郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

奥州葛西一族物語

奥州葛西一族について
 <<奥州葛西一族の変遷>>

鎌倉時代、平泉滅亡後に初代葛西清重かさいきよしげが、源頼朝より賜った領地とは「五郡二保」である。その領地は、江刺郡、気仙郡、胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡、興田保おきたほ黄海保きのみほで、 現在の岩手県県南部から宮城県県北地域に位置し、平泉のまわりの四郡と二つの保は、平泉のお膝元で、重要な地域でもあった。但し、一つの郡だけが南方に飛び地にある牡鹿郡である。 牡鹿郡は、北上川河口の湊(港)があり、以前より京都方面や愛知県の常滑とこなめなどから運ばれてきた文物を牡鹿の湊を経由して北上川を遡上して平泉に運んだ重要な交通要所であった。 牡鹿の湊の近くには、愛知県の渥美よりわざわざ職人を移住させ、石巻近郊の水沼に住まわせた。大きなツボやカメを造らせ、北上川をへて平泉まで運んだことがわかるものが、平泉の柳の御所跡から 発掘された。
葛西家中世郡配置図 葛西・大崎家臣団拠点図
中世郡配置図 葛西・大崎家臣団拠点像
葛西の領地がどの様に変遷したかは、平泉を中心とした「五郡二保」の時代からしだいに周辺領域に勢力を伸ばし、宮城県北部の登米郡や本吉郡、桃生郡を傘下に治めていった経緯がある。 登米郡、本吉郡、桃生郡には、鎌倉御家人の地頭が領していたが、鎌倉後半から南北朝期に移るにしたがい葛西氏傘下に組み入れられた。葛西氏は、平泉中心というよりも北上川流域 を中心とした大名として勢力を拡大していった。それにより、北上川流域の八郡の中心である登米に平泉から拠点を移すことになる。




奥州葛西一族について
 <<葛西一族の系図について>>>

葛西清重かさいきよしげは、関東平氏の一系で、豊島常清とよしまつねきよと母(武蔵七党の総本家秩父重弘の娘)との二男として生まれ、成人後、千葉常胤ちばつねたねの弟葛西重高かさいしげたかの養子となった。清重の活躍は、平家討伐の際、源範頼みなもとののりよりに従い中国地方を参戦し恩賞を受けた程で、 剛直で一本気な性格の為、頼朝にも深く信頼を得た。(清重は、死ぬまで頼朝の護衛にあたったという。)さらに、奥州合戦の折には、阿津賀志山あつかしやまの戦いで、畠山重忠はたけやましげただと先陣争いをし、夜間敵陣を迂回し、背後から攻め込み勝ち戦の一翼を担った。又、平泉突入には、一番槍をとり、藤原氏の宝庫を押さえ、宝物を頼朝に献じた程の華々しい戦いぶりを示した。当時、若干30歳にて、並みいる武将に引けを劣らぬ活躍をしたと言われている。
奥州合戦のおり、養父の縁の地、平泉で戦功を挙げ、奥州武将の頂点に立つ留守職に抜擢されるほどになった。この抜擢は、頼朝の堅実性のある人事でもあったと言われている。養父重高は保元二年の頃、陸奥権守むつごんおかみとして多賀城に出向、叔父尚清なおきよも「平泉二郎ひらいずみじろう」と呼ばれる人物で、奥州、特に平泉には詳しい者であったと伝えられており、恐らくは、清重自身も以前に平泉を往来した可能性も考えられ、案外知られた土地であったと推定される。現在、岩沼神社に奉納されている鏡が残されている、これは、千葉常胤と共に葛西秀全かさいぜんしゅう(重高と思われる)が、奥州征伐以前に在庁官人として葛西一族が多賀城に来ていた証である。
奥州合戦を機に、千葉介常胤の権勢を背景に、葛西一族は将軍護衛の親衛隊として繁栄することになり、清重は奥州総奉行(留守職)として平泉に留まり、御家人を統括し、寺社の祭祀を司りながら、奥州にその名を留めることになり、奥州での葛西家の栄光の礎を確立した。
奥州征伐を完遂した後、頼朝は奥州全域を幕府として、思うがままに管轄することは難しい状況で、平泉藤原時代の秀衡ひでひら陸奥守むつのかみとして多賀城国府の在庁官人や国衛領こくがりょうも管轄していた為に、奥六郡以外に国政の一環である公田の掌握、年貢の収納、民政の仕事も しなければならなかった。それゆえに、多賀国府の存在を認めざるを得なかった為、軍事・領地争い・裁判を受持つ検非違使けびいしとしての留守職と多賀国府の行う行政を受持つ留守職を定めざる得なかった。
等、葛西氏には諸説飛び交うところがあり、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は滅亡したため、葛西氏史料、系図等の確かなものは存在しない。但し、葛西氏の系図として代表的ものとして、葛西氏滅亡後仙台の伊達家に仕えた葛西氏の末裔のもと、盛岡の南部家に仕えた葛西氏の家に 伝わるものとして「仙台葛西系図」「盛岡葛西系図」がある。この二つは、江戸時代に藩主の求めに応じて、「吾妻鑑」等の記録を調べて作ったもので、当時のものではなく、学者によって見解がまちまちである。
そうした中、葛西氏系図を調べるのに頼りになる史料がある。「中尊寺文書ちゅうそんじもんじょ」と千葉県の香取神社かとりじんじゃに、残されている当時の史料がある。香取神社は下総国の大きな「一の宮」であり、下総の有力な御家人が修理や建て替えを交代で受け持ちしている史料が残されている。その史料には、有力御家人 葛西氏と千葉氏が携わった文書が残されている。又、和歌山県熊野-紀州熊野は当時よりたくさんの人々がお詣りする、いわゆる日本版メッカ的役割をしたところで(熊野信仰)、「熊野」には葛西氏が何度も巡礼に来たことが記された「米良文書めらもんじょ」がある。
葛西氏の系図の中ではずば抜けて古く、一番信用できる当時の史料である。(熊野の社家の一つで実報院に残されている。)その史料からみて、初代三郎清重さぶろうきよしげ、二代清親きよちか、三代清経きよつね、四代宗清むねきよ、五代清貞きよさだが歴代とみえる。葛西氏の嫡流は、必ず「三郎」を称しているところから代々の流れが掴むことが できる。




奥州葛西一族について
 <<奥州葛西領地に千葉氏領地が何故存在するか>>

下記の系図とは相違あるが、初代~五代までの惣領が明らかである。
葛西系図A(盛岡系図含) 仙台葛西系図 五大院葛西家系図(抄録)
葛西系図A(盛岡系図含) 仙台葛西系図 五大院葛西家系図
葛西系図私案
私見葛西系図




奥州葛西一族について
 <<奥州葛西領地に千葉氏領地が何故存在するか>>

葛西氏と千葉氏は、下総国しもうさのくにきっての有力御家人で、鎌倉時代を通して下総国に本拠地を構えて、鎌倉を往来していた。従って、両氏のどちらかが奥州に移住したとは考え難いし、 下総国で肩を並べる御家人どうし、当然にお互いの縁組もなされているわけで、密切な親戚関係であったことは間違いがない。非常に重要な要素である。
従って、どちらかの家が家来になることは考えられないことで、ましてや葛西氏に惣領の千葉頼胤ちばよりたねが養子になって入ることなどありえない事である。御家人どうし勢力を堅持していた。
当時の史料として「造六条八幡新宮用途支配事」(建治元年五月)1275年があり、その内容からも当時の両氏の事が窺い知ることができる。
推測の域ではあるが、葛西氏と千葉氏との密接な付き合いから、葛西氏の娘が千葉氏のもとに嫁入りすることが考えられ、嫁入りの際に胆沢郡のうち一部とか、東山地域、興田保おきたほとかの一部を分けてもらったことが考えられる。 そうなると、やがて子供の代になると千葉氏の領地となってしまうが、しかし、五郡二保の全体の代表権は依然として葛西氏惣領かさいそうりょうが持っていた。時が経つに従い、嫁入りして持参したところが、郡の一部の村の権利が千葉氏ものに なったものと考えられる。直接的な経過を示した資料もない。しかしながら、千葉氏の系図を見てみると、頼胤の父時胤ときたねの妻が、葛西左衛門尉かさいさえものじょうつまり葛西清親かさいきよちかの娘であることがわかる系図がある。 その娘が東山地域を含めた領地を持参し時胤に嫁いだとすると、その子が千葉頼胤であり、千葉氏の本領を持ちながら、母親からの遺産を引き継ぐようになり、代官を派遣し独自に支配するよになったと考えられる。
千葉氏が奥州に拠点を持ったことにより、南北朝期~室町期に千葉氏が住み着いて、やがては葛西氏全体の家臣団の一部になるような経過があったと考えられる。
このような推測を証明出来うる間接的史料が存在する。鎌倉時代1316年(正和五年)と1285年(弘安八年)の年号の書がある。「秋田藩家蔵文書」があり弘安八年に書か正和五年に注釈が加えられた文書である。
それによると、秋田の大名家に残っている文書で、茂木もぎという御家人がもともと下野国しもつけのくにの御家人であったが、伯耆四郎左衛門入道ほうきしろうさえもんにゅうどう葛西光清かさいみつきよ)の娘が茂木氏に嫁いだ時、父親から所領(磐井郡内千厩せんまやの一部を譲り受けて茂木氏に嫁入りした。その後、 生まれた子家の知氏に譲られたと言う史料が残されている。
このようなことから、千葉頼胤が最初に奥州の地にやって来たことや、唐梅城からうめじょうに入ったと言う仮設は疑問を呈し、逆に、葛西氏出身の母から土地の権利をもらい、頼胤自身がこの土地に来たのではなく、頼胤は鎌倉時代の下総国の有力御家人でもあり、 動きが取れず、家臣であったものが、この東山の地域を代官として支配し、のちに頼胤の子孫が下向してきて葛西氏の家臣団に加わったとみて良いと思う。
備考)葛西氏の家臣団について、葛西氏の惣領家は鎌倉にずっといたわけで、家臣を派遣し奥州所領の管理を委ねていたと考えたほうが良い。鎌倉時代の「中尊寺文書」には、葛西氏代官として青戸あおと二江にこう末永すえながという人物が出てくる。 青戸あおとと二江は本領の下総国葛飾郡しもうさのくにかつしかぐんに、今なお地名として残っており、末永というのは丸子の庄、つまり多摩川べりのところに末永と言う地名がある。葛西氏家臣が、江戸湾沿いの葛飾郡、多摩川沿いの丸子の庄で葛西氏に取り立てられた人達が 、奥州の地に派遣されて、葛西氏の五郡二保を分割し代官として治め、奥州に居着いて葛西氏家臣団の一員になったと考えられる。さらに、葛西氏が五郡二保を越えて勢力を伸ばし、葛西氏と勢力が近い鎌倉御家人であった本吉郡の熊谷氏くまがいし、桃生郡の山内首藤氏やまうちすどうし、登米郡の小野寺氏おのでらしといった人たちも家来になった。




奥州葛西一族について
 <<葛西一族の系図について>>>

○1189年(文治五年)九月ニ十ニ日に、清重に「陸奥国御家人事むつこくごけじんじ」を奉行すべしと命じられ、陸奥国内の人事の掌握をすることになる。又、平泉郡検非違使所けびいししょの長官としても任じられた。(注;平泉検非違使とは、藤原氏管轄下の庶民の相争いを裁いたり、事件処理をする役割で、いわゆる、占領下の司令長官のようなもので軍事・裁判の取り扱い や御家人と幕府間の取り次ぎを行う仕事である。)
○1190年(文治六年)二月十五日に、伊澤左内将監家景いさわさないしょうげんいえかげが、陸奥国留守職むつこくるすしょくに任じられ、多賀国府に赴き、陸奥国内の行政の任にあたった。平泉の葛西と多賀国府の伊澤氏の二人が連携し奥州を統括することになる。
金色堂こんじきどう 無量光院跡むりょうこういんあと 中尊寺ちゅうそんじ
金色堂 無量光院跡 中尊寺
さらに、奥州の郡・荘(荘園)・保のすべてを頼朝の手に没収され、その地域の地頭職を従軍した御家人に分与し、これまでの郡司・荘司・保司は追放され、関東御家人の勢力が入り込む形となった。主な分与地は、桃生郡ものうぐん山内首藤やまうちすどう氏に、登米郡とめぐん小野寺おのでら(新田)氏に、深谷保ふかやほ(矢本・鳴瀬・河南三町)を長江ながえ氏に分与、新たな地頭となり、この地域の行政・産業・開発に遂行させた。
○1189年(文治五年)九月二十四日に、葛西清重には、胆沢・磐井・牡鹿郡が拝領された。磐井郡は都市平泉の在所で、北に隣接する胆沢郡は古来胆沢城の鎮守府があった所 であり、奥六郡の最有力地であり、平泉藤原氏政権時代の膝元を構成する重要な位置であった。又、都市平泉は柳之御所やなぎのごしょ以外には、町並みは無傷に残され、中尊寺・毛越寺もうつうじの寺院も無傷で残された。葛西氏にとって、大きな権益を得ることになっていった。(藤原時代の柳之御所は、平泉館とも称し、泰衡逃亡の際焼失)
平泉は、「平泉保ひらいずみほ」として特別な行政区画に編成され、鎌倉の支配することになり、奥州政治の中心地となった。葛西清重の屋敷も、中尊寺の南、高館山の西に位置した所と伝えられ、秀衡・泰衡の居館、柳之御所(平泉館)より距離を隔てたところに建てられた言われている。
封内風土記ほうないふどき」によると、「葛西宅地遺址かさいたくちいし」として「中尊寺南、高館西」と明瞭に記されている。又、「葛西氏考雑記」(内閣文庫)によると、
「昔ノ葛西殿ハ平泉葛西屋敷ニ住居シテ、国大名ト成ス、其ノチ登米郡寺池城ニ居住アリト、石巻城ハ出張リノ城ト云(清宗殿石巻鹿島山ヲ出張之城ニ築キタマ得ル由)、今ハ日和山トモ云成り」と記されている。清重の後、「封内風土記」には「平泉には三代にわたり居館を構えた」と記されているが、他の文献等には、七代にわたり平泉に 居住したとある。すなわち、奥州政治の中心が平泉で、その地位は変動せず、葛西氏の居住も変動しなかったと推定される。




奥州葛西一族について
 <<鎌倉幕府草創期の陸奥国情勢Ⅱ>>

柳之御所跡 無量光院跡 日和山城~北上川を望む
柳之御所跡 日和山城~北上川を望む 日和山城~北上川を望む
○1189年(文治五年)九月末に、源頼朝は平泉を離れ、鎌倉に向かった。清重は奥州惣奉行として、平泉に留まり、「奥州所務」の遂行として、奥州征伐後の戦災復興という 大事業を手がけること成った。頼朝からも、遂行に当っての指示が下記の如くに命じられた。
○1189年(文治五年)十一月八日に、頼朝より
第一に、今年は不熟(不作)であったうえ、大軍の駐留で、人びとの暮らしは最悪の状態に追い込まれていたので、それを救うべしとの命令であった。
その為には、磐井・胆沢・柄差(江刺)の三郡については、秋田の山北諸郡(雄勝・平鹿・山本)から農料(食糧・作物)を取り寄せ、同じく和賀・部貫(稗貫)の二郡については、秋田郡から種子等を取り寄せることを申し渡された。 雪の山越えは難しいので、来春三月を持って実行に移すべきこと、その旨を土民(住民)に予め周知徹底させることの注意事項まで付け加えられた。この様に、清重には民生安定という事業が課せられ、清重自身の双肩に懸けられた。
第二に、佐竹義政さたけよしまさの息子、藤原秀衡ふじわらひでひらの息子など行方をくらましている敵方の残党の捜索である。路々の宿を守り遂行すること。
第三に、清重の働きによって陸奥国中静定の状態に達成されること、これからも帰国の思いにとらわれることなく、現地に踏みとどまり、国中を警護すべしとのことであった。
○1189年(文治五年)暮れに、平泉方の残党、大河兼任の乱おおかわかねとのらんが羽州秋田で起こり、清重も鎮圧の役割をはたすこともあり、戦局の詳細を頼朝に言上する為に鎌倉に入った。兼任の乱は多賀城国府の「新留守役・本留守役」二人が与力したことがわかり、鎌倉より責任追及され、二人は葛西清重かさいきよしげ預かりとなり、鎧ニ百両の過料が課せられた。
○1190年(文治六年)二月十五日に、伊澤左近将監家景いさわさこんしょうげんいえかげが陸奥国留守職に任命され、多賀国府に赴き、陸奥国内の民事行政の任にあたることになった。
したがって、平泉の葛西と多賀国府の伊澤の二人が連携し、奥州の統括にあたった。
○1190年(建久元年)十一月ニ十四日には、源頼朝みなもとのよりとも上洛し、右近衛大将うこんえたしように任命され、武家政権の首長に相応しい処遇を得た。
○1190年(建久元年)十ニ月十一日には、主要御家人十人が、左右兵衛尉さゆうひょうえのじょう左右衛門尉さゆううえものじょうに任命された。 主要御家人として、千葉常秀ちばつねひで常胤つねたねの嫡系)、梶原景茂かじわらかげしげ景時かげときの息子)、八田朝重はったともしげ三浦義村みうらよしむら義澄よしずみの息子)、葛西清重かさいきよしげ右兵衛尉うひょうえのじょう)、和田義員わだよしかず三浦義連みうらよしつら足立遠元あだちとうもと小山朝政おやまともまさ比企能員ひきよしかず
○1194年(建久五年)十月ニ十ニ日には、葛西清重が「白大鷹一羽」を頼朝に献上した。鷹は奥州の名産として名高いもので、この献上を持って、奥州における清重の立場が名実共に成った。
○1195年(建久六年)には、鎌倉幕府草創期での権力者交替が奥州に下向する武士絡に混乱がおこり、庶民生活も不安定で秩序も荒廃、人心が乱れ夜討ち・強盗が頻発、博徒等も流行するあり様、 たびたび、幕府から禁令が出されたりした。さらに、飢饉等により、浮浪人が増え、救援して里に戻しても、農耕が順調にいかず、奥州征伐以後も奥州は決して平穏ではなく、現地人の抵抗も激しかった。
○1195年(建久六年)九月三日には、頼朝より、陸奥国平泉寺塔の修理を加えることを、葛西清重、伊澤家景の両人に命じられた。九月二十九日には、「故秀衡入道後家」として保護を加えることも、両人に命じられた。




奥州葛西一族について
 <<鎌倉幕府草創期の陸奥国情勢Ⅲ>>

○1199年(正治元年)正月には、源頼朝みなもとのよりともが急逝。嫡子頼家よりいえが家督を継いで将軍職となったが、独裁制が強く、御家人からは不満が鬱積、僅か3ヶ月で訴訟の裁決権を奪われ、幕府の宿老13名の合議制がしかれた。この事態においても、清重の立場は変わらなかった。
その後、葛西時清かさいとききよ清親きよちか清時きよとき清経きよつねらは、鎌倉幕府の重鎮として、鎌倉の中心地に居住し、鎌倉や京都の警護番役ついていたが、時折、所領管理の為奥州を往来することも多かった。 しかし、幕府内では、権謀渦巻く状況が続き、草創期の功臣たちが、誅殺され、鎌倉三代将軍実朝さねとも公暁くぎょう(頼家の嫡子)に暗殺される事態がおきた。
○1200年(正治ニ年)には、勧農推進に荒野開発奨励をして、「名田」として褒美に免税したり、勧農を進め、さらには、浮浪人の吸収を実施した為、旧住民との紛争が起こり、裁判に持ち込むことが頻繁に発生した為、源頼朝が「泰衡の先例にまかせよ」と指示し、地頭達の暴走を制した。
○1200年(正治二年)には、頼朝の死後、梶原景時かじわらかげときが、間もなく讒元ざんげんの罪で和田義盛わだよしもり等の御家人66名から弾劾され誅された。
○1203年(建仁三年)には、比企能員ひきよしかずも頼朝の乳母比企の尼の養子として、頼朝の側近となり、権勢を奮ったが、梶原同様、頼朝死後に忌避きひ(ある人物や事柄を存在してほしくないとして避けること) され討伐された。
○1203年(建仁三年)には、三代将軍として源実朝みなとものさねともが就任した。
○1205年(元久二年)には、畠山重忠はたけやましげただが清廉な武人として誇り高く職務を遂行していたが、北条義時ほうじょうやすときにうとまれ、父時政ときまさの内妻牧の方の平賀朝雅ひらが ともまさと組んで、幕府転覆を図ったと濡れ衣を着せられ追討差された。この時、追討に、親族であり盟友の葛西清重かさいきよしげや安達景盛あだちかげもりが先陣の大将となった。
○1217年には、北条泰時が陸奥守になり奥州の大半を管轄することになる。
○1219年(承久元年)には、将軍実朝が鶴ヶ岡八幡宮にて、公暁(頼家の嫡子)に暗殺された。翌日、北条政子ほうじょうまさこ及び主な御家人100人余りが出家した。(もちろん、葛西清重も出家し「壱岐入道いきにゅうどう」となった。)
○1221年(承久三年)五月十四日には、後鳥羽上皇ごとばじょうこうが討幕の兵を集め、北条義時「追討の宣旨ついとうのせんじ」を発する。
発端は、源氏の血筋が根絶える事態を、北条義時が後鳥羽上皇に相談したことで、朝廷へ政権を取り戻そうとして機を狙っていた上皇が、北条義時を偽り、侮辱したことが承久の乱のきっかけである。 尼将将軍(北条政子)は、朝廷に叛くことに躊躇している御家人を叱咤激励し、19万騎の将兵を集め、京都に攻め上った。「壱岐入道」(葛西清重が出家した為)は、高齢でもあり、上洛軍に加わらず、「宿老」の一人として鎌倉の留守を守った。
<上洛軍経路>
上洛軍経路




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 <<鎌倉幕府執権政治下の陸奥国情勢Ⅰ>>

北条泰時が陸奥守になり、奥州の大半を管轄することになった。これ以後、陸奥守むつのかみ得宗家とくそうけが代々就任することになる。
支配地域の権限は北条氏個人に属することから、幕府の管轄が及ばない為、得宗家が采配することになり、収益は得宗家に入ることになった。得宗家では、広範囲の自領を管理することになり、幕府と同じように事務方を各自領に配置し 、統括役として執事しつじが設けられた。執事の命令で、地方に出向き代行する武士として御内人みうちびとが、郡奉行の置かれた所に、北条家の政所も置かれた。特に、得宗家の支配地域は奥州が多く、多くの御内人 が派遣された為、現地の地頭や国人達は、新たな代官の御内人の指揮下に入ることなった。
実際、津軽の安東あんどう氏が、北条陸奥守の命により蝦夷管領えぞかんれいに任じられたと云われている。もともと古くから安東氏の職務であったものを新たに管領に任じたられたことは、御内人待遇に成った事になる。南部家も同様に命じられたと云われており、 恐らくは、葛西氏も同様に御内人の資格を得た与えられたものと推測される。
○1221年(承久三年)七月には、後鳥羽法ごとばほうおう、他三上皇を島流しにし、関係する武士を斬罪に処した。幕府の権力の及ぶところは、東国がおもで、西国は後白河法皇ごしらかわほうおうにおいて采配されていたといっても過言ではなかった。
承久の乱以後、西国に欠所地ができ、幕府関連の御家人が、守護・地頭に任じられ、全国に幕府関連の武士たちが領地を展開し繁栄していった。(西国の有力武将毛利もうり氏、島津しまず氏は元を正せば、関東御家人の子孫でもある。)
奥州もその影響があり、清親、清時の頃には北条得宗家が、代々陸奥守となり、留守職は形式的となった。伊澤いさわ家だけが、奥州の取次役とりつぎやくとなり、葛西氏の役割は消失、幕府内の権力抗争の中で、葛西氏の主導権もなくなってしまった。葛西清経かさいこよつね清信きよのぶ)の頃から、1230年~76年前後に千葉介の流れの武士が下向し近辺に定着した模様である。
注)葛西清重拝領地は、五郡ニ保で、伊沢(胆沢)・岩井(磐井)・牡鹿・江刺・気仙の南部の五郡と興田・黄海きのみのニ保であり、鎌倉期には、登米郡・桃生郡・本吉郡・高鞍郡は含まれず、別地頭が任命されていた。
その後、建武の親政から南北朝時代を経て、葛西氏が隆盛の時代となる。
承久の乱によって指導力を発揮した北条氏は、源氏を抹殺しても将軍の座に就くわけにゆかず、皇室より皇子を迎えて将軍に立て、源実朝の死後、摂関家せっかんけ左大臣道家さだいじんみちいえの子頼経よりつねを将軍に迎え、自ら将軍の執権として実権を握っていった。その後、幕府草創期の功臣を粛正し権力を一手に掌握した。
鎌倉期は、世代が替わるにつれ均等分与の財産相続を続けていた為、細分化しすぎ本家が弱体化し、支流が強くなり争いが生じるようになった。北条家も同様で、解決策として、惣領が一括相続し、庶子一族は家臣並みとする得宗制を実施した。得宗制は、他武将も同様に北条家を見習っていった。もちろん、執権職には得宗(北条氏)が就くことになる。北条一族は日本全国の豊かな国を守護を占有することになり、得宗家も同様に占有することとなる。
○1223年(貞応二年)九月十四日に、清重は渋江に隠居して74歳で死去したとあるが、別伝では、1237年十二月五日に80歳で没したと伝わっている。
○1239年(暦仁ニ年)には、陸奥国の人民に対して、布の代わりに銭貨を以て貢納することを禁止した。白河関より北での銭貨の停止する奇妙な命令を発した。これは、貨幣経済が奥羽地域に浸透することにより、物価変動が起こることや、現物貢納で権益を得ていたものが無くなることの懸念 に発令された。(白河以北の人民への蔑視と搾取する政策であることがわかる。)




奥州葛西一族について
 <<鎌倉幕府執権政治下の陸奥国情勢Ⅱ>>

○1266年(文永三年)には、元のフビライが、日本に朝貢を促す使者を送ってきたが、時の執権北条時宗ほうじょうときむねは朝廷の意向を受けず、一方的に握りつぶす。その後、度々元より使者が送られてきている。又、この頃は、朝廷内で皇位継承をめぐり、持明院統じみょういんとう大覚寺統だいくじとうが対立しており、朝廷も外交問題を 詮議する余裕もなかった様である。後嵯峨法皇さがてんのうが没し、広大な荘園の相続をめぐっての争いであった為である。幕府執権北条時宗が「両統迭立りょうとうていりつ」(交替で皇位継承)を妥協策で両統の対立を収拾させた。
○1274年(文永十一年)文永の役、元が十月に九百隻の船と三万数千の兵士を乗せ、九州に侵攻、十月二十日には、博多湾に上陸したが、一夜にして台風により船団が壊滅的打撃を受け、元軍が総退却をした。 その後、幕府は元軍の再侵攻に対して九州沿岸の防備を進めた。
○1281年(弘安四年)六月には、元軍が再侵攻、元の洪茶丘が大将とする高麗軍四万人と九百隻の舟、範文虎はん ぶんこを大将とする江南軍(宗国)十万人と三千五百隻の舟で侵攻、六月六日合戦開始、七月三日には元軍大挙上陸し優勢に進軍したが、七月三十日晩に又もや大風が襲来し、舟の多くは大破し、海の藻屑に消え、元軍はまたもや敗退する結果となった。
○1285年(弘安八年)十一月には、14歳で北条貞時ほうじょうさだときが執権に就き、後見役に安達泰盛あだちやすもりが就任、安達氏が権勢を手中に治めていった事や元寇の恩賞の欠所地探しの為(外国の元との戦いの為、恩賞とす領地が発生しなかった。)に、時の執権の乳母の夫管領平頼網たいらもよりつなが先手を打って安達一族を排して誅した。(安達家は代々秋田介城の家柄で、羽州における権勢は大きかった。)この乱においても、討伐軍が編成され、葛西氏も三代太守清時きよときが、泰盛の弟秋田城介長景あきたじょうすけながかげを討ったと云われている。
○1285年(弘安八年)には、中尊寺関係寺社において、葛西氏が寺領の村野を耕し、土民を駆使し、銭貨を徴収する等の勝手な振る舞いを行っている訴状が寺社から出ている。「宗清成煩之間孫上訴云々・・」と訴状が残されている。
○1288年(正応元年)には、葛西中尊寺争いの裁断が下ったものがある。七月九日付けで、葛西三郎左衛門尉宗清かさいさぶろうさえもんのじょうむねきよ伊豆太郎左衛門尉時員いずたろうさえもののじょうときかず彦三郎親時ひこさぶろうちかときに対する関東裁許状がある。中尊寺葛西の争論の証となるもので、代々中尊寺に関わってきていることが分かる。
○1301年(正安三年)には、北条貞時ほうじょうさだときが執権を師時もろときに譲った。この時期、1302~1303年頃、鎌倉は、大火災に遭ったり、鎌倉・京都に大地震が起こったりしていた。この様な災難が続く中、連署の北条時村ほうじょうときむらが、突如襲撃殺されてしまう。これは、内管領北条宗方ほうじょうむんねかた(得宗家の執事)が、執権職を師時に譲られた事を不満に持ち、誤って時村が殺されてしまったことにある。師時は、すぐにそれを察し、宇都宮貞綱うつのみやさだつなに命じて、北条宗方を誅させた。しかしながら、この事件は、関東・東北の武将が二派にわかれて関わっており、千葉介をはじめとして葛西四代太守清経きよつねも宗方側についた為、その罪で領地没収、奥州に下向していた清信きよのぶに預けられた。清信は、第三代太守清時きよときに子供がなかった為に、1276年本家筋の千葉頼胤ちばよりたねの二男胤信たねのぶを養子に迎え入れ、元服後胤信を清信改め、1276年8月に、千葉介から奥州の所領を分与され、千葉飛騨守平胤常ちばひだのかみたねつね亀掛川右馬助平胤かけがわうまのすけひらたね氏、臼井三郎右衛門平常俊うすいさぶろううえもんたいらのつねとし等の有力武将が後見となり数百騎の軍勢に守られ石巻に赴いた。(千葉頼胤ちばよりたねの妻は、北条駿河守ほうじょうするがのかみの娘である。北条家とは姻戚関係)
この時点で、葛西の奥州の地が北条氏の息のかかった御内人清信に実権が移ったと考えてよいと思われる。清時が罰せられ、葛西氏としては、北条家に縁のある清信を入嗣させていたことが窮地を救う形となった。
注)石巻の千葉一族は、始祖を千葉頼胤としている。奥州葛西系列とは別で、関東葛西系に属すると考えられる。

北条貞時以降、北条得宗家の専制政治が、御家人の発言を封じ、内管領の平頼綱たいらのよりつな長崎円喜ながさきえんきらの専横を生み、幕府の権威は失墜し各地に内乱が起こり、幕府の統制が崩れてしまった。京都周辺には、悪党と言われる集団が横行し、領主らには”悪党”と言われ、嫌がれた。
注)悪党とは、農民等の集団、寺僧等の集団、在地武士(下司)等の集団で従来の秩序に従わない集団を領主側が呼んでいた名称である。




奥州葛西一族について
 <<鎌倉幕府滅亡時の陸奥国情勢Ⅰ>>

○1321年(元亨元年)には、後宇多川法皇ごうたがわてんのうが院政から退き、実質的に後醍醐天皇ごだいごてんのうの親政が始まった。
○1324年(元亨四年)九月には、「正中の変せいちゅうのへん」が起こり、幕府討伐の計画が洩れ、多治見たじみ土岐とき氏が殺され、天皇の関わりが無いことが弁明され、主謀者として、幕府は日野資朝ひのすけともを佐渡に流す結果に終わった。
○1331年(元弘元年)には、後醍醐天皇が笠置寺かさぎじに入り挙兵したが、北条高時ほうじょうたかときによって、10月に光厳天皇こうげんてんのうを擁立し、帝位を譲らされてしまった。(「両統迭立」の時期 10年交替を、高時が利用した。)
○1332年(元弘ニ年)三月には、後醍醐廃帝は、隠岐の島に流されてしまった。その後、皇子護良親王もりよししんのうが挙兵し、密かに、全国に討伐の挙兵を発した。呼応して、楠木正成くすのきまさしげ千早城ちはやじょうにて狼煙を挙げた。
幕府は関東や奥州南部の武将を中心に二十数万の討伐軍を送ったが、足利高氏あしかがたかうじ等が宮方に味方する様に情勢が変わり始めた。
○1333年(元弘三年)には、播磨の赤松則天あかまつのりむらが挙兵し、後醍醐天皇は隠岐の島を脱出し、名和長年なわながとし伯奢ほうきの国の舟上山で迎え得を受けた。その頃、足利高氏は六波羅探題を陥れ、新田義貞も挙兵し鎌倉を攻めた。
○1333年(元弘三年)五月二十二日には、北条高時ほうじょうたかとき(三十一歳)等を追い詰め、一族郎党数百名と共に自害し鎌倉幕府が滅亡した。
○1333年(元弘三年)には、後醍醐天皇は京都に戻られ、護良親王を征夷大将軍に任じ、足利高氏を鎮守府将軍に任じて、記録所、雑訴決断所、窪所くぼどころ、武者所を置いた。
○1334年(建武元年)に、建武の中興となる。後醍醐天皇は、北畠親房きたばたけちかふさの進言により、奥州を制する為に多賀国府を再開することになり、北畠顕家きたばたけあきいえ(弱冠十六歳)を陸奥守に任じられ、後見役に北畠親房が就いた。
これに対して、足利高氏は対抗して、天皇に圧力をかけ、七月に武蔵守上総介むさしのかみかずさのすけを得て、八月には、天皇より一字賜り「尊氏」と名乗らせ、恩賞のバランスを整えた。
○1334年(建武元年)十月二十日には、北畠顕家は、北畠親房と義良親王よしのりしんのう(当時六歳、のちの後村上天皇ごむらかみてんのう)を奉じて、奥州に下り多賀城に向かう。多賀国府を再開し、奥州を掌握、武蔵守の尊氏を北方から牽制する目的 も加えられた。




奥州葛西一族について
 <<建武の中興と陸奥国情勢Ⅰ>

○1334年(建武元年)十月三十日には、葉室光顕はむろ みつあきらが出羽国(現在の秋田県、山形県)の出羽守・秋田城介を任じられた。これは、陸奥国府の権限外となったが、1336年5月に葉室氏は誅され、以後補充されず、結果的には多賀国府が統括することに なったと推測される。
○1334年(建武元年)十一月二十ニ日には、足利尊氏あしかがたかうじは、奥州に対して対抗措置として、弟の直義ただよし相模守さがみのかみに要請し、成良親王なりよししんのうを奉じて鎌倉に下向し、関東十ヶ国を管轄 した。
後醍後天皇は、律令制度復活を目指し、奥州も義良親王のりよしを多賀国府に下向させたつもりが、顕家の後見役の親房は、藤原平泉王国を夢見みたか、奥州の地に鎌倉幕府の様に、引付・政所・侍所・式評定衆・寺社奉行・安堵奉行を設け、小型幕府を奥州で作りあげてしまった。 役職に関しても、北条執権時代の官僚でもあったニ階堂一族や現地氏族で「元弘の変」に関わった結城白河の結城宗広ゆうきむねひろ信夫伊達しのぶだて伊達行朝だてゆきとも亘理武石わたりたけいし武石胤顕たけいしたねあきの少数であった。しかしながら、陸奥国の武将達は天皇の直系が奥州に進出したこともあり、 北条得宗家支配に甘んじてきた武士達は、所領安堵の為、続々と多賀城国府に参内した。多賀城国府に入った旧幕府官僚層は奥州もれなく配置され、又、北条得宗家の南部氏・工藤氏も義良親王の配下となった。それにより、国府は地侍に知行安堵の申請書を出させ、奉行・検断の両職を安堵し、従属させ支配構造を固めた。 さらに、末端の村落領主も、郡単位にまとめた郡奉行所を配置し、小領主の自主化を満足させながら国府全体を掌握した。
○1334~5年(建武元年~二年)かけて、天皇(帝)と足利尊氏等の武家方と宮方との折り合いあいがつかず、不穏な動きが続いていた。そんな中、護良親王の足利討伐計画が発覚し、天皇はやむなく、鎌倉の足利直義あしかがただよしにお預けの命を だす。さらに、西園寺公宗が陰謀の罪で捕えられてしまった。
○1335年(建武二年)七月十日には、中先代の乱なかせんだいのらんがおこり、信濃の国から北条高時ほうじょうたかときの子時行ときゆきが、鎌倉に向け進撃、足利直義が迎え撃ったが敗退し、七月二十五日に鎌倉に入城した。 そのさなか、足利直義あしかがただよしは、お預けになっていた護良親王を殺してしまう。直義は、足利義詮あしかがよしあきら千寿丸せんじゅまる四歳)を擁して三河国に逃れ、足利尊氏の到着を待った。この時、尊氏は八月二日に、天皇の承認得ず出陣し、八月十九日に鎌倉に入り、北条時行ほうじょうときゆきを追討した。 尊氏の出陣は、事後承認とされ許された。
○1335年(建武二年)十月十五日には、足利尊氏が鎌倉に将軍邸を構え、天皇に帰京を促されても応じず鎌倉に滞在した。また、尊氏が新田義貞にったよしさだを討つ為に諸国の武士を集めている噂を、後醍醐天皇が知り、逆に、十一月十九日に、新田義貞に 足利尊氏追討を命じた。さらには、奥州北畠顕家に尊氏を背後から攻めされる為に奥州軍編成して追討を命じた。
○1335年(建武二年)十ニ月十一日には、足利尊氏と新田義直が箱根竹下で戦う(箱根竹下の戦い)、尊氏軍が勝利し新田義貞軍を追討の為、一月十一日に京都に入城する。一方、顕家の奥州軍は、十二月二十二日に多賀城府を出陣し、鎌倉を攻め 、鎌倉留守役の斯波家長しばいえながは、さほど抵抗せずに打ち負け、顕家軍は京都に向かい、一月十三日に近江国に到着した。尊氏入京に遅れこと二日の急追であった。
注)尊氏・直義は上洛軍を編成し、京都に向かったが、鎌倉の留守を守ったのが斯波家長であった。顕家軍の第一次奥州軍の西上にあたって抵抗せず退いた。そもそも、斯波氏とは、宗家代々に下総国大崎荘(香取郡香西村)を領し、斯波家氏しばいえうじの代に 奥州斯波郡(岩手県紫波郡)を領した為に、斯波と名乗るようになり、又、奥州にて大崎氏と名乗るも、本来の地大崎荘によるものと推測される。
この合戦で、葛西江判官三郎左衛門尉かさいこうはんがんさぶろうさえもんのじょうが、新田義貞の身代わりで戦死したということが、「梅松論ばいしょうろん」にて伝えられている。しかし、この人物が奥州葛西一族とは考え難く、「梅松論」が正しいとすれば、葛西判官は別人物と思われる。
○1336年(建武三年)一月ニ十七日には、足利尊氏は丹波に敗退し、摂津(室泊)に追われ、海路九州に向かった。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅰ>>

○1336年(建武三年)一月三十日には、後醍醐天皇ごだいごてんのうは京に戻り、顕家軍をねぎらい、鎮守府将軍と中納言に任じ論功を称えた。
この頃、関東・奥州では、宮方と足利方、北条方が入り乱れて、局地的な合戦が始まっており、1335年(建武ニ年)に、斯波家長しばいえながは、相馬氏と手を組み、磐城国から宮方勢を追い払ったり、1336年(延元元年)三月には、斯波兼頼しばかねよりが、氏家・相馬氏と共に、東海道の小高城(福島県相馬郡小高町) を制したりしていた。
○1336年(建武三年)三月二日には、足利尊氏あしかがたかうじは、博多に着陣し鎮西奉行菊池氏ちんぜいぶぎょうきくちしを攻め、一か月余りで、九州の宮方勢を制圧してしまい、4月3日には、光厳天皇こうげんてんのう院宣いんぜんを頂き、4月8日には、博多を出発し京を目指した。
○1336年(建武三年)三月十日には、北畠顕家きたばたけあきいえは、京都に留まる余裕もなく帰路の途につくが、4月には「鎌倉片瀬」で足利軍と交戦しながら、5月24日には。「小高城」を攻め、相馬光胤そうまみつたねを誅して、5月25日には、 多賀城国府に帰った。
○1336年(建武三年)四月ニ十一日には、「熊谷系譜」によると、葛西高清かさいたかきよ馬篭氏まごめし遠野城とうのじょう(宮城県本吉郡本吉町馬篭)に囲み、城主因幡守いなばのかみ千葉行胤ちばゆきたねが五百騎をもって迎撃、赤岩城あかいわじょう(宮城県気仙沼市松川)の熊谷直時くまがいなおときの千五百騎の支援をもらい抵抗したが、葛西高清に屈し、 さらに、赤岩城まで攻撃され攻略された。高清は馬篭に佐藤氏(信夫館)を置いて、「兵を領して、登米に帰る」と記されている。
○1336年(建武三年・延元元年)五月ニ十五日には、湊川で、東上する足利尊氏と迎え撃つ楠木正成くすのきまさしげが激突、「湊川みなとがわの戦い」である。この戦いで、楠木正成が43歳で戦死した。5月末には、足利軍が京都に入り、6月14日には、足利尊氏は豊仁親王とよひとしんのう(後の光明天皇)を奉じて京都に入った。足利尊氏が急速な転回ができたのは、「元弘没収地返付命」等、北条氏残党を含め武士達の信頼を勝ち得た為であった。
○1336年延元元年八月十五日には、足利尊氏が擁立した豊仁とよひとを、光源上皇の院宣により三種の神器の無い状況で、光明天皇として即位させた。しかし、後醍醐天皇は12月21日京都をのがれ吉野に移り、天皇復帰を宣した。所謂、南北朝の時代の始まり、前代未聞の「一天両帝」の時代となる。光明天皇方が北朝、後醍醐天皇方が南朝といわれている。
南北朝の時代の争いは、必ずしも朝廷内の争いだけでなく、北条打倒と足利氏の指導権争いでもあった。激しい合戦の中、護良親王もりよししんのう楠木正成くすのきまさしげ新田義貞にったよしさだ北畠顕家きたばたけあきいえ高師直こうもろなお足利直義あしかがただよしなどが討ち死にした。
○1336年延元元年十一月には、足利尊氏は「建武式目けんむしきもく」17条を定め、足利尊氏が軍事、足利直義が政治を司ることを決めた、二頭制を打ち出して室町幕府を造った。
奥州においては、顕家軍が西上している間、留守役を務めたのが南部師行なんぶもろゆきであった。しかしながら、多賀城国府近辺では武家方の動きが活発となっていた。
○1336年延元元年十ニ月二十二日には、常陸国瓜連城うりつらじょうが落ち、顕家が帰着しても容易ならざる状況に至っていた。
○1337年延元ニ年一月八日には、陸奥国府を急遽伊達軍の霊山(福島県霊山町)に移さざるを得なかった。霊山と言えども、東方には相馬氏をはじめ海道筋の武家方が機を狙っている所であった。
○1337年延元ニ年ニ月には、足利幕府が石塔義房いしどうよしふさを奥州の総大将に任じ派遣した。石塔氏は海道筋平の伊賀盛光いがもりみつ、中村の相馬氏、亘理の武石胤顕たけいしたねあき、宮城の留守家任るすいえとうを従えて多賀城に入城した。 石塔氏は、奥州の行政機能を整える為に、奉行衆を整えた。
○1337年延元ニ年ニ月頃には、顕家は霊山に立て篭もり防戦をしていたが、3月5日に小山・宇都宮方面へ遠征し、下条・下河原近郊で戦ったと伝えがあり、霊山から城外に出て討伐戦を行っていたと思われる。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅲ>>

○1337年延元ニ年八月中旬には、帝の再上洛の依頼を受けた顕家は、再度、西上するに至ったが、四面楚歌状態で苦慮して奥州軍を編成、第二次遠征軍を編成した。この時、葛西対馬守武治かさいつしまのかみたけはる(貞清と思われる)が1500騎の軍勢で参加したと伝え られている。西上は、並大抵ではなかった。白河近辺では頑強な抵抗を受け突破して、12月8日にやっとのおもいで小山城に着いた。さらには、12月14日まで費やし、防戦する斯波家長しばいえながを倒し鎌倉に入った。
○1338年延元三年正月早々に、鎌倉を出発し、1月28日に青野ヶ原あおのがはら(後の岐阜県関ケ原せきがはら)で高師冬こうもろふゆを大将とする足利軍と戦い勝利したが、進路を伊勢路に変え河内(大阪近郊)に入った。 河内から阿倍野原あべのがはら和泉国堺浦いずみのくにさかいうら)まで進軍したが、不運にも、5月22日戦死してしまう。弱冠22歳の若さであった。
○1338年延元三年、奥州軍は総崩れとなり逃げ下り、伊勢国に再集結、熊野水軍の船団で、9月に奥州に向けて出発した。北畠親房・顕信親子は、義良親王と同船したが、途中嵐に遭い、親房・顕信親子と義良親王は伊勢国に戻されてしまった。 親房は再度出発し、辛うじて常陸国に辿りついた。伊達行朝だてゆきともは10月までには帰国できたと伝えられている。葛西清貞かさいきよさだも9月(10月から11月とも思われる)に、ほうほうの体で石巻に辿りつく事ができた。
○1338年延元三年ニ月頃には、足利尊氏征夷大将軍となり、室町幕府を開府する。
○1339年延元四年八月十六日には、後醍醐天皇が五十二歳で逝去。義良親王が即位し後村上天皇ごむらかみてんのうとなる。石巻市多福院たふくいん境内の供養碑に「延元四年霜月二十四日・・先有菩薩」とある。
○1340年興国元年三月には、北畠顕信きたばたけあきのぶが鎮守府将軍となり、守永親王もりながしんのうを奉じて伊勢を出発、5月には、東国の宮方の糾合に奔走していた北畠親房(顕信の父親)と関東小田城にて出会い、6月には、 宇津峯城うつみねじょう(現、福島県郡山市付近)、霊山城に立ち寄り、白河結城、伊達・田村氏を励まし、海路から葛西の渋江城(石巻日和山城と思われる)に、7月20日入城する。
○1340年興国元年十一月七日には、北畠顕信は津軽安東あんどう氏に御教書みきょうしょを出したり、翌年には、奥州の宮方勢を結集して南下して鎌倉を攻め、さらには、上洛の計画を立てていたという。安東氏への御教書は 、「今度、岩手西根を退治する。河村も味方だ、明春を期して和賀滴石が一手となり、斯波を退治し、和賀稗貫に馳せる。その由、葛西一族に命じた」と言うもであり、次ぎの年春には、計画を実行することを窺わせる。 その上で、白河結城への引き込み(宮方か、武家方か微妙な立場で、奥州南部に位置して重要)の為、両陣営が激しく引き込みに動いた。
○1341年興国ニ年七月三日には、北畠親房きたばたけちかふさ五辻清顕ごつじきよあきを派遣し、結城親朝ゆうきちかともの説得に走らせ、同年11月6日には、石塔義房いしどうよしふさが、佐竹(常陸)氏や相馬親胤そうまちかたねに、白河挟撃を命じたりして、結城氏を揺さぶった。
○1342年興国三年(暦応五年)には、葛西清貞かさいきよさだは北畠親房に、府中(多賀城国府)攻略に関して、北奥羽から安東・南部・滴石・和賀氏を南下させ、三方より府中 を攻撃すれば容易と献策した。その上で、総大将の催促を清貞が親房に催促し、親房は顕信や奥羽諸国の武将を督励して総攻撃をかけることにした。
○1342年興国三年(暦応五年)には、葛西清貞は葛西一族の結束を図る為に、命令に叛いている遠江守とうとうみのかみ(甥の清明きよあき)を3月に誅殺した。一方、南部政長なんぶまさながも2月4日に、和賀岩崎城を攻撃し鬼柳清義おにやなぎきよよしを殺し、紫波郡の斯波岩手氏を攻め込んで牽生した。又、稗貫出羽守権守ひえぬきでわのかみごんのかみや河村一族を味方に付けた、和賀・滴石・葛西氏は江刺に合流し、府中攻撃を準備していた。一方、 葛西清貞等は、9月までに松島を攻撃し攻略したけれど、先には進まなかった様である。松島攻撃には残された書状があるが、戦況報告と思われる。残された書状として「七月三十日の松島攻め」とか「九月三日に中奥羽御方出張し合戦」とか「九月二十一日 清顕 出張 今両三日中」等が残されている。
一方、石塔軍は南下する南部氏中心の宮方勢を食い止めるべく、多賀城国府を出て、三迫に陣を築き備えた。結果、9月頃までには宮方勢を食い止めることができた。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅳ>>

石塔軍の武家方は、殆ど海道筋の武将(留守氏・石川氏・岩城氏・岩崎氏・楢葉ならは氏・菊多きくた氏・相馬氏・亘理氏)であり、斯波岩手氏・鬼柳おにやなぎ氏・柏山かしわやま氏・江刺氏の構成であった。宮方は伊達氏・田村氏の福島仙道筋の構成であった。 結果、9月頃までには宮方勢を食い止めることができた。
釜糠かまぬか城址(現在:喜泉院) 津久毛橋つくもばし城址
釜糠城址 津久毛橋城址
この戦いの状況は、武家方や宮方とも一部文書として残されている。武家方には、11月6日に石塔義房いしどうよしふさ相馬出羽権守そうまであわごんのかみに宛てた書状がある。「この戦いは小田城攻撃の後攻めでもある。従って負けるわけに行かない。急遽救援に駆け付けられたい」と書かれたものである。これは、6月に高師冬こうもろふゆの武家方が、宮方の中心人物である北畠親房きたばたけちかふさを東国から追放すべく決戦を挑んでいたことを示している。小田城は関東常陸にある山城で北畠親房が、宮方の糾合に 拠点としたところである。
釜糠から津久毛橋を望む 津久毛橋から釜糠を望む
津久毛橋から釜糠を望む 釜糠から津久毛橋を望む
又、宮方勢に残された史料として、「鬼柳文書おにやなぎもんじょ」がある。これによれば、「九月四日、宮方は北方(岩手県一関市)から栗原郡の津久毛橋つくもばし(宮城県栗原郡金成町)、前田、八幡、鳥谷とや(宮城県栗原郡栗駒町)に陣を構えたところに、 石塔軍は釜糠かまぬかへ向城をとった。奥方に江刺や柏山氏にも援軍の状を出し、後方撹乱を頼んだ」と記されていた書状を石塔秀慶いしどうひでよし鬼柳兵庫おにやなぎひょうごに1342年康永元年(暦応五年)十月八日付けで送ったものが残されている。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅴ>>

この戦いは、海道筋の相馬出羽権守そうまでわのごんのかみ等の救援により、宮方勢の里屋城さとうやじょう八幡城やわたじょうを攻略、津久毛橋本陣つくもばしほんじんを残し、10月17日までに顕信軍を潰走させた。さらに、石塔軍は逃げる糠部ぬかべの南部氏を追撃し、10月28日までに鬼柳城おにやなぎじょうに着いた。 北朝方の石塔軍が、南朝方を打ち負かし奥羽での南北朝決戦に勝利した。
この後の葛西氏の動向は、葛西清貞が没した後、南朝方から北朝方に転身をしたもようである。石巻に残っている供養塔や中尊寺への梵鐘の寄進等から葛西氏の転身の状況が窺いとれる。
石巻の供養塔から1343年8月14日付けで「蓮阿れんあなる人物(葛西清貞と思われる)の五・七日忌の供養板碑が建てられていることから、葛西太守と思しき人物が7月14日に没したことや、同年7月12日付けで、葛西大檀那左近将監親家かさいおおだんなさこんしょうげんちかいえによる北朝年号(康永二年)銘の梵鐘が中尊寺 に寄進されている。このことから推察すると、葛西一族が意図的に南朝年号から北朝年号に変えたことは、清貞没後に、宮方から武家方に転身したことが窺える。葛西氏と結城氏は親戚関係であることが知られており、6月10日に 結城氏が足利尊氏に内通した事が、葛西氏も知っての事と思われるからである。
これ以後、南北朝の争いの中には、葛西氏の姿が見受けられなくなった。
○1344年興国五年七月四日には、関東・奥州において東国を完全に統一した幕府は、足利義詮あしかがよしあきらを鎌倉で支える為に上杉憲顕うえすぎのりあきが派遣された。後に、鎌倉公方の下で権勢を奮うことになる上杉管領家(関東管領)の初代である。
鎌倉公方略系図(足利氏) 関東管領略系図(上杉氏)
鎌倉公方 関東管領
○1345年興国六年・康永四年には、幕府は関東・東北の統轄方針を転換したのか、石塔義房いしどうよしふさ義元よしもと父子を京都に召還し、畠山国氏はたけやまくにうじ吉良貞家きらさだいえを奥州管領職として下向させた。畠山国氏は、足利尊氏あしかがたかうじ高師直こうもろなお派の青年将校的人物、吉良貞家は、足利直義あしかがただよしの傍らで政務を司り、老練な政治家的人物であった。国氏は、5年前に奥州二本松に下向した父高国たかくにのニ本松城に着任、一方、貞家は、奥州四本松しおのまつ城に着任した。両奥州管領は、着任早々に積極的に活動を始める。
注;奥州管領職は、管領府を整備し、奥州全域を統治する立場で、軍事指揮権と寺社興行権の保証および庶務・検断・雑務沙汰についての審理を行い、当事者が地頭御家人の場合のみ 幕府決裁を仰ぐ以外、奥州諸氏の当知行安堵や恩賞も奥州管領が審理し推挙することによって幕府の決裁を得る職権を有していた。所謂、奥州武士に対して軍事指揮権を発動し、出陣 命令を出す職権や管領府に勤番を発動し、奥州武士のほとんどが惣領か庶子が勤番として対応させる職権などである。






奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅵ>>

○1346年興国七年・貞和ニ年二月には、吉良貞家きらさだいえは、伊賀盛光いがもりみつ相馬親胤そうまちかたね留守家任るすいえとう等を招致し、雫石に居たと思われる北畠顕信きたばたけあきのぶを誅する為に、3月16日には、滴石・糠部討伐に向かわせた。5月には、 鬼柳氏も参加したともいわれ、6月には石塔義元いしどうよしもとまでも招集された。この様に北奥への軍事的圧力を高める中で、宮方の南部政長なんぶまさながにたいして、足利直義あしかがただよし勘降状かんこうじょうを4月11日、12月9日に再三にわたり送ったと伝えられる。 この様な状況において、南部政長は、宮方から武家方に投降することになった。
○1347年正平ニ年・貞和三年七月には、吉良貞家、畠山国氏の兵が、南朝の拠点である鎌田、川俣、霊山、宇津峯城を攻撃し、9月には陥落させた。その為、守永親王もりながしんのうは出羽国田川郡立谷沢城たちやざわじょうに移ることとなる と伝えられている。又、滴石・糠部への攻撃も続けられ、吉良貞家は、北奥攻めの為、平泉に長期にわたり滞陣した。その為に和賀義光わがよしみつが警護として10月29日~12月15日まで着陣したと伝えられる。
○1348年正平三年・貞和四年三月には、糠部で戦いがあり、5月には、雫石で戦いがあった。その後、北畠顕信が出羽に移ったと伝えられているので、雫石は陥落し決着がついたと思われる。滴石攻略には、 伊賀盛光や留守家任も参陣したとも伝えられている。
○1347年正平ニ年・貞和三年~1348年正平三年・貞和四年にかけて、中央情勢が緊迫の度を増してきている。奥州より逃げ戻って吉野に入った北畠親房が、畿内工作が実を結び、楠木正成くすのきまさしげの子、楠木正行くすのきまさゆきが河内で、8月10日叛旗を翻した事もあり、畿内の南朝方の勢いが高まった。が、しかし、足利尊氏が高師直に討伐命令を出して戦いが始まった。
○1348年正平三年・貞和四年一月五日には、南朝方の楠木正行くすのきまさゆき四条畷しじょうなわてで戦死、北朝方は勢いつき、南朝方を追って吉野に辿りつき、1月28日には焼き打ちをかけ、後村上天皇は、賀名生あのうに遷幸せざる得なかった。
○1349年正平四年・貞和五年には、東国や畿内においても戦いは、幕府方(北朝方)の勝利に終わり、ようやく天下が平穏になると思われたが、今度は、幕府内での亀裂が生じて、将軍として武士を束ねる足利尊氏 と幕府の執権として政治を司る足利直義との間で、意見の衝突が起こってしまった。当時の武家方は、高師直こうもろなおに代表される様に、後醍醐天皇の王制復古でもなく、足利直義あしかがただよしが進める北条泰時ほうじょうよしとき的政治でもなく、戦功を上げて領地を拡大し 、手に入れた権益は我が物とする考え方であった為、高師直等は、足利直義の政治のやり方に大きな不満を抱くようになった。
○1349年正平四年・貞和五年六月には、高師直は自らの悪業から足利家執事の職を解かれた為、これを不服として、8月9日に、高師直一族が挙兵し足利直義を尊氏邸に追い込んだ、結果、尊氏が師直の要求じて、直義の執権から外した。同年10月22日に鎌倉の足利義詮あしかがよしあきらを京都に引き入れ執権職にした。その後、鎌倉公方として足利基氏あしかがもとうじを派権し、足利直義は剃髪し足利義詮の後見役に留まった。しかし、高師直は、直義に対する追及を終わらせる事はなかった。
○1350年正平五年・貞和六年十月ニ十六日には、足利直義は、切羽詰まって南朝方に逃走し、北畠親房を頼った。親房は、北朝方の状況を察し、12月13日に直義を受けいることにした。
○1350年正平五年・貞和六年十二月十三日に、北畠親房が足利直義を南朝に受けいることにしたことが全国に伝えられ、足利方が尊氏派と直義派に分かれ分裂するはめに至った。
これを見た南朝方は勢いつき活動を活発化させた。
関東においては、尊氏派の高師冬こうもろふゆが上洛しようとした所、直義派の関東管領の上杉憲顕うえすぎのりあきに遮られ、甲斐に逃れ、追い詰められて1351年1月17日に自刃したり、奥州では尊氏派の畠山父子と直義派の 吉良父子が対立するようになった。南朝方は、北畠顕信が、南部祐仲なんぶすけなかを津軽田舎館いなかだてに安堵したり、9月には結城朝胤ゆうきともたねや12月には相馬親胤そうまちかたね招聘しょうへいし懐柔工作を続けていた。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅶ>

○1351年観応ニ年一月七日には、観応擾乱かんのうじょうらんが起こる。足利直義あしかがただよしが京都に突入し、その勢いに負けて1月16日に、足利尊氏あしかがたかうじは丹波に逃げた。この一連の事態を観応擾乱と呼ぶ。
この事態を踏まえ、足利尊氏は、2月20日に、高師直こうもろなおと足利直義との私闘として扱い、師直兄弟を直義に託することで和睦をした。しかし、直義は、2月26日に師直兄弟を殺し、京都に戻り再度政権の座についた。
この情報は、奥州にも届き、形勢不利と見た畠山父子は、留守氏の本城で堅固な岩切城に籠城することにした。一方、勢いついた吉良父子は、2月21日に岩切城を取り囲み総攻撃をかけた。籠城組みは、畠山高国はたけやまたかくに国氏くにうじ父子に留守家任るすいえとう等であり、攻撃側は、吉良父子を大将として、結城顕朝ゆうきあきとも白河朝胤しらかわともたね和賀義勝わがよしかつ義光よしみつ兄弟の代わりに野田盛綱のだもりつな、隣国の国分こくぶん氏等が加わった。攻撃は激しく、岩切城は陥落、畠山父子は本拠地虚空尊城こくうそんじょうに逃れ、畠山二郎は自害、遊佐衆百余人は後を追った。留守一族も塩竈の佐藤館に逃れたが、遂には塩竈神社に匿われた。しかし、留守白鳥権守るすしらとりごんのかみ三河権守みかわごんのかみ、家臣宮城四郎兵衛尉みやぎしろうひょうえのじょうは生け捕りにされ殺された。この時、留守家の忠臣道佐ちすけが、留守家妻子に付き添い逃れ、側室の子 松法師丸さんぼうしまる(三歳)は、南部まで逃れ一命が救われた。後に、留守家再興することになる。奥州では、直義派が勝利することになったが、畿内では、尊氏派の巻き返しの事態がおきた。
岩切城祉案内碑 岩切城祉全景(山城)
岩切城祉案内碑 岩切城祉全景(山城)
○1351年観応ニ年八月には、足利尊氏父子が、京都を挟撃した為、8月1日に足利直義は北陸に逃れ、鎌倉に入った。尊氏は、追討すべく南朝の北畠親房と接触、10月24日に和睦を結び、背後を固めた上で、11月4日に鎌倉に向け進軍、11月29日に鎌倉に着陣した。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅷ>

幕府を二分する抗争は、尊氏や直義の踵を返すきびをかえす(あともどりする。引き返す。きびすを回(めぐ)ら す。)がごとく、南朝方に講和を乞う姿を見て、奥州南朝方は勢いがつき、多賀城国府の奪回に向け、奥州各地で争いが続いた。津軽で機を窺っていた北畠顕信は、1351年3月頃に出羽に進出して、幕府軍の吉良貞家きらさだいえの弟貞経さだつねが迎え撃ったと伝えられている。
○1351年観応ニ年十月には、北畠顕信の子である中院守親なかのいんもりちかが、陸奥守として派権され、父顕信と連携しながら多賀城国府を挟撃するすることになった。南部政長なんぶまさながの孫である南部信光なんぶのぶみつを南下させ、自ら出羽国から山村親王やまむらしんのうを奉じて宮城郡山村(仙台市泉区七北川上流)に進出した。一方、南奥州から中院守親を中心に尊良親王たかよししんのうの子である守永親王もりながしんのう(宇津峯宮)を奉じて伊達宗遠だてむねとう田村庄司たむらしょうじを従え、11月より仙道を北上させた。一方、吉良貞家は、相馬親胤そうまちかたね武石道倫 たけいしみちのり と共に、 10月22日に白石川に、11月22日には柴田郡倉石川に、さらに広瀬川等に防御線を築いた。
○1351年観応ニ年十一月末までには、顕信軍は多賀城国府に突入し、北畠顕家が築いた国府の地を、逃れてから14年後に奪還した。追い出された吉良貞家は、伊具館に退き、12月23日には稲村城(福島県須賀川市)に入ったと言われている。 この頃は、幕府内の抗争で、足利尊氏が京都から逃れた足利直義を討伐する為、追撃の途中で、奥州の事態に対応することができず、奥州幕府軍は単独で南朝軍に対応せざるを得なかった事も敗因であつた。
○1352年正平七年・文和元年ニ月ニ十六日には、仙道筋にいた吉良貞家は、宮内大輔くないたいふ吉良貞経に国府の顕信を攻撃することを命じ、石川氏、蒲田兼光かまたかねみつ等と共に、3月1日名取郡羽黒城(吉田村高館)に着陣し、3月11日に多賀城国府を攻撃した。
○1352年正平七年・文和元年三月十三日には、中院守親が宇都宮公綱うつのみやきんつな多田左近将監ただしょうげんと共に小鶴(宮城県仙台市苦竹)に着陣し、山村城(宮城郡実沢村)の山村宮(正平親王)を奉じた、南部伊予なんぶいよ浅利尾張あさりおわり和賀基義わがもとよし等と多賀国府と呼応して戦った。
小曾根こそね城祉(現在:高玉神社) 市名坂いちなざか城祉(現在:七北小学校)
小曾根城祉 市名坂城祉
○1352年正平七年・文和元年三月十五日には、吉良貞家軍は、多賀城国府を攻撃し陥落させる。
○1352年正平七年・文和元年には、顕信軍は、守永親王(宇津峯宮)を奉じて、伊達郡大波おおなみ城(小手保大波城)に入り、3月17日に中院守親と合流し、4月2日には、條川で合戦した後、7月3日に田村荘唐久野と三世田城みよたじょうで伊達・田村軍と吉良・相馬軍とが戦い、7月9日に矢柄城で、8月4日に部谷田で伊達宗遠・田村荘司が相馬胤頼そうまたねより二本松頼常にほんまつよりつなと戦い、8月7日に宇津峯城に立て籠もった。
○1353年正平八年・文和ニ年には、吉良貞家は、大河戸おおかわど氏の山村城(宮城郡実沢村朴沢)を拠点とする、山村宮(正平親王)を奉じた宮方を攻撃し、1月10日小曾根こそね城(大河戸氏(山村城)の出城)、1月18日市名坂いちなざか城(山村城の出城)、1月19日には、山村城を攻撃・陥落させて南部伊予(八戸系)・浅井尾張(大館系)を投降させた。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代前後と陸奥国情勢Ⅸ>

○1353年正平八年・文和ニ年五月には、結城顕朝ゆうきあきとも伊賀盛光いがもりみつは、南朝軍の最後の砦の宇津峯城うつみねじょうを陥落せしめた。そもそも、1月早々に、足利尊氏より討伐せよとの命を受けた、結城顕朝・伊賀盛光が攻撃を再開し、4月5日に柴塚城しばつかじょうを、4月15日には切岸城きりぎしじょうで戦った後に宇津峯を攻撃したことによる。宇津峯城陥落したことにより、北畠顕信は北奥羽に逃げた後に、吉野に戻り中納言となったと伝えられている。又、南部信光は、北奥羽の地で、孤立したまま南朝方を貫いたとされているが、奥州南部の宮方の拠点は、悉く攻撃さえれ破壊され、二度と再起できない事になった。 したがって、奥羽は、殆ど北朝の支配下となり、次の時代を向かえる事になった。
追記:幕府軍の吉良貞家は、岳山(福島)の崑峯寺こんぽうじの造営を完了した1353年文和2年以後、消息の記載された文献はない。足利直義派であったことが、後の、石塔の奥羽派遣で衰退の道を歩む事になる。
○1354年正平九年・文和三年四月十七日には、南朝方で大いに活躍された北畠親房きたばたけちかふさが62歳で没した。
○1354年正平九年・文和三年五月十八日には、尊氏は、石塔義憲いしどうよしのり(義房の子別名義基よしもと)を陸奥国に下向させ、多賀城府中を攻撃させる為であった。石塔軍は福島浜通りを系由して、6月20日より多賀城府中を攻撃始めた。 多賀城府中は、吉良貞家きらさだいえの子満家みついえ治家はるいえが駐留していたが、6月24日に落城し、吉良治家きらはるいえは、和賀常陸介義綱わがひたちのすけよしつなを頼り退去した。(治家から和賀氏に賀美郡(宮城県加美郡加美町)を与えるとの軍忠状が残されている。)その後、吉良治家は、南朝方に転じたと言われている。
○1354年正平九年・文和三年十一月八日には、尊氏は、奥州管領として斯波家兼しばいえかねを派遣した。石塔義憲に吉良治家を討伐させた後に、この事態は何を意味するか・・、さらに、奥州情勢を混迷化させることになる。一説では、斯波家兼が若狭国の守護職あったが、細川清氏ほそかわきようじのクーデターで、若狭国の守護職を強要され、尊氏が妥協した結果であり、家兼に若狭国守護職の代わりに陸奥守に任命されたとの説もある。
○1356年延文元年六月に、斯波家兼は、陸奥守に着任して二年後、49歳で没してしまう。その年8月には、兄の斯波直持しばなおもちが奥州探題職に、弟の兼頼かねよりが羽州探題に補任された。
○1355年~76年の情勢として、北奥では、北畠顕信きたばたけあきのぶの活動が活発化して、津軽郡浪岡なみおかには、北畠守親きたばたけもりちかが現れ、浪岡御所なみおかごしょと呼ばれ北畠顕信と共に南下する機会を窺っていた。一方、中奥では、管領斯波直持が、多賀城にいて活動を続けており、観応の擾乱で大敗した畠山国氏はたけやまくにうじの子の国詮くにあきらが、芦名氏を頼り会津におり、吉良満家・治家や石塔義元いしどうよしもと(義基)、さらには、宇都宮守氏うつもみやもりうじ氏広うじひろ父子等が、塩松(福島県二本松市周辺)で、虎視耽々と奥州の支配権を狙っていた。 一方、葛西氏は、「中尊寺文書」に葛西大檀那若狭守行重名かさいおおだんなわかさのかみゆきしげが残されていたり、「葛西家譜」には、葛西高清かさいたかきよが没し、葛西詮清かさいあききよが、上洛して、奥州探題職に補されたと記されていいたり、江刺高嗣えさしたかつぐを浅井村で討伐したとか、佐々木直綱ささきなおつな宗綱むねつな父子が胆沢に北方奉行人として下向してきたとか、湯沢小野ゆざわおの等の一族伊賀道綱いがみつつなが、葛西氏を頼り寺池に移ったと記されていたりして、中奥でも、大きな動きがあったものと窺われる。 幕府・関東府においても動きが変動しており、さらに混迷した時期を迎えることになる。
○1367年貞治六年・正平二十二年四月には、関東公方足利基氏あしかがもとうじが28歳で没し、幼少の足利氏満あしかがうじみつが後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮あしかがよしあきらが38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地では、中央権力の軛から逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代後と陸奥国情勢ⅹ>>

○1381年永徳元年十月には、伊達宗冬だてむねふゆが長井氏(山形県米沢地区)や亘理氏(宮城県亘理地区)を討ち、刈田・柴田・伊具方面を勢力圏に治めた。伊達氏も活発な活動をしたことは明らかであるが、詳細の程は分かっていない。
○1386年至徳四年九月に、「葛西家譜」によると、葛西詮清かさいあききよが副将軍として会津城の坂上義則さかのうえよしのり(田村荘司と思われる)を討ったと伝えている。しかし、これに関して「葛西家譜」が年代を間違えて伝えていると思われている。 恐らく、1396年応永三年に、小山義政おややまよしまさの遺児犬若丸いぬわかまるを匿っていた田村荘司清包たむらしょうしせいほうが叛乱を起こしたので、鎌倉公方足利氏満あしかがうじみつの命で、大崎満持おおさきみつもちが田村氏を討ち、翌年に犬若丸が会津で自殺したという事件があり、この事実と違えて 記されたものと推察される。この時期には、葛西氏も将軍足利義満あしかがよっしみつより陸奥の探題に補任されてこともあり、大崎氏と共に副将軍として会津討伐に参陣して、探題補佐したとも考えられる。いずれにせよ、葛西一族も探題職に補任されるほどに力量が増して、中央からも信用される程に成長した証でもある。
○1390年明徳元年には、大崎氏が探題職を活用し領地拡大を進めていることが分かる訴状が、将軍足利義満に訴状が届けられている。それは、奥州の畠山国詮はたけやまくにあきらが将軍に宛てた訴状である。内容は、大崎詮持おおさきあきもちが畠山家累代の所領である遠田・志田・長岡郡、さらには、加美・玉造・黒河の諸郡を押領したということである。 今までの経緯と今後の奥州情勢力が、どの様に変化していったかを述べてみたい。

○1390年明徳元年、その為に、畠山氏は重忠以来の領地長岡郡沢田要害にいたが、大崎氏の攻勢で長世保(宮城県松山町)三十番神に館を構えたが、さらに攻められて竹城長田(宮城県松島町)に退き、最後には、舟で二本松に逃れたと記されていた。
これに対して、足利義満あしかがよしみつは、伊達政宗だてまさむね(九代)と葛西陸奥守かさいむつのかみ満良みつよしと思われる)に命じて、大崎氏が抑留した領地を返還させることにした。
○1391年明徳ニ年暮れには、奥州の管轄が、幕府管轄(京都)から関東府(鎌倉)に移譲される事になり、大崎管領は奥州探題職の廃止、その職を辞することになる。その為に、大崎氏は厳重に処罰されることになる。
関東府の足利氏満あしかがうじみつは、弟時満ときみつを奥州管轄する為に派遣し、居館を現在の大和町落合に置き、大崎氏に睨みを利かせると共に、目代、代官を常駐させた。「黒川御所くろかわごしょ」と呼ばれた。しかし、 御所は長続きせず、大崎氏の抗議もあり、幕府や関東府の妥協もあり廃止された。
○1392年元中九年・明徳三年には、後亀山天皇ごかめやまてんのう(南朝)から神器を後小松天皇ごこまつてんのう(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約60年近く続いた大乱であったが、これで終息した。
○1398年応永五年11月には、幕府に対抗意識を持ち続けた関東府の鎌倉公方足利氏満あしかがうじみつが40歳で没し、満兼みつかねが後継となったが、満兼も氏満同様に、幕府に対抗意識を持ち続けた。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代後と陸奥国情勢Ⅺ>>

○1399年応永六年には、大内義弘おおうちよしひろ応永の乱おうにんのらんを引き起こすなか、関東府の足利満兼あしかがみつかねは、弟満直みつなおを笹川(福島県須賀川市)に、満貞みつさだを稲村(福島県郡山市)に派遣した。しかし、奥州の国人達は必ずしも歓迎はしなかったもの であったが、笹川御所ささがわぎしょ稲村御所いなむらごしょとして称した。
関東府は、この両御所の為に、御料所として奥羽諸将に領地の一部を割譲することを命じた。奥州国人達は、逆に、関東府に抵抗する様になり、室町幕府としても見逃せない事態となった。幕府は、関東府を牽制する為に、奥州国人達に働きかけて争乱を起こさせた。
○1400年応永七年には、伊達政宗だてまさむね(初代)・大崎詮持おおさきあきもち蘆名満盛あしなみつもり等は、反対の気勢を挙げることになった。3月には、政宗は五百騎の軍勢で鎌倉へ出陣したが、鎌倉派の白河結城満朝ゆうきみつともに阻まれ、伊達郡西根の長倉要害まで追撃され、挙句の果てに、政宗は 出羽に逃げ込んだとされている。
○1400年応永七年に、伊達政宗(九代)が挙兵した頃、大崎詮持は鎌倉に出向いており、身の危険を感じて、瀬崎邸せざきていから奥州本領に逃げるべく、間道を辿ったが、田村荘大越たむらしょうおおこしで稲村御所の足利満貞あしかがみつさだに追跡され、9月7日に自刃した。息子の満詮みつあきらは、15歳であったが、伊達政宗 が匿い、稲村・笹川御所の追及をかわし難を逃れた。伊達政宗は、政宗(九代)夫人が、将軍足利義満の生母の妹にあたり、将軍家との血縁関係もあったことで、関東府対決も幕府の後ろ盾があったからと推測される。
○1400年応永七年に、葛西氏も、「葛西家譜」には、一切記されてはいないが、大崎氏同様幕府側についたが、関東府の大崎氏同様に征伐受けて、その後、関東府側について大崎氏と対決する様になったと思われる。
前項の、この証として、石巻多福院いしのまきたふくいん蓮昇れんしょうの菩提を弔った板碑が二枚残されている。この板碑から、1400年応永七年五月二日に 死没したと記されており、政宗の叛旗を翻した時期でもあり、葛西氏もこの事変に加わった挙句に、苛酷な処罰が課された時に、蓮昇なる大物人物が死亡したと考えられる。
この時期には、伊達軍は、何万騎もの鎌倉軍に攻められ、迎え撃つことが度々あったが、最後まで屈服せず戦い続けていた。
そういうなか、河内(宮城県志田郡三本木町)の牛袋寺の「牛袋うしぶくろのひじり」と称される高僧が、京都より戻り大崎家に、将軍足利義満より大崎氏宛ての書状を持参した。書状は、再度、奥州探題職に任ずるものであった。しかし、大崎詮持が自刃した時期でもあり、満持が奥州探題職の権限を行使することになる。この応永七年は、全奥州が、幕府と関東府の狭間で混乱した年となった。
○1402年応永九年五月二十一日には、伊達政宗(九代)は、又、足利満兼あしかがみつかね(関東公方)に叛旗を翻したため、関東府執事である上杉氏憲うえすぎうじのりが征伐命を受け赤館城あかだてじょうを攻めた。しかし、9月には、政宗が和議を申し入れ事態が収拾した。
この時期には、葛西・桃生・深谷氏の連合と、伊達・大崎・登米氏の軍勢とが、登米いたち沢(宮城県登米町)で陣を構え対峙したと伝えられる。これは、関東府側と幕府側との戦いと思われる。奥州国人達は、関東府に対する抵抗が広範囲に及んでいることが推測される。
○1411年応永十八年一月に、葛西満信かさいみつのぶが、南部守行なんぶもりゆきが秋田安東あんどう氏と仙北郡刈場野で戦った際、南部氏を応援したとされている。南部氏は、葛西満信の母の実家にあたることからの応援であったと思われる。




奥州葛西一族について
 <<南北朝時代後と陸奥国情勢Ⅻ>>

○1412年応永十九年一月には、「葛西家譜」によれば、気仙郡において各氏入り乱れて戦いが起こったと記されている。嶽波たけなみ唐鍬からくわ氏兄弟が大槌おおつち氏と共に、気仙郡司けせんぐんじ千葉伯奢ちばほうきを攻撃した為、阿曽沼あそぬま氏の支援を受けた。 この擾乱は、葛西氏の指示によるもので、南部守行なんぶもりゆきも援軍として参陣したが、流れ矢にあたり戦死したとある。葛西氏の勢力が増しているあらわれでもあった。
○1428年正長元年には、幕府では、将軍足利義量あしかがよしかずの後継として、籤引くじびきで後継を決めることになり、その結果、僧の義円ぎえんが還俗して、足利義宣あしかがよしのぶと名乗った。
○1429年正長ニ年三月には、義宣よしのぶ改め、義教よしのりとして将軍職を継いだ。
○1429年永享元年(正長から元号が変わった為)九月には、陸奥国の笹川公方の足利満直あしかがみつなおから関東管領足利持氏あしかがもちうじが謀叛の知らせが、幕府・将軍家に伝えられた。「関東管領持氏が、将軍をとらんとする陰謀があり、稲村公方と持氏が組んで、私を倒さんと攻撃してくるから援軍を求む、命じられれば、持氏を討伐する」との報であった。
○1429年永享年代には、幕府は笹川公方義直の真意を疑い、持氏討伐を思いとどまったが、足利持氏あしかがもちうじは、常陸の大掾おおじょう氏を攻撃したり、下野国しもつけのくにへ侵攻したりしている為に、足利義教あしかがよしのり・幕府は、甲信越の兵を持って、下野国を救援させた。
○1432年永享四年には、関東管領足利持氏は、恭順の意を示し、上杉憲実うえすぎのりざねに命じて、幕府に講和を申し入れた。が、しかし、金品を幕府に献納していたが、反面、武田氏を討ったりし、面従腹背めんじゅうふくはい(うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わ ないこと)の姿勢は変わらなかった。




奥州葛西一族について
 <<応仁の乱前後と陸奥国情勢>>

○1438年永享十年八月には、幕府は、足利持氏あさかがもちうじ討伐に踏み切ったが、持氏は、11月に出家して詫びをいれたが、受け入れられず、翌年二月に、鎌倉において、足利持氏、足利満直が自殺して、永享の乱えいきょうのらんは終息した。 五代にわたり百年間余りの関東・東北を支配していた関東府は滅んでしまった。
○1438年永享十年冬には、「葛西家譜」によれば、葛西太守伯奢持信かさいたいしゅほうきもちのぶが、奥州探題職であった為、関東管領足利持氏が兵を起こした時に従い、相州鎌倉で会戦したと記されている。敗退により大打撃を受けることになり、 葛西氏の力が著しく減ずる様になった。
○1439年永享十一年三月十九日には、葛西持信かさいもちのぶは、大崎持詮おおさきもちあきらを千石城(宮城県松山町)を攻めている。
○1440年永享十ニ年四月十六日・十一月四日の二度、大崎満持おおさきみつもちが三迫佐沼に攻め入ったと記されている。
この一連の動きは、関東管領足利持氏死後の、関東府側討伐の動きの中で、大崎氏が葛西氏に討伐の為攻め入ったと推測される。
○1440年永享十ニ年三月に、常陸国茂木もぎ城において、足利持氏あしかがもちうじの遺児春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるを擁して、結城氏が挙兵した。所謂、結城合戦ゆうきがっせん」と言う。幕府は、今川氏等の東海の兵を派遣して討伐にあたった。 6月には、石川時光いしかわときみつが、笹川御所の笹川公方足利満貞あしかがみつさだを殺してしまう。
「禅秀の乱」、「永享の乱」や「結城合戦」後、多くの敗者が生まれ、葛西勢力圏内にもその落武者が下向してきた。足利持氏の近侍であった村上氏は、気仙郡高田へ、及川氏白河から東山東海へ、結城氏の家臣の石川光経いしかわみつつねが、上州沼田から登米大原に下向してきたと 伝えられている。
○1440年永享十二年には、「結城合戦」の最中、葛西持信が、和賀時国わがときくに鬼柳実行おにやなぎさねゆきを討伐した。これは、和賀氏が1438年春頃から叛き始めたからであり、和賀時国の娘を妻とした鈴木為詮すずきためあきらが謀叛を画策したかどで、本吉郡歌津より鬼柳に追放されたが、疑いは晴れず、両者討伐に至った。
この事態の背景は、1382年弘和2年頃、和賀近辺の欠所地をめぐり争論がおこり、周辺の国人達六名が傘連判かかされんぱんをし、万事合議により決着させる一揆契状を結んだことにある。その傘連判の一揆契状には、葛西壱岐守清泰かさいいきのかみきよやす伊豆守清貞いずのかみきよさだ(南北朝時代の清貞とは別人)らが署名されていることから 、葛西持信の葛西・鬼柳氏の討伐もこの一揆契状が背景にあるものと、推測される。
○1441年嘉吉元年三月~五月には、結城父子が追い詰められ戦死し、遺児も5月に美濃国にて斬殺された。
○1441年嘉吉元年には、幕府では、赤松満祐あかまつみちすけが、将軍足利義教あしかがよしのりを白昼群臣の面前で斬殺してしまい、満祐(69歳)も自刃してしまう事件が起きた。幕府内も混迷を来たしており、諸国の国人達は、自らの領地拡大に精力を費やし、幕府の 指示に従わぬ者が増えていった。
○1442年嘉吉二年に、奥州では、大崎氏が葛西領地に侵攻し、迎え撃った葛西持信は敗北する。その為、葛西氏は、大崎持詮おおさきもちあきらの娘を葛西持信かさいもちのぶの嫡子朝信とものぶに迎えることで和睦を結ぶことになった。葛西氏には屈辱的出来事であった。
○1443年嘉吉三年には、南朝方の残党が、頻繁に騒乱を起こしていた。




奥州葛西一族について
 <<応仁の乱前後と陸奥国情勢Ⅱ>>

○1449年宝徳元年正月には、上杉房定が、関東国人達の了承をえて、足利持氏あしかがもちうじの末子永寿王えいじゅまる(関東府滅亡後生き延びていた。)を関東管領に迎えることになり、9月に、名を足利成氏あしかがなるうじと名乗り鎌倉に入った。しかし、この時には、 上杉憲実うえすぎのりざねは鎌倉を脱出してしまう。この時の関東府復活が、何を意味するものか疑問視されるが、時代的には、国人達が領地争いを頻繁に起こしており、国人達は、戦わずして調停をしてくれる権威的な必要と感じていたことも関東管領擁立の要因として考えられる。しかし、この事態は、上杉房定うえすぎ ふささだと上杉憲実との溝を拡大することになった。
一方、奥州においても、京都や鎌倉より遠方にあり、総てが自力で領地問題を解決せねばならず、お互いに一揆契状を結ぶことが盛ん行われた。その中心的存在に頭角をあらわしてきたのが伊達氏である。近辺の武将達の調停役となり進める中で、次第に指導権を掴みとっていった。
○1450年宝徳二年には、葛西氏が、遠野(岩手郡下閉郡)の阿曽沼あそぬま氏を攻めたが、宿敵の和賀氏が阿曽沼氏を助けた為、引き揚げざるをえなかったと伝えられている。
○1452年宝徳四年には、幕府は内裏修理の為に、南部氏に段銭を許している。もちろん、この頃の徴収権は奥州探題の大崎氏が有していたので、葛西氏もまた、奥州諸将と共に段銭に応じたものと推測される。
○1455年康正元年には、幕府は、信濃の小笠原氏に命じて、足利成氏を討伐させたが、成氏は、関東各地を転戦を続け、関東国内を二分する争いとなってしまった。又、今川氏も、討伐を命じられ鎌倉を占拠することになる。
一方、奥州でも、東山(岩手県磐井郡)の鳥海秀政ちょうかいひでまさが、葛西持信に対して謀叛を起こしたので、及川光村おいかわみつむらに命じて討伐させた。これは、結城合戦で敗れ下向した及川氏と鳥海氏の私戦とも言われている。
○1456年康正二年四月には、南部義政なんぶよしまさが、秋田介安東あきたのすけあんどう氏と高寺で戦っている。もはや、関東公方にも、幕府にも関わりのない武力で国盗り合戦が北奥でも始まった時期ともいえる。
○1457年康正三年五月には、蝦夷東部に反乱が起こり、武田信広たけだのぶひろが鎮圧している。この頃の蝦夷地(北海道道南部)との交易が盛んに行われており、津軽の安東氏が進出していたので、その一族の武田信広が、アイヌ酋長コジャマインの乱を平定した事である。 所謂、中央政権の命令なく自衛の為に行った行為であり、国人達が、自立していたことを意味しており、辺境の地では着々と武将達の自立がなされている。
一方、関東にも動きがあり、関東の足利成氏と幕府との争いが険悪な状況となる。
○1460年長禄四年には、幕府は、改めて関東・奥羽の諸将に、足利成氏の討伐を命じた。又、1466年6月にも、討伐命をだしたが、足利成氏は健在であり、幕府の権威は、さらに落ちて行く結果となり、東国・奥羽の武士達には、その効力が効かなく なった。
○1460年寛正元年には、大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。




奥州葛西一族について
 <<応仁の乱後と陸奥国情勢>>

○1465年寛正六年には、探題大崎政兼おおさきまさかね教兼のりかねかも)に冨沢河内とみざわかわちが叛いたと伝えられており、北奥・中奥・南奥でも、頻繁に戦いが起こり、特に、伊達氏は、宮城県県北部までに働きかけていることがわかる。
○1467年応仁元年には、応仁の乱おうにんのらんが起こる。正月早々に京都の町が、灰燼に帰した。応仁の乱は、1473年文明五年三月に、山名・細川両雄の死をもって終わる。
応仁の乱の引き金となった原因は、将軍義政よしまさの妻日野富子ひのとみこが、我が子義尚よしひさを将軍とすべく、既に後継に決まっていた義視よしみを退ける画策をはじめ、畠山氏の内紛につけいり、細川氏・山名氏の摩擦を利用して擁立をさせようとした事である。
この応仁の乱の間、将軍義政は、事態収拾もせず、北山に銀閣寺を建てたり、能・狂言に興じたりしていた。一方、関東では、管領足利成氏と執事上杉憲実の確執から「享徳の大乱きょうとくのたいらん」が始まり、関東平野での戦乱が続いていた。
○1467年応仁元年には、大崎持明おおさきもちあき葛西持信かさいもちのぶとが、三迫で戦った。
○同年応仁元年十一月四日には、葛西一族の清蓮きょうれんが、大崎教兼おおさきのりかねそそのかされ、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。
○1469年文明元年四月には、大崎氏と葛西氏が戦い、葛西所領を大崎氏に抑留され、伊達成宗だてなるむねが仲裁している。
○同年文明元年六月三日には、葛西持信が没し、その子朝信が後継者となる。しかし、葛西領内は、混乱を来たし探題とは名ばかりとなってしまう。
○同年文明元年十月には、東山長坂城主(岩手県東山町)千葉胤義ちばたねよしが、太守の命で上洛し、将軍より持信死後、朝信が葛西家を継ぐ事の許可と諸権益の安堵を願うためであった。その後、将軍から大館時光おおだてときみつが下向して認められたことの知らせがあった。
○1471年文明三年八月四日に、葛西氏は長江氏と戦っている。
○1472年文明四年三月には、大崎教兼おおさきのりかねが、磐井郡流郷耳壁いわいぐんながれのさとみみかべ地区に侵入し、葛西朝信かさいとものぶと戦うが、朝信敗退する。この時も、伊達成宗が仲裁し、「成宗調法なるむねちょうほうを持って、葛西淨連かさいじょうれんにわたす」とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。
○1472年文明四年頃までは、大崎氏と葛西氏との単なる領地争いではなく、関東府滅亡後、奥州探題の大崎氏が、鎌倉以来の名門である葛西氏の主筋である事を楯に、葛西領地を侵略したものである。
応仁の乱以後、下剋上の風潮が高まり、奥州地域でも自分自身の勢力圏を固める一方、隣国を侵略するようになった。葛西氏関連では、大原氏と矢作氏が、横田地区をめぐって三年間(1473年文明五年三月~1476年文明八年)争いが続いた。横田に勢力圏を広げようとする大原氏と横田方面に進出した矢作千葉一族との戦いである。この争いには、南部氏が遠野から横田を狙う為の画策で、大原氏と矢作氏との戦いをさせたとも言われている。 又、1477年文明九年八月十三日~1482年文明14年にかけて、葛西氏と長江氏の争いも起こっている。長江三河守ながえみかわのかみ葛西壱岐朝信かさいいにのとものぶが深谷小町で戦ったことも伝えられている。これも、伊達氏のさとしで長江氏が叛意を示したため、葛西氏が、従来の主導権を保つ為に戦ったとも言われている。
○1482年文明十四年には、都鄙とひ合体ということで、古河公方こがくぼう堀河公方ほおりかわくぼうの和解が成立した。
奥羽地方の応仁の乱の時期の記載が少なく、各地域の伝承を中心に記していかざるを得ずご了承願います。
○1483年文明十五年に、南部氏、和賀氏、江刺氏が、葛西政信かさいまさのぶに反旗を翻している。
この頃は、葛西氏は、北に南部氏、西に大崎氏、南に伊達氏に圧迫され、四面楚歌の状況であった。
○1483年文明十五年八月十九日に、葛西尚信かさいひさのぶが没し、政信が太守を相続している。
○1483年文明十五年九月には、葛西政信かさいまさのぶ上洛し、継承届けと本領安堵を受け、その時に、伯奢守奥州探題職にも任じられた。「葛西家譜」等で伝えられているが、この時期の伝承は登場人物等矛盾した点も多く、疑問視されている。




奥州葛西一族について
 <<応仁の乱後と陸奥国情勢Ⅱ>>

○1483年文明十五年には、伊達政宗だてまさむね(九代)も上洛し、太刀二十振、馬九十五頭、砂金三百八十両、銭五万七千貫を持参、時の権力者足利義政あしかがよしまさ、その妻日野富子ひのとみこ、将軍義尚よしひさはおろか、管領畠山政長はたけやままさながをはじめ百官随身まで、貢納品を届ける豪勢な ものであった。応仁の乱後、疲弊した貴族たちの気を引くに、十分なものであり、この事を契機に、伊達氏が奥州に相応しい守護職的役割の家柄と都びとに認識させた。
○1485年文明十七年には、江刺隆見えさしたかみが、江刺本所の高寺村で葛西政信かさいまさのぶと戦っている。
○1485年文明十七年八月四日には、南部氏が気仙郡有住郷に進出した。同時期に、和賀定義わがさだよしが相去村を襲った。これは、明らかに南部勢が和賀・江刺氏を唆し、南下作戦を始め、自ら気仙郡を狙った一連の共同作戦であったと伝えられる。
○1488年長享二年正月に、突然大崎義兼おおさきよしかねが、伊達成宗だてなりむねに救済を求めてきた。
これは、文明年間~1488年までは、大崎氏の勢力が頂点まで達しており、葛西勢力圏を圧迫をし、北上川を越え薄衣氏に従属をせまり、多くの葛西重臣の庶子達が大崎家臣に組み入れられていったが、大崎義兼の父政兼が没するや否や、後継争いが起こり、重臣氏家氏に疎外されていた義兼が、叔父内ヶ崎義宣うりがさきよしのぶに身を寄せていたが、大崎公方を継承すべく伊達氏の後ろ盾を求めたのである。
○1488年長享二年八月には、大崎氏は、流地方(岩手県花泉町)、佐沼地方を攻撃し、金田島躰(栗原郡一迫町)城主である狩野信時かのうのぶときと板倉(岩手県花泉町)城主である熊谷直弘くまがいなおひろが戦ったと伝えられている。又、佐沼直信さぬまなおのぶが佐沼城を退去し、替わって米田氏が入城したとも伝えられている。
○1490年延徳二年には、薄衣氏うすきぬしが、葛西政信かさいまさのぶ重信しげのぶ父子に叛き、佐沼城を攻めている。
○1495年明応四年五月には、江刺隆見が、葛西政信に高寺城で叛旗を翻す。
○1498年明応七年には、大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
○1499年明応八年十月には、末永兄弟による葛西宗清かさいむねきよの暗殺未遂事件が起きた。
○1503年文亀ニ年には、葛西政信かさいまさのぶが没し、葛西稙信かさいたねのぶが後継となる。
○1504年永正元年春には、上折壁氏かみおりかべしと遠藤氏が戦い、大原信明おおはらのぶあき浜田基継はまだもつつぐが戦ったが、浜田氏が敗退している。
○1505年永正ニ年にも、薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
この時期を推察できる、一通の書状がある。磐井郡薄衣(岩手県川崎村)城主である薄衣美濃入道うすきぬみのにゅうどうが、1499年(明応八年)12月13日付けで、伊達成宗に送った書状、所謂、「薄衣状うすきぬじょう」である。一部略しながら 見てみると、「冨沢氏と上形氏が共謀して、ニ迫彦二郎を切腹させた。この処理で、古川(大崎氏執事か)氏の扱いが一方的で、冨沢氏を許している。これに怒った柏山重朝、黒沢氏、金成氏が殺した。大崎氏家臣氏家安芸うじいえあきも兵乱を起こして おり、鎮定する為に大崎探題が、江刺三河えさしみかわ薄衣美濃うすきぬみのに出兵要請をした為、1498年明応七年10月15日出陣した。しかし、その留守を狙って10月13日薄衣の弟が、本吉信濃清継もとよししなのきよつぐの後ろ盾で叛き、長谷城ちょうこくじ(登米郡中田町浅水)に集結、12月8日に、葛西惣領軍と共に、攻め来たり包囲した。1499年に入り、2月9日に、下手形しもてがた(上形氏)氏が来援し、柏山伊勢かしわやまいせと合戦して、多くの死者を出した。冬に入り、攻防が激しくなり、12月2日に細川三河ほそかわみかわ摺沢摂津すりさわせっつ、横沢氏、松崎氏が叔父薄衣石見守うすきぬいわみのかみと共に来援したが、相手は本吉信濃もとよししなの小泉備前こいずみちくぜん岩月式部いわつきしきぶの勢力、数千人を加勢させたので、葛西領全体の合戦に至った。さらに、12月10日には、大原伯奢おおはらほうき世田米伊豆せたまやいせ鱒沢越前ますざわえちぜんの勢、五百騎が攻めてきたので、薄衣勢は百騎で迎え撃った。1500年2月には、大崎探題自身も出動し、佐沼に出陣するはずだ、それに応じて糠部(八戸南部)三千騎を始め、斯波、稗貫、遠野、和賀達が南下し胆沢郡の大林城を攻め、出羽からは、仙北、由利、秋田氏の来援するだろう。いくら蛮勇の柏山伊勢でも敵わないわけであるから、伊達兵部成宗様にも出陣して大崎探題を支援し、出兵して頂きた。」




奥州葛西一族について
 <<応仁の乱後と陸奥国情勢Ⅲ>>

この文面より、葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していったこともわかる。
一方、探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し、大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものと推察される。
文明年号末から明応年間(1492年~1501年)の大崎氏の内紛が惹き起こされて、薄衣氏を中心とする葛西領北部の戦いは、伊達氏の仲裁で、一応平静を取り戻した。
それを待ちかねていた如く、鳴りを潜めていた葛西南部諸氏の問題が浮上してきた。
○1506年永正三年には、葛西氏に対抗する為に、桃生郡山内首藤氏ものぐんやまうちすどうし深谷郡長江氏ふかやぐんながえし登米郡登米氏とめぐんとめしは、三郡一揆を結んでおり、深谷冶部大輔ふかやじぶたいふ葛西重信かさいしげのぶと中津山で戦っている。又、長江尚宗ながえひさむね葛西政信かさいまさのぶと中津山で戦っている。
○1507年永正四年八月には、長江氏と葛西氏が、矢本で戦っている。
○同年年永正四年九月二十三日には、流郷(岩手県花泉町)擾乱が起こり、大崎義兼おおさきよしかね葛西稙信かさいたねのぶが戦い、松崎・寺崎氏が熊谷・奈良坂・金沢氏と戦っている。
○1510年永正七年ニ月には、磐井郡川崎の薄衣清貞うすきぬきよさだ・松川氏と磐井郡流郷金沢の金沢冬胤かなざわふゆたねと戦っている。
○1511年永正八年には、葛西宗清かさいむねきよは、山内首藤貞通やまうちすどうさだみちと飯野川で戦っている。又、伊達尚宗だてひさむねが62歳で没している。
同年、江刺・本良氏が葛西家臣となり、葛西氏は、七・八郡を領する事となった。又、登米・山内首藤・長江氏が三郡一揆を結び、葛西太守に反抗していたので、葛西宗清は、石巻を北上し、胆沢・照井氏の軍勢を南下させ、8月から9月頃までに、寺池城や飯野側城を攻略し、三郡一揆勢力を一掃させた。
○1512年永正九年には、山内首藤・登米氏が滅びたので、八・九郡を制圧した事になる。これにより、葛西宗清は、登米郡寺池城に入城し、この地を中心とした。
この時点で、葛西氏は、西国の守護職に相当する大国を形成するようになり、胆沢郡・江刺郡・磐井郡・気仙郡・本吉郡・登米郡・牡鹿郡・桃生郡を領した。
○1519年永正十六年には、磐井郡藤沢の岩渕経平いわぶちつねひらと本吉郡の津谷川常俊つやがわつねとし(芳賀新左衛門はがしんざえもん)が戦っている。
○1520年年代に、同時期に容易に与えられない陸奥守が、葛西氏と伊達氏が重複した事がどの様な事を意味するかが疑問である。 恐らく、葛西氏は、幕府において評価が高かった事もあっため、単なる修飾的称号で与えられたと思われる。葛西氏にとっては、相応しい権威の象徴となったのであろう。一方、伊達稙宗だてたねむねは、これを契機に奥羽諸将に対して守護職の職権を行使していく事になった。
○1521年大永元年には、磐井郡流荘峠(一関市花泉町老松の寺崎茂継てらさきしげつぐ葛西重信かさいしげのぶに叛く。
○1521年大永元年八月には、細川管領の執事の細川平賢ほそかわひらたかから8月23付けの書状を賜る。これによると、「太刀一腰・銭五百足を受領した、有難く思う。ついては祝儀として太刀一振・段子一端・赤引合十貼を送る。」とある。これは、葛西重信が、後継としての届けと、本領安堵の許しを得る為の貢納品に対しての御礼状と思われる。
○1522年大永二年には、葛西重信かさいしげのぶが、将軍より緯を拝領し、左京太夫晴重さきょうだうぶはるしげと改め、その御礼に御太刀(国吉銘)一腰・黄金十両・御馬(鹿毛)二疋を細川高国ほそかわたかくに管領に献上した。その為、12月21日付け「御教書」を戴いたと伝えられている。「葛西家譜」による。
○1523年大永三年には、伊達氏も左京太夫陸奥国守護に任じられる。




奥州葛西一族について
 <<戦国時代の陸奥国情勢Ⅰ>>

○1524年大永四年には、10月24日付けの12月7日着の管領細川高国の書状が残されている。「公方様の御礼のことについて、葛西陸奥守の使者として、岩渕紀伊守いわぶちきいのかみ伊藤大倉少丞いとうおおくらしょうじょうが参詣し、今下国する 路次煩い無く様に思う、喜悦と為す可く候」とある。
○1524年大永四年には、伊達氏は、大崎氏に代わり守護職となる。伊達家文書にも、細川高国が伊達稙宗へ守護職選任を報じた書状が残っている。「奥州の守護式は秀衡己来・・・種々苦労仕り調下申し候」とあり、幕府内でも相当な異論があったと推察される。
これについて、少々疑問を呈するところがある。奥州藤原氏以来の守護職と言えば、陸奥守であるわけであるが、葛西氏も満重に続いて晴重も陸奥守と称した事が、幕府文書にも残されていた。
○1528年大永八年九月三十日には、伊達氏と蘆名氏が、葛西氏を攻めて、りんこう館(石巻日和山城と思われる。)を攻略した。この戦いは、伊達稙宗が何らかの理由で葛西氏を咎めるために、芦名盛舜あしな もりきよの加勢をもらい出陣したもので、1528年大永八年四月十三日に、伊達家臣桜田氏が、長井(長江氏の小野城と思われる。)に陣を構え、芦名軍も先陣四隊と後陣ニ隊が参加し、葛西氏拠点を包囲する中、六月十三日に葛西太守が病死する。葛西軍は動揺し、遂には、九月 三十日に陥落した。戦いは、凄惨を極め、死者が多数出て伊達軍の勝利となり、葛西を領地化することになった。
この事件は、葛西関係文書にはどこにも見えないが、福島県会津で発見された古文書がある。「塔寺八幡宮帳帖とうでらはちまんぐうながちょう」と言われるものが、塔寺村の八幡神社に残されていた。その中には、 葛西主城攻略と太守死亡の事件が記されいた。
又、伊達文書「伊達・蘆名両家関係覚書」にも「・・・亨録(大永八年が8月20日に年号が改める)九月晦日 伊達家 葛西を被領侯由、葛西病死に付、如此之由 依って蘆名盛舜御加勢、人数被遺侯、後二番侯由・・・」と記されている。
この時の葛西太守は、誰かは疑問の余地が残るが、葛西稙清かさいたねきよがその人物であろうと推測される。葛西稙清かさいたねきよは、晴重の嫡男であるが、1523年(大永三年)伊達稙宗の子である牛猿丸うしざるまるを娘に入嗣させ、後継者とされた人物が牛猿丸(稙清)である。 この戦いで包囲された葛西軍が、伊達氏の機嫌の忖度をして稙清を血祭り上げ、牛猿丸(晴清)を後継として事態を治めたと伝えられている。しかし、牛猿丸は、葛西家と意見が合わず、伊達家に逃げ戻ったともいわれている。
○1542年天文十一年六月には、伊達晴宗だてはるのぶは、稙宗を桑折城に幽閉するが、間もなく救出されるが、伊達家がニ派に分かれて争うことにのなった。又、奥州南部国人達も二分して武力闘争を繰り広げることになった。所謂、「天文の大乱」の始まりである。
○1542年天文十一年に、大崎義宣おおさきよしのぶ葛西晴胤かさいはるたねは、父である稙宗派になったが、葛西領地の葛西家臣、柏山・大原・冨沢氏等が晴宗派に属した。葛西領内でもニ派に分かれて争うようになったが、伊達稙宗だてたねむねは、守護職の権限で葛西家臣団に協力を要請したことが、 軍忠状や宛行状の形で残されている。
○1543年天文十ニ年五月には、袋中(佐沼地域)で戦いとなり、葛西晴胤が、大谷(黒川郡地域)に追撃したと伝えられている。
○1544年天文十三年には、葛西氏と大崎氏の稙宗派内で争いが起こり、国分能登守こくぶんのとのかみが、斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った。
○1546年天文十五年に、晴宗が西山城から白石城を攻めたことから、再び争いが始まった。
○1547年天文十六年に、三迫戡定みはざまかんていがあり、葛西氏が勝って争いを平定したと伝えられる。
注)戡定とは、勝って乱をしずめること。平定。との意




奥州葛西一族について
 <<戦国時代の陸奥国情勢Ⅱ>>

○1548年天文十七年一月十八日に、晴宗派の留守景宗るすまさかげが柏山氏と共に寺池に向かい、寺池城を攻撃した。
○1548年天文十七年五月三日に、将軍足利義輝あさいかがよしてるより伊達晴宗に対して和睦勧告の書状が届き、晴宗の主導で事態の和解を進めていくことになった。
○1548年天文十七年九月には、伊達稙宗が、丸森の丸山城に隠居することで、和解が成立した。これにより、六年三ヶ月の「天文の大乱」が終息した。
○1553年天文ニ十ニ年正月には、伊達晴宗は、叛臣の知行地を没収して、功臣に再配分する、新しい「采地下賜録さいちかしろく」を作成した。石高表示が明確に示され、石高に合わせた軍役を確定させた。稙宗以上に確固とした家臣掌握を完成させた。 この天文の大乱は、伊達氏内紛ではあったが、逆に、伊達氏の守護としての勢力圏内の統一を促進させた。
一方、葛西氏の立場は、伊達氏にとって肉親的存在と呼ばれるようになり、1576年の相馬氏攻めに協力を要請されたり、1588年には黒川氏攻めに鉄砲隊の派遣を要請されたりしたが、葛西氏は大崎氏と違い、最後まで独立国として体制を保ち、実力を温存させることができた。とどのつまりが、伊達氏の北進が留守・長江領に留まり、大崎領は辛うじて馬打ち領で残ったが、葛西領以北はこれからというとこであることは、葛西氏の体制が温存されたということに なる。
○1571年元亀ニ年三月には、大崎氏は、最上義光の応援を受け、流郷(岩手県花泉町)の入口の有壁(宮城県栗原郡)に大攻勢をかけてきたが、葛西前線が末野-藤渡戸-金成-武鑓むやり-石越であった為、流郷の寺崎氏を始め、武将たちがこの攻勢を防いだ。葛西軍は、兵力を結集して反撃に移つた。
○1572年元亀三年ニ月には、葛西軍は、攻勢に出て石越-若柳-大村へわずかだが南方に前進した。
○1573年元亀四年三月には、葛西軍は、武鑓-大村まで突破口を開き、有賀-金成まで西進し、雪崩を打って岩ヶ崎へ突入し三迫を制圧した。さらに、奥大道を南進して金田荘(一迫町)まで進出した。その後、葛西軍は、ニの迫を制圧して、栗原郡(現、栗原市全域)全郡を勢力下に治めた。
三迫の冨沢氏の変幻自在の動きはあったが、葛西勢は、ニ百年ぶりに大崎氏によって失った領地、三迫の地を取り戻すことができた。
○1582年天正十年には、伊達政宗は、元服して初陣に、佐竹氏に後押しされた蘆名・岩城氏連合軍と対峙していた。一方、葛西晴信は、北方戦線で南下する九戸政実を迎え撃つたり、領国内の家臣柏山・米合・浜田・薄衣・江刺氏等が蜂の巣を突いた様に紛争を巻き起こしている最中 であった。
○1587年天正十五年には、豊臣秀吉が関白となり、聚楽第で政務をとり始めており、奥州の伊達政宗は、相馬氏と和睦し、伊達輝宗が畠山氏に討ちとられが、畠山氏を滅亡させ、大崎氏を攻めたが大敗した。また、蘆名氏・佐竹氏とは、それぞれ和睦し兵を納めた。その間、政宗は、従五位下美作守みまさかのかみ・左京太夫に任ぜられている。一方、 葛西晴信は、北辺の争いを治めたものの、続いて、元良・浜田・藤沢氏の争乱があり、なんとか鎮定させた。その間、従五位下相模守・左京太夫に任ぜられたと「葛西家譜」に、伝えられている。
これ以後、葛西晴信は、領国内の争乱の鎮圧に明けくれ、領国外の情勢に疎かになり、伊達政宗の情報頼りとなってしまった帰来があり、小田原参陣もできず、奥州仕置きにて領地没収となり、葛西領は関白秀吉の側近木村弥一郎右衛門吉清きむらやいちろううえもんよしきよに与えられた。
領地没収後、木村父子の強引な検地がなされ、旧家臣・農民の怒りが爆発し、葛西・大崎一揆が起こる事になった。




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅰ>>

葛西氏初代の葛西清重かさいきよしげ は平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元ととしまみよもと(清光)の三男、下総国葛西御厨しもうさのくにかさいみくりや(東京都葛飾区の葛西城を中心に江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした。清元・清重父子は 源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加した御家人である。清重は奥州合戦で武功を立て、奥州藤原氏が滅ぶと奥州総奉行に任じられ、陸奥国に所領を得た。江戸時代の地誌では、奥州に入った清重は、奥州 藤原氏の本拠地である平泉ではなく、石巻の日和山に城を築いて本拠にしたとされる。
平泉柳之御所跡ひらいずみやなぎのごしょあとから金鶏山きんけいさんを望む 日和山から北上川を望む
平泉柳之御所跡から金鶏山を望む写真 日和山から北上川を望む写真
清重自身は奥州の安定をみてから鎌倉で幕府重臣として活躍したとのことであるが、葛西氏の正確な資料が存在せず、石巻と鎌倉を往来する領国経営だったと思われる。南北朝時代には本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したとされるが、本拠地の移転は鎌倉時代には、既に行っていたとする説もある。また本拠地を石巻から寺池に移転にしたことに関しての資料もなく、今もなお 不明であり、推測に過ぎぬない。はっきりしている事は、この頃に権勢を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力守護としての地位を確保したことである。室町時代から戦国時代初期にかけて石巻に本拠を構える「石巻系葛西氏」登米郡に本拠を構える「寺池系葛西氏」に分裂し内紛状態にあったが、寺池系葛西氏であり、葛西家宗主であったとされる葛西満信かさいみつのぶ宇都宮氏広うつのみやうじひろとの争いに勝ち、伊達氏と結んで統一をする。隣国の大崎氏と徹底して対立する構図となる。しかし、この抗争は決着がつかず、また伊達氏庶子を養子として迎え入れるにあたり、家臣団内の混乱を招き、かえって葛西氏の勢力を衰退させた。 家臣団の動きは、有力家臣である浜田氏の独立、浜田氏と熊谷氏(気仙沼熊谷党)との相克と領国における豪族の統制もうまくいかず、第17代当主葛西晴信のときに豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できなかった。 要因は、諸説あるが葛西領国内の抗争に時を費やし、中央政権の動向などの情報を得ることができず、大局を見切れなかった事にある。当時、奥州では伊達家周辺大名・国人衆は、中央政権の動向に情報を得るには伊達氏を通したものが多く、伊達家の行動に幻惑され道を間違えた帰来がある。
天正十八年七月に、伊達政宗が葛西晴信へ送った書状には、「奥州の義は申すに及ばず、出羽に至るまでも御仕置きは、当家へ仰せ付けられる」と記されていた。又、「葛西真記録」には、天正十八年七月奥州仕置軍の主力、 蒲生氏郷がもううじさと木村弥一右衛門きむらやいちろうの軍を伊達政宗だてまさむねが案内役を務めた。これに対して、葛西方は、桃生郡深谷の神取山かんとりやまと栗原郡森原に陣をおいて交戦したが、本城寺池城に追い込まれ、籠城したが落城した。 しかし、「大崎記」には、「将軍の御勢い向かい、戦うすべなく、八月にはおちうせにける」とあるように、仕置軍の威容さにを目にして、戦意喪失し逃げ散ったではと 思われている。
葛西晴信は、天正十八年八月に黒川郡大谷荘を賜り同地に住んだと記されており、自刀せず、葛西再興を働きかけた。天正十八年十一月の蒲生氏郷が政宗に宛てた「葛西身上の事」をみても分かるようである。
天正十八年秋に起こった葛西・大崎一揆の発生で、葛西氏再興は沙汰止まりとなり、晴信は前田利家の加賀国へ流浪するとなり、1597年(慶長2年)、晴信の死去で大名としての葛西氏は滅亡した。




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅱ-1>>

佐沼城祉は、1185年(文治元年)平泉藤原秀衡ふじわらひでひらの家臣、照井太郎高直てるいたろうたかなおの築城と伝えられ、鎮護の為、鹿を生き埋めにしたということから、別名 鹿ヶ城ししがじょうとも言われている。 鹿ヶ城(佐沼城は、その後葛西氏所有となったが、大崎氏家臣の佐沼氏、石川氏が代々の居城となる。葛西・大崎一揆の最後の牙城とな ったが、伊達政宗の討伐軍に掃討された。葛西・大崎一揆軍の処罰は厳しく、数千人が処罰され、今も、首塚が残されている。
葛西家臣の斬殺が各所で行われ、殿入沢跡とのいりさわ(宮城県河南町須江糠塚)は、天正19年の悲劇の舞台となったところで、旧家臣大槻但馬守おおつきたじまのかみの碑が立っている。水田の中に島のように浮かぶ須江山すえやま(標高92m)がある。
佐沼城祉
佐沼城址碑(鹿ヶ城址) 鹿ヶ城址
佐沼城址碑(鹿ヶ城址) 鹿ヶ城址
佐沼城址地図
佐沼城址地図
住所:宮城県登米市迫町佐沼




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅱ-2>>

二桜城址におうじょうは、岩手県花泉町、JR東北線清水原駅の南、きつい石段を上がったところに位置する。花泉町内を見下ろす、金流 川に沿った耕地を取り囲むようになだらかな丘陵地帯が続く、文治5年(1189年)に葛西領となる。
二桜城址 二桜城址案内
二桜城址 二桜城址案内
二桜城址地図
二桜城址
住所:岩手県一関市花泉町金沢清水下




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅱ-3>>

薄衣城址うすきぬじょうしは、岩手県東磐井郡川崎町薄衣にあり、1252年栗原郡に3千余町を与えられた千葉介胤堅ちばたべかたが下向し、薄衣に居住したことが始まり。
薄衣氏は千葉介泰胤ちばすけやすたねを祖として、その子、胤堅を初代に据える。
薄衣城址地図
薄衣城址
住所:岩手県一関市川崎町古館
大原城址は、岩手県東磐井郡東山町に位置し、葛西家臣大原飛騨守胤重おおはらひだのかみたねしげの居城。奥州仕置軍を迎え撃つ葛西軍の大将、戦いの末滅亡した。
大原城址地図
薄衣城址
住所:岩手県一関市大東町大原字川内
藤沢城址は、岩手県東磐井郡藤沢町に位置し、葛西家臣岩淵氏の居城。 (現在、館山公園となっている。)
藤沢城址地図
藤沢城址地図
住所:岩手県一関市(旧藤沢町)藤沢町館平
唐梅舘からうめだては、岩手県一関市東山町長坂に位置し、猊鼻渓の景勝地に隣接、葛西家臣長坂太郎良胤ながさかたろうよしたねの居城。
唐梅舘跡地図
唐梅舘地図
住所:岩手県一関市東山町長坂
赤岩城址(気仙沼地区)は、中世の気仙沼に君臨した熊谷氏の根拠地(気仙沼バイパス、国道284号立体交差付近の小高い丘)
気仙沼の雄、熊谷氏の先祖は、源平の合戦で有名な武将熊谷直実くまがいなおざんねである。ルーツは埼玉県熊谷市、直実の孫にあたる直宗が承久の乱(1221年)に出陣した後、直実が得た気仙沼庄を現地経営するために下向したのが、統治の始まりである。熊谷氏は葛西氏の家臣ではなく、1363年に熊谷直明くまがいなおあきの嫡子直政なおまさが争いの後、葛西氏に降伏 したことから家臣となる。 三陸沿岸の気仙から歌津~本吉地域には、北から浜田市、熊谷氏、馬籠氏、本吉氏等の葛西氏の大部族の根拠地でもあった。特に、宮城県歌津町と本吉町に跨る 田束山たつかねさん標高512mは、北~南に上記の部族にとって、戦略的地点である。各諸氏は戦国末期中心に、武勇の名をはせた方々であった。
赤岩城址付近地図
薄赤岩城址付近地図
住所:宮城県気仙沼市月立赤岩ヶ沢
気仙けせんは、岩手県南東部の二市二町をさす。気仙地方は「延喜式」にある・・計(け)仙(せ)麻(ま)に由来するものという。蝦夷の言葉で「けせ」は「終」、「ま」は「入江」の意味と言い、律令時代から海路の果ての蝦夷地方とみなされた。
気仙で活躍する武族の基となる矢作やはぎ氏が居住した地域で、矢作氏は千葉介胤正ちばすけたねまさを源流とする馬籠まごめ氏の初代忠広ただひろの子広胤ひろたねを祖として、千葉一族が奥州に下向始めたから1 00年後、1300年頃が初めである。
矢作氏は、貞治3年(1364年)頃、広田湾に進出し兄弟が分かれ、浜田氏、長部氏、高田氏を名乗ったと伝えられる。なかでも頭角をあらわしてきたのが、浜田氏 であった。葛西氏が小田原参陣を果たせなかった唯一の要因で、幾度となく勢力争いが繰り広げられ、脅威の的となった葛西晴信が小田原参陣ができず、奥州仕置 にて滅亡の道を辿る羽目になった。(一説には、伊達政宗の策略も、参陣できなかった要因とも言われている。)
寺池城祉城門跡 寺池城祉石垣跡
寺池城祉城門跡写真 寺池城祉石垣跡写真
寺池城祉地図
寺池城祉地図
住所:宮城県登米市登米町寺池




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅳ-Ⅰ>>

江刺郡は、葛西七党の一としての江刺えさしが、岩谷堂いわやどう城主として、江刺 郡全域を支配していた。葛西一族の大身であったが、1498年~1499年の明応の乱で薄井うすい氏、摺沢すりさわ氏、横沢よこさわ氏とともに大崎探題派につき、葛西太守派と葛西領内を二分する争いを起こした。1500年代後半に次々と争いを起し、17代葛西晴信を苦しめた反骨の主であった。「江刺郡」は、奥羽五郡のうち最北端に位置し、南部氏、和賀氏と接する国境地帯、内陸と沿岸を結ぶ交通の要衝であり重要な戦略拠点であった。
胆沢郡は、岩手県金ケ崎町永吉の舌状ぜっじょう大地の上に柏山かしわやまの居城、大林城があった。胆沢領内は、有力な穀倉地帯であった為、葛西氏は、百岡(金ケ崎)に柏山氏、水沢に佐々木氏、前沢に三田氏を配した。
一説によると、柏山氏の初代は葛西清重の家臣千葉明広ちばきひろが、胆沢郡一円統治の地頭に任ぜられ、1202年(建仁二年)に百岡ももおか城を大林城と改め居城とした。名も千葉氏を柏山氏と改姓した。
磐井郡は、岩手県南部の磐井地方に位置し、延暦年間(792年~806年)に磐井郡として誕生、東山(東磐井)、西磐井ながれ(花泉地方)に分かれていた。
西磐井は、「一関」地域と「流」地域に分けられる。
「一関」は、平泉の南に位置する一関し、葛西氏の宿敵大崎氏の勢力圏だった宮城県栗原郡と接する要所でもあった。鎌倉時代から旧家黒沢、小野寺氏、室町時代には小岩、猪岡、小野寺氏(先の小野寺氏とは別氏)らの家臣が固めていた。
小野寺おのでらは、奥州征伐後、出羽国(秋田)で武勲を上げ当地に移ったといわれ、小野寺道綱おのでらみつつなが祖とも言われてる。又、1362年(貞治元年)奥羽山脈を越え葛西領に入り、家臣となり一関に居城したとも言われている。
黒沢くろさわは、葛西清重きよしげの子時重ときしげを初代とし、1225年(嘉禄元年)に黒沢邑に三千余町を拝領したと言われており、葛西氏との姻戚関係を結び、1500年代初めには、当主黒沢信資くろさわのぶすけが勇名を馳せたが、それい後衰退し小岩氏が台頭してきた。
小岩こいわ氏は、信濃(長野県)の甲斐源氏の武田氏を祖とし、1543年(天文三年)に百岡から磐井郡に移り、葛西氏の信頼を得て、大崎領境を固める重責をになった。
ながれは、岩手県最南端に位置し、古くから十六郷が含まれ、東西14km、南北16kmの範囲で小さな集落が点在している。拠点として二桜城があり、花泉町内が眼下に金流川に沿った耕地を取り囲むように、なだらかな丘陵地が続くところである。
1189年(文治五年)葛西領になって以来、流地方にさまざまな家臣が侵入し、抗争を繰り広げていた。1400年~1590年の190年間で30余回の戦いがあったと記録に残されている。町内の城館数は、調査によると37ヶ所と最も多いとされている。
これは、大崎氏の攻勢を受けやすい領内の位置と群雄割拠をさせる地理が度重なる攻防を生んだ要因とされている。
最初に流地域を支配したのは、中村氏でった。1300年から中心市街地を拠点としていたが、次第に奈良坂氏、清水氏、金沢氏、寺崎氏の四氏はそれぞれ拠点を構え天正末期まで争いを 繰り広げた。
奈良坂ならさかは、西部の高村館を居城とし、黒沢氏(一関)との関係を密接にし中央部進出を目論んでいた。
清水しみずは、二桜城を本拠地とし流地域の中央に位置している為、周辺から攻撃の的になっていた。
金沢かなざわは、金流川を隔て二桜城東側に立つ朝日館を本拠地としていた。
寺崎てらさきは、北上川河岸の日形峠城に拠点を構えていた。


東磐井は、北上山地の山深いとことは違い、比較的に平坦近く標高300~400mの起伏の富んだ丘陵地帯で隣町に行くには峠越えが殆どのところである。地理的要因から東磐井郡の葛西一族には個性的な有力家臣がひしめきあっていた。
薄衣うすきぬは、川崎村薄衣に居を構え、重要名物資輸送路を固めていた。薄衣氏は、千葉介ちばすけの一族泰胤やすたねを祖とし、その子胤堅たねかたを初代とし、1252年(建長四年)栗原郡に300余町を与えられ>胤堅が、下向して薄衣に居住したのが始まりである。薄衣千葉氏が葛西家臣となり、 薄衣氏と改姓したのは、1342年(興国三年)であった。薄衣千葉氏四代清村きよむらが、南朝方であった葛西七代高清たかきよに敗れたのがきっかけであると言われている。
薄衣美濃入道うすきぬみのにゅうどう伊達成宗だてなりむねに宛てた派兵要請書簡「薄衣状うすきぬじょう」が歴史的にゆうめいである。これは、1498年~99年(明応七年~八年)に葛西太守相続を巡って、太守派と大崎探題派に別れ争ったことであり、江刺氏、薄衣氏が大崎探題派として太守派と争ったものである。
岩渕いわぶちは、藤沢町一体を支配した葛西家臣である。初代は清経きよつねといい、1305年(嘉元三年)奥州に下向し、藤沢に居住したといわれ、藤沢町の町の北に藤沢城を構え居城とした。通称館山(218m)に東西百間、南北六十間、二の丸は東西九十間、南北四十間の城で、亀に似ているところから 亀山城とも呼ばれ、東磐井の要塞であった。
大原おおはらは、葛西氏に最期まで忠誠を尽くした家臣であった。岩手県大東町を拝領し、東磐井郡で最大の面積・人口を有し、約75%が山林原野の丘陵地であつた。中心地大原は、北東に気仙郡、北の遠野盆地に向かう交通の要所で、金や砂鉄を産する地域で豊かな土地でもあった。
大原氏は、千葉介一族の子孫とも伝えられるが、様々な言い伝えがある。1230年(寛喜二年)頼胤よりたねが奥州へ下向し、その子千葉飛騨守宗胤ちばひだのかみむねたねが大原山吹館やまぶきかんに住んだとか、1276年飛騨守胤常ひだのかみたねつね葛西五代清信かさいごだいきよのぶに従って奥州に下向し、この地に移ったとある。諸説が入り乱れている。
大原城は山吹館とも呼ばれ、南北22間、東西54間で、現在の町役場や県立大東病院がある市街地の北側迫る城塞である。本丸跡には大きな銀杏のきがそびえている。
大原氏はほぼ一貫して葛西太守側に立ち反抗を企てることはなかった、宿敵大崎氏との戦いには何度となく出陣し、多くの戦死者を出しながらも、領内を二分する明応の乱においても、太守派を支える側に立った。
この従順ある姿勢は、戦国期には保護を求めて逃れてくる一族が少なくなかった。一説には、気仙沼の熊谷直氏くまがいなおうじ、奥玉(千厩町)の千葉胤時ちばたねとき、松川(東山町)鳥畑とりはた氏などがその一族であったとも伝えられている。
大原氏は、1590年8月(天正十八年)奥州仕置の戦いでは、葛西軍の大将として神取山に陣をとり、赤の旗印の下で精鋭1700騎で北上する仕置軍と戦う戦法であったが、深谷の和渕(河南町)で葛西軍800騎を破った仕置軍は、神取山に目もくれず葛西氏主城の寺池(登米町)に向かわれ徒労に終わった。まもなく滅亡の日を迎えることになった。
長坂氏ながさかは、千葉介一族の子孫で東山に定着の時期は定かではない。長坂太郎良胤ながさかたろうよしたねが1191年(建久二年)百岡ももおか館より唐梅からうめ館に移ったとされる。良胤よしたねから8代目の顕胤あきたねが1300年前半に南朝方の北畠顕家きたばたけあきいえに仕え活躍したが、討ち死にしたとの記録が残っている。
長坂城(唐梅館)は、1590年葛西家臣が小田原参陣について首脳会議をしたところである。1590年四月十七日に会議が開かれ小田原参陣を断念したところである。これは、気仙の大和田氏の反発、浜田氏の不穏な動向、栗原郡の富沢氏の反抗も予期することで、葛西氏としての動きが できず小田原参陣断念せざるを得なかった。
長坂氏は、奥州仕置の戦いでは、薄衣甲斐守が大将を務めた森原山(宮城県高清水町)で軍勢の旗脇の一人として参陣した。この時の旗脇は、長坂大膳ながさかだいぜん千葉胤村ちばたねむらであった。
奥州仕置の戦いで、葛西氏は滅亡するが、多くの東磐井の有力家臣が出陣していった。これは、古くから葛西氏との継がりが深かった土地であったからである。参陣した有力家臣は、黄海きのみ城主深掘氏、鳥海ちょうかい城主鳥海(及川)氏、上下折壁城主千葉氏、千厩せんまや城主昆野こんの氏、釘子くぎこ城主柴股しばまた(柴又)氏 などである。




葛西領内の部族・拠点に関して
 <<葛西氏拠点Ⅳ-Ⅱ>

気仙郡けせんぐんは、岩手県南部の二市二町を指し、現在の大船渡市、陸前高田市、住田町、三陸町である。
気仙で活躍するのが矢作やはぎと言われている。矢作氏は、千葉胤正ちばたねまさを源流とする馬籠まごめ氏(宮城県本吉町)初代忠広ただひろの子広胤ひろたねを祖としている。1364年(貞治三年)頃、広田湾に進出し、兄弟が分かれて浜田氏、長部氏、高田氏を名乗る様になった。特に、浜田氏は頭角をあらわし 勢力を強め葛西氏末期には、小田原参陣を思い留まらせる要因になる程の勢力となった。その動向は、”暴れん坊”と呼ばれる程であった。
これは、浜田はまだの祖である矢作重慶やはぎしげのぶの長子胤慶たねのぶされるが、一説では、浜田氏が隆盛時に、葛西十代持信かさいじゅうだいもちのぶの甥にあたる基継もとつぐが、養嗣子に迎えられたことで、葛西太守との血縁関係が出来たことが起因したことからである。
浜田氏の主城とされる米ケ崎城は、広田湾の中央に突き出した小さな半島にあった。
米ケ崎城地図
米ケ崎城地図
住所:岩手県陸前高田市米ヶ崎町館
1500年代半ばから争乱を頻繁に繰り広げ、気仙沼を隔てて、南の本吉氏と幾度となく勢力争いを続けていた事など葛西氏にとって油断のできぬ一族であった。1587年(天正十五年)に始まる浜田広綱はまだひろつなが本吉に侵入した件が、一端収まったようであったが。 、翌年には気仙沼に侵攻して迎撃する太守軍と半年におよぶ激戦を繰り広げた。
葛西太守軍は熊谷氏の力を借りて迎撃したが、それい後、浜田氏の動きは、葛西氏最期まで脅威を示すものであった。
本良荘もとよししょうは、中世の気仙沼を支配したのは熊谷氏とされる。東西約350m、南北300m、高さ87mの小高い山に赤岩あかいわ城(館)を構え居城とした。当時は、海岸線が深く入り込んだところと考えられていた。城近くまで船が往来していたと推測される。
又、東磐井郡の大原(岩手県大東町)方面と薄衣(岩手県川崎村)方面へ通ずる街道の起点ともなり、気仙沼湾の要となる場所であった。
熊谷くまがいの祖は、源平合戦で有名な武将熊谷直実くまがいなおざねである。埼玉県熊谷市がルーツであり、直実の孫直宗なおむねが、1212年(承久三年)の承久の乱に出陣し武勲をたて、本良荘を拝領したことに始まる。従って、 鎌倉御家人の一人として下向、葛西家ではなかった。
1336年(建武三年)に、葛西七代高清が馬籠(宮城県本吉町)に侵攻し、さらには、気仙沼に攻め込み熊谷氏と戦った。しかし、天然の要害赤岩城を攻略できず撤退したと言われている。 その後、勢力拡大を図る葛西氏と守りの熊谷氏は、力関係上気仙沼に封じ込められてしまった。それ27年後、1363年(貞治二年)には、熊谷直明くまがいなおあきの嫡子直政なおまさが葛西氏に降伏し家臣となった。
熊谷氏は、赤岩城のほかに、築館、中館、長崎館を設け地域内の実権掌握に務めた。
1588年(天正十六年)浜田軍が鹿折地区に侵入し迎撃戦となり、浜田安房守広綱はまだあわのいかみひろつなの猛攻を受けたが、熊谷直長くまがいなおながが葛西晴信の応援を得て浜田氏を退けた。その後も戦いが続いたが、浜田広綱が敗北を喫する結果となり、熊谷直長が葛西晴信より、気仙、江刺、磐井、胆沢内郡の仕置を命じられた。けれど、奥州仕置で葛西自体の四百年の幕が閉じる直前であった。
赤岩城址付近地図
赤岩城址付近地図
住所:宮城県気仙沼市月立赤岩ヶ沢付近
本吉郡もとよしぐんは、「本吉町誌」によると、入谷、歌津、馬籠、山田、津谷と推定され、本吉郡南部の荘園には、平泉藤原時代の庄司(現地管理者)として藤原氏重臣の信夫庄司一族の佐藤氏が配置されていた。 鎌倉時代になってすぐ関東武者の勢力下に置かれたのではなく、しばらく佐藤氏が現地支配をしていた。その後、千葉氏が入り、一時佐藤氏の居城信夫館に居住したあと遠野とおの城を構築し本拠地とした。
従って、葛西家臣ではなく、1339年(暦応二年)頃、南北朝時代に葛西氏に進行され降伏したことにより、千葉氏から馬籠氏に改姓したと伝えられる。
馬籠まごめは、千葉介常胤ちばすけつねたね胤正たねまさを祖とし、1289年(正応二年)桃生郡深谷の地頭千葉忠広ちばただひろが本吉郡に移封され 馬籠に落ち着いたことが始まりである。馬籠集落は、内陸から沿岸に通じる街道の峠に位置し交通の要所でもある。
1336年(建武三年)四月頃、葛西七代高清たかきよが、馬籠の遠野とおの城に襲いかかつたが、千葉行胤ちばゆきたねが応戦し、葛西軍は一端引き上げる結果となった。再来襲に備え、気仙沼の熊谷氏に救援を依頼した。これは、熊谷直時くまがいなおときの母が千葉行胤の伯母にあたり血縁関係があったからである。再来した葛西高清軍に対して馬籠軍も善戦したが、遠野城は葛西軍に囲まれ落城は免れたが、千葉行胤ゆきたね胤久たねひさ行範ゆきのりの三兄弟と 行胤の子行重ゆきしげ広次ひろつぐが戦死する悲惨な結末となった。その後、馬籠氏の動向は途絶えたが、葛西氏の家臣となり千葉氏を馬籠氏に改姓した。
馬籠氏が再度歴史に登場するのは、1409年(応永十六年)に、歌津に津意院を創建したと言う馬籠四郎まごめしろうからである。
1429年(永享元年)に熊谷氏と争った馬籠修理亮政行まごめしゅりのすけまさゆき、1504年~20年(永正年間)に本吉氏と清水川(宮城県志津川町)で戦った修理政行の名が見受けらる。
1586年(天正十四年)馬籠氏の主城は遠野城であるが、馬籠四郎兵衛まごめしろうひょうえ重胤しげたね)なる人物が歌津城主に迎えられた。本吉氏とも一戦を交えたりしたことで、葛西氏直臣とも言われた。
1590年(天正十八年)佐沼城籠城で名を残された武士として、馬籠氏、佐藤氏以外で八幡館の山田氏、菅原氏、要害館の芳賀氏、浅野氏、津谷城の米倉氏、照谷てらがい(寺谷)館の斉藤氏、小泉城の三城氏らの氏族が挙げられる。
本吉氏は、葛西太守の分流であり、戦国時代末期、沿岸の葛西家臣で、北から浜田氏、熊谷氏、馬籠氏とともに反抗を繰り返した一族である。
志津川地方は、湾が深く入り込み、背後に300~400mの山が立ち、地形が大きな要塞の形を作っていた要害地。平泉藤原氏荘園として独立していたが、源頼朝の奥州征伐後、千葉介常胤の一族が拝領したところであると言われている。 本吉もとよしは、葛西九代満信かさいきゅうだいみつのぶから分かれたと伝えられ、その子西館重信にしだてしげのぶを祖としている。本吉氏と名乗るのは、その孫信胤のぶたねの代とも言われ、朝日館を居城とした頃である。朝日館 は、標高70m、東西約300m、南北約500m、西側を除く三方は垂直に切り立っち台状の地形に、本丸が80m四方に広がり戦国武将に相応しい館であった。
志津川周辺は、葛西家臣が既にひしめきあう地域であったが、本吉氏が勢力を拡大出来たのも、葛西太守を直接先祖として持つ所以からであると推測される。
本吉氏は、1511~15年(永正八年~十二年)の永正の戦いで、葛西氏が桃生、登米、深谷三郡の反抗を制圧した際に論功あげたが、その後、度々太守に反乱を起こしたり、江刺氏、浜田氏、馬籠氏と争いを繰り広げた。
*葛西氏家臣の度重なる争いごとが繰り広げられた要因は、葛西氏の戦略で、勢力維持のため、家臣を互いに挑発させ、戦わせ征伐に乗り出し、制裁と恩賞を与える、アメとムチの戦略で広大な領地を、多くの強力な家臣を抱える 葛西氏の方策であったとも言われている。
朝日館から川を隔てて菩提寺大雄寺がある。境内には、「良元正鉄大居士」と記された碑に1592年(文禄元年)とある。恐らく、最期の当主本吉重継もとよししげつぐの墓と推測される。
桃生郡ものうぐんは、北上川水系の下流域で、葛西一族が最期の抵抗を示した戦場であり、多くの家臣が犠牲になった所でもある。
・1590年(天正十八年)奥州仕置軍を迎撃すべく和渕、神取川(宮城県河南町、桃生町)の地。
・1591年(天正十九年)旧葛西将士誅殺事件の舞台になった須江山(宮城県河南町須江)、古い地名で深谷と呼ばれる一帯は、葛西忠臣の滅亡の土地として、一族末裔が記憶に焼き付いている地でもある。
桃生地方に代表とされる一族が山内首藤氏であった。山内首藤氏は、源頼朝の乳母を務めた家系で、平泉討伐で活躍した経俊(名前不明)が桃生郡を拝領したのが始まりとされている。最初に落ち着いた地が、吉野村(河北町)であつた。一地頭に過ぎなかったが、 北上川の水上交通路を押さえて勢力を伸ばした。1400年代前半では、大崎氏奥州探題の下の席順の記録によると、葛西氏と肩を並べる程の位であったとされている。
1500年頃には、全盛期を迎え、居城を桃生町の永井城から河北町の大森城、七尾城に移動したほどであった。
・1511年(永正八年)境界争いに端を発し紛争が起こり、葛西太守は山内首藤氏の拠点に海上と陸上から大軍を派遣した。山内首藤氏は地の利を得て奮闘したが、大森城が落ち七尾城も落城し敗退した。
・1515年(永正十二年)葛西宗清の奇襲により、山口首藤貞通の嫡子知貞ともさだをはじめ一族が滅亡させられた。
この背景には、葛西太守と葛西四家老(赤井、末永、福地、内田氏)の主導権争いのなかで、反太守派の策動の犠牲になったとも言われている。福地氏は山内首藤一族ではあったが、葛西氏の家臣として仕え、 山内首藤氏とは一線を画すことになった。
さらに、桃生郡南部の深谷には長江氏がいた。鎌倉権五郎景政かまくらごんごろうかげまさを源流とする子孫美景よしかげが深谷を拝領して定着したとされている。大崎探題の席順記録によると山内首藤氏と同等位で独立した氏族であった。 小野城(宮城県鳴瀬町)に拠点を構えていた。葛西勢力圏の最南端に位置していたが、葛西氏勢力より離反し伊達氏の勢力下に入っていった。
長江氏の中で特筆することは、大崎氏との戦いに敗れて最上氏の人質となった月鑑齊(長江氏の家老)は、反骨の武士として名高い人物がいたが、伊達政宗の命により惨殺された人物がいたことである。
七尾城
石巻市中野
七尾城址付近地図
栗原郡くりはらぐんは、北上川支流である迫川の上流にあたる地域で、南から一迫、二迫、三迫に分かれる。
三迫を拠点に最大勢力を誇示していたのが富沢氏である。一説では、葛西太守の子とされる右馬介(うまのすけ)が始祖であると言われてている。
・1351年(観応二年)に、奥州探題を名乗っていた吉良、畠山両氏のが岩切城(仙台市宮城野区岩切)で戦ったおり、吉良方について戦功を上げ岩ケ崎に所領を得て定住して鶴丸城(岩ケ崎城)を築いた。
鶴丸城は、東西約650m、南北約400m、高さ100mの小高い山に構築されている。栗駒町の中心地岩ケ崎の町並みの北端、岩ケ崎小学校の裏方に位置している。
富沢氏は、葛西氏の流れを汲むものであったが、栗原郡は長きにおいて大崎氏勢力園であったこともあり、あるときは葛西氏、あるときは伊達氏に帰属を変えるありさまであった。
・1573年(天正元年)には、葛西・大崎の戦いの末に、大崎氏から葛西氏に戻った経緯がある。これは、葛西十七代晴信が大軍を率いて金成方面から三迫に侵入し、鶴丸城を落城させた結果、葛西氏が大崎氏より 念願の栗駒郡を手中におさめ、領土拡大を図ったからである。この時点で、栗原郡内の富沢氏をはじめ沼倉、尾形、渋谷、狩野氏の旧臣たちが葛西氏に復帰した。
その後、富沢氏は、葛西氏にしつこく反抗を繰り返し、富沢日向守直綱とみざわひゆうがのかみなおつなやその子直景なおかげの時代に磐井郡の流地方(岩手県花泉町)に度々侵入し、寺崎氏と衝突をした。富沢氏は、気仙の浜田氏同様葛西晴信を悩ませ、 小田原参陣をあ諦めさせる要因となった。
二迫川流域の尾松上面(宮城県栗原町)には、上杉氏なる氏族が勢力を持っていたが、詳細は不明である。
一迫川一帯には、宮野氏の勢力圏内である。葛西初代清重の子時重が1249年(建長二年)宮野の地を拝領されたことが始まりとされている。
岩手県境の栗駒町沼倉を拠点として勢力を保持しているのは沼倉氏であった。葛西・大崎氏両氏に仕えていたが、その内の一派が米川(東和町)に移ったとされ、登米郡東和町に、現在 沼倉姓が多いということが物語る。
*栗原郡は、葛西・大崎氏が150年にわたり争奪戦を繰り広げていたのは、栗原郡は村の数、米の石高とも葛西・大崎領内で最大規模(江戸初期伊達藩記録による)あったからであり、豊かな経済力が望まれるところで あった。従って、葛西氏に富沢氏が反抗した要因が推測される。
鶴丸城
栗駒市岩ケ崎裏山
鶴丸城址付近地図
登米郡とめぐんは、1276年(建治二年)葛西五代清信かさいごだいきよのぶが、本領を直接統治する為、家臣を伴い奥州に下向した。その折、後見役として付き添いが千葉介の武将の一人亀掛川左馬介胤氏きけがわさまのすけたねうじである。胤氏は登米郡に領地を賜り、米谷に落ち着き米谷城を築いたと言われている。その後、水越館(中田町)、浅水、小島館に移ったとも言われている。
「東和町史」によると、米谷の亀掛川氏は南北朝の戦いに従軍、1369年(応安二年)四代政明の子信明が三百町を所領とし、狼河原おおいのかわら(東和町半川)の鳩岡城はとおかじょうの城主になった。
亀掛川氏は、米谷、米川、錦織の三地区に分派し勢力を広げたと推測され、1500年代から継承争いから内紛が続いた結果、葛西太守によって、嫡子は大原氏に預けられ、亀掛川氏自体は大原(岩手県大東町)に移された。 一部の亀掛川氏一族は登米郡に残り、奥州仕置まで勢力を維持した。
1590年(天正十八年)八月、湖水城(西郡城)の城主西郡左馬助胤元にしこおりさまのすけたねもとが、奥州仕置軍を迎え撃つ最前線の大将の一人として葛西軍の頂点に立つが、深谷の和渕で戦死したという。
葛西氏滅亡後、伊達氏家臣柴田外記しばたげきの居城となり、その後、黒沼(中田町)の高泉氏が移り住んだという。亀掛川氏の居城の中で規模の大きなものは、鳩岡城、湖水城(東側に機織沼がある)であった。
葛西氏四百年に及ぶ奥州支配の中で、居城を日和山(石巻)から寺池(宮城県登米町)に移した経緯は様々あるが、登米地方に移したことは間違いと言われてる。登米郡西部は、中世には氾濫を繰り返す河川、湖沼が多く、湿地帯が広がり耕作や居住するには不向きな土地であつた。 そのなか、寺池のに西方の吉田(米山町)には、葛西氏四家老の一人と言われる末永氏の居城があったことが知られている。
末永氏は、葛西氏初代清重の子の一人時重を源として、1262年(弘長二年)吉田村に三千町を受領した伝えられている。まさに、葛西氏の有力家臣と言われる所以である。さらに、葛西太守との近い関係上、葛西本家から養子を迎えるなど親密な関係が続いたと言われている。
しかし、1467年(応仁元年)に、大崎氏七代教兼と通じた清蓮が、葛西十代太守の兄持信に反乱を起こしたり、1499年(明応八年)十三代宗清の暗殺を計画した未遂事件が発覚したり、1511年(永正八年)永正の戦いに関与を取りざたされるなど太守継承争いが、身内の対立を生んだとのことから 、末永氏は本吉郡に退けられた。
登米郡は、葛西氏本拠地でもあり、奥州仕置の凄まじい殺戮の後、残された葛西氏関連資料は少なく不明な点は数多い。
米谷城
登米市東和町米谷
米谷城




武家台頭と源氏の趨勢に関して
 <<武家台頭の経緯>>

武家台頭の背景として坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろの蝦夷征伐後、奥州一円が、律令国家に編入され、その後も蝦夷(大和朝廷による奥州現地人の蔑視語)は執拗に抵抗を続けた為、奥州は特殊な政治形態を取らざる得ず、半ば半植民地的、半ば治外法権の所もあったようである。
②平安期後半に入ると律令制度は、早くも崩れ、全地域において荘園の制度が広がり、東北地方もその類に漏れない状況で、多賀城の国府により管轄される、国衛領こくがりょう と中央権力者の荘園が並列して存在した。中央官人は僻地に下向することを嫌い、代官を差し向ける遥任制度ようにんせいどが定着し始めた。その代官が、現地の代行人として成長 していったのが、武家の始まりである。関東の源家、平家の武士達が、代行に任ぜられ武家の台頭が始まる。なお、奥州では、安倍あべ氏や清原きよはら氏のように現地で成長した 部族も出現している。
③中央政権が衰退してくると「平将門の乱たいらのまさかどのらん」にみられるような地方豪族の反乱が起こり、次第に貢納する官地から、現地支配下の武士達によって搾取され、逆に、彼ら は実態を掌握しながら肥大化して行くことになる。
④朝廷は肥大化する武家を統制するために、源家を利用し、陸奥国に守護として任じ、行政浸透を目論んだが、前九年の役、後三年の役後、源家の肥大化を恐れた中央 貴族は、年貢の安直な収受が保証されることを期待し、現地有徳人として藤原氏を選んだ。(前九年、後三年においても源家・・源頼義みなもとのよりよし・義家よしいえ父子の貢献は大であった が、中央貴族の思惑もあり、前九年では清原氏、後三年では藤原氏(藤原清衡ふじわらきよひら)が俘囚の長ふしゅうのちょうに任じられた・・・平泉藤原氏の始まり・・・経緯がある。)

蜂神社(陣が岡本陣跡写真 前九年の役とは、1051年~1062年(永承6年~康平5年)まで約12年間にわたる長期戦であった。源頼義が陸奥守を拝命し奥州に下向し、任期が過ぎ 帰国しようと矢先、家臣団にいざこざが起こり、現地の大勢力であった安倍一族と合戦となったことに始まり、頼義、義家(八幡太郎義家)父子が安倍軍に包囲され 、僅か6~7騎で危機を脱するという一幕もあり、苦戦を強いられた戦いであった。
陣ヶ岡本陣跡じんがおかほんじんあと蜂神社はちじんじゃ) 陣ヶ岡本陣跡案内板
陣が岡本陣跡写真 陣が岡本陣案内写真




武家台頭と源氏の趨勢に関して
 <<武家台頭の経緯>>

前九年の役は,最終的には、出羽の豪族清原氏の援助により、ようやく勝利を上げることができたが、朝廷は頼義の野望から安倍氏を挑発した私闘であるとして、功績を認めず、安倍氏に代えて清原氏を「俘囚の長」とした。そもそも、奥六郡の司・東夷とういの酋長としての安倍頼時あべよりとき貞任さだとう 対陸奥守・鎮守府将軍である源頼義の対決である。

陣ヶ岡本陣跡(蜂神社)・・・源頼義・義家父子厨川柵くりあがわさく進軍本陣。源頼朝が奥州征伐の時、藤原泰衡ふじわらやすひらの頸を検分したところでもあり、家臣の河田次郎かわだじろうが、反逆し 、陣が岡に泰衡の頸を持参したが、河田次郎は頼朝に斬首の罰を受けた。これは、譜代の恩を忘れて主人を殺した罪と、みせしめの為でもあった。

厨川柵跡略図 厨川柵跡くりあがわさく天昌寺てんしょうじ
厨川柵跡略図写真 厨川柵跡(天昌寺)写真

厨川柵は、安倍氏居館を中心に規模が大きく、現在、本丸跡には厨川八幡宮があり、現在の天昌寺も厨川柵内に位置していた。




武家台頭と源氏の趨勢に関して
 <<武家台頭の経緯>>

後三年の役は、1083年~87年(永保3年~寛治元年)の約5年間の戦いであった。
金沢城址本丸跡 金沢城址二の丸跡
金沢城本丸跡真 金沢城二の丸跡
注)金沢城址二の丸跡は、現在金沢八幡宮となってる。
金沢城址案内板・・・清原家衡きよはらいえひらの居城(源義家・藤原清衡軍に包囲され1087年落城) 金沢城址案内写真  
清原氏は出羽国で興り、前九年の役の結果、奥六郡(胆沢、江刺、稗貫、岩手、志和、和賀)に勢力圏を拡大し、次第に専権をふるうようになり、朝低では、それを抑える 為、源義家を陸奥守として派遣した。清原家衡兄弟で争いが起き、義家は弟の義光、為朝等の来援を得て、これを鎮定したが、功績は表向きには認められず、「俘囚の長」 は藤原清衡に任ぜられた。
後三年の役は、奥六郡を安倍氏より受け継いだ清原武則きよはらたけのり(出羽仙北三郡の俘囚長)の子息清原真衡きよはらさねひら清衡きよひら家衡いえひらの三人の争いに陸奥守源義家(八幡太郎義家)の介入し、清衡が勝利した。
藤原清衡は、安倍貞任の妹で、前九年の合戦後に清原武則に再嫁した女性の連れ子であり、父は藤原経清であった。藤原経清ふじわらつねきよ亘理権太夫藤原経清わたりごんだゆうつねきよといい、源頼義みなもとよりよしの傘下であったが、当時、伊具十郎平永衡いぐじゅうろうたいらのながひらの斬首の仕置きに不安を抱き、安倍頼時あべよりとき(娘を嫁がせた家)のもとに走った人物である。
奥州の時代背景として、平安末期から鎌倉初期のころは、任国に下る受領ずりょうが武士を郎等・従者を引き連れて任国のはいるのが、一般的で、しだいに、下向してきた 外来の人は、地方に土着する場合、土地の豪族の娘をめとり、豪族の縁者となるこが多かった。伊具十郎平永衡や亘理権太藤原経清も同様な経歴の人物であった。
金沢城
横手市金沢中野字根小屋102-4
金沢城




葛西四百年の歴史に関して
 <<奥州小幕府と遠征軍の動きⅠ>>

・鎌倉幕府が確立して、奥州は多賀城を中心に、検非違使けびいし留守職るすしょく葛西清重かさいきよしげ留守職るすしょく伊沢家景いさわいえかげによって政治が行われた。葛西氏が三代わたり留守職を拝命したと伝えられるが、何時ごろまで奥州の統治を行ったかは定かでない。
1215年には、大江広元おおえひろもと陸奥守むつのかみに任じられた。
1217年には、北条義時ほうじょうよしとき陸奥守むつのかみに任じられ、それ以後、執権職しっけんしょくが代々これを継承した。(源実朝が暗殺された時期、北条得宗家が実権を握った時代)
従って、奥州留守職おうしゅうるすしょくは1215年の僅か25年間程度で、源氏が衰退し消滅していった。それは、北条執権が奥羽の地を執権直轄地としていったため、北条勢力が拡大していった。それ以後百年の間、奥羽の地は表面的には、大きな問題・争い事もなくすぎたが、北条得宗家ほうじょうとくそうけの実権が薄れて行くことになる。
1334年10月20日には、建武の親政けんむのしんせいがおこり、これ以後、後醍醐天皇ごだいごてんのうが奈良時代の蝦夷鎮守府えぞちんじゅふの再現を、当時16才の北畠顕家きたばたけあきいえ陸奥守むつのかみに任じ、8才の義良親王のりよしんのうを奥州に派遣した。
1334年11月29日に、義良親王、北畠顕家が多賀城に着任した。
・奥州の小幕府として、多賀城に国府が置かれた。国府機能は、公武合体の方式をとり、引付衆ひきつけしゅう政所執事まんどころしつじ評定奉行ひょうじょうぶぎょう寺社奉行じしゃぶぎょう安堵奉行あんどぶぎょう侍所さむらいところに分かれて政務を司ることになる。
但し、役職に関して問題をはらんでいた。奥州評定人衆八人の内、奥州武将では結城宗広ゆうきむねひろ親朝ちかとも父子、伊達行朝だてゆきともの三人だけ、引付衆の二十一人の内、武石胤顕たけいしたねあき伊賀光貞いがみつさだ(宮城郡)、長井貞宗ながいさだむね(出羽長井)、下山修理亮しもやましゅりのすけ(斯波郡)の四人のみで、奥州武将の間で不満が募る人事体制であった。
又、奥州留守職として君臨していた葛西氏、伊沢氏は小幕府に加わることができなかった。恐らく、北条政権に近かったことが要因と思われる。
・小幕府は早々の仕事として、布告を発し、国府に参内し、忠誠を誓った者は領国を安堵するとの布告であった。其れ故に、奥州全域の武将はこぞって多賀城に参内するものが多かった。しかし、 不満を持つ武将のなかで反乱を起こす者が出てきてしまった。
1334年3月には、北条一族が危機感から反乱を起こした。
1334年8月には、関東周辺の北条氏に忠誠をつくした武将たち、特に、武蔵の国武士団が江戸、武蔵、葛西で蜂起した等が伝えられている。
1335年7月には、中先代の乱なかせんだいのらんが起きる。北条高時ほうじょうたかときの子時行ときゆきが蜂起し、一挙に鎌倉を陥れた。尊氏は急遽京都より反転し、この乱を沈めたと
伝えられている。北条時行は7月22日~8月19日の僅か1ヶ月では敗れてしまった。これ以後、尊氏は鎌倉を離れることはなかった。
・この様な情勢下では、「中舘系譜」にも記されている様なことが考えられる。
1335年8月7日には、葛西氏が足利尊氏より陸奥国探題職に補され、本吉、気仙を拝領したとの伝承はあながち間違いでなようである。
・年号は別には差があるけれど、葛西氏が足利氏に起用されていたことは十分考えられる。葛西部族は必ずしも顕家一辺倒ではなく、それぞれ陣営に属し戦っていたとも考えられる。
1335年10月頃には、延喜・天暦時代の治世に戻したい護良親王もりよししんのうと幕府再建を願う足利尊氏あしかがたかうじと意見対立が起こり、双方の利害対立が表面化してきた。
1335年10月15日には、足利尊氏は朝廷との意見衝突により、軍勢を整え京都に攻め上ることにした。後醍醐天皇はその上洛を牽制する為に、東北の各武将に諭旨ゆし(趣旨や理由をさとし告げること)を発し、北畠顕家に従い上洛する様に命じた。これが、北畠顕家の第一次遠征軍であった。
1335年12月11日に、足利尊氏は京都を目指し出陣した。
1335年12月22日には、北畠顕家は第一次遠征軍を結成し多賀城を出陣した。
・この頃は、奥州全域の武将が顕家軍に従うわけでもなく、東北武将が、小幕府に取り入れられないことを快く思っていない武将が少なくはなかった。この様な情勢化で、 上洛する前の守りを堅めるために、一部の武将を北辺防衛のため中尊寺や要所に駐屯させることが命じられた。
さらに、仙北郡(秋田県)には、足利方の武将(小野寺氏)もおり、背後より多賀城国府を窺う武将もいたためでもあった。




葛西四百年の歴史に関して
 <<奥州小幕府と遠征軍の動きⅡ>>

1336年に、尊氏軍は京都に攻め上る途中、各地で朝廷方に行く手を阻まれ入京するのが、1月11日であった。一方、顕家軍は破竹の進撃で、1月13日には、足利軍に追いついたとも言われ、1月27日には、四条河原を中心に大きな戦いが行われたが、足利軍はこの戦いに敗れ、九州に敗走することになった。しかし、北畠顕家は、足利軍に勝利したけれど、永く京都に留まることができなかった。東北の情勢が穏やかでなかったからである。
1336年2月4日に、北畠顕家きたばたけあきいえ鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐん源中納言げんちゅうなごんに任じられ。
1336年3月10日には、義良親王のりよししんのう陸奥太守むつたいしゅ(奥州国司)に任命された。 ・顕家は帰国を急ぐ中で、斯波氏を鎌倉で、相馬氏を福島で打ち破り多賀城国府に向かった。
1336年5月25日には、多賀城国府に到着したと伝えられる。
・しかしながら、東北方面においては、吉良貞家きらさだいえの奔走により足利軍は、東北を手中に治めるほどに勢力になっていた。
1336年6月14日には、敗走した足利軍が勢力を盛り返し、顕家軍不在の京都へ入洛した
1336年10月10日には、京都の情勢が急展開し、後醍醐天皇は強制的に退位させられた。
1336年12月21日には、後醍醐天皇は、吉野に移り、吉野朝廷を立てることになった。実質的に南北朝の始まりとなった。
1337年には、吉野より救援の催促が矢のように届いたが、顕家自体は身動きできず霊山に逃れる術がないほど、事態が逼迫 した状態であった。
1337年1月8日には、多賀城国府は包囲され、四面楚歌となり、多賀城を放棄せざるを得ず、霊山に移ることとなった。
・逼迫した情勢の中、悪戦苦闘の末、第二次遠征軍を組織することができた。
1337年8月11日には、顕家軍は、霊山の囲みを破り京都へ出陣した。
・顕家に従軍したと思われる葛西対馬守武治かさいつしまのかみたけはるは、1500騎、その旗下の武将40名位で岩手県南の武将が殆どで、宮後県側では、岩尻いわじり小野寺おのでら氏、桃生太田ものうおおた千田ちだ深谷ふかや西条さいじょう七尾ななお首藤すどう桃生長井ものうながい菅原すがわら氏の5人しか見当たらないず桃生郡のものであった。 牡鹿、登米、本吉は殆ど見当たらなかった。菅原長顕すがわらながあきは第二次遠征軍が出発後、霊山にのこり守備にまわった。しかし、石塔義房いしどうよしふさに攻められ敗れた。
1337年9月頃に、顕家の第二次遠征軍は白河において待ち伏せしていた足利軍の迎撃を受け苦戦を余儀なくされ、戦死者も多数出してしまった。 薄衣胤常うすきぬたねつねも戦死したが、参戦する武将もおり、気仙高田けせんたかだ伊藤祐長いとうすけなが葛西重勝かさいしげかつなどがそれである。苦戦しながらも突破、顕家の第二次遠征軍の赴くところで参戦する武将で大軍勢に膨れ上がった。しかしながら、上洛には意外にも時間を要してしまった。
1337年12月10日には、顕家軍は、関東で斯波家長しばいえながと戦い鎌倉に向かった。
1338年1月2日に、顕家軍が、鎌倉に到着したのは、出発してから4ヶ月後であった。
1338年1月8日には、鎌倉を出発した。
1338年1月20日には、美濃に到着し、青野原あおのははら(のちの関ヶ原せきがはら)に陣する足利軍と戦い、追尾してきた足利軍の追撃で、進路を急に変えざるを得ず、奥州兵の中で 敗れて逃げ帰った兵も多数いたと伝わっている。
1338年2月下旬までに、顕家軍は伊勢路を経て、奈良に入った。
1338年3月8日には、天王寺に到着し戦い、初戦は勝利したが苦戦が続いた。
1338年3月16日には、天王寺、安部野、木野村で大激戦が行われ、顕家軍は敗走、摂津、河内、和泉で両軍対峙することになった。




葛西四百年の歴史に関して
 <<奥州小幕府と遠征軍の動きⅢ>>

1338年5月22日には、敗色が濃くなった北畠顕家きたばたけあきえは、弟顕信あきのぶを救わんと敵中に飛び込んだが、僅か20騎ばかりとなり、吉野へ逃げ込もうとしたが、 泉州阿倍野せんしゅうあべの越屋四郎左衛門武藤政清えちのやしろうさえもんむとうまさきよによって討ち取られた。顕家若干21才であった。
・大将顕家が討たれたため、奥州軍は総崩れ潰滅し逃亡をしたが、南部師行なんぶもろゆきの他108人が戦死したと言われ、堺浦さかいうら石津いしずでも戦死したもの数多く、千田信親ちだのぶちか長坂頼胤ながさかよりたね佐々木義基ささきよしもとも戦死、沢山の将兵が戦死し、逃れた途中で命を落した者もいたとの事である。
1338年7月には、新田義貞にったよしさだも戦死し、後醍醐天皇の思惑がはずれ、南朝軍の組織的反撃は挫折に終わった。
1338年10月に、北畠親房きたばたけちかふさも伊勢路から海路逃亡したが、嵐に遭い吹き戻されやっとのことで常陸国小田城ひたちのくにおだじょうにたどり着いた。しかしながら、まもなく包囲され身動き出来ない状態に陥った。
・葛西武治(清貞と言われている)も命からがら9月頃までに日和山に入り、後に寺池城に入ったと言われている。武治の寺池城に入ったことと、清貞の登米入りの伝承は、同一人物と言われても不思議はない。
小田城
茨城県つくば市小田
小田城
吉水神社よしみずじんじゃ(吉野)
奈良県吉野郡吉野町吉野山579
吉水神社




葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西氏南北朝時代の流れⅠ>>

1338年9月頃、葛西武治かさいたけはる清貞きよさだ)が日和山に入った頃には、東北は足利勢が勢力を拡大していた。
1339年8月には、薄衣一族が葛西高清かさいたかきよと戦ったことが伝えられてる。
・この伝承は、南北朝にいづれかの側に立って戦ったか不明であり、年号も定かではないが、情勢は混沌としていたに違いない。
1339年秋頃には、吉野の後醍醐天皇が8月に傷心のあまり崩御され、義良親王のりよっししんのう(幼少のころ多賀城国府に下向された)が後村上天皇ごむかかみてんのうとして即位した報が清貞に届いた。
1339年11月24日には、後醍醐天皇の菩提を弔う為に供養碑を石巻湊に建立した。
1340年(興国元年)に、葛西清貞かさいきよさだと常陸国にいる北畠親房きたばたけちかふさと連絡がとれ、盛んに書簡を交わすようになった。
・親房は清貞より奥州情勢力を知らされ、白河の結城家とも書簡を交わすようになったと、白河結城家には伝わっている。 その書簡の内容は、清貞が親房に対して、御大将の下向を強く望むことで、奥州中奥の軍勢を南下させ、呼応して南から本隊を北上させて、
多賀城国府を奪還しようとすることであった。親房は、この要望を聞きながら、白河結城氏の決起するようにひたすら説得し続けた。
1340年(興国元年)7月頃には、福島田村庄の宇津峯城うつみねじょう北畠顕信きたばたあきのぶを派遣することになった。
・北畠顕信は、宇津峯城から石巻の日和山城に移動し、南朝方の結束と北朝方の攻略を進めることになる。石巻の日和山城は葛西氏の領地の飛び地でもあり、 葛西宗家の目の届かない為、葛西清貞や山内首藤氏らが北畠顕信の身辺警護を兼ね護衛をしていたと考えられる。
1340年(興国元年)12月には、北畠顕信は、和賀内部の混乱に乗じて、和賀宗家の守る須々孫城すすっそのじょうに攻め込んだ。
1341年(興国二年)2月には、北畠顕信は、和賀岩崎城わがいわさきじょうを攻撃した。
1341年(興国二年)4月には、南朝系奥州勢を結集、南部なんぶ氏、河村かわむら氏、滴石しずくいし氏らとともに南下、和賀わが氏、薄衣うすきぬ氏を引き込んで足利方を攻撃するため南下を始めた。
・北畠顕信が、奥州全体を縦横無尽に駆け回れた要因は、奥州では唯一の官職、鎮守府将軍の官位を持っていた為、奥州の地方豪族がその権威に膝末ひざまついたことにある。 従って、その官位の権威で縦横無尽に奥州を転戦できたのであろうとの推測される。
又、この時期、葛西氏は南朝、北朝に分裂しており、一族の結集のために、3月に甥の遠江守とうとつみのかみ葛西清明かさいきよあき)を誅伐したことえを北畠親房に報告をしていることが伝わっている。 葛西氏内部が分裂していたことがわかるできごとである。
1341年(興国二年)5月頃には、北畠顕信は石巻周辺に到着したの機に、奥州南部が急に勢いづいたようで、清貞の進言通りに多賀城奪還が進められた。
1341年(興国二年)9月3日~10月19日 まで、南朝と北朝との戦いが三迫にいて行われた。足利軍(北朝)の奥州総大将は石塔義房いしどうよしふさと奥州中奥から南下する南朝軍との激突であった。石塔軍は苦戦を余儀なくされ、三迫釜糠城さんはざまかまぬかじょう成田なりた城、、八幡やはた城とで石塔義房と北畠顕信が激突、北朝の援軍により、10月28日には津久毛つくも城で南朝軍は敗れ、敗走したが、時折の冬を迎え、一端停戦となった。この戦いの最中、10月頃、葛西清貞かさいきよさだは、桃生郡、牡鹿郡兵を集め多賀城国府を攻略せんと松島まで攻め込んだが、やはり、海道筋の援軍により石塔軍が窮地を脱することができ、結果的にこの戦いにおいて勝利することが出来た。
この戦いで、海道筋の援軍の一翼をになったのは、熊谷氏もその一人であった。熊谷くまがい氏は1336年に葛西高清かさいたかきよと戦ったけれど、足利方となり石塔軍に味方をしたと思われる。又、この時代に葛西氏内部で、日和山と寺池と二分していたとすれば、寺池方は早くも足利方となり、気仙、本吉の海道筋を率いて石塔軍に呼応したとも考えられる。
1343年には、北畠顕信は必死なって南朝軍の立て直しを図ったが残念な結果となった。
1343年6月には、白河結城氏が足利氏に投降した。
1343年7月10日頃、蓮阿れんあ(葛西清貞)が亡くなり、結城氏との近親関係もあり、足利方に投降することになった。
1343年7月に、大旦那左近将監葛西親家だいだんなさこんしょうげんかさいちかいえが、北朝年号で中尊寺に梵鐘を寄進した。このことが、足利方になったことを物語る。
・葛西氏の南朝の歴史は1335年~1343年までの8年間、伊達氏は1352年頃までの17年間、南部氏は1362年頃までの27年間で孤軍奮闘し南朝に従った。
1346年頃、北畠顕信は、未だ滴石城にいたことがわかっている。
1347年には、足利氏は、吉良貞家きらさだいえ畠山国氏はたけやまくにうじを多賀城に派遣し、奥州南朝軍の掃討に当たらせた。
1347年7月18日には、吉良、畠山氏は、福島の霊山城、岩手の滴石城を攻撃した。
1348年10月29日~12月15日に、吉良左京太夫貞家きらさきょうだいぶさだいえは、厳冬期にも関わらず、平泉に滞陣し北奥を攻めたと伝えられている。
1349年5月には、吉良貞家は滴石城を再度攻撃し、北畠顕信は出羽に逃げ、滴石城は落城した。
1350年6月には、足利尊氏あしかがたかうじと弟直義ただよしとの不和が生じ、観応擾乱かんのうじょうらんを迎えることになる。
1351年2月12日には、中央情勢が奥州にも波及し、直義方の吉良氏と尊氏方の畠山氏が岩切城攻防で戦った。この動くは、奥州各地で巻き起こった。 この動きを縫うように、津軽方面で辛くも勢力を保持していた南朝方が、出羽方面より山村親王やまむらしんのうを奉じて、密かに宮城郡山村(泉区七北田付近)に潜入してきた。かつて この地域は、いち早く朝廷側に立ち、北条攻めに加わった大河戸おおかわど氏の本拠地でもあり、根っからの南朝方であった。
1351年11月には、機を見て、多賀城府中に潜入占拠してしまった。この時、南部政長なんぶまさながの孫である信晃のぶあき信助のぶすけは、亡父の遺命により南朝に協力したと伝えられてる。 又、この時、北畠顕信きたばたけあきのぶは、次男の守親もりちかとともに守永親王もりながしんのうを奉じて、伊達、田村氏の兵を加え北上し北朝方を攻撃したと伝えられる。
1352年3月10日には、吉良氏が陣容を整えて、多賀城国府の奪還に成功した。
1352年3月頃、吉良貞家に多賀城奪還され為、北畠顕信は宇津峯(福島県田村)を目指そうとしたが、困難な為、子顕成あきなりとともに津軽の安東あんどう氏を頼るために落ち延びた、 この時、津軽葛西氏が顕信に仕えて護衛したことが記録に残っている。
1353年(正平8年)には、北畠顕信は吉野に帰還して、從一位内大臣を拝命されたと言われている。
1353年(正平8年)に、北朝軍が宮城郡で大戦したと伝えられており、根白石山村城ねのしろいしやまむらじょう七北田小曽沼城ななきたこそねじょうがこの時落城したものと思われる。それ以後、奥州南朝軍は動きを途絶えた。
1353年(正平8年)に、斯波家兼しばいえかねが奥州探題として下向してきた。(一説では、1354年に奥州管領として下向したとある。)
・下向の訳は、「大崎盛衰記」によると。花園院の宣旨を受けい、石塔義房を退治する為下向したとある。一説では、吉良貞家の死に伴い、交代として派遣されたとも言われている。しかしながら、吉良一族はその後も奥州に留まったとある。従って、奥州には、吉良、石塔、畠山、斯波の四氏が併存されたようになった。いずれも自ら探題であると称した。これは、足利幕府のその時の思惑で下向させ、政変とともに置き去りにされたもので、 権力抗争に利用された結果であり、残された各氏は、次第に土着化し、地域に密着して互いに権威を張り合うようになった。
1354年に、多賀城府中の吉良氏が、突然に石塔義憲いしどうよしのりによって攻撃される事件が起きた。この時、石塔義房いしどうよしふさは四本松(福島県二本松市)いたらしく、戦ったが敗退し玉造方面(鳴子・鬼首付近)に引き籠つてしまう。
・斯波氏は、家臣倉持くらもち氏に大崎領地の管理を任せていたが、その後、名主城近辺に根を下ろし、大崎氏に改めて、奥羽全域にわたり探題の権威を示し、領地を増やし勢力を拡大していったと言われている。
1377年には、葛西、山内、長江、登米氏らは留守氏とともに一揆契約を結び、大崎氏と対立するようになった。これは、大崎氏が相当な圧力を加えていた為の対応策として結ばれたと思われる。
・この様な状況う中、葛西氏は、大崎氏と婚姻関係を結び、直接対決を避ける行動をしていた。




葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西氏南北朝時代前後>>

1386年の会津城坂上義則さかうえよしのり討伐には、葛西氏は、大崎氏の副大将として参陣している。
1389年には、吉良貞家きらさだいえの子満家みついえは、鎌倉に召喚され、領地の返納を命じられ、宇都宮氏広うつのみやうじひろに与えられてしまった。しかしながら、吉良氏支族は安達郡塩松に残留し、塩松氏を名乗る様になっと言われる。
・領地没収等の処置は、関東府が大崎氏の隆盛に牽制する意味のものであった。
1390年には、大崎氏は留守氏を攻め、詮家を切腹させてしまう。奥州留守職として奥羽に君臨した伊沢氏の流れをくむ名門留守氏が、これにより衰退の行方をたどることになった。
1391年には、関東管領が、伊達、葛西氏に御教書をもって、大崎氏が黒川に侵入することを歯止めするように命じた。
1391年(明徳二年)6月には、葛西陸奥守かさいむのかみ伊達大善太夫だてだいぜんだいぶに権限執行を委任した文章も残されている。これは、畠山国詮はたけやまくにあきらの所領である加美、黒川両郡に大崎氏がすでに、侵入していることを意味している。
1394年(応永元年)3月には、畠山国詮の孫義奏よしやすは、大崎氏の圧力で松島の高城に逃れたけれど、さらに攻撃を受け、芦名氏(福島)を頼り福島県安積郡二本松まで逃れたが、入部していた宇都宮氏広氏の圧力を受け、最終的には和賀氏(岩手)を頼ったと言うことである。
・かくして、拮抗していた四探題の内、吉良、石塔、畠山氏らは、歴史上から駆逐され、斯波氏の後裔である大崎氏により奥州地区は独占された。斯波家兼が奥州管領として下向して、わずかの四十年で偉業を達成した。それは、 斯波氏は、足利一族と言う威光も、偉業達成に一役かったのだと思われる。
・足利幕府は、関東・東北の統治を固める為、関東府を置くことになった。将軍の弟直義や子義詮を派遣して磐石な体制を整えた。足利義詮あしかがよしあきらが将軍となった後は、 足利基氏あしかがもとうじに代わり、その後は基氏の家系が継承することになった。
1391年には、足利氏満あしかがうじみつが、関東管領として関東、東北を支配することを幕府に認めさせた。それ以後、関東府の権限が強まり、関東、東北を支配することになった。
1399年には、足利満兼あしかがみつかねに代わってから、次男満直みつなおを稲村(須賀川市)へ、四男満貞みつさだ篠川ささかわ(郡山市)に関東管領代として入部させた。両者とも両御所と呼ばれるようになった。 関東府は、勢力を拡大している大崎氏を牽制する為に両者を入部させ、伊達氏を預かり派遣させた。(伊達氏に財政・軍事等を面倒見させた)
1400年には、宇都宮氏が栗原方面に領地替えをされた恨みから、三迫で反乱を起こした為、関東管領満兼は、大崎をはじめ葛西、その他奥州諸士の棟梁に命じて、これを討たせたと言う。
1402年頃、両御所の専横が目に余る状況となり、九代伊達政宗をはじめてとして、在地勢力が叛意を示す様になった。関東管領満兼は、葛西、桃生(山口)、深谷(長江)に命じて、政宗を牽制しようとしたが、伊達氏は大崎氏、登米氏と組んで対立する様になった。これは、京都幕府が関東府を制する意図が、伊達氏を動かした背景にある。
・京都幕府と関東府の駆け引きが、奥羽政情に微妙に影響を与え、関東府の両御所の権威が徐々に薄れて、関東府に対抗する在国衆が現れた。
1402年5月には、上杉氏憲うえすぎうじのりを中心に篠川御所ささかわごしょを攻撃する事件が起きた。
1414年頃には、両御所自体も互いに牽制しあい、次第に孤立化していった。
1417年には、関東府の足利持氏あしがもちうじの横暴ぶりに、実力者であっった上杉禅秀うえすぎぜんしゅうが、反乱を起こした。この時、芦名氏、白河氏、南部氏、葛西氏らも禅秀に呼応したようであったが、足利持氏は機先を制して禅秀を討ったと言われている。このことにより、上杉氏は失脚した。禅秀の反乱も足利幕府の関東府に対する牽制があったと思われるが、見事失敗に終わった。その後、足利幕府は関東府に対して対策もなく、持氏の権勢が続くことに なった。




葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西氏戦国大嶽山記録含む>>

1435年には、将軍義教よしのりは、鎌倉に追討軍を派遣することになった為、関東府足利持氏あしかがもちうじは自殺をしてしまう。関東府5代百年続いたが滅亡することになった。
・この時、葛西持信かさいもちのぶは、足利持氏に味方したようで、後に、幕府方の大崎持詮おおさきもちあきらによって攻撃を受けた。
1439年には、将軍義教は、家臣によって刺殺されてしまい、室町幕府の権威も失墜していき、下克上の時代になっていったと言われている。
1439年永享11年6月9日~1440年永享12年春まで、葛西氏と大崎氏が、佐沼、新田方面で戦闘を行った。
・葛西氏は関東府滅亡後、足利幕府の威をかりていた奥州探題大崎氏に対して敢然と対抗し、本拠地寺池を大崎方の前線基地として佐沼攻略を図った為に起こった。
・しかし、この戦いにおいて、薄衣氏(薄衣甲斐守うすきぬかいのかみ)が大崎方として参戦したらしく、功績をあげたと伝わっている。この功績により、小嶋郷、五十沢郷いそざわのさと(三の迫の辺)に五十集市いさばいちを建てることを大崎氏より公認された。これは、薄衣氏は、葛西氏より離反し大崎方として戦った結果と言わざるを得ない。
1439年~69年~1487年頃まで、佐沼攻防戦が続き、佐沼が、葛西領になったり、大崎領になったりしていたと言う。
1473年文明5年に、佐沼右衛門直信さぬまうえもんなおのぶが佐沼城主になったと伝えられる。
・佐沼右衛門直信は、葛西氏出身で大崎政兼おおさきまさかねの娘の養子となり佐沼城主になった。これは、佐沼地域の緊張を和らげる為に、葛西氏と大崎氏の政略結婚であり、15年間は平穏な地域に治まったと言われている。
1487年長享元年8月に、佐沼で戦いが起こり、佐沼右衛門直信が城を退去し、大崎方の米田兵庫よねっだひょうごが城主になったと言われている。米田兵庫は、かなり強烈な型破りな家臣であった。
1488年には、米田兵庫は、大崎氏に謀反を起こし、主君の大崎義兼おおさきよしかねを伊達家に奔走させる事態を引き起こした。
1499年には、葛西宗清かさいむねきよ暗殺計画がなされた。末永氏一族が計画をたてたとも言われている。
1506年永正3年には、桃生、登米、深谷に三郡一揆が起こった。
・桃生の山口首藤氏、登米の寺池葛西氏、深谷の長江ながえ氏(鎌倉地頭で鎌倉権五郎かまくらごんごろうの後裔と自認)である。
1511年永正8年には、永生の戦いえいせいのたたかいが起こった。葛西宗清との間で、登米太郎行賢とめたろうゆきまさ山内首藤氏やまぐちすどう及び葛西四宿老が対立したが、山口首藤氏が誅殺されてしまった。
・葛西四宿老とは、米谷水越の赤井あかい氏、善王寺の末永すえなが氏、大川の福地ふくち氏、永井の門田かどた氏であると伝えられている。
・登米氏は登米太郎行賢に代表される様に、葛西政信かさいまさのぶを恨みを抱く葛西一族であり、赤井氏は長江氏の一族と伝えられ、1482年(文明14年)から葛西氏にしばしば背叛しており、1506年(永生3年)に、長江尚景ながえひさかげが葛西政信に背き、中津山(神取山付近)で戦っており、1507年(永生4年8月)にも、矢本で戦い、執拗に葛西氏に反抗を続けたいた。
この執拗な葛西氏への反抗は、伊達氏に近い一族でもあった事もあり、伊達氏の意向もあったとも言われている。
・永生の戦いで、葛西宗清が山口首藤氏を誅殺することで、三郡一揆も解消され、対立も終止符を打つことになった。
1515年永正12年には、大崎氏と葛西氏が吉田村大沢村(現、米山町付近)戦いをおこした。
1523年大永3年7月18日に、葛西稙信かさいたねのぶ大崎泰政おおさきやすまさが深谷矢本付近で衝突をしたが、葛西氏が大崎氏を破り、優勢に転じたと伝えらている。
1528年~1533年間に、佐沼攻防戦が続き、両者平行線状態であった。
・1528年享禄元年に、佐沼は葛西領になったとか、1531年享禄4年には、葛西晴重かさいはるしげ大崎高兼おおさきたかかねが佐沼・新田で戦ったとか、1533年天文2年4月にも、葛西晴胤かさいはるたね大崎義直おおさきよしなおと佐沼で戦ったと伝えられている。 ・佐沼は、葛西氏と大崎氏の試金石であり、戦略上重要な地域であったことには間違いがない。
1533年暮れに、葛西稙信かさいたねのぶが没し、葛西晴胤かさいはるたねが太守となった。
1536年に、葛西晴胤は、登米の寺池城に拠点を移した。
1536年天文5年8月には、大崎方の高泉たかいずみ氏が佐沼を攻め陥落させた。
1540年天文9年には、佐沼は大崎領となり、石川直村いしかわなおむらが城主となり、葛西領から大崎領に変わり、奥州仕置近くまで続いた。
1560年永禄3年に、葛西晴信かさいはるのぶが太守となり、譜代の有力家臣は制圧され、領内は平静となり、旧領内の統一再編が進められた。さらに、大崎氏との国境地帯 で、葛西氏が優位に立つ折、磐井・流れ方面から三の迫へ圧力をかけ始めた。
1570年頃には、佐沼付近の態勢は、ほぼ 葛西氏側に決まり、大崎氏との争いは終息に向かって行ったと言われている。
1573年頃には、三の迫一帯が葛西氏の領内に組み入れられ、佐沼も最終的には、葛西氏の領地として確保されたと言われている。
・奥州仕置の際には、佐沼城は寺池城の出城として、難攻不落の城として大崎・葛西一揆の最期の砦となった。
注)大嶽山記録とは、宮城県登米郡南方町本郷に、観音様が祀られていて、昔から信仰が集まったところで、残された古文書に、佐沼の帰趨きすうの中に、大崎、葛西の争いの様子が記録されている。




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