陸奥国建郡について
律令国家の時代では、中央から派遣された国司が現地で政務をとる政庁を
国司は、律令制官庁の役人と同様で、長官(国司の場合
国司という場合、広義には四等官全員を指し、狭義的には
・守 (従五位上相当)一人
・介 (正六位下相当)一人
・大掾(正七位下相当)一人
・少掾(従七位下相当)一人
・大目(従八位上相当)一人
・少目(従八位下相当)一人
・
陸奥国の場合どうであろう、陸奥国は大国であり、798年(延暦十七年)六月二十八日の「太政官謹奏」によると(「類聚三代格」)下記のごとく記されている。
・
・
陸奥国は、「養老令」の大国の国司定員を上回っていた。いわゆる、陸奥国の行政府が特殊性を持つた行政府であったことが伺える。本来、国は国司が居る所を行政府としていたが、陸奥国・出羽国には、国司の上に按察使がいて、按察使府なる行政府が存在する型となっている。元来、按察使は791年(養老三年)七月に設けられ、国司を監督する
陸奥国においての初見は、養老四年九月二十八日に按察使
○ 798年(延暦十七年)には、「陸奥の定員を定むる事」の措置がとられ、按察使は東北地方にのみ存在することに至った。
陸奥国・出羽国を含む最高官人は按察使となり、位階も正五位上位と大国の守並に位置しており、812年(弘仁三年)正月には、従四位下の地位に任ぜられた。辺境の重要性に基づく特別な措置であったと思われる。陸奥国の場合、軍政府とも言うべき鎮守府も設置されており、その将軍は、陸奥国の長官が兼務する形となっていた。
陸奥国の長官が将軍であったとの初見は、729年(天平元年)の「続日本紀」九月十四日条に「陸奥鎮守府将軍従四位下
この鎮守府の官制は、将軍(従五位上相当)、
陸奥国の国府あるいは鎮守府の所在地として多賀城がある。
外郭は東辺1000m、西辺700m、南辺880m、北辺860mの不整形が築地をめぐらし、中心より南よりに、東西103m、南北120mの長方形の築地をめぐらした政庁跡と思われる内城跡がある。
陸奥国と蝦夷について①
蝦夷について、大化改新の前に記述が残されているのは「日本書紀」である。
○581年
備考;「大足天皇(景行天皇)の前倒しとは、日本武尊の東征を指したことであり、これは、あくまで伝承の域である」
○637年
「延喜式神名帳」によると、陸奥国桃生郡に日高見神社があると記されており、現在の宮城県石巻市で太平洋に注ぐ北上川流域に日高見国と蝦夷国が存在したと認識して良い。
大化改新の後も、蝦夷は服属し朝貢していたことがわかる。
○646年大化二年、655年~659年斉明天皇元年などに蝦夷服属の記事があり、斉明天皇五年7月3日条の「
使者の説明によると、蝦夷には、三種類があり、最も遠いところを「
○715年(霊亀元年)には、蝦夷の
◎律令国家において、蝦夷との関係でよく使用される用語として
「
「俘囚」と言う用語は、725年
律令国家は、帰依した蝦夷に対して律令制を適用し蝦夷自体を五戸一里の村落に
陸奥国の場合どうであったか、陸奥国守の特別な職掌の一つ「饗給」の中に、「令集解」の条の「穴記」によると、「戸貫に従わざる輩を招慰すること」とある。又、「令義解」考課令増益条によると「戸貫に従わぬ輩」は「蝦夷の類」だとあり、律令国家の蝦夷に対する考え方が示されている。
陸奥国内では、編戸されていた蝦夷は、律令農民と同じ扱いをされるはずが、服属し編戸の民となっても同じ扱いを受けたとは言い切れないことがある。
「養老令」の「賦役令辺遠国条」に「凡そ辺遠の国、夷人雑類有る所、
○8世紀前半には、律令国家側の建郡や柵設置等で蝦夷側と摩擦や反発が引き起こされ、叛乱や殺害事件が生じた。
○720年養老四年に、「蝦夷叛乱」が起こり、
陸奥国と蝦夷について②
○724年神亀元年には、「海道(牡鹿郡以北の海岸沿い)」の蝦夷が叛乱し、陸奥大掾
・8世紀末になる頃には、律令国家側が積極的に北進政策をとり、774年宝亀五年から40年間余り戦乱の日々が
続いた。この頃は、陸奥国の領域は、今の宮城県から岩手県に迫ろうとしていおり、岩手県奥州市を中心とする胆沢地区を攻略せんとしていた。
○780年宝亀十一年二月二日の勅(天皇の言葉)によると、胆沢の地を得れば、陸奥・出羽両国を安定させるためと、拠点を
○780年宝亀十一年三月二十二日には、
この事件の原因は、事々に大楯から砦麻呂が「夷俘の出身を種に侮蔑され続け、広純の件も表面的つくろっていたが、内心は恨みを深く抱いていたことで、その日に感情が一気に爆発し、俘囚からなる俘囚軍を寝返りさせて叛乱に踏み切った。この反乱は多賀城を略奪・放火と言う事態にまで発展した。
この事件を契機に律令国家は胆沢を平定すべく大軍を何度も投入せざるを得なくなり、宝亀十一年以降
この平定に時間がかかった最大の要因は、胆沢地方の蝦夷の首長
○811年弘仁二年には、
奈良時代末期以来律令国家側から軍事力の発動で文字とおり征服事業は一応終止符を打たれ、陸奥国の領域が最大に達したことになった。
◎他国に強制移住された俘囚は、調庸免除等で処遇され、次第に律令制度の中に組み込まれ、律令制度の公民と同じ待遇となったが田租を徴収する義務を負うことになった。
・798年延暦十七年四月には、俘囚調庸免除が出された。
・801年延暦二十年には、田租免除を受けた。推測するに、すでに口分田が支給されていたと思われる。
・811年弘仁二年二月に、諸国の夷に子の代まで食糧支給されるに至る。
・811年弘仁二年三月には、諸国夷俘囚に記帳の提出が命じられた。
・812年弘仁三年六月には、諸国俘囚の中から人望あるものの一人を長として、俘囚長・夷俘長と呼ばれるようになった。
・813年弘仁四年十一月に、諸国の
・814年弘仁五年十二月には、夷俘と俘囚の呼び方をやめ「姓名」をとなえることになった。
・816年弘仁七年十月には、口分田を授けられてから六年以上経過した俘囚から田租を徴収することになった。
従って、弘仁七年頃までには、俘囚は公民として律令制度に組み込まれ、同じ待遇と義務を負うことになった。が、しかし、弘仁七年以降も調庸免除がなされていたようである。
<<参考>>
現在、俘囚移住の名残りとして、「
八世紀に陸奥按察使に就任した人物
年代
年号
氏名
ふりがな
位階
兼務役職
720年
養老四年
上毛野広人
かみつけのひろひと
正五位下
737年
天正九年
大野東人
おおののあずまひと
従四位上
参議・大徳寺守・鎮守府将軍
757年
天平宝字元年
大伴古麻呂
おおとものこまろ
従四位下
参議・左大臣・鎮守府将軍
760年
天平宝字四年
藤原朝猟
ふじわらのあさかり
正五位下
陸奥守・鎮守府将軍
763年
天平宝字七年
藤原田麻呂
ふじわらのたまろ
従五位上
772年
宝亀三年
大伴駿河麻呂
おおとものするがまろ
従四位下
陸奥守・鎮守将軍
777年
宝亀八年
紀広純
きのひろずみ
正五位下
陸奥守・鎮守将軍
781年
天応元年
藤原小黒麻呂
ふじわらのこぐろまろ
正四位下
陸奥守・左大臣・鎮守将軍
782年
延暦元年
藤原朝猟
ふじわらのあさかり
正五位下
陸奥守・参議・鎮守府将軍
785年
延暦四年
多治比宇美
たびひのうみ
従五位上
陸奥守・鎮守府副将軍
790年
延暦九年
多治比浜成
たびひのはまなり
従五位上
陸奥守
796年
延暦十五年
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
従四位下
近衛少将・陸奥守・鎮守府将軍
797年
延暦十六年
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
従四位下
11月征夷大将軍
九世紀以後の陸奥出羽按察使について
○799年延暦十七年六月二十八日に、
○812年弘仁三年に、陸奥出羽按察使の制度上の改変が行われ、位階に関する格と
按察使のそのものは、地方行政監察の為の制度として全国に設けられたが、10年足らずで当初の目的を果たさなくなり、消滅し、一部地域のみ、設置当初と異なる形で置かれた。陸奥出羽按察使は、律令国家の東北経営の中心的重要な役割として存続された。
九世紀には、陸奥国按察使の制度も整い、行政や東北の最高責任者の地位も確立されたことで、50年足らずにして意味がなさなくなり、按察使の
・十世紀になると、たまに源氏が任命されるくらいで、ほとんどを藤原氏が独占する形となり、陸奥国按察使の有する権益は中央貴族に利用される様になってしまった。
・十世紀後半に、実方中将みちのく下りの話が後世に伝わることとして有名である。従四位上右近中将藤原実方が陸奥守として、当時国府である多賀城に赴任した記述が残る。
・十一世紀中頃には、前九年の役(1051年~1062年)が起こった。
「奥州街道」とは
「奥州街道」とは、坂上田村麻呂以来頼朝に至るまでの通路、いわゆる「奥大道」は合戦等の記録を参考にすると岩沼(宮城県岩沼市)から名取熊野神社前(宮城県名取市)から鈎取(宮城県仙台市)から鹿野(宮城県仙台市)から榴ヶ岡<(宮城県仙台市)から利府(宮城県利府町)(ここから東へ多賀国府)から大衡(宮城県大衡村)から吉岡(宮城県大衡村)から色麻(宮城県色麻町)から岩出山(宮城県岩出山)~真坂(宮城県一迫町)~>岩ヶ崎(宮城県岩ヶ崎)~津久毛(宮城県金成町)~五串(岩手県一関厳美)~達谷窟(岩手県)~毛越寺(岩手県平泉町)~中尊寺(岩手県平泉町)である。総行程は奥州山脈の東側山麓の大きな川の比較的渡渉し易い所を選んで通っている。
「奥州街道」経路・・・岩沼 → 名取熊野神社前 → 鈎取 → 鹿野 → 榴ヶ岡 → 利府 → 大衡 → 吉岡 → 色麻 → 岩出山 → 真坂 →一迫 →岩ヶ崎 → 津久毛 → 達谷窟 → 毛越寺 → 中尊寺 に至る。
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位とは
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位は、中世以後も変わらず、鎌倉時代の地頭も郡を単位に任命された。また、郡以外の所領として荘園があり、宮城県地域には、
○本良荘;本吉郡の地域で古代の桃生郡の一部が荘園になったと推定される。摂関家藤原氏の荘園であり、藤原頼長(保元の乱、1156年の中心人物)の奥羽五荘のうちの一つと数えられ、父関白忠実より1148年(久安4年)に譲られたといわれ、成立が11世紀にさかのぼると推定されている。
○高鞍荘;栗原郡の三迫川流域の地で、現在の金成町のあたりで、戦国時代の「余目氏旧記」には「三迫、高倉庄七十三郷」とみなされ、古代の栗原郡の一部が荘園になったともいえる。
○栗原荘;栗原郡の南で一迫川流域を含む地域で、11世紀に成立した荘園である。1253年頃、「近衛家領目録」に「京極殿領内」と記されており、「京極殿」とは、関白
○伊具荘;11世紀の伊具郡の中心部が荘園となった地域と推定される。八条院領で王家領荘園の一つであり、12世紀頃成立したと推定され、伊具十郎平永衡の後継者にあたる人物が、縁を求めてこの地域を寄進したものと推定される。この地域の高倉に高蔵院寺阿弥陀仏(国重文)がある。(藤原秀衡妻女が再建新築にした時代もある。)
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位以外に、12世紀以後、宮城県内は北と南の端に大きな荘園があり、ほぼ中央に古代以来の陸奥国府があったが、その国府の北と東の背後地には六つ
中世宮城県地域の郡が所領の基本的単位とはⅡ
宮城県内国保は、高城保(松島町・利府町)、大谷保(大郷町)、
いずれの地域は、高城川・鳴瀬側・江合川・迫川・北上川などの氾濫源湿地で、近代まで湿地干拓による大規模な開発・再開発が繰り返されている地域でもある。
中世の宮城県内には、郡・保・荘の所領単位があり、鎌倉時代の地頭などもこの単位で任命された。又、この様な土地制度を荘園公領制といい11世紀~12世紀にかけて形成された。
東北の中世を描いた説話集として「今昔物語集」の紹介
「今昔物語集」は、東北の中世を描いたところがあり、東北十世紀末頃の中世の幕開けをつげる「
編纂された時期が、白河院の院生期のころであり、十二世紀前半であり、一世紀以上過ぎた後の物語である。史実的には、若干不安は残るが中世期頃の様子が伺えられ、非常に興味深いものがある。東北に関する記述では、陸奥のどの地域でのことか、主人公たちの地位がどのようであったか漠然としているが「今昔物語集、巻25の第13話にある「
東北の中世に生きた藤原経清と平永衡とは!
「前九年の役」頃に藤原経清は宮城県亘理郡亘理町に、平永衡は宮城県伊具郡丸森町に郡内の所領を得ていた。戦乱のなかで果たした役割や社会的地位が殆ど明らかにされていない。藤原経清は、宮城県南部阿武隈河口南岸に位置する亘理郡の領主であったとされている。社会的地位としては、官職を持たない有位者には間違いないようであった。史料としては、源頼義奏状の公文書からも確かめられる。
「尊卑分脈」によると「
平永衡は、一郡を領したところから「伊具十郎」とも呼ばれ、藤原経清の亘理郡とは西隣に接する伊具郡であったと推測される。
藤原経清は、国司藤原兼貞から藤原登任までの間、国司の従者として陸奥国に入り、亘理郡に土着したのではないかと推測される。
藤原経清、平永衡は、安倍頼時の娘を妻としたので、義兄弟の緊密な関係でもあり、宮城県南二郡を領し、境を接していたので相互交流も深かったと思われる。又、経清、永衡がどの様に活動し、在地支配を行ったかの手がかりが残されている。
亘理郡亘理町椿山に残る三十三間堂の廃堂跡に残る、十棟の礎石を持つ建物群があり、そのなかで星型建築物の跡「阿弥陀堂」と見られ、藤原経清に関わりがあると考えられている。又、平永衡は、角田市西根高倉にある高蔵寺阿弥陀堂を創建したと考えられ、後に、藤原秀衡の妻が修復したと伝えられている。さらに、伊具郡丸森町大内堂平山の山頂近くに三棟の仏堂跡があったことが知られている。
このように、この時期から阿弥陀堂建築に手を染めていたとすれば、東北にも早いうちに浄土信仰の広がりを示す例として着目されている。
十世紀頃の説話集「余五君と沢胯の戦い」について(今昔物語集より)
○995~998年(長徳元年~四年)頃、
その中に、字を余五君と称する者や沢胯四郎というものいた。
両者共に、平将門の乱鎮圧に活躍した武将の二世代後の者たちである。しかも、貞盛は陸奥守、秀郷は鎮守府将軍として赴任してから、その子孫が土着して勢力を保っている共通性を持っていた。
この両者が、田畑の取り合いの争いをおこし、当時の陸奥守藤原実方中将に互いに訴えていたが、両者とも譲らず、両者共に相応の言い分があることや、両者共に「国の然るべき者」であった為、容易に評決を下すことに躊躇っていた実方中将が亡くなってしまった為、双方とも実力で決着をつけるほかなく合戦の段取り、場所を定め、軍勢を募ることになった。
双方とも軍勢を集めた結果、余五君は三千、沢胯は一千余の兵を集結させたが、明らかに沢胯方が不利であり、諦めて常陸国へ赴いた。そのため、余五君の加勢が本領に戻ってしまった。
沢胯はそれを待っていたかのように、密かに陸奥に戻り手勢を集めて、手薄になった余五の館を夜襲、包囲して火をかけ、飛び出す者は、犬一匹をも通さず射殺し、中に残る者は「皆真黒にして身体を見えざる」様に焼き殺した。夜が明けて、大勝利を確認した沢胯は意気揚々と軍を率いて妻の兄
しかし、大君は思慮分別に富み、よく気のつく武士で、敵もなく万人に敬愛された人物であった為、沢胯が立ち寄った際「こんなに華々しく余五を討ったということは、大変なことだ。あんなに勢力があり、武略に優れた余五を家に閉じ込めたまま殺すなんて予想もしてなかった。ところでかれの首はたしかに鞍に結びつけて持ってきただろうな」といったところ、沢胯は「馬鹿なことは言わないでください、蝿一匹とびだせないようにしてみな射殺し、焼き殺したんです。誰のものともわからないほど黒焦げになった汚い焼け頭なんか何で持ってくるもんですか、余五が死んだことは露疑いありません」としたり顔で答えた。それを聞いた大君は、沢胯の言葉を信じず、自分の館が戦火に巻き込まれるのを恐れ、沢胯を中に入れず立ち去らせた。後で、一行に酒、さかなを大量に送り労をねぎらいはしたが、大君は厳正中立の立場を維持したのである。
しかし、余五は戦乱の中、女に変装し葦の密生した川の中にひそみ、一人生き延びた。沢胯軍が安心して引き上げた後、その事態を聞いた郎党が駆けつけた時、余五に「もっと軍勢を集めて、後日・・」と進言したところ、「みなが、焼き殺されたなか自分一人苦心して危機を脱したものの、このまま生き長らえるつもりはない。自分一人でも敵の家に押しかけ、焼き殺したと安心してる奴らに健在であることを見せつけ、一本の矢でも射かけてそれから死にたいと思うに、敵は夜通しの戦いで疲れきって、其の辺の川原か丘の影で武装を解いて死んだ様に眠りこけているはず、今押しかければ、たとえ千人の軍勢たりとも何もできない。今日という日を逃せば、こんな機会は二度とこない。一人でも行く、命の惜しいものはここに残れ」と言い放って武具を取り、駿馬にまたがって出発した。様子を見ていた郎党共は、主人を見殺すわけにはいかず、居合わせた者と歩騎を合わせて百余人とともに沢胯軍を追跡し、途中大君の館の前に至って声をかけたが、門を閉ざし、中はしんと静まり返っていた。沢胯軍の気配は全くなかった。それで、さらに追跡、物見を放ち探らせ、ある丘の南西に位置する原に酒によって、寝ころがる沢胯軍の兵の群れを見つけ、突如として北方の高所から雪崩のごとく襲いかかり、難なく敵を壊滅させ沢胯の首をはねることができた。
その後、沢胯の家を急襲し、男は全員射殺、女は手にかけず、沢胯の妻=大君の妹を丁重に兄のもとに送り届けた。それにより、余五の君維茂の武名がいよいよあがり東国八州にまで知られるようになった。
武家台頭と源氏の趨勢に関して <<武家台頭の経緯>>
武家台頭の背景として
1.
2. 平安期後半に入ると律令制度は、早くも崩れ、全地域において荘園の制度が広がり、東北地方もその類に漏れない状況で、多賀城の国府により管轄される、国衛領と中央権力者の荘園が並列して存在した。中央官人は僻地に下向することを嫌い、代官を差し向ける
3. 中央政権が衰退してくると「平将門の乱」にみられるような地方豪族の反乱が起こり、次第に貢納する官地から、現地支配下の武士達によって搾取され、逆に、彼らは実態を掌握しながら肥大化して行くことになる。
4. 朝廷は肥大化する武家を統制するために、源家を利用し、陸奥国に守護として任じ、行政浸透を目論んだが、前九年の役、後三年の役後、源家の肥大化を恐れた中央貴族は、年貢の安直な収受が保証されることを期待し、現地有徳人として藤原氏を選んだ。(前九年、後三年においても源家・・
前九年の役とは、1051年~1062年(永承6年~康平5年)まで約12年間にわたる長期戦であった。源頼義が陸奥守を拝命し奥州に下向し、任期が過ぎ
帰国しようと矢先、家臣団にいざこざが起こり、現地の大勢力であった安倍一族と合戦となったことに始まり、頼義、義家(
前九年の役は、最終的には、出羽の豪族清原氏の援助により、ようやく勝利を上げることができたが、朝廷は頼義の野望から安倍氏を挑発した私闘であるとして、功績を認めず、安倍氏に代えて清原氏を「
厨川柵は、安倍氏居館を中心に規模が大きく、現在、本丸跡には厨川八幡宮があり、現在の
後三年の役は、1083年~87年(永保3年~寛治元年)の約5年間の戦いであった。
注)金沢城址二の丸跡は、現在金沢八幡宮となってる。
金沢城址・・
清原氏は出羽国で興り、前九年の役の結果、奥六郡(胆沢、江刺、稗貫、岩手、志和、和賀)に勢力圏を拡大し、次第に専権をふるうようになり、朝低では、それを抑える為、源義家を陸奥守として派遣した。清原家衡兄弟で争いが起き、義家は弟の
後三年の役は、奥六郡を安倍氏より受け継いだ
藤原清衡は、安倍貞任の妹で、前九年の合戦後に清原武則に再嫁した女性の連れ子であり、父は藤原経清であった。藤原経清は
奥州の時代背景として、平安末期から鎌倉初期のころは、任国に下る
奥州合戦以後の鎌倉武士団入部について
○1189(文治五)年、奥州合戦の結果、奥羽両国のすべての郡・荘(荘園)・保は没収されて、源頼朝の掌中におさまった。郡司・祥司・保司などの地位にあった在地の武士たちの多くは、追放され、屈従の生活を余儀なくされた。その代わりに、関東の御家人らが、地頭の職を得る事とになった。
奥州惣奉行の一人になった
○1200(正治二)年八月、将軍頼朝死去直後に、柴田郡の豪族、
この反乱は、追討使
○1201(建仁元)年二月には、平泉
例として、葛西氏の場合、現地に派遣されたものとして、
さらに、鎌倉幕府は、年貢の数量を増やすべく新田開発を各地頭に命じ、大量の資金と労力を投入し、用水工事や百姓に農地の開発を始めた。同様に、奥羽の地においても各地頭が新田開発を進めるに至った。伊沢(留守)氏の新田開発は、府中城の中に広がる沼沢の湿地帯を計画的に開発を進め、規模は、三町~七町という規模で、一反の水田にて三十~七十枚に相当するものであった。この耕作を請け負った中には、
この様に、北條氏の覇権確立する鎌倉後期には、郡・荘・保の半数近くが北條氏の所領となっていったことが分かる。宮城県内の名取郡・遠田郡・刈田郡・柴田郡・亘理郡・黒河郡・志田郡・玉造郡や伊具荘・金原保・大谷保などが北條氏の所領となった。
また、北條氏の所領内の郷村には、北條氏の被官(家臣)が代官として任じられ、年貢の徴収にあたった。県内の北條氏の代官として、
陸奥国南北朝時代について
南北朝時代が60年に及んだが、宮城の地においても、人々の激しい移動があった。建武新政以後に陸奥国府には、
○1333(元弘三)年八月、
この時、陸奥国府が発給した文書は二年間で90点近くが残されおり、奥州の武将に大きな影響を与えたことは間違いない。この例として、宮城県内の
○1335(建武二)年八月、南朝に対する足利方は、足利一門の重鎮、岩手県紫波郡に本領を持つ
○1335(建武二)年十二月、
しかし、尊氏は、反撃に出て攻勢をかけた、各地の国人たちも足利側に呼応するものが増え、奥州に下向する顕家軍に反抗する国人や顕家軍ないでも足利方に呼応する武将もいたり、各地にで戦いながら多賀国府に戻ろうとした。
○1336(建武三)年二月、顕家軍帰路の途中で、宮城郡の留守家任が参河国(愛知県)
○1336(建武三)年四月~五月にかけ、留守家任は
○1337(建武四・延元二)年二月、陸奥国の専任の総大将として、石塔義房が任じられた。石塔氏も足利一門であり、宮城県内で従った武将は、留守家任、亘理郡の
○1337(建武四・延元二)年八月、京都の足利尊氏を討つべく顕家は再度、奥州の兵を率いて軍勢催促状を出してもなかなか纏まらず、苦労の末に上洛した。
○1338(建武五)年五月、北畠顕家は
○1338(建武五)年七月、
○1340(暦応三・興国元)年、再度、海路で常陸(茨城県)
しかしながら、南朝勢といっても、葛西清貞のように、葛西一族でも北朝方の武将もおり、その甥、
○1345(貞和元・興国六)年七月、畠山国氏と吉良貞家の二人が奥州管領に任命され、多賀国府に着任した。吉良貞家は、室町幕府評定衆、
○1349(貞和五・正平四)年、室町幕府の中枢部で内部分裂がおこり、
○1351(観応二・正平六)年二月、両管領は多賀国府周辺を戦場に争い、畠山国氏父子は、宮城郡の岩切城(仙台市)に篭城したが、敗れて討死してしまい、吉良貞家一人が奥州管領となった。畠山国氏父子は討死したが、その子
○1351(観応二)年、南朝方の北畠顕信らの急襲をうけ、多賀国府を奪われてしまった。
○1352(文和元・正平七)年、吉良貞家は、再び多賀国府を奪還せしめた。
○1354(文和三・正平九)年、吉良貞家死後奥州管領の地位は、斯波家兼に受け継がれた。この事を、『余目旧記』記載されており、「中比奥州二四探題也」とあり、この頃は、管領の権限を行使する人々が、入替わり、立ち替わりあらわれ目紛しい状況であったようである。吉良氏では、貞家の子満家・治家、貞家の弟貞経が管領の権限を行使していることが言われている。畠山氏は国詮の活発な活動が観応擾乱後も見受けられた。さらに、斯波氏の一族で石橋和義と棟義父子も奥州管領の
注1)十四世紀中期以降の状況について
十四世紀中期以降、斯波氏が家兼、直持、詮持と惣領が管領を継承しており、任地への定着が時代の要請となってきていた。又、斯波氏はこれまで長い間陸奥国の政治の中心であった宮城郡を離れ北の志田郡に本拠を移し、大崎五郡(志田・玉造・賀美・遠田・栗原)領有する大名への道を歩はじめた。それとともに多賀国府の求心力は失われ、かつての国府の主、留守氏も一人の国人として宮城郡に定着することになった。
東北陸奥国は、陸奥守・奥州管領に従って東北にやってきた人々の中にも、東北の地に定着する人々もいた。大崎氏の宿老で戦国時代までに活躍している氏家氏、南北朝内乱期に斯波氏が守護であった越中国(富山県)の出身であった可能性が高い、さらに、宮城県に現在でも長田・二宮の姓が分布しているが、これも南北朝期の斯波氏の被官にその名が見えるのもそうである。また、戦国時代の留守氏の家臣で、江戸時代の宮城郡東部に有力な百姓の姓として多く見れる桜井氏の祖と思われる。吉良氏に従ってこの時代にやってきた可能性が強い桜井氏と思われ、三河国(愛知県)碧海郡の出身で、奥州官領府の奉行人の中に名がみえる。
鎌倉時代に陸奥国に地頭職を任じられた人々の中に、14世紀以降に定住を本格的に開始した人々もいた。宮城県内に所領を持つ代表格に葛西氏がいる。五郡二保の地頭でもあり、南北朝を機に定着始めた。葛西清貞が牡鹿郡を拠点に南朝方となり活躍をしたことも一例である。葛西一族で富沢氏も栗原郡内を拠点とした。富沢氏は、
注2)十五世紀以降の状況について
十五世紀以降は国人どうしで一揆契約を結ぶことが活発になってきている。多くに国人領主は双方で、多くの一揆契約を結んでいる。
『余目旧記』によれば、河内七郡の渋谷・大掾・泉田・四方田(しほうだ)氏による四頭一揆、留守・葛西・山内・長江・登米の五郡一揆が記されている。四頭一揆は、後に、留守氏が加わっている。また、河内七郡は、鳴瀬川、江合川、迫川の流域一帯で、栗原・玉造・賀美・志田・遠田・登米と長岡の七郡をいう。(長岡郡は後に消滅する)渋谷・大掾・泉田・四方田氏はこの地の国人領主であり、一揆契約された時期は、『余目旧記』によると「留守七代目美作守家高之時」、家高は南北朝期の貞和・観応年間(1345年~52年)で、その頃と考えられる。
一揆契状として残されているものが伊達文書にある。
○1377(永和三・天授三)年十月十日に、留守一族の余目参河守と福島県伊達郡の伊達政宗が結んだものである。
その契約内容は、(1)何事についても互に助けあうこと、(2)公方への対応は相談の上で行うこと、(3)所務相論すなわち所領支配をめぐる相論などは一揆中で相談して裁決すること、の三点からなるものでった。その内容を見ると、(2)の公方とは、将軍のこと、直接的には、陸奥国における将軍権力を代行する奥州管領を指し、南北朝末期頃の陸奥国には、斯波氏のほかに、石橋・吉良・畠山氏の諸氏が管領類似の権限を行使しており、公方のいずれかを支持することが、陸奥国の国人にとって死活問題さえ在った為、一揆契状を結ぶ契機になったともいえる。
注3)一揆契約から見えることとは
余目参河守と伊達政宗との一揆契約から見えることは、他ぼ国人とも契約を交わしているようで、複数の国人と一揆契約を交わしていること思われる。また、留守氏の庶流の余目氏が独自に一揆契約を交わしていることは、留守氏の惣領の力が弱体化していることが考えられる。この時代になると、惣領制の一族結合が解体していることと上部権力の分裂という状況で、惣領をたよりにすることではなく、国人間での一揆契約を結ぶことに拍車がかかったと思われる。
陸奥国室町後期について
室町時代の後期になると、一族惣領に頼るのではなく国人間でいくつもの一揆契約を結び一揆内での身の安全と安泰を図ったと考えられる。宮城県内においても、大崎氏の在地性が希薄で国人一揆の上に担がれた様な存在であったと思われる。
(四頭一揆の河内七郡は、大崎氏所領の大崎五郡と重ねっている)
○1391(明徳に・元中八)年の年末、陸奥・出羽両国は、鎌倉公方
○1399(応永六)年に、鎌倉公方足利満兼の代になると、弟の満直、満貞を福島県中通の篠川・稲村に派遣し、篠川公方・稲村公方と称させた。これに対して、奥羽諸氏の不満が高まり、特に、大崎満持おおさきみつもちや伊達政宗が激しく反抗した。また、京都幕府も鎌倉公方との対立が激しさをまし、京都幕府は牽制する為に京都扶持衆(将軍直属で扶持を給わる武将)を活用し、大崎詮持を奥州探題任ずるなどをした。
○1400年に、『余目旧記』によると、
注)牛袋の聖にかんして
志田郡三本木町に牛袋山慈眼寺という曹洞宗の寺があり、同町内に1333(元享二)年の紀年銘を持ち、八八名の結衆の名を記す時宗の名号板碑があり、恐らくは、牛袋の聖と思われる可能性が高い。
これ以後、大崎氏は戦国時代に至るまで奥州探題の地位を世襲していった。しかし、大崎氏の奥州探題としての権限行使は、目立ったものがなかった。
○1455~57年(康正年間)に、左衛門佐教兼が陸奥国の国人の幕府に官途推挙(官職任命の推薦)の事実がまとまっている程度である。(南部文書による)
この時代の国人は自立傾向にあり、特に、南奥の伊達氏の勢力が拡大をしてきており、大崎氏の影響力が小さくなってきている。しかしながら、大崎氏が戦国時代に至るまで奥州探題の地位を保持できたのは、国人の家内部の分裂が絶えないところにあった。
その一例として、留守氏のことがいえる。留守氏は十五世紀中頃、
この様に、留守家中では伊達派・大崎派の対立する状態に陥った。この一端として、留守持家が留守氏の跡継ぎになるとき、
注)『余目旧記』について
十六世紀はじめ、永正年間(1504~21)という時点で、留守家中の大崎派の重臣の一人(塩釜の駒犬城主佐藤氏と推測される)が、同じ大崎派の留守一族の余目土佐守
「首藤家譜」によると、
○1512(永正9)年に、登米氏が、
○1515(永正12)年には、山内首藤氏が、葛西宗清攻められその支配下になつた。
葛西・大崎氏は、それぞれ葛西七郡・大崎五郡の広大な領域を支配する大名であっが、内実は、国人一揆をそのまま内包する統率力の弱い体制であった。
葛西氏については、江刺(岩手県江刺郡)・柏山(岩手県胆沢郡)・本吉(宮城県本吉郡)といった郡規模の一門や、富沢(宮城県栗原郡)・浜田(岩手県気仙郡)・薄衣(岩手県磐井郡)・米谷(宮城県登米郡)等の一門に匹敵する独立性の強い領主が、葛西領を割拠しており、葛西氏に対してしばしば叛乱をおこていた。
大崎氏については、氏家・古川・高泉・新田・一迫・上形等の臣の叛乱が起こっていたことが、1532~55年(天文年間)記録に残されている。特に、伊達家の天文の乱で、伊達稙宗・晴宗父子の対立が、大崎氏内でも対立・分裂を引き起こしている。当時の当主大崎義宣と前当主大崎義直が稙宗派と晴宗派にに分かれ、家中も両派に分裂し相争う事態に陥った。義宣は、1537(天文六)年に、伊達家より入嗣した。「伊達正統正次考」によると、稙宗曰く「川内一党の頻り懇望」によるものと記されている。義宣は、天文の乱後葛西氏を頼り逃亡したが、1550年5月に桃生郡辻堂(河北町)で暗殺された。
伊達氏については、福島県伊達・信夫郡及び山形県長井を本拠地として、宮城県内にも早くから進出しており、宮城県南の刈田・柴田・名取の諸郡と伊具庄を支配下においていた。
○1553(天文二十二)年正月、伊達晴宗が『晴宗公采地下賜録』作り、家中に知行判物を与え(三百一通現存)、諸郡の知行状況を把握した。その主なものとして、刈田郡の白石大和守・中目兵衛、柴田郡の村田紀伊守・小泉伊勢守等の郡の名字を名乗る有力国人や、伊達氏本領の伊達・信夫郡の様に、伊達重臣に多くに領地を与えた。伊達領内の諸郡は、伊達氏の占領地・征服地の性格を有し、早くから伊達・信夫郡より移住を進めていた。これは、伊達氏の北進政策として推し進めていたと思われる。
伊達氏の北進政策として、葛西・大崎・留守・国分・亘理の宮城県の国人と血縁関係を結ぶことである。特に、伊達当主の子弟を入嗣させることに重点を置いていた思われる。この政策を推し進めたのが、伊達稙宗であり晴宗であった。
稙宗は、二十一人の子女をもうけ、内の五男六女を奥州諸氏に入れ血縁関係を築いた。
大崎氏には、
○1522(大永二)年頃に、京都幕府は、伊達稙宗に陸奥国守護に任じたが、稙宗は一向に応ずる気配も見せず、幕府より御礼と御判受け取りの再三の催促にも拘らず動ことしなかった。陸奥国守護は、奥州探題より下の役職であるとし、幕府の補任を受けるこたがなかった。
奥州探題に補任されたのは、稙宗の代から晴宗の代になってからであり、1555~70(弘治・永禄年間)年のころで、これにより、大崎氏や室町幕府の陸奥国に及ぼす伝統的権威は消滅することになった。
○1586(天正十四)年、大崎氏内部で内乱が生じた。家臣の
伊達政宗の大崎侵攻始まりであった。
○1588(天正十六)年頃、大崎へ侵攻を始めるが、政宗は、隣接する芦名氏、上杉氏、相馬氏との緊迫した情勢で動きが取れず、留守政景と泉田重光を大将として進軍させた。ところが、黒川郡の
○1588(天文十六)年九月~十月にかけ、伊達政宗は、葛西晴信に使者をおくり、晴信に下向・対面を求めた。さらに、長江播磨守勝景や富沢日向にも同様に使者を送った模様で、葛西晴信・長江播磨守勝景・富沢日向より臣下の礼として「鷹・馬」を贈ったとされている。富沢氏(栗原郡)・長江氏(深谷保)は葛西氏の領内の外縁に位置する国人で、半独立的勢力であった。これにより、葛西氏・長江氏・富沢氏は伊達氏と臣従関係となった。
○1589(天正十七)年四月には、山形の最上義光の仲介により和議が成立したが、内容は、大崎氏が一方的に敗北したようになってしまった。その結果、大崎領は、政宗曰く、「伊達馬打同然之事」とされ、伊達氏の軍事的指揮下に属することになった。
○1589(天正十七)年五月から六月に、伊達政宗は、会津(福島県)の芦名攻めを敢行し、
○1590~91(天正十八~十九)年に、豊臣秀吉による奥羽仕置であった。
○1586(天正十四)年に、豊臣秀吉が打ち出した
宮城県内の仕置の一環としての城受け取り・検地は、
○1590(天正十八)年十月中旬、仕置が一段落し、豊臣軍が引き揚げを始めた頃である。岩手県金ケ崎町辺で葛西晴信の旧臣が蜂起し、またたく間に葛西・大崎領内の全域に広がった。この葛西・大崎一揆の勃発で木村吉清・清久父子が佐沼城(迫町)に籠城するに至った。急遽、伊達政宗が出兵し救出した。この時、蒲生氏郷も出兵したが、政宗との間で対立が生じたが、一端和解したが、
○1591(天正十九)年六月から一揆討伐・郡分け・知行地・城廃棄・城普請などの奥羽再仕置が行われた。葛西・大崎領は伊達政宗の知行地とされ、同年九月二十三日に旧大崎領の岩手沢城に入城し、居城と定めた。政宗は、会津はもちろん、本領の伊達・信夫郡や長井の地を失い、宮城県全域と岩手県南に及ぶ地域を知行することになった。
また、一揆中で旧葛西・大崎領の多くの武士は地とともに命も失った。
○1591(天正十九)年六月二十七日から七月三日までの佐沼城の戦いで、武士身分の者五百余人、その他二千余人もの首がはねられ、女童までことごとくなで斬りにされたと報告された。凄まじい殺戮であった。伊達政宗の指示でなされたもので記憶に留めるべきである。
その惨劇の中で、富沢氏のように南部氏の家臣となったり、葛西晴信の甥の重俊のように伊達氏の家臣となったものや、農民の身分となり、旧葛西・大崎領に残ったものもいた。