 興国3年 南北朝時代 葛西清貞は葛西一族の結束を図る為に、命令に叛いている遠江守(甥の清明)を3月に誅殺した。一方、南部政長も2月4日に、和賀岩崎城を攻撃し 鬼柳清義を殺し、紫波郡の斯波岩手氏を攻め込んで牽生した。又、稗貫出羽守権守や河村一族を味方に付けた、和賀・滴石・葛西氏は江刺に合流し、府中攻撃に準備をしていた。一方、 葛西清貞等は、9月までに松島を攻撃し攻略したけれど、先には進まなかった様である。松島攻撃には残された書状があるが、戦況報告と思われる。残された書状として「七月三十日の松島攻め」とか「九月三日に中奥羽 御方出張し合戦」とか「九月二十一日 清顕 出張 今両三日中」等が残されている。
左記同等 ---
1342年 興国3年 南北朝時代 三迫の戦いは、海道筋の相馬出羽権守等の救援により、宮方勢の里屋城・八幡城を攻略、津久毛橋本陣を残し、10月17日までに顕信軍を潰走させた。さらに、石塔軍は逃げる糠部の南部氏を追撃し、10月28日までに鬼柳城に着いた。 北朝方の石塔軍が、南朝方を打ち負かし奥羽での南北朝決戦に勝利した。
この後の葛西氏の動向は、葛西清貞が没した後、南朝方から北朝方に転身をしたもようである。石巻に残っている供養塔や中尊寺への梵鐘の寄進等から葛西氏の転身の状況が窺いとれる。
石巻の供養塔から1343年8月14日付けで「蓮阿なる人物(葛西清貞と思われる)の五・七日忌の供養板碑が建てられていることから、葛西太守と思しき人物が7月14日に没したことや、同年7月12日付けで、葛西大檀那左近将監親家による北朝年号(康永二年)銘の梵鐘が中尊寺 に寄進されている。このことから推察すると、葛西一族が意図的に南朝年号から北朝年号に変えたことは、清貞没後に、宮方から武家方に転身したことが窺える。葛西氏と結城氏は親戚関係であることが知られており、6月10日に 結城氏が足利尊氏に内通した事が、葛西氏も知っての事と思われるからである。
これ以後、南北朝の争いの中には、葛西氏の姿が見受けられなくなった。
伊達氏大きな動きなし ---
1344年 興国5年 南北朝時代 関東・奥州において東国を完全に統一した幕府は、足利義詮を鎌倉で支える為に上杉憲顕が派遣された。後に、鎌倉公方の下で権勢を奮うことになる上杉管領家(関東管領)の初代である。 高師冬の軍が来襲して、伊佐城は陥落し、北畠親房は高野へ逃れ、伊達行宗は陸奥に逃れた。 ---
1345年 興国6年 南北朝時代 幕府は関東・東北の統轄方針を転換したのか、石塔義房・義元父子を京都に召還し、畠山国氏と吉良貞家を奥州管領職として 下向させた。畠山国氏は、足利尊氏・高師直派の青年将校的人物、吉良貞家は、足利直義の傍らで政務を司り、老練な政治家的人物であった。国氏は、5年前に奥州二本松に下向した 父高国のニ本松城に着任、一方、貞家は、奥州四本松(しおのまつ)城に着任した。両奥州管領は、着任早々に積極的に活動を始める。
注)奥州管領職は、管領府を整備し、奥州全域を統治する立場で、軍事指揮権と寺社興行権の保証および庶務・検断・雑務沙汰についての審理を行い、当事者が地頭御家人の場合のみ 幕府決裁を仰ぐ以外、奥州諸氏の当知行安堵や恩賞も奥州管領が審理し推挙することによって幕府の決裁を得る職権を有していた。所謂、奥州武士に対して軍事指揮権を発動し、出陣 命令を出す職権や管領府に勤番を発動し、奥州武士のほとんどが惣領か庶子が勤番として対応させる職権などである。
左記同様 ---
1346年 興国7年 南北朝時代 吉良貞家は、伊賀盛光・相馬親胤・留守家任等を招致し、雫石に居たと思われる北畠顕信を誅する為に、3月16日には、滴石・糠部討伐に向かわせた。5月には、 鬼柳氏も参加したともいわれ、6月には石塔義元までも招集された。この様に北奥への軍事的圧力を高める中で、宮方の南部政長にたいして、足利直義が勘降状を4月11日、12月9日に再三にわたり送ったと伝えられる。 この様な状況において、南部政長は、宮方から武家方に投降することになった。
左記同様 ---





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葛西・大崎・伊達一族年代史6






西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1347年 興国8年 南北朝時代 吉良貞家、畠山国氏の兵が、南朝の拠点である鎌田、川俣、霊山、宇津峯城を攻撃し、9月には陥落させた。その為、守良親王は出羽国田川郡立谷沢城に移ることとなる と伝えられている。又、滴石・糠部への攻撃も続けられ、吉良貞家は、北奥攻めの為、平泉に長期にわたり滞陣した。その為に和賀義光が警護として10月29日~12月15日まで着陣したと伝えられる。
左記同様 ---
1348年 正平3年 南北朝時代 糠部で戦いがあり、5月には、滴石で戦いがあった。その後、北畠顕信が出羽に移ったと伝えられているので、滴石は陥落し決着がついたと思われる。滴石攻略には、 伊賀盛光や留守家任も参陣したとも伝えられている。 伊達行宗が55歳で没した。常陸中村の観音堂の片隅に葬むられている。行宗の子である宗遠が第八代となる。宗遠の母は、静照院夫人田村氏である。伊達郡に居館を構え、従五位下弾正少弼に任じられ、 父行宗の意志を継いで南朝方につき、南朝の為に尽力した。宗遠は、米沢の長井道広を討ち出羽国置賜郡長井荘を攻略奪取した。 ---
1349年 正平4年 南北朝時代 東国や畿内においても戦いは、幕府方(北朝方)の勝利に終わり、ようやく天下が平穏になると思われたが、今度は、幕府内での亀裂が生じて、将軍として武士を束ねる足利尊氏 と幕府の執権として政治を司る足利直義との間で、意見の衝突が起こってしまった。当時の武家方は、高師直に代表される様に、後醍醐天皇の王制復古でもなく、足利直義が進める北条泰時的政治でもなく、戦功を上げて領地を拡大し 、手に入れた権益は我が物とする考え方であった為、高師直等は、足利直義の政治のやり方に大きな不満を抱くようになった。
左記同様 ---
1349年 正平4年 南北朝時代 高師直は自らの悪業から足利家執事の職を解かれた為、これを不服として、8月9日に、高師直一族が挙兵し足利直義を尊氏邸に追い込んだ、結果、尊氏が師直の要求じて、 直義の執権から外した。同年10月22日に鎌倉の足利義詮を京都に引き入れ執権職にした。その後、鎌倉公方として足利基氏を派権し、足利直義は剃髪し足利義詮の後見役に留まった。しかし、高師直は、直義に対する追及を終わらせる事は なかった。 左記同様 ----
1350年 正平5年 南北朝時代 北畠親房が足利直義を南朝に受けいることにしたことが全国に伝えられ、足利方が尊氏派と直義派に分かれ分裂するはめに至った。 これを見た南朝方は勢いつき活動を活発化させた。
関東においては、尊氏派の高師冬が上洛しようとした所、直義派の関東管領の上杉憲顕に遮られ、甲斐に逃れ、追い詰められて1351年1月17日に自刃したり、奥州では尊氏派の畠山父子と直義派の 吉良父子が対立するようになった。南朝方は、北畠顕信が、南部祐仲を津軽田舎館に安堵したり、9月には結城朝胤や12月には相馬親胤を招聘し懐柔工作を続けていた。
左記同様 ----
1351年 観応2年 南北朝時代 陸奥国では、観応2年(1351年)2月岩切合戦が起こった。岩切城に立てこもった畠山高国、国氏父子を吉良貞家の率いる軍勢から攻撃され、畠山父子をはじ め100余人が切腹・討死にする激戦があり、管領の分裂が陸奥国の混乱を招くことになる。この機に乗じて、北畠顕信は再び勢力を盛り返し、一時多賀城国府に入るが、翌年3月、吉良貞経が奪回され、田村荘の宇津峰城(福島県須賀川市・郡山市)に入り、1年籠城後退去した。これにより、奥羽の南朝勢力は盛り返すこととなる。 。 左記同等 ----
1351年 観応2年 南北朝時代 北畠顕信の子である中院守親が、陸奥守として派権され、父顕信と連携しながら多賀城国府を挟撃するすることになった。南部政長の孫である南部信光を南下させ、自ら出羽国から山村親王を奉じて宮城郡山村(仙台市泉区七北川上流)に進出した。一方、南奥州から中院守親を中心に尊良親王の子である守永親王(宇津峯宮)を奉じて伊達宗遠・田村庄司を従え、11月より仙道を北上させた。一方、吉良貞家は、相馬親胤・武石道倫と共に、10月22日に白石川に、11月22日には柴田郡倉石川に、さらに広瀬川等に防御線を築いた。
左記同等 ----




みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史7




西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1351年 観応2年 南北朝時代 顕信軍は多賀城国府に突入し、北畠顕家が築いた国府の地を、逃れてから14年後に奪還した。追い出された吉良貞家は、伊具館に退き、12月23日には稲村城(福島県須賀川市)に入ったと言われている。 この頃は、幕府内の抗争で、足利尊氏が京都から逃れた足利直義を討伐する為、追撃の途中で、奥州の事態に対応することができず、奥州幕府軍は単独で南朝軍に対応せざるを得なかった事も敗因であつた。
左記同等 ----
1352年 正平7年
文和元年
南北朝時代 仙道筋にいた吉良貞家は、宮内大輔、吉良貞経に国府の顕信を攻撃することを命じ、石川氏、蒲田兼光等と共に、3月1日名取郡羽黒城(吉田村高館)に着陣し、3月11日に多賀城国府を 攻撃した。 左記同等 ----
1352年 正平7年
文和元年
南北朝時代 中院守親が宇都宮公綱、多田左近将監と共に小鶴(宮城県仙台市苦竹)に着陣し、山村城(宮城郡実沢村)の山村宮(正平親王)を奉じた、南部伊予、浅利尾張、和賀基義等と多賀国府と呼応して戦った。 左記同等 ----
1352年 正平7年
文和元年
南北朝時代 吉良貞家軍は、多賀城国府を攻撃し陥落させる。 左記同等 ----
1352年 正平7年
文和元年
南北朝時代 葛西氏の大きな動きなし。 顕信軍は、守永親王(宇津峯宮)を奉じて、伊達郡大波城(小手保大波城)に入り、3月17日に中院守親と合流し、4月2日には、條川で合戦した後 、7月3日に田村荘唐久野と三世田城で伊達・田村軍と吉良・相馬軍とが戦い、7月9日に矢柄城で、8月4日に部谷田で伊達宗遠・田村荘司が相馬胤頼・二本松頼常と戦い、8月7日に宇津峯城に立て籠もった。
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1353年 正平8年
文和2年
南北朝時代 吉良貞家は、大河戸氏の山村城(宮城郡実沢村朴沢)を拠点とする、山村宮(正平親王)を奉じた宮方を攻撃し、1月10日小曾根城(大河戸氏(山村城)の出城)、1月18日市名坂城(山村城の出城)、1月19日には、 山村城を攻撃・陥落させて南部伊予(八戸系)・浅井尾張(大館系)を投降させた。
左記同等 ----
1353年 正平8年
文和2年
南北朝時代 結城顕朝、伊賀盛光は、南朝軍の最後の砦の宇津峯城を陥落せしめた。1月早々に、足利尊氏より討伐せよとの命を受けた、結城顕朝・伊賀盛光が攻撃を再開し、4月5日に柴塚城を、4月15日には切岸城で戦った後 に宇津峯を攻撃したによる。宇津峯城陥落したことにより、北畠顕信は北奥羽に逃げた、後に、吉野に戻り中納言となったと伝えられている。又、南部信光は、北奥羽の地で、孤立したまま南朝方を貫いたとされているが、奥州南部の宮方の拠点は、悉く攻撃さえれ破壊され、二度と再起できない事になった。 したがって、奥羽は、殆ど北朝の支配下となり、次の時代を向かえる事になった。 左記同等 ----
1354年 文和3年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 斯波家兼が、文和3年(1354年)吉良貞家の死去にともない奥州管領に任じられた。斯波氏の始祖は、斯波家兼、 暦応元年(1338年)閏7月、兄高経と共に越前藤島の戦いで、南朝方の大将新田義貞を討死にさせ た武勲をあげた人物。
1355年 文和4年 南北朝時代 北奥では、北畠顕信の活動が活発化して、津軽郡浪岡には、北畠守親が現れ、浪岡御所と呼ばれ北畠顕信と共に南下する機会を窺っていた。一方、中奥では、管領斯波直持が、多賀城にいて活動を続けており、観応の擾乱で大敗した畠山国氏の子の国詮が、 芦名氏を頼り会津におり、吉良満家・治家や石塔義元、さらには、宇都宮守氏・氏広父子等が、塩松(福島県二本松市周辺)で、虎視耽々と奥州の支配権を狙っていた。 一方、葛西氏は、「中尊寺文書」に葛西大檀那若狭守行重名が残されていたり、「葛西家譜」には、葛西高清が没し、葛西詮清が、 上洛して、奥州探題職に補されたと記されていいたり、江刺高嗣を浅井村で討伐したとか、佐々木直綱・宗綱父子が胆沢に北方奉行人として下向してきたとか、湯沢小野等の一族伊賀道綱が、葛西氏を頼り寺池に移ったと記されていたりして、中奥でも、大きな動きがあったものと窺われる。 幕府・関東府においても動きが変動しており、さらに混迷した時期を迎えることになる。
伊達氏大きな動きなし。 中奥では、管領斯波直持が、多賀城にいて活動を続けており、観応の擾乱で大敗した畠山国氏の子の国詮が、 芦名氏を頼り会津におり、吉良満家・治家や石塔義元、さらには、宇都宮守氏・氏広父子等が、塩松(福島県二本松市周辺)で、虎視耽々と奥州の支配権を狙っていた。



みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史8


西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1356年 延元元年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 十月ニ十ニ日に、直持は管領職としての職務をこなしている。幕命を奉じて領国内の地頭に、所領の宛行や下地沙汰状の施行を行った。一つとして、大掾下総守と氏家彦十郎を遵行使(両使)として、八幡氏の押領を排除して、宮城郡内の余目郷以下の留守領の下地を留守領に渡すべしと命じた。しかし、八幡氏は、催促にも屈せず留守領を押領を続けた。
1361年 庚応元年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 七月六日に、直持は、泉田左衛門入道と氏家伊賀守(彦十郎と思われる)を両使に任命し下地打破を八幡氏に命じたが、右余曲折した。
1364年 貞治三年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 十月十日、足利尊氏の下文と直持の宛行状によって、留守氏の本領が回復された。
1367年 貞治6年・正平22年 南北朝時代 関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地 では、中央権力の軛から逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地 では、中央権力の軛から逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地 では、中央権力の軛から逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
1371年 応安4年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 十月十日に、三代として詮持が奥州管領となった。直持の嫡子として幼名彦三郎を襲名、初めは1372年(応安五年十ニ月ニ日)左衛門佐となり、 1373年(応安六年九月十八日)左京権大夫となり、1388年(嘉慶ニ年)左京大夫に任ぜられた。その後、左京大夫、奥州管領として活動して行く。
斯波詮持は、奥州において足利方の権力者として、石塔氏はすでになく、吉良・畠山・石橋氏が勢力を競っていた。
1372年 応安5年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 詮持が師山から小野に移住したと云われている。
詮持の時代は、南北朝内乱の後半期から室町時代の初期にかけての三代将軍足利義満の時代で、14世紀末期であった。1353年(文和ニ年)五月に、宇津峯城陥落後、北奥で動いていた南朝方の大将北畠顕信は、1362年(貞治元年)頃まで活動していたが、その後は明らかでなく、糠部八戸の南部氏が北奥に勢力を保っていた。又、吉良氏と並んで奥州管領であった畠山氏は、1351年(観応ニ年)岩切合戦で畠山国氏が自刃、その後遺児の平石丸が安達郡に逃れて再興を図り、修理大夫国詮を名乗って再び管領職を狙っていた。一方、奥州管領の吉良氏は、貞家の子の満家の夭の折後、叔父貞経(貞家の弟)、弟の治家、嫡子の持家との間に管領職の相続争いが起こり、一族分裂、治家は幕府より追討を受けることになった。従って、吉良氏自身の権勢を失い、僅かに長老の貞経が、管領としての行動をしており、畠山国詮と対立していた。
その状況下で、吉良治家追討の為、1367年(貞和六年)に尾張式部大夫宗義(石橋棟義)が、将軍足利義詮より大将として奥州に派遣された。が、奥州平定後も奥州に留まり陸奥守となり、所領安堵、所領預置、軍事催促等を活発に発給文書をだしたが、(父和義も同行し補佐した)管領職とは異なった職権で、軍事指揮権が主な任務であった。
前述の事は、名取郡熊野堂の一切経奥書に、1380年(庚暦ニ年)六月一日「当国大将石橋殿源棟義」と記されていたことから認識できる。
1373年 応安6年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 十二月二日に、詮持は、相馬胤弘に対して将軍の命によって、高城保の赤沼郷を本領とし、元の如く知行すべくと命じた。その施行状によって、 1373年十二月十一日に、葛西清光と留守氏が遵行使(両使)として下地を相馬胤弘の代官に渡した。



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葛西・大崎・伊達一族年代史9

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1375年 応安8年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 四月には、詮持は、葛西周防三郎に対して志牛・那須郷等を「御恩」として宛行等、奥州諸氏に対して所領安堵、所領宛行、御恩宛行等の管領としての 重要な職務を果たした。
1381年 永徳元年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 亘理行胤と刈田郡で戦い、これを降伏させ、大崎ニ郡、信夫・刈田・柴田三郡・伊具荘を手中に治めた。この勢いを背に、上洛し足利将軍に朝貢をし、領地安堵を得た。伊達氏は、初めは奥州の南朝方として 活躍していたが、宗遠に至っては、足利将軍に帰服したようである。以後、鎌倉公方、関東管領の支配に入ったが、直接、京都の足利将軍との結びつきを強める政策を打った。 大崎氏の大きな動きなし。
1381年 永徳元年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達宗冬が長井氏(山形県米沢地区)や亘理氏(宮城県亘理地区)を討ち、刈田・柴田・伊具方面を勢力圏に治めた。伊達氏も活発な活動したことは明らかであるが、詳細の程は分かっていない。
大崎氏の大きな動きなし。
1383年 永徳3年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 八月十五日には、南奥の岩崎郡の岡本太郎を伊勢守に推挙するなどの官途の職権を行使している。
1385年 至徳2年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達宗遠は62歳で没した。宗遠の第一子で、母が高明夫人(結城上野介宗広の娘と思われる。)。兵部権少輔、大膳大夫に任じられ、伊達政宗として第九代となった。 大崎氏の大きな動きなし。
1386年 至徳3年 南北朝時代 「葛西家譜」によると、葛西詮清が副将軍として会津城の坂上義則(田村荘司と思われる)を討ったと伝えている。しかし、これに関して「葛西家譜」が年代を間違えて伝えていると思われている。 恐らく、1396年応永三年に、小山義政の遺児犬若丸を匿っていた田村荘司清包が叛乱を起こしてたので、鎌倉公方足利氏満の命で、大崎満持が田村氏を討ち、翌年に犬若丸が会津で自殺したという事件があり、この事実と違えて 記されたものと推察さえれる。この時期には、葛西氏も将軍足利義満より陸奥の探題に補されてこともあり、大崎氏と共に副将軍として会津討伐に参陣して、探題補佐したとも考えられる。いずれにせよ、葛西一族も探題職に補任されるほどに力量が増して、中央からも信用される程に成長した証でもある。 伊達宗遠は62歳で没した。宗遠の第一子で、母が高明夫人(結城上野介宗広の娘と思われる。)。兵部権少輔、大膳大夫に任じられ、伊達政宗として第九代となった。 -
1387年 至徳4年 南北朝時代 -
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十二月二日に、石橋棟義が、相馬冶部少輔憲胤に対して、名取郡南方増田郷下村を兵糧料所として預け置きとしたとの発給文書が最後で、当国大将としての権威を失い、40年後の1428年頃には 、南奥諸氏の末尾に記されて、在地の安達郡塩松の一領地過ぎなくなっていた 。
1388年 嘉応2年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達兵部権少輔政宗が出羽の長井庄萩生郷内48貫余りの地を配下の国分彦四郎入道に配分した事などは、豪族領主が奥州管領支配からしだいに独立して行き、14世紀末~15世紀前半に奥州国人たちの一揆契約が活発化していった。
十一月十四日には、宮城郡の留守参河守次郎の家督の相続を認可した。

1390年 明徳2年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏の大きな動きなし。 斯波管領(奥州探題)大崎詮持が、長岡郡(宮城県大崎市古川須賀)小野村洲賀に拠点を構え、近隣の国人達に強引に干渉し、領地を侵略拡大していた。又、大崎詮持は、探題職を楯に、留守詮家に切腹を命じたり、近隣国人達に圧力をかけ続けた。
この様な情勢のなか、大崎氏に対する不満も高まり、将軍に訴状を出して訴えるじたが発生した。
1391年 明徳2年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 三月六日には、和賀郡の和賀伊賀入道に対して江刺郡内会佐利郷を勲功の賞として宛行つている。
しかし、管領としての活動は、以前より少なく、発給文書も少なくなっていることから認識できる。これは、当時の社会体制が、古い荘園公領体制が崩れ、在地国人達が勢力拡大に力を注ぎ、公権力の荘園領主に反抗し始めたからである。一方、武家社会も従来の惣領制が解体し、一族、庶子が分離し在地「国人」として、自立・独立の行動を持つようになった。地方豪族領主は、在地国人を配下にし結集して大名化していった。奥州で代表的な例が、伊達氏である。
六月二十七日の、将軍足利義満の御教書でも明らかで、斯波詮持が、畠山氏領地を押領し抑留していることを、幕府に訴えた事にたいする幕府からの教書である。
「陸奥国賀美郡事、畠山修理大夫国詮分郡也、而左京大夫(斯波詮持)抑留云々、・・・興、同黒川郡・・国詮、恩賞之地也・・早 伊達大膳大夫(政宗)相共、・・・」
明徳ニ年六月二十七日     左京大夫(細川頼元) (花押)
 葛西陸奥守(満良)殿
これは、第二次吉良・畠山合戦で、畠山氏が敗退、吉良氏が勝利し二本松に引き上た後、斯波氏が両郡を「抑留」しためであると考えられ、畠山氏が幕府管領の交替に乗じて、失権回復を狙っての幕府に訴状したものと解釈される。


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葛西・大崎・伊達一族年代史10

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1392年 明徳3年
元中9年
南北朝時代 後亀山天皇(南朝)から神器を後小松天皇(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約60年近く続いた大乱であったが、これで終息した。
左記同様 左記同様
1395年 応永2年 南北朝時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 九月ニ十六日に、斯の波満持が石川郡の蒲田民部少輔の勲功を賞して下記の如く本領安堵状を発給している。等、この時期には、満持が父詮持の名代として大将として出陣したり、諸氏に対して、本領安堵、官途推挙、感状授与等の奥州管領としての職務を代行していた。
1397年 応永4年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達政宗が、嫡子氏宗と共に上洛し、将軍足利義満に拝謁した。 大崎氏の大きな動きなし。
1398年 応永5年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 鎌倉公方の足利氏満が亡くなり、満兼が後継となったが、伊達政宗等が、満兼を非難したところ、氏満夫人が、足利満兼の弟満貞と満重を政宗と白川満朝に(依託)任せてしまった。満貞・満重は奥州下向を余儀なくされ、満貞は岩瀬村稲村(福島県須賀川市)に居を構え、「稲村公方」と呼ばれ、満重は笹山(福島県郡山市)に居を構えて、「笹山公方」と 呼ばれた。 十一月四日には、関東公方足利氏満が没し、嫡子足利満兼が跡を継いだ。
1398年 応永5年 室町時代   鎌倉公方満兼は、政宗等奥州諸将に対して「御料所」として、領地の一部割譲を命じた。 左記同様 左記同様
1399年 応永6年 室町時代   鎌倉府の足利満兼は、奥州支配強化の為に足利満直、満直兄弟と関東管領上杉憲英と共に下向させた。満貞は岩瀬郡稲村へ、満直は安積郡笹川に居館を設けて、世に言う稲村御所、笹山御所と呼ばれた。特に、従来管領の斯波詮持や領域拡大を目指していた奥州諸国の大名・有力豪族にとって好ましいものではなかった。
さらに、両御所の管領上杉憲英が、奥州諸氏に領土割譲を要求したことから、奥州諸氏の反発をまねくことになる。
鎌倉府の足利満兼は、奥州支配強化の為に足利満直、満直兄弟と関東管領上杉憲英と共に下向させた。満貞は岩瀬郡稲村へ、満直は安積郡笹川に居館を設けて、世に言う稲村御所、笹山御所と呼ばれた。特に、従来管領の斯波詮持や領域拡大を目指していた奥州諸国の大名・有力豪族にとって好ましいものではなかった。
さらに、両御所の管領上杉憲英が、奥州諸氏に領土割譲を要求したことから、奥州諸氏の反発をまねくことになる。
鎌倉府の足利満兼は、奥州支配強化の為に足利満直、満直兄弟と関東管領上杉憲英と共に下向させた。満貞は岩瀬郡稲村へ、満直は安積郡笹川に居館を設けて、世に言う稲村御所、笹山御所と呼ばれた。特に、従来管領の斯波詮持や領域拡大を目指していた奥州諸国の大名・有力豪族にとって好ましいものではなかった。
さらに、両御所の管領上杉憲英が、奥州諸氏に領土割譲を要求したことから、奥州諸氏の反発をまねくことになる。
1400年 応永7年 室町時代   葛西氏も、「葛西家譜」には、一切記されてはいないけれど、大崎氏同様幕府側についたが、関東府の大崎氏同様に征伐受けて、関東府側について大崎氏と対決する様になったと思われる。この証として、石巻多福院に蓮昇の菩提を弔った板碑が二枚残されている。この板碑から、1400年応永七年五月二日に 死没したと記されており、政宗の叛旗を翻した時期でもあり、葛西氏もこの事変に加わった挙句に、苛酷な処罰が課された時に、蓮昇なる大物人物が死亡したと考えられる。
伊達政宗(九代)が挙兵した頃、大崎詮持は鎌倉に出向いており、身の危険を感じて、瀬崎邸から奥州本領に逃げるべく、間道を辿ったが、田村荘大越で稲村御所の足利満貞に追跡され、9月7日に自刃た。息子の満詮は、15歳であったが、伊達政宗 が匿い、稲村・笹川御所の追及をかわし難を逃れた。伊達政宗は、政宗(九代)夫人が、将軍足利義満の生母の妹にあたり、将軍家との血縁関係もあったことで、関東府対決も幕府の後ろ盾があったからと推測される。
鎌倉公方満兼は、赤松氏に伊達政宗を討伐する命をだしたが、敗退し失敗に終わった。。一方、政宗は、稲村公方の暴挙を、京都の将軍に対して上訴を行った。
伊達政宗(九代)が挙兵した頃、大崎詮持は鎌倉に出向いており、身の危険を感じて、瀬崎邸から奥州本領に逃げるべく、間道を辿ったが、田村荘大越で稲村御所の足利満貞に追跡され、9月7日に自刃た。息子の満詮は、15歳であったが、伊達政宗 が匿い、稲村・笹川御所の追及をかわし難を逃れた。伊達政宗は、政宗(九代)夫人が、将軍足利義満の生母の妹にあたり、将軍家との血縁関係もあったことで、関東府対決も幕府の後ろ盾があったからと推測される。
葛西氏も、「葛西家譜」には、一切記されてはいないけれど、大崎氏同様幕府側についたが、関東府の大崎氏同様に征伐受けて、関東府側について大崎氏と対決する様になったと思われる。この証として、石巻多福院に蓮昇の菩提を弔った板碑が二枚残されている。この板碑から、1400年応永七年五月二日に 死没したと記されており、政宗の叛旗を翻した時期でもあり、葛西氏もこの事変に加わった挙句に、苛酷な処罰が課された時に、蓮昇なる大物人物が死亡したと考えられる。
この時期には、伊達軍は、何万騎の鎌倉軍に攻められるが、迎え撃つことが度々あったけれど、最後まで屈服せず戦い続けていた。
そういうなか、河内(宮城県志田郡三本木町)の牛袋寺の「牛袋のひじり」と称される高僧が、京都より戻り大崎家に、将軍足利義満より大崎氏宛ての書状を持参した。書状は、再度、奥州探題職に任ずるものであった。しかし、大崎詮持が自刃した時期でもあり、満持が奥州探題職の権限を行使 することになる。この応永七年は、全奥州が、幕府と関東府の狭間で混乱した年となった。
1401年 応永8年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 斯波満持は形部大輔から父の死後左京大夫となり、奥州探題職となり四代目として活動していた。
1402年 応永9年 室町時代   葛西・桃生・深谷氏の連合と、伊達・大崎・登米氏の軍勢とが、登米いたち沢(宮城県登米町)で陣を構え対峙したと伝えるれる。これは、関東府側と幕府側との戦いと思われる。奥州国人達は、関東府に対する抵抗が広範囲に及んでいることが推測される。 鎌倉公方は、関東管領上杉氏憲に、再度、伊達政宗を討伐命令を出し、出向かせた。氏憲は、伊達氏の本拠地赤館城(西山城、福島県伊達郡桑折町)を攻めたが、撃退されてしまった。が、再度、鎌倉公方足利満貞を大将とし、上杉氏憲が来襲、赤館城を包囲した為、 伊達軍は籠城することになった。結末は、兵糧がつき、政宗は会津に逃れた。史実的には、詳細は明らかではない。
伊達軍に呼応し、大崎軍は老田城(福島県)を拠点に交戦し、その後、稲村・笹山軍と他勢力に攻められ、九月六日に伊達軍降伏したので、本領に戻ったとある。






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葛西・大崎・伊達一族年代史11



西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1405年 応永12年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 九代伊達政宗53歳で没し、刈田郡湯原(宮城県七ヶ宿湯原)に葬むられた。政宗の嫡子が、鎌倉公方足利氏満の偏緯を受けて、伊達氏宗と称し第10代として後を継いだ。 大崎氏の大きな動きなし。
1411年 応永18年 室町時代   葛西満信が、南部守行が秋田安東氏と仙北郡刈場野で戦った際、南部氏を応援したとさせれている。南部氏は、葛西満信の母の実家にあたることからの応援であったと思われる。 伊達氏大きな動きなし。 大崎氏の大きな動きなし。
1412年 応永19年 室町時代   「葛西家譜」によれば、気仙郡において各氏入り乱れて戦いが起こったと記されている。嶽波・唐鍬氏兄弟が大槌氏と共に、気仙郡司千葉伯奢を攻撃した為、阿曽沼氏の支援を受けた。 これ擾乱は、葛西氏の指示によるもので、南部守行も援軍として参陣したが、流れ矢にあたり戦死したとある。葛西氏の勢力が増しているあらわれでもあった。 伊達氏宗42歳で没した。氏宗の嫡子が、将軍足利義持に偏緯を受け、伊達持宗として第十一代として後を継いだ。初めは、泰宗と称した、幼名は松犬丸、従五位下、兵部大輔、大膳大夫に任ぜられた。持宗は、政宗の志を継ぎ、稲村公方らの勢力に対抗し続 けた。 大崎氏の大きな動きなし。
1413年 応永20年 室町時代   伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部の勢力拡大を警戒し対抗した。 持宗は、播磨守懸田定勝(入道玄昌)の援助を受け、密かに五~六百騎を集め、大仏城(福島市)で叛旗を翻した。大将には、当時羽州三崎山下に隠れていた南朝方の脇屋義治(新田義貞の弟)を迎えた。義治は、稲村公方足利満隆を破り、笹川公方足利義直は城を捨てて逃走した。 これにより、安積・岩瀬方面の敗将二千余りが服従した。齢八十歳余りの義治であったが、南朝方の歴戦の勇将として名高く、奮戦した結果が勝利した由と思われる。そもそも、稲村公方足利義貞、笹川公方足利満直は、鎌倉公方義兼の弟で、鎌倉公方の意図で、奥羽に勢力を拡大を図り、奥羽の武士の支配を強化することであった。 結城・白川氏や奥州の南部の諸将は指示していたが、伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部の勢力拡大を警戒し対抗した。伊達氏は、領地の立地から奥羽南部勢力にさし当り脅威を抱いてので、中奥羽諸将の支援を受け、赤館城、大仏城に 立て籠もり、脇屋義治を迎い入れ立ち向かった。 伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部の勢力拡大を警戒し対抗した。
1416年 応永23年 室町時代   上杉禅秀の乱が起こった。笹川殿(義直)の勧誘で禅秀方に同調(鎌倉大草紙や関東管領九代記等記されている。「陸奥には、篠山殿へ頼申間、芦名盛久、白川、結城、石川、南部、葛西、海道四郡の者どもみな同心す」)した。 上杉禅秀の乱が起こった。禅秀は出家名で、関東管領上杉氏憲である。鎌倉公方足利持氏との不和が、将軍足利義時の弟義嗣と鎌倉公方持氏の叔父満隆らの不平分子と禅秀(管領上杉氏憲)が叛乱を起こした。足利持氏は駿河に追放されたが、関東は、鎌倉公方派と関東管領派に分かれ、混乱してしまった。 この様な状況を上手くとらえた伊達持宗は、奥羽に失地回復をはたすことができた。 上杉禅秀の乱が起こった。大崎氏の大きな動きなし。
1417年 応永24年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 一月十日には、禅秀が鎌倉で自刃して乱は終結し滅亡した為に、奥州中部における伊達氏の地位が確立した。 一月には、百々氏初代高詮(斯波詮持の五男)が、鎌倉公方持氏の命を受け、上杉入道禅秀を征伐する為に、大崎名代として鎌倉に馳せ参じたと大崎家臣団の百々氏系図にも記されている。
1423年 応永30年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 九月ニ十四日には、左京大夫斯波満詮以下奥州諸氏に対して、関東公方足利持氏を討伐する御内書が発給された。「笹川殿に合力し、至急関東公方足利持氏を討伐し、関東の政務を沙汰させるよう命じた」
この頃までには、斯波満持が没して、嫡子の満詮が跡をついで左京大夫となって活動していたと思われる。
1424年 応永31年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達氏大きな動きなし。 十ニ月三日には、斯波左京大夫満詮は、将軍義量に、砂金百両、馬三疋を献上し、将軍より太刀一腰、鎧一両を賜り、さらに、嫡子持兼に左衛門佐の官途を許される。
1426年 応永33年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達持宗は居城を梁川(福島県梁川町)に構え、梁川八幡宮を造営した。 大崎氏の大きな動きなし。
1428年 正長元年 室町時代   幕府では、将軍足利義量の後継として、籤引きで後継を決めることになり、その結果、僧の義円が還俗して、足利義宣と名乗った。
左記同様 六月ニ十七日付の官途吹挙状が残されている。 [古川市立図書館所蔵千葉文書]
奥州探題大崎氏のものであり、この頃には、六代大崎持兼が治世をはじめていた頃と思われる。(持詮とも言われる)と考えられる。
1429年 正長2年 室町時代   義宣改め、義教として将軍職を継いだ。 左記同様 左記同様
1438年 永享10年 室町時代   幕府は、足利持氏討伐に踏み切ったが、持氏は、11月に出家して詫びたが、受け入れられず、翌年二月に、鎌倉において、足利持氏、足利満直が自殺して、永享の乱は終息した。 五代にわたり百年間余りの関東・東北を支配していた関東府は滅んでしまった。 左記同様 左記同様




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葛西・大崎・伊達一族年代史12

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1438年 永享10年 室町時代   「葛西家譜」によれば、葛西太守伯奢持信が、奥州探題職であった為、関東管領足利持氏が兵を起こした時に従い、相州鎌倉で会戦したと記されている。敗退により大打撃を受けることになり、 葛西氏の力が著しく減ずる様になった。 伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1439年 永享11年 室町時代   葛西持信は、大崎持詮を千石城(宮城県松山町)を攻めている。
伊達氏大きな動きなし 葛西持信は、大崎持詮を千石城(宮城県松山町)を攻めている。
1440年 永享12年 室町時代   大崎満持が三迫佐沼に攻め入ったと記されている。
この一連の動きは、関東管領足利持氏死後の、関東府側討伐の動きの中で、大崎氏が葛西氏に討伐の為攻め入ったと推測される。
伊達氏大きな動きなし 大崎満持が三迫佐沼に攻め入ったと記されている。
この一連の動きは、関東管領足利持氏死後の、関東府側討伐の動きの中で、大崎氏が葛西氏に討伐の為攻め入ったと推測される。
1440年 永享12年 室町時代   「結城合戦」の最中、葛西持信が、和賀時国と鬼柳実行を討伐した。これは、和賀氏が1438年春頃から叛き始めたからであり、和賀時国の娘を妻とした鈴木為詮が謀叛を画策したかどで、本吉郡歌津より鬼柳に追放されたのが、 疑いは晴れず、両者討伐に至った。
この事態の背景は、1382年弘治2年頃、和賀近辺の欠所地をめぐり争論がおこり、周辺の国人達六名が傘連判をし、万事合議により決着させる一揆契状を結んだ。その傘連判の一揆契状には、葛西壱岐守清泰や伊豆守清貞(南北朝時代の清貞とは別人)らが署名されていることから 、葛西持信の葛西・鬼柳氏の討伐もこの一揆契状が背景にあるものと、推測される。
伊達氏の大きな動きなし。 大崎氏の大きな動きなし。
1441年 嘉吉元年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 第九代政宗夫人紀氏の為の寺を梁川に創建した。宸筆(しんぴつ)の扁額を賜り金剛宝山輪王禅寺と称したと伝えられている。 参考として、1440年(永享十二年)に、足利持氏の遺児が結城氏朝の支援を受け挙兵した。所謂、「結城合戦」が起こった。1441年(嘉吉元年)に、結城氏朝が40歳で自刃した。。 大崎氏の大きな動きなし。
1442年 嘉吉2年 室町時代   奥州では、大崎氏が葛西領地に侵攻し、迎え撃った葛西持信は敗北する。その為、葛西氏は、大崎持詮の娘を葛西持信の嫡子朝信に迎えることで和睦を結ぶことになった。葛西氏には屈辱的出来事であった。
--- 奥州では、大崎氏が葛西領地に侵攻し、迎え撃った葛西持信は敗北する。その為、葛西氏は、大崎持詮の娘を葛西持信の嫡子朝信に迎えることで和睦を結ぶことになった。葛西氏には屈辱的出来事であった。
1449年 宝徳元年 室町時代   足利成氏が、鎌倉公方となる。 左記同等 左記同等
1450年 宝徳2年 室町時代   葛西氏が、遠野(岩手郡下閉郡)の阿曽沼氏を攻めたが、宿敵の和賀氏が阿曽沼氏を助けた為、引き揚げざるをえなかったと伝えられている。
伊達氏大きな動きなし 奥州探題として七代教兼が活動していた。奥州探題としての勢力が出羽方面まで及んでいたことが伺われる。
1455年 康正元年 室町時代   奥州でも、東山(岩手県磐井郡)の鳥海秀政が、葛西持信に対して謀叛を起こしたので、及川光村に命じて討伐させた。これは、結城合戦で敗れ下向した及川氏と鳥海氏の私戦とも言われている。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏の大きな動きなし。
1457年 長禄2年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 芦名氏が兵を向けて、伊達氏を攻めたが、戦況不利として軍を引き揚げた。 大崎氏の大きな動きなし。
1460年 寛政元年 室町時代   十月ニ十一日には、豪族の葛西氏には、同じ日付けで、「不日属 左衛門佐手」戦功を抽(ぬきん)べきと命じている。
大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。
大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。
十月ニ十一日には、幕府が関東・奥羽の諸氏に対して成氏討伐の大動員命を発した。特に、奥州探題の教兼に発給した将軍義政の軍勢催促状が残されている。その御内書には、教兼の奥州探題としての軍事指揮権が明確に示されており、奥州の国人等を召集して早速参陣すべきことや、 難渋の輩は厳罰に処するから交名を注進すべきことなどが命じられていた。
大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。
1462年 寛政3年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達持宗が上洛し、将軍足利義政に拝謁し、黄金三万匹を献上したと伝えられる。 大崎氏の大きな動きなし。
1465年 寛政6年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達氏は、北奥・中奥・南奥でも、頻繁に戦いが起こり、特に、宮城県県北部までに仲裁働きかけている。 探題大崎政兼(教兼かも)に栗原郡三迫の富沢河内守が叛いたと伝えられており、北奥・中奥・南奥でも、頻繁に戦いが起こり、特に、伊達氏は、宮城県県北部までに働きかけていることがわかる。
1467年 応仁元年 室町時代   大崎持明と葛西持信とが、三迫で戦った。
葛西一族の清蓮が、大崎教兼に唆され、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。
伊達氏大きな動きなし 大崎持明と葛西持信とが、三迫で戦った。
葛西一族の清蓮が、大崎教兼に唆され、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。









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葛西・大崎・伊達一族年代史13




西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1467年 応仁元年 室町時代   応仁の乱が起こる。正月早々に京都の町が、灰燼に帰した。応仁の乱は、1473年文明五年三月に、山名・細川両雄の死をもって終わる。
応仁の乱の引き金となった原因は、将軍義政の妻日野富子が、我が子義尚を将軍とすべく、既に後継に決まっていた義視を退ける画策をはじめ、畠山氏の内紛につけいり、細川氏・山名氏の摩擦を利用して擁立をさせようとした事である。
この応仁の乱の間、将軍義政は、事態収拾もせず、北山に銀閣寺を建てたり、能・狂言に興じたりしていた。一方、関東では、管領足利成氏と執事上杉憲実の確執から「享徳の大乱」が始まり、関東平野での戦乱が続いていた。
左記同様 左記同様
1469年 文明元年 室町時代   大崎氏と葛西氏が戦い、葛西所領を大崎氏に抑留され、伊達成宗が仲裁している。

葛西持信が没し、その子朝信が後継者となる。しかし、葛西領内は、混乱を来たし探題とは名ばかりとなってしまう。
東山長坂城主(岩手県東山町)千葉胤義が、太守の命で上洛し、将軍より持信死後、朝信が葛西家を継ぐ事の許可と諸権益の安堵を 願うためであった。その後、将軍から大館時光が下向して認められたことの知らせがあった。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏と葛西氏が戦い、葛西所領を大崎氏に抑留され、伊達成宗が仲裁している。

1470年 文明元年 室町時代   葛西氏大きな動きなし。 伊達持宗が77歳で没し、その第二子が、上洛し、将軍足利義成(後の義政)の偏緯を賜り伊達成宗として、第十ニ代となった。又、従五位上兵部少輔、従四位下奥州探題に任ぜられた。亡くなった持宗は、将軍と鎌倉公方の争いや鎌倉公方と関東管領の争いを利用して、伊達氏の勢力を確保する業績を残した。 大崎氏の大きな動きなし。
1472年 文明4年 室町時代   葛西は、磐井郡流郷耳壁地区に侵入した大崎氏と葛西朝信と戦うが、朝信敗退する。この時も、伊達成宗が仲裁し、「成宗調法を持って、葛西淨連にわたす」とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。
(留守旧記による)
・1471年文明三年に、十代葛西満重(淨連)は、伊達成宗の仲裁を受け、遠田郡の替え地として遠田17郷・小田保荒井7郷を葛西淨連へ相渡して一件落着した。
伊達成宗が仲裁し、「成宗調法を持って、葛西淨連にわたす」とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。
(留守旧記による)
・1471年文明三年に、十ニ代伊達成宗の仲裁を受け、遠田郡の替え地として遠田17郷・小田保荒井7郷を葛西淨連へ相渡して一件落着した。
大崎教兼が、磐井郡流郷耳壁地区に侵入し、葛西朝信と戦うが、朝信敗退する。この時も、伊達成宗が仲裁し、「成宗調法を持って、葛西淨連にわたす」とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。
(留守旧記による)
・1471年文明三年に、七代大崎教兼は、伊達成宗の仲裁を受け、遠田郡の替え地として遠田17郷・小田保荒井7郷を葛西淨連へ相渡して一件落着した。
1477年 文明8年 室町時代   葛西氏と長江氏の争いも起こっている。長江三河守と葛西壱岐朝信が深谷小町で戦ったことも伝えられている。これも、伊達氏の唆しで長江氏が叛意を示したため、葛西氏が、従来の主導権を保つ為に戦ったとも言われている。 葛西氏と長江氏の争いも起こっている。長江三河守と葛西壱岐朝信が深谷小町で戦ったことも伝えられている。これも、伊達氏の唆しで長江氏が叛意を示したため、葛西氏が、従来の主導権を保つ為に戦ったとも言われている。 五月には、教兼の子息五人の口宣を幕府に申請したが、教兼はこの時期に没したと推測される。法号は龍谷寺殿、小野城の北丘陵の西北隅に残る龍谷寺址が菩提寺と言われている。
1478年 文明10年 室町時代   葛西氏の大きな動きなし。 伊達氏の大きな動きなし。 教兼の嫡子が八代将軍義政の偏緯を賜り政兼と名乗り、九代目を継承し奥州探題となった。
1483年 文明15年 室町時代   南部氏、和賀氏、江刺氏が、葛西政信に反旗を翻している。
葛西尚信が没し、政信が太守を相続している。この頃は、葛西氏は、北に南部氏、西に大崎氏、南に伊達氏に圧迫され、四面楚歌の状況であった。
十三代葛西政信は上洛し、継承届けと本領安堵を受け、その時に、伯奢守奥州探題職にも任じられた。「葛西家譜」等で伝えられているが、この時期の伝承は登場人物等矛盾した点も多く、疑問視されている。
十月には、伊達成宗も上洛し、太刀二十振、馬九十五頭、砂金三百八十両、銭五万七千貫を持参、時の権力者足利義政、その妻日野富子、将軍義尚はおろか、管領畠山政長をはじめ百官随身まで、貢納品を届ける豪勢な ものであった。応仁の乱後、疲弊した貴族たちの気を引くに、十分なものであり、この事を契機に、伊達氏が奥州に相応しい守護職的役割の家柄と都びとに認識させた。
九代政兼に嫡子がなく、この頃から大崎領内では、家督相続争いが起こり、一族や国人達が分裂し、国内争乱になった。
1485年 文明17年 室町時代   江刺隆見が、江刺本所の高寺村で葛西政信と戦っている。
南部氏が気仙郡有住郷に進出した。同時期に、和賀定義が相去村を襲った。これは、明らかに南部勢が和賀・江刺氏を唆し、南下作戦を始め、自ら気仙郡を狙った一連の共同作戦であったと伝えられる。
伊達成宗が二度目の上洛をした。その折、将軍義政、子息義尚、夫人日野富子をはじめ、各方面に贈物を献上した。太刀二十三振、馬九十五頭、砂金三百八十両、銭五万七千疋と云う莫大なもので、 その豪勢さには京の人びとを驚かせた。同じ頃、上洛した荘内の武藤氏が、義政に献上したのは、銭一万疋、馬十頭であった。 大崎領内では、家督相続争いが起こり、一族や国人達が分裂し、国内争乱になった。




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葛西・大崎・伊達一族年代史14

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1488年 長享2年 室町時代   大崎氏は、流地方(岩手県花泉町)、佐沼地方を攻撃し、金田島躰(栗原郡一迫町)城主である狩野信時と板倉(岩手県花泉町)城主である熊谷直弘が 戦ったと伝えられている。又、佐沼直信が佐沼城を退去し、替わって米田氏が入城したとも伝えられている。
突然大崎義兼が、伊達成宗に救済を求めてきた。
これは、文明年間~1488年までは、大崎氏の勢力が頂点まで達しており、葛西勢力圏を圧迫をし、北上川を越え薄衣氏に従属をせまり、多くの葛西重臣の庶子達が大崎家臣に組み入れられていったが、大崎義兼の父政兼が没するや否や、後継争いが起こり、重臣氏家氏に 疎外されていた義兼が、叔父内ヶ崎義宣に身を寄せていたが、大崎公方を継承すべく伊達氏の後ろ盾を求めたのである。
成宗は、宿老金沢氏に命じて大崎領を鎮定し、義兼を復帰させる。
大崎義兼が、急に伊達成宗に救済を求めてきた。
これは、文明年間~1488年までは、大崎氏の勢力が頂点まで達しており、葛西勢力圏を圧迫をし、北上川を越え薄衣氏に従属をせまり、多くの葛西重臣の庶子達が大崎家臣に組み入れられていったが、大崎義兼の父政兼が没するや否や、後継争いが起こり、重臣氏家氏に 疎外されていた義兼が、叔父内ヶ崎義宣に身を寄せていたが、大崎公方を継承すべく伊達氏の後ろ盾を求めたのである。
伊達成宗より、宿老金沢氏に命じて大崎領を鎮定し、義兼が復帰する。
大崎氏は、流地方(岩手県花泉町)、佐沼地方を攻撃し、金田島躰(栗原郡一迫町)城主である狩野信時と板倉(岩手県花泉町)城主である熊谷直弘が 戦ったと伝えられている。又、佐沼直信が佐沼城を退去し、替わって米田氏が入城したとも伝えられている。
1490年 延徳2年 室町時代 薄衣氏が、葛西政信・重信父子に叛き、佐沼城を攻めている。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1495年 明応4年 室町時代 江刺高見が、葛西政信に高寺城で叛旗を翻す。
大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
1499年 明応8年 室町時代 末永兄弟による葛西宗清の暗殺未遂事件が起きた。
伊達氏大きな動きなし 九代義兼が上洛・・・春、雪解けを待ち百騎の家来を従えて上洛と記されており、百騎の騎馬隊は宮崎など加美郡産駿馬「速きこと、風の如し」と言われる 程の一団と称された程であった。上洛経路は、羽州街道を鳴子に進み、最上を経て日本海側の北陸路(新潟、富山、金沢、福井)を上り、「木の芽峠」を越えて琵琶湖を抜けて京都に入った。当時の将軍 十一代の足利義澄へ拝謁をする為であった。
1504年 永正元年 室町時代 上折壁氏と遠藤氏が戦い、大原信明と浜田基継が戦ったが、浜田氏が敗退している。
尚宗は、将軍義澄に叔父小梁川盛宗をつかわしている。
将軍義澄は、将軍義政の弟で、堀越公方(伊豆堀越)の足利政知の子である。細川政元が擁立して、10代将軍義稙の後を継いで11代将軍とった。しかしながら、権臣の力が強く実権がなく、その地位は不安定なものであった。永正5年(1509年)に、前将軍義稙が 、大内義興に擁されて入京し、近江に逃れて将軍職を退いた。当時の将軍職とはいっても、権威を失い、地方の有力大名に依存して地位を保持する有様であった。義稙などは「流れ公方」と揶揄された程であった。従って、代々京都と関係を結んでいた伊達氏が、将軍 をお迎えする計画を持っても不思議ではなかった時代である。
大崎氏大きな動きなし
1505年 永正2年 室町時代 薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していったこともわかる。
一方、探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し、大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものと推察される。
文明年号末から明応年間(1472年~1500年)の大崎氏の内紛が惹き起こされて、薄衣氏を中心とする葛西領北部の戦いは、伊達氏の仲裁で、一応平静を取り戻した。
それを待ちかねていた如く、鳴りを潜めていた葛西南部諸氏の問題が浮上してきた。
薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。 薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
磐井郡薄衣(岩手県川崎村)城主である薄衣美濃入道が、1499年(明応八年)12月13日付けで、伊達成宗に送った書状、所謂、「薄衣状」である。
1506年 永正3年 室町時代 葛西氏に対抗する為に、桃生郡山内首藤氏、深谷郡長江氏、登米郡登米氏は、三郡一揆を結んでおり、深谷冶部大輔が葛西重信と中津山で戦っている。又、長江尚宗も葛西政信と中津山で 戦っている 伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1507年 永正四年 室町時代   長江氏と葛西氏が、矢本で戦っている。
流郷(岩手県花泉町)擾乱が起こり、大崎尚兼と葛西稙信が戦い、松崎・寺崎氏が熊谷・奈良坂・金沢氏と戦っている。
伊達氏大きな動きなし 流郷(岩手県花泉町)擾乱が起こり、大崎義兼と葛西稙信が戦い、松崎・寺崎氏が熊谷・奈良坂・金沢氏と戦っている。






みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史15

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1510年 永正7年 室町時代 薄衣清貞・松川氏と金沢冬胤と戦っている。
伊達氏大きな動きなし 彦三郎高兼は、義兼を追うように28歳で草世した。後継(あとつぎ)として、7歳の義直が次期当主となるが、幼い当主でもあり、後見役として一族の羽州最上領主と黒川領主が就き、補佐役 には狼塚城(里見)、高根城(仁本)、中の目城(中目)、遠朽館(渋谷)の四家老が就いた。
1511年 永正8年 室町時代 葛西宗清は、山内首藤貞通と飯野川で戦っている。又、伊達尚宗が62歳で没している。
同年、江刺・本良氏が葛西家臣となり、葛西氏は、七・八郡を領する事となった。又、登米・山内首藤・長江氏が三郡一揆を結び、葛西太守に反抗していたので、葛西宗清は、石巻を北上し、胆沢・照井氏の軍勢を南下させ、8月から9月頃までに、寺池城や飯野側城を攻略し、三郡一揆勢力を一掃させた。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1512年 永正9年 室町時代 山内首藤・登米氏が滅びたので、八・九郡を制圧した事になる。これにより、葛西宗清は、登米郡寺池城に入城し、この地を中心とした。
この時点で、葛西氏は、西国の守護職に相当する大国を形成するようになり、胆沢郡・江刺郡・磐井郡・気仙郡・本吉郡・登米郡・牡鹿郡・桃生郡を領した。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1514年 永正11年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達尚宗が62歳で没し、第二子の稙宗が十四代になった。母は越後国主上杉定実の娘、積翠院である。従四位下左京大夫に任じられた。
伊達稙宗が、最上氏と村山郡長谷堂戦い、一千人余りを斬って勝利した。
稙宗の妹を最上義定に嫁がせた。
大崎氏大きな動きなし
1517年 永正14年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達家嫡子が、将軍に太刀・黄金・馬を献上し、将軍義稙より偏緯を賜り伊達稙宗と称し、左京大夫に任じられた。
大崎氏大きな動きなし
1519年 永正16年 室町時代 岩渕経平と津谷川常俊が戦っている。
伊達氏大きな動きなし 義直は14歳になり、室町幕府十代足利義稙から家督相続を意味する「義」の一字を拝領し、正式に家督相続をした。
1521年 大永元年 室町時代 寺崎茂継が葛西重信に叛く。
細川管領の執事の細川平賢から8月23付けの書状を賜る。これによると、「太刀一腰・銭五百足を受領した、有難く思う。ついては祝儀として太刀一振・段子一端・赤引合十貼を送る。」とある。これは、葛西重信が、 後継としての届けと、本領安堵の許しを得る為の貢納品に対しての御礼状と思われる。
伊達氏大きな動きなし 大崎氏大きな動きなし
1522年 大永2年 室町時代 葛西重信が、将軍より緯を拝領し、左京太夫晴重と改め、その御礼に御太刀(国吉銘)一腰・黄金十両・御馬(鹿毛)二疋を細川高国管領に献上した。その為、12月21日付け「御教書」を戴いたと伝えられている。「葛西家譜」による。
伊達稙宗は、従四位下奥州守護職となり、最上氏と葛西氏と争った。
大崎氏大きな動きなし
1523年 大永3年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏も左京太夫陸奥国守護に任じられる。
梅香姫が義直の長女として生まれる。
1524年 大永4年 室町時代 10月24日付けの12月7日着の管領細川高国の書状が残されている。「公方様の御礼のことについて、葛西陸奥守の使者として、岩渕紀伊守・伊藤大倉少丞が参詣し、今下国する 路次煩い無く様に思う、喜悦と為す可く候」とある。
伊達氏は、大崎氏に代わり守護職となる。伊達家文書にも、細川高国が伊達稙宗へ守護職選任を報じた書状が残っている。「奥州の守護式は秀衡己来・・・種々苦労仕り調下申し候」とあり、幕府内でも相当な異論があったと推察される。
これについて、少々疑問を呈するところがある。奥州藤原氏以来の守護職と言えば、陸奥守であるわけであるが、葛西氏も満重に続いて晴重も陸奥守と称した事が、幕府文書にも残されていた。
同時期に容易に与えられない陸奥守が、葛西氏と伊達氏が重複した事がどの様な意味するものかが疑問である。 恐らく、葛西氏は、幕府において評価が高かった事もあっため、単なる修飾的称号で与えられたと思われる。葛西氏にとっては、相応しい権威の象徴となったのであろう。一方、伊達稙宗は、これを契機に奥羽諸将に対して守護職の職権を行使していく事になった。
大崎氏大きな動きなし
1528年 大永八年 室町時代   伊達氏と蘆名氏が、葛西氏を攻めて、りんこう館(石巻日和山城と思われる。)を攻略した。この戦いは、伊達稙宗が何らかの理由で葛西氏を咎めるために、芦名盛舜の加勢をもらい出陣 した。
左記同様 大崎氏大きな動きなし










みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史16



西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1528年 大永8年 室町時代 葛西太守は、誰かは疑問の余地が残るが、葛西稙清がその人物であろうと推測される。葛西稙清は、晴重の嫡男であり、1523年(大永三年)伊達稙宗の子である牛猿丸を娘に入嗣させ、後継者とした人物である。 この戦いで包囲された葛西軍が、伊達氏の機嫌の忖度をし稙清を血祭り上げ、牛猿丸(尚清=晴清)を後継として事態を治めたと思われる。しかし、牛猿丸は、葛西家と意見が合わず、伊達家逃げ戻ったとされ、後に、葛西晴胤として伊達家と葛西家の 掛け橋となった。
四月十三日に伊達家臣桜田氏が、長井(長江氏の小野城と思われる。)に陣を構え、芦名軍も先陣四隊と後陣ニ隊が参加し、葛西氏拠点を包囲する中、六月十三日に葛西太守が病死する。葛西軍は動揺し、遂には、九月 三十日に陥落した。戦いは、凄惨を極め、死者が多数出て伊達軍の勝利となり、葛西を領地化することになった。
この事件は、葛西関係文書にはどこのにも見えないが、福島県会津で発見された古文書がある。「塔寺八幡宮帳帖」と言われるものが、塔寺村の八幡神社に残されていた。その中には、 葛西主城攻略と太守死亡の事件が記されいた。
又、伊達文書「伊達・蘆名両家関係覚書」にも「・・・亨録(大永八年が8月20日に年号が改める)九月晦日 伊達家 葛西を被領侯由、葛西病死に付、如此之由 依って蘆名盛舜御加勢、人数被遺侯、後二番侯由・・・」と記されている。
大崎氏大きな動きなし
1530年 大永5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 義隆が嫡子として誕生する。
1532年 天文元年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 稙宗は、伊達郡西山城に移り、亀岡八幡宮を梁川から西山に移築創建した。
大崎氏大きな動きなし
1533年 天文2年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 稙宗は、家老六人衆の連署による土倉定目を定めた。家老六人衆は、金沢弾正左衛門尉宗朝、牧野紀伊景仲、牧野安芸宗興、中野上野親村、 浜田伊豆守宗景、富塚近江仲綱の重臣たちである。
稙宗の嫡男(母は会津領主蘆名盛高の娘)は、将軍義晴の偏緯を賜り晴宗と名乗った。
義直29歳で葛西晴重と境界線争いで敵地佐沼に侵攻した。これは、義直が奥州探題命(幕府より権限委任)で葛西側の訴えを退けようとしたが、葛西が従わなかった為に戦いとなった。しかし、惨敗してしまい、奥州守護職(守護大名)の伊達稙宗の仲裁で和睦を結び、葛西側の主張通りの境界線を引いて終わった。
惨敗の敗因は、大崎軍団の統率の乱れ、騎馬攻撃を生かしきれなかったことや、義直の強引な先制攻撃が原因であった。元来、義直自身が幼いころから”我儘で強引な性格”、家臣からも煙たがられた存在であった。
この惨敗を覆すかのように、その後、強引に上洛を決行する。
1534年 天文3年 室町時代 伊達氏大きな動きなし 主君義直の横暴に怒った一門筋の新田安芸頼遠(にったあきよりとう)が反旗を翻したを機に、義直自ら兵を引いて、氏家一党の中新田城、高城城、黒沢城を攻撃し、落城させて頼遠居城(現、岩出山町下野目)泉沢城を攻めようとして、狼塚城に陣を構えた。しかし、氏家、古川、高泉、一迫氏が反して頼遠を支援し、さらには、二峡小野松の庄二十四郷の領主上杉安芸守にも攻撃され、三百騎余の戦死者をだした。大崎領域内に戦火が飛び火する中、義直は大崎領内の刀剣、槍の兵器製造所がある鶯沢まで進軍、鶯沢城に入った。季節が、稲作の収穫時期に入る秋深まる頃にいたり、休戦状態になる。
1535年 天文4年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 義直は領内の刈入れを待ち、四家老に出陣命令を下す。新田頼遠の居城泉沢城(岩出山町下野目)へ再度攻撃を加えた。その様子は、合図の狼煙が打ち上げられ、法螺貝が一斉に吹かれるとともに、 先陣の弓隊が矢を射かけ、続いて騎馬隊の奇襲攻撃、槍隊が後陣となり攻撃、対峙する反義直は、新田頼遠を中心に、氏家直継と氏家党三百余騎、古川形部持煕、高泉木工権直堅(義直の異母兄弟)、一迫伊豆守の加勢加えて二千人が抗戦したが、泉沢城は落城してしまう。
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 大崎左京大夫義直の家臣に内訌が起こり、家臣新田頼遠が反乱を起こした。義直は、これを討伐できず、伊達稙宗に援軍を請う為に、西山城に伺った。
家老、評定人等と合議して、式目六十九条を定めた。戦国時代の分国法として名高い「塵芥集」である。
伊達稙宗は、兵三千余り率いて西山城を出発した。大崎義直が、援軍要請の為に西山城を訪れ留守に、留守役の百々弾正少弼直孝が、古川直孝(新田頼遠派)を襲い、婦女子・子供 までも斬殺してしまった。
古川城内で内紛が生じた。恒例の正月儀式が古川城内大広間で催された時、宿老米谷兵部煕正が登城しなかったことが発端、米谷兵部は新田頼遠を匿うことに反対し、主君古川形部に諫言したことが、反義直 派の豊島宮内、仏坂兄弟の反抗をまねき、内乱に発展することになった。米谷兵部の館は、古川城の側にあるため、古川城内から猛攻撃を受け、やもなく、潜んで沢田館(要害)に難を逃れた。










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葛西・大崎・伊達一族年代史17

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 義直の反対の将古川形部大輔持煕の古川城(宮城県古川市)攻撃した。大崎義直は五百騎で東門へ、稙宗は千騎で南門へ、牧野宗朝、浜田宗景は各々千騎で北門・西門へ、さらに、 黒川景氏、内崎宗忠、留守景宗、懸田俊宗、武石宗隆、長江宗武、遠藤左近将監が伊達軍を固め攻撃したので、六月ニ十一日早朝に、古川持煕は子弟共々自害した為、堅固な古川城は陥落した。稙宗は、古川城に長逗留し、西山城に 帰還しなかった。
稙宗と義直は、玉造郡の岩手沢(宮城県玉造郡岩出山町)に向かい、青塚より冨田・一栗に至る二十余郷を悉く焼き払い、七月十六日に、三千余人が立て籠もる岩手沢城に進攻した。 岩手沢城は、大崎家臣の氏家又十郎直継の居城であるが、新田頼遠がこれを攻略くしていたからである。城は要害堅固で、容易に攻めとる事が出来るものではなかつた。九月に入り、最上義光の仲裁で、新田頼遠は最上に逃れ、稙宗は、 氏家直継を岩手沢城に戻して、兵を引き返した。又、稙宗のこの遠征により、大崎地方・黒川郡等は伊達氏に従属する事になつた。
氏家一党内の内輪もめから、内乱が起こった。氏家安芸守が岩手沢城の氏家清継に夜襲をかけ、弟直継を自害させた清継を自決に追いやった。
度々興る内乱が、大崎領内に広まるのを恐れた大崎義直が、伊達・葛西の外圧もあり鎮圧することができない状況にあった。重臣の中目兵庫頭の助言により、あえて、伊達稙宗に援軍を求めることにした。
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 義直と家臣中目兵庫頭と共に、西山城(福島県伊達郡桑折)に伊達稙宗に援軍要請の為に入城、会見するには時を要したが、稙宗からは良き返事をもらった。が、しかし、義直動くの報が反乱軍に伝わり、先制攻撃を受けることになる。
緒絶川で境をないしていた対岸の米谷兵部の館を、古川城内に籠っていた新田頼遠兄弟の反義直派が、攻撃したが米谷兵部、米谷入道冶部は勇敢に館を脱出したが、女子・稚児は一人残らず斬殺された。
反乱軍は氏家安芸守、一栗兵部(一栗城主)ら氏家党を率いて、米谷越前入道の居館李曾根要害(古川市李曾捽)を攻め、妻子や家臣を斬殺した。
この戦いで反義直派に対峙したのは、四家老の一人渋谷備前守が率いる渋谷党であった。反義直派は飯川二郎四朗の館の要害で、氏家党と衝突したが、なかなか勝敗がつかず敢え無く退去したが、反義直派の勢いが激しく、戦火がさらに領内に 広がり始めた。この状況から、再度、義直は、伊達稙宗に援軍を求めるべく、西山城に向かった。
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きいな動きなし 伊達稙宗は三千余騎を率いて西山城を出発、鳴瀬川上流に騎馬隊を進めた。(鳴瀬川は当時、松山では長世川、色麻では四釜川と呼んでいた。)さらに、鳴瀬川沿いの三角州の高台にある師山駿河守の館 に入城した。
伊達稙宗は三千余騎を率いて西山城を出発、鳴瀬川上流に騎馬隊を進めた。(鳴瀬川は当時、松山では長世川、色麻では四釜川と呼んでいた。)さらに、鳴瀬川沿いの三角州の高台にある師山駿河守の館 に入城した。
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きいな動きなし 古川城を包囲した義直軍と伊達援軍が攻撃を開始、両軍総力戦で日没まで死力をしぼり戦った、船形連峰に日が沈むと、いずれの軍も本陣に引き上げた。
連合軍は古川城の外堀を落とし、本丸に押し迫る。反乱軍は和睦を求めたが、反乱軍の逃亡者が相次ぎ、首謀者と一握りの家臣と成ってまい和睦は為されず。
古川城総攻撃がかけられ結果、古川形部少輔持煕及び嫡子又三郎直稙、異母兄弟安童丸が切腹、他古川形部弟孫三郎、新田宮内、豊島兄弟、仏坂孫右衛門、五井伊豆入道親子三人 合わせて15人切腹、古川形部の弟四朗三郎ら56人戦死をした。反乱軍の首謀者の一人、高泉木工権頭直堅は高泉城に逃れ、再築した城に火を放ち佐沼城へ引き籠った。反乱軍の氏家安芸守、新田頼遠は、岩手沢城に逃れた。
古川城を包囲した義直軍と伊達援軍が攻撃を開始、両軍総力戦で日没まで死力をしぼり戦った、船形連峰に日が沈むと、いずれの軍も本陣に引き上げた。
連合軍は古川城の外堀を落とし、本丸に押し迫る。反乱軍は和睦を求めたが、反乱軍の逃亡者が相次ぎ、首謀者と一握りの家臣と成ってまい和睦は為されず。
古川城総攻撃がかけられ結果、古川形部少輔持煕及び嫡子又三郎直稙、異母兄弟安童丸が切腹、他古川形部弟孫三郎、新田宮内、豊島兄弟、仏坂孫右衛門、五井伊豆入道親子三人 合わせて15人切腹、古川形部の弟四朗三郎ら56人戦死をした。反乱軍の首謀者の一人、高泉木工権頭直堅は高泉城に逃れ、再築した城に火を放ち佐沼城へ引き籠った。反乱軍の氏家安芸守、新田頼遠は、岩手沢城に逃れた。
1536年 天文5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達稙宗は古川城に長逗留したが、再び、岩手沢城攻略へ動く、総大将義直と連合軍は玉造郡丸山(岩出山町下野目)に本陣をおいた。岩手沢城は難攻不落の堅城でもあり、兵糧攻めの戦いとなる。二か月兵糧攻めが続いたが間もなく、伊達稙宗の援軍の分家である義直の後見役である最上義守が乗り出して戦いは終息した。大崎領内の天文の乱は三年余り続いたが、この戦いの終息で終わった。
伊達稙宗は古川城に長逗留したが、再び、岩手沢城攻略へ動く、総大将義直と連合軍は玉造郡丸山(岩出山町下野目)に本陣をおいた。岩手沢城は難攻不落の堅城でもあり、兵糧攻めの戦いとなる。二か月兵糧攻めが続いたが間もなく、伊達稙宗の援軍の分家である義直の後見役である最上義守が乗り出して戦いは終息した。大崎領内の天文の乱は三年余り続いたが、この戦いの終息で終わった。
1540年 天文9年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 大崎地方へ領地拡大を狙っていた伊達稙宗が、小僧丸を強引に大崎義直の娘梅香姫に婿入りさせ入嗣させた。
大崎地方へ領地拡大を狙っていた伊達稙宗が、小僧丸を強引に大崎義直の娘梅香姫に婿入りさせ入嗣させた。








みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史18

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1541年 天文10年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 田村郡主の田村隆顕が服属し、これによって、伊達氏の四方の群雄は服属することになった。
大崎氏大きな動きなし
1542年 天文11年 室町時代 葛西晴胤は、父である稙宗派になったが、葛西領地の葛西家臣、柏山・大原・冨沢氏等が晴宗派に属した。葛西領内でもニ派に分かれて争うようになったが、伊達稙宗は、守護職の権限で葛西家臣団に協力を要請したことが、 軍忠状や宛行状の形で残されている。 伊達晴宗は、稙宗を桑折城に幽閉するが、間もなく救出さえるが、伊達家がニ派に分かれて争うことにのなった。又、奥州南部国人達も二分して武力闘争を繰り広げることになった。所謂、「天文の大乱」 の始まりである。
晴宗は左京大夫に任ぜられた。
大崎義宣は、父である稙宗派になった。
1543年 天文12年 室町時代 伊達「天文の乱」の為、袋中(佐沼地域)で戦いとなり、葛西晴胤が、大谷(黒川郡地域)に追撃したと伝えられている。
伊達内乱状態ではあったが、元服し、小僧丸改め大崎義宣となり、義直嫡男義隆をさておきき奥州探題職を継ぐ形となったが、大崎氏内部 分裂を起こす要因となる。(反義直派(大崎義宣)は伊達稙宗派、義直派は伊達晴宗派に分裂して行く)
この時、義直は伊達稙宗から縁を切る為に、伊達晴宗に騎馬隊三百騎持って加勢した。伊達義宣は伊達稙宗(実父)を支援することとになり、最終的には、悲運な最後になる。

この時、義直は伊達稙宗から縁を切る為に、伊達晴宗に騎馬隊三百騎持って加勢した。伊達義宣は伊達稙宗(実父)を支援することとなり、最終的には、悲運な最後になる。
1544年 天文13年 室町時代 葛西氏と大崎氏の稙宗派内で争いが起こり、伊達家家臣国分能登守が、斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った 左記同様 左記同様
1545年 天文14年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 左記同様 大崎一族の羽州山形城主10代最上義守の添えもあり、室町幕府から左京太夫(奥州探題)に任官を受ける。任官後、小野城から中新田城に移る。
その後、義直左京太夫任官後上洛したが、将軍足利義晴に拝謁できず、足利一門でもある「大崎公方」として、著しく権威を損なわれる形となった。このことが、その後「天文の乱」の火種となった要因となった。 拝謁ができなかったのは、将軍足利義晴が当時流行した疫病を恐れ、越前国へ行き、義直と対面できなかった為であった。将軍からは書状つきの鎧一式を拝領したが、奥州諸大名からは軽んじられ、家臣からも不協和音がで始めた。
1546年 天文15年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 晴宗が西山城から白石城を攻めたことから、再び争いが始まった。
大崎氏大きな動きなし
1547年 天文16年 室町時代 三迫戡定みはざまかんていがあり、葛西氏が勝って争いを平定したと伝えられる。
三迫戡定みはざまかんていがあり、大崎氏敗北した。
1548年 天文17年 室町時代 晴宗派の留守景宗が柏山氏と共に寺池に向かい、寺池城を攻撃した。
将軍足利義輝より伊達晴宗に対して和睦勧告の書状が届き、晴宗の主導で事態の和解を進めていくことになった。
伊達稙宗が、丸森の丸山城に隠居することで、和解が成立した。これにより、六年三ヶ月の「天文の大乱」が終息した。
伊達晴宗は、伊達家15代当主として家督を継いで、羽州(山形県)置賜郡米沢に居城を構えた。
義直は晴宗方についた為、伊達脅威も少なくなり、兼ねてからの懸案であった義隆世継ぎに策をめぐらすことになる。一方、義宣は、氏家三河守隆継により磐手沢城に幽門されて、2年余り居座ることになる。居城を長期に空けることは謀反・反逆と疑われる帰来があり、義宣も同様、小野城を長き空けたことは、殉死に値する事と、大崎氏家老 は、義直に進言するが、伊達家に配慮し、小野城に帰城の命をだす。1550(天文十九年)の事である。
注)義宣が疑われたのは、氏家氏の問題が絡む、氏家氏は、当主に反旗を翻す程の危険な存在で、当主を凌ぐ勢力を誇り、天険要害の堅城で大崎領内に睨みを利かせていたからである。
1550年 天文19年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 義直より小野城に帰城の命が発せられるが、義宣は磐手沢城を密かに脱出をし、高泉城に入り、葛西領の石巻の葛西当主葛西晴胤(伊達稙宗の子牛猿丸、義宣の弟)を頼ったが、入城認められず、最も頼りとなる伊達稙宗のいる丸森城をめざした。が、大崎側の刺客によって、飯野川辺の辻堂で惨殺される。義宣の墓は、桃生郡河北町大森辻堂にある。法名は「玉竜院殿輝山道宣大居士」
1552年 天文22年 室町時代 葛西氏大きな動きなし。 懸田俊宗父子が謀叛を起こし、翌年7月に討伐された。
晴宗は、家臣に知行地の証の証文を与え、騰本三冊製本し保存した。所謂、「晴宗采地下賜目録」という。これにより、晴宗が部下との結びつきを確認したもので、戦国大名としての伊達氏の主従関係を確立した。
大崎氏大きな動きなし










みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史19

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1553年 天文22年 室町時代 右記同様 伊達晴宗は、叛臣の知行地を没収して、功臣に再配分する、新しい「采地下賜録」を作成した。石高表示が明確に示され、石高に合わせた軍役を確定させた。稙宗以上に確固とした家臣掌握を完成させた。 この天文の大乱は、伊達氏内紛ではあったが、逆に、伊達氏の守護としての勢力圏内の統一を促進させた。
一方、葛西氏の立場は、伊達氏とって肉親的存在と呼ばれるようになり、1576年の相馬氏攻めに協力を要請されたり、1588年には黒川氏攻めに鉄砲隊の派遣を要請されたりしたが、葛西氏は大崎氏と違い、最後まで独立国として体制を保ち、実力を温存させることができた。とどのつまりが、伊達氏の北進が留守・長江領に留まり、大崎領は辛うじて馬打ち領で残ったが、葛西領以北はこれからというとこであることは、葛西氏の体制が温存されたということに なる。
左記同様
1555~57年 弘治~永禄年間 室町時代 葛西氏大きな動きなし 幕府は、晴宗を奥州探題に任じ、桑折景長・牧野久仲の伊達家臣の両者を守護代に補任された。
注)守護と探題について
大崎氏大きな動きなし
1555年 弘治元年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 義隆は、大崎領内を統治するようになり、古川形部持煕の子九郎を義隆より一字拝領され、古川弾正忠隆と改め古川城主を命じた。古川形部持煕没後十五年の歳月を経て、古川城宿老米谷兵部の進言で御家再興をが許された。又、弟十郎は義隆より一字拝領し青塚摂津守隆持と改め、出城の青塚城主を命じた。この頃の戦国時代は、武田信玄と上杉謙信が川中島の戦いがあったり、地方の覇権争いが盛んな時であった。
1557年 弘治2年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 秋は、大凶作となり、義隆は、飢餓状態の領民(農民)に領内の未開墾の原野、湿地、川の合流の三角州の開墾出役を命じ、その報酬に食糧米を現物支給し領民の窮乏を救った。領民は、大凶作で飢餓状態に陥って為、開墾出役に積極的に応じた。大崎領内は35万石(石高推計)ではあったが、未開墾が点在したいたので義隆が窮民対策と開発を政策し実行したものであり、この年から、灌漑用水が少しずつ整備され、田畑耕作面積が増大する結果となった 。
1565年 永禄8年 室町時代 葛西氏大きな動きなし。 伊達家「中興の祖」稙宗が78歳で没し、丸森の松音寺に葬むられた。又、晴宗が、信夫郡杉目城(福島市)に隠退した。
大崎氏大きな動きなし
1571年 元亀2年 室町時代 葛西領内で、本吉重継が反旗を翻したのに続き熊谷直平も背いて内乱に発展していた。この機会に、義隆は、長年境界争いを続けたいた葛西領国境の遠田郡六十六郷を奪還すべく葛西に攻め入った。大崎氏は、最上義光の応援を受け、流郷(岩手県花泉町)の入口の有壁(宮城県栗原郡)に大攻勢をかけてきたが、葛西前線が末野-藤渡戸-金成-武鑓-石越であった為、流郷の寺崎氏を始め、武将たちがこの攻勢を防いだ。葛西軍は、兵力を結集して反撃に移つた。
大崎・葛西合戦の始まり年でもあった。
伊達領国で宿老中野宗時・牧野久仲の造反が起こり、内紛の兆しが生じた。
伊達領国で宿老中野宗時・牧野久仲の造反が起こり、内紛の兆しが生じた為、大崎領国は同族の羽州山形城主である最上義光と軍事同盟を結び伊達・葛西氏の侵略に備えた。一方、葛西領内で、本吉重継が反旗を翻したのに続き熊谷直平も背いて内乱に発展していた。この機会に、義隆は、長年境界争いを続けたいた葛西領国境の遠田郡六十六郷を奪還すべく葛西に攻め入った。大崎・葛西合戦の始まり年でもあった。
大崎氏は、最上義光の応援を受け、流郷(岩手県花泉町)の入口の有壁(宮城県栗原郡)に大攻勢をかけてきた。
1572年 元亀3年 室町時代 大崎・葛西合戦の夏の陣、義隆率いる大崎の最上連合軍3万の大軍が佐沼まで攻め上り、大崎旧家臣でありながら、葛西傘下になった薄衣一族が再び義隆に服属させ旧領奪還を実現させた。
葛西軍は、攻勢に出て石越-若柳-大村へわずかだが南方に前進した。
伊達氏大きな動きなし 七月には、大崎・葛西合戦の夏の陣、義隆率いる大崎の最上連合軍3万の大軍が佐沼まで攻め上り、大崎旧家臣でありながら、葛西傘下になった薄衣一族が再び義隆に服属させ旧領奪還を実現させた。しかし、葛西と戦い、葛西氏に押し返される。
1573年 元亀4年 室町時代 葛西軍は、武鑓-大村まで突破口を開き、有賀-金成まで西進し、雪崩を打って岩ヶ崎へ突入し三迫を制圧した。さらに、奥大道を南進して金田荘(一迫町)まで進出した。その後、葛西軍は、ニの迫を制圧して、栗原郡(現、栗原市全域)全郡を勢力下に治めた。
三迫の冨沢氏の変幻自在の動きはあったが、葛西勢は、ニ百年ぶりに大崎氏によって失った領地、三迫の地を取り戻すことができた。
伊達氏大きな動きなし 葛西氏により、ニ百年ぶりに大崎氏によって失った領地の三迫の地を取り戻すされた。
1577年 天正5年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 晴宗が59歳で没し、杉目城辺の宝積寺に葬むられた。
大崎氏大きな動きなし








みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史20

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1580年 天正8年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 大崎義隆50歳になったが、足利幕府滅亡後も奥州大崎領内は安定、平穏な時期を過ごしていた。義隆の統治時代は、歴代当主の中で最も領内が安定、隣接大名に比べて 租税が安く、領民からは尊敬され、一族一党からも慕われ、人材登用も卒なくしており、又、侵略戦争も避けていた為、平穏安定な領内が治めた。
1581年 天正9年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達氏大きな動きなし 五月には、足利幕府滅亡後、織田信長に拝謁し、忠誠を誓う為上洛を決行、名生城には嫡子義興と城代紀伊守を残し、四家老と三百騎を従え出発した。 上洛は歴代同様、羽州街道を鳴子に進み、最上をへて日本海側の北陸路より新潟・富山・金沢・福井から「木の芽峠」を越え、琵琶湖湖岸に抜け大津をへて京都に入った。途中、安土城の織田信長に拝謁(史実には記載されてない)宮崎産の駿馬十頭、絹肌米十石(60kg入り25俵)を献上、信長より朱印状を賜る。(現存史料として存在する)
1582年 天正10年 室町時代 葛西晴信は、北方戦線で南下する九戸政実を迎え撃つたり、領国内の家臣柏山・米合・浜田・薄衣・江刺氏等が蜂の巣を突いた様に紛争を巻き起こしている最中 であった。
伊達政宗は、元服して初陣に、佐竹氏に後押しされた蘆名・岩城氏連合軍と対峙していた。
大崎氏大きな動きなし
1586年 天正14年 室町時代 葛西氏の大きな動きなし。 伊達氏の大きな動きなし。 夏には、義隆の寵愛を受けた新井田形部少輔隆景が突然に側小姓役からはずされた。若干16歳ではあったが、「謀反の企てが露見した」事が更迭の理由。色々な 憶測が流れ、同じ側小姓の伴場野惣八郎の謀略とか、公方鉄砲組の主戦論者で城内から危険視されたとか、の憶測があった。義隆は、嫡子義興6歳が成長するなかで、相談相手に相応しい相談役に、この二人の側小姓から抜擢する考えであった程 、領内で有望な側小姓であった。新井田隆景は大崎一門の血筋で里見紀伊守隆成(家老職筆頭)の推挙、一方、伴場野惣八郎は中目兵庫守隆政(四家老の一人)の推挙で、智謀に冨、聡明な人材が故のことでもあった。 この事態は、伴場野惣八郎の立場も危うくなり、城内では孤立同然、里見一派の厳しい監視と怒りに身の危険を感じ、磐手沢城の氏家弾正義継を頼り、義隆の隠密裡に進めている「公方鉄砲隊」も等の内情を打ち明けた。氏家弾正義継は事態の 大きさに驚き、三丁目城に隠居の氏家隆継に相談をした。以前より大崎領内の内紛には、必ず氏家一党が介在することから、政略的に義隆に同族の黒沢冶部隆澄の娘澄姫を義隆に嫁がせていたが、伊場野惣八郎を庇護することで、事態が再び 内乱の兆しが見えてきた。
1587年 天正15年 室町時代 豊臣秀吉が関白となり、聚楽第で政務をとり始めており、奥州の葛西晴信は、北辺の争いを治めたもの、続いて、元良・浜田・藤沢氏の争乱があり、なんとか鎮定させた。その間、従五位下相模守・左京太夫に任ぜられたと「葛西家譜」に、伝えられている。
これ以後、葛西晴信は、領国内の争乱の鎮圧に明けくれ、領国外の情勢に疎かになり、伊達政宗の情報頼りとなってしまった帰来があり、小田原参陣もできず、奥州仕置きにて領地没収となり、葛西領は関白秀吉の側近木村弥一郎右衛門吉清に与えられた。
領地没収後、木村父子の強引な検地がなされ、旧家臣・農民の怒りが爆発し、葛西・大崎一揆が起こる事になった。
豊臣秀吉が関白となり、聚楽第で政務をとり始めており、奥州の伊達政宗は、相馬氏と和睦し、伊達輝宗が畠山氏に討ちとられたが、畠山氏を滅亡させ、大崎氏を攻めたが大敗した。また、蘆名氏・佐竹氏とは、それぞれ和睦し兵を納めた。その間、政宗は、従五位下美作守・左京太夫に任ぜられている。
義隆の寵愛を受けた新井田形部少輔隆景が突然に側小姓役からはずされた。若干16歳ではあったが、「謀反の企てが露見した」事が更迭の理由。色々な憶測が流れ、同じ側小姓の伴場野惣八郎の謀略とか、公方鉄砲組の主戦論者で城内から危険視されたとか、の憶測があった。 義隆は、嫡子義興6歳が成長するなかで、相談相手に相応しい相談役に、この二人の側小姓から抜擢する考えであった程、領内で有望な側小姓であった。新井田隆景は大崎一門の血筋で里見紀伊守隆成(家老職筆頭)の推挙、一方、伴場野惣八郎は中目兵庫守隆政(四家老の一人)の推挙で、智謀に富、聡明な人材が故のことでもあった。 この事態は、伴場野惣八郎の立場も危うくなり、城内では孤立同然、里見一派の厳しい監視と怒りに身の危険を感じ、磐手沢城の氏家弾正義継を頼り、義隆の隠密裡に進めている「公方鉄砲隊」も等の内情を打ち明けた。氏家弾正義継は事態の大きさに驚き、三丁目城に隠居の氏家隆継に相談をした。以前より大崎領内の内紛には、必ず氏家一党が介在することから、政略的に義隆に同族の黒沢冶部隆澄の娘澄姫を義隆に嫁がせていたが、伊場野惣八郎を庇護することで、事態が再び 内乱の兆しが見えてきた。
1587年 天正15年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 新井田隆景、里見一派、山形の最上義光(義隆の叔父) の勢力から、形勢不利とみて、伊達家(米沢)に、日頃懇意にしていた、片倉小十郎景綱を通し援軍を求めた 新井田隆景の再吟味を行う為、新井田城に義隆が向かうが、里見一派の企みにより、幽門されてしまう。大崎領内は里見一派の主流派と氏家一党の反主流派の状態内紛に陥り、やがては、最上義光(山形)と伊達政宗(米沢)を交えた「大崎合戦」に拡大して行く。氏家隆継が片倉小十郎景継を通して宿敵伊達(米沢)に援軍を求めたことが、義隆に内通があったこと 事から、主流・反主流に分かれて内乱状態になった。




みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史21

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1588年 天正16年 室町時代 葛西氏大きな動きなし 伊達政宗(米沢)が大崎領国に出陣を決意する。
伊達軍一万数千名泉田安芸守重光が先陣となり、後陣が留守上野介政景となり、大崎軍の第一要塞の師山城を通過、第二要塞の下新田城も通過して、中新田城に着陣した。
二月二日~八日にかけ戦いが行われたが、伊達軍敗色が濃く泉田隊五千名が新沼城に入り立て籠もる。留守隊は必死の思いで松山城に引き上げた。二月ニ十九日に泉田重光と長江月鑑斎を大崎軍に人質となり、伊達軍は新山城を出城することができた。伊達氏の唯一の敗北となった。
名生城の恒例の行事が取りやめとなり、伊達挙兵にかかわる軍議が行われた。伊達軍の侵攻経路と大崎軍の守備体制をどの様にするかであった。 伊達軍の侵攻経路は、米沢から板谷峠を越えて桑折城(福島)を抜け、国見峠から梁川経由岩沼城(泉田安芸重光)で合流し、海岸沿いに東進し利府付近で留守上野介政景と合流、鳴瀬川を上る事とした。
二月二日、大崎合戦が始まる。伊達軍一万数千名泉田安芸守重光が先陣となり、後陣が留守上野介政景となり、大崎軍の第一要塞の師山城を通過、第二要塞の下新田城も通過して、中新田城に着陣した。
五月十七日付けの最上義光書状によれば、氏家弾正忠義継は、家臣宮城中部等の家臣を人質にだして、最上義光に忠誠を誓ったとある。義継の伊達政宗に同調することで、大崎領国の当主の座を狙ったが、夢叶わず消え失せてしまった。 後に、氏家弾正忠義継は、最上義光の仲介で大崎義隆に出仕叶うことができる様になった。
1589年 天正17年 室町時代 葛西氏の大きな動きなし 一月二十三日付けに、氏家弾正忠義継より、伊達政宗に、大崎義隆が再び氏家党討伐する動きがあるとの書状が届く、政宗は再度「大崎攻め」を画策する為に大崎家臣団の諜略を進めた。特に、家老格の中目兵庫頭隆政を離反させるなど、家臣団の総崩しを画策、結果、二月二十八日に最上義光を通じて和議を結ぶ、さらには、四月十六日に大崎義隆が和議の使者を米沢に参向させて、和議の条件交渉をさせた。
伊達政宗の和議条件として、四月十六日付けの書状の記載が残されている。内容は「大崎領を伊達の馬打ち領とし(伊達への従属)、最上義光と絶縁、氏家党の復権を求める。」であった。大崎領内では不服を唱える者もいたが、大崎義隆が領内を集約し時期を見計らうことにした。
一月二十三日付けに、氏家弾正忠義継より、伊達政宗に、大崎義隆が再び氏家党討伐する動きがあるとの書状が届く、政宗は再度「大崎攻め」を画策する為に大崎家臣団の諜略を進めた。結果、二月二十八日に最上義光を通じて和議を結ぶ、さらには、四月十六日に大崎義隆が和議の使者を米沢に参向させて、和議の条件交渉をさせた。
伊達政宗の和議条件として、四月十六日付けの書状の記載が残されている。内容は「大崎領を伊達の馬打ち領とし(伊達への従属)、最上義光と絶縁、氏家党の復権を求める。」であった。大崎領内では不服を唱える者もいたが、大崎義隆が領内を集約し時期を見計らうことにした。
1589年 天正17年 室町時代 葛西氏大きなうごきなし 六月五日に、伊達政宗は会津芦名を攻める為、先陣猪苗代盛国(芦名に不満)、二番手に支倉小十郎、三番手に伊達成実と総勢ニ万三千余騎、一方、芦名軍は冨田将監を先陣に一万六千余騎が摺上原に集結、戦闘が始まったが、芦名軍は追い込まれ 黒川城(会津若松城)に籠ることになった。しかし、六月十日夜に、芦名義広は白河に逃れた。その後、、落ち延びて、生家の常陸佐竹に囲われることになった。六月十一日に伊達政宗が黒川城に入った。芦名攻略を見極めたかのように、二日後の六月十三日大崎・伊達の和議の返書として、 大崎義隆の「起請文」が届いた。
六月五日に、伊達政宗は会津芦名を攻める為、先陣猪苗代盛国(芦名に不満)、二番手に支倉小十郎、三番手に伊達成実と総勢ニ万三千余騎、一方、芦名軍は冨田将監を先陣に一万六千余騎が摺上原に集結、戦闘が始まったが、芦名軍は追い込まれ 黒川城(会津若松城)に籠ることになった。しかし、六月十日夜に、芦名義広は白河に逃れた。その後、、落ち延びて、生家の常陸佐竹に囲われることになった。六月十一日に伊達政宗が黒川城に入った。芦名攻略を見極めたかのように、二日後の六月十三日大崎・伊達の和議の返書として、大崎義隆の「起請文」が届いた。
1590年 天正18年 室町時代 葛西晴信は、会津黒川城の伊達の下に、大窪紀伊守を参内させたが、伊達の術策に陥り、小田原参陣はしなかった。
三月一日付に、豊臣秀吉が小田原征伐を大号令を発し、三月十八日には、伊達政宗は評定を開き小田原参陣を決断した。
この頃、伊達においても、小田原参陣前、政宗の弟小次郎(笠丸)が殺される事態が発生した。この事態には、諸説があり定かではないが、伊達政宗が自ら殺めたとの説、屋代勘解由、牛越内儀、七右ェ門(鈴木和泉守元信)のいずれかが、笠丸の小守役を勤めた小原縫殿之助(おばらぬいぼすけ)の屋敷で斬ったとの説があり、諸説もろもろである。この原因は、保春院が最上義光の口説かれ、政宗を毒殺し、小次郎を当主に擁立する企てが発覚したことにある。
三月一日付に、豊臣秀吉が小田原征伐を大号令を発し、三月十八日には、伊達政宗は評定を開き小田原参陣を決断した。一方、大崎義隆は「下剋上も極まりに達しておったの、百姓の子が天下を取る世に加担も出来まい」と静閑の態度を 取った。義隆自体は政宗によって、一度隠居をしたが再び、当主になることで、領国安堵されたが、氏家弾正忠義継の執事職が政事を伊達一色され、それを嫌い密かに、最上義光との密約を結び、政宗との和議を反故にし、氏家弾正隆継を弾劾するとことを踏み切らせ、伊達離脱をし、伊達との和議は実質上、表向きとなった。
この時期の情勢は緊迫を要し、小田原参陣に向け、政宗は大崎領国の守備を氏家弾正に任せ、伊場野外記や伊達に属下に檄文を送った。又、補佐役に礒田典膳正兼に命じ、氏家弾正の補佐をさせた。
1590年 天正18年 室町時代 豊臣秀吉は宇都宮に入り、伊達政宗、最上義光、木村清久を召き、”東国御出馬”を評議したし、八月一日に白河から八月九日に会津黒川城に入城することになった。八月一日白河では、伊達政宗、最上義光が本領安堵の朱印状が与えられた。
八月九日会津黒川城では、出羽奥州総仕置の厳しい評議が為された。評議の結果は、大崎義隆(名生城主)と葛西晴信は領地没収(この事は、最上義光により宗家の大崎義隆に伝えられた。)、石川昭光、結城義親(白河城主)も領地没収の裁定が下った。
豊臣秀吉は宇都宮に入り、伊達政宗、最上義光、木村清久を召き、”東国御出馬”を評議したし、八月一日に白河から八月九日に会津黒川城に入城することになった。八月一日白河では、伊達政宗、最上義光が本領安堵の朱印状が与えられた。
伊達政宗も「私戦禁止令」に違反したとのことで、会津四郡、南仙道五郡を召しあげられ、会津黒川城祉に蒲生氏郷が四十二万石与えられた。(伊勢松坂十二万石から大大名となる)又、小田原征伐の軍功に奥羽総大将に任じられた。
豊臣秀吉は宇都宮に入り、伊達政宗、最上義光、木村清久を召き、”東国御出馬”を評議したし、八月一日に白河から八月九日に会津黒川城に入城することになった。八月一日白河では、伊達政宗、最上義光が本領安堵の朱印状が与えられた。
八月九日会津黒川城では、出羽奥州総仕置の厳しい評議が為された。評議の結果は、大崎義隆(名生城主)と葛西晴信は領地没収(この事は、最上義光により宗家の大崎義隆に伝えられた。)、石川昭光、結城義親(白河城主)も領地没収の裁定が下った。






みちのく三国史

葛西・大崎・伊達一族年代史22

西 暦 年 月 年代 葛西一族 伊達一族 大崎一族
1590年 天正18年 室町時代 奥州仕置で改易となる。 奥州仕置を蒲生氏郷の案内役を務めていた。 奥州仕置で改易となる。
八月十六日には、奥羽総大将の蒲生氏郷が、伊達政宗を先達に、大軍を率いて大崎領国に入り、大崎義隆のいた中新田城で大崎領国没収の沙汰が下された。
八月十八日には、領地没収後、大崎領と葛西領は関白秀吉の側近木村弥一郎右衛門吉清(明智光秀の重臣で丹波篠山の城代であった。)に与えられた。名を伊勢守に改め、登米城(旧葛西)に入り、嫡子清久は古川城(旧大崎)に入り、領国を治めた。 しかしながら、木村父子は関白秀吉の命で、検地と兵農分離の刀狩りを徹底的強行した為、農民の不満が爆発した。検地では生産力を米で評価し、租税をニ公一民と原則とした為、義隆統治時代に比べ対象面積を二割減じた重税をし課した為であった。 又、木村氏には、家臣が少なく、中間(ちゅうげん)、京都周辺の浪人などを家臣にして下向した為、統制がとれず農民の不満がさらに増加した。
1590年 天正18年 室町時代 葛西・大崎一揆への動き 十月ニ十六日には、伊達軍が米沢を出発し、十一月五日に留守政景の利府城に入った。一方、関白秀吉名で十一月十日に、関東の徳川家康らが挙兵した。
十一月十四日には、蒲生氏郷が国分・松森城に至り、下草城で政宗と氏郷が大崎旧領の一揆鎮圧の軍義を開いた。この後、政宗家臣須田伯奢が蒲生氏郷の陣屋を訪ね、「政宗謀反」ありと密告を受け、一夜にして深谷から名生城を攻め落とし、翌日には名生城に籠城してしまう。
(政宗と氏郷の確執(奥州仕置で会津領地没収され、氏郷が拝領したことに始まる。)あった為である。)、伊達軍は、蒲生氏郷に遅れを取りながら千石城(松山町)に本陣を構え、中目城・師山城を攻め落とし、高泉城(高清水町)を無血開城し宮沢城攻略に入った。
十月十六日には、大崎旧領から木村父子の悪政 に対して反旗の狼煙をあげられ、忽ちのうちに葛西旧領にも拡大し、大崎・葛西の旧臣が土着民を扇動して一揆がおこる。大崎旧臣率いる一揆勢は膨大な数になり、木村父子は佐沼城(鹿ヶ城)に逃れたが、もう、木村父子だけでは、一揆鎮圧が不可能な事態に陥った。浅野弾正少輔長吉は、奥州仕置きを終え帰京の途中でその報を聞き、米沢の伊達政宗、会津若松の蒲生氏郷に伝えに、出陣を命する。

十月ニ十六日には、伊達軍が米沢を出発し、 十一月五日に留守政景の利府城に入った。一方、 関白秀吉名で十一月十日に、関東の徳川家康らが挙兵した。
十一月十四日には、蒲生氏郷が国分・松森城に至り、 下草城で政宗と氏郷が大崎旧領の一揆鎮圧の軍義を開いた。 この後、政宗家臣須田伯奢が蒲生氏郷の陣屋を訪ね、 「政宗謀反」ありと密告を受け、 一夜にして深谷から名生城を攻め落とし、 翌日には名生城に籠城してしまう。( 政宗と氏郷の確執( 奥州仕置で会津領地没収され、氏郷が拝領したことに始まる。) あった為である。)、伊達軍は、 蒲生氏郷に遅れを取りながら千石城(松山町) に本陣を構え、中目城・師山城を攻め落とし、 高泉城(高清水町)を無血開城し宮沢城攻略に入った。
1590年 天正18年 室町時代 葛西・大崎一揆の動きが活発化 十ニ月十九日に、政宗が米沢城に帰った翌日に、関白秀吉の召喚命令が伝えられた。急ぎ上洛途につき、関白秀吉の詰問を受けることになった。 政宗が一揆軍に檄文を送ったことが、詮議とされたが、政宗の弁明で難を逃れた。弁明内容は、「政宗の花押セキレイで、軍事文書であるにも関わらず、セキレイに眼孔がない事を理由に、問題とされた檄文は政宗のものでは無いことを訴えた。」であった。
大崎義隆は、葛西・大崎一揆が起こる十日前の1590年十月六日に、御家再興の為上洛、一か月の長旅を経て、京都逗留一か月を費やし1590年(天正十八年)十二月七日に、五奉行上申を得て、聚楽第の大広間で謁見、秀吉は、義隆の器量を見抜き(秀吉の人を見抜く力は、その当時定評があった)、小田原不参を 不問にし、領地安堵の朱印状が与えれた。(大崎氏は、伊達氏の馬内領であり、伊達家の臣下にあたり、小田原参陣に関して、伊達家より命令が下されなかった旨を弁明したことも不問の理由と思われる。)
1591年 天正19年 室町時代 佐沼城は、葛西晴信の一家の千葉信胤、信重兄弟を大将に仰ぎ、それに、大崎旧家臣の残党、百姓、婦女子を含め一万人余りを数えた。
六月二十七日に、伊達政宗は佐沼城を総攻撃を命じ、本陣を御陣場山に構え、一揆勢を攻め囲んだ。政宗は一揆鎮圧に豊臣秀次に相談したが、「ことごとく掃討せよ」との厳しい命が下された。
武士五百、婦女子二千名余りを捕え、全員撫で切に処した。政宗は、一揆首謀者を含む一揆に加わった者の頸を首実検し、遊佐沢部、飯田筑前、星彦七などの家臣に命じて、大念寺の裏山に葬った。(迫町史閲覧のこと)
○1591年(天正十九年)ニ月九日に、秀吉の裁定が下り、政宗は会津五郡召し上げ、蒲生氏郷に与えられ、政宗には、葛西・大崎旧領を与えるもとなった。木村父子は、知行召し上げ、佐渡島おくりとなったとの説が残る。又、政宗は侍従に任ぜられ、従四位下に叙されて 、羽柴姓を許された。
ニ月ニ十九日には、関白秀吉より、伊達政宗が聚楽第に屋敷を賜り、鈴木新兵衛、石母田景頼の家臣に普請を命じた。
八月十四日に、政宗は豊臣秀次の誅殺命令を、だまし討ちする形で事態が起こった。葛西・大崎一揆の惣頭衆と「本領返賜」と偽り、集めて、だまし討したものである。
以後、葛西・大崎旧領内には、遺恨が残る形になったが、一揆自体は沈静化していった。
秋に、大崎義隆は、蒲生氏郷のはからいで羽州山形城に向かい、途中旧領に立ち寄り、南城下総守隆信を強制的に残し、下人二人と共に会津若松城下の館に帰った。義隆を庇護した蒲生氏郷は、1595年(文禄四年)四月京都で死去、跡継ぎの秀行は、1598年(慶長三年)に宇都宮に移封された後、上杉景勝のもとに お預けとなった。新領主の上杉景勝は、”大崎公方”と呼ばれた義隆を家臣に 取り立てるが、義隆68歳でもあり、最上義光のもとにいた嫡子義興を代わりに仕えさせた。二年後、関ヶ原合戦が起こり、豊臣に ついた上杉は敗れ以後、義隆の消息は途絶えた。
一説では、伊達家に仕えた大崎旧家臣が密かに、大崎旧領へ迎え往生寺(色麻町)へ葬った。一説では、名生城、川熊城の寺院に埋葬したとの説が様々言われている。 大崎氏が滅亡してから、伊達政宗が磐手沢城に移封されると、雪崩を打った様に、大崎旧臣は伊達へ臣下の礼を取るようになった。


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