郷土歴史倶楽部



中世大崎領内歴史年表


大崎領内歴史動向

西 暦 年 月 年代 大崎領内歴史動向
1284年 弘安7年 ・1284年弘安7年に、北条一族の金沢氏が、玉造郡の年貢として、砂金五十両と馬、藍、米、布などの代銭八百七十二貫文余りを陸奥国司とその他に上納している。
と記されている。これらの年貢は、鳴子地域からも集められたものであろう。鳴子地域で小黒崎、黄金沢、釜内、杉の森などは古くから砂金の産出地であった。
・1284年弘安7年に、「陸奥国玉造郡弘安七年(1284年)結解状けつげじょう」には、次の様な事が記されている。
「砂金五十両、銭八百六十九貫三百七十三文」の年貢を玉造郡より徴収し、「金田四丁分砂金四両」とか「金田一丁分砂金一両」の記載がある。当時は、玉造郡から砂金も産出されていたことが分かる。金沢氏の所領は、玉造郡の他に、全国に散在していたこともあり、その支配の為に鎌倉に、公文所という役所を設けたり、各地に郡や荘園には政所を置き、一族や家臣を任命して支配を強化していた。
1302年 乾元元年 ・1302年乾元元年から1310年延慶3年頃の「称名寺閉配置文しょうにょうじへいはいちもん」には、「玉造郡ニケ郷米九斗五升三合、銭一貫七百五十文」と記されている。
これは、金沢氏と関係深い称名寺に玉造郡から毎年寺用米や銭が納められていたことを示している。
1307年 徳治2年 ・1307年徳治2年に、「倉栖兼雄書状くらすかねおしょじょう」には、「玉造分者、以賀島金吾知行分」の記述がある。
これは、玉造郡の直接支配者が金沢氏の家臣である賀島金吾であった事を示している。
1320年 元応2年 ・1320年元応2年に、「惟道結解状これみちけつげじょう」には、「陸奥国玉造郡内越後大夫僧都知行分」とある。
1332年 元徳4年 ・1332年元徳4年に、「金沢氏奉公人奉書」には、「陸奥国玉造郡ニケ郷、召米事(中略)沙弥(花押)地頭殿」とあり、そのうち僧都、顕瑜あきゆ沙弥しゃみは同一人物で金沢貞顕かなざわさだあきの甥である。
1333年 元弘3年 ・1333年元弘3年には、後醍醐天皇は、隠岐島より潜幸せんこう(天皇がひそかに行幸すること。)されたのを機に、各地に義兵ぎへい(国家的危機 に際して、在野にある士人や民衆が自発的に 立ち上がって内外の敵に抵抗する兵士)があらわれた。 長年にわたる内憂外患に疲れた幕府を見捨てた足利高氏が、京都の六波羅探題を攻め、また、同じく幕府方にいた新田義貞も護良親王の令旨れいじ (皇太子・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。)を受けて鎌倉を攻めた。これにより、執権北条高時は自殺に追い込まれ、鎌倉幕府は滅亡してしまった。 この戦いで、幕府軍から朝廷方ついた足利軍・新田軍の中には、多数の奥州出身の武士がいた。その中には志波姫より参陣した武士もいて、新田軍に加わったと伝えられている。
・1333年元弘3年5月に、関東において、新田義貞等が鎌倉幕府を攻め北条高時を自刃させ滅亡させた。このときに、新田軍に参陣した奥州武士は、石川義光(福島)、結城宗広等であったと言われている。注)新田氏は足利氏と同じく源氏の流れを汲む名門である。
・1333年元弘3年5月に、護良親王もりよししんのうを奉じて、赤松則祐あかまつのりすけ村上義光むらかみよしみつ、足利高氏等と京都の六波羅探題を滅ぼした。同じ頃に、関東では、新田義貞が反幕府として鎌倉に攻め込んだ。
・1333年元弘3年5月に、鎌倉幕府が滅亡、後醍醐天皇による建武新政が成立した。建武新政府は、朝敵の所領没収令を出し、北条氏や同氏関係の深い人びとの所領も没収された。この所領を元弘没収地といい、北条氏の所領の多くは奥州に多く、奥州に大きな影響を与えることになった。 以前には、東北勢が幕府直轄地として関東に従属していたが、関東と東北を分離して統治することになった。これは、関東は有力武将の本拠地でもあり、東北はその一族が下向していたので、足利尊氏の権勢の強まることを恐れた建武新政府が、尊氏を牽制する思惑でもあった。
・1333年元弘3年5月18日に、新田義貞が、上野に挙兵し、5月22日には、鎌倉に攻め込み、北条一族の中心人物である北条高時を自害させた。これにより、鎌倉幕府が滅亡した。この時、奥州地方からも宮城郡根白石の大河戸氏が参陣している。
・1333年元弘3年5月に、関東において、新田義貞等が鎌倉幕府を攻め北条高時を自刃させ滅亡させた。このときに、新田軍に参陣した奥州武士は、石川義光(福島)、結城宗広等であったと言われている。注)新田氏は足利氏と同じく源氏の流れを汲む名門である。
・1333年元弘3年6月~9月に、後醍醐天皇は、記録所、雑訴決断所、侍所、武者所、恩賞方等を設け、法令も定めていった。 建武新政は、早速朝敵所領没収令を打ち出し、北条氏や同氏に関係の深い人々の所領を没収した。その没収領地を「元弘没収地」と呼んだ。遠田郡は、北条氏の所領になっていたので没収され、建武新政に功労した武士に与えられた。 東北地方は、その広さが、日本の半ばに及ぶと称されていたと言われていた。「太平記」には、南朝方の結城宗広の言葉として「国の指図を見候に、奥州五十四郡、あたかも日本の半国に及べり。若兵数を尽くして一方に属せば、四、五〇万騎も侯べし」とある。 そのため鎌倉幕府は、直轄地として、関東に従属させたので、建武政府は、これを分離して統治することにした。 関東は、有力武将の本拠地があり、東北には、既に足利一族が下向し基盤をつくっていたこともあり、大功のあった足利高氏を、後醍醐天皇のいみなから「尊」の一字を授かり「尊氏」と改名し、征夷大将軍に任じられ、武蔵、常陸、下総の守護となった。さらに、奥羽両国にも勢力を拡大していった。
・1333年元弘3年8月5日に、建武新政権は、鎌倉幕府打倒に戦功にあった足利尊氏、新田義貞等の武将に対して、論功行賞を行なった。また、同日に、若冠16歳の公卿北畠顕家が陸奥守に任じられた。
・1333年元弘3年10月20日には、北畠顕家は、義良親王のりよしうしんのうを奉じて陸奥国に出発した。 この様に、地方統治人事は、新政府として実施したのが最初で、重要な案件でもあった所以か、陸奥守には父親である北畠親房も同行した。 多賀城国府に置かれた組織も独特で、陸奥守北畠謙家の下には式評定衆、引付衆が置かれ、その下に諸奉行の政所、侍所、評定、寺社、安堵奉行がおかれて、あたかも鎌倉幕府であるかの様な組織であった。このことから、奥州小幕府とも言われていた。 この組織を構成している人材は、二階堂、安威氏あいうじ、伊東、安積氏などの旧鎌倉幕府の官僚であった。このことから、組織、人事面では、旧鎌倉幕府体制を受け継いでいったことが推測される。 この体制は、熟練した担当者と受け継いだ組織をもって、改革を順調に推し進める思惑があったからと思われる。 したがって、実行に移すにあたり、国府の官僚や地域統治の郡奉行、郡検断の役職には、奥州武士を登用し、所領についても所領の実態を把握したうえで知行安堵策をとった。これは、奥州武士にとって、武士の自立促進策として評価されるものであった。 この様な状況を、足利尊氏は脅威に感じ、後醍醐天皇に、北畠顕家陸奥守の任じ同じく、尊氏の弟足利直義を相模守に任じさせ、成良親王なりよししんのうを奉じて鎌倉に赴かせた。これは、東国の本領を守り、現状維持を図る為のものであった。
・1333年元弘3年10月に、後醍醐天皇は、広大な未開の地奥州を重要視して、若干16歳の北畠顕家を陸奥守に任じて、奥羽両国を管理させることともに、鎮守府将軍に任じた。
・1333年元弘3年10月20日には、北畠顕家は、後醍醐天皇の皇子義良親王のりよししんのうを奉じて奥州に下向した。この時には、顕家の父親房も同行している。
・1333年元弘3年11月に、北畠顕家が、奥州下向して、多賀城国府において陸奥国の建武新政を行なった。
その政治機構は、鎌倉幕府にならつた公武合体による政治であった。 陸奥国の国政に参画した有力武将は、結城宗広、伊達行朝、二階堂行珍(旧鎌倉幕府重臣)、武石胤顕(亘理郡)の面々であった。
・1333年元弘3年11月には、義良親王を奉じた北畠顕家・親房父子が多賀城国府に到着した。
・1333年元弘3年11月には、北畠顕家は、多賀城国府に入り、この地を陸奥国統治の中心に据えた。この様に、建武新政が陸奥国においても実施されたが、津軽・秋田方面には未だ北条氏の残党がしゅん動(動き始める)していた。顕家は、津軽の岩槻城主曽根光高等に命じて討伐に従事させた。
・1333年元弘3年12月には、津軽・秋田の北條氏残党の反乱が起こり、留守家任、大河戸隆行が参陣して、残党方の所領を得ている。 この時期の武士たちの鎌倉倒幕に参加した真意は、王政復古の樹立ではなく、あくまでも自己所領の拡大であり、恩賞目当てであったこともあり、朝廷の新政よりは、武家政治の再興を目指す足利尊氏側に味方する様になっていった。
・1333年元弘3年には、多賀城は、再び東北地方の中心となり、府下の留守氏、大河戸氏はもとより、葛西氏、南の結城氏、海道筋の相馬氏、中奥の中尊寺、和賀氏、北奥の糠部南部氏、津軽曽根氏に勢力が及んでいた。 多賀城国府が、この様な大規模地方政庁に組織できたのは、陸奥守北畠顕家が、参議正三位左近衛中将であり、大納言の父である土御門の入道親房が、これを補佐したこともあり、義良親王(後の後村上天皇)を奉戴ほうたい(貴人を上に いただくこと)していたからである。 武士の下向については、大崎地方の「河内四頭」は必ずしも同時期に入部してきたとは考え難い、南北朝の戦乱で、大掾氏は畠山氏の故地宮沢地区から茨城県多気に引揚げたと言われたり、四方田氏も武蔵に引き揚げられたとも言われている。渋谷、泉田氏は、南北朝期にあって地方に居付き、伊達氏、葛西氏、留守氏等と交わり、子孫は戦国期まで続いたと言われている。中央では、建武新政の失政が多く、足利氏と新田氏の両氏が相争うことが起こり、混乱を来たしていた。この様な状況において、旧来の武士達は、建武新政に反対する様になってきた。
1334年 建武元年 ・1334年建武元年の正月に、後醍醐天皇は、年号を建武と改める。
・1334年建武元年には、後醍醐天皇は、北畠顕家を陸奥守に任じて、父親房と共に義良親王を奉じて奥州に下向した。そして、多賀城国府に入り、行政組織機構を建て直し、着実に建設的施政の歩みをはじめた。
・1334年建武元年/元弘4年には、北畠顕家を中心に国府の再興がはかられた。鎌倉幕府の機構を引き継いだ様な組織をつくり、式評定衆、引付衆、政所、侍所等や他に評定奉行、寺社奉行、安堵奉行等が置かれた。 陸奥国府の中心機関となった式評定衆には、京都から顕家とともに下向した冷泉家房の公卿や結城宗広、伊達行朝らの奥州武士の名前も記されていた。公武互いに協力して国政を運営しようとする構想に見える。 これは、建武政府が、鎌倉幕府の本拠であった東国を牽制するために、奥羽地方の支配を強化することが、極めて重要と考えていたからと思われる。

「保暦間記」によると、
出羽、奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士多クハ奥州へ下ル間、古ノ関東ノ面影エナカリケリ

とある。
奥州が、これまで蝦夷が住む辺境の地とか東国の付属の地としてところが、建武新政を実施する為の有力な拠点として扱われた。 建武新政府は、公家による政治を目指したが、武家の参加を認めざるを得ない状況で成立した。しかし、武士団が望んでいたのは、武家の手による新しい政治であったのでその不満が残されてしまった。さらに、北條氏の残党の各地での蜂起などが起したので、足利尊氏が鎮圧に奔走していたが、その鎮定後、鎌倉に居座り、動こうとせずに、公然と建武新政と一線を画す様になった。 建武新政の崩壊がはじまる状況に至った。
◎奥州地方は状況として
奥州地方は、北條氏が得宗領を拠点に勢力を拡大伸長していたが、同様に、名門足利氏も奥州地方の所領を根強く存続させていた。斯波郡や加美郡などの地頭職を、北條氏が全盛期でも、足利氏は保持し続けたと伝えられている。 その最中、従来から深いつながりのある後醍醐天皇より糠部郡等などを与えられたり、奥州鎮守府将軍に任じられたりしたので、奥州地域の一定の法的根拠をもった支配ができる、非常に強いものとものとなったと言われている。 この様な状況で、陸奥守顕家を中心とする国府側と尊氏を中心とする勢力との対立が避けがたいものとなったと言われている。
・1334年建武元年に、沼倉館(栗原市栗駒)の領主沼倉隆親が、北畠顕家の出兵催促に対して、着到状をだしている。(着到状は、戦場に着陣した証と恩賞に確実に受ける為の証明書)
・1334年建武元年に、中尊寺は、北畠顕家に対して津軽の北条氏残党の叛乱鎮圧の為の祈祷に励んだとや寺院修理費用の稔出を請願した。 多賀城国府の北畠顕家は、忠誠を誓った奥州武士達には、所領安堵や功績に合わせた恩賞を与えた。また、現行の知行地を追認したりしたので、陸奥将軍府の奥州在住の武士の支配や寺社に対する支配が順調に進んでいた。これらは、奥州武士の軍事催促をするのに足る施策であった。 また、岩出山の上真山の小倉館は顕家の居城であったとも言われている。 この頃の中央は、京都の「三条河原の落書」の表わされた様に、建武政府への不満が高まり、混乱が激化している状況にあった。
・1334年建武元年に、津軽・秋田などの北条氏残党の蜂起を鎮圧し、南部師行や参陣した奥州武士にも恩賞を賜ってる。 宮城郡の留守彦二郎家任も出陣して、勲功により反乱軍に組みした工藤氏の所領を与えられている。
「  陸奥国二迫栗原郷内、外栗原幷竹子沢内(工藤右近入道跡)事、 為合戦勲功賞、
所宛行也、可被知行之由、国宣所候也、仍執達如件
元弘四年(1334年)二月晦日  大蔵少輔清明
留守彦二郎殿  
  」          (留守文書)

さらに、栗駒の沼倉氏にも義良親王の令旨の写が所蔵されている。
沼倉氏は、宮方として出陣したものと思われる。

間食記 (北畠顕家花押)
著到 沼倉少輔小次郎隆親も 右宮座之間為奉公、令参上之候、賜下御証判、為備末代亀鏡、仍著到如件
建武元(1334年)年九月 
 」   (沼倉氏系図)

1335年 建武2年 ・1335年建武2年頃に、北畠顕家が、栗駒郡内の武士達に苦戦を強いられていた。この事を記した顕家の御教書が残されている。 北畠顕家が南部氏に宛てた御教書が次の様なものである。

爰当国一ニ三迫凶徒等襲来之旨、有其間之間、所被差遣軍勢・・

とある。 これは、栗駒郡内の有力武士達が、武家方に立って宮方の顕家の勢力に大きな脅威を与えていることが言える。 また、一迫の坂崎郷の朽木氏にも、武家方からの軍忠状が下されている。
・1335年建武2年/延元元年に、三浦氏は、「三浦氏系図」によると、北畠顕家の軍に従軍して、白川関の合戦で勲功をあげて、太刀を拝領したと伝えられている。
・1335年建武2年4月5日には、北畠顕家は、摂津安倍野の合戦で討死した。その時、三浦氏の中心的立場の三浦義忠も顕家と運命をともにしたと伝えられている。
・1335年建武2年7月には、信濃の諏訪頼重のもとに匿われていた。北条高時の二男時行が、西園寺公宗さいおんじきんむねとともに挙兵し、鎌倉から足利直義等が出陣したが敗れ、鎌倉将軍足利義詮や成良親王を連れて鎌倉から逃れた。「中先代の乱」と言われている。足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。 足利尊氏は、征東将軍に任じられ下向して時行を打ち破った。尊氏は、これを機に、鎌倉に居座り、北畠氏に対抗する対策を構うじた。 一族であった斯波家長を奥州総大将に任じて、奥州北畠氏を牽制させ、尊氏帰洛の勅命に従わず、鎌倉に新邸を造営するなどし、反乱とも思える行動をとっていたので、後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐の勅命を発した。ところが、尊氏・直義は、新田義貞を箱根竹の下で打ち破り敗走させ、義貞軍を追撃し西上した。それを追って、奥州の顕家軍が多賀国府を出陣するなど、錯綜する事態に陥った。
・1335年建武2年8月2日に、尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与えたと言われている。
・1335年建武2年8月に、足利尊氏は、軍勢を率いて京都を出発して、半月にして反乱を鎮圧した。
関東地方を平定した尊氏は、間もなく建武政府に叛旗を翻し、天皇の命令に従わず上洛しなかった。これに対して、後醍醐天皇は、奥州の北畠顕家を鎮守府将軍に任命して、尊良親王たかよししんおうを大将として新田義貞中心とした軍勢が鎌倉を目指した。尊氏は、箱根竹の下の戦いで、新田義貞軍を破った。
・1335年建武2年8月には、足利尊氏は、斯波家長を陸奥守兼奥州総大将に任じた。家長は、奥州武士の新たな組織化を進め、多賀城国府の式評定衆の二階堂行朝を、鎌倉の奉行人に引き抜き、さらに、奥州武士の多くも足利方についた状況にいたった。 この様に、奥州情勢の変化をしていたが、奥州総大将の斯波家長は、足利直義の下で関東平定の任に携わっており、実際には、奥州に下向したのは、幼少である従兄弟の斯波兼頼で、執事に氏家道誠が補佐役として同行していた。 奥州情勢も混沌としており、顕家軍が大遠征している間に、足利方は勢力を強化していた。
・1335年建武2年8月に、足利一族である斯波家長と石塔義房を奥州管領として派遣した。奥州の武士勢力の取り込む為であった。ここで、石塔義房の名があるが、石塔義房は、斯波家長が鎌倉で足利義詮(尊氏嫡男)の執事となったので、後任として1337年建武3年/延元2年に、奥州総大将として任じられたと言われている。したがって、ここの石塔義房は誤記と思われる。
足利尊氏は、自ら征夷大将軍と称して、朝廷の命令に従おうとせず、これに対して朝廷は、追討の決意をし、新田義貞に追討を命じた。さらに、朝廷は、陸奥守北畠顕家にも、尊氏追討の宣旨を出し参戦を命じた。顕家は、奥州武士で宮方に加担する武士とともに西上をした。途中、鎌倉で足利方を破り進軍して、一時京都を占拠中の尊氏を、九州に敗走させ、京都奪回に大きな功績をあげた。この功績より、顕家は、鎮守府将軍に任じられた。この頃になると、奥州武士の中にも、尊氏等の奥州攻略により足利方につく武士が増えていった。亘理の武石胤顕や相馬氏もその一人である。これは、鎌倉時代よりの惣領制が緩み、惣領の統制が弱まり、一族が分裂の事態に陥りはじめたと言ってよい。
この様な奥州情勢の混乱した状況を、北畠顕家が帰国することで、奥州支配の建て直しを行わなければならなかった。一方、九州に退いていた尊氏は、再び勢力を盛り返し、上洛し京都を抑え、室町幕府を宣言した。後醍醐天皇はやむなく吉野に移ることになった。これにより、吉野の南朝と足利方の京都の北朝が対立することになったと伝えられている。 また、この対立は、奥州地方においても南北朝に分かれて対立が繰り返されるようになったと言われている。
尊氏は、顕家から陸奥守・鎮守府将軍の職を解任して、石塔義房を奥州総大将に任じて奥州に派遣した。さらに、尊氏が室町幕府を開いたことや新しい奥州支配に乗り出したことなどから、奥州武士の足利方に加担するものが増えていった。
注)斯波家長は、鎌倉初期足利義兼が、奥州各地の所領として、斯波郡を拝領し、その後、足利家氏が受け継いで斯波氏と称したころの斯波館(現在、岩手県紫波郡高水寺城と思われる)に下向し、多賀城国府の顕家軍を牽制したと言われている。石塔義房は、1338年暦応元年以降と思われる。 「中先代の乱」を契機に、東北でも白河、津軽に反乱が起こり、伊達、南部、留守、国分氏が鎮圧にあたり、恩賞を得ている。この頃から、奥州でも、南朝から北朝へ走る武士が出始めている、顕家の麾下であった亘理郡の武石氏や信夫郡の相馬氏、岩城郡の伊賀氏は、北朝斯波氏に味方した。
・1335年建武2年に、倉持左衛門三郎入道行円が、中先の乱で討死したとある。
・1335年建武2年9月27日の足利尊氏の下文には、「倉持左衛門三郎入道行円跡」宛の発給があった。その内容は、「合戦討死之賞」として「信濃国香坂村」を給与することが記載されている。
・1335年建武2年に、四釜重光の八代目四釜弾正重朝は、北畠顕家に従い参陣し、白河関の戦いで戦功を挙げ太刀を拝領した。
・1335年建武2年10月に、足利尊氏は、建武新政府に叛旗を翻した。ここに、建武新政の政治が2年余りで崩れ、以後50余年の全国を巻き込む争乱の時代となった。
・1335年建武2年10月には、足利高氏は、征夷大将軍を自称して、多くの武士を高氏に従わせた。
・1335年建武2年10月には、足利尊氏は、源氏再興の旗を上げた。後醍醐天皇は、諸国の武将に尊氏の追討命令をだした。
・1335年建武2年11月には、後醍醐天皇は、新田義貞に足利高氏征討を命じたが、箱根下の戦いで破れ、高氏はそのまま京都を目指すにいたった。
さらに、後醍醐天皇は、奥州の北畠顕家にも高氏征討を命じている。
・1335年建武2年12月には、北畠顕家は、義良親王を奉じて、京都を目指して西上を進めた。その後を斯波家長が追跡していったと言われている。
・1335年建武2年12月に、足利尊氏は、箱根竹の下の戦いで新田義貞の軍を破り、京都に攻め上った。一方、尊氏追討の命を受けた陸奥国の北畠顕家は、追討軍を召集した。
・1335年建武2年12月末日には、北畠顕家は、義良親王を奉じ、葛西・伊達・結城・南部氏などの奥羽武士を率いて多賀城国府を出陣した。途中、関東の武士も合わせて京都に向かった。その軍勢は5万余騎にまでなっていたと言われている。
・1335年建武2年12月に、北畠顕家は、結城、伊達、南部、葛西などの兵を合わせ、総勢5万余人の精強な奥州軍団を率いて征討の為に西上した。その途中では、立ちはだかる足利方の兵を打ち破り、わずか20日足らずで入京した。新田・楠木氏等に協力して尊氏を九州に敗走させた。
しかし、顕家の活躍も束の間、慌ただしく奥州に下向しが、征討出発前とは、厳しい情勢が待ち構えていた。 それは、すでに、足利尊氏により奥州探題に任じられた斯波家長に活躍により奥羽各地の武士が、北朝方へ荷担させ、顕家の征討軍の追撃をしていた。斯波家長の軍には、多数の奥羽の武士が従っていたと思われる。顕家が多賀城国府に帰任した後も、この勢力は一段と勢いをまし、石塔義房を中心とし、栗原、登米方面から多賀城国府を奪回する計画を図るまでに至っていた。
顕家は、この難を避けて伊達郡霊山へ逃れた。この地は、奥羽での南朝軍の有力者である伊達行朝の本拠に近く、白河の結城氏との連携を取りやすいところでもあった。顕家は、この地より、奥羽南部の南朝軍の援助で多賀城国府奪回の計画を模索していたと思われる。
1336年 延元元年
建武3年
・1336年延元元年/建武3年に、足利尊氏は、京都に幕府をひらき建武式目を定めたり、後醍醐天皇在位のまま持明院統の光明院を天皇に擁立させた。これによって、吉野朝廷と京都朝廷が並び立つ南北朝時代に突入していった。 これにより、南朝の命により陸奥守北畠顕家は、義良親王を奉じて結城、伊達、南部氏の諸勢力を率いて西上し、近江坂本で新田、楠木、名和氏等の南朝勢と合流し、尊氏を九州に追い落とした。
・1336年建武3年1月に、後醍醐天皇は、京都を追われて、比叡山に立籠った。
・1336年建武3年には、葛西氏惣領の葛西宗清が、京都の戦いで戦死した。
・1336年延元元年/建武4年1月には、南朝の命により陸奥守北畠顕家は、義良親王を奉じて結城、伊達、南部氏の諸勢力を率いて西上し、近江坂本で新田、楠木、名和氏等の南朝勢と合流し力を合わせて尊氏を九州に敗走させた。尊氏は、ひとまず九州に退き、態勢を整えて京都回復を狙っていた。 また、九州敗走途中に「元弘没収地返付令」を出した。これは、建武新政政府の所領政策をも否定したもので、所領安堵を願う武士の意を介した武家中心の幕府体制樹立を目指す表れであった。 これ以後、元弘没収地は、建武新政府と尊氏側に味方した武士に恩賞と与えられたので、同所領に二人の領主が存在することになり、社会を混乱させる要因ともなった。 足利尊氏は、「中先代の乱」を鎮定した直後に、足利一族である斯波家長を奥州管領に任じて(朝廷の許可なく)、北畠顕家のもとに結束していた奥州武将の切り崩しを始めた。その結果、相馬氏の一部は顕家の西上軍に参加しなかった。1335年建武2年12月頃のことであった。
・1336年延元元年/建武3年2月頃に、西上軍に参陣していた留守家任が、足利方に寝返りするなど、奥州武士の向背こうはい(従うことと背くこと)が次第に変化していった。
・1336年延元元年/建武3年に、北畠顕家は、戦功により鎮守府将軍に任じられた。
・1336年延元元年に、後醍醐天皇は、東北の情勢を打開すべく、義良親王を太守に任じて、顕家を右衛門検非違使別当、権中納言陸奥大介鎮守府将軍に任じて、急ぎ陸奥に下向させた。 しかし、奥州下向途中に、相馬氏が寝返り下向を妨げられた。多賀城国府周辺は、足利方が支配する地域となっていた。
・1336年延元元年/建武3年3月には、顕家は、奥州の帰途についたが、途中、斯波家長や相馬氏に行く手を阻まれ、多賀城国府に戻ったのは、5月下旬であった。
・1336年延元元年/建武3年3月から4月頃には、足利尊氏は勢力を盛り返して再び京都に攻め上った。
・1336年延元元年5月25日には、九州に敗走した足利尊氏が大挙して東上し、南朝方の楠木軍を兵庫湊川の戦いで破り、京都に入った。この時、楠木正成が49歳で戦死している。
・1336年延元元年/建武3年に、京都を目指す足利尊氏は、湊川戦いにおいて、楠木正成、名和長年、六条忠顕等が破れる結果となった。
・1336年延元元年5月には、北畠顕家は、二十三日の日程で京都から多賀城国府に到着した。
・1336年延元元年に、北畠顕家は、この戦いの戦功により、鎮守府大将軍に任じられ新陸奥太守義良親王と共に、再び、多賀城に下向したが、この西上の戦いの間に、奥州の情勢が著しく変わり、多賀城周辺は、足利方の諸将が勢力を保持していたので、陸奥に帰った顕家は、足利方の掃討作戦に尽力していたが、多賀城周辺は足利方に委ねてしまい、伊達郡の霊山に入らざる得ない状況であった。その様な中で、顕家は、足利尊氏討伐の勅命を再度命じられ、尊氏との決戦の為に西上することになった。 この顕家の西上の動きは、奥州各地にも影響を及ぼし、志波姫地区にも容赦なく押し寄せていたようで、館主・領民共々戦陣にかりたてられた様である。そのことが、各地域の系図などに記録されている。
西館系図の五代三浦義忠の項に次の様に記されている。

義忠弾正少輔建武三年北畠顕家公中尊寺下向ノ節、多賀城二出陣同年白河関合戦のみぎり軍功太刀拝領同四年五月二十二日摂州安倍野合戦ノ節北畠公ト共二討死二十六才法名円寿院殿了久居士

と記されている。
また、日良館小野寺家系図にも六代綱康の項に次の様に記されている。

綱康因幡守建武三年北畠源中納言中尊寺出陣之節御供同年四年五月二十二日泉州阿倍野合戦之節顕家共二討死因幡守三十三才

と記されている。
この様に、志波姫地方も南北朝動乱に巻き込まれていたことが明らかである。さらに、西館、日良館主に従った志波姫の武士たちが、各地を転戦していったことがわかる。 ここで、歴史書によると、北畠顕家は、1338年延元3年の五月に和泉石津で高師直と戦って戦死したとある。しかし、志波姫各地の系図によると、1337年建武4年5月22日に顕家公と共に討死したと記録に残されている。 ここの一年間のズレは何故なのであろうか疑問を残すところである。他の歴史書から見てみると、顕家は「延元二年(1337年)八月に、伊達郡霊山を出発して鎌倉で斯波家長を討ち西上した」とある。これによると、顕家は、1337年建武4年5月には、まだ、霊山に居たことになる。従って、西館、日良の館主もこの時点で霊山にいたと推測することになる。恐らくは、両系図の建武四年(1337年)は延元三年(1338年)の誤記と思われる。 北畠顕家が討死したので、南朝はその弟顕信を鎮守府将軍として東国や奥州をもう一度勢力を盛り返そうとした。そして、義良親王のりよししんのう宗良親王むねよししんのうと北畠親房・顕信父子を伊勢大湊から海路東国に向かわせたが、途中嵐に遭って人々は四散してしまった。 北畠父子や義良親王、宗良親王は漂流し、再度東国を目指したと伝えられている。
・1336年建武3年7月に、足利尊氏・直義は、一門の斯波家兼を大将軍として若狭に遣わした。家兼は、近江(滋賀県)から若狭に進行して南朝勢を撃破したと言われている。
・1336年建武3年7月25日には、斯波家兼は、小浜(福井県小浜市)に入部し、「若狭国税所今富名領主代官次第」によると、27日には、今富名を手中に収め、代官として氏家藤十郎通継を任じた。さらに、足利尊氏は、家兼に対して、若狭国東寺の太良荘に対する違乱停止の御教書を与えており、家兼は守護としてその権限を行使したと言われている。
・1336年延元元年8月には、足利尊氏は、光明天皇を擁立して「北朝」の始まりとなった。
・1336年建武3年8月5日には、家兼の下に、近江の朽木氏が加勢に入った。
・1336年建武4年8月には、北畠顕家は、伊達郡霊山より奥州武士を、再度結集して西上する時でもあった。 また、武家方の足利尊氏は、既に斯波家長を陸奥守に任じて奥州宮方に対抗させていたこともあり、宮野氏も武家方より働きかけがあったと思われる。このことから、宮野氏はこの頃には、有力な奥州武士に成長していたが分かる。
・1336年建武4年8月8日に、宮野氏は、「宮野氏系図」等によれば、宮野城の守護神である八幡宮に神鏡一面を奉納して、宮野氏への援を祈願したと記されている。 その内容が次の様なものである。

当社者霊験誅勝之場也。今度為天下泰平、神鏡一面奉納也。八幡宮宇正一位大菩薩 建武四年八月八日  従三位中納言源□奉納  奥州宮野八幡宮守護神

とある。
この内容から見ると、従三位中納言源某と云う人物で、中央から高い地位の名前で奉納されたものである。建武四年の頃は、建武中興が破れ、宮方と武家方との激しい戦いが展開されたころで、宮方では年号を前年に延元と改元しているので、宮方であれば、延元二年と記すところである。しかし、建武年号で奉納されているところから武家方であったと思われる。 また、この頃には、北畠顕家の動きも活発になって来ていた。
・1336年建武3年8月15日には、足利直義が、大将軍家兼軍への参陣を促す軍勢催促状が発せられた。これにより、家兼軍の一層強化が図られることになった。
・1336年建武3年8月20日に、若狭国太良荘に対する尊氏の御教書が、藤原某(氏家道継)によって施行された。
・1336年建武3年8月28日には、斯波家兼支配を進めている若狭国に、新田義貞一族の軍勢が越前より侵入し、両軍の激しい戦闘になった。結果、足利方は敗北し、家兼軍は、松尾寺に退却、南朝方は、一旦小浜を占領したが、家兼軍は態勢を建てなおして、明通寺衆徒と多伊良氏等の加勢を得て小浜奪回に動いた。
・1336年建武3年9月5日には、斯波家兼軍は、9月4日から反撃開始して、5日には小浜を奪回することができた。
・1336年建武3年9月6日には、斯波家兼は、明通寺衆へ軍忠状の証判を与えた。
・1336年建武3年9月17日に、斯波家兼は、参陣にやや遅れて加勢した朽木義信にも軍忠状に証判を与えた。
・1336年建武3年10月10日には、後醍醐天皇は、比叡山をおりて足利尊氏と和睦した。これにより、建武新政は崩壊した。 この頃には、新田義貞は、北国に逃れようとして、10月14日に敦賀(福井県敦賀市)に到着し、越前金ヶ崎城に立て籠もり、足利方と戦いを継続した。
・1336年建武3年12月21日に、後醍醐天皇は、京都より脱出し吉野(奈良県)に遷幸した。これにより、南北朝時代が始まった。
1357年 延文2年
正平12年
・1357年延文2年頃に、斯波家兼は、奥州着任して3年にして死去したことが伝えられている。
※大崎地方に、家兼に由緒あると伝えられる社寺が少なくない。これは、のちの大崎氏が、大崎地方に支配を拡大に伴う、社寺保護政策に関連するものと考えられる。 斯波家兼の死後、奥州管領を嗣いだのが子息の斯波直持と言われており、直持は、若狭国時代から家兼を補佐してきたこともあり、跡を嗣ぐには申し分ない人物と思 われる。直持は、1367年貞治6年頃まで管領の任にあたっていたと言われている。二代直持が管領就任当初は、塩竃神社や留守氏(鎌倉時代に陸奥国留守職に任 じられ、代々世襲し、多賀城国府の直轄領を中心とする宮城郡の東部を領有している)に対して、数多くに命令文書を発している。
・1357年延文2年に、大崎家兼は、宮野の工藤家系図によると、奥州管領として下向し、大崎五郡の領主となり、栗原郡も領地となって、仁木駿河にきするが)も支配となったと記されている。
1361年 康安元年 ・1361年庚応元年7月6日に、直持は、泉田左衛門入道と氏家伊賀守(彦十郎と思われる)を両使に任命し下地打破を八幡氏に命じたが、右余曲折した。
・1361年康安元年に、葛西氏は、江刺氏と江刺郡浅井邑で戦っている。
1362年 康安2年
正平17年
・1362年康安2年頃からは、二代直持は、管領として足元を固める為に、相馬氏、白河結城氏、飯野八幡宮(福島県いわき市)等に多くに文書を発している。これは、南奥州への支配拡大を図るものと考えられる。
・1362年康安2年に、斯波直持は、南奥の相馬氏・飯野八幡宮・白河の結城氏等に、数多くの文書を発給している。奥州武士に対して、しだいに影響力が及ぶようになる。
・1362年康安2年~1367年貞治6年頃に、南北朝期の末頃で、奥州管領と称した吉良・畠山両氏が、長岡郡から松島周辺において戦いが行われた。畠山氏は、戦いに敗れて、東方に圧迫されため、高砂保の長田城から海路に逃れ、福島の二本松に逃れたと言われている。その後、畠山氏は、二本松氏と称した。また、 この時の吉良氏は、貞家の嫡子満家であり、活動拠点が大谷保(現在の大郷町付近)と「留守家旧記」に記されている。この戦いは、長岡郡でも行われており、河内の地では、有力武士の勢力争い盛んに行われている状況で、大崎氏(斯波氏)は、長岡郡の近辺に勢力を持っていたこともあり、吉良氏に味方したと言われている。 また、大崎氏は、他氏の争いにも介入するなどして漁夫の利得て勢力拡大をしていったとも言われている。
・1362年正平17年に、遠藤氏は、10代遠藤盛時が、関東府の足利基氏の近臣となったと言われる。
1363年 貞治2年 ・1363年貞治2年には、葛西氏は、鎌倉御家人時代の文治以後気仙沼邑主熊谷氏を破り、臣下とした。室町幕府の三代将軍義満の頃は、諸豪族たちは所領を拡げる為の争いを日常的に行われていた時代であった。従って、利害を共にする諸豪族の間では、一揆契約の盟約が交わされ、他からの圧力や侵入された時、協力してこれを防ごうとする動きが盛んに行われていた。
1364年 貞治3年 ・1364年貞治3年8月に、倉持兵庫助入道が、羽州管領斯波兼頼の麾下に属して「勲功章」として「出羽国山辺庄内塔見参分壱」の預置を受けることがあった。これは、あるまじき行動で、この様な振る舞いができる人物といえば、叔父の倉持十郎忠重ぐらいではないかと思われる。
・1364年貞治3年10月10日に、足利尊氏の下文と直持の宛行状によって、留守氏の本領が回復された。

1366年 貞治5年 ・1366年貞治5年には、吉良治家は初代鎌倉公方の足利基氏あしかがもとうじから戦功として武蔵国荏原郡世田谷郷を与えられている。
1367年 貞和6年 ・1367年貞和6年4月に、吉良治家(貞家の子息)が、名取郡に侵攻したので、幕府は奥州探題二代直持と羽州探題斯波兼頼に討伐を命じている。 この頃は、南北朝の末期であり、大崎地方では、斯波、吉良、畠山の前任管領が対立している状況であった。
「奥州餘目記録」にも記されている。

吉良貞経と畠山国詮が合戦し、吉良はこま崎に陣をとり、畠山は長岡郡沢田要害に攻め込んだ。大崎は近所だったので反撃し、羽黒堂山、長岡の地蔵堂山に布陣した。このため畠山は退去し長世保丗番神(大崎市松山山王)に立て籠った。大崎軍は、鳴瀬川の対岸の蜂谷森(美里町小牛田彫堂)から弓矢の攻撃を、おこない畠山を退去させた。

に記されている。
この様な動きは、四管領の抗争が収拾の時期を迎え、斯波氏が河内5郡に進出した事を意味し、大崎氏を名乗る時期でもあった。
・1367年貞治6年頃には、斯波直持の活動が確認できる文書や発給文書が見受けられなくなっている。恐らくは、この頃に、亡くなったと思われる。
・1367年貞治6年には、小田時綱が隣接する高野郡(現;福島県東白川郡)に攻め入った。吉良治家は、多賀城と伊達郡の中間に位置する名取郡にて蜂起し勢力拡大を図った。持家方には、常陸と名取の二手に割くほどの兵力を持っていなかったので苦境にたたされた。この吉良氏の内訌状態を勢力拡大の好機と捉えた奥州探題斯波直持は、西に隣接する石塔氏領の制圧をはじめた。この奥州の争乱が各地に飛び火することを恐れた将軍義詮は、吉良治家を謀反人と断じて石橋棟義を奥州総大将とする討伐軍を派遣することにした。
・1367年貞治6年には、吉良治家討伐の為に、将軍足利義詮が、石橋棟義を奥州管領の補佐をする奥羽総大将に任命し下向させた。その上で、白河の結城顕朝ゆうきあきともを始めとする奥州国人衆に石橋氏と合流するように将軍義詮の御教書みきょうしょを発行した。これにより、石橋棟義軍に続々と奥州国人衆が参陣して北上を続けた。この状況に治家方諸将は狼狽し、次々と国許へと兵を引き上げ兵力が激減していった。この報を受けた吉良持家は大叔父の貞経を大将とした軍を向わせた。仙台平野を舞台に両軍が激突した。しかしなら、後方より迫り来る石橋軍に焦りを感じた治家方は自滅するかのように四散した。持家・貞経軍は、敵大将の治家を執拗に追撃したため、治家は 南北から挟撃される形となり、常陸の小田氏を頼るべく海道沿いに南下し、関東へ落ち延びることになったと言われている。奥州の勢力図も塗り変わり、波氏は石塔氏を駆逐し、大崎平野一帯に大きな勢力を形成された。逆に吉良氏は内訌のため著しく勢力が衰退し、この6年後、畠山氏との間に生じた合戦により奥州の地にその名は消えてゆくことになる。
・1367年貞治6年/正平22年頃、関東公方足利基氏が28歳で没し、幼少の足利氏満が後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮が38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地 では、中央権力の軛から逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。 この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服しなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約を、葛西・長江・山内首藤・登米・留守氏等が結んだことなどがある。
1371年 応安4年 ・1371年応安4年10月10日に、三代として詮持が奥州管領となった。直持の嫡子として幼名彦三郎を襲名、初めは1372年(応安5年12月2日)左衛門佐となり、 1373年(応安6年9月18日)左京権大夫となり、1388年(嘉慶2年)左京大夫に任ぜられた。その後、左京大夫、奥州管領として活動して行く。 斯波詮持は、奥州において足利方の権力者として、石塔氏はすでになく、吉良・畠山・石橋氏が勢力を競っていた。
・1371年応安4年に、千葉修理亮(すけ)師経が、四代倉持胤忠の領地を受け継いだということである。記載が「応安4年倉持兵庫胤忠分」と記されていた。 倉持氏は、各地に散在する足利氏の所領を管理していたと思われる。倉持氏の本領は、下野国(栃木県)足利庄赤見駒庭郷と言われているが、各地に散在する足利氏の管理に奔走させられていたと思われる。
さらに、「倉持文書」からは、賀美郡に穀積郷、沼袋郷、中新田郷等が記されているが、他にも青塚郷の名も記載されている。青塚郷の場所は不明ではあるが、記されている。
味ヶ袋の内出家信に関して
内出(山)家の系譜は、遠祖が極めて高尚な系譜になっているようで、1221年承久3年に、源為家の子内山家信が承久の乱後、賀美郡に逃れ、味ヶ袋三津澤に城を築いたと言われている。そもそも遠祖は、藤原鎌足の三世左大臣藤原魚名の十二世藤原光隆の子従五位下常陸介朝宗と伝えられている。朝宗の子為家は、故あって信濃国小懸郡内山の城に居たことから内山源為家と名乗り、その子が、内山与五郎家信といい、三代将軍源実朝の家臣であったと伝えられている。
系譜を略記すると

藤原鎌足→→三世藤原魚名→→魚名十二世光隆→→朝宗→→内山為家→→内山与五郎家信

藤原朝宗の母は、清和源氏の血脈を継いでいるので、その子為家は、源の姓を継ぐとともに信濃国内山と名乗ることになったと言われている。 内山家信は、承久の乱後、陸奥国寒野郡薬莱山麓の三津澤に隠れ、その後、味ヶ袋に城を築いたと言われている。(朝日館より以後の築城と思われる) 内山家信は、承久の乱で天皇側に味方した源氏の武士であることが知られている。このことから、味ヶ袋城主となった家信は、東北鎮台の多賀城城主の臣となり、その後、内山信隆は、元弘年間の南北朝期に、北畠顕家に従い、北条高時方と戦い、その功により備前春日の白雲切の太刀一振と賀美郡一郡を賜ったと言われている。
1372年 応安5年 ・1372年応安5年頃に、詮持が師山から小野に移住したと云われている。 詮持の時代は、南北朝内乱の後半期から室町時代の初期にかけての三代将軍足利義満の時代で、14世紀末期であった。
1353年(文和2年)5月に、宇津峯城陥落後、北奥で動いていた南朝方の大将北畠顕信は、1362年(貞治元年)頃まで活動していたが、その後は明らかでなく、糠部八戸の南部氏が北奥に勢力を保っていた。又、吉良氏と並んで奥州管領であった畠山氏は、1351年(観応2年)岩切合戦で畠山国氏が自刃、その後遺児の平石丸が安達郡に逃れて再興を図り、修理大夫国詮を名乗って再び管領職を狙っていた。一方、奥州管領の吉良氏は、貞家の子の満家の夭の折後、叔父貞経(貞家の弟)、弟の治家、嫡子の持家との間に管領職の相続争いが起こり、一族分裂、治家は幕府より追討を受けることになった。従って、吉良氏自身の権勢を失い、僅かに長老の貞経が、管領としての行動をしており、畠山国詮と対立していた。
その状況下で、吉良治家追討の為、1367年(貞和6年)に尾張式部大夫宗義(石橋棟義)が、将軍足利義詮より大将として奥州に派遣された。が、奥州平定後も奥州に留まり陸奥守となり、所領安堵、所領預置、軍事催促等を活発に発給文書をだしたが、(父和義も同行し補佐した)管領職とは異なった職権で、軍事指揮権が主な任務であった。 前述の事は、名取郡熊野堂の一切経奥書に、1380年(庚暦2年)6月1日「当国大将石橋殿源棟義」と記されていたことから認識できる。
1373年 応安6年
文中2年
・1373年応安6年12月2日に、詮持は、相馬胤弘に対して将軍の命によって、高城保の赤沼郷を本領とし、元の如く知行すべくと命じた。その施行状によって、 1373年12月11日に、葛西清光と留守氏が遵行使(両使)として下地を相馬胤弘の代官に渡した。
・1373年応安6年/文中2年に、今川了俊いまがわりょうしゅんが大宰府を攻略した翌年、もう一つの探題がある奥州において大きな戦が生じた。
1374年 応安7年
文中3年
・1374年応安7年/文中3年に、畠山国詮は、吉良氏と覇権を争うために長岡郡沢田要害に陣を敷いた。しかし、斯波氏(大崎氏)が吉良氏に味方した為、畠山氏は苦戦を強いられ、海沿いの竹城保に下がり陣を敷いた。しかし、吉良氏に攻められ海路福島の二本松へ退いた。その後は、二本松畠山氏となったと言われている。
1375年 応安8年
文中4年
・1375年応安8年4月には、詮持は、葛西周防三郎に対して志牛・那須郷等を「御恩」として宛行等、奥州諸氏に対して所領安堵、所領宛行、御恩宛行等の管領としての 重要な職務を果たした。
1376年 永和2年 ・1376年永和2年には、斯波詮持は、加美郡米積郷(加美町)の国人領主倉持氏の官途推挙をしている。これは、加美郡内の国人領主を自己の支配下に置いた事を示している。
・1376年永和2年には、倉持五郎は、奥州管領斯波詮持の麾下きかに入り、靭負尉ゆげいのじょう靭負ゆげいが近衛・兵衛・衛門の武官の総称。じょうは、かみすけじょうさかんの三等官)の官途に吹挙せられた。
・1376年永和2年に、畠山氏の分郡加美郡・黒川郡を抑留よくりゅう(おさえとどめること)している。これを、将軍足利義満に咎められ、伊達(九代)政宗と葛西満良に御教書を下して、畠山氏に沙汰付けさせた。
1377年 永和3年 ・1377年永和3年に、伊達九代大膳大夫政宗が、名取、宮城、黒川、深谷、松山地方を支配下に入れ、宮城郡の留守支流と一揆契約を結んだと言われている。また、これに対抗するかのように、葛西氏は隣接する山内、長江、登米、留守氏本流と一揆契約を交わしている。 また、大崎氏の勢力が増大しているなか、岩切城合戦で破れた畠山氏所領の加美、黒川の両郡を抑留よくりゅう(おさえとどめること)してしまった事態がおきた。
・1377年永和3年に、九代伊達大膳大夫政宗が、宮城郡の留守氏と一揆を結び、大崎氏の勢力圏にくさびをうった。この事から、北方への勢力拡大が始まったとも言われている。
1381年 永徳元年 ・1381年永徳元年に、亘理わたり氏は、陸奥亘理郡を根拠地とした氏族で、八代亘理行胤わたりゆきたねが、伊達宗遠だてむねとうと刈田郡で戦い破れた。 その後、重胤しげたね胤茂たねしげの頃には、国分氏と戦い勢力の拡大に努めた。 さらに、茂元しげもとの代には、柴田・名取地方を服属させたと伝えられている。
・1381年弘和元年に、8代伊達遠宗だてむねとうは、亘理郡の武石行胤たけいしういきたねを服属させた。また、大崎氏を攻めて二郡をとり、信夫・柴田・刈田・伊具まで勢力を拡大した。(この時は、伊達の家督を9代政宗に譲っている)
1383年 永徳3年 ・1383年永徳3年8月15日には、南奥の岩崎郡の岡本太郎を伊勢守に推挙するなどの官途の職権を行使している。
1384年 至徳元年
元中元年
・1384年至徳元年/元中元年には、畠山国詮は神社に対して神領として村々を安堵する判物を発給しているが、現在の宮城県地域に保持していた領地は、斯波氏らに押領されて、その支配力は二本松周辺しか発揮し得ない状況であった。 この様に、奥州には、大崎氏が唯一探題として残ることになった。吉良氏も、大崎氏の隆盛に押されて、本領の安達郡塩松33郷の領主となり、その後、塩松氏を名乗る様になったと言われる。
1386年 至徳3年 ・1386年至徳3年春には、大崎詮持は、宮野の工藤家系図によると、一宮を参詣した際に、工藤氏が真福寺において奉謁ほうえつ(まみえる 身分の高い人に面会する。お目通りする。)したと記されている。
・1386年至徳4年に、北朝方の石橋棟義が相馬冶部少輔憲胤(父胤頼)に「長世保内大迫(鹿島台大迫)の預け置状を発給している。 (預け置状とは、いずれ正式に与えるという約束の文書)この文書からみれば、長世保内には鎌倉時代より大迫郷があって、村地頭が存在していたと思われる。 この様に、長世保の内の地頭として足跡を残こされているのは前述の方々である。 しかし、鎌倉時代を通して地頭の交替が激しく、鎌倉幕府創業の功臣である和田氏・三浦氏・畠山氏の有力御家人は滅亡し、北条氏の所領となり、北条氏の勢力が確立されていくのであった。 和田氏の所領などは、北条氏の手に移り、鎌倉末期の頃は、松山付近以外に、亘理郡、遠田郡、黒川郡も北条氏所領となり、さらには、志田郡もその傘下にはいっていったものと思われる。 鎌倉幕府滅亡後、北条氏の所領は没収され(元弘没収地)、建武新政府や足利政権によって、勲功の賞として、旗下の武士に分け与えられた。
・1386年至徳4年には、長世保大迫郷が陸奥守石橋棟義から相馬憲胤(父胤頼)に預けられた。これらの事から、長世保は「元弘没収地」であり、鎌倉末期には、北条氏の所領化になっていたと思われる。
・1386年至徳4年12月2日に、石橋棟義が、相馬冶部少輔憲胤に対して、名取郡南方増田郷下村を兵糧料所として預け置きとしたとの発給文書が最後で、当国大将としての権威を失い、40年後の1428年頃には 、南奥諸氏の末尾に記されて、在地の安達郡塩松の一領地過ぎなくなっていた 。 石橋棟義の出現は、奥州管領斯波家兼の死後一時期、奥州斯波氏の勢いが衰えた時に、幕府が、陸奥守として多賀城国府に派遣された人物であり、斯波一族の有力者でもあった。
1388年 嘉応2年 ・1388年嘉応2年11月14日には、宮城郡の留守参河守次郎の家督の相続を認可した。
1390年 明徳元年 ・1390年明徳元年には、斯波管領(奥州探題)大崎詮持が、長岡郡(宮城県大崎市古川須賀)小野村洲賀に拠点を構え、近隣の国人達に強引に干渉し、領地を侵略拡大していた。又、大崎詮持は、探題職を楯に、留守詮家に切腹を命じたり、近隣国人達に圧力をかけ続けた。この様な情勢のなか、大崎氏に対する不満も高まり、将軍に訴状を出して訴えるじたいが発生した。
・1390年明徳元年に、吉良持家は、鎌倉公方に鎌倉に呼び戻され、その後任に、宇都宮氏広が探題職として下向することになった。宇都宮氏は奥州探題として下向し、仙道の四本松にいたのだが、1390年明徳元年吉良満家が鎌倉に召還された跡を給されて栗原郡に入った。

1391年 明徳2年 ・1391年明徳2年3月6日には、大崎詮持は、和賀郡の和賀伊賀入道に対して江刺郡内会佐利郷を勲功の賞として宛行っている。しかし、管領としての活動は、以前より少なく、発給文書も少なくなっていることから認識できる。これは、当時の社会体制が、古い荘園公領体制が崩れ、在地国人達が勢力拡大に力を注ぎ、公権力の荘園領主に反抗し始めたからである。一方、武家社会も従来の惣領制が解体し、一族、庶子が分離し在地「国人」として、自立・独立の行動を持つようになった。地方豪族領主は、在地国人を配下にし結集して大名化していった。奥州で代表的な例が、伊達氏である。 ・1391年明徳2年6月27日付けの足利義満教書が残されている。

陸奥国賀美郡は畠山修理大夫国詮の分郡である。ところが左京大夫が抑留したという。また同国黒河郡は国詮の恩賞地である。これも同じだという。いずれも常識を超えた行為である。早く伊達大膳と一緒に現地に赴き、国詮の代官に現地の支配権を引き渡せ。その結果について報告せよとの仰せなので執達する。

という文書が残されている。宛名は、葛西陸奥守で署名は、幕府管領の細川頼元であった。この文書は、将軍足利義満の意向を受けて管領が発した命令文書で、御教書みきょうじょと呼ばれている。 この文書の内容は、この時の陸奥国左京大夫といえば、大崎詮持と思われる。葛西陸奥守と伊達大膳大夫に、畠山国詮の分郡などを押領した大崎左京大夫から取り戻せとの命令であった。この頃は、奥州管領同士で所領争いをやっている状況で、上記の件も同様なことであったと思われる。 この頃は、南北朝末期のころで、畠山国詮は、勢力を盛り返して、河内の一部賀美郡と南の黒川郡に分郡を獲得していたことが分かる。また、斯波氏も家兼から直持と堅実な勢力拡大を図っていたが、三代目詮持から一転して幕府からにらまれるような強行手段により勢力拡大をしていくようになった。
・1391年明徳2年には、室町幕府は、大崎氏の勢力増大に懸念していたこともあったので、大崎氏のこの抑留を認めず畠山氏に返還することを命じていた。しかし、大崎氏は、応じる気配がなかったので、葛西氏と伊達氏に返還交渉を命じている。 この頃には、葛西氏、大崎氏、伊達氏は、この地域の有力大名に成長し、勢力を拮抗していた。 この頃は、1351年岩切城合戦から40年を経ており、畠山国詮が何歳になっていたかは不明であるが、50歳頃と思われ、すでに二本松に在住しているので、明徳2年以降に二度目の対決をしていると思われる。この時に、富沢氏が与えられた所領は、「三迫とみざわの郷」と「余目記録」に記されている。 吉田東伍の「大日本地名辞書」には、旧鳥矢崎村鳥沢を宛てがわれたとある。その後、岩ケ崎小学校背後の通称「お館山」が富沢氏の居城となったとされる。さらに、天正末期(1591年頃)までの約200余年間の戦乱の中を三迫から二迫地域中心に勢力を維持していたと言われている。
・1391年明徳2年には、室町幕府は、陸奥・出羽両国を鎌倉府の管轄下に置いた。まさに、南北朝終結直前のころである。 鎌倉府は、これにより、奉行人を奥羽両国に派遣して、年貢の徴収に乗り出し、さらには、奥州武士の鎌倉へ参勤が求められた。しかしながら、室町幕府と鎌倉府は、東国支配においても対立をし続けていた。そもそも、足利尊氏の子で、兄である足利義詮と弟の足利基氏が、室町将軍と鎌倉公方となっていたが、基氏は義詮に対抗的であったことが幕府と鎌倉府が対立する様になった。この対抗意識は、基氏の子孫である氏満、持氏にも引き継がれていった。幕府も、義詮、義満、義政の歴代将軍は、鎌倉府を討伐する議論が持ち上がる状況で、このため奥州の政治状況が混乱をきたした。
1392年 明徳3年
元中9年
・1392年明徳3年/元中9年に、後亀山天皇(南朝)から神器を後小松天皇(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約56年近く続いた大乱であったが、これで終息した。しかし、足利方内部での争いが半世紀も続きており、まだまだ波乱の状態が続くことになった。奥州においても同様で、各地で波乱が巻き起こっていた。吉良・畠山の岩城合戦もその一つと考えてよい。さらに、地方豪族たちも勢力拡大の為に、自己陣営に引き付ける所領欲を煽るようになり、共通の利害を共有する地方豪族は、他からの圧迫を防ぎ、自家の存在を図るために一揆結合した。さらに、小土豪は、起請文による一揆契約を図り、一揆をあげて勢力確保をした。 この様な状況で、奥州では、南部・葛西・伊達の各氏は勢力拡大して、戦国大名化していった。
・1392年明徳3年に、三代将軍の足利義満あしかがよしみつのときに奥州管領職は廃止、陸奥・出羽の両国は鎌倉府の管国に編入され、二代鎌倉公方の足利氏満あしかがうじみつが直接支配するようになった。 鎌倉公方氏満は奥州支配強化の為、吉良持家を鎌倉に帰参することを命じた。その後任に、宇都宮氏広が探題職として下向することになった。
・1392年明徳3年には、鎌倉府に属した宇都宮氏広が奥州探題として塩松に入部した。 畠山氏は、大崎氏の度重なる攻撃に負け、畠山国詮の孫義泰は蘆名氏を頼って安積郡二本松(福島県)に逃げたが、すでに、宇都宮氏広が奥州探題として赴任していたので、ここも追われて和賀氏を頼ったと言われている。
・1392年明徳3年に、室町幕府は、東北を関東管領の管轄下に置く命令を下した。これまでの東北は、奥州探題、出羽探題の支配に属した特別な地域であった。これ以降は、探題やその配下の武士たちも鎌倉への参勤が迫られることになった。こうして、東北全体は関東管領の指揮下になり、関東と同一歩調で進むことになった。しかし、幕府は、関東管領府が過大で強大化することを恐れ、東北の諸豪族に、叛旗を翻させる様に仕向けていったと言われている。
「余目記録」によると、
葛西氏は、大崎氏に服属はしていたが、伊達、南部氏と共に客分格で、留守氏以下外様衆とは別格に扱われていた。と言われている。
「伊達正統世次考」によると、

黒川郡長世保為大崎領或□葛西領、而先祖定遠公之時、伐取之。其後以大崎葛西之封境也。令宮沢氏住守之云

とある。
南北朝末期には、小牛田を流れる鳴瀬川の対岸松山長世保方面で大崎、葛西の対立が始まっていたことが分かる。そして、さらに、遠田郡は、その接続点でもあり、その対立には、しばしば争の場となったと思われる。
1394年~ 応永年間 ・1394~1428年応永年間頃、高清水氏の初代は、三代詮持の次男持家で、「大崎西殿」として称され、大崎一族宗家に次ぐ家柄である。大崎宗家の後継が途絶えた場合、高清水氏より大崎当主を出せる立場であった。 氏家氏が「執事」と呼ばれたのに対して「管領」と尊称されていた。その後、1465年寬正6年頃に政賢、1512年永正9年頃に詮賢、1577年天正5年直堅となる。直堅は、大崎天文の乱で義直に反抗し、一時は滅亡に危機に陥ったが、義直により復帰したが、その子高景も主家にて対抗して、伊達家とよしみを交わす。
1396年 応永3年 ・1396年応永3年には。奥州探題に任ぜられた宇都宮氏広は、四本松城に入城した。
1397年 応永4年 ・1397年応永4年に、若犬丸が会津で敗死をした。 しかし、この波及した争いは、応永6年頃まで続き鎮圧された。
・1397年応永4年には、内藤氏は、葛西氏代官職の御礼に上洛した折に、御供をして、具足や太刀を古田上野介から拝領したとある。
1398年 応永5年 ・1398年応永5年11月4日には、関東公方足利氏満が没し、嫡子足利満兼が跡を継いだ。
1399年 応永6年 ・1399年応永6年に、室町幕府は、将軍義満の命により、中央による支配権力を強める為に、奥羽地方を鎌倉府管轄下に置いた為に、鎌倉公方足利満兼は、弟の満直・満貞の二人を奥州に派遣した。
・1399年応永6年に、関東公方足利満兼が、弟満貞、満直を奥州支配強化の為に派遣した。 この頃になると、関東府と幕府との間が、かなり疎遠になってきたことや大内義弘などの反幕運動に関東府が応じようとさえしたほど状態であった。また、その様ななか、奥州支配の強化しようとする関東府に対して批判的あった大崎詮持は、伊達大膳政宗などとともに、京都の幕府と結んで関東府を牽制しようとした。
・1399年応永6年に、足利満兼は、弟満直を安達郡笹川(郡山市)に、満貞を岩瀬郡稲村(須賀川市)に下向させた。 関東公方による奥州支配の強化には、奥州管領大崎氏はもとより不満であった。白河に着いた満直・満貞は、自らの直轄領として、奥州豪続に所領の分与を求めた。または、両御所の管領上杉憲英が、奥州諸氏に領土割譲を要求した。伊達政宗は、長井北条(山形県)の33郷を進上すると、郡庄より広大な郡を進上せよと迫った。鎌倉府が奥州支配をするようになったが、奥州には「京都扶持衆」と言われる室町幕府に強い絆を持っている有力武将がいた。
「京都扶持衆」の中で、白河結城氏、伊達氏、大崎氏、葛西氏などが挙げられる。 室町幕府は、鎌倉府を牽制する意味もあり、「京都扶持衆」と連携を深めていた。
1400年 応永7年 ・1400年応永7年に、鎌倉公方・足利満兼が奥州に派遣した次男の稲村公方・足利満直と四男の笹川公方足利満貞は次第に奥州探題宇都宮氏広と対立。 足利氏満の跡を継いだ鎌倉公方・足利満兼は、葛西満信と大崎詮持、石橋棟義に宇都宮氏広の追討を命じた。
・1400年応永7年には、宇都宮氏広は、所領のことで反乱を起こし、栗原郡三迫で葛西太守葛西満信と奥州探題大崎詮持の挟撃によって鎮圧された。この様な状況を、双方の家臣の家譜に残している。葛西氏側については、葛西氏支流の黒沢氏の家譜に残されている。

清尚子隠岐守守尚、為葛西老臣、任詮清及満信二世、応永七年十月有栗原郡三迫之役、宇都宮越中氏広與乱、大崎左京大夫詮持、葛西陸奥守満信、奉命伐之、守尚為葛西光駆・・・

とある。
  また、河内四頭の一人である渋谷氏の家譜にも、同様な記述が残されている。

秀継子美作守清継、応永七年九月征宇都宮越中守氏広時、戦死いずくんぞ)、清継子和泉守重清、応永八年会大崎左京大夫詮持、・・・

とある。
これらの記録から見ると、1400年応永7年に、宇都宮氏広が栗原郡三迫で大崎氏と葛西氏の両軍の挟撃に遭い征伐されたことである。これにより、奥州探題を称するのは大崎氏のみとなった事が言える。 この事が、「余目記録」にも記述されている。

奥州に四探題也、吉良殿、畠山殿、斯波殿、石塔殿とて四人御座候しは、殿とハ大崎の御弟ニて侯、応永七年ニ牛袋ひじりのほり給ひて、京都より国一円の御判下て後、大崎殿一探題となり

と記されている。
これによれば、1400年応永7年に、室町幕府二代将軍義詮より、「京都より国一円御判」を与えられたことと、宇都宮氏広の乱が鎮定された時期と同じで頃で、史実としては一致するところである。これによって、大崎氏は、奥州探題として全盛を極めることになったといわれている。まさに、大崎当主三代目の大崎詮持の時代でもあった。
・1400年応永7年に、大崎氏は、牛袋ひじりを上洛させて、将軍より国一円支配の御判を与えられたと記されている。 これにより、大崎氏が奥州探題としてのお墨付きをもらい、その権威を再確認してと言われている。 これも、鎌倉府を牽制する意味もあったものと思われる。 さらに、伊達氏とも結び大崎氏とともに、鎌倉府への牽制を強めた。 また、信夫・伊達郡を拠点とする伊達大膳政宗は、特に、篠川御所の進出に対して、非常に懸念を抱いたと言われている。
・1400年応永7年に、大崎詮持は、八沢の佐藤家系図によると、宇都宮越後守氏広が謀反を起こした時、足利満兼らの要請を受けて、葛西満信とともに宇都宮氏広を討ち取り(栗原郡三迫の戦い)軍功をあげた。さらに、この時に奥州探題として、佐藤家の祖高則に、太田・新田・八沢の三ヶ郷を与えたと言われている。また、それ以後高則は、一迫郡八沢郷の住まいしたと伝えられている。
・1400年応永7年に、伊達氏が、稲村公方の支配に屈せず、関東管領上杉氏憲に攻められたが、赤館城で撃退したと言われている。
1401年 応永8年 ・1401年応永8年に、斯波満持は形部大輔から父の死後左京大夫となり、奥州探題職となり4代目として活動していた。
・1401年応永8年に、遠藤出羽盛継が、関東公方足利満兼より志田・玉造・加美三郡奉行人に任じられ松山(長世保)に来住したと伝えられている。
1402年 応永9年 ・1402年応永9年5月頃に、関東公方足利満兼は、奥州支配に反発している伊達政宗を討つために、上杉氏憲を将として大軍を派遣した。政宗は、赤館(伊達郡桑折城)を本拠に善戦し、奥州管領大崎氏や蘆名氏の応援を得て、一時は鎌倉勢を破ったが、9月に、政宗は会津に逃れた。しかし、政宗は間もなく本拠地に復帰し、関東公方の奥州支配を難しくした。
「余目記録」には、政宗が、この戦いで功績があったとし、奥州管領大崎氏より恩賞を賜ったことが記されている。

長世保は其時忠節を以て、いだて(伊達)には大崎よりの御判形にて知行候也

とある。
このことから、この乱後、長世保は、伊達政宗(9代)に与えられたことを示すものである。 この頃は、奥州地方の武士達も次第に、戦国大名化が始まり、利害を共にする武士達は、一揆契約を結び、地縁的な結合を強め、自領の保持と拡大に努めていた。
・1402年応永9年には、伊達政宗は、芦名満盛とはかり、また、大崎満詮を誘い、篠川御所満直に叛旗を翻した。
・1402年応永9年に、伊達氏・大崎氏は、関東管領の執事上杉氏憲の28万の大軍に追討をうけることになった。しかし、伊達・大崎勢は、この大軍を打ち破り、実力のある勢力であることを誇示した。 この大膳大夫政宗の時から、名取・宮城・黒川方面まで影響力を強めていき、留守氏までも大崎氏一辺倒から伊達氏に傾いていった。 伊達家十一代持宗の時代になると、伊達氏の覇権がほぼ確立したと言われている。持宗の子郡宗(くにむね)が、留守氏に婿入りしたので、鎌倉以来の名家の留守氏が伊達氏の統制下になり、累代経る中で、伊達家の留守氏と言われるようになっていった。
・1402年応永9年には、宮野氏や三浦氏は、宮野・三浦氏系図によると、大仏城合戦(福島)に、大崎満持と従軍したと記されている。 また、曽根氏も、築館村新田の曽根家の系図によると、大仏城合戦に従軍したと記されている。
これらの事を「余目記録」に次の様なことが記されている。

14世紀末頃と思われるが、畠山国氏の子国詮が、長じて父祖の職をうけて、奥州探題と称した。また、吉良氏も貞家の子満家が探題職をつぎ、両探題ははげしく対立したとある。この再度の吉良・畠山の戦乱に際して、葛西れんせいの十六番目の子にあたる富沢日向の先祖右馬助と、うわがたの先祖にあたる戒名しょうさんの両人が、彼等は当時、所帯一所を持たない浪人にすぎなかったが、相談の上、吉良・畠山方にそれぞれ奉公し、両人の通謀によって吉良方を勝利に導き、その功によって、うわ形は二迫三国郷、富沢は三迫富沢を与えられた。その後、いせいがどんどんよくなり、富沢は三迫高倉庄七十三郷、西岩井のこほり三十三郷の支配者となり、うわ形は、二迫栗原小野松庄廿四郷を知行するようになった。一方、この戦いで勝利者であった吉良氏は、大崎氏におされて安達郡へうってしまった。

と記るされている。
また、同じく「余目記録」には、一迫狩野氏についても次の様なことが記されている。

一迫狩野殿は、十六世紀はじめ六代であるといっている。この狩野氏の実勢力を示すようなこの時代の史料は殆ど存在しない。しかし、大崎氏の外様衆にあげられる程の実力をもった地方有力豪族であったと思われる。年代的には十六世紀の後半に属するが、花山寺の鰐口の名に弘治元年の年号とともに狩野兵庫頭為直の名がでてくる。彼は、花山の巳の口館主であったと伝えられている。他に伝えられているには、他に一迫上流域一帯に散在する古館の城主として狩野氏と称した名称が多く残っている。即ち。真板城主として狩野伊豆隆真、川口城主狩野修理、赤松城主狩野式部小輔、清水城主狩野和泉等があげられる。彼らが活動した実年代の正確なところは不明である。わずかに弘治元年という年代のみで十六世紀後半のことに属するのでないかと思われている。」

但し、「余目記録」のいう一迫狩野殿は、十六世紀初めにおいて六代目にあたっていたので、栗原地方の中心的支配勢力として、一族が一迫上流一帯に繁栄していたと思われる。 その中でも、巳の口館主や真板城主が中心的な存在であったと思われる。それは、巳の口館の麓には、城国寺、真板城には、龍雲寺という地域にとっても由緒ある古い曹洞宗の寺があることが物語るからである。 これらの禅院は、館主との密接な結びつきで創建され発展してきたものと思われるからでもある。 いずれにせよ、一迫狩野殿は、室町時代に最も栗駒郡内の有力豪族であったと考えられ、時期は明らかではないが、大崎幕下の有力家臣となり、大崎氏と運命をともにすることとなる。
1404年 応永11年 ・1404年応永11年に、遠藤盛継が、龍門山石雲寺(松山町千石欅)に寺院を創設し、名を嶺山万年寺と名付けた。
※遠藤氏は、藤原鎌足の後裔ともいわれ、遠藤三郎右近将監遠光を祖としている。遠光より3代前の遠江六郎維頼が遠江国(静岡県)に住まいしていたので、遠江の藤原氏として1041年建久2年に遠藤氏と称したと言われている。遠藤氏の菩提寺曹洞宗嶺松山万年寺(大崎市古川下中目)の過去帳には、この維頼これよりを大檀那遠藤氏の祖としいる。3代盛実の時に、鎌倉幕府の御家人となり、代々上総国を本拠とする鎌倉武士であった。三浦泰村や安達泰盛の乱で、北条氏方につき勲功を挙げたと言われている。また、南北朝時代になると足利尊氏にしたがって旧領安堵をされたと言われている。
1411年 応永18年 ・1411年応永18年頃に、伊達氏宗は、余目留守氏に対して、大崎氏の支配領域である長世保の小領主達は、すでに、伊達氏の影響下に入った事を知らせる内容であった。これから、伊達氏が、留守領に支配の手を伸ばしていることがわかり、大崎氏にもその影響力を強めていったことが分かる。
1412年 応永19年 ・1412年応永19年の史料に、渋谷一族で新沼の領主と思われる人名が見える。

奥州志田郡・渋谷上野・同内方早河女」とあり、牛袋の領主である(三本木町内の領主)人名が見える。「米良文書」
1413年 応永20年 ・1413年応永20年には、大崎氏は、大崎満詮が五代目を嗣だ。
・1413年応永20年には、伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部氏の勢力拡大を警戒し対抗した。
・1413年応永20年には、伊達持宗は、大仏城にて稲村公方に叛旗を翻した。この時には、奥州南部武士たちが、稲村公方に味方し、中奥の大崎氏・葛西氏は、南奥の豪族たちが北進するのを警戒して伊達氏に味方したと言われている。さらに、南朝方の生き残りの脇屋義治(新田義貞の弟)も伊達氏に味方して戦った様である。 従って、15世紀初め頃の大仏城合戦を機に、伊達氏と中奥の豪族とのつながりができたと言われている。 この結果は、稲村・篠川公方が破れ、代四代鎌倉公方足利持氏(三代満兼の子)は、大いに驚いて、畠山国詮に八千の兵を与えて討伐を命じた。大仏城だいぶつじょうは、この攻撃に落城し、伊達政宗は会津に逃れた。伊達氏はこれにより、一時窮地に追いこまれたが、関東に内訌が起こり、再興するきっかけを得た。
1414年 応永21年 ・1414年応永21年に、伊達持宗は、大仏城を中心に鎌倉府に叛旗を翻していたが、鎌倉府より伊達氏討伐の命が下された。しかし、篠川御所は、鎌倉府には従わず参陣しなかった。逆に、室町幕府と結び、鎌倉府の孤立をはかり、自らが鎌倉府の主になる野心を抱いていたと伝えられる。
1416年 応永23年 ・1416年応永23年には、関東において上杉禅秀の乱が起こった。これは、鎌倉公方派と関東管領派に分かれて、激しい戦いになった。この関東の混乱に乗じて、伊達氏は、失地回復をし、中奥における伊達氏の地位を確立した。
1417年 応永24年 ・1417年応永24年1月には、百々氏初代高詮(斯波詮持の五男)が、鎌倉公方持氏の命を受け、上杉入道禅秀を征伐する為に、大崎名代として鎌倉に馳せ参じたと大崎家臣団の百々氏系図にも記されている。
1418年 応永25年 ・1418年応永25年9月4日の「鶯沢諸郷先達職預ヶ状」の中に、次の様な事が記されている。(注;先達職せんだつしょくとは、修験道で、山に入って修行を行う際に指導する者、山伏の指導的人物)

一、 上方郷八幡の弥宣殿あつくる分、うハかた、いつみさは(泉沢)いたのさき(板崎)此三郷也

つまり修験のかすみ(修験道における,縄張とも言える支配地域のこと。修験当山派では有力修験寺院(先達)が末端山伏を人と人とのつながりを通して組織化したため,地域単位の支配は行わず,霞という言葉も用いなかった。) を先達職である白鶯氏が、各地の修験に各郷をあずかった文の一節で、上方郷うわがたのさとにある八幡神社の別当が「うわがた」「泉沢」(旧姫松村、現在の栗駒町)「板崎」(志波姫町梅崎十文字地)の三郷があげられている。
1422年 応永29年 ・1422年応永29年頃の住心院文書に、「大崎」としての初見が「斯波殿一家奥州大崎」とある。 この頃、満詮は、嫡子持兼の官途推挙の為に砂金100両を献上して左衛門佐に任じられている。持兼は、六代将軍義教より一字偏諱をうけ持詮と称した。 さらに、北方への進出も活発化しており、満詮の弟持家を大崎西殿として高清水に分家させ北方進出を窺った。 高清水に分家された持家は、高泉氏の祖となった。
1423年 応永30年 ・1423年応永30年に、五代目大崎満詮が、五代足利将軍義量に砂金百両、馬三疋を献上し、嫡子持兼の官途を申請している。
・1423年応永30年9月24日には、左京大夫斯波満詮以下奥州諸氏に対して、関東公方足利持氏を討伐する御内書が発給された。

笹川殿に合力し、至急関東公方足利持氏を討伐し、関東の政務を沙汰させるよう命じた

この頃までには、斯波満持が没して、嫡子の満詮が跡をついで左京大夫となって活動していたと思われる。
・1423年応永23年10月、朝日館主の11代小野田大膳介宗重が、卒去されている。
1424年 応永31年 ・1424年応永31年12月3日には、斯波左京大夫満詮は、将軍義量に、砂金百両、馬三疋を献上し、将軍より太刀一腰、鎧一両を賜り、さらに、嫡子持兼に左衛門佐の官途を許される。
1428年 正長元年 ・1428年正長元年6月27日付の官途吹挙状が残されている。 [古川市立図書館所蔵千葉文書] 奥州探題大崎氏のものであり、この頃には、六代大崎持兼が治世をはじめていた頃と思われる。(持詮とも言われる)と考えられる。 ・1428年応永35年に、倉持兵庫助胤義と名乗るべき倉持氏の当主が、米泉兵庫種義と名乗り、近隣の有力者を頼って「契約」状を取り交わしていた。 その「契約」状とは、「代々御判(室町時代、将軍が加判して発行した御教書)数通并先祖之重(中世では、地所の 権利関係を証明づける譲渡状)書等数通」を、その有力者に譲渡するものであった。
その上、「後生の親類の中、不慮にして還儀(異議)があったとしたら、この譲状に任せ、事の子細を申して下さい」とする担保文書を付加されていた。 という内容のものが残されていた。この様に、苦しい状況において、倉持氏は、「倉持」の名字を「米泉」の在所名を使うことや、先祖代々の通称の「胤」の字名を捨て「種」の字を使う等して窮場を凌ぐ「契約」状であったと思われる。これ以後、倉持氏の歴史に名を見せることがなく、恐らくは、有力者の保護下に入ったものと考える。 ここに出てくる有力者とは、荒谷修理亮入道殿と伝えられている。
荒野修理は、千葉一族の荒野千葉氏の初代当主で、長岡郡荒野郷(大崎市古川荒谷)を本拠として室町~戦国期に活躍した一族と言われている。さらに、奥州探題大崎氏からの官途推挙状や知行宛行状が相当存在するほどの有力者と思われる。 この様に、室町~戦国期には、没落する国人やそれを尻目に台頭する新興国人が勢力を増し、奥州探題大崎氏の傘下加わっている状態であった。かれらが、拠点とした城館は、平地でも山地にも数多く点在している。大崎地方の加美郡において、狼塚塚おいのつかじょうや上多田川館等が典型である。
1432年 永享4年 ・1432年永享4年に、蜂谷筑前守が、箟峯寺に鰐口わにくちを寄進したと記されている。 この鰐口に記されている源蜂谷筑前守沙弥光善なる人物は、現在では知られることもない人物であるが、この時代の地方武士は、居住する地名を氏と称することがふつうであったこともあり、恐らくは、蜂谷氏も、この蜂谷の地名に居住していた武士と思われる。
「箟峯一山記録」によると、

箟峯寺こんぼうじ内陣ないじん(寺院の本堂内部において本尊を、神社の本殿内部において神体を 安置する場所)には次の様な銘のある鰐口わにくち(仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である)があったと記されている。

とあり、

施主 源蜂谷筑前守沙弥光善永享四年六月十八日 

とある。
小牛田地方には、中世館跡や土豪の屋敷跡などが残る不動堂地区には、鶴見城、志賀殿、皎善寺こうぜんじ周辺、牛飼地区の山内屋敷などがある。さらに、その中で要害堅固とされている彫堂地区の蜂谷森周辺である。
この地区には、古来から「七館八沢」があったとの口碑こうひ(《石碑のようにながく後世にのこる意》古くからの 言い伝え)がある。  館には、西の方より長館・大館・小館・笹館・陣館・狼之介館・蜂谷森などがあったと言い伝えされている。 この地域は、大崎氏の支配下であり、その中で対岸の長世保まで進出してきた葛西氏や伊達氏の北上にともなう対立抗争が激化するにともない、大崎氏が東部国境の要塞としての役割を担う為に、多くの館を築き、特に、南側の防備を厚く構えを造ったと思われる。さらに、この地を支配する拠点として、対岸長世保の背後の牛飼、中□方面を一望することができるところでもあった。
牛飼地区内の屋敷要害に住む豪族や不動堂城との連携をはかり、領域支配を確固たるものにしようと思われたからでもある。 遠田郡で大崎氏と葛西氏が対立していた頃、南方から伊達氏が急速に勢力を拡大しつつあった。特に、南北朝末期に、伊達家八代宗遠が、勢力を伸ばし、亘理・伊具・刈田・柴田の諸郡を従えたと言われている。さらに、大崎氏配下の大名座席で筆頭であった留守氏を退けて筆頭の席についたのも宗遠であった。 九代大膳大夫政宗の時には、大崎氏と芦名氏と謀り、公然と関東管領に反抗していたが、関東管領により討伐を受けことになった。
1438年 永享10年 ・1438年永享10年に、幕府は、足利持氏討伐に踏み切ったが、持氏は、11月に出家して詫びたが、受け入れられず、翌年二月に、鎌倉において、足利持氏、足利満直が自殺して、永享の乱は終息した。 五代にわたり百年間余りの関東・東北を支配していた関東府は滅んでしまった。
1439年 永享11年 ・1439年永享11年に、関東管領が足利持氏を滅ぼした後、奥羽地方は、将軍足利義教あしかがよしのりの直接支配に入り、大崎氏が世襲する奥州探題の実質的権限は失われ、名目的な存在となった。 しかし、足利将軍の支配力は、遠い奥羽地方に及ばず、武士達は、周辺を征服することに専念し、自家の家臣団に組み入れしていくことにで、独立した大名に成長していった。 鎌倉期の様に、領地の分散所領を持つような事は不可能となり、実力に応じて地域単位で領地を保有するのに懸命に守ることになった。 さらに、南北朝末期から室町時代にかけて、利害を共有する近隣武将たちが互いに同盟を結び、助け合い、領地の確保に努めていた。この同盟を一揆と呼んだ。
「余目記録」によると、

留守七代目美作守家高の時、河内七郡に渋谷、大掾、泉田、四方田とて、文治五年に国に下り、外様に四頭一揆にて候しが、千騎衆たり、留守殿に五人一揆をいたし、連判にのる

とある様に、鎌倉期以来の河内四頭は、互いに同盟し、更に、宮城郡の留守氏が加わり五人一揆を結んで、自家の存立を図ったと言われている。 この様な一揆は、仙北の葛西・山内(桃生郡)・長江(桃生郡深谷)・登米(登米郡)・留守(宮城郡)の間で結ばれたのが、五郡一揆と呼ばれている。 戦国期に入ると、仙北で代表的な大名は、東部の葛西氏、西部の大崎氏で代表される。 鎌倉期の奥州総奉行の家柄である葛西氏は、南北朝期には、南奥の伊達氏とともに奥州地方における南朝勢の雄として活躍、次第に近隣を配下におさめ、葛西七郡と言われる登米・本吉・牡鹿・磐井・胆沢・江刺・気仙の各郡の及ぶ大勢力に発展していった。 一方、南北朝末期に奥州探題として下向した大崎氏は、足利将軍家の支流という名門と、代々探題職を世襲することで、大崎地方に勢力を拡げ、志田・遠田・栗原・玉造・加美のいわゆる大崎五郡を領有する大名となった。 さらに、この二つの勢力は、遠田郡付近で勢力圏を接しているため、しばしば遠田地方で、両氏の争いの場となっていた。 葛西・大崎両氏が、遠田郡付近で勢力圏を接していたことが、箟岳に残る「一山記録」によって窺われる。
1440年 永享12年 ・1440年永享12年には、大崎満持が三迫佐沼に攻め入ったと記されている。 この一連の動きは、関東管領足利持氏死後の、関東府側討伐の動きの中で、大崎氏が葛西氏に討伐の為攻め入ったと推測される。
・1440年永享12年には、結城合戦が起こり、篠川御所足利満直が、南奥の石川氏に討たれた。これにより、奥羽地方の鎌倉府支配が終をつげることになった。しかし、奥羽地方は再度乱れていくが、大崎氏の奥州における地位が、さらに強められていくことになった。
このことに関して、「余目記録」が次の様なことが記されている。

大崎氏の全盛期は、大崎五郡を中心として、栗原郡は北辺の一部郡を占めているのはいうまでもなく、外様衆として周辺の諸氏を従わせていた。外様衆として、留守・八幡・国分・山内・長江・登米・一迫・うわがた・二迫・長崎・和賀・稗貫・遠野・相馬・田村・白川・岩瀬・信夫の諸氏であった。さらに、伊達・葛西・南部氏等は独立した大名として扱われていた。 また、大崎氏の有力な親類衆として、栗原郡の高泉・真板、黒川郡の黒川・内ヶ崎、志田郡の古川、遠田郡の百々氏があげられる。 なお、家老として、玉造の氏家・中目氏などがあげることができる等と記されている。

1442年 嘉吉2年 ・1442年嘉吉2年に、奥州では、大崎氏が葛西領地に侵攻し、迎え撃った葛西持信は敗北する。その為、葛西氏は、大崎持詮の娘を葛西持信の嫡子朝信に迎えることで和睦を結ぶことになった。葛西氏には屈辱的出来事であった。
1452年 宝徳4年 ・1452年宝徳4年に奥州探題大崎教兼は、造内裏段銭を南部氏等に割り当てた。
・1452年宝徳4年7月5日に、次の様な内容の文書がある。 幕府奉行人が、これ以前に「探題」から命令があったはずとして、奥州南部石川氏(福島県)に段銭納入を求めている。これは、この文書が発給される前に「大崎教兼書状」が発給されていたものがある。大崎氏の段銭徴収は、天皇の命令書である「詔書しょうしょ」(天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書)を承けたものである。 つまり、天皇・幕府の命令書を奥州探題として大崎氏が承け、奥州諸氏に段銭命令を伝達したということである。
1457年 康生3年 ・1457年康生3年に、奥州探題大崎教兼は、南部氏に20通の官途推挙状を発している。
・1457年康正3年4月に、大崎教兼は、南部一族と家臣20名などに対して「越前守」などの官途を推挙している。「遠野南部家文書」によるものである。 これは、下北半島に起こった蠣崎の乱かきざきのらんにおいて、南部氏が蠣崎・安藤両氏を破ったことに対する恩賞の意味があったと思われる。 これは、奥州武士が望む官途を天皇・幕府に推挙をする権限を大崎氏が持っていたことを表す。
1460年 寛政元年 ・1460年寛政元年10月21日には、幕府が関東・奥羽の諸氏に対して成氏討伐の大動員命を発した。

関東退治のことを度命じているのにまだ進展しないのはどうしてか。すぐ国人らを相催して参陣せよ。渋っている者は厳科に処するので、名簿を提出せよ。忠節を励んでいる者は恩賞を行うので、よく申し合せて早速軍功を抽んでよ

との下文であった。 特に、奥州探題の教兼に発給した将軍義政の軍勢催促状が残されている。その御内書には、教兼の奥州探題としての軍事指揮権が明確に示されており、奥州の国人等を召集して早速参陣すべきことや、 難渋の輩は厳罰に処するから交名を注進すべきことなどが命じられていた。
奥州諸氏にも下文を宛てているが、大半が「不日左衛門佐の手に属し」葛西氏とか「時日を廻らさず左衛門佐と談合を加え」黒川氏の様な文面で、大崎氏の軍勢に合流し教兼の命に従う様にとの内容であった。ただ、出羽探題の最上氏には「国人らと相催し」の令であった。大崎氏と対等的立場の下文であった。奥州探題である大崎氏が奥州軍の総司令とされたことは、いかに、教兼が期待されていたかわかる。 しかし、この成氏討伐は失敗に終り、その後、度々討伐令が出されたが、成氏は1482年文明14年まで幕府に反抗し、享徳の年号を使用していたと言われている。 大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。
1465年 ・1465年寛政6年に、探題大崎政兼(教兼かも)に栗原郡三迫の富沢河内守が叛いたと伝えられており、北奥・中奥・南奥でも、頻繁に戦いが起こり、特に、伊達氏は、宮城県県北部までに働きかけていることがわかる。
・1465年寛正6年に、富沢氏と大崎氏が戦っている。富沢氏が確固たる勢力を保持していたことが分かる。
・1465年寛正6年頃に、栗駒郡三迫を拠点とする富沢氏と大崎氏が軍事衝突を起こし、隣接する領主同士の対立の収まらず、他国の国人や家臣達を巻き込む問題となり、さらに広がる可能性を秘める事態が生じた。
1466年 寬正6年 ・1466年寬正6年に、探題大崎政兼は、将軍召馬・漆上納の命令を諸氏に伝達する。同時期に富沢河内守と戦う。
1467年 応仁元年 ・1467年応仁元年に、応仁の乱がおこり、11年間続くことになった。この戦禍は、全国規模に拡大し、国内は乱れ、庶民の生活などはどん底に突き落とされてしまったと伝えられている。 応仁の乱後も戦乱は続き、武士達は戦いに明け暮れ、庶民の生活はさらに困窮甚だしくなっていった。 この様な時代に、足利将軍は、次の様なことを驕奢きょうしゃ)(おごっていて ぜいたくなこと。また、そのさま)な生活を追い求めていった。
・1467年応仁元年には、大崎持詮と葛西持信とが、三迫で戦った。 葛西一族の清蓮(持信の弟)が、大崎教兼に唆され、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。
1468年 応仁2年 ・1468年応仁2年に、大崎・葛西領に跨る国人間の対立が激しくなり、大乱の状態にいたった。教兼も出陣したが、葛西勢が優勢であった為、伊達氏の救援を請う状況に至った。事の発端が、宮沢氏と二迫氏の確執から始まり、探題の大崎教兼の裁定に不満を持つ武士達が、探題派と反探題派の二派に分かれて戦いを始めた。探題派は、大崎一族の一迫氏、中目氏や百々氏、古川氏と重臣のうち薄衣氏、江刺氏、大原氏等が加わり、反探題派には、大崎一族の上形氏や重臣の氏家氏、葛西氏惣領の満重やその重臣である柏山氏や元良氏であった。また、山内首藤氏も反探題派であった。 戦いは、葛西・大崎地方の全域に跨って起こり、特に、激しい戦となったのが、佐沼城と気仙松崎城や磐井郡東山をめぐる攻防戦であった。これにより、大崎領内は荒廃し、一時は大崎教兼と百々氏の本城が攻められて、内ヶ崎へ逃げ延びる状況にまで立ち至った。
1469年 文明元年 ・1469年文明元年に、大崎氏と葛西氏が戦い、葛西所領を大崎氏に抑留され、伊達成宗が仲裁している。
1470年 文明2年 ・1470年文明2年に、13代小野田式部尾張守重秀は、大崎左衛門尉義則に仕え、加美郡の内に千七百貫の知行地を拝領し、以後、大崎氏家臣となっている。1477年文明9年5月に、会津長井の戦いで討死するとある。
「朝日館系譜」には、

文明二年大崎左衛門尉義則二仕エ、賀美郡之内千七百貫文拝領、以後大崎家臣ナリ、同年九月五月会津長井二討死

と記載されている。
この記事の問題点として、大崎義則という人物と文明9年の会津長井での討死に関する点である。 大崎氏には、代々義則の名は存在しない。推測ではあるが、伊達稙宗の二男で、11代大崎義直の養嗣子として迎えられた大崎義宣が存在する。しかし、文明年間は、七代大崎教兼の治世の時代、伊達氏は、伊達成宗の時代でもあった。時代と人名の不一致が認められるところである。文明9年の会津長井の戦いも、史実に明確に記されていない点である。これに関しても、定かではない。
1471年 文明3年 ・1471年文明3年頃に、大崎と葛西氏の二つの勢力は、遠田郡付近で勢力圏を接しているため、しばしば遠田地方で、両氏の争いの場となっていた。
「余目記録」によると、

小田保荒井七郷は、従文治給主の知行、大崎御下候て十二郷大崎御知行候を伊達成宗以調法、遠田之為替地、遠田十七郷、荒井七郷、永正十一より四十三前也、かさい浄蓮へ相渡也。

とある。(1514永正11年 の43年前は1471年文明3年の頃である。)

「葛西盛衰記」によると、

葛西領登米佐沼続き、大崎領南遠田、是を取らんと、葛西晴信責めかく。大崎打負け、両所葛西の手に入る。是を遠田陣といふ。  葛西左京大夫手に入る。弐ヶ所  南遠田三拾三郷、北遠田三拾三郷 都合六拾六郷、遠田郡一郡

とある。
・1471年文明3年頃に、伊達成宗の調停により、大崎氏は、遠田郡の17郷と小田保の荒井7郷を葛西氏に譲る結果となった。 その後、教兼の後継になったのが八代政兼である。 政兼には嫡子がなく、家督争いが起こり、国人間の争いも生じたが、在位数年で子義兼に跡を継がせることになった。 大崎氏は最盛期に達していた時でもあり、葛西領内に侵攻して、葛西の臣も取り込んでいる時期の後継でもあった。 九代義兼は、執事でも実力ある氏家氏から軽んじられ疎外された為、内ヶ崎義宣に身を寄せていた。義兼は、この事態を打開すべく行動にでた。
1472年 文明4年 ・1472年文明4年には、大崎教兼が、磐井郡流郷耳壁地区に侵入し、葛西朝信と戦うが、朝信敗退する。この時も、伊達成宗が仲裁し、

成宗調法を持って、葛西淨連にわたす

とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。
1473年 文明5年 ・1473年文明5年に、遠藤氏が、「奥州長世保、松山の庄、遠藤綱宗」とある。 遠藤氏は、松山に長世保の地頭として在住している。諸説あるが、「伊達正統世次考」によると、京都高雄の文覚もんがく)上人の子孫と伝えられ、奥州征伐の軍功により、源頼朝から恩賞として松山の地を拝領し、長世保の地頭に任命されたと言われている。
1475年 文明7年 ・1475年文明7年までに、三浦氏は、三浦氏の系図によると、代々葛西氏の家臣であったが、この年に、葛西氏の命により大崎氏近衆に列したと伝えられている。
1476年 文明8年 ・1476文明8年5月には、教兼の子息五人の口宣を幕府に申請したが、教兼はこの時期に没したと推測される。法号は龍谷寺殿、小野城の北丘陵の西北隅に残る龍谷寺址が菩提寺と言われている。
1478年 文明10年 ・1478年文明10年には、教兼の嫡子が八代将軍義政の偏緯を賜り政兼と名乗り、9代目を継承し奥州探題となった。
1481年 文明13年 ・1481年文明13年には、遠藤氏の勢力は、松山の庄を含む「長世保、二四郷」に及んだとある。
1483年 文明15年 ・1483年文明15年頃、9代政兼に嫡子がなく、この頃から大崎領内では、家督相続争いが起こり、一族や国人達が分裂し、国内争乱になった。
1485年 長享2年 ・1488年長享2年に、大崎義兼が、急に伊達成宗に救済を求めてきた。 これは、文明年間~1488年までは、大崎氏の勢力が頂点まで達しており、葛西勢力圏を圧迫し、北上川を越え薄衣氏に従属をせまり、多くの葛西重臣の庶子達が大崎家臣に組み入れられていったが、大崎義兼の父政兼が没するや否や、後継争いが起こり、重臣氏家氏に 疎外されていた義兼が、叔父内ヶ崎義宣に身を寄せていたが、大崎公方を継承すべく伊達氏の後ろ盾を求めたのである。
伊達成宗より、宿老金沢氏に命じて大崎領を鎮定し、義兼が復帰する。 大崎氏は、流地方(岩手県花泉町)、佐沼地方を攻撃し、金田島躰(栗原郡一迫町)城主である狩野信時と板倉(岩手県花泉町)城主である熊谷直弘が 戦ったと伝えられている。又、佐沼直信が佐沼城を退去し、替わって米田氏が入城したとも伝えられている。
1489年 長享3年
延徳元年
・1489年長享3年/延徳元年に、足利義政が、京都東山に銀閣寺を建立した。 この頃から住宅建築、工芸、陶器刀剣も勝ったものができ、雪舟、狩野元信らが出て絵画の名作も残されり、能楽、茶の湯、連歌等も流行したと言われている。この様に、戦乱の最中でも将軍義政を中心に、美術工芸が奨励され上流社会には、このような風流生活がもてはやされていた。 しかし、この様な上流社会とは相反して、庶民の生活は困窮極まりなく、畿内では、飢餓や洪水があり疫病が流行ったと言われている。寛正の飢餓(長禄3年(1459年)から寛正2年( 1461年))では、棄てられた屍が賀茂川の流れをせき止めるほどであったと伝えられている。
当然この様な状況では大規模な一揆が頻発するに至った。
一揆は、「土一揆」「徳政一揆」「国一揆」「一向一揆」「法華一揆」「馬借一揆」といろいろなかたちで頻発した。足利義政の一代で徳政令が十三回も実施されたと程であった。 室町幕府の統制力が弱まるにつれて群雄割拠が益々激しさをましていった。奥州においても、西館系図九代義宗の項に「永正十一年二月三日大崎弾正の為に南部に於而討死」とある。有名無実の戦いに志波姫の人たちが動員させられたことを物語るものである。
1495年 明応4年 ・1495年明応4年10月15日に、留守郡宗るすくにむねが、岩切城で死去した。跡を養子景宗が嗣いだと伝えられている。
・1495年明応4年にも、内乱が起こり、伊達成宗、葛西氏の調停を仰いだ。 16世紀に入り、義兼は後継を嫡子高兼に継いだ。しかしながら、十代高兼は、在位一年で早世する。「大崎家鹿島社古記録」には記している。 高兼が、在位一年の早世であったために、大崎氏直系でない後継とならざるをえず、九代義兼の第二子の十代高兼の弟である義直が十一代の家督を継ぐことになった。義直は、初名が「義持」である。 義持は、領内外に問題を抱えながら統治していたが、不測の事体を起こしてしまった。 葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
・1495年明応4年には、大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
1496年 明応4年 ・1496年明応4年に、宮沢又六が、父宮沢掃部丞の忠節の恩賞として伊達尚宗から名取郡飯野坂郷と竹城保根崎郷の内が与えられたとある。
1498年~1499年 明応7年~明応8年 ・1498年明応7年から1499年明応8年かけた葛西領内の大乱を伊達成宗が鎮めた。二迫彦次郎の切腹に端を発した葛西領内、南部領内、仙北・秋田諸氏を巻き込む大きな争乱であったが、伊達成宗により鎮静化させられた。これによって、成宗は次男の宗清を葛西十二代満重の養子に入れて、葛西氏内部にその力を注いでいった。
二迫氏は、「余目記録」以外の史料として、1498年明応7年閏10月から1499年明応8年に起きた仙北の諸豪族間の争いで、薄衣美濃入道が伊達成宗に支援を求めた書状「薄衣状」に書き記されている。「伊達正統世次考」のなかに、

抑上形富沢二人、以一巳之私、令二迫彦次郎切腹、実過分之僻事也云々、然以古川氏之計略、富沢河内守独被しゃ(「ゆるす」、「罪・あやまち(間違い・失敗)を許す」)其罪、因河内守一向守公方致奉公、而柏山伊豫守重朝又就之、与金成、黒沢、共狭野心、而殺害河内守云々

とある。 この事の発端は、上形氏と富沢河内守が共謀して、私事の為に二迫彦次郎を切腹させてしまった(記述の「実過分之僻事」)、ところが、富沢河内守は、古川氏(大崎氏一門)の計略で罪を赦さゆるされ、そのために、大崎氏に懸命に奉公していた。しかるに柏山伊予守重朝(胆沢郡大林城主葛西氏一門の最大の豪族)は、それを不満とし(富沢氏は葛西一門に関わらず大崎氏についたので)、金成氏、黒沢氏(葛西氏一門)と計って富沢河内守を殺害してしまったことである。 この二迫氏と上形・富沢両氏の私闘の端を発して、大崎累代の執事である岩手山城主氏家三河、安芸守父子が大崎氏に背き反抗をしたため、争いが増長して南部の稗貫氏、遠野氏、和賀氏の諸氏と、遠くは仙北の由利氏、秋田の諸氏を巻き込む大争乱に発展したと記されている。 このことから、鶯沢計須見城主二迫彦次郎は、明応7年(1498年)10月頃に、上形、富沢両氏によって切腹させられ、史上に名を現すことがなかった。と言う事は、二迫氏は、この頃に滅亡したと考えてよいとおもわれる。
1499年 明応8年 ・1499年明応8年に、9代義兼が上洛・・・春、雪解けを待ち百騎の家来を従えて上洛と記されており、百騎の騎馬隊は宮崎など加美郡産駿馬「速きこと、風の如し」と言われる程の一団と称された程であった。上洛経路は、羽州街道を鳴子に進み、最上を経て日本海側の北陸路(新潟、富山、金沢、福井)を上り、「木の芽峠」を越えて琵琶湖を抜けて京都に入った。当時の将軍 11代の足利義澄へ拝謁をする為であった。
・1499年明応8年に、葛西氏の内訌が起こったが、12代伊達成宗の力を借りて鎮めることができた。これにより、伊達成宗は、二男宗清を葛西満重の養嗣子とした。その実力は、大崎・葛西氏を凌ぐ勢いとなっていた。 伊達氏は、大崎氏領域周辺の武将に働きかけ攻略しようとしていた。余目留守氏と一揆契約を結び、宮城郡に手を伸ばしていき、留守氏一族の大崎派を一掃して伊達派を勝利に導く画策したりしていた。
・1499年明応8年には、富沢氏は、鶯沢うぐいすさわ計須賀見けすみ館主三迫氏かんしゅさんはざましを滅ぼしている。 富沢氏は、葛西一族として1300年後半に成立、1514年永正11年には、三迫高倉庄73郷と西磐井33郷を所領とする大豪族に成長していたことが「余目記録」に記されている。
1504年 永正元年 ・1504年永正元年に、宮野氏は、宮野氏系図によると、この年に大崎氏の上洛にお伴したと記され、将軍の謁見にも随行したとも伝えられている。このことから、宮野氏は、葛西一族と系図上には記されているが、十六世紀初めには、大崎氏の配下になって行動していたと考えてよいと思われる。
これから考えられることは、これらの系図から歴史的事実とは異なることがあるけれども、宮野氏、三浦氏の葛西の臣下であったが、大崎氏との臣従関係が明らかになったことは歴史的事実と考えてもよいと思う。また、狩野氏に関しては、大崎氏への臣従関係の史料もないけれど、歴史的大勢から見ると、十五世紀後半には大崎氏の配下になっていたと考えられる。
1505年 永正2年 ・1505年永正2年には、薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。 葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していったこともわかる。 一方、探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し、大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものと推察される。
1507年 永正4年 ・1507年永正4年には、流郷(岩手県花泉町)擾乱が起こり、大崎義兼と葛西稙信が戦い、松崎・寺崎氏が熊谷・奈良坂・金沢氏と戦っている。
1508年 永正5年 ・1508年永正5年に、湯山氏は、湯山城の西北に寺を建立し、上総国(千葉県)真如寺の名僧吉山自詳和尚を招き開山させた。さらに、名生定に薬師堂を建てて仏教の普及につとめた。
1510年 永正7年 ・1510年永正7年に、彦三郎高兼は、義兼を追うように28歳で草世した。後継あとつぎとして、7歳の義直が次期当主となるが、幼い当主でもあり、後見役として一族の羽州最上領主と黒川領主が就き、補佐役 には狼塚城(里見)、高根城(仁本)、中の目城(中目)、遠朽館(渋谷)の四家老が就いた。
1511年 永正8年 ・1511年永正8年に、伊達殖宗と領地争いをおこし、四釜川以南の領地を伊達殖宗に譲らざるを得ない失態をおかす。 さらには、家中の統制もうまくいかない状態が続いた。
1512年 永正9年 ・1512年永正9年8月に、佐沼の石川伊勢は、葛西宗清と山内首藤知貞の合戦に参戦している。 石川氏は、当初高清水近辺に所領があり、大崎氏に奉公していたが、加美郡小野田の石川氏と佐沼の石川氏に分かれてしまう。 また、佐沼石川も家職は、「高家こいけ」という典礼・儀式を司る家柄である。領地の位置するところから葛西氏の影響下にあったことも事実と思われる。 しかしながら、基本的には大崎氏家臣という立場は変わらないと言われている。大崎一揆の時、佐沼に籠城したのは、この石川氏であった。
1513年 大永3年 ・1513年大永3年に、足利幕府は、14代伊達稙宗が望んだ陸奥守護職に任じられた。これにより、奥州探題職の大崎氏を中心とした支配体制が、事実上解体することになり、伊達氏を中心とする奥州支配体制が確立していくことになった。 さらに、稙宗は、分国法「塵芥集」を制定して、領内統治を着々と固めていった。
1514年 永正11年 ・1514年永正11年頃には、上形氏は二迫、栗原小野松庄24郷、富沢氏は三迫高倉庄73郷、西磐井郡33郷にまで所領を拡大したとされている。 このように、上形氏と富沢氏が成立した契機は、吉良、畠山両氏の二度に渡る戦いであったと思われるが、その年代等は不明とされている。しかし、吉良、畠山氏の大きな戦いと言えば、1351年頃の岩切城合戦から20余年過ぎ、1374年頃の長田城(高城保)の戦いと1391年頃に大崎氏が畠山氏所領(加美、黒川郡)を抑留した頃ではないかと推察される。
1519年 永正16年 ・1519年永正16年に、大崎義持(義直;14歳)には、十代将軍足利義殖より「義」の一字拝領し、正式に家督を相続することになる。 義直は、領内統制もままならず、横暴で強引な性格が災い、家臣からは不評をかっていた。
1520年 永正17年 ・1520年永正17年に、最上義定が没し、世継ぎ問題が表面化してきた。一族の中野満基の第二子義守を嗣子としたが、姻戚につながる伊達稙宗(義定夫人の兄)が、内政に強く干渉するようになったので、最上一族の上ノ山城最上義房(天童氏系)が、その干渉を退けようと、宗家に謀反を起こしたのが発端で、義房の一族の天童一家も反抗した。それ故、最上氏の内訌に加えて伊達氏とも激しい対立となった。この内乱は、しばらくの間続く結果となった。
1521~1527年 大永年間 ・1521から27年大永年間に、湯山氏が鳴子を治めたいた頃で、出羽国では、この頃内訌が起っていたので、大崎領内まで波及するおそれがあった。大崎氏は、この内訌の巻き添えを避けるために、岩手ノ関を守る湯山氏を督励とくれい(しっかりやれ”と指図する)して中山峠越えの警戒を厳重にさせた。 出羽国では、永正の頃の領主最上義定に嫡子が無く、世継ぎ問題が表面化していた時でもあったからである。 大崎氏は、もともと最上氏の宗家であったが、この頃、最上氏はすでに大崎氏から離れおり、かえって、大崎領を窺う様な情勢となっていたこともある。 したがって、大崎氏は、この出羽の叛乱を警戒して、さらに、栗原郡三迫氏に寄寓きぐう(一時的によその家に身をよせて世話 になること。また、仮の住まい)していた勇士(勇敢な者、勇猛な者のことをいう。実在・架空問わず英雄視されて いる人物或いは集団を指すことが多い)遊佐勘解由宣春ゆさかげゆのぶはるを湯山氏に加勢として小屋館の番所を与え、出羽国境警備の為、岩手ノ関に遣わした。 遊佐氏は、その後、一族郎党とも湯山氏に加わり、代々岩手ノ関の守りに任じられた。
※岩手ノ関は、仙台藩政期に、尿前に移され尿前御番所となり、遊佐氏が引き続き「境目守」として国境警備にあたった。
1522年 大永2年 ・1522年大永2年に、幕府は、伊達稙宗を陸奥守護職に任命した。これは、鎌倉時代の奥州総奉行や室町時代の奥州探題に近い役職であった。鎌倉期から奥州には守護職を置かなかったが、苦肉の策であった。 奥州探題としての大崎氏の立場を温存しつつ、伊達氏にそれに次ぐ地位を与える為に、敢えて新たな職を設けたという事である。
1523年 大永3年 ・1523年大永3年に、梅香姫が義直の長女として生まれる。
・1523年大永3年には、伊達稙宗が、陸奥守守護職に任命され、奥州探題の大崎義直の権威は失われる結果となった。 稙宗は、領内統治を確立させ、周辺諸氏とも21人いた子女を入嗣や政略結婚を通して影響力を強めていき、時折、武力を行使する場合があった。これは、奥州管領と左京大夫の官職は、代々大崎氏が任じられてきた官職であったが、伊達氏が、これらの官職に就いたことは、大崎氏の地位にとって代わったことを意味している。(幕府は、大崎の探題職を、この時点で否定してなかった)
1525年 大永5年 ・1525年大永5年に、十四代伊達稙宗が、奥羽守護職に任じられ、左京大夫に任官した。
1528年 享禄元年 ・1528年享禄元年頃に、伊達稙宗と蘆名氏が、葛西晴重の死に乗じて、葛西氏を攻めて、りんこう館(石巻日和山城と思われる。)を攻略した。この戦いは、伊達稙宗が何らかの理由で葛西氏を咎めるために、芦名盛舜の加勢をもらい出陣した。葛西太守は、誰かは疑問の余地が残るが、葛西稙清がその人物であろうと推測される。葛西稙清は、晴重の嫡男であり、1523年(大永三年)伊達稙宗の子である牛猿丸を娘に入嗣させ、後継者とした人物である。 この戦いで包囲された葛西軍が、伊達氏の機嫌の忖度そんたくし稙清を血祭り上げ、牛猿丸(尚清=晴清)を後継として事態を治めたと思われる。しかし、牛猿丸は、葛西家と意見が合わず、伊達家逃げ戻ったとされ、後に、葛西晴胤として伊達家と葛西家の 掛け橋となった。 この様な事を、伊達稙宗は、周辺諸氏に影響力を高めていった。
1533年 天文2年 ・1533年天文2年に、義直29歳で葛西晴重と境界線争いで敵地佐沼に侵攻した。これは、義直が奥州探題命(幕府より権限委任)で葛西側の訴えを退けようとしたが、葛西が従わなかった為に戦いとなった。しかし、惨敗してしまい、奥州守護職(守護大名)の伊達稙宗の仲裁で和睦を結び、葛西側の主張通りの境界線を引いて終わった。 惨敗の敗因は、大崎軍団の統率の乱れ、騎馬攻撃を生かしきれなかったことや、義直の強引な先制攻撃が原因であった。元来、義直自身が幼いころから”我儘で強引な性格”、家臣からも煙たがられた存在であった。 この惨敗を覆すかのように、その後、強引に上洛を決行する。
1534年 天文3年 ・1534年天文3年には、主君義直の横暴に怒った一門筋の新田安芸頼遠にったあきよりとうが反旗を翻した機に、義直自ら兵を率いて、氏家一党の中新田城、高城城、黒沢城を攻撃し、落城させて頼遠居城(現、岩出山町下野目)泉沢城を攻めようとして、狼塚城に陣を構えた。
・1534年天文3年6月には、大崎義直は、自ら頼遠一派の中新田、高木、黒沢、新田城等を攻撃し陥落させ、頼遠の居城である泉沢城を攻撃せんとしたが、執事の氏家、一族一門の古川、高泉、一迫までもが叛き、泉沢城の頼遠を助ける事態となり、戦局が思いもよらぬ状況となり、天文4年に至ってしまうなか、義直は、宮沢に陣を張り形勢の好転を図った。
・1535年天文4年には、義直が、宮沢に陣を張ったので、氏家安芸直継等は、直ちに三百余期と二千余り雑兵をだして頼遠を助けるため、宮沢で戦いを挑んでいる。頼遠は、泉沢城を捨て逃れたが、古川持熈だけは、なお義直の命に従わなかった。すでに、反乱が起きて2年が経過しても事態が治まらず、義直の力だけでは鎮圧が困難となっていた。 しかし、氏家、古川、高泉、一迫氏が反して頼遠を支援し、さらには、二峡小野松の庄二十四郷の領主上杉安芸守にも攻撃され、三百騎余の戦死者をだした。大崎領域内に戦火が飛び火する中、義直は大崎領内の刀剣、槍の兵器製造所がある鶯沢まで進軍、鶯沢城に入った。季節が、稲作の収穫時期に入る秋深まる頃に、休戦状態になる。
・1534年天正3年に、大崎氏の天文の内乱が、古川師山城を中心に、中新田の狼塚・岩手沢城に展開した。 主君義直派は、宮崎民部、谷地森兵部、鳥島左近、中田丹後、飯川二郎、大衡又五郎などである。これに、応援した伊達稙宗麾下には、牧野安芸、浜田伊豆、黒川左衛大夫、留守景宗、武石宗隆、国分宗綱等の外様衆が従った。 一方、新田頼遠派は、古川氏、氏家氏、高泉氏等の大崎一族と執事である。また、小野田の内海氏は、新田氏に味方したようである。
1535年 天文4年 ・1535年天文4年に、義直は領内の刈入れを待ち、四家老に出陣命令を下す。新田頼遠の居城泉沢城(岩出山町下野目)へ再度攻撃を加えた。その様子は、合図の狼煙が打ち上げられ、法螺貝が一斉に吹かれるとともに、 先陣の弓隊が矢を射かけ、続いて騎馬隊の奇襲攻撃、槍隊が後陣となり攻撃、対峙する反義直は、新田頼遠を中心に、氏家直継と氏家党三百余騎、古川形部持煕、高泉木工権直堅(義直の異母兄弟)、一迫伊豆守の加勢加えて二千人が抗戦したが、泉沢城は落城してしまう。
・1535年天文4年に、大崎の内訌には、黒澤治部らとともに新井田刑部頼遠等の反義直派に属したといわれている。
・1535年天文4年には、大崎義直は、伊達稙宗にいる西山城に向かい、稙宗に救援を要請した。稙宗は、これに応じて、兵3000を率いて、大崎領内に出向いて、叛乱軍の拠点である古川城を攻撃し撃破し、さらに、岩手沢城へ向かい叛乱軍を攻撃一掃させた。これにより、大崎氏が、伊達氏なくては存続できない程になり、伊達家より大崎氏に入嗣を向かえることになった。稙宗は、この好機に、稙宗の子小僧丸(後の大崎義宣)を大崎氏に入嗣させた。大崎氏は、これにより、伊達氏の影響下に置かれたことになる。
○伊達氏の奥州における覇権動向について伊達氏は、奥州の覇権を求め、次第にその勢力を拡大しつつあった。その様な中で、伊達氏は、絶えず幕府中央との関係を模索して、幕府中央とも深い関係を構築していったと思われる。 その現れとして、伊達家11代持宗は、上洛した際に、4代将軍足利義持から一字偏諱を与えられている。さらに、8代将軍足利義政には、黄金を献上する等していた。
1537年 天文6年 ・1537年天文6年7月21日に、伊達稙宗が松山領主遠藤国松に宛てた文書である。

秋七日廿一日。印書ヲ遠藤国松。広田伊賀二賜フ。曰ク、大崎再乱言語に絶ス。因ッテ本日廿七日出馬スベシ。士卒悉ヲ従エ、来月五日岩手沢二至リ陣列ヲ為シ、六日新城を攻メルベシ。若シ延引セバ、凶徒必ズ蜂起セン。火急ヲ以テ此ノ発動二及ブ。此ノ意ヲ得ルヲ以テ専一ナレ。請フ。親類中二告喩こくゆシ、以テ油断スル勿レ。

遠藤国松は、15代遠藤左近将監光定の子で、元服して弥左衛門と称し、名を高宗とした。高康はの父であり、広田伊賀と共に志田郡松山邑に住すと記されている。
・1537年天文6年頃に、10代大崎高兼は、嫡子がなく没した為、伊達稙宗の二男小僧丸(後の義宣よしのぶ)を、高兼の娘梅香姫に迎え、家を嗣がせることになった。しかし、大崎家中においては、高兼の弟義直派と伊達氏から入嗣した義宣派と対立する事態を引き起す様になった。 このような状況で、伊達稙宗は、次第に大崎氏を服属させよと目論んでいた。そのような中で、松山の遠藤氏が大崎領に隣接していることから、遠藤氏が、稙宗にとって重要な立場になっていた。
1538年 天文7年 ・1538年天文7年に、伊達稙宗は、領内において段銭帳作成を行なった。段銭は、元々室町幕府が格別に課した臨時的なものでが、後に、地方の守護大名が毎年恒常的に課するようになっていた。この伊達氏の「段銭古帳」の成立は、伊達氏の領国支配を決定するものであった。現在残されている「段銭古帳」は、1586年の「段銭古帳」の写である。その中には、松山郷(長世保)に関する内容がみえる。 松山郷には、遠藤一族の外に広田伊賀・平渡・黒江周防・野田肥前という豪族武士が居たことがわかる。現在、地名として平渡・広田・黒江・野田が残っている。 広田は、遠藤一族で、天文年間に滅びたが、伊賀の娘が増田貞隆の妻となり、1567年永禄10年に生まれた17代政宗の乳母となっている。
1540年 天文9年 ・1540年天文9年には、大崎地方へ領地拡大を狙っていた伊達稙宗が、小僧丸を強引に大崎義直の娘梅香姫に婿入りさせ入嗣させた。
1541年 天文10年 ・1541年天文10年に、稙宗は、嗣子に伊達家精鋭武士団を割って同行させようとしたが、嫡子の晴宗が、伊達家固有の支配体制を弱体化させるものとし、嗣子問題を阻止した為、天文の内乱が勃発した。 これは、伊達氏内部はもちもん、その勢力下の大名・豪族でも稙宗派と晴宗派に分かれて相争うことになり、天文17年までの7年間も続くことに発展した。 西山城に住む稙宗は「東殿」と呼ばれ、米沢城に住む晴宗を「西殿」と別名で呼ばれていたと言われている。 伊達氏に関わる武将で、稙宗「東殿」派に属した武将は、葛西晴胤、国分宗綱、黒川晴氏などで、晴宗「西殿」派に属した武将は、黒川藤八郎、長江盛景、留守景宗などである。さらに、大崎氏においても、義直は晴宗派として、養嗣子小僧丸(稙宗の子)は稙宗派として大崎領内で相争ったと言われている。
「伊達正統世事次考」によると、

小僧殿者公之子、後名義宣也。大崎彦三郎殿高兼早世、雖其弟義直嗣其家、泊家風衰微。不用二其命者衆矣。多背従我也。故 其家家臣請以小僧殿、配於高兼女、以為大崎主、且約下先為義直養子後嗣中家督上也乎。義直雖不之好己而許諾之

とある。 義直は、伊達氏の勢力に圧迫され、やむなく小僧丸入嗣を受け入れた。戦国時代には、政略結婚や入嗣問題は数多く、稙宗は、多くの子女を、東北南奥の有力大名・豪族に送り込んだ。この伊達の天文内訌は、大崎内部でも、義直、義宣が稙宗派と晴宗派に分かれ、勿論、家老も対立するようになっていた。この争乱は長きにわたり、1548年天文17年5月まで7年間続いた。10代将軍足利義晴が書を稙宗と晴宗に送り和解勧告をした。大勢は晴宗方に有利に展開していたが、将軍の和解斡旋もあり、和解することになった。
・1541年天文15年8月には、宮沢又六実家が、伊達晴宗から大郷町の羽生(大谷保内)・大松沢の二郷を与えられたとある。 この頃は、伊達の天文の乱の起きている頃で、宮沢又六は晴宗派として行動していたからである。
・1541年天文10年頃に、大崎領内で再度内乱が起こり、伊達稙宗は遠藤国松とその重臣広田伊賀守に反乱分子の岩出山新城を攻めるよう命じた。この時、稙宗は黒川家臣団に大いに期待を持っていた。その黒川家臣団に、黒江周防、遠藤源兵衛、遠藤八郎左衛門、遠藤二郎、遠藤三郎及び野田備前等の存在があった。
1542年 天文11年 ・1542年天文11年には、伊達晴宗は、稙宗を桑折城に幽閉するが、間もなく救出さえるが、伊達家がニ派に分かれて争うことになった。又、奥州南部国人達も二分して武力闘争を繰り広げることになった。所謂、「天文の大乱」 の始まりである。 小僧丸(元服後;大崎義宣)は、父である稙宗派になった。
・1542年天文11年~17年頃に、伊達氏内部でも内乱があり、所謂「天文の乱」が起こっている。この時には、黒川氏家臣団内部でも稙宗派と晴宗派に分かれ行動している。稙宗派として、広田伊賀守、野田備前、黒江掃部丞等で、晴宗派として、主家の遠藤弥左衛門(国松、左近丞、摂津守と同一ヵ)であった。遠藤弥左衛門は、留守政景に従って行動したと言われている。「天文の乱」においては、晴宗派が優勢となる中、黒江掃部丞は最後まで稙宗派として行動した為、乱後、黒江氏所領は没収され、改めて遠藤氏に与えられたと伝えられている。
遠藤氏の系譜は、遠藤摂津守から左近高宗(心休斎)へ、さらには、出羽守高康(六郎)が嗣いだとされている。
「伊達正統世次考」によると、

天文十六年十二月廿日、晴宗公判書ヲ遠藤左近丞高宗二賜フ。 野田備前分之ヲ充行フ。相違有ルベカラズ。仍テ後日ノ為状件ノ如シ。同日又判書ヲ賜ヒテ言、松山ノ有スル所ノ広田伊賀分之ヲ充行フ、後日ノ為二状件ノ如シ。

と記されている。 この内訌の結果、稙宗派あった松山の広田・野田・黒江の三氏は没落し、遠藤一族が松山を支配する様になった。
1543年 天文12年 ・1543年天文12年には、伊達内乱状態ではあったが元服し、小僧丸改め大崎義宣となった。義直嫡男義隆をさておき奥州探題職を継ぐ形となったため、大崎氏内部 で分裂を起こす要因となる。(反義直派(大崎義宣)は伊達稙宗派、義直派は伊達晴宗派に分裂して行く) この時、義直は伊達稙宗から縁を切る為に、伊達晴宗に騎馬隊三百騎持って加勢した。大崎義宣は伊達稙宗(実父)を支援することとなり、最終的には、悲運な最後になる。
・1543年天文12年3月に、十六代亘理宗隆には、男子がなく、その娘が伊達稙宗の継室けいしつ(正室が 亡くなった後に迎えた正室のこと側室 : 正室がいる状況で後継者を作るために迎えた 女性のこと)となり、その子綱宗・元宗を養嗣子とした。 伊達氏の勢力が次第に強大となり、亘理氏もその配下に入る事を余儀なくされた。
1544年 天文13年 ・1544年天文13年には、葛西氏と大崎氏の稙宗派内で争いが起こり、伊達家家臣国分能登守が、斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った。
1545年 天文14年 ・1545年天文14年には、大崎一族の羽州山形城主10代最上義守の口添えもあり、室町幕府から左京太夫(奥州探題)に任官を受ける。任官後、小野城から中新田城に移る。 その後、義直左京太夫任官後上洛したが、将軍足利義晴に拝謁できず、足利一門でもある「大崎公方」として、著しく権威を損なわれる形となった。このことが、その後「天文の乱」の火種となった要因となった。 拝謁ができなかったのは、将軍足利義晴が当時流行した疫病を恐れ、越前国へ行き、義直と対面できなかった為であった。将軍からは書状つきの鎧一式を拝領したが、奥州諸大名からは軽んじられ、家臣からも不協和音が出始まる。
・1545年天文14年に、留守景宗は、志田郡長世保松山の遠藤弥左衛門に証文を与えている。その内容は、遠藤氏が晴宗方に味方したので、長世保にある広田伊賀守と野田備前の所領を与えるとの内容であった。野田備前は、南郷の野田氏の先祖とも言われている。
・1545年天文14年7月5日に、高泉直堅は、官位従五位上に叙され左京大夫に任じられたと言われている。法名を「天伊時公」と呼ばれ、その子が跡を嗣ぎ、その名を高泉長門高景と称した。その後、天下の情勢がかわり、秀吉が小田原征伐後に小田原参陣しなかった葛西・大崎氏を取り潰した後に、高泉長門高景は入道となり「布月斎」と称した。
1547年 天文16年 ・1547年天文16年には、伊達稙宗と晴宗父子の争いが和睦することで終焉するにいたった。しかし、伊達氏の天文の大乱後、栗原郡ニ迫、三迫の状況が変わり、葛西氏と大崎氏との境界争いが、頻繁に生じる様になった様である。
・1547年天文16年に、三迫戡定みはざまかんていがあり、大崎氏敗北した。
・1547年天文16年には、宮沢氏は、黒川氏に従うことになった為、晴宗に所領を没収され、深谷の長江助九郎に与えられた。
1548年 天文17年 ・1548年天文17年正月に、留守景宗が、葛西氏家臣千厩小太郎に宛てた書状が残されて。

大崎之事、義直為二前々首尾一、自去年見レ命二諸臣一向二于不動堂一自在陣

とある。 この頃の大崎氏の状況では、大崎義直の敵とは大崎義宣のことと思われる。 稙宗方が劣勢になるにつれて大崎義宣は、義直の圧迫を受ける様になり、堪え切れず不動堂に逃れ、鶴頭城に入って再挙を図ろうとしていた。この時の攻防の状況を書状に記されたと思われる。
この時、不動堂地域は、鳴瀬川に臨む要害の地で、義直の攻撃に数年にわたり耐えたが、義宣の勢力回復に及ばず、鶴頭城は落城し逃れることになった。 この時代の義直、義宣の関係は、どの様なものか見てみると、次の様なことが分かる。
大崎義直は、大崎高兼の弟で、高兼が草世した為、大崎氏当主として後を嗣いだ人物である。ところが、間もなく大崎氏の「天文の内訌」が起こり、家臣一族の中に命令に従わない者が増えた為、伊達氏の力を活用しよう、高兼の娘梅香姫に小僧丸を迎えいれ、大崎氏の後継にしようと家臣が画策した。義直は内心不服でもあり、伊達氏の強要もあった事で受け入れせざるを得なかった。 ところが、伊達氏の状況が変わり、伊達氏の「天文の大乱」が勃発し、この時、義直は迷うことなく晴宗方についた。その訳は、義宣を大崎氏より追放しようと考えていたからである。これが、義直と義宣との関係である。
・1548年天文17年には、黒川藤八郎(稙国)ら黒川一党も、晴宗派の形勢有利とみえ、宮沢又六実家とともに晴宗派の留守政景に投降した。 この様に、宮沢実家は、形的には敗者となるが、その後、伊達氏家臣として存在感が高められた。宮沢実家の後継は元実として継がれていった。
・1548年天文17年9月に、伊達稙宗と晴宗父子の和解が成立した。稙宗は、長女を嫁がせた相馬氏と領地が接する伊具郡丸森城に隠居し、晴宗は、伊達氏15代当主として跡を継ぎ、長井庄米沢城に入った。
・1548年天文17年には、足利将軍義晴の内書によって、晴宗と稙宗が和睦するにいたった。
・1548年天文17年9月には、晴宗有利な状況で、稙宗と和睦成立した。 それにより、稙宗は、伊具郡丸森城に隠居となり、晴宗は米沢城に入り、伊達家を嗣いだ。
1550年 天文19年 ・1550年天文19年5月に、大崎義宣は、不動堂をから、葛西晴清(義宣の弟、牛猿丸:葛西晴胤に天文の大乱で殺害され、晴胤は伊達晴宗方についた。)を頼って逃れ、途中、桃生郡辻堂において刺客に殺害された。
(注)
戦国時代という社会的転換期に避けて通ることができないことが起きて大争乱が起きている。それは、奥州で言えば、大名家が二分して争う様な大争乱が起きた。それが、大崎氏の内訌であり、伊達氏の天文の大乱である。また、中世の武士・農民も同じように転換期を迎えていた。それは、下子・名子と呼ばれる隷属農民が、次第に独立性を増してきたり、その中で武士たちも、新しい領地の経営を模索したりしているようになってきた中での問題化が生じたり。さらに、相続形態の変化が加わり混乱する様な事態が争乱の引き金になるのは当然のことであったと思われる。 小牛田地区においても、この様な時期に起きた争乱に、伊達氏・大崎氏の各陣営に加担した武士たちは、この地の不動堂の争いでは、何れも反義直側に組みしたものと思われている。
1553年 天文22年 ・1553年天文22年には、大崎、葛西氏の境界争いが激化したなか、袋豊後守が移封(大名などを他の領地へ移すこと。転封てんぽう 。国替え。)されたいりしている。 袋豊後守の満願寺城への移封は、天文年間の後半頃で、大崎氏内乱で後藤氏、上形氏が滅亡された後と思われる。満願寺は、岩松山万蔵寺開基以前に存在していた寺である。
・1553年天文22年に、伊達晴宗は、叛臣の知行地を没収して、功臣に再配分する、新しい「采地下賜録」を作成した。石高表示が明確に示され、石高に合わせた軍役を確定させた。稙宗以上に確固とした家臣掌握を完成させた。 この天文の大乱は、伊達氏内紛ではあったが、逆に、伊達氏の守護としての勢力圏内の統一を促進させた。
一方、葛西氏の立場は、伊達氏とって肉親的存在と呼ばれるようになり、1576年の相馬氏攻めに協力を要請されたり、1588年には黒川氏攻めに鉄砲隊の派遣を要請されたりしたが、葛西氏は大崎氏と違い、最後まで独立国として体制を保ち、実力を温存させることができた。とどのつまりが、伊達氏の北進が留守・長江領に留まり、大崎領は辛うじて馬打ち領で残ったが、葛西領以北はこれからというとこで、葛西氏の体制が温存されたということに なる。
1555年 弘治元年
天文24年
・1555年天文24年に、伊達晴宗は、奥州探題任じられ、父稙宗が陸奥守護に任じられた。この時には、幕府は大崎氏奥州探題職を否定していなかった。従四位左京大夫の官位も授けられていいた。 ・1555年天文24年には、伊達晴宗が、足利幕府より奥州探題に任命された。これにより、奥州の武士社会における第一人者の地位を確立させた。
また、大崎義直も、晴宗方についたので、一族の支配権を回復させることができた。もちろん、遠田郡一帯もその傘下に組み入れられた。 大崎領内は、しばらくの間平穏な日々が続いていたが、突如として問題が発生した。
・1555年天文24年に、伊達晴宗は、奥州探題任じられ、父稙宗が陸奥守護に任じられた。この時には、幕府は大崎氏奥州探題職を否定していなかった。従四位左京大夫の官位も授けられていいた。
・1555年弘治元年に、伊達晴宗は、左京大夫に任官して、弘治末年には奥州探題職に任じられた。これにより、奥州諸大名や諸豪族を指揮する権限を幕府から公認されたことになった。
・1555年弘治元年に、大崎義隆は、大崎領内を統治するようになり、古川形部持煕の子九郎に義隆より一字拝領され、古川弾正忠隆と改め古川城主を命じた。古川形部持煕没後十五年の歳月を経て、古川城宿老米谷兵部の進言で御家再興を許された。又、弟十郎は義隆より一字拝領し青塚摂津守隆持と改め、出城の青塚城主を命じられた。この頃の戦国時代は、武田信玄と上杉謙信が川中島の戦いがあったり、地方の覇権争いが盛んな時であった。
1556年 弘治2年 ・1556年弘治2年秋に、大凶作となり、義隆は、飢餓状態の領民(農民)に領内の未開墾の原野、湿地、川の合流の三角州の開墾出役を命じ、その報酬に食糧米を現物支給し領民の窮乏を救った。領民は、大凶作で飢餓状態に陥って為、開墾出役に積極的に応じた。大崎領内は35万石(石高推計)ではあったが、未開墾が点在したいたので義隆が窮民対策と開発を政策し実行したものであり、この年から、灌漑用水が少しずつ整備され、田畑耕作面積が増大する結果となった。
1557年 弘治3年 ・1557年弘治3年に、黒川景氏・殖国父子とともに、留守顕宗と村岡右兵衛(留守氏重臣)との内乱が起こり、その調停を行なった。
1558年 弘治4年 ・1558年弘治4年頃までに、黒川景氏は、8代目を黒川稙国に継がせた。
・1558年永禄元年5月10日に、16代内海尾張重氏は、死去している。従って、内海尾張重氏は、天文年間の館主であったと思われる。
・1558年から69年永禄年間の頃、この頃の出来事として次の様に記されている。
「葛西盛衰記」によると、

葛西領登米、佐沼続き、大崎領南遠田是を取らんと、葛西晴信責めかく。大崎打負け、両所葛西の手に入る。是を遠田陣といふ。葛西左京大夫手に入る。弐ヶ所、南遠田三三郷、北遠田三三郷、都合六六郷、遠田郡一円

とある。 これによると、遠田郡全体が16世紀中頃に葛西氏の領域であったことが分かる。 遠田郡は、謂わば、両氏の角遂かくちく(互いに競い合うこと反りがあわない危急存亡の絶望的な境地に活を 求める)の場であった。
1559年 永禄2年 ・1559年永禄2年には、伊達晴宗は、将軍足利義輝の御内書により、奥州探題に任命された。御礼に、伊達晴宗は、将軍義輝に数々の品物を献上したことが、「伊達文書」に記されている。 これ以後、大崎氏が幕府からは奥州探題と呼ばれなくなり、幕府が認定した「大名衆」の中には伊達氏の名があるが、大崎氏の名が見えないというように奥州の支配体制が変わったと言えよう。 この後、大崎義直の後継として義隆が跡を嗣いだ。 しかし、葛西氏などとの対立が断続的に続き、また、伊達氏が南から製力拡大してきた。領内では、重臣たちは権勢を保持し、度々反抗を起こす氏家氏や家臣達との関係に苦心していた。
1560年 永禄3年 ・1560年永禄3年には、今川氏と織田氏が、桶狭間で戦いがあり、今川氏が敗退した。
1563年 永禄6年 ・1563年永禄6年には、伊達晴宗は、家督を嫡子輝宗に譲った。
・1563年永禄6年には、室町幕府の「諸侯人附」によると、全国50余名の認可された大名には北条・上杉・武田・織田等と共に、東北では蘆名氏と伊達晴宗が列挙されていた。
1565年 永禄8年 ・1565年永禄8年には、将軍足利義輝が、松永久秀、三好義継によって暗殺された。
・1565年永禄8年頃、織田信長の使者内田弥左衛門より陸奥の駿馬の所望をされたので、献上したりし、時の権力者織田信長との関係を強いて望んでいた。 中央の京都に対しても「愛宕の願い」と称して上洛し、中央権力の状況把握を試みたりしていたようである。 しかし、義隆は、1567年永禄10年から1573年天正元年まで官途もなく、伊達家は朝廷より奥州探題を補任されていた。それでも、戦国大名として伊達家との友好を留守政景を通じて築いたり、黒川晴氏や最上義光との連携も強めていき、領国統治を確立していった。
1566年 永禄9年 ・1566年永禄9年に、大崎義直が、没している。
1567年 永禄10年 ・1567年永禄10年頃に、黒川稙国の嫡子晴氏が、9代目を嗣だ。
・1567年永禄10年頃は、留守氏の内部で、伊達輝宗の弟の留守家入嗣問題(留守政景)が起こり、内乱状態が起こり陥った。黒川晴氏は、この内乱を調停し、晴氏の娘を黒川政景に嫁がせた。 この頃の留守家の系譜は、景宗、顕宗、宗綱と続くが、宗綱の時、家督を政景に譲り、自分は高城家に入ってしまった。 晴氏は、留守政景を介して伊達氏と連携を強め、さらには、大崎氏や葛西氏との友好関係も構築していたと伝えられる。特に、大崎氏に対しては、大崎義直の弟義康(義安ヵ)を養子に迎えるなど周辺諸氏とも和平維持に努めた。
1568年 永禄11年 ・1568年永禄11年に、義輝の従兄弟義栄を将軍としたが、義輝の弟覚慶が還俗して義昭と名乗り信長を頼った。織田信長は、義昭をいただいて上京し、義昭を将軍にした。しかしながら、間もなく信長と義昭が対立抗争となった。
・1568年永禄11年には、全国的には、織田信長が、将軍義昭を奉じて入京し、天下統一の歩をはじめた。
1570年 元亀元年 ・1570年元亀元年に、伊達氏の老臣中野宗時・牧野久伸が、輝宗に叛いた時、元宗は叛乱軍を刈田郡宮の河原に迎え撃ち撃破したといわれる、この功により、羽州置賜郡長井庄河原沢村、奥州名取郡小川村、笠島村、伊具郡小田村を加増されたと伝わる。 天正初年からは、領地が相馬領と接していたので、伊達氏の相馬攻略に活躍した。小斎・金山・丸森三城の奪回に努めたと言われている。
1571年 元亀2年 ・1571年元亀2年に、将軍義昭は、織田信長によって追放されしまった。
・1571年元亀2年には、伊達領国で宿老中野宗時・牧野久仲の造反が起こり、内紛の兆しが生じた為、大崎領国は同族の羽州山形城主である最上義光と軍事同盟を結び伊達・葛西氏の侵略に備えた。一方、葛西領内で、本吉重継が反旗を翻したのに続き熊谷直平も背いて内乱に発展していた。この機会に、義隆は、長年境界争いを続けていた葛西領国境の遠田郡六十六郷を奪還すべく葛西に攻め入った。大崎・葛西合戦の始まり年でもあった。 大崎氏は、最上義光の応援を受け、流郷(岩手県花泉町)の入口の有壁(宮城県栗原郡)に大攻勢をかけてきた。
・1571年元亀2年3月に、大崎氏が、最上義光もがみよしみつの応援を受けてながれ地域(岩手県いわてけん南花泉みなみはないずみ地方)の入口に大攻撃をかけて侵入してきた。大崎軍は、栗原郡くりはらぐん有壁村ありかべむら丸森古城まるもりこじょうに駐屯して、磐井郡流地方の征覇を目論んでいた様である。しかし、この攻撃については、従来の大崎・葛西氏の封境争いとは、かなりの違いがあったと言われている。この侵入に対して、素早く、磐井郡いわいぐん吾勝郷あかつのさと市野々邑いちののむら釣尾城つりおじょう小岩孫三郎信定こいわまごさぶろうのぶさだとその同族、小岩茂氏こいわしげうじ鬼死骸上おにしがいうえ)、信忠のぶただ達古袋城たつこたいじょう)、茂安しげやす加持屋城かじやじょう)、及び市野泉州いちのせんしゅう栃倉長州とちくらちょうしゅう黒沢豊前くろさわぶぜん小野寺伊州おのでらいしゅう熊谷但州くまがいたんしゅう千葉常州ちばじょうしゅう等の城主、さらに、西磐井にしいわい清水刑部しみずけいぶ金沢豆州かなざわまめしゅう奈良坂能州ならさかのうしゅう寺崎てらさき岩渕いわぶち佐々木ささき猪辺いのべ永井ながい等の一族諸士が、各々家来を引き連れて防戦につとめた。そして早馬を飛ばして登米城の主君葛西晴信公に急を告げた。晴信公は、すぐに大軍を率いてながれ大門口だいもんくちで大崎軍と接戦し、大崎義隆おおさきよしたかは敗北退却した。しかし、晴信公は手を緩めず家来達を督励(監督し、励ますこと)して追撃をさせたと言われている。その追撃の経過は次の様なことである。
・1571年元亀2年3月7日には、葛西軍は、有壁ゆうかべ新井城あらいじょうを陥落させ、金成片馬合かんなりかたませ日光館にっこうかんをも破った。
・1571年元亀2年3月8日には、末野城まつのじょう藤渡戸城ふじわたとじょうを打ち負かした。
・1571年元亀2年3月9日には、武鑓邑主たけやりむらしゅ石田筑前いしだちくぜん、同遠炊たのも兄弟を落城させた。
・1571年元亀2年には、葛西氏が大崎氏の境界争いで優位にたち、末野、藤波戸、有壁等を確保したと伝わっている。
「三迫有壁村風土記御用書出 古館の項」によると、

一、 古館弐ヶ所
一、 丸森館 竪六拾間 六拾間延文中、大崎義隆ノ臣従藤美作守居之、大崎没落後葛西領主ニナル、元亀二年三月ヨリ葛西ノ臣門田淡路守居ト云々
一、 有壁  竪三十間 横六間後藤美作守 此館ヨリ丸森江移ルノ後、菅原帯刀居住、元亀二年三月七日葛西領二ナリテ、其ノ臣有壁尾張守同安芸守同摂津守三代居住、 天正十八年八月
葛西家没落ノ時一同戦死ノ由在口碑。


とある。この地方が、大崎、葛西氏両氏の争奪戦の場となり、葛西勢力が伸長して たことがわかる。
1572年 元亀3年 ・1572年元亀3年2月に、葛西晴信は、再び追撃を開始して、石越、若柳、福岡、大林寺のるい(石や土を 積み重ねてつくった臨時の小城)を破り追撃を進めた。
・1572年元亀3年7月には、大崎・葛西合戦の夏の陣、義隆率いる大崎の最上連合軍3万の大軍が佐沼まで攻め上り、大崎旧家臣でありながら、葛西傘下になった薄衣一族が再び義隆に服属させ旧領奪還を実現させた。しかし、葛西氏と戦かったが、葛西氏に押し返される。
1573年 天正元年 ・1573年天正元年の秋に、織田信長は、十五代将軍足利義昭を京都より追放し、越前の朝倉義影や浅井長政等を討って、天下統一の道を始めた。 この様な、中央における天下統一の動きは、遠方の奥羽地方にも関係なくなかつた。 それは、伊達輝宗などは、将軍でもないにもかかわらず、天下統一を目指す織田信長に、馬などを献上して、いち早く関係を結んでいる。 本能寺の変で信長が死ぬや、豊臣秀吉がその意志を継いで、天下統一に専念した。
・1573年天正元年に、葛西軍は、武鑓-大村まで突破口を開き、有賀-金成まで西進し、雪崩を打って岩ヶ崎へ突入し三迫を制圧した。さらに、奥大道を南進して金田荘(一迫町)まで進出した。その後、葛西軍は、ニの迫を制圧して、栗原郡(現、栗原市全域)全郡を勢力下に治めた。 三迫の冨沢氏の変幻自在の動きはあったが、大崎氏は、葛西勢により、ニ百年ぶりに大崎氏によって失なった領地、三迫の地を取り返された。
・1573年天正元年頃に、仁木氏は、仁木小六郎が、色麻町清水きよみず小栗山こぐりやま城主となり、笠原内記が色麻町清水の高根城主、平沢左衛門が平沢城主、黒沢治郎が黒沢城主、高城たかぎ氏が高城城主とともに清水侍として大崎氏に仕えた。
・1573年天正元年3月4日には、葛西・大崎の合戦において、大崎軍の有賀邑主野田崎玄蕃照道ありがむらしゅのだざきげんばてるみちが降参、御田取城主おんたとりじょうしゅ菅原刑部丈長すがわらけいぶたけなが同隼人兼長どうはやとかねなが傷死しょうし、4日から7日までに、大崎旗将おおさきはたしょう金成城主かねなりじょうしゅ千葉右衛門四郎胤証ちばうえもんしろうたねしょうは落城、畑城主はたじょうしゅ小野寺大膳隆道おのでらだいぜんたかみち小迫城主こさこじょうしゅ千葉左中高胤ちばさなかたかたね等が傷死した。
・1573年天正元年3月8日には、岩河いわかわ及び平形たいらかた木原木塁きはらきるいを落とし、9日には赤児城主あかこじょうしゅ後藤美作隆円ごとうみまさかたかまどの城を攻めとった。この様に、大崎氏の目論見は、逆に葛西氏の激しい反撃に遭い、三迫の領地を失うことになったと伝えられている。この戦いの詳細を記載された系譜が残されている。小岩孫三郎信定の居城があった市野々邑(岩手県一関市)の萩荘村史に、「源姓小岩氏系譜」があり、その中に詳細が記載されている。その内容が次の様なことである。
小岩孫三郎信定とその一族は、毎度の戦場でとくに軍功に優れていたので、葛西晴信公は感激して孫三郎信定を三迫の赤児城に移して三迫諸城主を束ねる屯将とんしょうにしたのであった。しかし、戦国時代も終わりに近づいており、大崎氏と葛西氏がこうした争いの渦中にあったことは、国中の成り行きを見る余裕もないことは不幸なことであった。太閤秀吉の小田原参陣の大号令に従わず、遂には奥州仕置を受けて滅亡していくのである。在任わずか十数年でもあった。
・1573年元亀4年/天正元年には、葛西晴信は、若柳地方を勢力範囲として、この地方の大崎方諸城に、葛西方が進出させるころであった。 一方、大崎方は、当主大崎義隆に家臣を統率する力がなかったので、伊達氏の援をかりるに至っていた。
1574年 天正2年 ・1574年天正2年に、葛西氏家臣千葉肥前が、本吉大膳重継の反乱に軍功をあげている。
・1574年天正2年に、富沢日向は、葛西氏に叛いたが、有壁において葛西氏と戦い敗れている。
1575年 天正3年 ・1575年天正3年7月4日付に、大崎義隆が、三浦氏に恩賞状を下している。 「三浦系図」を伝える大場家には、大崎義隆の恩賞状が残されている。
その恩賞状の内容は、次の様なことである。

今度貴件恩賞のため、栗原のうち五十三貫の所知行相違あるべからず、他に妨げあらば申出べく候、以後相違あるべからず


とある。  この恩賞は、この時代に大崎・葛西氏が対抗する中で、三浦氏が苦戦に対応しているのを思ってか、もしくは、対立の中での第一線三浦氏に対する励ましのためにかを思い、与えられたものと考えるべきと思う。
1576年 天正4年 ・1576年天正4年より1588年天正16年まで、伊達氏は、相馬氏と長期に戦い争っていたことが伝えられている。 この間には、伊達氏は、葛西晴信への軍事加勢をしたりしている。 また、葛西晴信は、晴胤の後継で葛西家太守でもあり、輝宗とは従兄弟関係となる。
1577年 天正5年 ・1577年天正5年に、伊達晴宗は、59歳で没した。 伊達輝宗は、1563年永禄6年から1584年天正12年の20年間在位していたが、最上氏と相馬氏との争いに明け暮れる日々であった。しかし、天下の情勢も見ており、天正元年以降には織田信長と度々手紙を交換していたようである。
・1577年天正5年に、葛西氏の家臣元良某が、主家に反抗したことを口実に、義隆は救援のために、出兵して葛西軍と戦ったとある。葛西晴信は、この頃伊達輝宗の対相馬戦に援兵を送るなどの関係にあった。輝宗は対相馬戦に軍勢を貼り付けていたため、葛西氏のために兵を動かすことはできずに、弟の留守政景を和平仲介の使者として大崎に送ったが、和議成立ができなかったと言われている。 このように、葛西晴信と伊達輝宗との関係も深く、葛西氏の存立も伊達勢力に強く依存していたことが分かる。
1579年 天正7年 ・1579年天正7年に、葛西氏家臣千葉肥前は、富沢日向直綱の反乱に軍功を残している。この様に、千葉氏は、葛西領の西の守りを任されていたと言われる。
・1579年天正7年にも、富沢氏は、大きな争乱を引き起こしている。これは、「葛西盛衰記」にも記されている。
「葛西盛衰記」によりと、

三迫岩ケ崎城主富沢日向守、葛西晴信へ逆心。大崎へ附くとす。晴信是を被聞、東山黄海深堀之城主深堀新左衛門尉を討手に被富沢降参す。宥免ゆうめん(罰を軽くするなどして、罪を許すこと 。大目にみる こと。)あり。是を岩ケ崎陣といふ。

と記されている。 これは、富沢氏の領地が狭められたことで、富沢氏の宗家である葛西氏に再び叛旗を翻したことばかりか、葛西氏の長年の敵である大崎氏につこうとした。最初は富沢勢が流れ庄まで侵入したが、葛西氏側の援軍も集まり、凄まじい攻撃をうけて、岩ヶ崎城下にまで入り込まれたことで、富沢日向守直綱も降参せざるを得なかったようであった。
1580年 天正8年 ・1580年天正8年には、大崎義隆50歳になったが、足利幕府滅亡後も奥州大崎領内は安定、平穏な時期を過ごしていた。義隆の統治時代は、歴代当主の中で最も領内が安定、隣接大名に比べて 租税が安く、領民からは尊敬され、一族一党からも慕われ、人材登用も卒なくしており、又、侵略戦争も避けていた為、平穏安定な領内が治めた。
1581年 天正9年 ・1581年天正9年5月には、足利幕府滅亡後、織田信長に拝謁し、忠誠を誓う為上洛を決行、名生城には嫡子義興と城代紀伊守を残し、四家老と三百騎を従え出発した。 上洛は歴代同様、羽州街道を鳴子に進み、最上をへて日本海側の北陸路より新潟・富山・金沢・福井から「木の芽峠」を越え、琵琶湖湖岸に抜け大津をへて京都に入った。途中、安土城の織田信長に拝謁(史実には記載されてない)宮崎産の駿馬十頭、絹肌米十石(60kg入り25俵)を献上、信長より朱印状を賜る。(現存史料として存在する)
1582年 天正10年 ・1582年天正10年には、信長は、京都本能寺で家臣明智光秀の謀反により殺された。 本能寺の変後、羽柴秀吉が、織田信長の意志を継、天下統一への事業を進めていったと言われている。・1582年天正10年3月には、小岩孫三郎信定は、釣尾城の老父信茂が薙髪ちはつ(髪を切ること。髪をそり落とすこと。剃髪ていはつ。)して鉄山入道となったのを機に、主君晴信公に願い出て、実弟の孫四郎信時に赤児城を譲り、釣尾城に帰った。
1583年 天正11年 ・1583年天正11年に、千葉肥前良胤は没している。その子越前道胤が継いでいる。
1584年 天正12年 ・1584年天正12年には、織田信長の時代から豊臣秀吉の天下統一の時代へ大きく変化する時であった。 全国的には、天下統一の過程を歩んできていが、奥州においては、未だ戦国乱世から抜け出せない厳しい情勢の真只中であった。 15代政宗の時で、14代輝宗が、二本松領主畠山義継に暗殺されて、その弔い合戦の為、佐竹・芦名・石川・白河の南奥の諸将を敵に回して奮戦せねばならない状況であった頃である。
・1584年天正12年には、伊達輝宗は、米沢城の近くの館山に隠居している。
・1584年天正12年10月に、伊達政宗が、18歳で輝宗の跡を継いでいる。
1585年 天正13年 ・1585年天正13年には、羽柴秀吉は、天下統一を一応成し遂げ、朝廷より関白に任じられ、豊臣の姓を賜った。
・1585年天正13年10月には、伊達輝宗は、二本松畠山義継に殺害される。 政宗は、天正9年(1581年)15歳で初陣して、天正13年(1585年)には、畠山氏に殺害された父輝宗の弔い合戦を指揮することになった。 しかし、伊達氏の勢力増大を喜ばぬ諸豪族達、佐竹、蘆名、岩城、石川、白河氏等は、畠山氏に味方したため、政宗は苦戦を余儀なくされた。ところが、安達郡本宮付近の人取橋での戦いで畠山連合軍を辛うじて破ったと言われ、政宗が一生のうちで苦しい戦いを強いられたこととして、「仙道人取橋の戦い」と称された。
・1585年天正13年11月には、伊達政宗は、人取り橋にいて、南奥の諸将と戦いはじめ、苦戦の末に、これを食い止めることができた人取り橋合戦があった。 この戦いによって、政宗は、奥州における覇者の資質を持つ人物であることを天下に示すことができたと言われている。
1586年 天正14年 ・1586年天正14年7月には、伊達政宗は、畠山氏を攻め込み滅亡させた。この事は、「伊達治家記録だてちげきろく」にも記されている。
「伊達治家記録巻二、天正十四年七月十六日の項」によると、

十六日二本松城、本丸自焼シテ、城主国王丸会津に奔ルのる。城抜取ノ義。成実(伊達)二命セラル。成実彼ノ地へ行キ、本丸二仮屋ヲ建テ、守居ラル。

とある。 しかし、畠山氏が亡んでも、葦名との間にはきびしい対立があった。
・1586年天正14年には、伊達氏と大崎氏との間で境界争いが起きている状況で、大崎氏の内訌が起きた。
・1586年天正14年夏には、義隆の寵愛を受けた新井田形部少輔隆景が突然に側小姓役からはずされた。若干16歳ではあったが、「謀反の企てが露見した」事が更迭の理由。色々な 憶測が流れ、同じ側小姓の伴場野惣八郎の謀略とか、公方鉄砲組の主戦論者で城内から危険視されたとか、の憶測があった。義隆は、嫡子義興6歳が成長するなかで、相談相手に相応しい相談役に、この二人の側小姓から抜擢する考えであった程 、領内で有望な側小姓であった。新井田隆景は大崎一門の血筋で里見紀伊守隆成(家老職筆頭)の推挙、一方、伴場野惣八郎は中目兵庫守隆政(四家老の一人)の推挙で、智謀に冨、聡明な人材が故のことでもあった。 この事態は、伴場野惣八郎の立場も危うくなり、城内では孤立同然、里見一派の厳しい監視と怒りに身の危険を感じ、磐手沢城の氏家弾正義継を頼り、義隆の隠密裡に進めている「公方鉄砲隊」も等の内情を打ち明けた。氏家弾正義継は事態の 大きさに驚き、三丁目城に隠居の氏家隆継に相談をした。以前より大崎領内の内紛には、必ず氏家一党が介在することから、政略的に義隆に同族の黒沢冶部隆澄の娘澄姫を義隆に嫁がせていたが、伊場野惣八郎を庇護することで、事態が再び 内乱の兆しが見えてきた。
・1586年天正14年に、秀吉は、九州の大友氏と島津氏の抗争を停止させるべく、私闘禁止令を九州に発布している。
1587年 天正15年 ・1587年天正15年8月に、氏家弾正の父三河守隆継も、大崎義隆とは折り合いが悪く、弓矢を交えたが、大崎義隆が軍勢を率いて岩手沢城の数里に迫った為、氏家隆継が、伊達政宗に救援要請の書状を送った。
その書状の内容が、次のようなことである。

義隆は自ら軍勢を率いて、居城を名生城に移し、愚老から数里に迫った所に陣を敷いた

との内容である。 この書状から見えることは、氏家氏と伊達氏は気脈を通じ合っていたことがわかる。さらに、大崎義隆の居城はこの時点まで名生城になかったこともわかる。また、大崎隆継は「愚老」と称しているところから、かなりの高齢で氏家弾正に家督を相続して間もなくの事と思われる。 伊達政宗は、この書状の救援に対し断って、静観する態度をとっていたが、大崎氏内紛が悪化し、氏家弾正の滅亡の危機が迫る状況との情報があり決断をすることになった。
・1587年天正15年に、大崎氏内訌が起こり、四釜尾張守隆秀は、里見方の将として活躍したと言われている。
・1587年天正15年には、新井田隆景の再吟味を行う為、新井田城に義隆が向かうが、里見一派の企みにより、幽門されてしまう。大崎領内は里見一派の主流派と氏家一党の反主流派の状態内紛に陥り、やがては、最上義光(山形)と伊達政宗(米沢)を交えた「大崎合戦」に拡大して行く。氏家隆継が片倉小十郎景継を通して宿敵伊達(米沢)に援軍を求めたことが、義隆に内通があったこと 事から、主流・反主流に分かれて内乱状態になった。
・1587年天正15年に、箟岳箟峯寺ののだけこんぽうじ観音堂(涌谷町)の改築に際して、右の柱は大崎氏、左の柱は葛西氏と言うように、両氏が半分ずつ寄進している。(箟岳箟峯寺ののだけこんぽうじ記録)遠田郡においては、両氏が拮抗している現れである。また、両氏の勢力は、その南の長世保にも及んでいったと思われる。
・1587年天正15年には、大崎義隆の身辺に異常事態が発生する。寵臣ちょうしん(寵愛している臣下)の間で争いがあり、そのたわいもない争いが、周辺の有力武将を巻き込み、さらには、伊達政宗へ内情を訴えて応援を請うものもあらわれ、大崎氏内部で相争う要因となった。 大崎氏の内紛は、伊達政宗の帷幕いばく(はかりごと)なかにあり、大崎氏への干渉の口実が熟しつつあったと思われた。
岩手沢城主氏家弾正吉継は、義隆側近の中に、伊達氏と内通する者ありと知り、義隆にその寵臣新井田刑部を切腹或いは監禁する様に進言した。 義隆は、早速刑部を呼び、不義不忠者ものであるが、幼少より小姓としていたので殺すには忍び難しとして、玉造郡新井田に蟄居を命じることにした。刑部は、これを謹んで受けたが、氏家一派に、帰途途中殺害される恐れがあり、伏見まで馬で送ってほしい旨懇願した。義隆は是れを許し。自ら馬で刑部を送るため城外でたところで、刑部家臣の騎馬30余騎が、前後左右を固めて、新田城に軟禁をしてしまった。
この時、新井田一味に組みした者は、刑部の父里見紀伊守隆成、兄里見大膳亮義之、刑部の叔父柳沢備前守義綱、同舎弟谷地森城主谷地森主膳義宗、同舎弟笠原宮内少輔、その次舎弟米泉城主米沢権右衛門尉計四名は刑部の母方の叔父である。この他、宮崎民部、高清水城主石川越前守、同舎弟葛岡太郎左衛門尉義秀、中野目兵庫介、飯川大隈守、鳥島駿河守、黒沢治部少輔などであった。
新井田一味は、義隆を手中に入れたので、方針を転換して、義隆を盛り立ていた氏家弾正一派を倒して大崎地方を支配の実権を握ろうとした。 これを聞いた氏家弾正は、忠誠の甲斐もなく、逆に身の危険を感じた為、家臣片倉河内、真山式部に命じて、米沢に行かせた。片倉河内と片倉小十郎景綱の縁故を頼り、政宗に仲介を依頼し、氏家弾正に援助を申し入れた。
政宗は、氏家弾正の忠義に感じて、応諾の返事を与えたと言われている。 大崎氏は、その側近も、重臣も政宗に頼る結果となっていた。 氏家弾正派には、政宗が好を通じていた武将に、湯山城主湯山修理、一迫伊豆、宮崎豊後、三迫城主富沢日向貞通等がいた。 氏家弾正派は、先ず、名生城に居た御台様、嫡男庄三郎義興、義興の母、妹、叔父の5人を人質にとり、弾正の父氏家三河と伊場野惣八郎を添えて守護した。また、新井田刑部の様に主家を滅亡させる計画ではない証として、庄三郎義興を鈴木、高橋の家臣を添えて中新田城の南条下総隆信の下に送り届けた。中新田城には、四釜尾張隆秀、高木孫市隆久、黒沢治部、小野田城主石川玄蕃とその弟味袋九郎左衛門隆永等が馳せ参じて城を守った。 これにより、新田城に義隆、中新田城に義興、名生城には御台様に分かれて冬を越したと伝えられている。 政宗は、大崎氏重臣氏家弾正と手を組み、この機会に大崎氏を服属させ、大崎地方を入手する目論見を立てていた。 しかし、伊達氏の周囲には、会津の宿敵芦名氏、東部には相馬氏、北西部には最上氏との間に緊張が続いていたので、直ちに兵を動かすことができない状況であった。 その為、伊達氏は、大崎地方攻略の用意は、岩沼城主泉田安芸重光が中心に動かねばならなかったと言われている。
・1587年天正15年に、伊達勢との戦いで、師山城に立て籠った大崎勢のなかに、室田小斎なる人物の名が記されていることが見える。
「不動堂村風土記書上」によると、

古館一 西館(南北三十六間、東西四十七間半)右御城主有壁摂津守と申候方御住居を由申伝候得共何年之頃御住居之品相知申候。其後後藤孫兵衛様御先祖上野様元和六年御拝領被二成置一候

とある。 恐らくは、室田氏の一族は大崎氏の家臣で、室田右衛門もその一族の一人と思われる。
・不動堂西館の有壁摂津についても詳細が不明であるが、栗原郡金成町有壁に本拠を持つ豪族で、葛西氏の家臣が存在している。恐らく、有壁摂津もこの一族であり、不動堂の領主になったということは、この地方に葛西氏が進出していたということを裏付けするもの思われる。
・六郎館の馬場六郎についても、詳細は不明であるが、馬場谷地 は涌谷氏の支配地域であると伝えられているので、恐らくは、涌谷氏の家臣であった可能性は高いと思われる。
・西野館の西野民部少輔については、全く不明である。
その他に「封内風土記」に記されている者として、田尻村の本町屋敷四郎右ェ門の先祖か、尾形掃部おがたかもん)で百々左京亮家中の家臣であると記されている。 この様に、大崎氏とその一族やその家臣が、遠田郡内の各地に住いしていたと思われる。 しかし、南郷地区に関して、この様な点の史料がなく解明するには難しいものであるが、地勢的には葛西氏の支配する桃生郡に接している所でもあり、葛西氏と大崎氏との所領争いがあったと思われる。
1588年 天正16年 ・1588年天正16年正月草々に、最上義光は、和平調停に乗り出し、家臣の野辺沢のべさわ能登と伊良子いらこ)信濃を大崎に派遣し弾正の不忠をたしなめつつ調停をさせた。この時の最上義光の書状が、石川内膳正家に残されている。
・1588年天正16年1月23日付けの政宗の書状を、原田旧拙斎を使者に立てて留守政景に送った。 その内容は、大崎攻めの最終決定を通知することや最上に介入される前に速やかに作戦を決行するなどで、さらに、黒川晴氏への対処などを指示したものであった。
・1588年天正16年1月には、伊達政宗が、大崎攻めの出陣命令を下した。
このときの政宗の口上は、

義隆に対して恨みはないが、氏家弾正忠(吉継)の切腹は、あまり気の毒なので、命を救うため侍道の筋目に従って、救援派兵を行う

というものであった。 しかし、この時、伊達政宗は、大崎攻めに出陣はしなかった。何故かといえば、福島浜通り(仙道)や安積郡に不穏な動きがあったからと言われている。
・1588年天正16年2月2日には、伊達勢は、松山千石城を出て師山城の南の畑に進み、師山城・桑折城を牽制する為一軍を残し、侵攻軍の先陣は桑折城を避けつつ鳴瀬川の北筋を西進し、下新田城に攻めかかった。大崎方の中新田城主の南城下総は、町より4から5丁(400~500m)程出て迎え討ったが、防戦かなわず退却した。伊達勢は、町構えと2~3の曲輪に火をかけ、籠城した南城を攻めさせたが、落城しなかった。 軍(いくさ)奉行の小山田筑前が退却の指示を出し、軍勢のしんがりを買って出たが、中新田の南方で追撃を受け戦死する。その結果、泉田安芸守と長江播磨守並びにその兵士の多くが、退路を絶たれ新沼城に籠城することになった。一方、師山城の南にいた第二陣の留守政景(雪斎)、浜田伊豆守、田手助三郎、宮内稲葉等も大崎勢に退路を阻まれ進退窮まった。ところが、黒川晴氏の温情で、からくも松山千石城に退くことができた。
・1588年天正16年2月7日に、政宗のもとに、2月2日の大崎攻めと新沼城籠城の第一報が届いた。 政宗は、大崎にいる原田旧拙斎に書状を送り、留守政景、泉田安芸、浜田伊豆等とよく談合し、早々に打開策を検討する様に激励した。
・1588年天正16年2月8日に、浜田伊豆守の使者遠藤玄蕃が米沢に到着した。敗戦の一部始終を聞いた政宗は、石母田左衛門景頼・大町民部大輔の両名に救援の為、まず、仙台北目城まで駆けつけ、2月12日までに戦仕度を整え松山まで出陣することを命じた。さらに、政宗の近習きんじゅうおよび伊達郡の東根・西根の兵と刈田・柴田・伊具の兵を境目さかいめ(他国との境界)の兵ばかり残し、伊東肥前重信と内馬能登に付けて派兵することにした。 一方、新沼城の籠城の伊達勢も、自力で脱出作戦を検討していたが、長江播磨守が、「師山・桑折城の敵勢に挟み撃ちに合って討死が必定」と述べ、脱出作戦は到底無理との見解でまとまり、結局無難な籠城策でしのぐことになった。
・1588年天正16年2月9日に、大崎攻めで横目の任に当たった山岸修理が米沢に帰りついた。政宗は、今回の失態の原因は、黒川晴氏の離反を誘うような作戦、つまり、黒川氏(恐らく、義隆の弟で、黒川氏に入嗣した義康の城と思われる)の持ち城であった中新田城を攻めたことにあるとした。とにもかくにも、政宗は、大崎氏の数ある城から中新田城を選び攻めたのは何故かと激怒した。しかし、現地の判断は妥当な判断と思われる。合戦中に大崎義隆の所在が不明な点、氏家弾正救援が第一とするならば、妥当性がり、名生城を氏家三河守隆継が占拠している限り、中新田城を攻め落としさえすれば、松山から中新田・名生・岩出山間の道筋が開け、そこから、加美郡西部や古川・遠田郡の大崎勢を一掃できたからである。この中新田城攻めに間に合わず、伊達勢が敗退し孤立無援になった氏家弾正は、新沼城に籠城した味方のために、中新田・下新田を突破して、新沼城に兵糧を差し入れた。これにより、籠城軍は、2月中は食いつなぐことが可能となった。
・1588年天正16年の大崎内訌の中新田城の戦いには、黒澤城主黒澤治部が、新井田刑部を援け、反義直派となり、中新田城を守り伊達軍を迎撃して敗走させた。
・1588年天正16年正月に、伊達大崎合戦に際して、笠原内記直康は、新田刑部に組みし、里見紀伊守の猛将として中新田城をし、伊達軍を敗走させた。
・1588年天正16年2月16日に、伊達政宗は、この苦境を打開するため、葛西晴信に書簡を送り、援軍の要請をした。しかし、葛西側も東山に反乱が起こり、政宗の要請に応えることができなかった。
・1588年天正16年2月15日に、松山より原田藤左衛門尉が米沢に到着して、大崎戦線の様子を政宗に報告した。 しかし、原田が松山を出て1~2日後に、新沼城の事態が急変した。籠城衆が大崎方に命乞いの証人(人質)を置いて出城したとのことである。資料によると、この時、伊達勢は、松山・大松沢・高城も支えかねて宮城(利府)まで退いたとある。伊達勢はその後、再度新たな人質を差し出すことにより、1日を置かずなんとか居館に復帰できたとのことである。これにあたって先頭にたって行動したのが遠藤氏であった。 伊達勢復帰のために新たな人質なった武士達は、遠藤左近の子や宮沢左衛門の身内であったと思われる。つまり、遠藤左近・宮沢左衛門・高城式部等は新沼籠城衆であり、身内を差し出すことで、新沼出城ができ居城に帰る事が可能となったからである。
・1588年天正16年2月22日には、政宗は、黒川領境の松森城にいる石母田氏に書状を送り、長陣をねぎらった。また、同様に、松山千石城に詰めていた伊東肥前にも別便で書簡を送り、

伊東自身が松山に赴いていつか、また前線の城館は守備が不足していると聞いているので、今回増派部隊の兵を手抜かりないよう配置せよ

との内容であった。しかし、その後、政宗が嘆いている様に、伊東等の援軍は、再度の敗戦を恐れて積極的な軍事行動に出ず、戦局を好転させることができなかったとある。
・1588年天正16年2月26日付けの政宗書状が、三ノ迫の宮沢氏家臣飯倉伯耆直行(本姓熊谷岩時、里谷の森館城主)に送られた。宮沢氏が氏家一派に協力し、北方から新沼を救援してくれないものかの打診であった。宮沢氏は、氏家一派のために兵を整え岩出山に駆けつけたと言われている。
・1588年天正16年2月28日付けの政宗書状が、高城と宮沢氏に送られた。

安否が気がかりで、何度も新沼城に書状を送ったが、不通のためむなしく立ち帰った。ともかく身命つつがなく出城できたことを、非常に満足に思う

との内容であった。 一方、新沼に残って籠城軍を代表して人質になったのは、泉田安芸守と長江播磨守であった。「政宗記」によれば、開城にあたっての使者は、大崎方鈴木伊賀と北郷左馬尉の両人で、使者は籠城の大谷・加沢(黒川郡大郷の武士ヵ)を呼び出し、泉田・長江の両将を渡せば、その他の将兵は解放するという条件を示したとある。 しかし、最上義光は、開城の様子を別の方向で捉えていた。
・1588年天正16年2月晦日付けの最上義光の書状には、

伊達勢による、その後の救出作戦もないので、城内の者は、寒さと飢えから、伊達を捨て大崎・最上に奉公したいと嘆願する者が続出したので、皆をもって赦免し、大半を出城させ最上に登らせた

と記されている。「古川市史」
その後、泉田と長江の両将は、鳴瀬川を挟んで新沼城の対岸にある蟻ヶ袋城に連行され、最上義光の使者野沢能登と対面し処分が決められた。 泉田は、大崎家臣小野田玄蕃(旧小野田町朝日山城主)に引き渡され、長江は許されて所領に帰ることができた。長江一人が、何故許されたかについて、「政宗記」には、世上では、長江が合戦時に空鉄砲を放ち、もともと大崎に内通していたのではないかと噂したと記されている。しかし、長江に対する処分の甘さは、長江氏が相馬氏と縁戚関係(長江播磨の妹が、相馬義胤に嫁いでいる)であり、伊達を共通の敵とする相馬氏への配慮があったものと考えるのが普通である。 新沼城の籠城衆は解放されたが、解放された家臣の身命と人質のお安否が、政宗の懸念するものであった。また、大崎領内に孤立した氏家弾正一派の身の上も懸念されることであった。
・1588年天正16年3月3日頃に、宮沢氏は、氏家弾正とともに大崎方を攻撃を仕掛け、敵に相当数の被害を与えた。
・1588年天正16年3月5日に、氏氏家弾正の使者と留守政景(雪斎)の使者が、政宗のもとに到着した。
・1588年天正16年3月6日には、小成田惣右衛門も大崎から立ち帰り、近況を政宗に報告している。
・1588年天正16年3月6日付けの政宗書状がある。恐らくは、遠藤氏に宛てたものと思われるが、新沼から出城した家臣に別条ないことを喜び、味方の者が結束して、大崎勢の新たな攻撃に備えるように励ますものであった。
・1588年天正16年3月7日に、政宗は、氏家筑前に書状を送り、一派の結束を促すし、氏家側も川熊修理を使者にたてた。
・1588年天正16年3月9日には、政宗が、安否が気がかりであった宮内因幡・小野雅楽丞・砂金又七郎が政宗のもとに帰り着いた。 氏家弾正一派は、弾正自身、義隆の嫡子庄三郎を人質にとり岩出山城に詰めており、弾正の父三河守隆継も名生城を占拠している状況であった。氏家一派に組みした武士は、氏家筑前兼継(本姓磯田、岩出山真山城磯田城主、弾正の叔父)、一栗兵部少輔(本姓氏家、岩出山池月鵙目もずめ城主)等である。その他に一族以外として、一迫刑部大輔(大崎一族、一迫真坂城主)、宮沢日向守貞通さだみち(栗駒岩ヶ崎城主)、川熊修理(古川川熊の領主)等が組している。この中で、三ノ迫の宮沢氏は、形の上では葛西旗下であったが、栗原郡の最大勢力でもあり、氏家一派の強力な味方でもあった。
・1588年天正16年3月中旬頃に、氏家弾正は、政宗に対して支援の継続を要請した。 政宗は、氏家の救援要請に基づき、氏家の後方から支援することにした。
・1588年天正16年3月下旬頃に、政宗は、最上氏と戦端を開き、最上勢を伊達との領境に引き付けて、最上勢による氏家攻撃を事実上不可能にする作戦にでる。
・1588年天正16年4月に至り、政宗は、氏家一派の増強を図るため、大崎家臣団の寝返りを画策する。 伊達氏に付けば「望みのまま所領を安堵する。南方(福島方面)への陣参を免除する。大崎の内政に口は出さない。必要とあらば金子を用立てる。氏家を見捨てず盛り立てる」という内容であった。
・1588年天正16年4月15日付け政宗書状が、長江播磨守宛に送られている。大崎家臣に親交のある長江氏を使って切り崩しを図ろうとする目論見で出された書状である。 この様な、伊達側の動きに対して、大崎・最上側も独自に家臣団再生の動きを見せた。 氏家一派の重鎮である三河守隆継と一栗兵部を大崎側に復帰させたことである。
・1588年天正18年4月21日付けの政宗書状が、氏家兼継に宛てた書状がある。その書状の中で「心替わり、言語道断」と怒りをあらわにしている。 この三河守等の大崎側復帰は、最上氏が背後でいて、最上義光が、家臣伊良子信濃守を氏家弾正の父三河守のもとに派遣し、大崎に復帰するよう口説き落としたとも言われている。
その内容とは、

かつて三河は大崎五郎の沙汰権を持っていたので、だれもが大崎首領を務めるは当然と思っている。この程、義隆を隠居させ嫡子庄三郎を家督とするので、庄三郎を補佐して大崎の再興を図ってくれないか

というものであった。 次に、一栗兵部の返忠(主君にそむくこと)であるが、一栗氏は本姓氏家で、兵部本人は義隆から重用された経歴の持ち主であったからである。 付け加えれば、一栗氏は、義隆が家督を相続した1567年永禄10年に、兵部(千増丸)に対して、一栗の領地を安堵する旨の証文をわざわざ出している。元来、大崎氏は慣例を重んじているにもかかわらず、家臣に改めた知行安堵の証文を出すことは、前代未聞であった。これは、この一栗氏に対する異例の処置は、義隆の思い入れが強い家臣であったことは間違いないと思う。
伊達と最上の敵対関係を憂慮していたのは、政宗の母お東であった。お東は、兄最上義光と和平講話を結ぶために、伊達と山形の領境である中山峠まで自ら興しを進めた。お東の要求は、泉田安芸と10余人の人質の返還であった。これにたいして、義光の言い訳は、伊達側が大崎に示した和議の証文(牛王宝印)には、大崎との和議は記してあるが、黒川のことは記載されてないと言うものであった。これでは、大崎側を説得できないとのことであった。そこで、妥協案として、今更仕方がないので、別の牛王宝印に黒川晴氏との和議を記載し、また、大崎・黒川両者との講話が完了した時点で、人質の返還をすると言うことで大崎側に折衝すると提案された。しかし、お東は、政宗が、黒川晴氏をかなり憎んでおり、簡単に許すわけがないと思い、中山峠からさらに興しを進め、直接兄義光と膝詰め談判に近い状態で折衝した。最上義光は、妹の熱意に押し切られ、泉田安芸と10余人の大崎側からの預かり人質を、大崎義隆に断りもなく返還することにした。
・1588年天正16年5月5日には、大崎合戦で辛苦を味わった新沼城主新沼甲斐が、伊達に出仕した。新沼氏は、本姓渋谷で、1412年応永19年に、鳴瀬川対岸の早川氏(伊賀城主)やその西の熊谷氏(蟻ヶ袋城主)、坂本氏(坂本城主)と親戚関係にあった人物である。
・1588年天正16年7月頃までに、伊達・最上の講和が行なわれているが、大崎側も独自の動きをしていた。それは、氏家弾正の父三河守隆継と一栗兵部の大崎復帰後、大崎側は、氏家弾正と大崎義隆との融和の執りなしに全力を注いだようである。
・1588年天正16年6月頃までには、大崎側の融和の執りなしが功を奏し、氏家弾正が折れ、大崎に出仕を許された。
・1588年天正16年7月2日付けの最上義光書状がある。
葛西晴信家臣勝間田右馬亮に宛てたと見られるもので、

今般 氏家一連の者どもが大崎に出仕し、これにまさる喜びはない。葛西側から、今後大崎に波風がたたず、氏家党類のも者が永くつつがなく忠功を抽んで、大崎に御奉公するよう諌めてくれないか

というもので「古川市史」
、最上義光が葛西晴信を中立の立場と思い込み、合戦終了直後に大崎内部調停の使者を滞在させた。ところが、葛西側は何ら動く気配すらなかったのである。
これは、政宗が、2月16日の書状を始め、3月中旬に大条越前守実頼・遠藤将監を遣わし、4月21日に再び大条越前を使者に立て、晴信との友好関係を維持していたからだと思われる。 氏家弾正は、大崎復帰にあたり、人質になっていた義隆の嫡子庄三郎を返すかわりに、義隆の重臣石川氏の娘を、弾正に差し出した。しかし、大崎復帰をゆるされたけれど、大崎家中での目は冷たく、義隆自身も口を聞こうともしなかった。義隆は、その後反省し関係修復をはかって、嫡子庄三郎を弾正に手渡しても、弾正は、容易に心を開こうとしなかったようである。
・1588年天正16年7月19日に、伊達と最上の講話がまとまった。
・1588年天正16年7月21日に、伊達側から人質受け取りの使者として、大条越前守と松田与惣左衛門が山形に出発した。
・1588年天正16年7月23日に、政宗は、泉田安芸の帰国を待ちきれず、途中まで出迎えて泉田安芸と対面した。
・1588年天正16年8月上旬には、大崎義隆が山形に赴き、最上義光と対談した。このことは、政宗に直ぐに報告された。
・1588年天正16年8月16日付けの政宗書状がある。氏家弾正にも、大崎義隆と最上義光が対談したことを知らせた。その内容が「高清水布月斎(高景)が伊達に出仕したいと言ってきているし、また義隆が山形に出かけたということも聞いている。大崎で何が起きているか。そうであれば、すぐさま助成の兵を出す」というものであった。 その後も、大崎内部で弾正切腹の謀議が図られたが、実行に移されなかった。このことに関して、最上義光は、その後、

そのような謀議があったことは知らないし、あるはずもない。もし事実だとしても、当方に無断で計画したことだ

と弁明している。しかし、この言葉とは裏腹に謀略は継続していた。
・1588年天正16年8月10日に、松山の遠藤出羽守と遠藤対馬守が、政宗のもとに訪れた際、大崎合戦で窪助一郎、摺沢右衛門、岡山城が忠節を尽くした事を報告した。岡山城は、現大郷町内羽生月館城主で、残りの二人も現大郷町内の武士達であろうと思われる。さらに、伊場野氏と不動堂氏が同伴してきており、大崎家臣であったが、合戦時に氏家一派として、伊達氏に忠節を尽くしていたからある。 伊場野城は、桑折城(三本木)の東方にあり、松山千石城よりも大崎領に食い込んだ位置にあり、伊場野城が戦略的重要な地点と思われていたとこでもあった。政宗は、この以後、活用したようである。
・1588年天正16年8月13日付けにで、政宗は、岡山城、窪助一郎、摺沢右衛門の3人に宛てた感状を書き、帰路の遠藤出羽に託した。
・1588年天正16年10月24日付けに、政宗が氏家弾正に書簡を送っている。

伊達が氏家一党を見捨てると最上側からの謀略があると聞いて驚いている。そのようなことは事実無根であるので、安心するように

との内容である。「古川市史」
・1588年天正16年11月に、鮎田大隅守が、氏家弾正を通じて伊達陣営に入った。
・1588年天正16年11月29日に、政宗書状が、鮎田氏宛に送られている。「弾正に条章を送るので、鮎田からもよろしく執成してくれまいか」というもので、鮎田氏が、弾正にかなり近い人物であったと思われる。
1589年 天正17年 ・1589年天正17年正月に、伊達政宗は、大崎出兵を決め、家臣に命じた。
・1589年天正17年正月には、原田月舟斎は、和議後許されたにもかかわらず、早々に参上もせず、御礼も申し出ないことに対して、大崎、黒川氏を何とかしようと考え始めたと言われている。
・1589年天正17年1月17日には、政宗は、氏家吉継に加勢する為に、御陣代(主君の代理として戦陣に赴いた役 。また、主君が幼少のとき、一族または老臣などで軍務や政務を統轄した者)に浜田伊豆景隆を大崎に遣わした。さらに、留守上野介政景、泉田安芸重光を両将とし、軍奉行に小山田筑前、御目付に小成田惣右衛門重長、山岸修理定康を命じた。
また、「政宗君記録引証いんしょう記」所収しょしゅう(作品などが、その本や全集に収められていること)の支倉紀伊守宛の政宗書状には、大崎領内が「取り乱れ」ている状況で、氏家方が我々に支援を頼んできたので、その合力のため今月16、7日頃に、兵を派遣するので、その支度をして待つようにとある。
伊達政宗が、大崎出兵にはこだわりがあった。大崎の事に関しては、主君の大崎義隆を氏家吉継は恨んでもなく、まして、家臣達にも過失がなかったにも関わらず、氏家吉継を切腹させようとする動きになっている。この様な状況で、氏家氏が二心なく頼ってきたことには、「侍道の筋目」として致し方ないとのことから、氏家に加勢することにしたということである。 政宗は、武士としての理不尽な扱いをされている氏家を助け、大崎領内の混乱を鎮めるついもりであったことは、言うまでもない。
しかし、出陣後大崎領の戦いは、伊達軍の戦略が後手に回り、中新田城から三本木周辺で、激しい戦闘に末、軍奉行の小山田筑前が戦死、伊達軍は敗走する戦況に陥った。 退却をしたが、追撃も激しく新沼城(大崎市三本木)に逃げ込み籠城を余儀なくされ、援軍を待つ状態になった。新沼城に立て籠った軍勢は、大将の一人である泉田安芸と長江月鑑斎が大崎に人質になることで城を脱出できた。伊達軍は、松山城、大松沢城(大郷町)、高城城(松島町)の城を捨てて宮城郡方面に退却したと、米沢にいた政宗に報告された。
これに対して、政宗は、仕方がないことであるけれど、多くの武将の命がたすかったので、「すえ(末)たのもしく候」と言われたと伝えられている。 大崎合戦の戦闘は、伊達側の敗北で幕を閉じた。 その後の戦後処理交渉において、負けた伊達側であったが、不思議なことに、大崎領近隣への影響力がなくなったわけもなく、伊達軍の援軍を求めた氏家氏が、直ぐに滅ぼされたわけもなかった。
この訳は、大崎氏の人質になった泉田安芸重光は、最上(山形)に移され、最上の人質になったことである。まさに、大崎氏は最上氏の陰の支援を受けていたのである。この様な状況では、戦後処理の焦点が呆けてしまい、複雑な絡み合いが生まれ講和が難航した。
・1589年天正17年2月の最上義光の書状には、氏家吉継が伊達の本拠である米沢へ上がったことが記されている。これは、大崎氏への奉公をやめ、完全に伊達氏の保護下に入った事を意味している。これについては、義光は、大崎氏の進退はこれで窮まりと嘆いたと伝えられている。 また、義光は、別書状にて「大崎之名蹟」は、今後続くも、あるいは滅却するも家臣の支えにかかっていると述べている。 これは、大崎家中で主君に並ぶ実力を誇った氏家氏が、伊達氏麾下になった事は、大崎家にとって存亡に関わる大打撃であったと言える。
・1589年天正17年3月初旬に、氏家吉継は、米沢から岩手沢城に帰ったようである。
・1589年天正17年4月頃には、伊達と氏家両氏の間で、大崎合戦の正式講和が結ばれた。
和議の内容は、次の様なことである。
一、 今後大崎氏は伊達氏の手勢同然で、伊達氏の指揮下の入ること。
一、 大崎氏は最上氏とは縁を切って、伊達氏と縁を結ぶこと。
一、 氏家一党に対して、この後も攻撃や妨害行為などしない。
(天正17年4月18日、中島伊勢宛政宗書状、伊達文書より)
これは、大崎氏が、伊達氏の軍事指揮下に置かれ、それまで同盟軍であった最上氏と縁を切ることになった。氏家一党に対しても、大崎領内でありながら手を出せなくなった。故に、伊達氏の全面勝利となったようである。 これに対して、最上義光は、政宗生母である妹に宛てた書状には、「氏家は切腹させる計略であったはずなのに、だまされた」のどと綴ったと言われている。まさに、伊達政宗の外交交渉と政治戦略が功を奏したようである。
・1589年天正17年5月には、最上義光が、書状の中で、氏家処遇について、大崎義隆にとって不満もあろうが、氏家を赦免するように義隆へ諫言かんげんしたので、そのうちに落着する見通しを述べている。 その後、「氏家一連之者共」が、大崎義隆の御前に出仕した。そのことを最上義光は、喜びに耐えなかったと伝えられている。これにより、氏家の大崎家中での処遇は、一応赦免されることになったようである。
また、この頃、最上と伊達の間にも講和が結ばれ、「無事相澄み」とあり、最上の人質となった泉田安芸重光が送還されることになった。 ・1589年天正17年6月には、伊達政宗は、蘆名氏を攻め、黒川城(会津)を占領した。 しかし、政宗は、大崎地方をあくまで倒そうと策略し、大崎方の内応者を集めていた。もちろん、湯山氏に内応の誘いの手が伸びていた。
・1589年天正17年7月に、泉田安芸重光は、伊達家に帰還した。この陰には、最上を実家とする政宗の母の尽力があったと言われている。
・1589年天正17年11月17日付けの「一栗之跡永代相違あるまじき」旨の安堵状を、湯山修理隆信は、与えられ、知行三十貫(300石)を賜った。
・1589年天正17年冬に、豊臣秀吉は、小田原北条氏討伐を決意した。
1590年 天正18年 ・1590年天正18年に、16代伊達輝宗より17代政宗18才に家督が嗣がれた。しかし、奥羽における群雄割拠の争いが激しく続いていた。 ・1590年天正18年には、奥州仕置きにより、黒川氏は改易となり、晴氏(月舟斎)は、政宗に大崎合戦の恨みで殺されかとおもわれたが、娘婿の留守政景に助命により留守氏預かりとなり庇護されたと言われる。
・1590年天正18年1月6日には、高清水布月斎(高景)が、年賀の為と称して、会津黒川城にいた政宗のもとに出仕した。 布月斎は、1588年天正16年8月に伊達に接近し、1588年11月に、北隣の宮野式部とともに伊達氏によしみを通じていたからである。
・1590年天正18年2月上旬には、遠藤出羽等が、大崎合戦の敗戦の意趣返しとして、大崎側(加美一党)との開戦に踏み出る。 しかし、この行動は、大崎の総責任者である留守政景(雪斎)に指示を受けたものでなく、単独行動であった。 政宗は、上方(京都・関東)の情勢が緊迫している状況であったので、積極的な軍事行動を避ける判断を下し、事態の鎮静化に切り替えた。
・1590年天正18年2月20日付けの政宗書状がある。大町宮内大輔に宛てたもので、その内容は、政宗が氏家一党の暴走を防ぎ、責任者の留守政景の命に従わせる為、一党に誓詞血判の提出を求め、小成田重見に取りまとめさせたことや、領境の遠藤出羽等に対して、遠藤文七郎を通して「雪斎によく相談してから事を進めるように」と因果を含めたことなどが記されていた。 しかし、遠藤出羽等の単独行動は、結果として、大崎方の蟻ヶ袋氏と坂本氏が、伊達陣営に加わることとなり、思わぬ手柄を伴った。
・1590年天正18年1月20日に、秀吉は、政宗をはじめ、東北の諸大名に書を送り、小田原参陣を促していたが、政宗は応じようとしなかった。
・1590年天正18年2月には、豊臣秀吉は、小田原北条氏直を征伐する為に出陣した。天下統一が間近に迫っていた。
・1590年天正18年3月13日に、政宗が、かねてより上方に派遣していた斎藤九郎兵衛が、秀吉の側近浅野長吉、木村清久よりの政宗宛の書状と木村清之、和久宗是、上郡山仲為の片倉小十郎、原田左馬介宛の書状を携えて帰ってきた。 何れの書状にも、小田原包囲中の秀吉に、急いで、参候さんこう(貴人のもとに行って機嫌をうかがう こと)して、配下になることを進めるものであった。 政宗は、京都との情報収集することには余念がなかったが、天下人秀吉に対する認識は甘かったようである。しかも、一方で、北条氏と気脈を通じていたこともあり、家臣の中には、秀吉と一戦を構える覚悟の武将がいたほどであった。しかし、政宗は、3月末に、小田原参陣に決断する。
・1590年天正18年4月に、伊達政宗は、会津黒川城を出発し、6月5日に小田原に到着した。
・1590年天正18年6月7日には、秀吉が遣わした前田利家、浅野長吉ら5人の詰問使から遅参の理由を問いただされ、秀吉の麾下の芦名氏を滅亡して会津黒川城入城したことや、同族の最上・相馬・大崎氏を攻撃したこと等を詰問された。 政宗は、遂一弁明をした。大崎氏については、境界争いから論争をしている。しかし、違法は違法として、仮借かしゃく(許すこと。見逃すこと。)なく追及された。
・1590年天正18年6月9日に、政宗は、陣中の普請場で秀吉に謁見した。
・1590年天正18年6月10日には、政宗は、会津、岩瀬、安積を没収され、安達郡の二本松、塩松と伊達氏の本領である信夫、伊達、刈田、柴田、伊具、亘理、名取、宮城、黒川の諸郡及び志田郡松山、桃生郡深谷、羽州置賜郡は安堵された。しかし、領地は半減してしまった。この処置は、僅か一日で決められたということになる。政宗は、この決定に異論を唱える力もなかったと言われている。秀吉は、小田原城開城を待たずに政宗を帰した。 二十四歳の政宗は、秀吉に畏怖の念を感じ、偉大な存在を実感したようであったと思われる。
・1590年天正18年6月14日には、政宗は、小田原を出発して、会津黒川城の接収役木村清之・浅野正勝と同道して、6月25日には会津黒川城に戻った。
・1590年天正18年7月13日には、政宗は、木村・浅野両氏に会津黒川城を明け渡し、再び米沢城に移った。
・1590年天正18年7月15日に、北条氏直の小田原城が落城した。
・1590年天正18年7月17日には、豊臣秀吉は、北条領をそのまま徳川家康に与え、南部氏に叛旗を翻した九戸征伐の為、奥州仕置総師に豊臣秀次を指名し、徳川家康、前田利家、上杉景勝、浅野長吉らを遣わした。秀吉は、自ら会津黒川城に赴いた。
・1590年天正18年8月9日には、秀吉は、会津黒川城について、小田原に参候しなかった奥羽諸将の処分をおこなった。 大崎氏は、15代大崎義隆、葛西氏17代葛西晴信、石川昭光、白河義親等は、共に領地没収の裁断が下った。 大崎氏は、義興の居城中新田城の将兵をはじめ、領内十数ヶ所の将兵は戦わずして潰滅した。義興も、また、城を棄てて最上に逃れた。 葛西晴信は、一戦を決意して佐沼城を本陣として、木村、蒲生の連合軍を迎え討ったが、あえなく破れてしまった。名門葛西氏は、これで亡んだと言われる。
しかし、葛西氏家臣達は、この時、他日の主家再興を期し、「サイカチ」の木を門前に植えたと伝えられている。 秀吉は、大崎・葛西の旧領の30万石を、直ぐに、木村伊勢守吉清と木村弥一右衛門の父子に与えた。また、政宗より没収した会津や仙道諸郡は、伊勢松坂の城主蒲生氏郷に与えられた。従って、伊達政宗は、米沢と伊達郡を中心の旧領に甘んじなければならなかった。
葛西氏と大崎氏は、小田原参陣をしなかったとうよりも、できなかったのが現状であった。何故ならば、中央情勢判断も難しく、領内不統一でもあり、参陣の意志があっても動きがとれないのは事実であったようである。しかし、戦国のならいでもあり、内部事情は全く認められなかった。
・1590年天正18年8月下旬には、木村吉清・蒲生氏郷は、政宗の案内で、大崎領の収封しゅうふうにあたった。加美郡城生を拠点に、大崎氏の居城や新田城を収め、古川城、岩手沢城をはじめ、百々城や大崎領内諸城を収めた。 木村吉清は、旧葛西領中心の登米城を拠点とし、子の木村清久を旧大崎領の要地古川城を配した。木村吉清は、もともと明智光秀の臣で、秀吉の妻「ねね」の血筋の者で秀吉に仕え、側近衆の一人であった。政宗は、早くから側近衆と連絡を取り合っていたので、木村吉清父子は、中央情勢などを伝えてもらったりしており、政宗も、また、これに報いていたとも言われている。 特に、政宗が、秀吉の麾下である芦名氏を滅ぼしたことに対して、秀吉の激怒をかったときも、秀吉の怒りを鎮める努力をしてもらうなどの関係あった。 木村吉清は、秀吉が小田原城を包囲していた時、その子清久は、170人程の小勢で出陣していたと言われている。 従って、大崎・葛西の旧領13郡を統括するだけの譜代の家臣がいない「俄大名」であったと言われている。
「成実記」によると、

木村伊勢守、大崎、葛西一二郡の所被レ致拝領候二付て、上方大名衆之家中共、伊勢守大名に被二罷成一候間、何れも知行を可レ取由存候て、暇を乞、或は迯隠とういん、伊勢へ致二奉行一侯。・・・大崎・葛西の本侍共押除、小人五人十人召連侯者に城を為持侯間、其者共も家中無之儘、中間小者あら子の様成者相抱侍に作・・・

とある。 木村氏は、天正18年8月末には、京都などで浪人をかき集め、急に家臣としてとり立てた、急ごしらえの家臣団を構成するほかになかった。
・1590年天正18年8月9日に、秀吉は、会津黒川城に入り、「奥州仕置」を断行した。
・1590年天正18年8月10日には、秀吉は、強硬な検地命令をだした。
・1590年天正18年8月12日には、奉行浅野長吉が、次のような指示を打ち出す。

この命令に反する者は、城主なら城に追い入れ、従者もろともなできりにする。百姓なら一郷二郷ことごとくなで切りにして強行せよ

という厳しい指示であった。
検地は、厳密な耕作地の調査を行い、その収穫量を明らかにし、耕作者を定めて検地帳に記入し、年貢納入の責務を負わせるものであると言われている。これは、農民の支配と貢物の確保を図ったとも言われている。 農民は、耕作権を認められるが、耕作地を荒らしたり、耕作地を捨て他へ移ることは決して許されるものではなかった。 また、古くから村に住みつき、農民に耕作地を耕作させていた土豪的地侍の存在を原則として認められなかった。その為、農民として村に残ることができず、村から去らねばならなかった。
検地は、豊臣秀次と宇喜多秀家が指揮を命ぜられ、浅野長吉が実施したと言われている。 刀狩りは、武士が農村に住んで農業を営むことが許されず、城下町に集住させられることになった。所謂、兵農分離が強行されたと言われている。 この様な強行手段は、農民や在地武士の不満を高め、さらには、大規模な一揆を生じる要因ともなることを予期することであった。これもは、大崎、葛西氏の様に所領没収された大名家臣とって、未曾有みぞう(今まで一度もなかったこと。きわめて珍しいこと)の厳しさでもあったに違いはない。
従って、秀吉は、伊達政宗と蒲生氏郷に、大崎葛西の新領主木村父子を援けるように命令を出している。 大崎、葛西の旧家臣にとって、検地と刀狩りは、所領没収にされた上のことでもあったので、非常に屈辱的であり、尚且つ、俄大名の木村父子の新領主は、未知の将であり、土地になれてはいなかったこともったことが不安材料であった。
さらに、木村氏は、一戦も交えず潰れた大崎領の武士を、軽視して召抱えもせず、上方より無頼に近い戦国武士などを家臣とした為に、最悪の非道を繰り返すような者を家臣とした。 この事に関しては、「成実記」や「貞山公治家記録」にも記載されている。
「成実記」によりと、

本侍、百姓の所へ押込、米を取、百姓下女下人、其上本侍の娘子を我女房にて掠取、汰沙の限

とある。 「貞山公治家記録」によると、

大崎左衛門督殿義隆、葛西左京大夫殿晴信旧家臣等、諸氏ノ住所を離レ兼ネ、士民ノ躰二成テ其所二窮処ス。時二木村殿父子、上方ヨリ召連ラレシ方々しゅう(多くのものを一所に集める)リ者ヲ数多所々ノ城主二申付ケ、中間小者等ヲ武士二作立ラレタリ。故二法儀ヲ不知者多シ。士民会フ二及バズ、大崎葛西ノ旧家臣等ノ所へモ押込ミ、年貢ヲ責取り、剰へ妻子下女下人等ヲモ奪取リ甚ダ無道ノ仕形ナリ。是レニ於テ旧臣等大二憤リヲ発シ・・・

とある。 いかに、木村父子家臣が、無軌道ぶりをしていたかが、うかがい取れるような内容である。
さらに、「木村吉清が、天正18年10月5日に、浅野長吉に送った書状」によると、

尚々、わき百姓はみわけ、悉たすけ申候、此允之儀可御安心候以上。
熊令啓上候。今度葛西・大崎之儀、被入会仰付故、有付候段、三々世々雖レ志奉レ存候。中々申もおろか成儀候。次米泉と申所、中新田より上道一里半許在レ之所へ、伝馬申付二遣申候処、古奉公人、地下、年寄出合、伝馬出間敷由候而、かくし置候刀三さし取出、けんくわにおよぼし申候間、郡人数指遣、右之いたずら者三十人あまりとらえ、中新田にて、はた者(はりつけ)にかけ申候。後日においても、かやうのいたずら者於之は、何時も可申付候間。御心安可思召候。爰元随分申付年内中罷上、御礼等可申上侯。恐惺きょうこう謹言 十月五日 吉清。

この文書からは、随所で、この様な事態が起きていることを物語っている。しかも、木村氏は、領主の心がけを忘れ、暴徒に対して力を以て押え付けている。この様な乱に於いては、地侍を遣して、その土地を治めることを知らないことは、大名の資質に欠けるものでと言える。
「貞山公治家記録」によれば、
・1590年天正18年10月に、旧葛西の胆沢郡横山で、最初の一揆が起こり、その付近を領地としていた木村吉清の家臣が、血祭りにあげられ、次に、気仙郡や磐井郡へ及んでいったと言われている。 また、これを聞いた古川城木村清久は、父吉清と急ぎ協議する為、父の居城登米城に駆け付けたところ、大崎地方にも一揆が起きた。
・1590年天正18年10月16日に、岩手沢に於いて、一揆が発生した。この発端は、岩手沢城主萩田三右衛門が、年貢米を領民から容赦なく責取り、未納者の妻子を牢に入れたことから、大崎旧家臣折野越中、八幡穪宣やわたねぎ三光、斎藤勘右衛門、別所昭□の5人が中心となり決起した。ころが、引き金になり、またたき間に領内全体に一揆が蜂起した。 一揆は、まず古川城に向かい、留守役の関大夫、大野総右衛門がいたが、一揆勢に追い込まれ、馬放道から城を逃げ出した者が数多くいた。一揆勢と戦う気概もなく城を捨てて上方に逃亡する有り様であったと言われている。 一揆勢は、古川城を手に入れると、ますます気勢をあげていったと言われる。 木村清久は、父吉清と協議を終え返る途中、清久一行は、佐沼で一揆勢に襲われ、急遽、駆け付けた吉清と共に、佐沼城に入ったが、一揆勢に城を囲まれてしまった。この時の佐沼城主は成合平右衛門であった。 また、この時、木村吉清と駆け付けた大崎氏旧家臣は、高清水隆景、真山式部、氏家総太郎、鵙目(もずめ)豊前、葛西氏旧家臣黒沢義任らが、木村吉清父子の指揮のもとで一揆勢と戦ったが、一揆勢を突き崩すこともできず、籠城をして援軍を待つ事態に陥った。 一揆勢は、登米城、古川城を占拠してしまい、木村父子では、鎮圧不可能となり、領国支配は一朝にして崩れてしまった。
・1590年天正18年10月23日に、浅野長吉が岩瀬郡の検地を終え、白河に戻ったところに、大崎葛西の一揆の報告を受けた。
長吉は、直ちに、伊達政宗と蒲生氏郷に援軍出兵を命じた。
・1590年天正18年10月末には、伊達政宗は、兵を率いて米沢城を出発した。一方、蒲生氏郷は、軍勢6000余人を率いて黒川城を出発した。
・1590年天正18年11月上旬に、雪の降る中を、宮城郡松森城に到着した。
・1590年天正18年11月14日に、政宗は、黒川郡下草城にて、蒲生氏郷と軍議を開いた。
軍議の内容は、天正18年11月16日には、作戦開始し、先ず、栗原郡高清水城を攻略し、ついで木村父子の籠城する佐沼城に向かうことあった。 伊達政宗は、志田・玉造地方の諸城を攻め、岩手沢城の一揆討伐には、片倉小十郎景綱にあたらせて、政宗は、志田郡師山城にはいった。 蒲生氏郷は、加美郡四釜城を陥れ、中新田城に進撃したが、一揆勢は戦わずして城を捨てて退散した為、難なく入城できた。
・1590年11月16日に、蒲生氏郷は、政宗に連絡もなしに玉造郡名生城を攻め落として、城を修築して籠城してしまった。 政宗は、栗原郡宮沢城を攻めるため、名生城の氏郷に連絡の使者をだしても、城内に入れずに押し返えされてしまう事態に陥った。 これは、政宗の家臣須田伯耆が、名生城の氏郷に、この度の大崎一揆は、政宗の扇動によるものと訴えた為である。この訴えは、政宗が、宮沢城攻撃において一揆勢と申し合わせし、形ばかりの攻撃で、一揆勢が逃げ去るまで待って城に乗り込むものということであった。氏郷は、政宗に疑惑は持ったものの証拠もなく、対策もなく、2~3日過ぎた後、氏郷の家臣が、夜中に伊達家中と称する二人の侍が、一揆勢宛の政宗自筆の密書を運ぶものを取り押さえ氏郷に差し出した。このことから、氏郷は、政宗を敵と断定し、名生城を出て高清水城や佐沼に向かう事を危険に感じて籠城に至ったと思われる。また、白河にいる浅野長吉を介して、豊臣秀吉に「政宗謀反」と報告し、自らは病と称して名生城を動かなかった。
一方、政宗は、志田郡松山城を拠点に、中田相模のいる中田城、師山弥三郎のいる師山城を陥れて、高清水城に向かった。高清水城主高泉長門隆景は、戦わずして軍門に下り、更には宮沢城攻撃に入った。城主岩崎讃岐義久は、三人の子と一族、家来との結束が固かったが、軍門に降り、城主親子四人が切腹して城内の兵を助けたいと政宗に連絡してきた。
政宗は、「貞山公治家記録」によると、

神妙ノ訴訟ナレバ、父子四人ヲ始メ籠城ノ者共ヲ助ケラレ

とある様になったと思われる。
・1590年天正18年11月24日には、政宗は、佐沼に進撃し、佐沼城を包囲していた一揆勢が、政宗の到来を聞き一戦もしないままに退散したといわれている。これにより、籠城一ヶ月余りで、木村吉清父子が無事に救出され、氏郷のいる名生城に送られた。
・1590年天正18年11月28日に、蒲生氏郷は、政宗の疑惑を解き、互いに誓詞を交わし和解した。 しかし、蒲生氏郷は、政宗に対する疑心を捨てきれず名生城を動こうとしなかった。その為に、浅野長吉のとりなしで、政宗の叔父留守政景と一族の伊達藤五郎成実の人質を要求されたが、二人とも大崎地方に出陣中であるとして、叔父の国分彦九郎盛重を人質に差し出したが、氏郷は承知せず、成実を人質に差し出すことで決着した。
1591年 天正19年 ・1591年天正19年1月9日に、浅野長政の再度の要求で、富沢直景の妻子を二本松の長政のもとに人質として差し出したとある。他の一迫氏や宮野氏も同様に、妻子の人質を伊達氏に差し出したとある。
・1591年天正19年正月に、政宗は上洛して秀吉に直接謁見し実績を申し上げたが、大崎・葛西の旧領は政宗の仕置きたるべきことを秀吉から仰せつかった。
・1591年天正19年2月には、秀吉の上洛命令をうけ、秀吉に疑いの弁明をすることで許されたが、その結果、政宗の所領は没収され、旧木村氏の所領である大崎・葛西旧領を領有することを命じられた。
・1591年天正19年5月20日には、伊達政宗は、米沢に帰国した。
・1591年天正19年5月に、政宗は帰国して、あらためて自己の領内として大崎・葛西の一揆の平定にあたった。
これにあたり、一揆平定の為の主な戦いは、宮崎城攻略であった。 宮崎城城主は、笠原民部で大崎旧家臣が守備していた。一方、大崎旧家臣でもある真山式部継重(玉造郡真山邑主)は、いち早く宮崎城攻略に参陣した。真山氏は、武士四十騎、足軽三百余人を率い政宗より早く宮崎城辺に着陣したと言われている。笠原民部は、降参することを申し入れたが、聞き入れられず、一揆の者は悉く斬殺され、城主及び同族の者は首数八十一、百三十人の耳鼻を京都へ差し出したと言われている。宮崎城は、大崎領内の第一の要害の地で、政宗も浜田伊豆をはじめ、多くの重臣を討死させた。次ぐに、佐沼城攻略に政宗は、軍勢を進めた。佐沼城は、昨年に木村伊勢守が退去したあとに、一揆勢の主だった者が城を修復普請し体制を整えて立て籠っていた。一揆勢は、ここを最後の拠点としていたと言われている。
佐沼城の攻略には、葛西旧臣の栗原郡富村の富左馬允というものが、野伏五十余人を率いて馳せ参じた。しかし、佐沼城大手櫓の前で鉄砲に当たり討死したという。左馬允は、一旦木村氏に仕えたが、その後背いて一揆勢に組みした。しかし、今回は政宗側に従って参陣したが討死してしまったという。
佐沼城攻略戦は、1591年天正19年6月28日よりはじまり、7月2日まで続いたいと伝えられている。 一揆勢の武士は、五百余人、その他百姓等二千余人が討ち取られたと伝えられている。 続いて、登米城の攻略へ向かったが、政宗の威を恐れて、多く退散し身命だけは助けられるように申し入れがあったが、政宗はあらためて後日命じるので、桃生郡深谷において待つように命じた。 一揆勢の者たちの多くは深谷に向かったと言われている。
・1591年天正19年6月11日に、伊達政宗は、新しい領地(大崎・葛西旧領)で蜂起している一揆を鎮定する為に米沢を出陣した。
・1591年天正19年6月には、政宗は、米沢を出発し、大崎地方から佐沼に向かい進撃した。その頃佐沼城では、大崎の遺臣石川彦九郎、一栗放牛、葛西の旧臣千葉左近等が指揮をとり、城に普請を加えた。
・1591年天正19年6月24日には、政宗は、宮崎城(加美郡加美町)を攻撃、激戦の末攻略した。
・1591年天正19年6月28日には、政宗は、佐沼城の西曲輪の西の砂子沢に陣をとり、佐沼城を包囲して攻撃を開始した。
・1591年天正19年7月2日には、政宗は、猛攻撃を加え佐沼城を攻略し、討ち取った武士五百人、百姓二千人及び「女童迄悉及撫切」と政宗自身が報告している。 この一揆の頑強な抵抗を政宗が徹底した掃討は、天下を震撼させた大一揆を衰退させた。
・1591年天正19年7月3日には、政宗は、一揆軍の最大拠点の佐沼城を陥落させた。 この戦いで、城中の武士五百人、百姓二千余人を討ち取ったと言われている。政宗も自らの書状に次の様な事を記している。

究竟(くきょう)(究極)之者共五百餘人打取、其外ニ千余剔(えぐ)(刃物などをつきさしぐるりと回してくり抜く)首、女童迄悉及撫切侯

とある。 この様に、「佐沼城の撫で切」で知られる大崎葛西一揆は、女子供に至るまでに斬り捨てられ、徹底的に掃討されたと言われる。 そして、この死者を埋葬した所は、現在も首壇として迫町北方に残されている。
この戦いには、次の様な人物もいたと「貞山公治家記録」に記されている。

葛西ノ□臣栗原郡富村ノ住人富左馬允ト云者、野伏五十餘人召連レ、御味方ニ相加ル所ニ、大手櫓ノ前ニ於テ鐡砲ニ中リテ死ス。左馬允ハ一旦木村殿ニ、其後相畔テ一揆ニ與シ、今度又、公へ従ヒタル乎、様子子不知、此外諸手働キ等ノ様子不

これは、かって葛西氏の家来であった栗原郡富村住人の富左馬允という人物が、政宗に味方して佐沼攻撃に参加し討死したと記されている。
・1591年天正19年8月に、関白秀次が奥州下向中の二本松で、政宗に一揆勢の様子を尋ねられ説明をしたと言われている。
その内容は、次の様なことである。

一揆共、城々多く相抱え、百姓等まで譜代のものであるから退治はむずかしい。幸いに一揆の者どもが詫言たげん(わびる)を申し出ているから身命評りは何とぞ相援けられるように存じ、深谷という所に引き寄せておいた。どのようにでも御指図次弟にしたい

と申し述べたと言われている。
しかし、秀次はそれに対して早々に誅殺するように命じたので、政宗もその指図に従って、泉田安芸重光に黒川の人数相添えて深谷に派遣した。それゆえ、一揆勢の武頭ぶかしら(武家時代、弓組・鉄砲組などを統率する長)三十余人を討ち果たし、首を秀次に差出した。この様にして、一揆勢は完全に抑えられてしまったと言われている。
・1591年天正19年9月23日に、伊達政宗は、大崎葛西の仕置きを終えている。政宗は、米沢から旧大崎領の岩手沢城に移り、その名を改めて岩出山と称した。

参考)この一揆の時期に関係したと思われる墓碑が残されている。沢辺の全慶寺に「慶性院清岳道行居士」と「大道院忠義道春居士」の墓碑で、前者は1591年天正19年2月20日に病気で没した小野寺肥前道行のもので、後者はその孫で道行の嫡子道重が、父より先に亡くなり、その妹の婿養子の道貞の墓碑である。
この両者の系譜は、登米町竜源寺に伝わる小野寺氏系譜があり、その系譜を参考に見てみると、小野寺肥前道行の祖は、小野寺伊賀守道景と称し、出羽の小野寺氏から分かれて、陸奥にはいり葛西晴信の賓客ひんきゃく(客人。また、大切な客人。)として代々寺池城主(登米市)であった。六代目の道茂のとき、葛西氏が石巻日和城から寺池城に移ったので、小野寺氏は一関城に移り、その子肥前道行が1590年天正18年に真坂氏と共に没落し、同年末に、三迫沢辺の臥牛城主となり伊達政宗に仕えたと記されている。小野寺氏の一関城在住は、父子二代の間に過ぎず、沢辺臥牛城主としては、四代の間住み、宝永15年2月に石越砂子館主として移るまで沢辺に在住している。石越砂子館には、1711年寛政11年まで住んでいる。「仙台領古城書立」の記載の「普賢堂城」城主小野寺弥四郎なども小野寺氏の一族と言われている。
1592年 文禄元年 ・1592年文禄元年正月には、豊臣秀吉の征韓の命を受け、奥州所領の政治は家臣に委ねて、約一千の兵を率いて京都に上った。 ・1592年文禄元年4月には、伊達政宗は、九州名護屋に着陣をした。
・1592年文禄2年3月に、伊達政宗は、朝鮮に渡航した。
・1592年文禄2年9月には、政宗は、朝鮮から戻り岩出山に帰国した。 葛西大崎一揆について、栗原郡の大崎家臣達は、一揆に加担せず政宗に従ったようで、一迫刑部(真板)五百石、宮野豊後(宮野)六百石で政宗に仕官したと言われている。 花山村巳の口館主狩野兵庫為直は没してしるが、嫡子狩野清蔵は、滝野遠藤の家臣として仕官したようで、10代甚右為久より代々草木沢鶴巻に居住し、その後、遠藤氏の家老職を務めて明治維新まで続いたと伝えられている。

)鎌倉時代より明治維新まで、西の鬼首以東、現在の畑岡までの一迫川流域を一迫郷と称されていた。 栗原郡西部を支配していたのは、狩野氏と言われている。
1593年 文禄2年 ・1593年文禄2年9月に帰朝し、秀吉より伏見にていを賜ったと言われている。
1594年 文禄3年 ・1594年文禄3年には、「木綿の種子が明より得て大和に植えた」と記録に残されえおり、やがて日本にも綿が栽培されるようになったと言われている。
1598年 慶長3年 ・1598年慶長3年には、志波姫近隣において、若柳が「若柳村と称す」と言われ、迫川の舟運が開かれた。
・1598年慶長3年に、豊臣秀吉が没している。
1600年 慶長5年 ・1600年慶長5年に、関ヶ原合戦が起こり、徳川家康が大阪方の石田三成等を破り、天下を掌握した。
・1600年慶長5年に、高泉布月斎は、関ヶ原の戦いまで浪人の身分で武具等も所持仕るまじくとの御意にて武具も無かった。 白石御陣の際、輝宗様着用の古い御具足と指小旗を拝領し二百石の格下で御供したとの事である。
・1600年慶長5年には、関ヶ原の戦いが起こり、政宗は白石城を攻撃したころである。
・1600年慶長5年7月に、伊達政宗が、上杉方の白石城を攻略した際、城中に大崎三次、葛西長三郎と共に、富沢吉内という人物がいて、葛西長三郎と同じく二千石の高禄で召し抱えられたと記されている。この富沢吉内については、石川昭光、片倉小十郎の「召出す」という起請文にも名が記されている。しかし、家康の側近である村越茂助宛ての政宗の報告書には、葛西長三郎、富沢日向の名は記されてない。
・1600年慶長5年12月には、家康より、仙台青葉山に築城を許された。
1603年 慶長8年 ・1603年慶長8年には、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた。
1606年 慶長10年 ・1606年慶長10年には、亘理重宗の子定宗の代に、伊達姓が許されたと伝えられる。
1624年 寛永元年 ・1624年寛永元年5月11日に、高泉入道布月斎は没した。墓は、栗駒市築館町玉沢にある。恐らくは、二百貫文を与えられた領地内に墓があるものと思われる。 高泉入道布月斎には、娘がひとりいて、津田豊前の二男を養子にむかえ義山公(伊達家四代綱村)に仕えてえた。
1629年 寛永5年 ・1629年寛永5年には、高泉氏は、義山公(伊達家四代綱村)より、登米郡黒沼の所に所領を拝領されたと言われている。さらに、義山公が藩主になると四十貫文加増の六百石にされ、津田豊前の知行より百三十四余石も分け与えられた。
1631年 寛永7年 ・1631年寛永7年には、高泉氏は、義山公(伊達家四代綱村)より、栗原郡永井村と栗原郡南方に野谷地を与えられ、開墾に専念した。 寛永末年頃(1645年頃までに)には、二千七百石になっていたと伝えられる。この頃は、新田開発が勧奨された頃で、仙台藩内では盛んに開墾が行われていた。


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