郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・大崎一族編)

郷土歴史倶楽部(陸奥国中世編)

宮城県内の古代・中世期概説入門書
 <<宮城県内古代・中世事情>>

陸奥国建郡について
律令国家の時代では、中央から派遣された国司が現地で政務をとる政庁を国衛こくがといい、国衛の所在地を国府と呼んでいた。
国司は、律令制官庁の役人と同様で、長官(国司の場合かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の四等官に分けられ、国の大・上・中・下の等級により、定員が定められていた。
国司という場合、広義には四等官全員を指し、狭義的にはかみ(長官)をいう。「延喜式」によると「養老令」では、大国国府の人員配置は下記のごとくであったようである。
・守 (従五位上相当)一人
・介 (正六位下相当)一人
・大掾(正七位下相当)一人
・少掾(従七位下相当)一人
・大目(従八位上相当)一人
・少目(従八位下相当)一人
史生ししょう三人、国博士くにはかせ・医師各一人という配置となっていた。
陸奥国の場合どうであろう、陸奥国は大国であり、798年(延暦十七年)六月二十八日の「太政官謹奏」によると(「類聚三代格」)下記のごとく記されている。
按察使あぜち一人・記事きじ一人・かみ一人・すけ一人・大掾だいじょう一人・少掾しょうじょう一人
大目だいさかん一人・少目しょうさかん一人・博士はかせ一人・医師いし一人・史生ししょう五人・その他二人
陸奥国は、「養老令」の大国の国司定員を上回っていた。いわゆる、陸奥国の行政府が特殊性を持つた行政府であったことが伺える。本来、国は国司が居る所を行政府としていたが、陸奥国・出羽国には、国司の上に按察使がいて、按察使府なる行政府が存在する型となっている。元来、按察使は791年(養老三年)七月に設けられ、国司を監督する令外の官りょうげのかんであった。
陸奥国においての初見は、養老四年九月二十八日に按察使上毛野広人かみつけのひろと正五位下が蝦夷の反乱で、殺害されたと記させたことである。次に、養老五年八月には、出羽国が、陸奥国按察使の管轄下にはいったことも記されている。全国的に、按察使の設置も783年(延暦二年)を境に減り、陸奥出羽国按察使以外に史上から姿を消している。
○ 798年(延暦十七年)には、「陸奥の定員を定むる事」の措置がとられ、按察使は東北地方にのみ存在することに至った。
陸奥国・出羽国を含む最高官人は按察使となり、位階も正五位上位と大国の守並に位置しており、812年(弘仁三年)正月には、従四位下の地位に任ぜられた。辺境の重要性に基づく特別な措置であったと思われる。陸奥国の場合、軍政府とも言うべき鎮守府も設置されており、その将軍は、陸奥国の長官が兼務する形となっていた。
陸奥国の長官が将軍であったとの初見は、729年(天平元年)の「続日本紀」九月十四日条に「陸奥鎮守府将軍従四位下大野朝臣東人おおのあそんあずまんど」と記されている。
この鎮守府の官制は、将軍(従五位上相当)、将監しょうげん(軍監、正七位下相当)、将曹(軍曹、従八位上相当)があり、811年(弘仁二年)四月時点での定員は、将軍一人、軍監一人、軍曹二人、医師と弩師どし各一人となっていた。
陸奥国の国府あるいは鎮守府の所在地として多賀城がある。
外郭は東辺1000m、西辺700m、南辺880m、北辺860mの不整形が築地をめぐらし、中心より南よりに、東西103m、南北120mの長方形の築地をめぐらした政庁跡と思われる内城跡がある。
陸奥国と蝦夷について①
蝦夷について、大化改新の前に記述が残されているのは「日本書紀」である。
○581年敏達天皇びだつてんのう十年に、数千の蝦夷が辺境を侵したとある。この時、天皇は「魁輝綾糧ひとこのかみあやかず」らを召し、「大足彦天皇おおたびひこてんのうの世に殺すべき斬し、ゆるすべきは赦す、今、朕 彼の前倒に遵いて元、悪を誅さんとす」しょうしたと言う。
備考;「大足天皇(景行天皇)の前倒しとは、日本武尊の東征を指したことであり、これは、あくまで伝承の域である」
○637年舒明天皇じょめいてんのう九年是歳条に、「蝦夷叛し以て朝せず」と言う記事がある。すでに服属していた蝦夷が反乱を起し、朝貢を怠ったと言う記事が残されている。又、陸奥国の地域には、日高見国ひだかみこくがあり、北上川が古くから日高見川と言われていた地域でもある。
「延喜式神名帳」によると、陸奥国桃生郡に日高見神社があると記されており、現在の宮城県石巻市で太平洋に注ぐ北上川流域に日高見国と蝦夷国が存在したと認識して良い。
大化改新の後も、蝦夷は服属し朝貢していたことがわかる。
○646年大化二年、655年~659年斉明天皇元年などに蝦夷服属の記事があり、斉明天皇五年7月3日条の「伊吉連博徳書いきのむらじはかとこがふみ」には、この年に派遣された遣唐使が「道奥蝦夷男女二人」を唐天子(高宗)に示し、天子と使者との間にかわされた問答が収められている。
使者の説明によると、蝦夷には、三種類があり、最も遠いところを「都加留つがる」、次が「麁蝦夷あらえみし」、近いところを「熟蝦夷にぎえみし」という。この男女は熟蝦夷で、「歳毎に本国にみかどに入貢す」等と述べたと言われている。その後も、「日本書紀」にも蝦夷を饗賜したことも記載されており、「続日本紀」にも、697年文武もんむ天皇元年に周二年に蝦夷が方物(土地の物貢)を貢じたとみえ、越の蝦夷も同様に献上を行ったと記されている。
○715年(霊亀元年)には、蝦夷の須賀君古麻比留すがのきみこまひるらが「先祖以来、昆布を貢献し、常に此の地に採り、年時かかさず云々」と述べ、村に建郡を請い許可されている。
◎律令国家において、蝦夷との関係でよく使用される用語として
俘囚ふしゅう」とか「夷俘いふ」と言う用語がある。
「俘囚」と言う用語は、725年神亀じんぎ二年の「続日本紀」閏正月四日条に初出で、「陸奥国俘囚1444人を伊予国に578人を筑紫に、15人を和泉監いずみげんにそれぞれ配した」記され、758年天平宝字六月十一日条には、「帰降の夷俘、男女惣て1690余人、云々」とある。これには夷俘と言う用語が使われており、「俘囚」も「夷俘」も異なる字ではあるが、区別なく使われていたと思われる。
律令国家は、帰依した蝦夷に対して律令制を適用し蝦夷自体を五戸一里の村落に編戸へんこした。
陸奥国の場合どうであったか、陸奥国守の特別な職掌の一つ「饗給」の中に、「令集解」の条の「穴記」によると、「戸貫に従わざる輩を招慰すること」とある。又、「令義解」考課令増益条によると「戸貫に従わぬ輩」は「蝦夷の類」だとあり、律令国家の蝦夷に対する考え方が示されている。
陸奥国内では、編戸されていた蝦夷は、律令農民と同じ扱いをされるはずが、服属し編戸の民となっても同じ扱いを受けたとは言い切れないことがある。
「養老令」の「賦役令辺遠国条」に「凡そ辺遠の国、夷人雑類有る所、まさに調役を輪すべきは、事に随い斟量しんりょうし必ずしも華夏かかに同じくすせず」と規定がある。調役とは、調と役、役は力役であるから調庸・雑徭ざつようということで、陸奥国では、律令の規定通り税を徴収しなくてもよいということであった。
○8世紀前半には、律令国家側の建郡や柵設置等で蝦夷側と摩擦や反発が引き起こされ、叛乱や殺害事件が生じた。
○720年養老四年に、「蝦夷叛乱」が起こり、按察使上毛野広人あぜち かみつけのひろひと)が蝦夷に殺害された。
陸奥国と蝦夷について②
○724年神亀元年には、「海道(牡鹿郡以北の海岸沿い)」の蝦夷が叛乱し、陸奥大掾佐伯児屋麻呂さえきの こやまろを殺害した。
・8世紀末になる頃には、律令国家側が積極的に北進政策をとり、774年宝亀五年から40年間余り戦乱の日々が 続いた。この頃は、陸奥国の領域は、今の宮城県から岩手県に迫ろうとしていおり、岩手県奥州市を中心とする胆沢地区を攻略せんとしていた。
○780年宝亀十一年二月二日の勅(天皇の言葉)によると、胆沢の地を得れば、陸奥・出羽両国を安定させるためと、拠点を覚瞥城かくべつじょう(岩手県一関市近郊の造営が計画された。
○780年宝亀十一年三月二十二日には、按察使紀広純あぜち きのひろずみが伊治城(宮城県栗原市築館城生野)へ出向いた時、陸奥国上治郡大嶺の伊治公砦麻呂いじのきみまろが紀広純と同行した牡鹿郡大嶺の道嶋大楯みちしまのおおたてを殺害する事件が起きた。
この事件の原因は、事々に大楯から砦麻呂が「夷俘の出身を種に侮蔑され続け、広純の件も表面的つくろっていたが、内心は恨みを深く抱いていたことで、その日に感情が一気に爆発し、俘囚からなる俘囚軍を寝返りさせて叛乱に踏み切った。この反乱は多賀城を略奪・放火と言う事態にまで発展した。
この事件を契機に律令国家は胆沢を平定すべく大軍を何度も投入せざるを得なくなり、宝亀十一年以降藤原継縄ふじわらつぐただを征東大使、藤原小黒麻呂を持節征東大使とし、788年延暦七年三月には紀古佐美を征東大使とし兵力五万三千、791年延暦十年七月には大伴弟麻呂を征東大使、坂上田村麻呂ら4名を副使とし兵力十万、801年延暦二十年九月には、征夷大将軍坂上田村麻呂に兵力四万等の征伐記録が残されているが、律令国家側の胆沢地方の蝦夷平定は容易にいかなかったことが伺える。
この平定に時間がかかった最大の要因は、胆沢地方の蝦夷の首長太墓公阿弖流為たものきみあてるい盤具公母礼いわぐのきみもれらに率いられた蝦夷の抵抗が強固であった為であり、延暦二十年の征伐で坂上田村麻呂に翌年阿弖流為・母礼が降伏し長い戦乱は一段落をした。その後、胆沢地方には胆沢城が造営され、鎮守府が多賀城よりこの地に移された。
○811年弘仁二年には、文屋綿麻呂ぶんやのわたまろを征夷大将軍とする二万の軍が岩手県北部爾薩体にさったい・弊伊地方を平定したとある。
奈良時代末期以来律令国家側から軍事力の発動で文字とおり征服事業は一応終止符を打たれ、陸奥国の領域が最大に達したことになった。
◎他国に強制移住された俘囚は、調庸免除等で処遇され、次第に律令制度の中に組み込まれ、律令制度の公民と同じ待遇となったが田租を徴収する義務を負うことになった。
・798年延暦十七年四月には、俘囚調庸免除が出された。
・801年延暦二十年には、田租免除を受けた。推測するに、すでに口分田が支給されていたと思われる。
・811年弘仁二年二月に、諸国の夷に子の代まで食糧支給されるに至る。
・811年弘仁二年三月には、諸国夷俘囚に記帳の提出が命じられた。
・812年弘仁三年六月には、諸国俘囚の中から人望あるものの一人を長として、俘囚長・夷俘長と呼ばれるようになった。
・813年弘仁四年十一月に、諸国のすけ以上の国司一人に夷俘管理担当が命じられた。
・814年弘仁五年十二月には、夷俘と俘囚の呼び方をやめ「姓名」をとなえることになった。
・816年弘仁七年十月には、口分田を授けられてから六年以上経過した俘囚から田租を徴収することになった。
従って、弘仁七年頃までには、俘囚は公民として律令制度に組み込まれ、同じ待遇と義務を負うことになった。が、しかし、弘仁七年以降も調庸免除がなされていたようである。
<<参考>>
現在、俘囚移住の名残りとして、「倭名類聚抄わみょうるいじゅうしょう」によると、上野国の碓氷うすい多胡たこ緑野みとの三郡、周防国吉敷郡に俘囚郷、播磨国賀茂郡美嚢みなき郡には夷俘郷がある。

八世紀に陸奥按察使に就任した人物
年代 年号 氏名 ふりがな 位階 兼務役職
720年 養老四年 上毛野広人 かみつけのひろひと 正五位下
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737年 天正九年 大野東人 おおののあずまひと 従四位上 参議・大徳寺守・鎮守府将軍
757年 天平宝字元年 大伴古麻呂 おおとものこまろ 従四位下 参議・左大臣・鎮守府将軍
760年 天平宝字四年 藤原朝猟 ふじわらのあさかり 正五位下 陸奥守・鎮守府将軍
763年 天平宝字七年 藤原田麻呂 ふじわらのたまろ 従五位上
-
772年 宝亀三年 大伴駿河麻呂 おおとものするがまろ 従四位下 陸奥守・鎮守将軍
777年 宝亀八年 紀広純 きのひろずみ 正五位下 陸奥守・鎮守将軍
781年 天応元年 藤原小黒麻呂 ふじわらのこぐろまろ 正四位下 陸奥守・左大臣・鎮守将軍
782年 延暦元年 藤原朝猟  ふじわらのあさかり 正五位下 陸奥守・参議・鎮守府将軍
785年 延暦四年 多治比宇美 たびひのうみ 従五位上 陸奥守・鎮守府副将軍
790年 延暦九年 多治比浜成 たびひのはまなり 従五位上 陸奥守
796年 延暦十五年 坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ 従四位下 近衛少将・陸奥守・鎮守府将軍
797年 延暦十六年 坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ 従四位下 11月征夷大将軍

九世紀以後の陸奥出羽按察使について
○799年延暦十七年六月二十八日に、太政官奏だじょうかんそうにより東北方面の辺縁地行政及び軍政の最高官吏として陸奥出羽按察使が位置づけられた。
○812年弘仁三年に、陸奥出羽按察使の制度上の改変が行われ、位階に関する格と傔仗けんじょう(辺境の地で護衛の任につた武官)の定員に関する格がそれぞれ出された。弘仁三年正月廿六日の太政官奏は、按察使の位階を従来の正五位上から従四位下にあげるものであったが、正四位の官に相当する禄が与えられたことにより、陸奥出羽按察使が大国の守より高い位階を与えられたことになる。
按察使のそのものは、地方行政監察の為の制度として全国に設けられたが、10年足らずで当初の目的を果たさなくなり、消滅し、一部地域のみ、設置当初と異なる形で置かれた。陸奥出羽按察使は、律令国家の東北経営の中心的重要な役割として存続された。
九世紀には、陸奥国按察使の制度も整い、行政や東北の最高責任者の地位も確立されたことで、50年足らずにして意味がなさなくなり、按察使の遥任ようにん(国司に任じられても赴任せず)化現象が顕著となった。
・十世紀になると、たまに源氏が任命されるくらいで、ほとんどを藤原氏が独占する形となり、陸奥国按察使の有する権益は中央貴族に利用される様になってしまった。
・十世紀後半に、実方中将みちのく下りの話が後世に伝わることとして有名である。従四位上右近中将藤原実方が陸奥守として、当時国府である多賀城に赴任した記述が残る。
・十一世紀中頃には、前九年の役(1051年~1062年)が起こった。

「奥州街道」とは
「奥州街道」とは、坂上田村麻呂以来頼朝に至るまでの通路、いわゆる「奥大道」は合戦等の記録を参考にすると岩沼(宮城県岩沼市)から名取熊野神社前(宮城県名取市)から鈎取(宮城県仙台市)から鹿野(宮城県仙台市)から榴ヶ岡<(宮城県仙台市)から利府(宮城県利府町)(ここから東へ多賀国府)から大衡(宮城県大衡村)から吉岡(宮城県大衡村)から色麻(宮城県色麻町)から岩出山(宮城県岩出山)~真坂(宮城県一迫町)~>岩ヶ崎(宮城県岩ヶ崎)~津久毛(宮城県金成町)~五串(岩手県一関厳美)~達谷窟(岩手県)~毛越寺(岩手県平泉町)~中尊寺(岩手県平泉町)である。総行程は奥州山脈の東側山麓の大きな川の比較的渡渉し易い所を選んで通っている。
「奥州街道」経路・・・岩沼 → 名取熊野神社前 → 鈎取 → 鹿野 → 榴ヶ岡 → 利府 → 大衡 → 吉岡 → 色麻 → 岩出山 → 真坂 →一迫 →岩ヶ崎  → 津久毛 → 達谷窟 → 毛越寺 → 中尊寺 に至る。

中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位とは
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位は、中世以後も変わらず、鎌倉時代の地頭も郡を単位に任命された。また、郡以外の所領として荘園があり、宮城県地域には、本良荘もとよし高鞍荘たかくら栗原荘くりはら伊具荘いぐの古い由緒をもった四つの荘園があった。
○本良荘;本吉郡の地域で古代の桃生郡の一部が荘園になったと推定される。摂関家藤原氏の荘園であり、藤原頼長(保元の乱、1156年の中心人物)の奥羽五荘のうちの一つと数えられ、父関白忠実より1148年(久安4年)に譲られたといわれ、成立が11世紀にさかのぼると推定されている。
○高鞍荘;栗原郡の三迫川流域の地で、現在の金成町のあたりで、戦国時代の「余目氏旧記」には「三迫、高倉庄七十三郷」とみなされ、古代の栗原郡の一部が荘園になったともいえる。
○栗原荘;栗原郡の南で一迫川流域を含む地域で、11世紀に成立した荘園である。1253年頃、「近衛家領目録」に「京極殿領内」と記されており、「京極殿」とは、関白藤原師実ふじわらもろざね(1042~1101年)のことである。「京極領」とは「宇治殿領」であり、「宇治平等院」で有名な藤原頼道(992~1078年)の所領を継承したもので、古い荘園であった。
○伊具荘;11世紀の伊具郡の中心部が荘園となった地域と推定される。八条院領で王家領荘園の一つであり、12世紀頃成立したと推定され、伊具十郎平永衡の後継者にあたる人物が、縁を求めてこの地域を寄進したものと推定される。この地域の高倉に高蔵院寺阿弥陀仏(国重文)がある。(藤原秀衡妻女が再建新築にした時代もある。)
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位以外に、12世紀以後、宮城県内は北と南の端に大きな荘園があり、ほぼ中央に古代以来の陸奥国府があったが、その国府の北と東の背後地には六つという形態があった。
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位とはⅡ
保ほとは、12世紀ころ形成された国衛領内(国府の所領地)の私領で、開発・再開発によって形成された私領を、国に申請して認められたものを言う。
国衛こくがの在庁官人などが申請する国保こくほ、在京領主が申請する京保きょうほがあり、宮城県内は国保が主であり、陸奥国府の在庁官人たちが開発を主体的にやったと推定される。
宮城県内国保は、高城保(松島町・利府町)、大谷保(大郷町)、長世保ながせほ(松山町・鹿島台町・南郷町)、深谷保(矢本町・鳴瀬町・河南町)、小田保(小牛田町・涌谷町・河南町一部)、柳戸保やないどほ(津山町) であり、やや南に離れて、金原保(丸森町・福島県保原町・梁川町の一部)を加えると七つの保があった。
いずれの地域は、高城川・鳴瀬側・江合川・迫川・北上川などの氾濫源湿地で、近代まで湿地干拓による大規模な開発・再開発が繰り返されている地域でもある。
中世の宮城県内には、郡・保・荘の所領単位があり、鎌倉時代の地頭などもこの単位で任命された。又、この様な土地制度を荘園公領制といい11世紀~12世紀にかけて形成された。
東北の中世を描いた説話集として「今昔物語集」の紹介
「今昔物語集」は、東北の中世を描いたところがあり、東北十世紀末頃の中世の幕開けをつげる「つわもの」の激しい戦いぶりを描いた説話集である。
編纂された時期が、白河院の院生期のころであり、十二世紀前半であり、一世紀以上過ぎた後の物語である。史実的には、若干不安は残るが中世期頃の様子が伺えられ、非常に興味深いものがある。東北に関する記述では、陸奥のどの地域でのことか、主人公たちの地位がどのようであったか漠然としているが「今昔物語集、巻25の第13話にある「源頼義朝臣みなもとのよしのりあそん安倍貞任あべのさだとうらをちたること」と言う物語に関しては、前九年の役の基本資料である「陸奥話記」が述べているものと大筋があっており、史実を物語っていると考えられる。」又、源頼義・・以外に「余五君と沢胯のたたかい」(陸奥守藤原朝臣実方時代)等が描かれている。
東北の中世に生きた藤原経清と平永衡とは!
「前九年の役」頃に藤原経清は宮城県亘理郡亘理町に、平永衡は宮城県伊具郡丸森町に郡内の所領を得ていた。戦乱のなかで果たした役割や社会的地位が殆ど明らかにされていない。藤原経清は、宮城県南部阿武隈河口南岸に位置する亘理郡の領主であったとされている。社会的地位としては、官職を持たない有位者には間違いないようであった。史料としては、源頼義奏状の公文書からも確かめられる。
「尊卑分脈」によると「亘権守わたりごんのかみ」と記されており、「結城系図」、「奥州御館系図」から「亘理権太夫」と記されていることから明確である。 「陸奥話記」によると、前九年の役が始まる1056年(天喜四年)の国司の軍事動員を述べたところに「時に安倍頼時の婿、散位藤原朝臣経清、平永衡ら皆しゅうと叛きそむき、私兵を持って将軍に従う」と記され、「平永衡は前司藤原朝臣登任の郎従として下向し厚く養顧を被り、勢い一郡を領す」が記されており、有位者であることは明らかである。
平永衡は、一郡を領したところから「伊具十郎」とも呼ばれ、藤原経清の亘理郡とは西隣に接する伊具郡であったと推測される。
藤原経清は、国司藤原兼貞から藤原登任までの間、国司の従者として陸奥国に入り、亘理郡に土着したのではないかと推測される。
藤原経清、平永衡は、安倍頼時の娘を妻としたので、義兄弟の緊密な関係でもあり、宮城県南二郡を領し、境を接していたので相互交流も深かったと思われる。又、経清、永衡がどの様に活動し、在地支配を行ったかの手がかりが残されている。
亘理郡亘理町椿山に残る三十三間堂の廃堂跡に残る、十棟の礎石を持つ建物群があり、そのなかで星型建築物の跡「阿弥陀堂」と見られ、藤原経清に関わりがあると考えられている。又、平永衡は、角田市西根高倉にある高蔵寺阿弥陀堂を創建したと考えられ、後に、藤原秀衡の妻が修復したと伝えられている。さらに、伊具郡丸森町大内堂平山の山頂近くに三棟の仏堂跡があったことが知られている。
このように、この時期から阿弥陀堂建築に手を染めていたとすれば、東北にも早いうちに浄土信仰の広がりを示す例として着目されている。
十世紀頃の説話集「余五君と沢胯の戦い」について(今昔物語集より)
○995~998年(長徳元年~四年)頃藤原実方ふじわらさねかたが陸奥守として赴任、官位が従四位左近衛中将ということもあり「やんごとなき公達」として崇められたため、陸奥国内の「然るべき兵ども」は、従来の国司に対する態度とはうって代わり、手厚くもてなし、昼夜の宮仕護衛を怠ることがなかった。
その中に、字を余五君と称する者や沢胯四郎というものいた。余五君よごろうきみは、平貞盛たいらのさだもりの弟の孫で、正式の姓名を>平維茂たいらのこれもりと言う、貞盛が維茂を十五番の養子にしたので余五君と称した。
沢胯四郎さわまたしろうは、藤原諸任ふじわらのもろとといい、田原藤太秀郷ふじわらとうたひでさとの孫である。
両者共に、平将門の乱鎮圧に活躍した武将の二世代後の者たちである。しかも、貞盛は陸奥守、秀郷は鎮守府将軍として赴任してから、その子孫が土着して勢力を保っている共通性を持っていた。
この両者が、田畑の取り合いの争いをおこし、当時の陸奥守藤原実方中将に互いに訴えていたが、両者とも譲らず、両者共に相応の言い分があることや、両者共に「国の然るべき者」であった為、容易に評決を下すことに躊躇っていた実方中将が亡くなってしまった為、双方とも実力で決着をつけるほかなく合戦の段取り、場所を定め、軍勢を募ることになった。
双方とも軍勢を集めた結果、余五君は三千、沢胯は一千余の兵を集結させたが、明らかに沢胯方が不利であり、諦めて常陸国へ赴いた。そのため、余五君の加勢が本領に戻ってしまった。
沢胯はそれを待っていたかのように、密かに陸奥に戻り手勢を集めて、手薄になった余五の館を夜襲、包囲して火をかけ、飛び出す者は、犬一匹をも通さず射殺し、中に残る者は「皆真黒にして身体を見えざる」様に焼き殺した。夜が明けて、大勝利を確認した沢胯は意気揚々と軍を率いて妻の兄大君おおきみのところに立ち寄った。
しかし、大君は思慮分別に富み、よく気のつく武士で、敵もなく万人に敬愛された人物であった為、沢胯が立ち寄った際「こんなに華々しく余五を討ったということは、大変なことだ。あんなに勢力があり、武略に優れた余五を家に閉じ込めたまま殺すなんて予想もしてなかった。ところでかれの首はたしかに鞍に結びつけて持ってきただろうな」といったところ、沢胯は「馬鹿なことは言わないでください、蝿一匹とびだせないようにしてみな射殺し、焼き殺したんです。誰のものともわからないほど黒焦げになった汚い焼け頭なんか何で持ってくるもんですか、余五が死んだことは露疑いありません」としたり顔で答えた。それを聞いた大君は、沢胯の言葉を信じず、自分の館が戦火に巻き込まれるのを恐れ、沢胯を中に入れず立ち去らせた。後で、一行に酒、さかなを大量に送り労をねぎらいはしたが、大君は厳正中立の立場を維持したのである。
しかし、余五は戦乱の中、女に変装し葦の密生した川の中にひそみ、一人生き延びた。沢胯軍が安心して引き上げた後、その事態を聞いた郎党が駆けつけた時、余五に「もっと軍勢を集めて、後日・・」と進言したところ、「みなが、焼き殺されたなか自分一人苦心して危機を脱したものの、このまま生き長らえるつもりはない。自分一人でも敵の家に押しかけ、焼き殺したと安心してる奴らに健在であることを見せつけ、一本の矢でも射かけてそれから死にたいと思うに、敵は夜通しの戦いで疲れきって、其の辺の川原か丘の影で武装を解いて死んだ様に眠りこけているはず、今押しかければ、たとえ千人の軍勢たりとも何もできない。今日という日を逃せば、こんな機会は二度とこない。一人でも行く、命の惜しいものはここに残れ」と言い放って武具を取り、駿馬にまたがって出発した。様子を見ていた郎党共は、主人を見殺すわけにはいかず、居合わせた者と歩騎を合わせて百余人とともに沢胯軍を追跡し、途中大君の館の前に至って声をかけたが、門を閉ざし、中はしんと静まり返っていた。沢胯軍の気配は全くなかった。それで、さらに追跡、物見を放ち探らせ、ある丘の南西に位置する原に酒によって、寝ころがる沢胯軍の兵の群れを見つけ、突如として北方の高所から雪崩のごとく襲いかかり、難なく敵を壊滅させ沢胯の首をはねることができた。
その後、沢胯の家を急襲し、男は全員射殺、女は手にかけず、沢胯の妻=大君の妹を丁重に兄のもとに送り届けた。それにより、余五の君維茂の武名がいよいよあがり東国八州にまで知られるようになった。

武家台頭と源氏の趨勢に関して <<武家台頭の経緯>>
武家台頭の背景として
1. 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろの蝦夷征伐後、奥州一円が、律令国家に編入され、その後も蝦夷(大和朝廷による奥州現地人の蔑視語)は執拗に抵抗を続けた為、奥州は特殊な政治形態を取らざる得ず、半ば半植民地的、半ば治外法権の所もあったようである。 
2. 平安期後半に入ると律令制度は、早くも崩れ、全地域において荘園の制度が広がり、東北地方もその類に漏れない状況で、多賀城の国府により管轄される、国衛領と中央権力者の荘園が並列して存在した。中央官人は僻地に下向することを嫌い、代官を差し向ける遥任制度ようにんせいどが定着し始めた。その代官が、現地の代行人として成長していったのが、武家の始まりである。関東の源家、平家の武士達が、代行に任ぜられ武家の台頭が始まる。なお、奥州では、安倍氏や清原氏のように現地で成長した部族も出現している。
3. 中央政権が衰退してくると「平将門の乱」にみられるような地方豪族の反乱が起こり、次第に貢納する官地から、現地支配下の武士達によって搾取され、逆に、彼らは実態を掌握しながら肥大化して行くことになる。
4. 朝廷は肥大化する武家を統制するために、源家を利用し、陸奥国に守護として任じ、行政浸透を目論んだが、前九年の役、後三年の役後、源家の肥大化を恐れた中央貴族は、年貢の安直な収受が保証されることを期待し、現地有徳人として藤原氏を選んだ。(前九年、後三年においても源家・・源頼義みなもとのよりよし義家よしいえ父子の貢献は大であったが、中央貴族の思惑もあり、前九年では清原氏、後三年では藤原氏(藤原清衡ふじわらきよひら)が俘囚の長に任じられた・・・平泉藤原氏の始まり・・・経緯がある。)
前九年の役とは、1051年~1062年(永承6年~康平5年)まで約12年間にわたる長期戦であった。源頼義が陸奥守を拝命し奥州に下向し、任期が過ぎ
帰国しようと矢先、家臣団にいざこざが起こり、現地の大勢力であった安倍一族と合戦となったことに始まり、頼義、義家(八幡太郎義家はちまんたろうよしいえ)父子が安倍軍に包囲され、僅か6~7騎で危機を脱するという一幕もあり、苦戦を強いられた戦いであった。
前九年の役は、最終的には、出羽の豪族清原氏の援助により、ようやく勝利を上げることができたが、朝廷は頼義の野望から安倍氏を挑発した私闘であるとして、功績を認めず、安倍氏に代えて清原氏を「俘囚の長ふしゅうのちょう」とした。そもそも、奥六郡の司・東夷の酋長としての安倍頼時・貞任 対陸奥守・鎮守府将軍である源頼義の対決である。
陣ヶ岡じんがおか本陣跡(蜂神社はちじんじゃ)・・・源頼義・義家父子厨川柵くりあがわさく進軍本陣。源頼朝が奥州征伐の時、藤原泰衡ふじわらやすひらくびを検分したところでもあり、家臣の河田次郎かわだじろうが、反逆し、陣が岡に泰衡の頸を持参したが、河田次郎は頼朝に斬首の罰を受けた。これは、譜代の恩を忘れて主人を殺した罪と、みせしめの為でもあった。
厨川柵は、安倍氏居館を中心に規模が大きく、現在、本丸跡には厨川八幡宮があり、現在の天昌寺てんしょうじも厨川柵内に位置していた。
後三年の役は、1083年~87年(永保3年~寛治元年)の約5年間の戦いであった。
注)金沢城址二の丸跡は、現在金沢八幡宮となってる。 金沢城址・・清原家衡きよはらいえひらの居城(源義家・藤原清衡軍に包囲され1087年落城)
清原氏は出羽国で興り、前九年の役の結果、奥六郡(胆沢、江刺、稗貫、岩手、志和、和賀)に勢力圏を拡大し、次第に専権をふるうようになり、朝低では、それを抑える為、源義家を陸奥守として派遣した。清原家衡兄弟で争いが起き、義家は弟の義光よしみつ為朝ためとも等の来援を得て、これを鎮定したが、功績は表向きには認められず、「俘囚の長」は藤原清衡ふじわらきよひらに任ぜられた。
後三年の役は、奥六郡を安倍氏より受け継いだ清原武則きよはらたけのり(出羽仙北三郡の俘囚長)の子息清原真衡きよはらまひろ清衡きよひら家衡いえひらの三人の争いに陸奥守源義家(八幡太郎義家)の介入し、清衡が勝利した。
藤原清衡は、安倍貞任の妹で、前九年の合戦後に清原武則に再嫁した女性の連れ子であり、父は藤原経清であった。藤原経清は亘理権太夫藤原経清わたりごんだいぶふじわらつねきよといい、源頼義の傘下であったが、当時、伊具十郎平永衡いぐじゅうろうたいらのながひらの斬首の仕置きに不安を抱き、安倍頼時あべよりとき(娘を嫁がせた家)のもとに走った人物である。
奥州の時代背景として、平安末期から鎌倉初期のころは、任国に下る受領ずりょうが武士を郎等・従者を引き連れて任国のはいるのが、一般的で、しだいに、下向してきた外来の人は、地方に土着する場合、土地の豪族の娘をめとり、豪族の縁者となるこが多かった。伊具十郎平永衡や亘理権太藤原経清も同様な経歴の人物であった。

宮城県内の国人・大名の 動きついて
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奥州合戦以後の鎌倉武士団入部について

○1189(文治五)年、奥州合戦の結果、奥羽両国のすべての郡・荘(荘園)・保は没収されて、源頼朝の掌中におさまった。郡司・祥司・保司などの地位にあった在地の武士たちの多くは、追放され、屈従の生活を余儀なくされた。その代わりに、関東の御家人らが、地頭の職を得る事とになった。 奥州惣奉行の一人になった伊沢家景いさわいえかげは、多賀国府の留守所を掌握し、民事・行政分野を取り仕切る役職に任じられた。家影は国府周辺の特別行政区(府中)の縄張りとする高用名たかもちみょうの地頭職も与えられた。また、その子孫は、留守所の地位を継承するなかで、留守の名字を称するようになり、室町期には大名としての道を歩むことになる。 もう一人の奥州惣奉行の葛西清重かさいきよしげは、都市平泉藤原の地位を継承して、軍事・検非違使(警察)の分野を取り仕切る役職に任じれた。さらに、都市平泉周辺の四郡(磐井・胆沢・江刺・気仙)・二保(黄海きのみ・興田)の地頭職と北上川河口の湊を擁する牡鹿郡の地頭職も与えられた。清重の子孫は、五郡二保の分割知行することで、奥州武士としての自覚を強めていった。室町期には、北上川流域の大半を掌握するまでの大名へと発展していった。そして、本領の下総国葛西御厨しもうさのくにかさいみくりやの本拠地を放棄するに至った。 奥州合戦直後の論功行賞において、最初に指名されたのが、千葉常胤ちばつねたねであった。常胤は、亘理郡・竹城(高城)保などの海岸寄りの所領が与えられた。侍所別当の和田義盛わだよしもりには、名取郡を、阿津賀志山あつかしやまの先陣の功績を他人に譲った畠山重忠はたけやましげただには、葛岡郡くずおかぐん長岡郡ながおかぐん)が与えられた。その他にも、山内首藤経俊やまうちすどうつねとしには桃生郡を、熊谷直家くまがいなおいえには、本吉荘を、長江義景ながえよしかげには、深谷保を、豊島有経よよしまありつねには、小田保を、大河戸広行おおかわどひろゆきには、山村荘をそれぞれ与えられた。 この様に、関東御家人が地頭職を与えられたが、在地の武士は地頭として存続することが出来なかった。唯一、八幡荘やはたしょう(宮城郡)の陸奥介平景衡むつのすけたいらのかげひらの一族ぐらいであった。
○1200(正治二)年八月、将軍頼朝死去直後に、柴田郡の豪族、芝田しばた(柴田)次郎じろうが病気と偽って出仕せず、謀反人として追討を受けることになった。柴田郡の郡司の家柄に生まれた次郎にとって鎌倉統治、とりわけ新米の郡地頭の命令をうけることが容易に認めることが出来なかったこともあり、反乱に至ったと思われる。
この反乱は、追討使宮城四郎みやぎしろう(留守職伊沢家景の弟、宮城本郷の地頭)によって鎮圧された。この様に、鎌倉武士団の入部に対する奥州住人の反発は想像できない程であった。頼朝より「国中のことは秀衡・泰衡の先例を守るべし」「国郡を費やし、土民をわずらわすべからず」の訓令にも拘らず、また、旧来の慣習を尊重することで、鎌倉の統治に対する違和感を和らげる政策をとっても、奥州住人の反発を解消されることはなかった。
○1201(建仁元)年二月には、平泉藤原秀衡ふじわらひでひらの四男、本吉冠者隆衡もとよしかんじゃたかひらが、越後の豪族城長茂じょう ながもちと結んで京都を舞台に倒幕の兵を挙げた。結果失敗に終わっている。本吉冠者の名の由来は、本吉荘を領有していたところによるものと思われる。
芝田次郎しばたじろう本吉隆衡もとよしたかひらの行動の背景には、郡司・荘司・保司などの旧来の地位を奪われた武士たちの失地回復の行動でるばかりではなく、奥州の幾千の住人の反発も見逃すことがでいきないと思われる。 奥羽の郡・荘・保に地頭職と任じられた関東御家人の多くは、一族・郎党の代官を現地に派遣して、実務にあたらせた。地頭自ら現地に下向するものは少なかった。
例として、葛西氏の場合、現地に派遣されたものとして、青戸二郎重茂あおとじろうおもえ二江入道承信ふたえにゅうどうじょうしんの名が見える。両名は、下総国葛西郡御厨の出身であった。足利氏の場合、加美郡には倉持氏が代官として派遣され穀積(米原)・沼袋・中新田の年貢徴収にあたった。
さらに、鎌倉幕府は、年貢の数量を増やすべく新田開発を各地頭に命じ、大量の資金と労力を投入し、用水工事や百姓に農地の開発を始めた。同様に、奥羽の地においても各地頭が新田開発を進めるに至った。伊沢(留守)氏の新田開発は、府中城の中に広がる沼沢の湿地帯を計画的に開発を進め、規模は、三町~七町という規模で、一反の水田にて三十~七十枚に相当するものであった。この耕作を請け負った中には、淡路房あわじほう伊与房いよほう清次郎せいじろうらの住人の顔ぶれも見える。 菅原有信すがわらありのぶの大谷保(大郷町)の味明川みやけがわ周辺の用水工事は、大堰の取入口から舎弟有政の泉田村を経由して三宅村の水田までに至る長距離水路であった。水路開削工事にあたり、泉田村では畑つぶされ、麦・桑をなぎ倒す強行手段に舎弟有政が訴えを起こし、裁判になったと言われている。栗原一迫の波崎郷(志波姫町)の外れに、石積による水田開発も行われ、仏阿ぶつあ平太二郎たいらのたじろう藤平二とうへいじ金藤太郎かねふじたろう平三郎たいらのさぶろう等の名が伝わっている。これは、新田開発ではなく、隣の刈敷郷の百姓、藤平六らが逃げ散り・放棄された古作地の開発であった為、開発田の帰属をめぐる両郷の紛争が発生し、坂崎郷さかざきのさと地頭佐々木ささき朽木くちき義綱よしつな刈敷郷かりしきのさと地頭狩野為行かのうためゆきの相論(裁判)が行われたと伝えられている。 この様な開発の推進は、生活向上・社会発展を担ったけれど、田地の境界や用水の権利をめぐる紛争が増え、裁判件数が増加するようになった。このような過程を歩みながら関東武士団も生活の本拠地を東北に移し、奥州の在地に根を下ろす様に変化していることが見える。更には、鎌倉期を過ぎて南北朝・室町期に入るとますますその傾向が増えていったと思われる。鎌倉期の郡・荘・保の地頭と言っても、地位の変化もなく、安泰に過ごして来たわけでもない。幕府中央の権力構造変化に伴い、北條氏の台頭が増すにつれ、一般の御家人の手を離れて北條氏の所領になっていく状況にあった。 例えば、宮城県内の名取郡は、最初は和田義盛わだよしもりの所領であったが、建保合戦けんぽがっせんの後三浦義村みうらよしむらに替えられ、宝治合戦ほうじがっせんで三浦氏が滅亡すると、北條時頼ほうじょうときよりの所領になった。 さらに、遠田郡地頭山鹿遠綱やまがとうつなも建保合戦により北條泰時ほうじょうやすときに替えられた。
この様に、北條氏の覇権確立する鎌倉後期には、郡・荘・保の半数近くが北條氏の所領となっていったことが分かる。宮城県内の名取郡・遠田郡・刈田郡・柴田郡・亘理郡・黒河郡・志田郡・玉造郡や伊具荘・金原保・大谷保などが北條氏の所領となった。 また、北條氏の所領内の郷村には、北條氏の被官(家臣)が代官として任じられ、年貢の徴収にあたった。県内の北條氏の代官として、曾我そが片穂かたほ工藤くどう南部なんぶ氏が任じられていた。 相模国さがみのくに出身の曾我そが氏は名取郡四郎丸しろうまる土師塚郷はせつかのさと常陸国ひたちのくに出身の片穂かたほ氏は名取郡平岡郷ひらおかのさと伊豆国いずのくに出身の工藤くどう氏は金原保片山村きんばらほかたやまむら(丸森町)などと伝えられている。彼らの多くは、鎌倉に住み、現地に赴くことはなく、現地の政所には、又代官が詰めて実務を行ったと言われている。しかし、現地に下向し土着の努力をしたようであるが、北條氏所領であっても、現地住民・百姓と付き合いにおいては、一般御家人の所領と変わりはなく、現地に溶け込み所領の維持管理を全うすることは難しい状況となっていたようである。

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陸奥国南北朝時代について

南北朝時代が60年に及んだが、宮城の地においても、人々の激しい移動があった。建武新政以後に陸奥国府には、北畠顕家きたばたけあきいえや室町幕府の総大将や奥州管領として石塔義房いしどうよしふさ吉良貞家きらさだいえ畠山国氏はたけやまくにうじ斯波家兼しばいえかねが宮城の地に移って来られた人々である。その臣下となった人々の中には、この地に土着する人もいたりした。又、鎌倉時代に地頭として宮城の地に地頭として所領を拝領しても関東の本領を離れることをしなかつた関東御家人も、南北朝の内乱のなかで本格的に移住するものもいた。 この様に、宮城において南北朝内乱において人々の激しい移動がなされたことは象徴的できごとである。
○1333(元弘三)年八月後醍醐天皇ごだいごてんのうの建武政府より陸奥守に任じられた北畠顕家が、後醍醐天皇の皇子、義良親王のりよししんのうを奉じて多賀国府に下向した。間又、『神皇正統記』の著者である北畠親房きたばたけちかふさの長子であもあることから、後見役として同行下向した。 北畠顕家は、陸奥国府として新体制を構築した。式評定衆、三番からなる引付、政所、侍所を備え、評定奉行、寺社奉行、安堵奉行がいる大きな組織であった。奥州小幕府と評された組織で、皇子をいただくことで独立政権であることを示している。
この時、陸奥国府が発給した文書は二年間で90点近くが残されおり、奥州の武将に大きな影響を与えたことは間違いない。この例として、宮城県内の留守家任るすいえとう大河戸隆行おおかわどたかゆき相馬胤康そうまたねやすらが知行安堵、新恩給与の顕家の国宣や下文を受けている。
○1335(建武二)年八月、南朝に対する足利方は、足利一門の重鎮、岩手県紫波郡に本領を持つ斯波家長しばいえながを陸奥守に任じ、陸奥国の総大将とした。 しかしながら、鎌倉の足利義詮あしかがよしあきらを補任する執事に補任され関東・奥羽の両方を管轄する立場になった。
○1335(建武二)年十二月足利尊氏あしかがたかうじが叛乱を起こしたので、北畠顕家きたばたけあきいえが陸奥国の軍勢を率いて上洛し、尊氏を九州へ追いやった。これを成し得たのは、陸奥国新体制がもたらしたものと言える。
しかし、尊氏は、反撃に出て攻勢をかけた、各地の国人たちも足利側に呼応するものが増え、奥州に下向する顕家軍に反抗する国人や顕家軍ないでも足利方に呼応する武将もいたり、各地にで戦いながら多賀国府に戻ろうとした。
○1336(建武三)年二月、顕家軍帰路の途中で、宮城郡の留守家任が参河国(愛知県)矢作宿やはぎしゅくで、足利方となり、各地で転戦を繰り返した。三河国は足利氏の本領のひとつで、矢作宿は東海道の要所の宿であり、待ち構えた足利軍と何らかの誘いがあり従ったと思われる。
○1336(建武三)年四月~五月にかけ、留守家任は下野国しもついけのくに(栃木県)で戦い宮城郡に帰った。
○1337(建武四・延元二)年二月、陸奥国の専任の総大将として、石塔義房が任じられた。石塔氏も足利一門であり、宮城県内で従った武将は、留守家任、亘理郡の武石道倫たけいしみちとも、栗原郡の一迫地頭代の坂崎為重さかざきためしげであった。
○1337(建武四・延元二)年八月、京都の足利尊氏を討つべく顕家は再度、奥州の兵を率いて軍勢催促状を出してもなかなか纏まらず、苦労の末に上洛した。
○1338(建武五)年五月、北畠顕家は和泉国石津いずみのくにいしず(大阪府)で戦死する。享年27歳であった。その後、陸奥国南朝勢を率いたのは、顕家の弟の北畠顕信である。
○1338(建武五)年七月北畠顕信きたばたけあきのぶは、陸奥介・鎮守府将軍となり、義良親王のりよししんのう及び父の北畠親房きたばたけちかふさと共に伊勢(三重県)から海路、陸奥国を目指したが、折しもの台風に遭遇し伊勢の戻らずるを得なかった。
○1340(暦応三・興国元)年、再度、海路で常陸(茨城県)小田城おだじょうに入り、陸奥国に入った。北畠顕信の呼び掛けに応じた国人領主は、宮城県では、牡鹿郡の葛西清貞かさいきょさだ、桃生郡の山内首藤やまうちすどう氏、それ以外に中奥(岩手県)の河村・南部氏、福島県伊達郡の伊達行朝等で、一時は南朝勢が多賀国府を占領する勢いであった。 呼びかけに応じた国人領主のうちで、葛西清貞は常陸の北畠親房と密接に連絡とっていたものと思われ、残された親房の書状から伺い知れる。これは、清貞の牡鹿郡の港、石巻を基点とした海路があったことや、岩手県の川村氏や南部氏と葛西清貞が連携できたのは、石巻から北へ北上川を遡る舟運の存在が大いにあったと思われる。川村氏は岩手県紫波郡を本拠とし、南部氏はその北糠部郡が所領であった。従って、南朝勢と海運・舟運は深い関係であったと考えても良い。
しかしながら、南朝勢といっても、葛西清貞のように、葛西一族でも北朝方の武将もおり、その甥、遠江守とうとうみ葛西清明かさいきよあきと争って討伐したりしており、結束が強固なものとは考え難いものであった。
○1345(貞和元・興国六)年七月、畠山国氏と吉良貞家の二人が奥州管領に任命され、多賀国府に着任した。吉良貞家は、室町幕府評定衆、引付頭人ひきつけとうにんを歴任した足利一門の老練な政治家、畠山国氏は若年で、父高国とともに下向した。この時以来、足利氏の陸奥国統治が本格化したことになる。
○1349(貞和五・正平四)年、室町幕府の中枢部で内部分裂がおこり、高師直こうもろなお・足利尊氏と足利直義あしかがただよしの対立抗争が表面化した。所謂、観応擾乱の始まりである。宮城県内の畠山国氏と吉良貞家の両管領も分裂し、高師直派は畠山国氏、直義派は吉良貞家に分かれ争うことになる。
○1351(観応二・正平六)年二月、両管領は多賀国府周辺を戦場に争い、畠山国氏父子は、宮城郡の岩切城(仙台市)に篭城したが、敗れて討死してしまい、吉良貞家一人が奥州管領となった。畠山国氏父子は討死したが、その子国詮くにあきらが逃れて、福島県二本松に根拠を構え、二本松畠山氏の祖となった。又、岩切合戦で畠山方に味方した留守氏は、当主の但馬権守家次たじまごんのかみういえつぐ以下、三河権守みかわごんのかみ、宮城四郎兵衛尉ひょえのじょうらが生け捕りにされ、宮城郡支配が断絶するに至った。一方、吉良方に味方した国分氏は、この時を機に隆盛を極めたが、1354年春以降消息が途絶えている。恐らくは、この頃死亡したと見られる。尚、留守氏の復権は、斯波家兼が奥州管領になった頃(1352~1356年)であった。
○1351(観応二)年、南朝方の北畠顕信らの急襲をうけ、多賀国府を奪われてしまった。
○1352(文和元・正平七)年、吉良貞家は、再び多賀国府を奪還せしめた。
○1354(文和三・正平九)年、吉良貞家死後奥州管領の地位は、斯波家兼に受け継がれた。この事を、『余目旧記』記載されており、「中比奥州二四探題也」とあり、この頃は、管領の権限を行使する人々が、入替わり、立ち替わりあらわれ目紛しい状況であったようである。吉良氏では、貞家の子満家・治家、貞家の弟貞経が管領の権限を行使していることが言われている。畠山氏は国詮の活発な活動が観応擾乱後も見受けられた。さらに、斯波氏の一族で石橋和義と棟義父子も奥州管領のてこ入れのため派遣され同様な権限を行使している。
注1)十四世紀中期以降の状況について
十四世紀中期以降、斯波氏が家兼、直持、詮持と惣領が管領を継承しており、任地への定着が時代の要請となってきていた。又、斯波氏はこれまで長い間陸奥国の政治の中心であった宮城郡を離れ北の志田郡に本拠を移し、大崎五郡(志田・玉造・賀美・遠田・栗原)領有する大名への道を歩はじめた。それとともに多賀国府の求心力は失われ、かつての国府の主、留守氏も一人の国人として宮城郡に定着することになった。 東北陸奥国は、陸奥守・奥州管領に従って東北にやってきた人々の中にも、東北の地に定着する人々もいた。大崎氏の宿老で戦国時代までに活躍している氏家氏、南北朝内乱期に斯波氏が守護であった越中国(富山県)の出身であった可能性が高い、さらに、宮城県に現在でも長田・二宮の姓が分布しているが、これも南北朝期の斯波氏の被官にその名が見えるのもそうである。また、戦国時代の留守氏の家臣で、江戸時代の宮城郡東部に有力な百姓の姓として多く見れる桜井氏の祖と思われる。吉良氏に従ってこの時代にやってきた可能性が強い桜井氏と思われ、三河国(愛知県)碧海郡の出身で、奥州官領府の奉行人の中に名がみえる。 鎌倉時代に陸奥国に地頭職を任じられた人々の中に、14世紀以降に定住を本格的に開始した人々もいた。宮城県内に所領を持つ代表格に葛西氏がいる。五郡二保の地頭でもあり、南北朝を機に定着始めた。葛西清貞が牡鹿郡を拠点に南朝方となり活躍をしたことも一例である。葛西一族で富沢氏も栗原郡内を拠点とした。富沢氏は、葛西満良かさいみつよしの十六番目の子右馬助うまのすけで、所帯を持たない侍で、観応擾乱期に吉良・畠山の国争いで、在家一宇を持たない身の上形氏の先祖「しゅうさん」を誘い吉良・畠山の両軍に分かれて参陣し、お互い相応し、吉良方を有利に導いた。その功績により、富沢氏は三迫の富沢(栗駒町)の地を拝領し、その後、勢力拡大し「富沢三迫高倉庄七十三郷、岩井のこほり三十三郷」を領する主となる。また、上形氏も「二迫栗原小野松庄二十四郷」を拝領し定着していった。さらに、鎌倉時代地頭として得た領地に、南北朝時代に定着していった国人領主は、桃生郡の山内首藤氏、深谷保の長江氏、宮城郡の国分氏、亘理郡の千葉一族の武石氏、長岡郡の大掾氏等も同様定着化していったと思われる。武石氏は、南北朝期に名を改め亘理氏に改名したことは、亘理郡に定着しものと思われる。本吉郡の熊谷氏は、本領の武蔵国を捨て一族をあげて安芸国(広島県)三入庄に移住、一部が本吉郡に残った。また、山内首藤氏も一族に中心は、備後国(広島県)地毗庄(じびしょう)に移住している。さらに、鎌倉時代で地頭ではあったが、所領を失ったものもいた。北條氏もその最たるところで、宮城県内では、斯波氏のように、その後に新しく所領する様になったことや、亘理郡の武石氏のように、失った領地を取り戻した領主もいた。 この様に、南北朝時代以降は、関東のような遠隔地にて、東北の領地を経営するには難しくなり、宮城の領地を保有するものは、宮城の地に土着する領主となり国人化していった。
注2)十五世紀以降の状況について
十五世紀以降は国人どうしで一揆契約を結ぶことが活発になってきている。多くに国人領主は双方で、多くの一揆契約を結んでいる。
『余目旧記』によれば、河内七郡の渋谷・大掾・泉田・四方田(しほうだ)氏による四頭一揆、留守・葛西・山内・長江・登米の五郡一揆が記されている。四頭一揆は、後に、留守氏が加わっている。また、河内七郡は、鳴瀬川、江合川、迫川の流域一帯で、栗原・玉造・賀美・志田・遠田・登米と長岡の七郡をいう。(長岡郡は後に消滅する)渋谷・大掾・泉田・四方田氏はこの地の国人領主であり、一揆契約された時期は、『余目旧記』によると「留守七代目美作守家高之時」、家高は南北朝期の貞和・観応年間(1345年~52年)で、その頃と考えられる。 一揆契状として残されているものが伊達文書にある。
○1377(永和三・天授三)年十月十日に、留守一族の余目参河守と福島県伊達郡の伊達政宗が結んだものである。
その契約内容は、(1)何事についても互に助けあうこと、(2)公方への対応は相談の上で行うこと、(3)所務相論すなわち所領支配をめぐる相論などは一揆中で相談して裁決すること、の三点からなるものでった。その内容を見ると、(2)の公方とは、将軍のこと、直接的には、陸奥国における将軍権力を代行する奥州管領を指し、南北朝末期頃の陸奥国には、斯波氏のほかに、石橋・吉良・畠山氏の諸氏が管領類似の権限を行使しており、公方のいずれかを支持することが、陸奥国の国人にとって死活問題さえ在った為、一揆契状を結ぶ契機になったともいえる。
注3)一揆契約から見えることとは
余目参河守と伊達政宗との一揆契約から見えることは、他ぼ国人とも契約を交わしているようで、複数の国人と一揆契約を交わしていること思われる。また、留守氏の庶流の余目氏が独自に一揆契約を交わしていることは、留守氏の惣領の力が弱体化していることが考えられる。この時代になると、惣領制の一族結合が解体していることと上部権力の分裂という状況で、惣領をたよりにすることではなく、国人間での一揆契約を結ぶことに拍車がかかったと思われる。


宮城県内の国人・大名び動きついて
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陸奥国室町後期について

室町時代の後期になると、一族惣領に頼るのではなく国人間でいくつもの一揆契約を結び一揆内での身の安全と安泰を図ったと考えられる。宮城県内においても、大崎氏の在地性が希薄で国人一揆の上に担がれた様な存在であったと思われる。 (四頭一揆の河内七郡は、大崎氏所領の大崎五郡と重ねっている)
○1391(明徳に・元中八)年の年末、陸奥・出羽両国は、鎌倉公方足利氏満あさいかがうじみつの管轄に定められ、奥州管領制が廃しされた。しかしながら、鎌倉公方は、奥羽の地には不慣れもあり、旧奥州管領の大崎満持を奥羽支配の要として登用した。
○1399(応永六)年に、鎌倉公方足利満兼の代になると、弟の満直、満貞を福島県中通の篠川・稲村に派遣し、篠川公方・稲村公方と称させた。これに対して、奥羽諸氏の不満が高まり、特に、大崎満持おおさきみつもちや伊達政宗が激しく反抗した。また、京都幕府も鎌倉公方との対立が激しさをまし、京都幕府は牽制する為に京都扶持衆(将軍直属で扶持を給わる武将)を活用し、大崎詮持を奥州探題任ずるなどをした。
○1400年に、『余目旧記』によると、大崎詮持おおさきあきもちの奥州探題に任じられ、牛袋うしふくろの聖なるものが、上洛して「国一周御判」をいただいたとされている。
注)牛袋の聖にかんして
志田郡三本木町に牛袋山慈眼寺という曹洞宗の寺があり、同町内に1333(元享二)年の紀年銘を持ち、八八名の結衆の名を記す時宗の名号板碑があり、恐らくは、牛袋の聖と思われる可能性が高い。 これ以後、大崎氏は戦国時代に至るまで奥州探題の地位を世襲していった。しかし、大崎氏の奥州探題としての権限行使は、目立ったものがなかった。
○1455~57年(康正年間)に、左衛門佐教兼が陸奥国の国人の幕府に官途推挙(官職任命の推薦)の事実がまとまっている程度である。(南部文書による)
この時代の国人は自立傾向にあり、特に、南奥の伊達氏の勢力が拡大をしてきており、大崎氏の影響力が小さくなってきている。しかしながら、大崎氏が戦国時代に至るまで奥州探題の地位を保持できたのは、国人の家内部の分裂が絶えないところにあった。 その一例として、留守氏のことがいえる。留守氏は十五世紀中頃、留守美作守持家るすみまさかのかみもちいえの跡継ぎに、伊達持宗だてもちむねの五男長谷五郎郡宗くにむねが入嗣し、さらにその子藤王丸の跡継ぎに、1500(明応の圧倒的な影響下に入ったことを意味する。これは、郡宗・景宗入嗣により、伊達家臣が留守領内に入ってくることを意味し、留守家中になったと言うことである。例えば、景宗入嗣の時、付用人として渡辺周防わたなべすおう太宰治部少輔だざいじぶしゅゆう小幡雅楽介おばたうたのすけ小幡丹後おばたたんごらが随行した。さらに、柴田七騎と言われた柴田郡内の小領主が留守家中に組み込まれたことから、伊達氏の影響下になっていったと思われる。 しかしながら、留守領内の小領主たちがすべて伊達氏からの入嗣を歓迎しているわけでなく、留守領内では分裂状態に至った。伊達氏入嗣に反対する勢力が、対抗上、奥州探題の大崎氏を頼り支持する結束を高めた。
この様に、留守家中では伊達派・大崎派の対立する状態に陥った。この一端として、留守持家が留守氏の跡継ぎになるとき、留守三郎二郎るすさぶろうじろう飛騨守ひだのかみ)との間で、後継争いが起こり、持家派は伊達持宗を頼り、三郎二郎派は大崎氏を頼るように留守家中を二分する出来事があった。「余目旧記」に記されている。 また、国人の家内分裂騒動が奥州各地で起こり、奥州探題大崎氏の権力が延命できた一つの根拠となると思われる。
注)『余目旧記』について
十六世紀はじめ、永正年間(1504~21)という時点で、留守家中の大崎派の重臣の一人(塩釜の駒犬城主佐藤氏と推測される)が、同じ大崎派の留守一族の余目土佐守尚家ひさいえの所望により記したもので、奥州探題大崎氏の奥州統治の正統性を歴史的根拠づけることを目的として書かれている。『余目旧記』の全編には、大崎氏に対する尊崇の感情が貫いておいるが、留守家中で伊達派と大崎派が対立してる中で書かれていることは忘れたはならない。 戦国時代の宮城県は、北に葛西・大崎氏の二大勢力、南には伊達氏、その中間には、多賀国府があった周辺は、留守氏(宮城郡)・国分氏(宮城郡)、黒川氏(黒川郡)、長江氏(深谷保)、亘理氏(武石・亘理郡)といった一部もしくわ半郡規模の国人が割拠していた。桃生郡と登米郡には、山内首藤氏、登米氏が勢力をもっていた。
「首藤家譜」によると、
○1512(永正9)年に、登米氏が、葛西宗清かさいむねきよに攻められ葛西氏の支配下となる。
○1515(永正12)年には、山内首藤氏が、葛西宗清攻められその支配下になつた。
葛西・大崎氏は、それぞれ葛西七郡・大崎五郡の広大な領域を支配する大名であっが、内実は、国人一揆をそのまま内包する統率力の弱い体制であった。
葛西氏については、江刺(岩手県江刺郡)・柏山(岩手県胆沢郡)・本吉(宮城県本吉郡)といった郡規模の一門や、富沢(宮城県栗原郡)・浜田(岩手県気仙郡)・薄衣(岩手県磐井郡)・米谷(宮城県登米郡)等の一門に匹敵する独立性の強い領主が、葛西領を割拠しており、葛西氏に対してしばしば叛乱をおこていた。 大崎氏については、氏家・古川・高泉・新田・一迫・上形等の臣の叛乱が起こっていたことが、1532~55年(天文年間)記録に残されている。特に、伊達家の天文の乱で、伊達稙宗・晴宗父子の対立が、大崎氏内でも対立・分裂を引き起こしている。当時の当主大崎義宣と前当主大崎義直が稙宗派と晴宗派にに分かれ、家中も両派に分裂し相争う事態に陥った。義宣は、1537(天文六)年に、伊達家より入嗣した。「伊達正統正次考」によると、稙宗曰く「川内一党の頻り懇望」によるものと記されている。義宣は、天文の乱後葛西氏を頼り逃亡したが、1550年5月に桃生郡辻堂(河北町)で暗殺された。 伊達氏については、福島県伊達・信夫郡及び山形県長井を本拠地として、宮城県内にも早くから進出しており、宮城県南の刈田・柴田・名取の諸郡と伊具庄を支配下においていた。
○1553(天文二十二)年正月、伊達晴宗が『晴宗公采地下賜録』作り、家中に知行判物を与え(三百一通現存)、諸郡の知行状況を把握した。その主なものとして、刈田郡の白石大和守・中目兵衛、柴田郡の村田紀伊守・小泉伊勢守等の郡の名字を名乗る有力国人や、伊達氏本領の伊達・信夫郡の様に、伊達重臣に多くに領地を与えた。伊達領内の諸郡は、伊達氏の占領地・征服地の性格を有し、早くから伊達・信夫郡より移住を進めていた。これは、伊達氏の北進政策として推し進めていたと思われる。 伊達氏の北進政策として、葛西・大崎・留守・国分・亘理の宮城県の国人と血縁関係を結ぶことである。特に、伊達当主の子弟を入嗣させることに重点を置いていた思われる。この政策を推し進めたのが、伊達稙宗であり晴宗であった。
稙宗は、二十一人の子女をもうけ、内の五男六女を奥州諸氏に入れ血縁関係を築いた。
大崎氏には、小僧丸こそうまる後の大崎義宣おおさきよしのぶ、葛西氏には牛猿丸うしさるまる後の葛西晴胤かさいはるたね、村田氏には、宗殖むねふゆ後の村田万好斎ばんこうさい、亘理氏には、綱宗を入嗣させたが、早世、元宗入嗣後の亘理元安斎げんあんさいがいる。義宣・晴胤・元宗は、稙宗・晴宗と同じような花押を使用しており、伊達家の権威を頼りにしていることが窺える。 晴宗は、留守氏に、六郎宗朝ろくろうむねとも入嗣させ後に、留守政景るすまさかげ(上野介、雪斎)となり、国分氏には、彦九郎盛重ひこくろうもりしげを入嗣させ、後に国分盛重こくぶもりしげとなった。稙宗は、諸郡の大名に血縁関係をとり、晴宗は、郡及び半郡規模の国人と血縁関係を築いていったことが特徴とされる。 もうひとつの政策は、陸奥国の国人を統括する公的権威である奥州探題の職に就くことであった。しかしながら、既に、大崎氏が奥州探題となっており、非常に難題であった。
○1522(大永二)年頃に、京都幕府は、伊達稙宗に陸奥国守護に任じたが、稙宗は一向に応ずる気配も見せず、幕府より御礼と御判受け取りの再三の催促にも拘らず動ことしなかった。陸奥国守護は、奥州探題より下の役職であるとし、幕府の補任を受けるこたがなかった。
奥州探題に補任されたのは、稙宗の代から晴宗の代になってからであり、1555~70(弘治・永禄年間)年のころで、これにより、大崎氏や室町幕府の陸奥国に及ぼす伝統的権威は消滅することになった。
○1586(天正十四)年、大崎氏内部で内乱が生じた。家臣の新井田刑部にいだぎょうぶ伊場野惣八郎いばのそうはちとの争いが、家中を二分する争いに発展した。新井田刑部は、大崎義隆を抑留し大崎家中の大半を味方につけ、一方の伊場野惣八郎は、岩手沢(宮城県岩出山町)城主氏家弾正吉継うじいえだんじょうよしつぐを頼ったところ、吉継は伊達政宗に援軍を求めたところから事態が大き動くことになった。
伊達政宗の大崎侵攻始まりであった。
○1588(天正十六)年頃、大崎へ侵攻を始めるが、政宗は、隣接する芦名氏、上杉氏、相馬氏との緊迫した情勢で動きが取れず、留守政景と泉田重光を大将として進軍させた。ところが、黒川郡の黒川晴氏くりかわはるうじ月舟斎げつしゅうさい)が離反(大崎義直の親戚筋)したことにより松山~三本木経由中新田へ進軍したが、冬場の戦いでもあり、大崎の戦略により苦戦を余儀なくされ、新沼(三本木町)に籠城せざるを得なくなった。厳しい籠城であっこともあり、大崎氏との交渉で、泉田重光と長江月鑑斎勝景ながえげっかんさいかつかげが人質になることにより、伊達軍は籠城から解放された。事実上、伊達氏が敗北したことになった。これは、伊達政宗が唯一負けた戦いであった。
○1588(天文十六)年九月~十月にかけ、伊達政宗は、葛西晴信に使者をおくり、晴信に下向・対面を求めた。さらに、長江播磨守勝景や富沢日向にも同様に使者を送った模様で、葛西晴信・長江播磨守勝景・富沢日向より臣下の礼として「鷹・馬」を贈ったとされている。富沢氏(栗原郡)・長江氏(深谷保)は葛西氏の領内の外縁に位置する国人で、半独立的勢力であった。これにより、葛西氏・長江氏・富沢氏は伊達氏と臣従関係となった。
○1589(天正十七)年四月には、山形の最上義光の仲介により和議が成立したが、内容は、大崎氏が一方的に敗北したようになってしまった。その結果、大崎領は、政宗曰く、「伊達馬打同然之事」とされ、伊達氏の軍事的指揮下に属することになった。
○1589(天正十七)年五月から六月に、伊達政宗は、会津(福島県)の芦名攻めを敢行し、芦名義広あしなよしひろを宗家の佐竹義重さたけよししげのもとに追いやった。この戦いには、葛西晴信が鉄砲衆二百人を参陣させ伊達軍の一翼をになったことで、宮城県内の国人・大名が中世以来の自立性を保障することを引き替えに、伊達政宗の南奥の軍事的統一の中に組み込まれることになった。だが、しかし、この政策が大きく狂わせる事態が起こった。
○1590~91(天正十八~十九)年に、豊臣秀吉による奥羽仕置であった。
○1586(天正十四)年に、豊臣秀吉が打ち出した惣無事令そうぶじれいである。私戦停止命を基軸に、大名の配置換や検地・刀狩を通じて百姓に至るまで身分秩序を定め、日本国全体の支配体制構築に実施するものであった。この奥州仕置において、伊達政宗の惣無事令違反が問われ、その処分として、南奥羽の統一は瓦解され、大幅な大名・国人の配置替えが実行された。奥羽諸氏は、中世よりひたすら土地への定着を強めていた武士たちは、先祖伝来の土地から切り離され他に移り、或いは、武士身分を剥奪されて農民として土地に定着するなど大きな変化を経験することになった。 南奥羽の仕置の大きな変化は、伊達領の処分と葛西・大崎領が木村吉清きむらよしきよ清久きよひさ父子に預けられたことである。これは、葛西晴信かさいはるのぶ大崎義隆おおさきよしたかが小田原参陣しなかつたことが仕置の対象となったことが要因とされちるが、別な面から見ると、会津・白河と同じように伊達領の一部とみなされ、占領地と解釈されたとも考えられる。また、伊達政宗も同様に主張したものとも考えられる。それゆえ、大崎義隆と葛西晴信は、その後、石田三成の指示で上洛す ることになった。大崎義隆は、再興の運動をし、1590年12月7日に旧領三分の一を宛行う旨の豊臣秀吉の朱印状を与えられたが、奥羽の地では実行されなかった。その後、二人は上杉景勝に預けられた。
宮城県内の仕置の一環としての城受け取り・検地は、浅野長政あさのながまさ蒲生氏郷がもううじさと・石田三成・木村吉清・清久父子で、伊達政宗がその案内役を務めた。検地の内容を記した検地帳が残されている。その例として、黒川郡の検地を実施した徳川家康が検地帳7冊が残している。その検地帳を見ると、登録者は実際の耕作者ではなく、多くの場合、地主的な権利を有した武士身分のひとであったことが分かる。 さらに、旧葛西・大崎領の主な城郭は上方勢の接収されたが、武士身分の人々の多くは、なおも在地にとどまった。
○1590(天正十八)年十月中旬、仕置が一段落し、豊臣軍が引き揚げを始めた頃である。岩手県金ケ崎町辺で葛西晴信の旧臣が蜂起し、またたく間に葛西・大崎領内の全域に広がった。この葛西・大崎一揆の勃発で木村吉清・清久父子が佐沼城(迫町)に籠城するに至った。急遽、伊達政宗が出兵し救出した。この時、蒲生氏郷も出兵したが、政宗との間で対立が生じたが、一端和解したが、須田伯耆すだほうきが政宗が一揆に同心していると讒言したことで、秀吉に弁明の為上洛させられた。この間、一揆討伐は休戦となった。
○1591(天正十九)年六月から一揆討伐・郡分け・知行地・城廃棄・城普請などの奥羽再仕置が行われた。葛西・大崎領は伊達政宗の知行地とされ、同年九月二十三日に旧大崎領の岩手沢城に入城し、居城と定めた。政宗は、会津はもちろん、本領の伊達・信夫郡や長井の地を失い、宮城県全域と岩手県南に及ぶ地域を知行することになった。 また、一揆中で旧葛西・大崎領の多くの武士は地とともに命も失った。
○1591(天正十九)年六月二十七日から七月三日までの佐沼城の戦いで、武士身分の者五百余人、その他二千余人もの首がはねられ、女童までことごとくなで斬りにされたと報告された。凄まじい殺戮であった。伊達政宗の指示でなされたもので記憶に留めるべきである。 その惨劇の中で、富沢氏のように南部氏の家臣となったり、葛西晴信の甥の重俊のように伊達氏の家臣となったものや、農民の身分となり、旧葛西・大崎領に残ったものもいた。






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