郷土歴史倶楽部(伊達一族)

寛文事件(伊達騒動)について
伊達綱村の概略1

仙台藩四代藩主綱村は、肯山公治家記録によると、1660年(万治三年八月二十五日)~1703年(元禄十六年八月二十五日)までの治世で、その期間43年に及んでいた。
万治年間~寛文年間の十三年間は、補佐役政治の時代で、本格的の政治に携わる時代は延宝年間の半ば以後である。又、綱村は、隠居後麻布屋敷に移り、学問や芸術の研究に精進 したが、藩政に対しても隠然たる勢力を保持していた。1719年(享保四年八月二十五日)に、61歳で病没、法名を肯山全堤大年寺殿と号し、仙台の黄檗(おうばく)宗両足山大年寺に葬られた。
(注1)伊達家の墓所としては経ヶ峯(瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、妙雲界廟)が有名ですが、四代綱村以降(九代宗周、十一代斉義夫妻を除く)の歴代藩主の墓はこの大年寺跡ある。
 室町時代の応永年間(1392~1428年)、この地には粟野大膳大夫の居城である茂ヶ崎城(もがさきじょう)があったところで、四代藩主綱村の治世になってから元禄九年(1696年)、茂ヶ崎の地を綱村の寺院造営の縄張で、 鍬入を行い、翌元禄十年に黄檗宗両足山大年寺として開基された。以後、歴代藩主の墓所と定められ、宝華林廟、無尽灯廟(ともに非公開)がそれぞれ墓所となっている。
伊達綱村像 黄檗(おうばく)宗両足山大年寺
伊達綱村像 黄檗宗両足山大年寺





寛文事件(伊達騒動)について
伊達綱村の概略2

政岡の墓所 孝勝寺山門
孝勝寺
原田甲斐首塚 原田氏菩提寺山門(東陽寺)
原田甲斐首塚 原田氏菩提寺山門(東陽寺)
柴田外記居城跡 古内志摩の墓
柴田外記居城跡 古内志摩の墓





寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯1

○1660年万治三年八月二十五日に、二歳の亀千代の家督相続、綱宗の隠退、伊達兵部大輔宗勝と田村右京宗良の後見とし、両人への各三万石の分地が将軍の台命(たいめい)として正式に申し渡された。
申し渡しは、老中酒井忠清の屋敷で、立花忠成、伊達宗勝、太田摂津守資世(伊達親族代表)、大条兵庫宗頼、片倉小十郎景長、茂庭周防宗元の三奉行が呼び出され、将軍補佐の会津中将保科正之、老中の厩橋少将酒井忠清、 忍侍従阿部忠秋、小田原侍従稲葉正則が列座した上で申し渡された。
申し渡し状とは「今度一門家老ノ輩言上ノ趣、台聴ニ達シ、公御家督相続、父君ハ隠居命セラレル趣仰出サレ、伊達兵部大輔(宗勝)殿、田村右京(宗良)殿、後見ニ命セラル、御領地ノ中、各三万石分地命セラル」と云うことが 命じられた。
○1660年万治三年八月二十六日には、三代伊達綱宗は品川屋敷に隠居し、八月二十九日には、仙台目付衆の津田半左衛門、拓殖平右衛門が御墨印を持参し、伊達綱村は表の間で頂戴した。
ここで疑問に残るのは、何故、幼少二歳の綱村が家督相続を命じられたか、全く統治能力がない赤児に六十二万石の大藩を支配させる異例の処置をしたのかである。
そもそも、亀千代を家督に推挙にあたり、藩内で様々な議論があり、結局のところ、一門衆と奉行の協議で決定されたことを、藩全体の一致として推挙した形となったからでもあった。
     厳有院(徳川家綱)殿御実記巻ニ十巻によると、
「万治三年七月八日に松平陸奥守綱宗十八歳になるが、平生多病にて、公につとめに堪えざれば隠退せしめ、二歳の児亀千代に家国つかしめ給はらんよし、 一族の可等一同して、近縁立花飛騨守忠成、一族の伊達兵部少輔宗勝のもとへ訴訟とささぐ、以て老臣へうったへ、上聴におよびしか、綱宗頃日酒色にふけり、家士等が諌めを聞き入れざるよし紛なければ、逼塞せしむべし、 その旨仰出さる」とあつた。さらに、同年八月二十五日の条に酒井忠清殿における会合のことが記されており「綱宗が事は家長(片倉小十郎景長か)等申し所のごとくならば、隠退しいより上籠居してあるべきなり、亀千代二歳の幼稚といえども長子たるうえは、 原封六十二万石ことごとくつかしめらぬ」と述べられている。
綱村の家督相続は、このことから、奉行らの推挙により成立していることがわかる。さらに、幕府は、万全の期する為に後見役を任命し、又、目付役として旗本衆から二名の仙台目付を任命している。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯2

○1660年万治三年八月二十九日には、仙台目付は、将軍の墨印の統治の心得としての箇条書きを、江戸屋敷の綱村のもとに持参し与えた。さらに、仙台に下向して、仙台城中で同じ墨印を家臣一同に披露し、趣旨を説明した。この趣旨説明してから、目付は仙台に逗留し、領内の統治を監視に入った。幕府は、 これにより、仙台藩を管理下に置きすべての行政処置は、老中の許可と推挙が必要となり、江戸城内に仙台藩単体の申次役が任命された。仙台藩と老中との連絡係として、旗本衆から選任され、初めは一名であったが、次第に二名~三名体制と増員された。
幕府は政宗、忠宗の勲功もあり、仙台藩を取り潰す政策を取らず、幕府の管理下に置き、いつでも取り潰せる状態にした。
仙台目付衆の津田半左衛門、拓殖平右衛門が御墨印を持参し、伊達綱村は江戸屋敷の表の間で頂戴した。 仙台目付の持参した墨印の五カ条の覚書とは、下記の如くである。
①領内の仕置きは、前々の如く、町人百姓困窮せざるように仕置きせよ。
②他領へは、如何なることがあっても、下知無くして勝手に出向してはならない。
③家中の縁組は、必ず許可を受けること。
④キリシタン宗門の制禁は、堅く申しつける。
⑤領内の仕置きは、伊達兵部、田村右京の後見人の指図により家老が仕置きこと、決定しかねることは、立花飛騨守に伺い立て、事においては幕府に言上すること。
この様に、指示命令系統は、老中⇒立花飛騨守⇒両後見人⇒家老(奉行)と指定された。
(注2)仙台藩の各役目の出所は、次ぎの通りである。

○最高責任者の立花飛騨守は、忠宗の長女鍋姫の夫で、立花忠成49歳
○後見人の伊達宗勝は、政宗の十男で最後の残された政宗の子であり、39歳
○後見人の田村宗良は、綱宗の庶兄で陽徳院夫人(政宗正室愛姫)の希望で、田村氏を継いだ人物24歳。(田村氏は旧田村郡三春城主で、坂上田村麻呂の後裔を称している名族)
後見人は、勢力の均衡を図る為に、連技一門と大名一門から選出した老中の苦肉の策であった。 が、実際には、宗勝の独走を許す羽目に陥いった。宗勝は宗良とは、叔父-甥の間で、宗良は宗勝に頭が上がらぬ事が独走を許してしまった。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯3

○1660年万治三年八月二十九日には、公儀使遊佐九郎右衛門景成が評定所に招かれ、老中、寺社奉行列座の席で稲葉美濃守正則 から五カ条の条目覚を授かる。
その内容は、一昨年より昨年までの酒造の量を累年の半分とのお触れ(おふれ)が、今年も引き続き励行する旨の命令であった。又、それに関連して、米作損耗に対する農民の保護を指示したものであった。
お触れとは、「当年打続雨降洪水ニ付、耕作損毛之之」あり「酒造之儀 京都 大阪 奈良 堺 名酒之所々  其外 諸国在々所々、四年以前迄造来、員数其所々給、人御代官ヨリ念入改之、共半分ツクラセ可中、 勿論新規之酒屋一切可命停止之」であった。
○1660年万治三年九月二日に、仙台目付津田平左衛門と拓殖平右衛門が江戸を出発し、九月十一日に仙台に到着した。この時「一門、連枝方及奉行衆以下町奉行ニ至テ 河原町マデ出迎」、九月十ニ日に「一門、一家、一族ノ輩 両目付衆へ招カレ」、「為仙台目付 津田平左衛門、拓殖平右衛門 指遺侯、存其旨可被申談侯者也謹言」という老中の連署を、大条兵庫、片倉小十郎、茂庭周防、奥山大学、古内主膳宛ての御墨印奉書の趣 を目付より説明された。又、この後の毎年の目付衆の交替下向には、同様の御墨印奉書が下附(かふ)された。
○1660年万治三年十一月一日に、橋元善右衛門高信が懐守(幼君の養育係)を命ぜられた。他に、大松沢甚右衛門、日野仲右衛門、冨沢ニ左衛門の三人も懐守に 任ぜられた。

仙台城隅櫓 仙台城本丸址(本丸址から中心市街)
仙台城隅櫓 仙台城本丸址(本丸から市内中心街)




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯4

○1660年万治三年十ニ月一日に、伊達宗勝・田村宗良より九ヶ条の条目(じょうもく)がだされた。
一、分領中の収入支出は、出入司らが相談し滞ることがないように申しつけること。
一、諸侍・諸役人の任命は、出入司の見当を以て任命してもよいが、困難な問題は老中(家老)之承合すること。
一、給人、郡奉行、代官の非分は、たとえ相手が御一家の衆であっても調査して上申すること。
一、郡奉行、代官、諸役人は、百姓から礼銭を取ってはならないこと。
一、役人の知行役は、老中(家老)へ相談して免許すること、但し、臨時の褒美は金三両までは専決してよい。
一、留物の国境目出入は従来通り堅く禁止するが、品物によっては、奉行の吟味で処置してよい事。 一、野谷地、新田を希望する者には、ニ十町迄は専決、それ以上は、老中(家老)の許可を受けること。
一、諸役人の算用は、油断なく勘定衆に見届けさせること。
一、その他、存じ及んでいることは、万事老中(家老)へ相談して決定し、独断専行してはならないこと。
との九ヶ条の条目であった。
(注)条目の老中とは、家老のことであり、出入司は、上役たる奉行のことである。
これは、後見政治の最初の条目であり、奉行を中心に政治を進め独断専行をせず、些細な事まで奉行と相談して政治を行う精神である。 これは、忠宗時代の政治方針が継承されたことを意味し、法規先例を尊び、諸役人の勤務の粛正を求めるなどがそうであり、新田開発は、 忠宗時代の政策そのものである。綱宗時代の放漫政治と新路線の萌芽を剪除したこに決別し、忠宗時代の法治主義、粛正政治に帰ることが、 後見政治の当面の目標であった。
大年寺山(八木山方面より) 宮沢橋(大年寺山麓)より仙台駅方面
大年寺山(八木山方面より) 宮沢橋(大年寺山麓)より仙台駅方面




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯5

○1660年万治三年十ニ月ニ十五日には、家督相続の御礼として、公方(将軍)へ太刀基近、綿五百把、白銀五百枚を献上の為、原田宗輔、伊達宗勝、田村宗良が 使者として、公方に拝謁し、片倉小十郎、茂庭周防、原田甲斐の三奉行も、銀、馬代を献じ、独礼伏謁(どくれいふくえつ)した。
(注)拝謁とは、公方(身分の高い人)に面会することをへりくだっていうことである。独礼伏謁とは、謁見する際、ひとりひれ伏して進み出て、公方(将軍)に目通りすること。
○1660年万治三年十ニ月ニ十五日に、柴田内蔵祐朝親(しばたうちくらともちか)と冨塚内蔵允重信(とみずかうちくらいんしげのぶ)が奉行職に任じられ、両人に三百貫文に加増され、立花忠成と相談し、老中酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)に告達(こくたつ)して発令された。
○1661年寛政元年一月には、綱村三歳、江戸屋敷で祝儀が行われ、一月三日の嘉例(めでたい先例)の野始は、茂箇崎山(大年寺山)で行われ、獲物は雉五十八羽、内ニ十羽は江戸に送られた。
○1661年寛政元年一月二十八日には、両後見人より十三条の条目が奉行衆に出された。
一、仕置は前々通り申し付け」、各々月番をして、御用をして遅滞させてはなない。
一、家中の跡職は相違なく立てこと、但し、親の奉行振りや子の行跡により、半分又は三分の一を立て、末期の遺言は立ててはならぬこと。
一、幼少で番が出来ない者、老人で奉公の罷成らない者は、知行役は三分の一、役人に任じた時病人と申し立て、前々に届け出していない者は、知行全部召し上げること。
一、知行役は、その年度中に皆済ませること。
一、新田は滞る所なければ相渡すこと、切米扶持方の加増は五両七人扶持迄は奉行の専決とし、それ以外は相談すること。
一、当座の合力、褒美金は専決してよい。
一、組衆のことは、組組頭の申次で聞届けること。
一、他国へ女房を旅行させることは厳禁、どうしても必要な時は御印判を出すこと。
一、法度に背く者は、侍衆であっても、遠慮なく曲事(不正な行為、道理に合わない事柄)に仰せつけるべきこと。
一、十五歳より六十五歳までの内病人で奉公不成者は、御番免許、知行取は半役、切米扶持方(軽輩の士に与えられる俸禄・金銭の取り扱い部署)は小知行下され、新田所を遣すこと。




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寛文事件経緯6

一、乗物免許は一家一族衆、老中(奉行)、評定衆、番頭、出入司、小姓頭、町奉行、医陰両道の者は、断りなく使用してよい、次ぎに知行七十貫以上、五十歳を超えた者は、横目衆交えて 奉行に伺い立て使用すること。
一、右の外何事でも指当ってのことは、万事吟味を遂げて申し付けることになっている。
との十三ヶ条の条目であった。
以上のことで、家中の勤務を粛正する方針が、具体的指示され、奉行の専決領域がいよいよ縮小され、後見人が積極的に藩を統制し、奉行の施政に干渉することができるようになった。
○1661年寛文元年ニ月八日には、老中酒井忠清の前で、連枝方一門衆が神文(しんもん)血判をした。
(注)神文とは、宣誓・契約などの際に、嘘・偽りのないことを神仏に誓って血判した証文)
起請文(きしょうもん)の前文には、幼少亀千代に相違なく下置された御恩を感謝し、「然者亀千代為ヲ大切存、家老之者万事申合守立連々可申開事」として「一戸恐奉対、公・・毛頭長裏別心・・ 」を条書して誓約した。
(注)起請文(きしょうもん)とは、神仏に呼びかけて、もし自己の言が偽りならば神仏の罰を受くべきことを誓約することを記した文書
その後、後見政治が進むにつれ、両後見人の伊達兵部宗勝、田村右京亮宗良が、仙台藩の外交・支配権限を脅かす状況に、国詰奉行の奥山大学が立花飛騨守忠成(柳河藩主:伊達家親族大名) に言上したことが、寛文事件の一つの要因とも思われる事態が起きた。
○1662年寛文ニ年十一月十六日に、田村右京亮より国詰奉行奥山大学に覚書を授けられた。これは、去る十二日に酒井忠清朝臣弟に奥山大学が召され、右京亮同席にて六箇条を言上の通り仰せ渡されたものを覚書として、右京亮より奥山常辰に渡した六箇条覚書 である。
(注)朝臣(あそん)とは、官位を意味し、弟(だい)とは、立派な屋敷、邸宅を意味する。
◎六箇条覚書とは、
一、制札は幾里志丹札以外は亀千代様より立てること。
制札とは、禁止の事項や布告などを書いて、路傍や辻に立てる掲示のことを言う。




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寛文事件経緯7

ニ、夫伝馬(ぶてんま)並に宿送(しゅくおくり)りは、前々の如く亀千代様が自由たすること。
夫伝馬とは、年貢などの物資運送のために課した夫役(ぶやく)と伝馬役のこと、宿送りとは、宿駅から宿駅へと順に送る事を言う。
三、大鷹は全て亀千代様の鳥屋に納め、その外鷹は自由に処置してよい。
四、初鳥、初肴の公方様への進上は、亀千代様が進上し、両人の分も亀千代様に進上し、亀千代様を通して進上する、亀千代様からの進上が終わってからは自由にしてよい事。
五、他国への人返しは亀千代様に仰せ付けられるべきこと、つまり、住民の支配権は分知領内の住民も本領にあることを明確にしたもの。
六、境目の留物の通過は、前々通り亀千代様の通判によること。
この六箇条が言上されたことは、伊達兵部宗勝と田村右京亮宗良が万治三年八月に、亀千代後見人に任じられた時、幕府が仙台藩62万石の内三万石を両人に分与し、将軍直参の大名として 取り立てたが、両家は独立大名として権限を知行地内に執行する態度をとった為に、仙台藩内で権限と外交の支配で問題視され、国詰奉行奥山大学らが藩の最高顧問の立花飛騨守忠成と相談して策定された ものである。
伊達兵部宗勝の所領は、磐井郡一関、田村右京宗良の所領は名取郡岩沼で、寛政元年五月に立花飛騨守より両人所領の絵図を老中に堤出し許可を受けた。
両人の所領は、仙台藩62万石の石高に含まれており、兵部、右京の両家は形式的な直参大名であった。しかし、実質的には、依然として伊達家の家臣の位置付けであったが、両後見人は、独立大名として権限と知行地内に権限を執行しようとしていた。
しかし、仙台藩としては、飽くまで知行の62万石で6万石分は本藩より一関・岩沼に分藩されただけで、外交支配の権限は、仙台藩の専権事項であるとの見解であったので、奥山大学(国詰奉行)が、立花飛騨守 忠成に言上し、立花飛騨守が幕府老中に案を伝達した結果、老中酒井忠清が覚書を出すことになった。
この結果、奥山大学が藩最高顧問の立花飛騨守忠成と結んで意図することに成功したが、藩内には、様々な問題や対立・亀裂を生じさせる原因となった。
○1663年寛文三年七月ニ十六日には、奥山大学常辰が奉行職を免せられた。
これは何故かと言うと、二月十日に、目付役里見十左衛門重勝が、「奥山大学悪事之箇条」なる弾劾書を後見人伊達兵部に堤出したことから始まる。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯8

その弾劾書によると、奥山大学は、弟遠山勘解由を評定役、永江主計を番頭に任じて党派を組み、領内第一の土地吉岡で所領一か所を拝領、平常白小袖を着用し、屋敷に鷹百匹を飼い、振廻りに結構を尽くし、乱酒・乱米し、宮城郡愛子村の松木で霊屋御用の際でも伐採しなかった御松木を自分の作事 の為に、五百本を伐採、名取郡でも御印判なしに松木を伐採したり、藩の上米ニ千石を石巻で請取り、藩の運賃で江戸に廻送して利益を収めた。その他、奢侈驕慢(度が過ぎた贅沢、おごり高ぶり人を見下し、勝手な事をする)の振る舞いが多く、藩政を私物化した行動を指弾している。
両後見人としても、先の知行地制札問題で、立花飛騨守忠成、奥山大学らに手痛い反撃を受け権威失墜したので、奥山大学の横暴には手を焼いてところに、藩内から奥山大学の弾劾の声に、渡りに舟とこれを取り上げ、罷免の奉命(ほうめい:貴い方から命令をうけたまわること)を断行した。
これにより、奥山大学は悪人のレッテルを貼られ藩政の表面から失脚し、奉行専制の体制が崩壊した。
奥山大学の失脚の背後には、伊達弾正、安芸、安房、左兵衛らの一門衆、原田甲斐、富塚内蔵丞、茂庭大蔵、中馬伊勢らの評定役等の中堅重臣が荷担したと思われる。
その後、一門衆、評定役、旧茂庭定元一派の支援を受けて後見政治の復活と伊達兵部専制政治体制となった。
○1666年寛文六年五月には、古川冶大夫が奉行職に任じられ、名を義如と改め、後に志摩と称した。
○1666年寛文六年に、奉行富塚内蔵重信が老衰となり、叙任を請い辞職が認められた。重信は、古武士の風格を所持し、忠宗時代の士気引締めからすると最も相応しい存在であった人物、辞職後は、奉行の最上席に原田甲斐が就くことになった。 原田甲斐は、普請、法事などに活躍し、世俗的交渉もできうまく、行政手腕に富んだ当世風の官僚的人物であったようで、藩政には事無かれ主義的に円滑に運営しようとしていたと思われる。
この様に、原田甲斐自身後見役との協調を図ることにより、奉行自身後見人の云う成りに動かざるを得ないようになった。伊達兵部の専横体制が確立された時期上でもあった。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯9

○1666年寛文六年に、大きな事件が起きた。それは、河野道円父子の斬首事件である。
「此年河野法橋道円有罪、父子斬首、道円妻及娘ハ茂庭主水ニ預ラル、奥方女中鳥羽ハ大条玄蕃茂頼ニ預ケラル、三沢頼母秀三道円婿ナルニ依テ妻子共ニ仙台へ差下サル」とある。 俗説的には、道円は亀千代の毒殺を兵部宗勝に依頼され食事に置毒したが失敗に終わり、その為隠密裡に処刑されたものと考えられている。
俗説的には、道円は亀千代の毒殺を兵部宗勝に依頼され食事に置毒したが失敗に終わり、その為隠密裡に処刑されたものと考えられている。
一方、道円の処刑は幼君の大奥での舟を出し酒宴を張る様な乱脈な振る舞いがあり、それに大奥の医者である道円も参加し、むしろ主謀者の立場にあったことから責任を問われたと言うよりも、いわば責任を一身に負わされる形で処刑された と理解されていることが、主流の見解である。関係者の中で淨眼院(三沢初子)の弟秀三も存在した為、表沙汰を憚り、内密に処分されたと思われる。
何故にこの様な処分がなされたのかは、先代(三代)綱宗が酒乱遊興の為に逼塞(ひっそく:門を閉ざし、昼間の出入りを許されない)させられ、藩自身が半ば禁治産の状態におかれことを思えば、この遊興事件は後見政治として最も警戒しなければならない悪質な犯罪であった。その為に、兵部宗勝は内密に処置したことは 、果断の処置と言って過言ではない。
○1668年寛文八年四月二十八日には、国許において、伊東七十郎、伊東采女らが罪科に処せられた。七十郎の「不義二就」て、七十郎及び甥伊東采女又親戚等が罪科に処せられた。
この事件は、仙台目付が仙台下向の際、四月ニ十ニ日の饗応賜盃の席順に対する不満が事態を引き起こした。賜盃の席順は従来の格式から家老、評定役、着座の輩、大番頭、出入司、小姓頭、目付役と言うものであった。が、しかし、四月ニ十ニ日の賜盃は、役職者を先に出すことで、原田甲斐、柴田外記の相談より決定した為、着座の古内源太郎、伊東采女 は無役であったため、目付役の後に賜盃を受けることになった。その為、伊東采女らは、席順を下げられたとに憤慨し、その言動が過激にわたった為、お上を軽んじる言動ととして処分されたものである。
以前より、後見政治の専制が御家の危機をまねくと懸念していた古内、伊東一派の根強い反発感情を察知せずに、軽率に判断した伊達兵部らの藩内の立場を決定的に不利に至らしめた。 この事件により、伊達兵部らの伝統無視、旧功績の軽視の態度は、藩内の全てを敵に廻す結果となった。
(注)1668年寛文八年七月ニ十ニ日に、仙台地方に大地震があり、仙台城の石垣が崩壊した。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯10

○1669年寛文九年六月六日には、登米邑主(ゆうしゅ)一門の伊達式部宗倫(むねとも)と涌谷邑主一門の伊達安芸宗重との間で争っていた遠田郡ニ郷村谷地の帰属問題がけりがついた。
この問題は、伊達兵部、田村右京の両後見人の裁断で「式部殿へ三ヶニ、安芸殿へ三ヶ一付ヲル旨、奉行衆奉命」とした。
この裁定には、遠田郡を本拠としていた伊達安芸にとって極めて不満を残すものであったが、幼君統合時代と言う事情を考慮して承認した。が、しかし、このニ郷谷地帰属問題は、伊達安芸が後見政治の不正と伊達兵部弾劾を幕府に上訴するに至った。まさに、寛文事件の直接的原因であった。
このニ郷谷地は、鳴瀬川下流の広大な遊水地帯ー湿谷地は新田開発の進展に伴い、開発適地として急速に注目された所であった。
ニ郷谷地帰属問題の裁定が下されたが、実際の野地分検査に当たり、検使役にあたった人物は、小姓頭浜田市郎兵衛、志賀右衛門、目付役今村善大夫、横山弥次右衛門等で、その割り方が偏頗(へんば:かたよって不公平)であることが証拠ことして明らかである為、安芸は上訴に踏み切った経緯 である。
○1669年寛文九年六月九日には、仙台において長沼玄叔(医者)、石田将監常員、長沼善兵衛常信が各罪科に処せられた。
長沼玄叔の実父母養女は連座により死罪が行われたが、玄叔は身命を助置され蟄居を命ぜられたが、切腹仰付けられる。これは、玄叔がお上をなえがしろにし、城下外に蟄居を命じられたにも係わらず、江戸まで登り主君に御目見し、盃まで頂戴するに至ったのは、法の威信を損ね、それを承知して取り計らった者もいた。 幼君の統治下の仙台藩の綱紀を著しく乱したと考えられ、取り計らった石田将監は進退召し上げ、御目見を取り計らった長沼善兵衛も同様処罰をうけた。
この事態も、兵部の後見政治に対する藩内の不信を増長させた。さらに、藩士の規律違反に対する処罰が増えたことや、政治が苛酷なものと人心に動揺を与えた事、腹心の部下を目付役に任用し、藩士の規律違反を糾弾したことなどで、警察政治的不安を与えてしまった。
○1669年寛文九年十二月七日には、亀千代元服
○1670年寛文十年は、大きな問題なく、慣例行事が中心であった。
○1671年寛文十一年一月二十五日に、国詰奉行柴田外記朝意(とももと)が仙台出発し、上府(江戸上屋敷)の途に向かった。
こらは、伊達安芸宗重が再三の告遣(つげやる:書面にて言い送る)による為だあり、内容は、去る寛文九年の両後見役の裁定に基ずく谷地配当が、目付役不正が行われたので、その不正の確証を握ったので糾明をお願いするものであった。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯11

目付職の志賀右衛門由清、浜田半兵衛重次、今村善大夫安良、横山弥次郎元明らが不正偏頗(へんば)の処置が多く、かねてより後見政治の不正専横を心配し「(目付職)私曲ノ義、彼是賞罰不正ノ品露頭」と告遣を再三催促した。 安芸は一門格の身分であり直接政治に参与しては成らぬ立場であったが、「公御幼稚 如 欺不直ノ者 政事ニ 与ル事、当家滅亡ノ端ナリ。説度 糾明セラレルベキ旨」として仕儀であった。
後見人は公儀申次衆嶋田出雲守、大井新右衛門、妻木参右衛門と相談し、茂庭主水(もんど)に片倉小十郎景長に命じて下向させ安芸の自重を促した。
しかし、安芸は、「不直者ノ正ス事、公ノ・・漸ニ悪長シ・・不可然」と自らを江戸に召いて取り調べて欲しいと譲らず、申次三人衆も安芸を江戸に呼び寄せる事と成り、柴田外記が先んじて上府した。
○1671年寛文十一年ニ月四日に、伊達安芸宗重が、仙台を人数ニ百五十人を召し従え出発、大勢であった為に伊達兵部が、老中稲葉正則に処置を伺ったところ「安芸陸奥守殿為メノ事 言上に就いて上府ス、大勢召見スル事 進退 相応ナリ 囚人ニ均シク存セラル事 不審、但  陸奥守殿へ目見ノ事ハ、公事抱ルノ間 遠慮然ルベキ、家中ノ面々出入 心次第タルベキ旨」との返答であった。
老中正則は、最初から安芸に同情的であった様に思わる。
兵部が囚人扱いとして、江戸での行動を制限しようとした事を、安芸は大勢の家臣を引き連れて、兵部に武力によっても対抗する決意であったことが窺い知る。
○1671年寛文十一年ニ月十ニ日に、伊達安芸は指示通り浅府第に到着した。
○1671年寛文十一年ニ月十六日には、公儀申次三人衆により伊達安芸が尋問を受ける。
大井新右衛門第に申次衆が参会、安芸はかねてより旧臘中(きゅろうちゅ:去年)に仙台目付衆に訴状、申次衆には覚書を差し出した。申次衆は、その覚書を老中へ告達(こくたつ:報告する)した。それによって老中より上府が命ぜられ、ニ月十六日に申次衆は、安芸を招き、巳刻(午前九時)より申刻(午後五時)まで尋問をした。 又、谷地原見分の志賀、浜田、今村、横山の四人も差し出すように原田甲斐に命じられ 参邸(さんてい:目上の人の邸宅に行く)した。調べの内容は、絵図、覚書等を取り寄せ、戌下刻(午後九時)まで、三人衆は絵図に向かい、今村善大夫の説明を聴取した。伊達安芸は、今回の申し立ての品々を覚書に仕立て二月二十三日に差し出すよう指示された。
○1671年寛文十一年ニ月ニ十七日に、申次三人衆は、妻木彦右衛門宅に会合し、伊達安芸は覚書を持参した。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯12

○1671年寛文十一年三月四日巳上刻(午前九時)に、伊達安芸は、命により公儀使蜂屋六左衛門に案内され、老中板倉内膳正重矩第に出頭し、老中土屋但馬守数直同席 の中で種々尋問を受け覚書を堤出した。
覚書内容は、九条により成り立っていた。
第一条は、二歳の陸奥守に大国を下置されたことへの感謝を表した。
第二条は、里見十左衛門の後見人に対する諫言と十左衛門没後の跡目を未だ申次けざること偏頗(へんば:かたよった)不正の処遇についてである。
第三条は、後見人は、渡辺金兵衛ら悪人を任用した為、「領内噪敷」、又三人の家老を親疎し、「依之家老 共諸事遠慮仕、悪人がはびこり、家老の協力体制も叶わず 、特に、今回の「谷地原見分私曲成仕業見届申」したので、これを証拠に伊達兵部一派の不正私曲を糾明する為に訴状を呈上したのであり、私怨を晴らすのが目的でないことを 申し述べた。
第四条は、伊東采女進退召し上げた処置は、功臣の子孫を軽視する処分であること。
第五条は、その他は小梁川市左衛門の処置、茂庭大蔵、石田将監の処罰など、家柄・旧功などを遠慮せず、ただ法令に照らし合わせて容赦なく処罰断行する苛酷な処置は、人心が不安に陥ってしまうことを指摘 した。さらに、大阪陣以後の政宗・忠宗時代には、百貫(千石)以上の家臣で処罰された者五~六人、当陸奥守代(後見人)になってからは、この十年間に「百貫文以上六十七人、其外譜代歴々役目有之者共斬罪、切腹、或いは進退逼塞入寺申付侯者共、拙者及承侯分、百人余御座候」と 後見政治のやり方が苛酷で「幼少之節毎年之様大勢罪ニ行申侯、勿論誤依有可之可申儀ニ侯得侯、下中安堵不仕欺・・・・」と家中一同が不安に陥っている旨を明らかにし、苛政の停止を請願したのである。

第八条件は、伊達兵部が家老に親疎したことについて下記の如く指摘した。
「家老職之者ヲ跡々モ共御親疎仕、陸奥守為不直儀御座候、当時、用事等相務申家老共心ヲ一致ニ仕度 与内々申合 神文之企申侯処ニ、私意有之者、同心不仕侯付、違逆仕侯 様子承認侯」 と指摘
これは、家老の神文は、寛文八年三月に、古内志摩が同役の勤方について、柴田外記、原田甲斐の三人で誓約の神文に調印しようと提案したもので、三人奉行の隔意なき相談、意志の疎通を目的としたものであったが、原田甲斐の不同意により成立しなかった 事実を指している。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯13

幕府が後見政治を許可した前提条件は、家老(仙台藩では奉行職)の協力一致であり、老中にとっては、藩内の行政の敵、不敵や家中処罰の正、不正よりは、後見役が家老に親疎し家老の十分な一致体制が成り立ってないほうが、はるかに重大問題であり、もし事実であれば後見政治を認め仙台藩の 存続を許可した幕府の方針を破り、幕府の恩情ある配慮を踏みにじる背信行為であるからである。
○1671年寛文十一年三月四日の尋問は、上記の点に集中し「右箇所(九条)ノ中、兵部大輔殿家老ニ親疎ノ事ヲ尋ラル」とあり、伊達安芸の上訴に対する幕府の処置方針が一点に絞れた事実が窺える。
○1671年寛文十一年三月七日には、柴田外記、原田甲斐の尋問が、老中板倉内膳正第にて行われた。
 三月七日巳上刻(午前九時)に柴田外記、原田甲斐が老中板倉内膳正第に召され、土屋但馬守同席のもと一人ずつ召出され尋問を受けた。柴田外記が帰邸後に伝えた「外記申所尤ニ思サル、甲斐申分相違有之由、且公ノ御為メ気遣致ス・・、但馬守殿仰ノ趣」とのことから察するに、親疎問題、神文問題を中心に尋問があり、誓紙に調印を拒否し、形式的には三家老の協力一致の申し合わせを拒絶した 結果になったことに、甲斐は十分に弁解できなかったと推察される。
○1671年寛文十一年三月九日には、老中より古内志摩を上府させる指示があり、三月ニ十一日に上府し、二十二日に板倉内膳正宅に召され、土屋但馬守の尋問を受け「志摩申所安芸、外記ノ一同ニ忠義ニ思ワレ、甲斐申分不実ノ由仰セラレルト云」 と言う結果となった。
寛文事件の勝敗は、三回の尋問で決着が付いた。結局、家老(奉行)の不一致の責任は、幕府の意向を軽んじたものとして、後見役に転化され、家老の内部不一致の事実は誓紙問題によって尤も明確に立証された訳である。
この寛文事件は、形式的な管理を求める幕府にとって、恰好の形式的違反事件であり、実質的に原田甲斐の苛酷な政治をしたという実質審議の前に、後見政治に対する約束違反が明確にされたことが、幕府の処置の口実となった。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯14

○1671年寛文十一年三月ニ十七日に、酒井忠清第の尋問と原田甲斐の刀傷事件が起きた。
三月ニ十七日巳刻(午前十時)一同が、板倉内膳正宅に参侯していたが、老中方は酒井雅楽頭殿宅に参集されていたので、直ちに酒井雅楽邸に参上、伊達安芸、柴田外記、原田甲斐、古内志摩の順に召出されて糾明あり、一同表座席に退席していた時、原田甲斐が俄かに立ち上がり、伊達安芸を斬殺、さらに奥の老中方の居間に侵入しようとしたところを、柴田外記、古内志摩、蜂屋六左衛門が追いかけて、 甲斐を斬殺、外記、六左衛門は重傷を受けた。
立花好雪、立花飛騨守鑑茂は、急ぎ屋形に来駕(らいが:他の人を敬って、その人が訪問することをいう)、宇和島藩主伊達宗利も夜に来駕し、この日の内に酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)へ使者を立て、「陸奥守家来於御屋敷不義仕ル(つかまつる)ノ段言語ヲ絶ス、陸奥守間柄家来マテ拙者家来同意ナリ、外記、六左衛門尚今御屋敷ニ置カレ、御念入ラル儀誠・・」と謝し、重傷の外記、六左衛門を自邸に引き取った。一人手傷を受けなかった古内志摩も夜半に宗利屋敷に移り 「重テ(かさねて)指図セラル迄 彼地ニ逗留スベキ旨」命ぜられた。
国許には、津田玄蕃より飛脚を片倉小十郎、茂庭主水、古内造酒助に遣(つかわす)わし、噪動(そうどう:さわがしくうごかない)せざるように注意し、渡辺金兵衛は、尋問の義有りとして、牧野権兵衛南部宗尋に預けられた。
○1671年寛文十一年四月ニ日には、評定役津田玄蕃景康は、姉が原田甲斐の妻で「甲斐ニ近キ親戚ニ因テ公務御遠慮ノ旨」告達(こくたつ:告げ知らせること)され、「陸奥守殿公儀ヘノ仕付ナレハ浜ノ第(てい)ニ引込居シ、長屋ノ外ニ出へカラサル旨」指示された」。又、甲斐の縁者、谷地原見分関係者も「浜ノ第ニ引込、長屋ノ外ニ出へカラサル旨、老中方仰渡」され、酉の下刻(午後七時)には、島田出雲守をもって老中方よりの内意として「陸奥守殿御幼少ト云、御身上ノ儀等少モ機遣有間・・旨」を両後見に告達された。
○1671年寛文十一年四月三日には、両後見より国許奉行・評定役に、今度の事件に関する覚書を下した。国許において噪動(そうどう:さわがしくうごかない)しないように戒めた。同日の午後には、伊達兵部大輔宗勝は伝奏所へ出頭を命ぜられ、大岡佐渡守忠勝、戸田伊賀守より松平土佐守(土佐藩主)へお預けを申し渡された。
その仰渡書には「兵部大輔隠岐守後見仕、万事家老共ニ遂相談 当陸奥守可守エ之由、被仰付之上ハ、兵部大輔隠岐守 家老共以相談 諸事可申付之処、両人不和之故、下中仕置不宜、年々刑罰之族不絶而下中之輩不成安堵之思、殊更今度 原田甲斐不届之仕形、・・・両人不覚 悟 故ト被思召也、且、又、兵部大輔者先代之様子渕底乍存、一人為不届之条、松平土佐守江御預ケ被成侯」と明示されている。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯15

田村隠岐守は閉門、兵部嫡男宗興は小笠原遠江守(小倉藩主)にお預けを仰渡された。
○1671年寛文十一年四月四日には、伊達兵部、田村隠岐守の処罰が決定したので、浜屋敷に拘留されていた津田玄蕃をはじめ両後見人の部下や縁者は、悪人扱いとなり「浜屋敷ニ差置ル悪人等 不義仕出も難計、小人三十人足軽参十人出シ、前命ノ如ク・・・用心」を加えるに至った。
この事件の事後処理の立役者として古内志摩が処理することになった。
古内志摩は伊達宗利屋敷に保護されていたが、仙台藩屋敷も平静を取り戻し、悪人に対する監視体制も整ってきたので、老中方は、この日に仙台藩邸に戻ることを許した。
同日に、仙台においては、原田甲斐子息たち、渡辺金兵衛妻子、その他兵部一味の藩士やその妻子がお預けとなった。
○1671年寛文十一年四月六日には、陸奥守が登城をし、前日、老中久世大和守よりしらせにより、伊達宗利、立花鑑茂、妻木彦右衛門をを携えて登城、白書院裏屋敷の席で、伊達兵部、田村隠岐守に対する処分の仰せ渡しの趣が覚書を以て命じられた。その趣旨は「陸奥守儀今度 領地雖可被召上之、若年故後見人並家老共ニ仕置侯条、其身者不存義侯間、被成 御有免侯事」と、今回の事件の責任を免除し、今後は後見を置くに及ばず、「家臣之輩 諸事申合、家中仕置可申付之」と綱村の親政を許可し、「若輩義於有之」は伊達宗利と立花左近将監に相談せよと指示された。これは、後見政治の廃止と綱村親政の出発が正式に認められた時でもあった。
○1671年寛文十一年四月十四日には、島田出雲守らの三人申次衆が来邸して老中方の内意として、津田玄蕃、福田五郎左衛門、田村内蔵允、劒持新右衛門、吉田甚兵衛らは仙台の各屋敷に逼塞、渡辺金兵衛は吉田宮内少輔(伊予国吉田藩主三万石)にお預けを告げられた。金兵衛は、小人三十人、足軽三十人で厳重に警護され、仙台藩邸から宮内少輔屋敷に護送された。
○1671年寛文十一年四月十五日には、宇和島藩主伊達宗利から使者を以て古内志摩が仙台藩邸に還される由、久世大和守より知らせがあり、夕方に志摩は帰参した。酉下刻(午後七時)に志摩は御座間に召出され、御盃を賜わった。
○1671年寛文十一年五月ニ十八日には、登城し、公方に拝謁、伊達兵部領地三万石仕置きについて「元知行タルニ依テ三万石返賜ル旨」を大老酒井雅楽頭より命じられる。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯16

○1671年寛文十一年六月四日には、片倉小十郎景長を奉行に任命し、翌日、六月五日には、伊達安芸の芸迹式(げいじゅつしき:功績)を子息兵庫に賜る旨、老中覚書を奉命(ほうめい:貴人から命令をうけたまわる)した。
その覚書には、「一、伊達安芸事忠義之者侯間、早速迹式(せきしき)無相違兵庫可被中付事」とあり、血統上の一門としてではなく、忠義の家柄による一門として、自家の地位を安定させようとした伊達安芸宗重・宗光を始め、涌谷家中のこの事件にかけた念願は、幕府覚書の下賜と言う異例の処置で達成された。
○1671年寛文十一年六月九日には、仙台において原田甲斐一族が処刑された。甲斐の子息原田帯刀切腹(宗誠、25歳)、子息飯坂仲次郎切腹(次男、2470石、23歳)、子息平渡喜平次切腹(三男、240石、22歳)、帯刀男子ニ人切腹(采女5歳、伊織1歳)、甲斐の母(茂庭延元の娘)は伊達千代松(亘理御邑主(ゆうしゅ)伊達基実)にお預け、甲斐の妻(津田豊前頼康の娘)伊達上野(水沢邑主伊達宗景)に、帯刀の妻と娘は茂庭主水にお預けとなり、さらに、仲次郎の娘は古内主膳に預けられ、飯坂出雲(仲次郎の義父)は仙台屋敷 に逼塞、甲斐内之者の劒持五郎兵衛は切腹、平渡清大夫、劒持五郎左衛門は各閉門を命ぜられ、原田一族は全滅した。原田甲斐一族及び家中の者は事件後謹慎して、さしたる騒動もなく全滅したことになる。
寛文事件(伊達騒動)に関しての考察!! 原田甲斐の一族が、寛文事件後間もなく一族郎党謹慎し、騒動なく全滅していったことには、様々な思惑があると推察される。
一例が、1677年延宝五年三月ニ十七日に、登米郡米谷の原田氏の菩提寺東陽寺に旧家中や町人を含め137名が集まり、亡君の供養を行った記録が残っており、さらには、延宝七年に甲斐供養塔と伝えられる石塔が建立されている。これから推察される ことは、寛文事件より時も経たうちに原田氏の旧家中の人びとが、かくも集まり亡君の供養を行っていることや、さらには、町人や身分の低い者も含まれたとされていることから、原田甲斐の家中統治や領内統治が行き届いていた事が考えられる。
さらには、幕府の方針が、原田甲斐一人に罪を着せ万事解決しようとしたにも係わらず、原田一族や家中の行動が反逆者的反抗もなく冷静に振る舞ったことからも、原田甲斐自身が自分の行動にやましいことはないと自信を持っていたと考えられる。
甲斐自身、政治的采配よりは行政手腕にすぐれた奉行筆頭格として、後見伊達兵部に協力し、幼君統治の不安定な情勢に、何とか平穏に切りぬけたいと念願していたに違いないと考えられる。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯17

又、寛文事件での甲斐に対する老中の尋問は最後まで、奉行三人の神文誓紙問題で、行政手腕、政治手段に対する問題ではなく、寛文七年に古内志摩が奉行同役三人の勤方についての五ヶ条の誓紙(両後見人に予め誓紙案文を見せ許可を受けたもの)を提案した事に、文書の訂正 を逆提案した為、誓紙調印ができなかったことが問題視とされた。これは、甲斐が奉行筆頭として中身を検分したところ、甲斐のいままでのやり方を非難し、甲斐の行動を制肘(せいちゅう:規制、制限する)しようとする意向が明白であったので、文章の訂正を提案したことが、 幕府よりの「奉行三人が隔意なく相談し立身や私心を捨て協力する趣旨」に叛くことになり、その事が、幕府老中方の尋問の中心となり甲斐が窮地に追い込まれてしまった。
では何故古川志摩がこの様な提案をしようとしたのか、ここには、伊達安芸が志摩の背後にあって、安芸の支援もしくは示唆があったとしか考えられない。これは、安芸が寛文十一 年三月四日の老中への口談覚書より読み取れる。「家老職仕侯者共ヲ、兵部親疎仕、跡々ヨリ、陸奥守為不貞、当時ノ三人ノ家老ノ内原田甲斐ハ兵部ニ心ヲ合ワセ不義有之付而、古内志摩以了簡、柴田外記ニ相談仕侯処、外記領掌ノ上、 陸奥守ノ義ニ対シテハ、大事申合、同心仕度由、神文企申侯、甲斐同意不仕、其神文相調不申由及承侯」から見れば、明らかに志摩の背後に安芸が存在したことが窺いとれる。
伊達安芸の思惑は何であったのだろう、疑問を呈する。安芸自身、表向きは伊達家の大事、幼君への忠節を唱えていたが、内心、伊達家一門の中で外様系(伊達家称号を許され一門に加わった)一門であり、連枝系(伊達家代々の一族)一門の進出に対して自家の立場を有利に導き、自家の安泰を図る目的の為、後見役の伊達兵部(政宗の子)に対して執拗に反感・憎悪を抱き、連枝系一門の勢力を土台に藩政を支配する政策には 、なおさらに反感抱いた。まさに、原田甲斐は、唯一安芸の本意を見抜いた一人であつたが、安芸の策謀(甲斐を奉行の中で孤立させる為の神文誓紙事件)により、甲斐を窮地に追い込んだ。安芸の忠義の為の行動で有れば、御家の為にこの様な事態を引き起こした真意が疑われる。何故ならば、此の時期に藩主綱村の元服が終わり、将軍への公式御目見得がすみ、後見政治が終わろうとした直前に、藩の運命を瀬戸際にさらす行動 が必要であったかを見れば、安芸の本意や策謀も読み取れる。




寛文事件(伊達騒動)について
寛文事件経緯18

伊達安芸が、後見政治が存在している間に、後見人を打倒し忠義の家柄として自家の立場を確立させようとした目的は明らかである。その為には、幼君時代に事件を引き起こせば、幼君に御処置なしとする事を老中土屋但馬守、板倉内膳正に気脈を通じて、無理矢理上訴したと言うのが実態と考えられる。
原田甲斐は、幕府老中方と伊達安芸とが気脈を通じている事が分かっていたのではないかと思われ、外様に対する幕府政策に安芸が乗せられてしまったことに懸念していた事も、この事件を引き起こした要因の一つであると思われる。 伊達安芸は、忠義の人と伊達治家記録にあるが、実は、幕府政策に乗り御家取潰しに至ることを恐れた原田甲斐が、老中邸で安芸を殺し、自らを悪人に仕立て幕府の意図から伊達家を救ったのではないだろうか、諸説があることを知ることも大事である。




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