郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

奥州葛西一族物語

奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証①>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より )
葛西清重                                       
1180年治承4年 秋葛西清重かさいきよしげは、源平合戦において、兄弟一族数百騎で参戦し戦功をあげる。恩賞として頼朝から領地数千町を賜る。
1189年文治5年 秋、葛西清重は、奥州征伐において、奥州藤原泰衡おうしゅうふじわらやすひら国衡くにひら兄弟を征伐し戦功をあげる。
1189年文治5年 9月29日、清重、奥州留守所おうしゅうるすしょを任され、胆沢いさわ郡、桃生ものう郡、牡鹿おじか郡、江刺えさし郡、本吉もとよし郡、登米とめ郡の領地を賜り、磐井いわい平泉保ひらいずみほに居住する。
1194年建久5年 4月頃、清重、登米とめ郡寺池てらいけ城に移り住む。この時の家紋として、旗指物は赤字に白地の七星、幕の紋は、丸二三葉柏とした。
1216年健保4年 4月2日、清重出家し、法名 清眞せいしんと名乗る。
葛西朝清                                       
1216年健保4年 春葛西朝清かさいあさきよが家督を嗣ぐ。清重六男ではあったが、文武に優れていたので葛西家を嗣ぐことになった。
1216年健保4年 3月、朝清、奥州留守所おすしゅうるすしょを任され、陸奥国むつこくに居住する。
1221年承久3年 6月天下擾乱てんかじょうらんとなり、鎌倉方で大健闘をし軍功を残した。
1221年承久3年 9月14日、清重没する。 享年74才


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証②>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より )
葛西清親                                       
1238年暦仁元年1月葛西清親かさいきよちかが将軍頼経よりつねの上洛にお供をした。
1238年宝治元年2月23日、清親24才で伯耆守ほおきのかみを任される。
1240年仁治元年1月、清親、陸奥国留守所むつこくるすしょに任じられる。
葛西時清                                       
1244年寛元元年7月19日葛西時清かさいとききよ、号を武州ぶしゅうと称し、武州に四千余町の領地を持ち、武州豊島ぶしゅうとしま郡に居住した。 1244年に没す。享年67才 法名 せいしょう
1247年宝治元年1月3日葛西朝清かさいあさきよ没する。 享年68才 法名 清貞きよさだ
1270年文永7年 12月18日葛西清親かさいきよちか没する。 享年50才 法名 清性きよせい
葛西清時                                       
葛西清信                                       
1276年建治2年 8月葛西清時かさいきよとき、家督が無い為、北条時宗ほうじょうときむねの命により千葉胤信ちばたねのぶを家督に迎えた。
1276年建治2年 10月葛西清信かさいきよのぶ家督を嗣ぎ、奥州に従臣一族を従え下向した。主な従臣として、千葉飛騨守胤常ちばひだのかみたねつね左馬助胤氏さまのすけたねうじ臼井三郎常俊うすいさぶろうつねとし等である。
1285年弘安8年 11月17日秋田城介あきたじょうすけ藤原泰盛ふじわらやすもりが謀反、清時きよとき先陣を賜り泰盛やすもりの弟美濃守長景みののかみながかげを討取り、大武功を上げ、大判をいただく。
1285年弘安8年 12月清時きよとき、敵将長景討取りの武功により遠江守とうとうみもかみとなる。
1287年弘安10年11月7日、清時没する。 享年48才 法名 涼西りょうせい
1299年正安元年葛西清信かさいきよのぶ鎌倉評定衆かまくらひょうじょうしゅうに為る。
1317年文保元年4月2日、葛西清信没する。 享年56才 法名 円西えんさい




奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証③>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より )
葛西貞清                                       
葛西信常                                       
1322年元享2年 3月葛西信常かさいのぶつね清信きよのぶ二男)、登米とめ米谷まいやに居住していた。
1324年正中元年3月16日 葛西貞清かさいさだきよ、将軍守邦親王もりくにしんのうの近臣を努めたが、この年、若くして他界、享年 34才 法名 道西どうせい、 清貞早世の為、嫡男高清たかきよ若年の為、葛西信常かさいのぶつね(清信二男)が後見役となる。
葛西高清                                       
1337年建武3年3月葛西高清かさいたかきよ、奥州に下向する。
1337年建武3年 4月、葛西高清、奥州奉行人本吉もとよし馬籠まごめ城主平 行胤たいらのゆきたね楯鉾合戦たてほこがっせんで勝利し、近郡の諸将に戦いを挑んだ。
1337年建武3年 9月、葛西信常(後見役)、登米郡米谷から寺池郷てらいけのさとに居を移す。
1339年暦応2年 5月、奥州諸将宮方を平らげ上洛をし、将軍足利尊氏あしかがたかうじ公に拝謁をし因幡守いなばのかみに任じら、奥州北方探題となり奥州に下向した。
葛西詮清                                       
1361年康安元年3月葛西為清かさいためきよ、上洛して、将軍足利義詮あしかがよしあきらに拝謁し、偏諱賜り詮清と改名する。
1365年貞治四年4月7日、葛西高清かさいたかきよ没する。 享年 54才 法名 道祐どうゆう
1370年応安3年 葛西詮清かさいあききよ、再度上洛し将軍足利義満あしかがよしみつ公に拝謁する。
1370年応安3年 5月、葛西詮清、奥州北方探題に任じられ下向する。
1388年嘉慶2年 6月10日、葛西詮清没する。 享年 44才 法名 念祐ねんゆう



奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証④>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より )
葛西満信                                       
1400年応永7年 秋陸奥国奉行人むつこくぶぎょうにん宇都宮氏広うつのみやうじひろが、栗原郡にて武命に背い為、鎌倉公方が大崎・葛西氏に追討を命じた。
1400年応永7年 9月8日、栗原三迫で戦いが起こり、大崎・葛西氏が勝利し、大判をいただた。敵将宇都宮氏広うつのみやうじひろ父子一族は滅亡し、輝かしい戦果を得ることができた。
1400年応永7年 10月、ruby>葛西満信かさいみつのぶは上洛し、将軍足利義満あしかがよしみつ公に拝謁し京都に留まった。
1401年応永8年 2月29日、満信は高野山に参詣し、京都の戻った。
1401年応永8年 4月26日、満信、宮中に参内し從五位上に任じられ、陸奥権探題むつのごんたんだいとなり陸奥国諸侯の棟梁となる。
1401年応永8年 5月、葛西満信は、奥州に下向する。
1420年応永27年11月18日、葛西満信没する。 享年 51才 法名 覚祐かくゆう
葛西持信                                       
1438年永享10年12月葛西持信かさいもちのぶ、永享の年鎌倉公方足利持氏あしかがもちうじの近侍と仕え、鎌倉より奥州に下向した。
1440年永享12年春葛西持信かさいもちのぶと、大崎持詮おおさきもちあきらが攻め合いをおこなった。
1441年嘉吉元年7月、葛西持信と大崎持詮は、南部義教なんぶよしのりの調停で和睦をした。その為、大崎持詮の息女を葛西持信の長男朝信あさのぶに嫁ぐことになった。
1441年嘉吉元年9月、葛西持信、上洛し、将軍足利義勝あさいかがよしかつに拝謁し、探題職になる。
1442 嘉吉2年 3月、葛西持信は2月2日に、高野山を参詣し、その後奥州に下向した。
1469 文明元年6月3日、葛西持信没する。 享年 72才 法名 定照ていしょう
葛西朝信                                       


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証⑤>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より ) ○1458 長禄元年2月葛西政信かさいまさのぶは、持信より磐井郡に千余町の領地を賜り磐井郡長井郷いわいぐんながいのさとに居住した。
1460~1480年文明年間 葛西朝信かさいあさのぶの代では、近隣諸国との戦いが続いた。世の乱れは凄まじいものであった。
葛西尚信                                       
1480年文明12年葛西尚信かさいひさのぶ、家督を嗣ぎ、從五位下 北方探題職につた。
1480年文明12年8月19日、葛西朝信没する。 享年54才  法名 蓮佛れんぶつ
1483年文明15年6月葛西尚信かさいひさのぶ没する。 早世の為、葛西政信かさいまさのぶ家督を嗣ぐ
葛西政信                                       
1483年文明15年9月葛西政信かさいまさのぶ上洛する。探題職を拝命し下向する。
1507年永正3年 5月、葛西政信没する。 享年78才 法名 道栄どうえい
葛西稙信                                       
1514年永正11年3月葛西政信三男かさいまさのぶさんなん正嫡せいちゃくとなり、諸国擾乱のなか北陸道経由で上洛、足利義稙あしかがよっしたねに拝謁し、一字偏諱し稙信たねのぶに改める。長男守信もりのぶも同行して越中守えっちゅうのかみに任じられ稙清たねきよとなる。探題職となり6月に下向する。この時期より大崎氏との戦いが始まる。
葛西晴清                                       
1531年享禄4年 葛西晴清かさいはるきよ伊達尚宗だてひさむね三男で稙信たねのぶの婿に入り家督を嗣いだが、葛西稙清かさいたねきよが早世すると、伯父高信たかのぶが葛西家後継となった。その為、晴清これを恨み、伊達家へ帰ってしまう。これ機に伊達家との争いが続いた。
1533年天文2年 12月21日、葛西稙信没する。 享年 65才 法名 道貞どてい
1544年天文13年2月国分能登守宗政こくぶんのとのかみむねまさ 仲介に入り葛西・伊達両家和平を交わす。其の後、葛西高信かさいたかのぶ猶子ゆうしとなり、桃生郡に二千余町を領地を賜り、登米郡の寺池邑に居住する。
注)猶子ゆうしとは、兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度。


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証⑥>>>

(参考:五大院葛西系図(抄録))より )
葛西晴胤                                       
1547年天文16年5月葛西高信かさいたかのぶは、京都より勅使ちょくし高倉少将藤原有範たかくらしょうしょうふじわらありのりが下向により、從五位下に叙され、右京太夫に任じられ探題職となる。将軍足利義晴あしかがよしはるを偏諱し晴胤はるたねと改名する。同年9月勅使上洛(京都に帰った)する。
1550年天文19年8月葛西親信かさいちかのぶ、家督となり北方探題となる。
  ○1555年弘治元年11月3日、葛西晴胤没する。 享年 59才  法名 道興どうきょう
葛西晴信                                       
  ○1558年永禄元年正月葛西親信かさいちかのぶには実子がなく、弟信清のぶきよが後継となる。左京大夫 従五位下 相模守となる。信清改め晴信はるのぶと改名する。
1561年永禄3年 4月11日、葛西親信没する。 享年48才  法名 道円どうえん
1590年天正18年秋、永禄~天正年間奥州諸将の争いが絶えまなく起こり混沌とした時期ではあったが、天正18年秋には、落ち着きを取り戻した。この年、太閤秀吉の北条征伐に小田原参陣の命が下った。遅参した諸将は領地没収、一族は没落することになった。
1590年天正18年11月葛西晴信かさいはるのぶ、加賀前田利家まえだとしいえに預かりとなり、金沢へ居が移つた。
1597年慶長2年 4月19日、葛西晴信、加賀国において没する。  亨年 64才





奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証Ⅱ>>

(参考:「中舘葛西系譜」①より )
葛西清重                                       
葛西朝清                                       
1180年治承4年秋右大将うたいしょう(武家の棟梁)源頼朝みなもとのよりともが挙兵したとき、真っ先に忠義、貞節を掲げたのが葛西清重かさいきよげしげであった。
1189年文治5年秋、源頼朝が奥州藤原泰衡ふじわらやすひら征伐に出発の時にも、馳せ参じた。
1189年文治5年 8月10日、陸奥国刈田郡阿津賀志山あつかしやまの戦いでは、真っ先に乗り込み武功を上げた。
1189年文治5年 9月、奥州留守職に任じられ、9月24日には平泉郡内の検非違使となり、乱暴狼藉するもには断罪を与え治安の維持に努めた。下文を頂き、戦忠により、陸奥国胆沢郡、磐井郡、登米郡、桃生郡、牡鹿郡と数部を拝領し、奥州所務職となり、住まいを磐井郡平泉城に移した。
1190年建久元年11月、右大将源頼朝上洛するときお供を奉じられた
1193年建久4年 2月21日、葛西清重は、軍功により、右衛門尉うえもんのじょうに任じられた。
1194年建久5年 4月、葛西清重は、登米郡寺池城に於いて・・・・した。
1214年健保2年 3月、葛西清重は、壱岐守いきのかみに任じられた。
1216年建保4年 2月4日、清重、髪をおろし壱岐入道いきにゅうどうとなり出家した。 葛西家初代太守として27年の在位であった。同月朝清あさきよ二代太守として家を継ぐ、将軍源実朝みなもとのさねともより陸奥国留守所むつこくるすしょを拝命した。
1221年承久3年 6月、清重は、天下が騒乱状態であったが、鎌倉政治から離れていたが、朝清は関東にて従軍し、華々しい戦功を上げた。
1221年承久3年 9月14日、葛西清重没する。享年74才 法名 眞字実山  号 清重寺 義母は刑部少輔藤原尹(イン)時の娘 実母は秩父十郎平重弘の娘


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証Ⅱ>>

(参考:「中舘葛西系譜」②より )
葛西清親                                       
葛西清時                                       
1238年暦仁元年正月葛西清親かさいきよちかは、将軍権大納言頼経ごんだいなごんよりつねが上洛した際、随行役を努め、伯耆守ほうきのかみに任じられた。
1240年仁治元年正月、清親、陸奥国探題職に任じられる。
1247年宝治元年正月三日、葛西朝清没する。在位31年 享年68才 法名 清降 字固山 号朝清寺 母は畠山荘司平重能の娘
1270年文永7年 12月28日、葛西清親没する。在位24年 享年56才 法名 眞性   字見山 号東光寺 母は天野和泉守藤原政景の娘
1272年文永9年 8月、将軍中務卿宗尊親王なかつかさきょうむねたかしんのうより陸奥国探題職を拝命する。
葛西清信                                       
1276年建治2年 葛西清時かさいきよとき、嫡子なく、千葉介平頼胤ちばすけたいらのよりたねの三男胤信たねのぶを嗣子とした。
1276年建治2年 10月葛西又太郎かさいまたたろう、陸奥国に下向し、一族及び郎党数百を従え下向した。主な一族として、千葉飛騨守平胤常ちばひだのかみたいらのたねつね亀掛川左馬助平胤氏きけがわさまのすけたいらのたねうじ臼井三郎左衛門平常俊うすいさえもんたいらのつねとし等である。
1285年弘安8年 11月17日葛西清時かさいきよとき秋田城介あきたのじょうすけ藤原泰盛ふじわらのやすもり反逆の為、先陣を受け誅伐する。また、弟美濃守長景みののかみながかげの首を取り、素晴らしい軍功をあげる。その功により、将軍右大将惟康親王これやすしんのうの推挙で遠江守とうとうみのかみに任じられた。
1287年弘安10年11月7日、葛西清時没する。在位 17年 享年48才 法名 涼西 字 意山 号峯円寺 母は千葉介平胤綱の娘
1299年正中元年正月、葛西清信、将軍式部卿久明親王ひさあきしんのうより引付頭人評定衆ひきつけとうにんひょうじょうしゅうに任じられる。


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証Ⅱ>>

(参考:「中舘葛西系譜」③より )
葛西貞清                                       
1317年文保元年4月2日、葛西清信没する。葛西又太郎 左衛門尉 刑部大輔 從五位下 遠江守  初名 信胤  在位 29年 享年 56才 法名 円生 字 義母結城左衛門尉藤原祐広の娘 実母北条駿河守平有時の娘
1318年文保2年 9月葛西貞清かさいさだきよ(清貞)、将軍左中将さちゅうじょう守邦親王もりくにしんのうより陸奥国探題職に任じられた。
1322年元享2年 3月葛西信常かさいのぶつね(葛西又次郎、貞清の弟)、登米郡米谷邑に住まいする。
1324年正中元年3月16日 、葛西貞清没する。葛西又太郎 左衛門尉 從六位下 北条相模貞時授諱字 式部卿久明親王の近習であつた。享年 34 法名 道西 字悟山 号大常寺 母は本間山城守景隆の娘
葛西高清                                       
葛西信常                                       
1324年正中元年3月、兄貞清早世の為、貞清の嗣子高清たかきよが未だ13才につき、葛西信常かさいあのぶつね後見役として執務をとる。それゆえに、登米郡に領地を五千余町を賜つた。
1336年建武2年 8月7日、将軍足利大納言尊氏卿あしかがだいなごんたかうじきょうに謁見して陸奥国探題職に任じられる。
1336年建武2年 10月7日後醍醐天皇ごだいごてんのうより論功賞により本吉郡、気仙郡を領有し支配する勅命を奥州国司おうしゅうこくし鎮守府大将軍ちんじゅふだいしょうぐん源中納言げんちゅうなごん顕家卿あきいえきょうより軍功賞を賜る文書を受け取る。
1337年建武3年 正月、北畠顕家上洛に従軍し、上洛途中で数々戦いがあり、武功を重ねた。
1337年建武3年 3月、葛西高清、上洛後直ちに下向帰国した。
1337年建武3年 4月、葛西高清、奥州一方奉行人本吉郡馬籠村もととしぐんまごめむら城主千葉周防守行胤ちばすおうのかみゆきたね本吉郡気仙沼県主もとよしぐんけんぬまけんしゅ熊谷佐渡守直時くまがいさどのかみなおときと戦い、奥州平定をなした。
1337年建武3年 5月、葛西高清、これにより、上洛し、将軍足利尊氏に拝謁し、軍功として奥州胆沢郡、気仙郡、本吉郡、磐井郡、登米郡、桃生郡、牡鹿郡の七郡を拝領して帰国した。
1337年建武3年 9月葛西信常かさいのぶつね寺池城西館てらいけじょうにしかんに移り住む。


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証Ⅱ>>

(参考:「中舘葛西系譜」④より )
1354年文和3年 12月9日、葛西信常没する。 享年58才 法名 久山崇永 号 耕安寺 母 本間山城守景隆娘である。(貞清の弟)
1365年貞治4年 4月7日、葛西高清没する。初名 葛西八郎 左衛門尉 從五位下  因幡陸奥守 文武に優れ 北条相模守高時より一字偏諱を受けた。 在位 41年 享年54才 法名 道祐 字 福山 号 弘誓寺   母は長崎左衛門平宗資入道円喜娘
葛西詮清                                       
葛西満信                                       
1369年応安2年 3月葛西詮清かさいあききよ(前将軍足利義詮より一字賜り改名)、上洛し、将軍足利義満に拝謁、從五位下 伯耆守 奥州探題職に任じられた。
1370年応安3年葛西五郎兵衛尉かさいごろうひょうえのじょうは、葛西詮清の第五男として、登米に生まれた。
1386年至徳3年 9月、葛西詮清、田村荘司たむらのしょうじ坂上義則さかのうえのよしのりが反逆したので、副将として乗り込み、奥州会津城にて誅伐した。抜群に功績をはたした。
1389年嘉慶3年 6月10日、葛西詮清没する。在位23年 從五位下 伯耆守 享年 44才 法名 念祐 字 観山 号眞覚龍源寺 母は結城上野介藤原親広の娘
1392年明徳3年 正月葛西五郎兵衛尉かさいごろうひょうえのじょうは、将軍足利義満あしかがよしみつより一字偏諱賜り改名し葛西満信かさいみつのぶと名乗り、奥州両州探題職に任命された。
1400年応永7年秋に、奥州県令おうしゅうけんれい宇都宮越中守氏広うつのみやえっちゅううじひろが謀叛をお越したので、東奥地域が乱れた為、鎌倉管領足利左馬頭満兼あしかがさまのかみみつかねより大崎左京太夫詮持おおさきさきょうだうぶあきもちを軍将に、葛西満信かさいみつのぶを副将として討伐命令が下った。
1398年応永5年葛西五郎三郎かさいごろうさぶろう(後の持信)、葛西満信かさいみつのぶの第三男として登米城にて生まれる。母は葛西志摩守平清常の娘
1400年応永7年 9月、栗原郡三迫において、葛西満信は、宇都宮氏広を撃ち破り首を獲った。
  ○1401年応永8年 3月、大崎詮持と葛西満信は上洛し、将軍足利義持あしかがよしもちに拝謁し、葛西満信かさいみつのぶ奥州探題おうしゅうたんだいに任命された。
1401年応永8年 4月26日、葛西満信は朝請太夫あさきよだいぶ(從五位上)にとなり、奥州刺吏おうしゅうしし(この官職は、日本では国守の唐名として使われた)(鎮守府将軍兼務)に任命された。その為、京都守護する為一年余り京に滞在した。
1402年応永9年 3月、葛西満信、任務が許され奥州に帰国した。
1420年応永27年11月18日、葛西満信没する。從五位上 壱岐守 陸奥権守 在位33年 享年51才 法名 正山覚祐 号龍源寺


奥州葛西一族について
 <<葛西氏家譜の検証Ⅱ>>

(参考:「中舘葛西系譜」⑤より )
葛西持信                                       
1420年応永27年葛西五郎三郎かさいごとうさぶろうが家督を嗣ぎ、将軍足利義持あしかがよしもちから一字賜り持信もちのぶと改名する。
1438年永享10年冬、関東管領足利左馬頭持氏あしかがさものかみもちうじが兵をお越したので、葛西持信かさいもちのぶも従軍し鎌倉の戦いで素晴らしい武功を上げた。
1440年永享12年春、葛西持信は、大崎左京太夫持明さきょうだいぶもちあき持詮もちあきら)と不和を生じ、数度となく戦いを起こした。
1442年嘉吉2年 7月7日、葛西持信と大崎持明(持詮)は和解をし、その和解の条件として、持信の嫡子朝信あさのぶに持明(持詮)の娘を嫁がせることであった。
1442年嘉吉2年 9月、葛西持信上洛し、将軍足利義勝あしかがよしかつに拝謁し、嘉吉3年3月に帰国した。
1470年文明元年6月3日、葛西持信没する。在位 48年 左衛門尉 從五位下 伯耆守 享年 72才 法名 普山定照  号 永明寺




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