郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
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登米郡中世編(葛西一族関連)
葛西清重の出自について
1194年建久5年4月に、葛西清重かさいきよしげは自領の本拠を寺池てらいけ(登米郡)に置き、代官を定住させ、自身は鎌倉将軍の側近にあって、ほとんど鎌倉に居たとされている。鎌倉の情勢は、幕府創業の功臣間の政争、北条氏の陰謀による有力一族の没落と滅亡、果てには将軍と源氏の抹殺など陰湿極まりない策謀の時代であった。清重も妻の兄でもあり、鎌倉武士の手本と成りうる清廉な人格者の畠山重忠はたけやましげただが殺され時や本家筋の千葉一族の難儀を見過ごす態度をとっていたようである。この様な情勢下で清重が粛清の難から逃れられたのは、時流と見る目を兼ね備えた人物であったことや幕府の重鎮と言っても、北条氏から疎まれるほどの大領地をもっていなかったことなど、清重自身の人柄が多くの人々や北条一族、頼朝夫人政子から信頼されたことが挙げられる。
1148年久安4年に、葛西清重は、豊島とよしま氏として武蔵国むさしのくに豊島とよしまに生まれる。
1172年承安年頃千葉重高ちばしげたかの嗣子となり、畠山重能はたけやましげよしの娘を妻とする。
1180年治承4年、33才の頃に、頼朝旗下に馳せ参じる。
1189年文治5年、42才の頃に、奥州征伐、総奉行、留守職を拝命し 胆沢・磐井・牡鹿の三郡を拝領する。
1194年建久5年、47才の頃、寺池を治府じふとして代官を置いた。一説では、代官は、清重次男の朝清あさきよではないかと言われている。
1211年承久3年9月4日に、74才で没したと、「龍源寺過去帳りゅうげんじかこちょう」に記されているが、「東鑑あずまかがみ」(吾妻鏡のこと)の1222年貞応元年5月24日の条に、清重の名がでてきたり、 葛飾の西光寺創建の1225年嘉禄にも名がでてくるので、恐らくは、出家して渋江しぶえに隠棲したことが死去したと記録された様に思われる。「備州笠井系図」に記されている1237 年嘉禎3年12月5日に、81才で死去したことが、正しいものと思われる。
領地と本拠について
葛西氏の発祥の地は、下総国葛飾郡しもうさのくにかついかぐんといわれ、今の東京都葛飾区・江戸川区千葉県東葛飾郡一帯の地である。(葛飾区本田町渋江(四ッ木)は清重隠棲の場所)葛飾の地で伊勢神宮に献上された旧地は別として、勢力拡大で得た印旛郡や長生郡の一部はもともとの領地であった。幕府要人として代々将軍に供奉ぐぶ(行幸や祭礼などのときにお供の行列 に加わること)の後から四代清信きよのぶ下向まで、鎌倉の葛西ヶ谷くずがたにから甘縄あまなわへ、そして八幡宮一の鳥附近と屋敷を移し、葛飾自領等の飛び地と鎌倉の間を往復していたと思われる。さらに、平泉討伐の武功に備州三原(岡山県)の領地が与えられている。この地を根拠地として中国葛西の祖を築くことにもなる。その他にも、常陸にも飛び地があり、武蔵国丸子や相模国にも領地がる。それぞれ長年にわたり、定住することで中国葛西の様に独立してそれぞれ支配していったようである。
本領は奥州である。奥州征伐の功績により与えられた領地で、三郡説と五郡説がある。東鑑(吾妻鏡)に記されているのは、「伊沢、岩井と牡鹿、その他の遠島・・・」とあるので本筋の説ではあるが、当時の牡鹿郡と言っても漠然としており、桃生・本吉が建郡されていない時代であった為、両郡の境も不確かであり、両郡の一部も牡鹿郡に含まれていたと思われる。また、葛西領内の各郡には他の鎌倉家人の領地も点在し、最初の頃の葛西領はさほど大きくなかった程で、牡鹿郡自体は胆沢・磐井郡の飛び地に過ぎず、領国経営には、地理的不便があったと思われる。寺池はその中間に位置していた。
1190年建久元年大河兼任の乱おおかわかねとうのらんが起こり、その鎮定後に加増され、二郡 が加わり五郡となった。さらに、4代清信が奥州下向の際、本家筋の千葉家や一族の畠山氏より持参した領地があり、栗原郡、登米郡、遠田郡が加わりに領地が拡大したと同時に、清信に同行家臣団も加わり、著しく領内強化が進んだ。従って、鎌倉時代の葛西領は、最初は三郡で、間もなく五郡となり、清信下向ににより七郡となったということが正しい理解と言える。葛西氏自領の本拠地の件であるが、諸説が存在しているが、現在は、寺池説と石巻説が残されている。結論から言うと、寺池説が正しい見方とするのが常套で、石巻の日和山城は出張の城で、寺池城の支城である。何故ならば、葛西氏滅亡後、江戸時代になり伊達家が書き上げた文書作成の折、系譜と本城を石巻説に作り上げた為、正当化させるべきつじつま合わせと思われ、小野寺氏が寺池城主説もこのことから生まれたものである。
領国からみた寺池の位置について
領国からみた寺池の位置はどうであったか検証するとしよう。 陸奥国の中心は多賀城があったが、葛西領は岩手県南部から牡鹿半島まで北上川に沿った内陸と東部沿岸一帯に広がっており、政治的軍事的に交通の要衝であることから、この地方「とよま」は治府として適切な地と考えられる「とよま」寺池地区は、東に北上川・山地、西には大湿源、南は丘陵がつながり、旧北上川は西の大湿原を蛇行して、米山から桃生・飯野川を巡って追波湾へと流れている。北上川の舟便はもとより陸上交通として、北上山地の連なる丘陵地帯は街道として便利でもあり、軍事的にも重要なであった。さらには、北上山地に並行して東に400mから700・800m位の平地があり、その平地を挟む様に南は石巻から北は岩手県境まで連なっている。この丘陵地帯と北上山地の山裾の一帯は、大切な地域であり領主の力を入れる地域であることには間違いがない。それゆえに、平泉では奥過ぎることもあり、石巻では片寄り過ぎて内陸に不便でもある。したがって、多賀国府からも遠からじ、海の玄関の石巻にも近く、北上川の舟便を活用し内陸に通じることもでき、また、陸上交通も、丘陵が連なり北上山地の麓と相対して街道によいという立地でもあることから寺池が治府には妥当な地ということであろう。「五大院抄録ごだいいんしょうろく」の「建久5年4月に平泉から寺池に移す」という記録は真実かと思われる。
注)古代・中世・近代を通じ、近代の大正に至るまで「とよま」と称されるこの寺池地区は、中継的拠点として、その役を果たしたとことは過言でない。
南北朝時代(室町時代前期)の葛西氏について
宗清・清貞父子の南朝への忠節について
建武の中興もわずか二年で、足利尊氏あさかがたかうじの謀反により再び戦乱となった。
1336年建武3年(延元元年)に、尊氏は光明院こうみょういんを擁立したことにより、南北二つの朝廷が並立する。1392年明徳3年に南北合一するまで56年間続いた。
1336年建武3年(延元元年)に、奥州葛西系図によると、奥州葛西五代宗清むねきよ、六代清貞きよさだ父子は南朝方に参じ、北畠顕家きたばたけあきいえを助けて京都神楽岡きょうとかぐらおかで戦った。
梅松論ばいしょうろん」には、この戦いにより「葛西江判官三郎左衛門かさいえのほうがんさぶろうさえもん」が戦死したと記されている。この江判官えのほうがんは、葛西宗清かさいむねきよと思われる。この戦いで勝利を収めた南朝軍 (北畠軍)は、追撃もすることもなく、急ぎ奥州に引き上げている。(足利軍は西国に落ちると同時に)これは、1335年建武2年12月22日に多賀城を出発して、建武3年(延元元年)に早く帰着しているからである。これは何故かと見ると、奥州においては、足利方が急速に勢力を増してきたからであり、葛 西一族の中にも足利方に傾く気配や本流寺池の動きも気になることから早期帰着に至ったと思われる。 足利軍が急速に盛り返し、楠木正成くすのきまさしげ新田義貞にったよしだだ軍を兵庫で撃破し、京都に入った為、後醍醐天皇は吉野に遷幸し、北畠顕家に救護要請を勅令した。これを受け北畠顕家は、奥州の厳しい情勢の中第二次遠征軍を編成して進発した。この時、葛西軍は1500騎参陣したと伝えられている。
1337年建武4年(延元元年)8月に進発し、12月に鎌倉を陥れ、第一次遠征より苦戦しながら西にむかった。
1340年暦応元年(延元3年)3月16日、現在、大阪阿倍野で 大激戦が行われ、南朝方が敗れた。
1340年暦応元年(延元3年)5月22日に、再び足利方と大決戦となり、大将北畠顕家が戦死し、奥州軍は壊滅して敗走した。
石巻に帰着した清貞は、南朝方の再起に苦心していた。白河の結城や常陸の北畠親房きたばたけちかふさに出兵を促したり、国府多賀城攻略を献策けんさく(上位の者や公の機関に対して計画・案 などを申し述べること) したりした。
1341年暦応4(興国2年)に多賀城の攻撃に参加したが、事態は好転せず、一族や家臣の間には南朝への不信感がつのり、清貞とは反対方向に傾いていった。本流の寺池を本拠としている葛西高清かさいたかきよは、北朝の足利方に一層支持するようになり、領内の家臣をまとめる動きをはじめたと言われている。
1341年暦応4年(興国2年)3月に、清貞の姪である葛西遠江守清明かさいとうとうみのかみきよあきを誅伐した趣旨の書が北畠親房に伝えている。清貞も一族内部の統制を図るためと思われる。
この様なことから、清貞に反する者が増え内訌が激しくなった。
1343年康永2年(興国4年)に、清貞は、1339年暦応2年(延元4年)に急逝された後醍醐天皇の菩提を弔って、石巻に供養塔を建てた。1343年「興国4年蓮河れんあ」という供養塔である。恐らくは、清貞の法号が蓮河れんあであるから間違いなく清貞が建てたものである。
1343年康永2年(興国4年)7月13日に、葛西清貞かさいきよさだが没したとある。
これ以後、葛西は急速に北朝方に組みしていった。この様に、葛西宗清・清貞父子が南朝方に積極加的に加わったかであるが、本家の関東葛西と奥州葛西との相克そうこく(対立・矛盾する二つのものが 互いに相手に勝とうと争うこと)であっと思われる。奥州葛西太守の座を不動のものにするために、朝廷の権威が必要で高めることにより、領土と太守の座を守るために得策と考えたかれた。清信きよのぶ下向以来関東葛西と奥州葛西との主導権争いが、両者を相反するものに導いたと思われる。また、この歴史的事態に対して大正時代、1924年大正13年の皇太子御成婚の時、歴史学者大槻文彦博士の努力により、特旨を以て正四位に贈位された。しかし、子孫世系不明の為、1931年昭和6年3月、仙台市新寺小路の成覚寺に「贈位記並辞令書を保管委任した。一族の会議により「他日時機を見て日和山に葛西神社を建立し、贈位記並びに辞令書を移して、皇恩並びに葛西氏累世の事歴を永久に記念すると決定した。
贈位記並びに辞令書の写しは次のとおりである。
               故 葛西清貞 
贈  正四位
   大正十三年二月十一日
   宮内大臣從二位勲一等  牧野伸顕奉
               故 葛西清貞
特旨ヲ以テ位記ヲ贈ル
   大正十三年二月十一日
               宮内省
拝受証
故葛西貞清公に対する贈位記並辞令書遺族の委嘱に
より本日宮城県知事より正拝受保管仕候也
  昭和六年三月十六日
    仙台市新寺小路五二
       成覚寺住職  中村真諦
宮城県知事湯沢三千男 殿


南北朝動乱時の葛西氏状況について
葛西氏内部では、清貞の南朝への忠節は言うまでもないが、寺池を中心とした北部は北朝方に傾いていた。第一次遠征後には、寺池の高清も一致協力体制であったが、第二次遠征の頃から内部対立が起こりはじめた。 奥州領六代清貞きよさだ本家関東葛西惣領ほんけかんとうかさいそうりょうの高清たかきよとの間で、儀礼や支配権等の力関係で、微妙な対立がさらに深まっていった。
関東葛西が下向して以来、寺池に定着したことは確かなことであり、領内の実権に関しては、従通り奥州葛西の宗清・清貞が握り、幕府や対外的なことに関しては本家関東葛西の清信・ 貞清(清貞)が担当していたと思われる。従って、本流の関東葛西と庶流の奥州葛西が寺池に同居していたことには不思議ではない。
石巻は、本城が在ったところではなく、海路の玄関口として、清重の頃から重要な役割を果たしていた「出張りの館」であった。
宗清・清貞父子が本拠を移したのは、1336年建武3年(延元元年)の北畠軍が上洛する前であったか、第一次遠征から帰着し、そのまま落ち着いたとも言われている。石巻(日和山城)は、清貞が没する、1342もしくわ43年康永元年もしくは2年(興国3年もしくわ4年)頃までの7~8年の短期間ではあったが、この地で治府が行われたと言われている。
この様に、本拠を移した理由がある。
第一に、会場の便と多賀城への交通が良かったこと
第二に、南朝方に心寄せる者が、桃生・牡鹿方面に多かったこと
第三に、本流の高清と実権に絡む相克があったこと
等が推測される。 本流の高清は、本流として、領国の実権を掌握する絶好の機会と捉え、活発に足利方に動き出す。
1336年建武3年8月7日に、葛西高清かさいたかきよ足利尊氏あしかがたかうじより「奥陸探題職」を任命されたと言う記録が残されている。
このことにより、葛西一族ないで、高清を取り巻く寺池派が北朝方に傾く一方、清貞を取り巻く石巻派が競い合うようになった。この現れとして、登米町はもとより仙北地方のほとんどの板碑には、北朝の年号が多いとされている。葛西氏南朝忠節の期間は短く、第一次遠征後は挙党体制が崩れていった。
1343年康永2年(興国4年)清貞きよさだが没する前に、高清たかきよ信常のぶつねの後見で奥州領葛西太守になった。奥州下向以来三代経過して関東葛西が名実共に領主なった。
寺池城てらいけじょう保呂羽館ほろはかん)の築城について
城郭の出現は、楠木正成くすのきまさしげ千早城ちはやじょうに代表される様に、鎌倉時代末期~南北朝とされている。この時期の頃から、住居の館となっていたのが城の役目を果 たす様になった。その一方、臨時に使う阻塞そそく類や物見台、とりでが発達して「楯籠たてこもる城」と発展して山城となっていった。この「楯籠る山城」は南北朝にな ると急激に発達し、国人となる有力武士が支配力が強まったころに、平時の時の麓の居館と戦時の「つめ」の山城を包括して城郭といわれ、根小屋式の城がおおくなった。
信長の安土城の出現により、戦国末期から平城や平山城に移行して、城下町を形成するようになり、防禦目的から各大名の政治的、経済的中心として機能して行くことになる。
寺池城の規模と機能は、東北□□の城郭であったと思われる。築城年代は、南北朝時代の城郭造りが急速になっていた頃と思われる。平時には麓の平地の館で生活を営み、戦いとなれば住民も楯籠る体制となっていった。
1331年元元年の元弘の変が起こり、楠木正成が千早城や赤坂城あかさかじょうに立籠り、幕府軍と戦って戦勝利したことが、各地に伝えられ、引き続き南北朝動乱が始まり、地方でも争乱が続き、各領主が築城の必要に迫られ盛んに山城が築かれていった。
この様な状況は、葛西氏が二度遠征をして、奥州~畿内を見聞したことにより、築城の必要性を感じたとも言われている。
寺池の保呂羽館は、葛西氏が寺池に居住する頃から存在したが、本格的な築城に関しては、1338年暦応元年(延元3年)頃、清貞が難波で敗走して、寺池にしばらくの間、滞在した時に築城の議があったかに言われている。が、真に本格的になったのは、七代高清たかきよが太守となり、家臣の小野寺直景おのでらなおかげ等を使い、1362~68年貞治年間に建てられたものと考えられている。その理由は、高清に仕えた小野寺直景が寺池城を築くわけがないことや、その城主になることするは考え難いことと思われるからである。
「仙台葛西系図」では、伊達家が編纂する上で、葛西本拠地を石巻と定め、太守も石巻に居住していると記している。これは、寺池に太守はもちろん居住していない意味を表しているばかりでなく、寺池城主を小野寺直景として、1362~67年に寺池城築城と辻褄合わせした様に思われる。従って、石巻説は間違いで、高清家臣でる小野寺氏が築城して、城主になることはほとんど考えられない。やはり、高清が命じて寺池城を築城したと考えてよいと する事が妥当と思われる。
葛西氏の支配地拡大について
1189年文治5年、清重が頼朝より奥州征伐の恩賞として伊沢・磐井・牡鹿の三郡を賜ったが、まだまだ強力な大名とは言えず、一郡領主でもなかったことでもあり、領内には鎌倉家人や荘園が混在している状況だった。従って鎌倉では目立つ程の大身ではなかった。
このことがかえって功を奏し幕府内の血なまぐさい粛清などから免れることができた。しかも、清重は常に勝利者側に身を置き、一族の畠山重忠や本家筋の千葉家の悲劇を目の当たりしながら難を逃れたりしている。
平泉藤原氏が滅亡して間もなく、大内兼任の乱が起こり、清重等によってすぐ鎮定された。その恩賞として気仙郡、桃生郡が加えられたと言われている。
この後の状況として、1229年~1322年(寛喜~貞永)の頃から、豪族たちは、領国経営に下向し始めた。こらは、在地の者が力が強まり、代官を置いて遥任運営などしていては、足元が危うくなる情勢であった為、鎌倉で安閑として権力闘争などしておれなくなったからである。千葉一族も同様で、関東葛西三代太守清時きよときも領国経営の為に下向したようである。しかしながら、清時には嫡子がいなく、本家筋の千葉頼胤ちばよりたねの子、胤信たねのぶを嗣養子に迎え、名を清信きよのぶと改、家督とした。御年15歳であったと伝えられたている。
1276年建治2年10月、家督を嗣いだ清信は、奥州に下向した。その折に千葉・畠山の両家から葛西領に接続する栗原・登米・遠田の三郡の領地を与えられ、家臣数百騎に守られ下向したと言われている。
しかし、与えられた三郡といえども、郡内に点在する所領なので、実質領地としてはさほどのものではなかったようであり、同行家臣数百騎の数などは言い伝えられたもので、誇張されたもと考えられる。しかしながら、この頃、 千葉・畠山の一族は、奥州に所領する土地を清信下向にあたり与えたのは、奥州での一族の強化を図る狙いがあったと思われる。これにより、飛び地であった牡鹿方面と磐井方面が、点であった寺池を包含して所領の一体化となったことは言うまでもない。登米・遠田両郡には千葉氏の所領が多く、栗原郡には畠山氏の所領が多かったことも忘れたはならない。
南北朝時代に入ってからも、領地拡張が続いたもようである。本吉郡も勢力範囲となり葛西領地が7~8郡に及ぶほどになったが、一円領主までにはなれず、不安定な基盤であったことは間違いないと思われる。
1336年建武2年(延元元年)に、熊谷氏や馬籠氏を攻略して、本吉北部と気仙方面を傘下にした。
熊谷・馬籠氏は滅亡することなく、本吉に根を下ろし葛西氏に最後まで臣従したと言われている。
南北朝以後の葛西領内は、離合離散を繰り返し、混迷の時代であったようである。各氏族は、太守に絶対服従することもなく、個々に独立体制を構築してようで、事を運ぶとなると合議によって体制が動いたと言われている。封建制が確立するなかでも、葛西氏は太守を取り巻く氏族の集合体で、背いて は従い、従っては背く様な状態で、「主が不徳なら臣も離る」状況であったと思われる。しかしながら、室町時代中期を過ぎると、権威や名目だけでは領内を保つことが不可能となり、やはり、太守たるものが、権力を持ち、強固 な組織力(軍事力を含む)を構築するし、迅速な対応することが不可欠となる時代を迎えることになる。
1469年文明年代の頃、葛西氏は十三代満重みつしげ(後の政信まさのぶ)の時代である が、領内改革を実行に移らざるを得ない状況に陥ったからである。
その理由は、領内の擾乱が起こり、各地で騒動が相次ぎ、葛西氏自体が滅亡の危機に陥ったからである。太守政信(満重改め)は、妨げになる家臣を排除することで、この難局を乗り越えることができたと言われている。
1504年~15年の永正年間には、葛西氏十四代太守晴重はるしげの頃、他諸氏を排除すべく攻略をはじめた。
1511年永正8年に、桃生の山内首藤やまうちすどう氏を討ち、登米太郎行賢とよまたろうゆきかたを臣従させ、江刺元良えさしもとよし氏を討つなど、急速に領地を獲得し、諸氏を家臣団に組み入れ領内一元化の構築を図ったと言われている。
特に、1511年永正8年の「いたち沢」の戦いについては、石巻城主葛西宗清かさいむねきよが桃生郡の山内首藤やまうちすどう登米太郎行賢とよまたろうゆきかたなどを攻め、石巻から清水川(志津川)に上陸し、北上山地を越えて米谷まいやを排除し、更には楼台を攻め登米行賢(伊藤豊後と記されているが、恐らくは、登米太郎行賢と思われる。登米太郎は、玉山の月輪館の附近で、楼台の近くに住まいして思われるからである。) を、宗清軍は「いたち沢」に追い詰め降参させたと言われている。この後、登米太郎は、葛西氏に臣従することになる。
さらに、大崎氏との境界線での争いが絶えず、常に対立関係にあったとされ、時には伊達の仲裁や干渉もあったが、文明年間より両者滅亡するまで対立は途絶えることなく繰り返されたと記されている。
一つの事例として、文明年間の伊達仲裁が入った例がある。
1472年文明4年に、伊達仲裁により、遠田郡よ小田郡(荒谷・田尻・崑嶽ののだけ・南方の地域)を交換する領域協定がなされた。
小田郡は大崎氏拠点の古川に近く、遠田郡は葛西氏拠点の寺池に近く、双方とも本拠地への脅威がなくなることからと考えられる。しかしながら、20年も経たぬうちに、佐沼方面で戦いが始まり繰り返し争いが起こったと言わ れている。 ちょうどこの頃は、葛西領内統一も進み太守の力も増大しつつある時期でもあり、しだいに大崎を圧迫し始めていた。
1560年永禄3年に、葛西十七代晴信は、遠田郡全域を取り戻し、領内に残る他氏をも征伐して家臣団に組み入れた。
領内は元亀・天正時代になっても、領内での小乱が絶えなかったが、葛西の領地が田尻・松山・黒川にもおよび、胆沢(奥州市江刺区)・東磐井・西磐井・気仙・本吉・登米・栗原・桃生・牡鹿・遠田郡の10郡にもおよび石高35万石と呼ばれる大大名になっていたと思われる。
元亀・天正の頃には、日本の戦国末期で、中世の殻を打ち破り、新たな戦国大名が台頭し始めた時代でもあった。しかし、葛西氏は古い慣習から抜け出すこともできず、新たな時代に対応した組織作りが遅れ、領内統一も遅れ気味となり、他氏、特に、伊達の巨大化が進んでいるのを見過さざるを得なかった。依然として、葛西領内の小競り合いが続き、外への働きかけもできない(今で言う外交)状況で、領内統一が出来つつある頃には、天下の情勢も 大きく変化し、豊臣の全国統一が間近に迫っていた。やがて、奥州仕置きを迎え葛西氏滅亡の時期を迎える。

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
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本吉郡(本吉町誌)中世編(葛西一族関連)
○領地について(本吉郡地域)
頼朝の奥州征伐後に、本吉郡は北方(気仙沼市周辺)は武蔵の熊谷氏に与えられ、南方(志津川町以南)は初めの頃葛西領内となった。熊谷領と葛西領の中間には、荘園地帯(本吉庄・小泉庄)があり、この時までは荘園庄司の佐藤氏が安堵されていた。 *鎌倉時代の東北地方の所領は、公領や荘園の地頭職のことであり、領地ではない。地頭職は、公事や年貢の勧奨推進、領内の治安維持等にあたる。持分としては給田と称して年貢免除の職田が与えられていることである。
本吉地方の葛西の所領について
吾妻鏡・中尊寺文書・五大院記録などから鑑み、初期の葛西領五郡二保とは、江刺・胆沢・磐井・登米・牡鹿の五郡と桃生郡内中部の山口首藤領と、南部の深谷地方を除く南北の二箇所と思われる。
その桃生郡北部の葛西領が、現在の本吉郡に当てはめると、「本吉郡南方」と称される志津川町(但し入谷を除く)・津山町、現在、桃生郡北上町に属する十三浜地方の十二邑が領地で桃生郡内に当時はあった。
入江邑朝日館いりえむらあさひかんは建久年間葛西氏により再興され、城代が置かれていたと思われ、志津川周辺は葛西氏の直轄領とも伝えられている。従って、後に、西館にしだて氏(本吉大膳もとよしだいぜんの始祖)が、この地を与えられてもおかしくないと考える。それゆえに、本吉郡の入江邑に隣接する清水浜(現在の志津川町内)も、鎌倉時代には葛西氏に属し、地頭が置かれていたと思われる。
丹墀姓 たんじせい 熊谷氏系譜(以下熊太系譜と称す、元気仙沼熊太家所蔵)によると、直能なおよしの譜に次の記事が出ている。「直能 直光第四男 母葛西家臣本吉郡清水邑主清水修理平信久女 弘安三年庚申生赤岩云々」(1280年弘安三年) 譜中の直能は、奥の正方寺二世月泉良郎 げっせんよしろうの父とも言われ、1336年建武三年馬籠合戦 まごめがっせんにおいて二人の子と共に戦ったと言われている。  桃生郡内ではないが、入谷邑の西側に隣接する米谷邑にも、早くから葛西家臣が来住しているようである。大上千葉系譜(本吉町平磯大上千葉進氏所蔵)によると、千葉新介胤正 ちばすけたねまさの三男胤親 たねちかの後裔亀卦川三郎胤氏 きけがわさぶろうたねうじは、葛西清信 かさいきよのぶに従って1376年建治二年十月に下向し、登米郡米谷邑 とよまぐんまいやむらに居住している。米谷亀卦川は葛西が滅びるまで続いたようである。
・1189年(文治五年)9月20日、、熊谷くまがや氏所領について、頼朝より、武蔵国熊谷むさしのくにくまがやの住人、、熊谷小次郎直家くまがやこじろうなおいえに、気仙沼地方に地頭の所領を賜った。熊太系譜によると、「本吉郡気仙沼荘七県及び数邑」と伝えられている。直家なおいえは1198年(建久九年)3月に、、安芸国あきのくにの奉行となり、、豊田郡高山城とよだぐんたかやまじょうに移居し、長男、直国なおくにも父直家の後を嗣いで、高山城主たかやまじょうしゅになったので、気仙沼地域には熊谷直家父子は来住しなかったようである。これは、奥州征伐によって鎌倉御家人に与えられた奥州の所領は、大方嫡子系以外の庶流に与えられた傾向があり、熊谷氏も同様で、1196年建久七年に生まれた、二男平直宗たいらのなおむねに与えられたようである。
・1223年(貞応二年)8月に、熊谷直宗くまがやなおむね奥州主政おうしゅうしゅせい(郡司の三等官)となり「本吉郡食邑一千余町、於桃生郡二千余町之地」を賜り「本吉郡計仙麻(後改気仙沼)新城邑赤岩城」に移り住んだと言われている。このことより、居城が新城邑赤岩城であることが判断できる。 しかしながら、「本吉郡食邑(知行所、領地)一千余町」は、気仙沼地区ではなく、気仙沼に接する松崎邑から旧階上村を経て旧大谷村の平磯に至る七邑を指すものと思われる。七邑とは、松崎・岩月・長磯・波路上はじかみ・岩尻・平磯の邑々である。この地域は、平泉藤原氏の末期本吉郡を宰領さいりょう(監督すること)した、本吉冠者高衡もちょしかんじゃたかひらの老臣大谷太郎おおたにたろうが大谷において支配していた地域と言われている。
津谷邑つやむら以南は小泉荘などの荘園地域で、この地域の荘司であった馬籠邑信夫館まごめむらしのぶかんの佐藤氏が所領安堵されたところである。従って、本吉郡の全域が熊谷氏の所領であることにはならない。
※本吉郡は、平泉藤原時代の末期に桃生郡の中に、松崎を北限にしできたものと思われる。鎌倉時代に入ると、気仙沼地方は桃生郡の飛び地のようなところになってみたり、南北朝時代になると気仙沼地区も葛西領となり、気仙郡のうちとされたようである。 しかしながら、気仙風土草けせんふうそう気仙郡相原友直けせんぐんあいはらともなお記)には、長老の話として、気仙郡を30邑又は33邑といって、気仙沼地方を入れていた模様で、33邑には旧階上村地区も含まれていたように記 されている。旧階上村地区は、気仙沼地区を本拠とする熊谷氏の所領でもあったので、気仙郡からみた場合に気仙郡内と見られていたものと推測される。
封内名跡志ほうないめいせきしには、気仙沼地区が、本吉郡になったのは永禄年間(1556~1580年)であったと記されいる。真さに、葛西氏が勢力拡大していた時期でもある。
本吉郡
「古桃生郡にぞくしす。後桃生郡と割て本吉郡を置く。今の気仙沼七村は、古気仙郡に属せしを永禄中復□本吉郡に属せり」と記されている。
本良荘・小泉荘について
本吉郡についての初期のころは、本吉郡の範囲や本良荘・小泉荘の明確に記されたものが存在しない。
頼朝の奥州征伐後に、葛西氏と熊谷氏に与えられた所領の間に残された、入谷・歌津・小泉・馬籠・山田・津谷の六邑(郷)本良荘・小泉荘の荘園地帯と推測される。
本良荘は、志津川町一体と伝えられていたが、奥州征伐後は、大半が葛西領となり、僅かに残されたのが、入谷・歌津の二邑だけとなった。
小泉荘は、本良荘に続く小泉・馬籠・山田・津谷の四邑と思われる。
小泉荘から北辺は、平磯~松崎に至るところで、平泉藤原時代末期の頃から、本吉冠者高衡の老臣大谷太郎が大谷に居を構え支配していた地域であるが、奥州征伐後に熊谷氏の所領となっている。 この様な形になっているが、この荘園地帯の六邑と大谷太郎が支配した七邑を合わせた十三邑は、本良郡が配置されるはじめの頃、平泉藤原秀衡が、本吉冠者高衡に命じ宰領(監督)させたところ でもある。
又、葛西真記録かさいしんきろく盛衰記せいすいきには、竹駒郡(葛西氏の私称)の内に本吉十二邑(郷)とあり、一邑の相違があるが、初期の本吉郡を指し、鎌倉時代を越え室町時代まで続いたと言われている。

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西所領関連 郡の動き>>

○南北朝時代(室町時代前期)の葛西氏について
本吉郡についての葛西氏
本吉郡は気仙郡と共に、鎌倉時代を通して葛西氏の所領にはなってはいない。鎌倉時代末期の本吉郡の北方(平磯邑ひらいそむら以北)は熊谷氏、南方(津谷邑つやむら)は馬籠千葉まごめちば氏の所領であったからである。葛西氏が本吉郡を制圧して領有するのは、南北朝時代の初期の頃、建武年間で、葛西高清かさいたかきよの時代であった。
中舘系譜に、葛西高清について記されている。

高清たかきよ 葛西八郎左衛門尉かさいはちろうさえもんのじょう、從五位下 因幡守いなばのかみ(陸奥守)、達弓馬、長武略、北条相模守高時ほうじょうさがみのかみたかときいみな字・・・中略・・・建武二年十月(十脱ヵ)七日為勲功賞陸奥国本吉、気仙両郡之由、依後醍醐天皇勅命 奥州國司鎮守府大将軍源中納言顕家卿賜下文云々

高清にどのような勲功があったかは明らかではないが、顕家から賜った下文とは、大槻文彦博士が「平泉中尊寺東谷□蔵記録にあり」として伝える執達状があると思われる記文がある。

陸奥国元(気)良(仙)郡(郡)  右為 勲功之賞支配也依執達如
   建武二年十月十七日      顕家判
     葛西陸奥守殿

右については大槻博士は「文案書式も法に違い 其外怪むべきかどのみ多かれど、しばらく掲げて参考に資す」とある。
気仙沼の桑園記録には、これと同じ内容で、ただ顕家の名に北畠姓を付けただけが違い執達状が葛西姓の旧家に伝えられている。
陸奥守が陸奥守に宛てた執達状は、疑わしい文書であることには間違いがない。しかし、これを葛西氏側の記録としてみれば、
・1335年建武2年は、まだ本吉・気仙両郡は葛西領でなかった事を意味する。
・1335年建武2年12月、陸奥守・鎮守府将軍北畠顕家きたばたけあきいえは、奥州勢を率いて多賀城を出発し、鎌倉から足利尊氏を追い出し上洛した。
・1336年建武3年正月13日(同年2月29日南朝年号延元となる)近江に到着して京洛の敵勢と戦い、正月三十日足利勢は敗れて尊氏は九州に敗走した。
この戦闘で奥州勢の葛西江判官三郎左衛門が、正月二十八日京都神楽岡で新田義貞の身替わりとなって戦死した(「梅松論」)。 葛西江とは「葛西」が奥州なまりで「カサエ」と聞こえたのであろう。又渋江(葛西庄内)の判官ほうがんの意ともいう。
葛西江判官左衛門かさいえのほうがんさえもんとは、1288年正応元年7月9日の中尊寺文書には葛西三郎左衛門宗清かさいさぶろうさえもんむねきよのこととされている。宗清むねきよは嫡子清貞きよさだと共に、奥州勢中最大の兵力を率いて従軍したと言われている。 葛西軍の中には、奥州葛西領に居住していた関東葛西氏の惣領高清そうりょうたかきよも手勢を率いて従軍していたという。中舘系譜によると、
・1336年正月27日京都七条河原において、高清の弟葛西孫八郎信□(21歳)も戦死している。
・1336年3月10日義良親王よしのりしんのう陸奥大守むつたいしゅに、北畠顕家きたばたけあきいえ陸奥大介むつだいすけに任命され、4月京都を去り、5月末多賀国府に戻った。
しかし、葛西高清かさいたかきよは一足先に帰国し、三月には既に登米とよまにいたようである。奥州情勢が緊迫化した理由から早急に帰国したと思われる。しかしながら、帰国後の高清の動きは、多賀城の警備した気配もないところか、逆に顕家や葛西勢の留守を狙ったと思われる行動にでた。
・1336年4月になると、本吉郡の馬籠に進出し、地頭の千葉周防守行胤ちばすおうのかみゆきたねを威嚇牽制し降伏を強要して、寺池に引き返した。
この事を物語る様に「熊太説」に次に記されている。
奥州探題葛西高清が手勢を率いて本吉郡の馬籠に現れ、地頭千葉周防守行胤の居館を襲い、降伏を強要した。行胤は、これに屈せず応戦したので、高清は、後日大軍で来襲すると威嚇して登米寺池に引き揚げた。行胤は、すぐに気仙沼赤岩城けせんぬまあかいわじょう(新城邑)の熊谷佐渡守直時くまがいさどのかみなおときに状況報告するとともに、高清が後日大軍で来襲することは確実として熊谷氏の救援を求めたとある。
何故に、馬籠千葉氏が気仙沼の熊谷直時を頼ったかであるが、熊谷直時の母は、馬籠千葉氏の娘で行胤の伯母にあたり、両家は姻戚関係であったからである。直時は、事態の深刻さを受けとめ、万一千葉氏が敗退すれば、次に赤岩城が襲われると判断、一門の総力を挙げて救援する決意をした。
・1336年建武3年4月21日に、葛西高清が大軍を率いて馬籠に攻め込んだ。高清軍は、高清手勢ばかりでなく、臣下の諸勢も各地から参陣した模様である。一方、馬籠千葉勢は、遠野城とおのじょう千葉周防守刑部行胤ちばすおうぎょうぶゆきたね嫡子新左衛門胤宣しんさえもんたねのぶ・次男の帯刀行重たてわきゆきしげ・三男の小五郎広沢こごろうひろさわ・行胤の弟掃部丞胤久かもんのじょうたねひさ・同じく弟三郎右衛門尉行範さぶろううえもんのじょうゆきのり・宗族従兵騎歩僅かに五百の輩と記されている。
援軍の熊谷勢は、直時の嫡子弾正忠直明だんじょうちゅうなおあきに赤岩城を守らせ、親族八人の総力を挙げ馳せ参じている。総大将は、赤岩城主熊谷佐渡守直時くまがいさどのかみなおとき・直時の弟桃生郡寺崎邑主てらさきゆうしゅ四郎左衛門尉直能しろうさえもんのじょうなおよし(手勢百余人)、同じく嫡子小平次直常こへいじなおつね、同じく次男九郎直朝くろうなおとも、さらに、直時の弟気仙沼庄けせんぬまのしょう掃部助直嗣かもんおすけなおつぐ(手勢百余人)、同じく気仙沼庄けせんうまのしょう六郎左衛門尉顕直ろくざえもんのじょうあきなお(手勢百余人)、同じく弟洲崎の洲崎館主すさざきかんしゅ七郎左衛門尉直久しちろうさえもんのじょうなおひさ(手勢百余人)、親族八人・宗族従卒騎兵総勢六百余りと言われている。
これらの馬籠勢は、遠野館に立籠り高清軍と対峙した。伝えられていることとして「馬籠塞まこめさいに立籠る」とあり、「馬籠塞まごめさい」は遠野館のことである。遠野館の城館跡から見ると、周囲が険しい断崖に囲まれ、二重の空濠や土塁があり、典型的な戦国時代の城構えと推察される。
馬籠合戦には、天然の要害に馬籠勢は立籠、土塁を背後に陣を構え、葛西軍は馬籠塞を囲むように配陣し、攻撃を続け伝えられている。
この馬籠塞は、現在、馬籠小学校のある午王野沢の台地が、昔から陣平じんだいらとも言われ、昔の遠野館跡が見通せる場所であり、葛西軍が本陣を置いたのではないかと思われている。 また、寺要害や下要害と呼ばれる字名は、馬籠合戦によって生まれた地名でもある。大正時代にこの地の畑から朽ち果てた刀剣出土したりしている。
馬籠合戦は、馬籠勢にとって多勢に無勢で次々と壊滅、最後は、城中にあって勇猛果敢の行胤の長男胤宣と直時の末弟直久が生き残り、残った兵たちと城を固守して敵勢を寄せつけなかったと言われている。
葛西高清のねらいは、千葉氏を壊滅させることではなく、降伏をさせることが目的であったと思われる。
それは、高清が遠野城の附近に監視勢(佐藤氏等)を配陣させて馬籠を去り本拠の登米寺池へ引き揚げたからである。
さらに、葛西軍が引き揚げたすきを見て、熊谷直久も残兵をまとめ気仙沼の地に引き揚げた。
馬籠合戦で葛西氏に参陣した武将は、気仙郡矢作けせんぐんやはぎに住む千葉重胤ちばしげたね、藤沢の岩渕氏、同族の涌津わくつの岩渕氏、信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継さとうひょうごのすけのぶつぐ等である。気仙郡矢作の千葉重胤は、葛西高清に威嚇され降伏し参陣を余儀なくされ臣下となって功を挙げ高清より本領安堵をされた。涌津岩渕氏は、孫六郎直経ろくろうなおつねが高清に従い参陣して、軍功を挙げて磐井・胆沢・本吉・気仙・登米の五郡内に采地五百 余町を賜った。信夫庄司の後裔佐藤兵庫介信継も高清の臣下となり参陣し、戦功を挙げて「信夫邑の馬籠塁(馬籠邑信夫館)」に居住を許された。
・1337年建武4年(延元2年)正月、多賀城の北畠顕家きたばたけあきいえ義良親王のりよししんのうを奉じて伊達霊山だてりょうざんに移り、南朝方は次第に衰退してゆき、多賀城も足利方に属するようになった。
・1337年建武4年8月11日に、北畠顕家は義良親王を奉じて、再度上洛の途についた。石巻日和山城の葛西清貞も遠征軍に加わり、葛西領からも多くに家臣団が従軍したと思われる。
・1337年建武4年8月に、葛西高清かさいたかきよは、遠征軍に参陣せず、南朝を離脱したようである。顕家が霊山を出発した8月には、気仙郡に侵入して、地頭金弥四郎俊清こんしろうとしきよを襲い降伏させた。阿部姓の金家系譜(岩手県大東町金一弥氏所蔵)によると、金俊清こんとしきよは北畠顕家に味方していたが、葛西高清に攻められ、敗れ降伏した。それにより高清の臣下となり、旧領を安堵されたと伝えらている。
さらに、気仙郡の南方の矢作の千葉氏(馬籠千葉氏の分流)は、馬籠合戦の直前には降伏しており、気仙郡も本吉郡と同様に高清に掌握されたことがわかる。しかも、葛西領内の反高清の家臣も降伏させたことは言うまでもない。この様に、高清は次第に勢力を拡大し、臣下となる武士を増やしていったと思われる。
・1338年暦応元年(延元3年)の北畠顕家第二次遠征軍は、敗退し、5月22日和泉国石津いずみのくにいしずで顕家並びに多くの武将を討死させている。
・1338年暦応元年8月に、足利尊氏あしかがたかうじは征夷大将軍となり、権勢を思うがままにうごかした。
・1339年暦応2年5月に、葛西高清かさいたかきよは上洛し、足利尊氏より葛西領の太守として認められたが、石巻日和山城には葛西清貞が南朝側の葛西太守として存在していたので、足利政権からはあまり重宝されなかったようである。
このことは、盛岡葛西系図・高野山五大院系図の高清の所に記されている。

盛岡葛西氏系図には
「建武三年四月、奥州本吉郡真籠もとよしぐんまごめ(馬籠)城主千葉因幡守ちばいなばのかみ周防守すおうのかみの誤記)平行胤たいらのゆきたね北条家に党する。高清これを討つ。本吉・気仙南部を掌握し奥七郡の太守となる。」
「高野山五大院系図」の高清の項には
「建武三年四月、奥州奉行人、同国本吉郡馬籠もとよしぐんまごめ城主千葉周防守ちばすおうのかみ平行胤たいらのゆきたね楯鉾たてほこに及び合戦し大利を得。是れより近郡諸将と争戦す、暦応二年五月、咎に於いて宮方討平げ上洛奉謁。将軍尊氏卿因幡守に任じ、奥州北方探題と為りて下向す。云々」

登米郡についての葛西氏
葛西氏系図及び五大院の記録によると
登米郡の寺池とめぐんのてらいけは、初代清重きよしげにより、1194年建久5年4月以降に、葛西領の本拠地とした。しかし、登米郡の全域が、はじめから葛西領ではなかった。鎌倉期の寺池邑てらいけむらに隣接する新井田邑にいだむらには、鎌倉御家人の新田にいだ氏が居住していた。登米郡における初期の葛西領は、古代の郷里制(倭名抄)のころの登米郷とよまのさとと称された地方(現在の登米町、東和町、豊里町)を所領としていたと思われる。
葛西清重かさいきよしげは「吾妻鏡」によると、平泉に奥州征伐後留まり、翌年まで滞在し、それ以後は鎌倉から海路石巻を経て平泉に至る往復を繰り返していたようである。1195年建久5年頃になると奥州奉行の戦後処理の任務を終わりに近づき、平泉には一族を置き、奥州の広大な所領の本拠地を登米郡の寺池を選んだと思われる。
言い伝えとして、葛西清重がはじめの頃、仮屋城かりやしき(稲井町)に住まいしたとか、中野の七尾城(河北町)に居たとか言われているが、鎌倉と平泉の間を往復する途中に立ち寄って一時滞在したことが、この様に伝えられたかと思われる。
葛西清重は、鎌倉幕府の重臣として将軍に近習することになり、建久年間頃から鎌倉葛西ヵ谷かさがやの居館に常駐することになり、奥州寺池には代官を置くことのなったと言われている。清重は、老境に入り出家して、壹岐入道いきにゅうどうとなった。関東本領は嫡男清親きよちかに相続させ、奥州の所領は二男朝清あさきよ(奥州代官と思われる)に与えられたと言われている。朝清のその後裔は、葛西領太守として引き続き寺池城に居住したようである。
注1)1276年建治2年に、鎌倉在住の本家嗣子の葛西清信かさいきよのぶが下向し寺池に住むことになり、両葛西家が絡み合う事態を引き起こすことになった。南北朝時代に入ると建武新政が始まり、奥州葛西は、石巻日和山城に移住して、南朝方の最大の忠臣に成長したと「白河文書」に記されている。
注2)中舘系譜(本吉町の朝磯の中舘家に伝わる系譜)には、葛西末期志津川朝日館に居住した本吉大膳や同族の中舘氏の系図が残されている。その中で、西館氏の始祖西館五郎重信にしだてごろうしげのぶは、九代葛西太守葛西満信かさいみつのぶの五男で登米城とめじょうで生まれ、登米城の西館に住んでいるところから西館にしだて氏と称されたようである。
   中舘系譜(略記)
本吉郡が葛西領になると、津谷に米倉氏、山田氏、菅原氏、馬籠に馬籠(千葉)氏、佐藤氏が配属された。これらの家臣は、葛西高清の代にその臣下となったものである。

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西所領関連 郡の動き>>

○葛西家臣団拠点の築城について
志津川町(但し入谷を除く)・津山町、現在、桃生郡北上町に属する十三浜地方の十二邑が領地で桃生郡内に当時はあったこの領域が、当初より葛西領であったならば、鎌倉時代には既に家臣に拝領されているわけで、志津川の朝日館に葛西氏の城代がいたと思われる。
志津川町海円寺所蔵の古書に、行場山および神明社の由来が記されている。
奥州葛西庄かさいしょう桃生郡元良荘内入江邑ものうぐんもとよししょうないいりえむら朝日館あさひかんは、建久年間葛西清重かさいきよしげが、桃生の柵の旧跡を再興して要害とした。城代が遵職の始め、東方外面の山に、鬼門塞ぎの山社を建立したのが神明舎で、当時の神主佐藤蔵人さとうくろうどが祈祷行事の場を里人が行場山呼んだ」(略記)桃生柵の旧跡とは、桃生城の前進拠点と言われている。
津谷邑つやむらに接する平磯ひらいその前浜に、館跡があり古館こだてと呼ばれている平地の館が存在する。平館でもあり、戦国時代の館ではないと思うので、恐らくは、熊谷氏一族・家臣のはじめの奥州所領の拠点と推測される。
馬籠邑まごめむらについて
馬籠邑には、信夫館しのぶかん遠野館とうのかんがあったと言われている。
信夫館は、馬籠信夫地内が、平泉藤原時代に本吉郡の荘園地帯(本吉庄・小泉庄)で、信夫庄司しのぶしょうじ佐藤家信さとういえのぶの領地であったと思われている。
信夫庄司の本拠地は信夫郡(福島)飯坂にあったので、本吉郡には一族を配置して本吉の佐藤庄司としていた。佐藤庄司の居館は飯坂と同様信夫館と呼ばれた。信夫館には馬籠合戦以降に佐藤氏が居住していたが、戦国時代に入ると馬籠大柴の奥地に上信夫館を築き移住したと言われている。信夫館は古代からの館で、戦国時代の館としては相応しくない場所であったり、館の構造でもあったからである。
信夫館には、佐藤信継さとうのぶつぐが館主で、信夫庄司佐藤家信の二男の後裔で、鎌倉期に北条氏に属していたが、北条氏滅亡後に奥州に帰り、信夫郡飯坂の大鳥城に居住していた。建武のはじめの頃、葛西高清の臣下となり、馬籠合戦で功を挙げ馬籠の信夫館に住まうことが許された。
葛西高清がこれを許したのは、そばに千葉氏の住む遠野城があり、信継を千葉氏の監視として信夫館居住が許されたものと思う。
・1439年永享11年元日9日に、五代信季のぶすけは、葛西伯耆守持信かさいほうきのかみもちのぶ大崎左京大夫満持おおさきさきょうだいぶもちのぶとの戦で、栗原郡佐沼にて大崎方屯将松山平左衛門康次まつやまへいざえもんやsyつぎ及び武将5人を討ち取ったり、抜きん出た功を挙げたことにより、采地を加増されたと伝わっている。
・1421年1応永28年2月に、五代信季の弟五郎信行ごろうのぶゆきは、葛西持信かさいもちのぶより切符月棒きっぷげっぽう」を賜り登米城に仕えた。
・1424年応永31年8月に、五代信季の弟五郎信行ごろうのぶゆきは、功により登米郡内に采地2百余町を賜り、郡内の弥勒寺邑みろくじむらに居住した。
・1439年永享11年8月に、葛西大崎の佐沼合戦に参陣して31歳で戦死したという。
・1504年永正年間に、佐藤氏は信夫館を退去したと言われている。弟信宗のぶむねは、下信夫館(大東地内)に住んみ、八代信郷のぶさと 佐藤四郎大夫 佐渡さとうしろうだいぶさどは、上信夫館(大柴奥地)を築城し居住した。
・1521年大永元年に、佐藤氏九代信基のぶもと 佐藤彦四郎 越前さとうしろうえちぜんは、葛西左京大夫持信かさいさきょうだいぶもちのぶに仕え、登米郡に采地百貫文余りを賜り、寺池城下に居住したと言われている。
・1562年永禄4年に、佐藤氏十代信敬のぶたか 佐藤小次郎 越前さとうこじろうえちぜん(初名信種のぶたね)は、葛西晴信かさいはるのぶに仕え、清水村・登米郡浅部村・黒沼村・吉田村等及び先代からの遺領一万二千五百苅の領知の「晴信状」を受け取ったと伝えられている。信敬の室(妻)は、葛西家一族馬籠大和重吉まごめやまとしげよしむすめである。
・1587年中頃に、佐藤氏十一代信貞のぶさだ 佐藤弥次郎 筑前さとうやじろうちくぜんは、葛西晴信かさいはるのぶの近習であった時、葛西支族浜田安房守広綱はまだあわのかみひろつなが叛乱を起こし近隣に侵入したので、葛西晴信は軍勢を率いて気仙沼篠筒嶺ささがねに陣を構え浜田勢を迎え討った。この時、信貞のぶさだと弟信時のぶときが参陣し、浜田先鋒の将及川太郎政長おいかわたろうまさながを討ち取り、6月3日に晴信より江刺郡小田代邑おだしろむら蔵沢邑くらさわむらを合わせて、稲田五千苅の地を加え賜われ証文を授けられたと伝えられている。
・1590年葛西家滅亡後、信貞は、1590年葛西家滅亡後、馬籠邑大柴に居住して、大柴佐藤家の祖となった。

遠野館とおのかんは、馬籠上沢地内遠野沢まごめかみさわちないとおのさわあたりにあった。
・1289年正応2年に、馬籠千葉まごめちば氏が鎌倉幕府直属の地頭として下向した。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、馬籠千葉まごめちば氏三代目周防守刑部行胤すおうのかみぎょうぶゆきたねが、葛西高清かさいたかきよに襲われ討死した。
・1339年暦応2年6月に、生き残った馬籠千葉まごめちば周防守刑部行胤すおうのかみぎょうぶゆきたねの長男胤宣たねのぶが、葛西高清に降伏し、葛西の傘下になったと伝えられている。これ以後、馬籠千葉氏は「馬籠」と苗字を改称した。
・1590年天正18年に、葛西氏滅亡後、馬籠氏嫡系は、津谷城の下に移り住み、真田まだの木屋敷と称して鍛冶を生業とし伝えられている。
山田邑やまだむらについて
山田邑には、八幡館やわたかん要害館ようがいかん要害ようがいがあったと言われている。
八幡館は、山田表山田地内やまだおもてやまだちないに位置している。
安永風土記あんえいふうどきには、「八幡館 高五丈 南北拾八間 東西弐拾壱間 右 館主葛西晴信公家臣山田対馬長時やまだつしまながとき」とある。
仙台領古城書上せんだいりょうこじょうかきあげには、「東西七十間 南北二十間 城主菅野対馬かんのつしま」とある。しかしながら、菅野は間違いで山田氏の本姓は菅原であるので、恐らくは、誤記と思われる。
・1336年建武3年7月に、山田氏の先祖菅原長顕すがわらながあきは、奥州に下向し、国司北畠顕家きたばたけあきいえに属して伊達郡石田郷だてぐんいしだのさとに住まいした。
・1338年~1342年暦応年間に、葛西高清かさいたかきよの臣下となり、采地五百貫を領して桃生郡長井郷に居住したと伝えられている。
長顕から三代目長朝ながともの二男朝光ともみつ葛西満信かさいみつのぶの近習となり、桃生郡津谷川邑に分居居住したと言われている。
菅原長房すがわらながふさは、菅原藤四郎すがわらとうしろう 忠右衛門尉ちゅうえもんのじょう 宮内少輔くないしょうゆうとなり、葛西重信かさいしげのぶ(後の稙信たねのぶ)の近習となった。
・1488年長享2年10月に、菅原長房すがわらながふさは、采地百余貫を給わり、郡内の山田邑に居住し、家号を山田氏と称した。
長房二代目、長秀ながひで 山田藤九郎やまだとうくろう 新右衛門尉しんうえもんのじょう 掃部助かもんおすけは、葛西重信かさいしげのぶ(後の稙信)の近習となり、弓馬の達人で所々で葛西合戦で度々武功を挙げたと言われている。
菅原長房の家譜 長房ながふさ(初代)------長秀ながひで(二代)-----長家ながいえ(三代)----長時ながとき(四代) --------
四代長時ながとき 山田藤四郎やまだとうしろう 権左衛門尉ごんさえもんのじょう 対馬つしまは、葛西晴信かさいはるのぶの近習であり、山田邑鶴館やまだむらつるかん(自称)城主と自ら名乗っていたという。
・1558年天正16年4月16日に、長時ながときの長男山田太郎三郎道長やまだたろうさぶろうみちながは、気仙沼浜田の戦いで、笹ガ嶺麓ささがねのふもとで討死したと伝えられている。
・1591年8月14日に、長時ながときは、、桃生郡深谷の須江山すえやまで伊達勢に斬殺された。長時の弟長周ながのりも兄と共に殺された。
・1515年頃永正年間に、磐井郡津谷川邑つやむら菅原朝房すがわらともふさの三男小四郎直方こしろうなおかたは、馬籠邑主まごめゆうしゅ馬籠修理政次まごめしゅりまさつぐが葛西宗族本吉大膳信胤もとよしだいぜんのぶたねの叛乱で清水川(志津川)の戦いに馬籠氏を応援従軍して先陣をとり軍功を挙げたので、葛西稙信かさいたねのぶより本吉郡小泉邑及び山田邑などの所々に采地百余町を賜り屯将にされた。長方ながかたの室(妻)は、馬籠修理政次もむすめと言われている。
長方の長男菅原孫四郎長成すがわらまごしろうながなりは、本吉郡山田邑に移り住んだと思われるが、山田邑の居所は記載されてないので、恐らくは山田氏の住む八幡館前に居住していたのではないかと思われる。長成ながなりは、葛西氏歴代(晴胤、親信、晴信)に仕えたという。
・1558年天正16年4月16日に、長成の子の菅原小四郎長定すがわらこしろうながさだは、気仙沼浜田の戦いで、笹ガ嶺麓ささがねのふもとの浜田陣に参陣し、気仙勢の矢作主計やはぎかずえを討ち取り、6月2日に葛西晴信より気仙郡木田村に二千苅、広田村に三千苅を永代宛行う旨の黒印状を賜っと言われている。長定は子が無く、母の弟孫九郎長資まごくろうながすけを家督にした。
要害館は、山田表山田地内、八幡館東方の台地に位置していた。
要害館は、芳賀氏が居館としていたところで、封内風土記には「要害館、葛西家臣芳賀薩摩尚常(常尚の誤記)」とあり、安永風土記にも同じ書き出しが記されている。
芳賀氏の家譜(本吉町猪の鼻もとよしちょういのはな芳賀家所蔵の系譜によると) 代を重ね、時----常平----常俊と続いた。
・1519年永正16年4月3日に、芳賀新左衛門常俊はがすんざえもんつねとしは、葛西宗族岩渕近江経平いわぶちおうみつねひらと藤沢邑と戦い、敗戦の責任をとり49歳で自害をした。さらに、常俊から代が続き、
・1542年天文11年2月に、山田邑の初代常勝つねかつ 芳賀孫次郎はがまごじろう 左京さきょうは、葛西高信かさいたかのぶ(後の晴胤はるたね)の近習となり、本吉郡に采地百余町を賜り、津谷川邑から分出して山田邑要害館に居住した。
・1538年天正7年4月に、二代常尚つねひさ 芳賀新三郎はがしんざぶろう 藤右衛門とううえもん 薩摩さつまは、葛西晴信かさいはるのぶの近習となった時、葛西宗族富沢日向直綱とみざわひゅうがなおつなが兵を起こし、葛西晴信と共に磐井郡清水邑の戦いで、先陣し、著しい功績を挙げたので、晴信から感状を授けられた。
・1547年天正16年6月に、三代朝常ともつね 芳賀藤十郎はがとうじゅうろう 因幡いなばは、気仙郡の浜田陣に弟朝美ともよし朝時ともとき常清つねきよと共に参戦し軍功を挙げた。この時、末弟常清つねきよは、先陣したが傷を負い22歳で戦死した。
・1590年天正18年に葛西氏滅亡となり、芳賀家は要害館を出て、山田邑に分かれて住み、宗家は猪鼻いのはなに住んだとのことである。
他の居館について
浅野あさの氏は、馬籠邑と山田邑との境の高台あたりの要害に居館を構えた。(芳賀氏の居城の要害館とは違う)
・1533年天文2年夏頃に、浅野氏は、先祖浅野小三郎定時あさのこさぶろうさだときが奥州に下り、葛西晴胤かさいはるたねに仕え、本吉郡山田邑に居住したと言われている。
・1553年天文22年に、定時の長男長三郎時光ちょうざぶろうときみつが、葛西晴胤の臣下となり、牡鹿郡渡波おうじかぐんわたのはに住まいしたが、1557年弘治3年春に、亡父定時の住まいした本吉郡山田邑の要害に移り住んだ。 時光は、隣邑の馬籠遠野館の馬籠氏とは姻戚関係で、時光の妹は、馬籠宮内左衛門まごめくないさえもんの室(妻)となっている。
時光の長男浅野三郎左衛門時重あさのさぶろうさえもんときしげは、父に続き山田邑要害に居住した。1564年永禄7年頃に、郡内の歌津邑に移り三島塞(館)に居住したと言われている。
「葛西真記録諸氏ノ輩」によると、「浅野越中三郎本吉伊里前あさのえっちゅうさぶろうもとよしいりまえ」とあるのは時重のことと思われる。浅野氏の先祖は、越中国に居た関係から「越中」と呼ばれたと推測される。
津谷邑つやむらについて
津谷邑には、津谷城つやじょうがあり、津谷館岡地内(現、本吉町役場裏手の高台)に位置している。
仙台領古城書には、「津谷城 東西十二間 南北二十間 城主米倉左近将監持長よねくらさこんしょうげんもちなが」とある。 津谷村風土記には、「古館 高八丈 南北五拾間 東西三拾五間右古館 米倉左近将監持村よねくらさこんしょうげんもちむら居館」とある。
峰仙寺縁起や熊太系譜には、津谷城を獅子館ししかんとも伝えている。
その他に、津谷には田屋城たやじょうが有り、米倉氏の出城とも言われている。
米倉氏は、岩手県大東町天狗田金氏所蔵の安倍姓金家系譜にとると、米倉家は気仙金氏の系統であると言われている。
・1337年建武4年8月に、気仙郡金弥四郎俊清けせんぐんこんやしろうとしきよが、寺池の葛西高清かさいたかきよに征服され、その臣下となったと伝えられている。
・1353年文和2年正月に、俊清の三男金孫三郎俊持こんまごさぶろうとしもちは、高清に仕え、磐井郡に采地三百町を賜り郡内の薄衣邑米倉塞うすきぬむらよねくさいに住み米倉氏と称したと伝えられている。また、俊持は嗣子が無く、郡内の薄衣邑内匠頭清村うすきぬむらないたくみかしらきよむらの二男玄蕃持村げんばもちむらを迎え嗣子としたと伝えられている。 津谷邑霊峰峰仙寺の縁起にも、同様なことが記されている。
・1372年応安5年春に、持村は、本吉郡に移封され、津谷・平磯・岩尻の三邑を与えられ津谷邑の津谷城(獅子館)に居住したとことも記されている。
  平磯邑ひらいそむらについて
平磯古館ひらいそふるだてがあり、平磯前浜地内前河原に位置してる。
平磯古館館は、安永風土記によると、「古館 高 二丈五尺東西(南北)四拾間(百間) 古館の名も館主も相知申さず」とある。
古館館は、浜の突端に位置し、海から見ると三方断崖の要害のようであるが、平地の端に位置している。このことから、戦国時代の城館ではなく、鎌倉中期のものと推測されるが、館主等の伝えはない。
岩尻邑いわじりむらについて
岩尻には、鶴の子つるこ館(塚館)があり、岩尻直伝地内に位置している。
安永風土記には「土久戦場館どくせんじょうだて 堅百弐拾間 横百間 千葉豊後守ちばぶんごのかみ居館」とある。
岩尻風土志(岩村文書)には「塚館 堅五十間 横四十間 陣場、徳戦場ノ地続ナリ」とある。
・1460年から1465年寛正年間に、葛西の臣の千葉豊後の先祖が居住したとある。
岩村文書による風土記には、土久戦場館どくせんじょうだてと塚館は地続きとある。
・1559年永禄2年に、千葉豊後の父左近大夫胤信さこんだいぶたねのぶが没していると伝えているが、寛正年間より百年後に関してなので出自は定かではない。
つか館の千葉氏と掘合ほりあい館の米倉玄蕃よねくらげんばとは、しばしば紛争が絶えなかったと伝えられている。
・1580年天正8年に、塚館の千葉氏は、葛西家臣同士の争いを避けるべく葛西太守に領地替えを申し出たといわれている。
奥羽観跡聞老志によると、
・1575年天正3年に、葛西晴信が磐井郡流庄峠村北館に居た千葉豊後を栗原郡若柳邑の新山館に転居させたとあり、これは、大崎氏との境界争いの為に警備強化の為と思われる。流庄峠村北館には、千葉伊豆が天正末期頃まで居住していたところで、恐らくは、千葉豊後が峠村北館に千葉方に寄寓きぐう(一時的によその家に身をよせて世話に なること)していたところを、葛西太守晴信の配慮で新館主にしたと思われる。これは、当時の背景として、家臣間の所領争いおいて、大方主家に概ね配慮される傾向であった為、千葉家の千葉伊豆ちばいず(庶流)が千葉豊後ちばぶんご(嫡流)に明け渡しといえる。又、年代の違いは、岩村文書の記録違いと考えられる。
岩尻には、掘合館ほりあいかんもあり、岩尻後四地内に位置している。
安永風土記によると「掘合館 堅百五拾間 横百弐拾間 米倉玄蕃よねくらげんば居館」とある。
米倉玄蕃は、津谷米倉つやよねくら氏の庶流で米倉久持よねくらひさもちであると思われている。
堀合館は、塚館の千葉氏との所領争い事が絶えず、津谷城の米倉氏が千葉氏の動向監視の為に、家臣を置いたことより始まる。
照寺谷館(寺谷てらがいも岩尻邑に残されている。
照寺谷館てらがいかんは、岐阜岩村荘ぎふいわいむらしょうの斎藤氏が、1565年永禄8年4月に、葛西氏を頼り奥州にくだり、本吉郡大谷郷もとよしぐんおおたにのさとに居住したと言われている。
初代利次 斎藤豊前守利次さいとうぶぜんのかみとしつぐは、照谷館に住み田光山地福院を建立したと言われている。
・1588年天正16年に、二代利徳としのり 斎藤越中利徳さいとうえっちゅうとしのり九郎右衛門くろううえもんの父と共に、葛西の家臣となり、気仙沼の浜田陣に参陣し、軍功を挙げ、葛西晴信より黒印状を賜ったとある。
小泉邑こいずみむらについて
小泉館こいずみかんは、小泉泉沢地内に位置していると伝えられているが、宝嶺館と間違えられるが、そうではない。
泉沢は小泉という地名から発祥しているといわれ、小泉の名にふさわしく天然の小さな泉がいくつもあったと伝えられている。 又、平泉藤原時代には、荘園小泉荘の起点でもあったと言われている。
葛西盛衰記や真記録には、小泉館主は三条大夫近晴さんじょうだいぶちかはると記されているが。出自は不明である。
葛西記録によると、
・1590年天正18年の葛西滅亡時に、三条大夫近晴は、桃生郡深谷和渕に陣をおいた葛西側防禦軍に加わり、生き残りは小泉館に戻ったと伝えられている。
小泉の伝説の「早世わせ八幡の由来」によると、
・1591年天文19年8月14日に、近春は、葛西大崎一揆後、伊達政宗に呼び出され、桃生郡広渕郷辺で伊達勢に捕まり殺されたと言われている。この日には、葛西浪人が多数須江山に集められて惨殺された中に三条近春もいたであろうと思われている。
東館(宝嶺館)は、小泉泉沢東方地内に位置していたと伝えられている。
仙台領古書によると「東館城 東西三十間 南北三十間 城主 西条四郎左衛門さいじょうしろうさえもん」とある。 東館のある高台は、宝嶺山とも呼ばれ、清水寺の山号が「宝嶺山」 と称されていることから明確である。
宝嶺の地が東館と呼ばれ始まてのは、西条氏の館になってからである。
西条四郎左衛門とは、入谷邑西条いりやむらのさいじょう氏の一族と思われている。
○葛西領の動向について
葛西氏の戦国期の状況
・1469年文明元年6月に、葛西太守10代持信もちのぶが没すると、葛西壹岐守朝信かさいいきのかみとものぶが葛西太守11代になった。 朝信が太守を継いだ頃から、異母弟の石巻日和山城主満重みつしげが、宮城郡の留守氏に接近したり、伊達氏に取り入ったり動きが寺池太守より活発に動き始めた。
・1480年文明12年8月には、朝信が没し、嫡子の兵庫頭尚信ひょうごのかみひさのぶが12代太守となった。しかしながら、満重は叔父の地位を利用して寺池に近寄り内外にわたり干渉するようになった。
・1483年文明15年6月に、尚信は在職3年で早世してしまう、嫡子も無いために、急遽叔父の満重みつしげが寺池宗家を嗣ぐことになり13代太守となって寺池に移動した。
・1483年文明15年9月に上洛をし、将軍足利義政あしかがよしまさに拝謁し、諱字を賜り政信まさのぶと改名した。
五大院系図の政信の譜には、「文明十五年嫡流尚信ひさのぶ早世にて葛西家督となり、同年九月上洛、将軍義政よしまさ公より御諱字おんいなみあざなを賜わって政信まさのぶと改名云々」とある。
伯耆守政信ほうきのかみまさのぶが葛西太守となり、寺池に住まいする様になると、領内が騒然となりはじめ、次々と戦乱状態に陥った。
・1485年文明17年の春には、江刺郡岩谷堂えさしぐんいわやどう城主の葛西宗族江刺えさし氏が、政信と衝突した。政信は、本吉郡気仙沼赤岩城城主熊谷氏等を率いて、江刺郡に出動して、江刺美濃守隆見えさしみののかみたかみ高寺村たかてらむらで戦い、江刺勢を打ち破り難を逃れた。
・1495年明応4年6月に、再び江刺隆見が政信に反旗を翻し再び高寺村で戦い、江刺勢を破り江刺隆見を降伏させた。この戦いには涌津わくつ城主岩渕参河守経定いわぶちみかわのかみつねさだも参陣していたと言われている。この後、江刺氏は葛西宗家に従ったと言われている。その証して、葛西晴胤かさいはるたねの長子親信ちかのぶ(16代)の生母は江刺美濃守隆見のむすめである。
重親しげちかは、石巻日和山城主満重みつしげ(後の政信)の長男で、寺池系図には「家督を継がず剃髪して江刺に居する」とある。これは、恐らく、満重が伊達家より宗清むねきよ(武蔵守)を迎えて嗣子とする為、長男重親の廃嫡をしたことから「家督を継がず」とされたと思う。まさに、政信の政治的戦略であった様に思われる。
これをまとめると、文明15年に、12代尚信が早世した為、急遽、満重が寺池宗家を継ぐことになった。その時、伊達家より嗣子として宗清を迎いれていた為に、日和山城主となるべく重親を廃嫡させ江刺城主にしたと思われる。この経緯がある為に、重親ちかしげの第三子重信しげのぶ(後の晴重はるしげ)を寺池の正嫡としている。
・1498年から1499年明応7年から8年には、大崎氏の内紛が葛西領内も波及し、奥州探題大崎義兼おおさきよしかねを支持する薄衣うすきぬ氏・江刺えさし氏と葛西太守政信まさのぶ柏山かしわやま氏・大原おおはら氏等との対立争乱が起きた。所謂、「明応の合戦めいおうのがっせん」が始まった。
この合戦は、明応8年の冬になると、ますます激しさを増し、葛西領内全域に広まったともいわれている。この合戦には、本吉郡の元良信濃守清継もとよししなののかみきよつぐ小泉備前守こいずみびぜんのかみ岩月式部少輔いわつきしきぶしゅゆう等も加わっていたと見られる。薄衣氏が、この合戦の窮状を伊達成宗だてんなるむねに書状持って救援依頼したのが、「薄衣状うすきぬじょう」である。 このような事態に、伊達成宗が仲裁に入り合戦は終了している。
しかしながら、これ以降、家臣団の統制や支配が容易でなくなったと思われる。
・永正年代(1503年~1517年)に入ると、石巻日和山派の家臣が、日和山城主武蔵守宗清むさしのかみむねきよを担ぎ、桃生郡七尾城主山内首藤貞通やまうちすどうさだみちと戦いを始めた。所謂、桃生中島合戦と言われる。
・1511年永正8年8月4日~10月まで続き、10月8日に首藤貞通の降伏で一応落着した。
この戦いの経緯は、
・1511年永正8年8月4日に、石巻日和山城主武蔵守宗清が手勢や援兵を率いて、海路遠島を経て本吉郡南方に着岸上陸した。その所で、待機していた石巻日和山派の葛西家臣と合流し南下を進め、桃生郡首藤領に侵入した。
・1511年永正8年9月には、中島七尾城を包囲し、10月8日に山内首藤貞通が降伏した。
しかしながら、
・1512年永正9年9月に再度合戦が起こり、1512年永正9年9月3日に山内首藤氏が滅亡したと言われている。
資料として、塩釜首藤家の系譜には、1511年永正8年8月の合戦において、柳津甲斐守直継やないずかいのかみなおつぐが東方陣将となり、元良播磨守春継もとよしはりまのかみはるつぐが西方陣将となり合戦崎に向かったと記されて残されている。
葛西宗清かさいむねきよは、永正8年~9年で桃生郡山内首藤氏を滅ぼすと、寺池の太守の重信しげのぶ(後の稙信たねのぶ)の許可をもらい、寺池に参じ、引き続き寺池に留まったと言われている。
この一連の行動は何故であろうか、推測してみる価値がある。
宗清は、石巻葛西氏に伊達家より嗣子として迎え入れられた人物、当時の石巻日和山城主葛西満重かしみつしげ(後の政信まさのぶ)が、長男重親しげちかの廃嫡を決め、宗清を伊達家から嗣子と迎入れた経緯がある 葛西太守の早世により急遽、葛西満重が寺池宗家を相続することになり、満重は寺池に移ることになったが、宗清も同じく寺池に移るべきところを、石巻日和山城主を相続させた。また、廃嫡させた長男重親の第三子重信(後の稙信)を寺池宗家の正嫡にしたことが、後の宗清寺池滞留の引き金となったものと思われる。 葛西太守稙信かさいたいしゅたねのぶが、宗清の心情を考慮して寺池に参じることを許したものと推測される。
この様に、永正年間は、宗清よりの石巻派と寺池派に分かれ、対立が激しさを増し、紛争が絶えぬ様になった。さらには、葛西宗族の本吉北方の熊谷氏ような豪族なでもが反抗を繰り返すようになったとも言われている。宗族が反抗するわけは、先代政信が寺池出身というだけで、石巻支流から宗家を継承したことへの不満からであったともいわれている。
・1533年天文2年に、気仙沼(新城邑)赤岩城主熊谷備中直景くまがいびっちゅうなおかげが反乱を起こし、同年3月に太守葛西稙信が兵を束ねて気仙沼に至り、赤岩城を討伐している。この争いには、涌津わくつ城主岩渕経文いわぶちつねぶみも参陣し、武功を挙げて本吉郡に采地十余町を賜ったと伝えられている。また、この争いには、熊谷直景くまがいなおかげの大叔父にあたる直勝なおかつ(74歳)が長子と共に直景に味方したが、弟の直光なおみつ(長崎館主)は、葛西討伐軍に加わり、骨肉の争いとなり、討伐軍の先鋒となって軍功をあげた。が、しかし、直景に味方した一族はみな惨殺されたと言われている。
太守稙信は、直光の忠義・貞節を賞して、兄直景の領地を與え、子姪めいこの代まで赤岩城を守り、東山方面の備えをするように命じたと言われている。1533年に直光は、太守稙信に弟主計直脩を赤岩城に移す許しを得た。
この様に、赤岩城の熊谷氏が惣領として葛西領東方騎士の将となり、これ以後長崎館主熊谷氏がその地位を占める様になった。
本吉の乱について
・1574年天文2年春に、本吉郡志津川村朝日館城主本吉大膳重継もとよしだいぜんしげつぐが反乱を起こし、横山村北沢よこやまむらきたざわで戦いが行われた。北沢の宿しゅくを中心に戦いは展開されたが、葛西太守晴信たいしゅはるのぶの出馬で鎮定され、本吉重継は降伏した。この戦いは、葛西宗族の主家(葛西宗家)に対する反抗であったようである。この戦いに参陣した葛西家臣には、17~18名の軍功を挙げたものがいたと伝えられている。 その中で、本吉郡平磯前浜の小野寺家所蔵の小野寺系譜に記されていたのは、東山小梨村ひがしやまこなしむら小野寺通次おのでらみちつぐが、本吉重継挙兵した時に、 本吉郡横山村北沢に先陣切って参陣し、その軍功により葛西太守晴信より磐井郡に七千苅りの地を賜ったと下記の様に記されている。
葛西晴信が宛行つた軍忠状
此度、本吉大膳大夫逆意、北沢及 一戦候処、其乃武略之働、不斜、依 之加増、岩井郡保呂羽内三千苅、藤沢村四千苅、本領二相添、永代宛行者也 仍如件
天正二年四月二日    晴信(印)
小野寺彦太郎殿 
           (小野寺系譜所蔵)
また、この本吉重継の反乱には、本吉郡山田村の浅野氏、馬籠村の馬籠氏も参陣してたとも伝えられている。
浅野氏系譜によると、天正2年本吉郡南北に一揆が起こっいた時、志津川旭館主本吉大膳重継、大蔵父子が葛西氏に叛き、横山邑北沢に出兵した。この時、浅野三郎左衛門時重あさのさぶろうさえもんときしげ馬籠四郎兵衛重胤まごめしろうひょうえしげたねと協力し、度々本吉重継と戦いを交えたと記されているので、この事実は、間違いないと思われる。 この様に、本吉大膳重継は、再度、天正3年8月、天正5年3月にも反乱を起こし、その都度、浅野時重や馬籠重胤が応戦していたものと思われる。
・1564年永禄7年頃に、浅野氏が山田村から歌津村の三島館に移住しのは、本吉大膳に備えるためで、馬籠氏からの要請があったからと推測される。
歌津合戦について
・1586年天正14年4月に、本吉郡の歌津村で本吉大膳と馬籠四郎兵衛等と戦いが始まった。ことの起こりは、稲渕いなぶち館主千葉播磨ちばはりま(馬籠氏支流)が病死した為、跡目相続がなく馬籠四郎兵衛が播磨の未亡人の婿に入り後を継いこと(馬籠四郎兵衛は、この時、妻を亡くしていたことや、歌津十二人衆の要請もあり)で、馬籠四郎兵衛が稲渕館主となり、十二人衆を騎馬武者を四郎兵衛が動員できることに危機感を感じた本吉大膳が、戸倉の黒崎兵部くろさきひょうぶ・平磯の金田九郎治かねだくろじ(掃部氏)、木村加賀きむらかが等の地頭を動員し数百騎の兵力で三島・稲渕両館に押し寄せた事で戦いが起こった。三島館越中三郎みしまかんえっちゅうさぶろう(時重)が数百騎の兵で石名坂で本吉大膳軍を迎撃した。 この戦闘で、黒崎兵部は討ち取られ、首をさらされ、他にも武者拾十騎捕らえ帰したと伝えられている。翌月には、本吉勢が、再度三島館に押し寄せ戦いとなり、さらには、本吉側の船団が平磯に押し寄せた為、馬籠四郎兵衛と浅野時重は、手漕ぎ船に乗り、庵僧浦あんそううら(細浦か)に漕ぎ出して戦った。夜になり浅野時重は敵船に乗り移り、金田左馬允かねださまのすけともみ合い力尽き傷を負い亡くなった。享年64歳であった。 この事態を、折立(戸倉)佐々木日向ささきひゅうがから注進を受けて、歌津の合戦を知った葛西晴信かさいはるのぶは、5月14日に寺池を出陣し、横山館に入り、赤井・福地の家老に本吉勢の攻撃を命じた。両家老は、北方の気仙・江刺の軍勢に出動を命じ、浜田(安房)・長部両氏が先陣に本吉勢と余党を攻撃したので、たちまちのうちに鎮定し、本吉大膳の敗北に終わった。 これにより、気仙郡高田の浜田氏の軍功により、清水・新田・黒崎の地を賜り、さらに、歌津村の馬籠四郎兵衛は領地安堵を許され、これ以後歌津城主と称される様になった。
・1587年天正15年の歌津合戦の翌年、本吉大膳重継もとよしだいぜんしげつぐは、気仙郡高田城主浜田安房広綱はまだあわひろつなと再度衝突を繰り返した。所謂、本吉・浜田の乱と言われている。
本吉・浜田の乱について
浜田氏は、本吉氏と戦う為に本吉郡岩月村もとよしぐんいわつきむらに侵入してきた。この騒動に、男沢越後守おとこざわえちごのかみ安倍外記之介あべげきのすけ東山薄衣ひがしやまうすきぬ氏等が奔走し、また、浜田氏に葛西太守晴信も対応して、小康状態に治まった。
・1587年天正15年秋に、事態が再燃した為、太守晴信は、大乱になることを恐れて胆沢郡の柏山氏に出陣を命じた。しかし、柏山かそわやま氏の当主中務少輔なかつかさしょうゆうが病弱で、陣代として前沢城主三田刑部少輔みたぎょうぶしょうゆうを派遣、50騎を率いて参陣し、浜田軍の武将を討ち取り、争乱を鎮定させた。この軍功により晴信より軍忠状を賜った。
葛西太守晴信から三田刑部少輔に宛てがわれた軍忠状
今度無二奉公、深く祝着候。依之元良郡之内、岩尻ニテ五千苅、為軍功賞一レ相違者也。仍証文如 件
 天正十五年十月廿日          晴信(黒印)
三田刑部少輔殿 
   (岩手県史所蔵 三田家文書)

気仙沼の浜田の乱について
・1558年天正16年春に、気仙郡の葛西宗族 浜田安房広綱はまだあわひろつなが反乱を起こした。本吉・浜田両氏の乱が、本吉郡内で起こり、浜田氏が本吉郡北方岩月村に侵入し、一端収まりかけたが、年が明けると侵攻を始めた。本吉氏との争いで、太守晴信の裁定に不満を抱いたと思われるからである。
浜田安房は、勢力を拡大しながら本吉郡に入り込み、3月に始まってから4月末までには、下鹿折まで到達していたと伝えられている。
一方、葛西太守晴信が、浜田の乱と知るや否や、領内勢力に出陣を命を出し、自ら気仙沼に出向いて行、長崎の突端笹が嶺ささがねに布陣した。長崎館主熊谷直資くまがいなおすけと嗣子直長なおながに命じて、参陣する領内勢力を笹が嶺の麓に布陣の手配りをさせた。
浜田勢は、鹿折から気仙沼にしばしば出兵し、気仙沼の情勢を窺っていたが、5月半ばに下鹿折忍館しもしかおりしのぶかん鹿折信濃時兼しかおりしなのときかねの軍を主力に 浜田勢は、長崎を目指し侵攻を始めた。太守晴信は、長崎館の熊谷掃部直長くまがいかもんなおながに軍将を命じ、熊谷氏は、笹が嶺の麓に布陣している諸勢と共に、軽卒わずか百人ばかりを笹が嶺の下に陣を構えさせた。また、部下の騎士従卒を伏兵に潜ませた。 鹿折信濃は、気仙口まで来ると高所(陣山)から先方を眺め、敵が案外微勢と思い、一挙に攻め寄ったところ、熊谷掃部は機を見て、伏兵を出し、笹が嶺下に入り込んだ敵を追い詰めて、大量の戦死者を出させた。さらに、高所に備えさせた30人の弓隊に後続の騎兵に矢を浴びせた為、鹿折信濃の兵は狼狽え敗走せざるを得なかった。この時、鹿折信濃は矢に当たり落馬し、西磐井郡日形の城主小野信道おののぶみちにより首を斬り取られたという。浜田の残兵は退却したが、並板等の狭い路に阻まれ、北山は高いところでもあるので、進退極まったと伝えられている。これにより、太守晴信は熊谷掃部直長の軍功を賞して、気仙沼七ヶ村の支配を許す感状を与えた。
葛西太守晴信が熊谷掃部直長に宛がえた感状
此度、其方以二武略一、鹿折信濃守、令二治罰一、感悦不レ斜候。
為二勲功之賞一、気仙沼七ヶ村支配、令免許者也。仍如件
 天正十六年五月二十日       晴信(黒印)
熊谷掃部殿 
           (熊太系譜所蔵)
同日、東山小梨村 小野寺通次も参陣していたので軍功状を与え たと伝えられている。

葛西太守晴信が小野寺五郎左衛門に宛がえた軍功状
此度、浜田逆意二付、出馬候処、其方働無類候。依之、奥玉
村二而三千苅、本領指添宛行者也。仍(よって)証文 如
 天正十六年五月廿日       晴信(黒印)
小野寺五郎左衛門殿 
   (本吉町平磯小野寺家所蔵系図)

浜田の争乱は、五月には小康状態になったが、六月になると、浜田勢は、細浦口から長崎館目指し攻撃を始めた。長崎館主熊谷直資は、太守晴信の命により、弓隊50人を率いて浜田勢の先鋒に 矢を射かけ50余人を討ち倒したところ、浜田勢は退却敗走し始めたので、熊谷氏に従った兵は追撃をし、浜田勢を撃退した。しかしながら、味方の米倉又二郎よねくらまたじろう(津谷城主)・山田太郎二郎(山田館主長男)は、浜田勢との戦いで手負いを負い、戦死したと伝えられている。
六月には、本吉郡内で参陣した武将の活躍が目立ち、軍功状を賜っ方が多かった。

本吉郡山田村居住の菅原上野介長定すがわらこうずけのすけながさだは、浜田勢の矢作主計やはぎかずえを討ち取り、軍功状を賜っている。
葛西太守晴信が菅原上野介長定に宛てがった軍功状
此度、浜田安房守逆心、気仙沼表江張之所二其元武略を以、気仙
沼勢之内矢作主計を討取故、気仙勢失度候事、前代未聞之手柄候
、仍(よって)為加増、同郡勝木田村内二千苅、広田村之内三千苅、永 代宛行者也、仍(よって)如
 天正十六年六月二日        晴信(黒印)
菅原上介殿  
         (本吉町津谷菅原家所蔵)
また、同日、天正十六年六月にも金野次郎左衛門尉こんのじろうさえもんのじょうも気仙勢の広田左衛門ひろたさえもんを討ち取り軍功状を与えられた。

葛西太守晴信が金野次郎左衛門に宛てがった軍功状
  今度、浜田安房守逆意、気仙(気仙沼)於長部一戦候所、気仙勢悉敗軍、
殊広田左衛門ヲ打取候事、前代未聞候。依之、為賞岩井郡之
内松川二而三千苅、登米郡吉田之内弐千苅、為二加増一宛行者也。
仍為後日之状 如件。
 天正十六年六月二日        晴信(黒印)
 金野次郎左衛門尉殿 
   (本吉町小泉新町昆野家所蔵)

天正十六年六月三日には、馬籠上信夫館主佐藤筑前信貞さとうちくぜんのぶさだと弟信夫館主信時のぶときが、広綱の先鋒の将 及川弥太郎政長おいかわやたろうまさながを打ち取り軍功状が与えられた。

葛西太守晴信が佐藤又二郎に宛てがった軍功状 
此度、於気仙(気仙沼)二、軍功殊及川弥太郎ト組打、即打取候故、味方悉 得勝利之事、無比類手柄二候。依之為忠貞、江刺
郡小田代弐千苅、藤沢之内参千苅、永代宛行者也。仍而証文 如

  天正十六年六月三日       晴信(判)
 佐藤又次郎殿 


さらに、天正十六年六月七日には、岩尻村寺谷の斎藤九郎右衛門にも軍功状が与えられた。

葛西太守晴信が斎藤九郎右衛門さいとうくろううえもんに宛てがった軍功状
此度、浜田安房守逆意、於元良表乃一戦候処、其之武略浜田勢ヲ
打破候故、気仙勢敗軍、無比類手柄二候。依之、為忠賞鹿毛五調
相□□、依感状 如件
 天正十六年六月七日       晴信(黒印)
斎藤九郎右衛門殿 
      (本吉町岩尻元岩村家所蔵)

この他にも領内各地から多くの家臣が参戦したらしく、家伝や軍功状や系図などで伝えられているものが、50数名にも及んでいると言われている。  (岩手県史より)
また、浜田安房広綱の争乱は、気仙郡蛇が城城主へびがじょうじょうしゅ及川掃部重綱おいかわかもんしげつなの仲裁で、浜田氏が降参することで落着したと伝えられている。(葛西真記録より)
これにより、気仙郡矢作の地頭矢作修理重常やはぎしゅりしげつねが、天正16年六月十日付で浜田氏に代わりに気仙郡の総旗頭に任命された。
これにより、一応静まったかのように思えたが、天正十六年八月二十九日に、浜田勢が下鹿折まで侵入してきた。これを知った長崎の熊谷掃部直長が出動して、接戦ながら浜田勢を打破り、気仙 へ退却させた。
このことで、太守晴信は、熊谷直長に軍功状を与え、この様な事態に備え、天正十七年五月に、気仙郡矢作村の矢作大隅重常やはぎおおすみしげつねを気仙郡内を警備((仕置))する委任を命じた。

葛西晴信が矢作大隅重常に宛てた委任状
一馬上        十騎
一弓之者       三拾人
一鉄砲者       十五人
此度、気仙仕置、其内へ相付候間、油断有間布候。依如
 天正拾七年五月十日        晴信(印)
矢作大隅守殿       
    (気仙郡高田矢作家所蔵)

矢作氏は、本吉郡馬籠村千葉氏の分流で、気仙千葉党((浜田氏も含む))の総本家である。
天正十八年正月には、浜田氏争乱の鎮定に貢献した気仙沼長崎館の熊谷掃部直長に、太守晴信は、領内北部四郡の仕置((警備))を命じた。
葛西晴信が熊谷掃部直長に宛てた委任状
一馬上        三十騎
一弓者        五十人
一鎧者        百人
前置之通此度付置候間、江刺・気仙・伊沢仕置之事、油断無之様
任入候。仍如
 天正拾八年正月十二日        晴信(黒印)
熊谷掃部頭殿 
            (熊太系譜所蔵)
浜田争乱以来、熊谷掃部直長は、太守晴信の信任厚くなった。熊谷掃部直長は、天正十七年二月に養父にかわり長崎館主になっ ているが、掃部直長も本吉郡の馬籠氏出身であった。
これ以後、太閤秀吉の天下統一の動きになるが、太守晴信は依然として、この事態を気にもしない様に動きをしていた。

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西所領関連 郡の動き>>

気仙郡(三陸町)中世編(葛西一族関連)
○葛西家臣団拠点の築城について
三陸町中世期としての気仙郡状況 気仙郡一体は、平安後期頃から金氏こんしの支配下に置かれていた、その訳は、在庁官人の郡司として、気仙郡一体を支配していたからである。
金氏の子孫は、俘囚長ふしゅうちょうの安倍氏との関係も深く、前九年の役にも活躍した一族でもある。一族は、磐井郡まで勢力を拡大するほどで、気仙地方において 名族と称される程に影響力がある一族であった。平安後期にも気仙地方の影響力は強く、気仙郡地頭となった葛西氏が、金氏を現地代官として、気仙郡の支配を円滑にする為に任命したと思われる。 金氏の子孫には、今野氏こんのしがいて、本姓は金氏であると言われている。「葛西真記録」や「仙台領古書立之覚」などには、葛西との関連や居城の様子が記されている。
「葛西真記録」には、葛西家臣団の一員として「気仙綾里邑主けせんあやおりのゆうしゅ」の「今野遠江守こんのとうとうのかみ」として記されている。「仙台領古書立之覚」には、槻館城主について「城主今坂遠江・同信濃父子、病死跡絶転仕候」 と記されたいる。この地域には、今野(昆野・金野・紺野)を名乗る家が数多く、恐らくは、「今坂」ではなく「今野」との誤記と思われる。 従って、気仙郡綾里の中世期における槻館城主つきだてかんしゅは、今野氏と見ても良いと思う。
この槻館城つちだてかんじょうは、三陸町綾里字石浜あたりにあった。海抜40mの丘陵を利用した小城である。東西約100m、南北50mの楕円形 の平坦部に主郭とされる跡があり、二の郭と思われる深さ1m程の堀跡が見られる。しかし、これ以上の遺構が確認されてない。
また、中世城館として、三陸町には平田城がある。「仙台領古書立之覚」によると、「城主上野民部と申者、南部遠野城主千葉安房ト合戦之時、天正年中討死仕候由二御座候」と記されている。この「上野民部」は、他の資料によると、「只野民部」ではないかと言われている、「気仙郡古記之写」「気仙風土草」には「只野民部」とあり、「葛西真記録」にも越喜来おきらいの「邑主ゆうしゅ」として「只野民部ただのみんぶ」の名が見える。「葛西実記」によると、「天正年中に葛西氏が遠野阿曽沼とおのあそぬま氏を攻撃したとき、気仙郡から多田民部ただみんぶが従軍したとある。」こと、
「仙台領古書立之覚」によると、多田民部とは只野民部のことで、只野氏は本来、「多田」を苗字としていたと記されていること、
この様史料から見るに、平田城の城主は、多田民部(只野民部)と言っても過言ではない。
気仙郡越喜来けせんぐんおきらいの中世期には、平田城の他に、本丸城、高森館、小出城があったと伝えられている。
平田城は、三陸町越喜来字小泊にある。三方が海岸の断崖で自然の要害をなし、一部緩やかな斜面に土台が設けられて海に達している。
主郭は、東西50m、南北約100mの規模で、西側の平場を含めると相当な城郭であったと思われる。
本丸城は、別名八幡館ともいい、三陸町越喜来字杉下の八幡神社のある丘の上にあった。東西25m、南北50mの主郭をもつていた。
高森館は、別名鷹森館ともいい、三陸町越喜来字肥ノ田の丘陵の頂上附近に位置し、東西20m、南北40mの平坦地にあったと言われている。
小出城は、三陸町越喜来字小出にあり、標高75mの小高い丘陵上に築かれ、深さ3mほどの空濠が残されている。
越喜来多田氏おきらいただしの惣領は、本丸城に居住し、一族は、支城の平田城、高森館、小出城に配置されたと推察される。
多田氏に関わる残された資料が少なく、南北朝時代の多田氏の僅かな資料が、大船渡市只野家に4点ほどの文書が残されている。
①として
      北畠顕信
        (花押)
不相粉方之形勢、挙義兵、有其功者、玉造郡内富田、三町目両郷事、不可有相違、且存其者、草可抽忠節者、依仰執達如件
 興国六年十一月四日                        民部権少輔清顕   奉
 多田左近将監殿   
                   (「宮城県史30」270号)
この文書は、鎮守府将軍北畠顕信きたばたけあきのぶの側近五辻民部権輔ごつじみんぶごんゆ多田左近将監たださこんしょうげんに宛てた、顕信の袖判御教書そではんみきょうしょである。義兵を挙げたので、味方に参陣せよ、勲功
あらば、玉造郡内富田・三町目両郷を相違なくち知行させることである。軍勢催促状のひとつである。
この時の奥州情勢は、1342年康永元・興国2年の頃で、奥羽における南北朝の決戦が行われ、南朝が敗北喫したころ、出羽国に隠れて潜んでいた北畠顕信
が、蜜書として、1345年興国7年・貞和元年の次の年に、捲土重来けんどちょうらい(一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して 巻き返すことのたとえ)を期すべく策を練って南朝の結束を図ろうとした内容文書が残されている。
②として
参御方致忠節者、殊可被抽賞者、依将軍仰、執達如件
 正中五年正月五日                       民部権少輔清顕  奉
 多田将監殿          
              (「岩手県中世文書」上、235号)
この文書は、南朝方について忠節をつくせば勲功の賞を給うという軍勢催促状である。1350年正中5年・観応元年頃には、北畠顕信は陸奥国では、目立った 動きはしておらず、多田将監がこの文書で、どのような行動をとったか不明である。
※中央では、尊氏・直義の対立が激化したのに乗じて、南朝が攻勢をかけるべき準備の為軍勢催促状を発給したものと思われる。翌年、1351年観応2年・正中6年 には、観応擾乱が起こり、陸奥国でも直義派の吉良貞家と尊氏派の畠山国氏が岩切合戦を起こし、(畠山国氏は自刃)南朝もこの期に乗じ、北畠顕信が蜂起 し多賀国府を占領したけれど、翌年3月に、吉良氏が国府を奪還した。
吉良氏は、南朝勢力を掃討するために、各地の武士に軍勢催促状を発給した。多田三郎左衛門尉にも吉良貞家の弟貞経より軍勢催促状が届いていた。
③として
気仙郡木間崎向城事、一族相共馳向、彼所致忠節者、可有其賞之状如件
                          (吉良貞経)
 観応三年四月廿八日         左近将監(花押)
多田三郎左衛門尉殿   
                (「宮城県史三〇」324号) この文書は、気仙郡の木間崎向城(三陸町越喜来の「鬼間ヶ崎」とも言われる)を拠点として攻撃するので、一族をまとめ参戦のこととする軍勢催促状である。しかし、多田氏は、吉良氏の軍勢催促には応じず、南朝としての立場を堅持したと思われる。このことから推測すると、気仙郡にも南朝の拠点があったもの思われる。この多田氏が応じなかったことの資料として 、観応3年3月中旬に、吉良貞経が仁木遠江守と府中奪還の戦いの折の史料に「□方大将中院殿、多田左近将監等、□中越之尻改来」とある、多田左近将監は、南朝に 従っていたとことは明らかである。
しかしながら、府中が奪還された時に、北畠顕信は北奥に逃れてしまったので、奥州の足利氏の支配が絶大なものになっていった。その中で、奥州の多くに武士は、 南朝にとどまっていることが困難な時代となった。多田氏もその例外ではなかったと思われる。
多田氏が北朝方に転じて、足利幕府に、1354年文和3年(正中9年)の官途推挙状をお願いした文書が残されている。
出羽守頭所望事、可挙申京都也、可被存其旨之状如件
 文和三年閏年十月四日                   左衛門佐(花押)
 多田左近将監殿  
                   (「岩手県中世文書」上 283号)

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西所領関連 郡の動き>>

気仙郡(陸前高田市)中世編(葛西一族関連)
気仙郡には、鎌倉御家人の下向をみることなく、金為時きんためときの末裔気仙郡司けせんぐんじという律令制のそのままの職名で気仙郡を支配したと言われている。
気仙の金氏は、頼朝の平泉征伐(奥州征伐)の折、平泉藤原氏に味方し戦い、金秀時こんひでときがその時戦死をしている。その子為俊ためとしは山中に身を隠し、翌年(1190年)の大河兼任おおかわかねとの乱の時に、鎌倉幕府側に属して功績を挙げ、郡司の地位を回復させた伝えられている。
金氏の本拠は「横田本宿館」(陸前高田市横田町本宿)と言われている。金氏は、戦国時代に入ると、千葉氏の勢力に侵食されて衰退し、一部は東磐井方面に分かれ者、気仙郡にいくつかの館を構え勢力を保ったと伝えられている。
千葉氏の姓は、葛西領内の北部にあたる胆沢・江刺・磐井に定着した武士層の中で多く見受けられる。これは、「葛西記」や「葛西盛衰記」によると室町時代に入ると、一層 この傾向が気仙や本吉に特に見受けられる様になった。
胆沢・江刺・磐井の三郡の千葉氏武士の系図には、千葉頼胤ちばたねよりなる人物が元祖として、その子らが各地に分かれとある。これらによれば、探題として鎌倉から下向した千葉頼胤の六子が、長坂太郎良胤ながさかたろうよしたね(東磐井)・百岡二郎胤広ももおかじろうたねひろ(胆沢)・江刺三郎胤道えさしさぶろうたねみち(江刺)・本吉四郎正胤もとよししろうまさたね(本吉)・浜田五郎胤重はまだごろうたねしげ(気仙)・一ノ関次郎富胤いちのせきじろうとみたね(西磐井)とそれぞれ地名を称し、その地方の千葉氏の祖となったと記されている。
良胤よしたねは長坂・唐梅城主からうめじょうしゅとなり、胤広たねひろ柏山氏かしわやまし百岡城主ももおかじょうしゅ三男の胤道たねみち江刺郡豊田城主えさしぐんとよだじょうしゅ正胤まさたね本吉郡馬籠氏もとよしぐんまごめしとなり、胤重たねしげ気仙郡浜田氏けせんぐんはまだし富胤とみたね一ノ関城主いちのせきじょうしゅとも記されている。
しかし、馬籠氏の発祥が1264年~88年の文永・弘安年間の頃であり、浜田氏の興隆は1469~87年の文明の頃の戦国時代であることから、頼胤の六子の記述は、後世の創作と思われ、 両者の時代性が一致していないことがわかる。従って、この記述の真偽性が問われることになる。 また、「気仙千葉氏大系図」には、気仙千葉氏が始めて気仙郡に来住したのは、鎌倉時代の後期で、関東から下向したのではなく、本吉郡の馬籠氏から移住したとも記されている。
さらに、「岩手県史」第二巻のなかに「気仙千葉氏大系図」に基づいたものが記されている。
気仙郡高田近辺の千葉氏は、千葉胤正ちばたねまさ(政)の子、胤親たねちかの後流とされている。胤親たねちかは、鎌倉幕府の将軍藤原頼経ふじわらよりつねに仕えて、従五位下右衛門尉じゅうごいうえものじょうに任ぜられ、1235年の嘉禎元年の春、桃生郡及び牡鹿郡に采地を給せられ、深谷城に住まいしたという。のちの四代忠広ただひろの代に、1287年の正応2年の春に、本吉郡馬籠城に移居したが、忠広の二男広胤ひろたねが、気仙郡に所領を給せられて、1315年の正和4年に矢作村の鶴崎城つるさきじょうに来住した」とある。

気仙千葉氏の祖広胤けせんちばしのそひろたねは、本吉郡馬籠から矢作に来住したのが、1315年の正和4年であることから、鎌倉時代後期であり、気仙千葉氏は、馬籠千葉氏の支族ということになる。
千葉広胤ちばひろたねには、三人の子があり、次男重弘しげひろは早世、長男が重胤しげたねが跡を継ぎ鶴崎城つるがさきじょうに住まいし「矢作氏」と称した。三男の広次ひろつぐは、分家して小友の蛇ヶ崎城へがさきじょうに住まいし「小友氏」と称した。
その後、矢作に落ち着いた千葉氏は、重胤の長男の重慶しげよしのときに高田館に移り「高田氏」と称した。矢作の鶴崎城には重慶の弟胤茂たねしげを残し城を守った。重慶は、1394年の応永元年に68歳で没している。高田館に移居した時期は南北町時代の中頃と推察できる。
重慶の後継は、長男の胤慶となり、またその後継が胤長・長継・信継・基継と続きた。さらに、基継もとつぐの代に高田館より浜田の米ヶ崎館こめがさきに移り「浜田氏」と称した。基継は1520年の永正17年に没したと言われているので、気仙千葉氏の本流が高田館から米ヶ崎館に移った時期は、恐らく、戦国時代の半ば頃と推測される。
ただし、「気仙風土草」1761年の宝暦11年によると、高田館から米ヶ崎館に移ったのは、基継より三代目の浜田広綱はまだひろつなの時で、高田館には高田壹岐守胤冬たかだいきのかみたねふゆが残り、館を守ったとある。いずれが正解か定かではない。
一方、「仙台領古城書上」によると、高田館・米ヶ崎館とも浜田安房守広綱はまだあわのかみひろつなが居館としたとの記述からは、1573年~92年の天正年間に広綱によって移ったと記されている。
いずれにせよ、高田基綱たかだもとつなは、高田信継たかだののぶつぐ世嗣よつぎがなく、葛西宗家より嗣子を迎入れられた人物である。従って、気仙千葉氏は、基継の代より葛西宗家と姻戚関係にあったと言われている。
○南北朝時代(室町時代前期)の葛西氏について
南北朝に至る経緯について

・1333年正慶元年(元弘3年)に、後醍醐天皇ごだいごてんのうの討幕軍に加わり、京都に進撃したはずの足利尊氏あしかがたかうじが、逆に幕府監視役の六波羅探題を攻めた。また、新田義貞にったよしさだが鎌倉幕府へ進撃し、北条高時ほうじょうたかときを破り、北条高時と一族は滅んび、鎌倉のおおよそ150年お幕は終焉となった。
このようにして、後醍醐天皇の新政が誕生し「建武新政けんむしんせい」となった。しかしながら、武士団の多くは公家政治を嫌がり、武家政治の継続を望むようになり、源氏の血を引く足利尊氏が武家政治の統領として迎い入れられた。武家対公家の対立の始まりで、長年継続することとなる。
・1335年建武2年2月7日には、北条時行ほうじょうときゆき(高時の遺児)が挙兵し鎌倉を占領した。が、しかし、これを討伐する為に足利尊氏が東に下向し、北条時行を敗退させた。
これを機に、尊氏は、公然と朝廷に叛旗を翻した為、朝廷は、これを新田義貞に追討の命を発したが、1335年12月に、尊氏が箱根・竹の下の戦いで新田軍を打ち破り、京都を目指し西上した。
・1335年建武2年12月に,、朝廷は、奥州多賀城にいる北畠顕家きたばたけあきいえに尊氏討伐の命を下した。顕家は、奥州武将に軍促状を発し、伊達行朝だてゆきとも(信夫郡)・結城宗広ゆうきむねひろ(白河)・南部信政なんぶのぶまさ糠部ねかべ)・相馬胤平そうまたねひら(相馬)・葛西宗清かさいむねきよ(日和山)等を率いて、若干18歳の北畠顕家が上洛した。
・1336年建武3年(延元元年)1月に、足利尊氏は京都に入ったので、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。奥州から着いた北畠顕家軍は、新田義貞と連携し足利軍を破り、足利尊氏は九州に敗走した。
北畠軍の機動性は、12月22日に奥州を出陣し、26日には京都に到着したと伝えられ、当時の奥州勢の勢いが強力で、沿道の村を焼き払い、略奪の繰り返し、草木も生えぬ程であっと伝えられている。
足利尊氏は、九州に逃れたが、勢いを盛り返し京都を目指し、南朝方の楠木正成や新田義貞を打ち破り、奥州より上洛してきた北畠顕家も破り、結果、南朝方の有力武将は相次いで討死してしまった。
・1336年建武3年に、後醍醐天皇は吉野に遷幸したので、足利尊氏は、京都に光明天皇を擁立して吉野と対抗する様になった。これが、南朝と北朝が成立するとともに「南北朝時代」の始まりとなる。
この南北朝の対立が、全国に波及し、各地で南朝・北朝のいずれかに属し、各地で対立を始めたが、しだいに北朝方(足利方)が勢力を伸ばす傾向になった。
南朝方と北朝方の勢力に関して
南朝方(宮方)に関して、軍事上の基盤は、北陸の新田義貞と東北の有力武将の軍勢であった。東北勢力を纏める為、義親親王よしのりしんのう北畠顕家きたばたけあきいえが多賀城国府に下向した。
顕家は陸奥守に任じられ、従三位中納言に昇進し多賀城国府において、東北の地頭で構成する政庁をつくつた。幕府体制に類似した体制で「小幕府」とも言われた。
体制を構成した東北の有力武将は、下記のようである。
式評定衆・・・・・結城宗弘ゆうきむねひろ親朝ちかとも(白河城主)
          伊達行朝だてゆきとも   (信夫郡)
 引付衆 ・・・・・長井貞宗ながいさだむね   (出羽・長井郷)
          伊賀光貞いがみつさだ  (岩城郡)
          下山修理しもやましゅり   (斯波郡)

北朝方(足利方)に関して、北朝方は、津軽・糠部・斯波郡を拠点として、相模守さがみのかみ(鎌倉)となった足利直義あしかがただよしと呼応して多賀城を挟撃しようと図った。
北朝方の奥羽における代表格は、斯波郡高水寺城しばぐんこうすいじじょうにいる斯波家長しばながいえ石塔義房いしどうよしふさ等で、共に「奥州探題」と称する職にあり、南朝方の勢力衰退させる動きをした。
・1336年建武3年春に、南朝の北畠顕家が、足利尊氏を破って九州に敗走させて東北に戻った。石塔義房の多賀城近辺の勢力が強く、福島の霊山に帰らざるを得なかったようである。
・1336年4月22日に、葛西清貞かさいきよさだより先に帰ってきた葛西高清かさいたかきよが、本吉郡馬籠もとよしぐんまごめ千葉周防守行胤ちばすおうのかみゆきたねを攻撃した。これは、南朝方の葛西氏が、足利方(北朝方)に通じていた千葉行胤や気仙沼熊谷直時くまがいなおときを討つために攻撃したものであった。この時、気仙矢作の千葉氏も参陣したと伝えられている。
馬籠の千葉行胤と気仙沼の熊谷氏の関係は、
熊谷直家くまがいなおいえが、1189年文治5年の奥州征伐の際の軍功により、気仙沼近辺に所領として二千町歩(九邑)を拝領したことから気仙沼の熊谷氏が生まれた。
・1223年貞応2年8月には、熊谷直家の次男である直宗なおむねが、気仙沼赤岩に「赤岩館あかいわかん」を構え定住したところから、気仙沼熊谷氏の始まりとも伝えられている。
その後、馬籠の千葉行胤の叔母(千葉広忠の娘)が熊谷直方くまがいなおかたに嫁いだところから姻戚関係となったことも伝えられている。
・1335年建武2年10月に、足利尊氏が宮方を離反した後、千葉氏・熊谷氏共に足利方に味方し、南朝方の北畠顕家に味方する葛西しと対立するようになった。
・1336年建武3年(延元元年)4月に、馬籠千葉氏が葛西高清に攻められたが、千葉氏は頑強に抵抗したが、葛西高清の数千の大軍と千葉行胤手勢五百兵では支えきれないと判断し、気仙沼赤岩館の熊谷氏へ救援を求めた。
この救援依頼に対して、熊谷直時は、一族を総動員して約六百の軍勢を率いて馬籠城に駆けつけた。しかしながら、葛西の大軍には及ばず、結局のところ、千葉・熊谷氏は大敗し、 千葉行胤も熊谷直時も討死してしまった。
この時、気仙郡矢作けせんぐんやはぎの千葉胤重ちばたねしげ(矢作氏)は、本家筋の馬籠千葉氏に加勢せず、葛西方に味方して軍功を挙げたと伝えられている。これが、「馬籠合戦まごめがっせん」と言われている。
葛西高清かさいたかきよは、本吉馬籠を打ち破り滅ぼしたあと、鋒先を向けたのが、気仙郡の金俊清こんとしきよであった。俊清は、先に郡司職を務められた金為俊こんためとしの6代目金孫四郎俊長こんまごしろうとしながの長男、金弥四郎兵庫俊清こんやしろうとしきよと名乗っていたが、高清に攻め込まれ降伏した。その後、葛西氏の麾下となり旧領を安堵された。その後の子孫には郡司職の肩書はなくなった。
高清に破れたことの文書が残されている。「北畠顕家従軍。葛西因幡守高清敗績」とある。
葛西氏は、初めから南朝方に組みし、奥州における有力豪族として重きをなしていたが、北朝方の勢力が拡大してくるとともに、南朝方の武家の核と目されていた結城氏が、北朝方に転じたころから、葛西氏も北朝方に傾いていった。
1335年建武2年冬頃から、南朝に味方するようになって、1343年興国4年までの約10年間、南朝方に尽力を尽くしたが、1343年興国4年の北畠顕信将軍が北朝方に敗れ滴石(岩手県雫石)に退いたころに、葛西氏の北朝に転じたことが起こった。
・1343年興国4年7月には北朝方(足利方)の石塔義房いしどうよしふさ葛西親家かさいちかいえの連名で、平泉中尊寺に鐘を寄進している。これは、石塔義房が勝利し、葛西氏が北朝方に転じた意味を示すものである。親家ちかいえは、葛西清貞かさいきよさだの子とも言われている。
・1345年興国6年(貞和元年)7月に、北朝方は、幕府の地方官として「奥州管領」を設けて、畠山国氏はたけやまくにうじ吉良貞家きらさだいえが任じらて奥州に下向した。
・1351年正平6年(観応2年)正月に、足利直義あしかがただよしが南朝方に下り、その支援を受けて尊氏たかうじ師直もろなお方に攻撃をかけた。所謂、「観応擾乱かんのうじょうらん」の始まりである。
この中央での争いは、奥州にも伝播して大きな影響を及ぼした。
この争うで、奥州管領も二派に分かれ、畠山国氏は尊氏・師直方に、吉良貞家は直義方となり、宮城郡岩切城に籠城した畠山国氏と吉良氏が戦い、畠山氏が敗れる結果となった。所謂、「岩切合戦いわきりがっせん」と言われている。
この争いに乗じて、奥羽の南朝方は、北畠顕信きたばたけあきのぶを中心に出羽方面より押し寄せ、一時は吉良貞家軍を破り、多賀城国府を奪取した。
・1352年文和元年(正平7年)3月には、吉良貞家は再び多賀城国府を奪還した。その勢いで南朝拠点を次々と攻めたてられ悉く南朝方は敗北、北畠顕信は、滴石(岩手県雫石)に逃れる状況に至った。
室町南北朝時代~戦国時代の気仙の状況
・気仙郡の金氏について
気仙郡の金俊清こんとしきよは、葛西高清かさいたかきよに破れ、その後、降伏し、旧領安堵されたが、金氏の勢力分散が行われた。金俊清の子弟が移封の措置を取られた。
・1352年文和元年(正平7年)に、金俊清の次男定俊さだとしは、磐井郡千厩邑いわいぐんせんまやむらに采地三百町を与えられ移った。
・1353年文和2年(正平8年)には、金俊清の三男俊時としときが、薄衣邑うすきぬむらに三百町が与えられ、米倉塞よねくらさいに移った。
千厩には、1336年建武3年(延元元年)以来、里見義綱さとみよしつなが地頭として来住していた。この後、母方の金野こんの姓になっていることから、気仙金氏のつながりから、金定俊が相続する形で気仙から千厩に移ったものと思われる。
三男の俊時が薄衣に移ったが、薄衣氏の本拠地に割り込んだ形となったが、俊時としときは娘を薄衣氏うすきぬしの次男持村もちむらを迎えて跡継ぎとして調和を図ったと言われている。
・気仙郡の矢作千葉氏について
矢作千葉氏やはぎちばしは、広田湾周辺に次々と居館を築き、勢力を着々と増やしていったが、一方、同族間の争いも絶えなくなったようである。その要因は、勢力拡大に伴い開墾・漁業・海運などで利害が生じて争いになったと推測される。
矢作千葉氏の一族の争事として代表されるものがある。それは、高田・長部館の争いである。
・1413年応永20年6月に、気仙郡長部館主おさべかんしゅ千葉安房守慶宗ちばあわのかみよしむねが、突如として気仙郡の高田城を襲撃した。千葉大膳亮胤慶ちばだいぜんのすけたねよしは、防ぎきれずに自害してしまった。63歳であった。
長部館おさべかん慶宗よしむね高田城城主たかだじょうじょうしゅ胤慶たねよしとは兄弟で、共に千葉重慶ちばしべよしの子である。骨肉の争いを繰り返しおり、気仙郡では「高田・長部館の二兄弟の争い」として語り継がれている。
千葉胤慶の譜には、
「応永二十年六月、弟安房守慶宗、恨ミ有二依リ、俄二逆意ヲ企テ兵ヲ率イ高田城ヲ攻ム。胤慶敗績シテ云々」とある。
千葉慶宗の譜には、
「胤長(胤慶嫡男)浜田小四郎宮内小輔、応永二十年九月叔父長部安房守慶宗敵タル二依リ、兵ヲ率イ長部ヲ代キテ次弟宗胤ヲシテ長部家ヲ継ガシム元徳元年六月七日卒七十九才
と記されている。
これは、6月には、高田城主胤慶が死亡し、9月には胤慶の子、宮内小輔くないしょうゆ胤長たねなが等兄弟が、力を合わせて、仇となった叔父長部慶宗おさべたねむねを討って滅亡させたということである。
長部慶宗には、一男一女があったが、男子の余三郎よさぶろう守綱もりつなは15歳で亡くなり、娘は江刺近江守信見えさしおみのかみのぶみに嫁いで、長部家は絶えてしまったという。そことで、胤長は、弟の又三郎宗胤またさぶろうむねたねを長部家の跡を継がせた。この時35歳であったが、後に「長部安房守おさべあわのかみ」を称したと言われている。
この様に、この争いは、気仙川周辺の千葉系一族の私闘であったとも言われている。この高田城は、高田町裏の「東館」、長部館は、長部港に近い「二日市・・」とも言われている。
・1437年永享9年3月に、阿曽沼あさおぬま一族で大槌城主おおだてじょうしゅ大槌孫三郎おおつじまごさぶろうと気仙の岳波太郎すわたろう唐鍬崎四郎からくわさきしろうの連合軍が、遠野(岩手県)の横田城に押し寄せた。横田城主は阿曽沼一族の長である阿曽沼秀氏あそぬまひでうじである。
この事態が生じた経緯は
気仙郡の実力者である千葉伯耆守(矢作千葉氏の流れ)の行状が芳しくないところからはじまっている。千葉伯耆守は、領主としての識見はなく、勢力拡大の中で暴挙も数あることから、岳波太郎・唐鍬崎四郎の兄弟が、閉伊郡の大槌孫三郎と一揆契約を結び千葉伯耆守を攻める企てをした。さらに、遠野の阿曽沼氏にも支援を申し出たが、逆に、阿曽沼氏からは「それは不忠であり、許し難い暴挙」と諌められてしまった。
かねてより、大槌孫三郎は、阿曽沼一族を阿曽沼秀氏に代わり取り仕切る野心を抱いていたので、この機会を窺っていた。これを幸いに、阿曽沼秀氏を討たんと気仙の岳波・唐鍬崎兄弟に相談し賛同を得たので、遠野城攻撃を決断したということが、後年に南部藩士伊藤祐清いとうすけきよの私記「祐清私記すけきよしき」として残されている。
私記「祐清私記」が下記のごとくである。
「気仙一揆の事
ソノ頃、東奥気仙郡ノ領主ヲバ千葉伯耆守ト称ス、葛西殿ノ類葉ナリ。生マレツキ性短慮ニシテ、昼夜酒淫ノフタツ二興ジ、行儀正シカラズ。
諸氏大イニ疎ンジケリ。ココ伯州ノ御内二嶽波太郎、唐鍬崎四郎トテ兄弟ノ者アリ。身ノ丈人二勝レ、雄力彼二双ブ者ナシ。ヨッテ我尽ヲ振ル舞ヘ
終二気仙一郡ヲ靡イテ己カ居城ニ引キ篭リ、気仙ノ下知ニ背キシカバ、伯州、安カラズ思イ軍勢ヲ催促スレドモ、互イニ狐疑ノ思トス」

とある。
岳波と唐鍬崎兄弟は、気仙郡内の地侍で、勇猛果敢で、彼等に刃向かう者などいなかったと言われている。この二人が千葉伯耆守に叛いて旗上げすると、気仙地域の地頭たちは、大いに気勢をあげた。この為、千葉伯耆守は、登米郡の葛西宗主の葛西満信に救援を求めた。
私記「祐清私記」によると、
・・・トカク諸勢猶予スルウチ、一揆イヨイヨ蜂起シテ ツイニ伯州ヲ攻メ亡シテ、難ナク気仙一郡御手ニ入リ、今ハ葛西勢ヲ引キ請ケ、有無之勝負ヲ究メント軍勢ヲ駆ケ催シ、ソノ用意ヲ仕ツル」とある。
また、千葉伯耆守の葛西氏救援を聞いて、岳波・唐鍬崎兄弟が阿曽沼秀氏にも救援を請う内容が「聞老遺事」に記されている。
聞老遺事」には、下記の様に記されている。
岳波、コレヲ聞キテ援兵ヲ遠野ノ阿曽沼太郎秀氏ニ請フ・・・秀氏、ソノ来状ヲ聞イテ怒リ、曰ク臣下トシテ君ヲ討ツ、逆賊コレヨリ大ナルハナイ」として、気仙側の申し入れを断ったと記されている。
この様な状況で、気仙兄弟と大槌孫三郎が相談の上、遠野の阿曽沼氏を討つことで、岳波と唐鍬崎兄弟は、赤羽峠を越え横田城を取り囲んだ。大槌勢もまもなく着陣し、気仙勢の優勢な状態となった。
この状況で、阿曽沼氏あそぬましは、糠部ぬかべ南部守行なんぶもりゆきの支援を望んだが、南部守行は「羽州一揆」の鎮圧に秋田方面に出陣中であった為、糠部南部より取り急ぎ50騎を遠野に派遣し、その一報を守行に急報、南部守行は、急ぎ糠部に帰国後、陣容を整えて遠野に出陣した。
南部氏と阿曽沼氏の関連は、南部氏は北奥羽の有力武将で、南北朝時代に北朝方(足利方)であった南部氏に阿曽沼氏が従っていた経緯があるからである。ちなみに、大槌孫三郎は、南朝方の意向を持ち続けている武将であったこと等から、実質的には、南朝方に意向を持ち続けた大槌孫三郎と足利方の南部守行の戦いとなっとも言える。

奥州葛西一族物語

葛西四百年の歴史に関して
 <<葛西所領関連 郡の動き>>

気仙郡(住田町誌)中世編(葛西一族関連)
・1485年文明17年8月には、三戸の南部政盛なんぶまさもりが気仙郡の有住郷ありずみのさとに侵入し、葛西勢と交戦したが敗退し退いた。この戦いで、桃生郡大窪おおくぼ佐々木泰綱ささきやすつなが軍功を揚げ、葛西政信かさいまさのぶより気仙郡の郡北の盛郷さかりのさとに所領を与えられ、田茂山館たもやまかんに居住したと言われている。
この南部氏侵攻は、葛西内訌により南部義政なんぶよしまさの外孫である葛西朝信かさいとものぶやその子尚信ひさのぶが、立て続けに死亡したことや、特に、尚信の早世が、叔父政信が謀ったとの噂などから、三戸南部氏が葛西政信の反対派である江刺隆見えさしたかみを支援したので、その親戚でもある和賀氏にも類が及ぶ事を懸念して気仙に侵攻したものである。(葛西政信が江刺隆見に軋轢あつれきを持っており、その上、和賀氏とも衝突していた。)
有住郷の戦場は、現在の住田町上有住の十文字、根岸、八日町などで、この地で、南部勢の指揮者格の下条行長しもじょうゆきなが金沢盛弘かなざわもりひろが討ち取られ大敗したところである。この下条行長を討ち取ったのが、桃生郡大窪邑の佐々木泰綱である。
また、胆沢郡小沢城より参陣した佐々木信綱が、南部勢の指導者格の一人である金沢盛弘を討ち取ったと言われている。南部方には記録がなく、葛西方には語り継がれている。恐らく、軍監として出陣した岩渕経定いわぶちつねさだが、南部の大軍を撃破したとも言われており、南部方として戦いの記録として残さなかったのではと推測する。
この戦いで軍功をあげた佐々木泰綱が、葛西政信より与えられた恩賞の詳細は、気仙郡北部に三百余町の地と、その年の10月には、さかり猪川いのかわ立根たっこん日頃市ひころいち赤崎あかざき綾里あやおり越喜来おきらい吉浜よしはま等が与えられ、気仙北部の旗頭として桃生郡から気仙郡田茂山館たもやまかんに移居した。これは、南下する南部氏の防衛措置としての配置ではないかと言われている。
この内容が、佐々木家の系譜に、次の様に記されている。
「賞二軍功一、賜二食封三百余町於気仙郡一、移二居於郡之田母山邑一。為郡之田母山・大船渡・日頃市・上石橋・猪川・立根・赤崎・下石橋・綾里・白浜・小白浜・浦浜・崎浜・十八里之旗持、永正十一年五月十二日卆、年五十六 貞顕」
と記されている。
《参考資料》 ・葛西時代の苅数について
室町時代の土地制度を知る上での資料として、太守葛西家より出された「知行宛行状」がある。1504年~21年までの永正年間~1572年~92年の天正年間までのものが大部分で、論功行賞における土地拝領は、苅数を持って給付されたようである。
千苅の土地は、次男・三男が一人分家させるための必要な基礎と考えられていた。給付された土地は、「領知一代制」が原則で、その子が前代同様の軍役を勤めれば「遺領安堵」が許される。しかし、そうでない場合は遺領安堵されないのが原則であった。従って、長子相続でなかったと言われている。
葛西家が発給した約100通の安堵状を見てみると、三千苅、五千苅の記述が多いことが分かる。これは、五十苅を八畝(せ)(一畝=99.2㎡)程度と換算すると、(8×99.2=79.4㎡)、三千苅は四町八段歩(約4.8ヘクタール:1町歩は3000坪位で14400坪位)、五千苅は八町歩(約八ヘクタール)余りとなる。騎馬武者一人あたりの軍役で、ほぼ三千苅(五町歩)であり、それ以上となる七千苅、八千苅となり騎馬武者二人程度の軍役となる。当時の土地の生産能力は。現在の1/3程度で、一反歩から一石程度で、年貢はその2/3が徴税された。
強いて言えば、三千苅(4.88ha)は平均的耕作営農者で、下級武士の標準でもあった。
標準的地主とは、六貫文の地主の騎馬武者のこととも言われている。では、「六貫文一騎」とは、上田六反歩(一反歩は10アール)で「一貫文」で、一貫文は宋銭1000枚であるから上田36反歩で360アールの耕作地を持ちうることで一騎馬武者と言わることになる。
・下級武士の状況について
・1590年天正18年6月に、太守葛西晴信かさいはるのぶから広田村伊藤長門裕則いとうながとひろのりに発給された文書が残されている。
「在郷一門以上三十五人直様すぐさま差立出張スベシ」とある。
この内容から推察すると、伊藤氏は、三十貫文程度の地主であったことや、騎馬武者は弓持ち、槍持ち、長刀持ち、馬の口取り、兵糧持ち、鎧衣装等の雑兵を引き連れて行くことから35人とは、騎馬武者5~6人、従者30人程度となる。一門総勢出陣となる計算となる。また、当時の武士の家族構成は、騎馬武者1人あたり6人の従者が必要となり、さらに、妻女、老幼児を合わせると、総勢約20人程度が一家族と推察される。
郷村の武士を家来として城館を構えているのが「館持侍かんもちさむらい」と言われ、所領として数十貫~何千貫文を与えられていた。
従って、葛西太守はその頂点に立ち、その下に多くの館持侍を従え、その下に六貫一騎の下級侍が存在した。
館持侍は、館造成の際に、自然の地形を利用し館を造り柵をめぐらし、土塁を築いたものが多かった。
世田米郷せたまいのさと有住郷ありずみのさとの城館について》
葛西家臣の舘と思われるものが、住田町には六舘ほどあるが、現在記録として残されているものが僅かである。
世田米城せたまいじょう
住田町世田米下にあり、世田米の入り口に旧世田米小学校があり、その東の小山に位置している。山頂の一角に八幡社が祀られている。東西に100m、高さ50mの小山が城郭址である。「仙台領古城書」には、「東西五十五間、南北二十五間」と記されている。
「封内風土記」によると、阿曽沼甲斐信康あそのぬまかいのぶやすが居城となっている。
「気仙郡古記」には、山城古舘、東西五十五間、南北三十五間と記されている。
「仙台領古城書」には、淺沼甲斐あさぬまかい同中務どうなかつかさが、米ヶ崎にて討死、千葉安房一門とある。「気仙郡直伝」には、城主淺沼甲斐守信康あさぬまかいのぶやす、その子中務とあり、千葉安房と同族なれど仲が悪く討たれたとある。
一説では、浜田千葉氏の保護を受け、世田米に亡命した遠野城主の阿曽沼氏の関係の者が、後に「淺沼」と改名したともいわれている。したがって、遠野阿曽沼氏との関係も深く、天正の頃、遠野阿曽沼孫二郎広長の正妻が世田米城主の娘になったとされる。
また、淺沼中務は、浜田安房守に米ヶ崎城に呼び出され斬首されたとあり、恐らくは、「米ヶ崎にて討死」と書き残されたものと思われる。
中里舘なかざとかん(仮称)
中里豊後なかざとぶんごの居城があったと言われているが、残された記録がない。
上有住城かみありずみじょう
浜田喜文はまだよしぶみの居城とされている。喜文は、浜田城主はまだじょうしゅ千葉安房守広綱ちばあわのかみひろつなの弟と言われている。 「気仙郡古記」には、「山城古城、東西十八間、南北三十八間 右館名相知不申候」と記されているが、恐らく、上有住城とお回れる。
上有住城かみありずみじょう(別城名)
千葉内膳ちばないぜんの居城と言われている。上記上有住城ではない。 「気仙郡古記」には「・・・二ノ曲輪、東西八間、南北三十二間、城主千葉内膳 深谷二而討死申由伝候」と記されている。
樋口城ひぐちじょう
松田大隅まつだおおすみの居城と言われている。
「気仙郡古記」には、「樋口古館、東西十二間、南北十四間、右古館主松田大隅 千葉内膳弟二御座候天和年中病死申由二候」と記されている。
外館城そとかんじょう
紺野美作こんのみはまが居城と言われている。 「気仙郡古記」には、「山城古館、東西二十二間、南北十八間 右館主紺野左近 葛西没落之みぎり南部ヘ牢人仕候由申伝候」と記されている。
いずれも葛西家臣で住田町内に領地をもって与えられていた。
世田米の葛西支配には、二つの館が存在し、葛西家臣阿曽沼信康の世田米館と葛西家臣中里豊後があったと言われている。
世田米殿として名前が初見されるは、1499年明応9年12月13日付の「薄衣状」の文書にあり、沙弥経連さやきょうれんと薄衣美濃守入道の連名で書かれた文書である。
「予非運之至、去十日、亦一揆之大原之伯耆守おおはらのほうきのかみ、兄世田米之伊豆守せたまやいずのかみ鱒澤越前守ますざわえちぜんのかみ両三者、しょう五百騎計、くすぐ 松坂井毛峠越、庶境之里々、在程失仕、為後詰之入道手勢、□百騎計、東山熊田倉押寄,此彼揚煙候所云々」
に記されている。
浜田安房の乱について
・1587年天正15年2月、本吉・気仙方面に騒乱がおこり、浜田城主浜田安房守広綱・横沢信濃・今泉氏等が連合して本吉郡の岩月郷に侵入、占領する事態が起こった。葛西晴信は男沢越後守等を調停役として遣わし、一応、終結したけれども、原因は定かではない。
しかしながら、和解したはずであったが、1588年天正18年春に、再び本吉郡に侵入した。この状況を「奥州葛西記」には、「浜田陣」と称した戦いと記されている。
葛西晴信かさいはるのぶは、この戦いについて、自筆の書簡を遠野孫次郎とおのまごじろうに送っている。
「(天正15年ヵ)十月廿六日 急度啓入候 仍過日以使者、不能音問候事、無心元次第候、随而、信安心世田米下向之事、来二日二治定之、大義千万候与、世田米迄越来可然候、将又鱒澤其差口追出候二付、其方生一害為成度之由、少も油断之義而者、言語道断之跡、余之後、重而可被及進候内、略事候、恐々謹言、
追啓候、其方生害なさせべきのよし候間、辺々油断いたしまじく候、
神無月廿六日          晴信(黒印)
遠野孫次郎殿」

との書簡であった。
内容は、「先日使いの者をやって、どうされたかと遣わしたが、お返事もなく、心許なく思っていました。従って来る十一月に信安を世田米まで下向させるので、大儀ないことであるが、世田米までいらっしゃって戴きたい。鱒沢の件には油断なされないようにしてください」と記したものである。
この戦いでは、鹿折にて有住下野守が部下三十余人とともに戦死している。その文書が残されている。
「今度浜田安房守逆意付而令出馬候処、於鹿折有住下野悉勤候段、味方可及敗軍、処二其掛合、下野守以下三十人取候処、□大理候、依之為忠賞(以下略) 天正十六年五月三日」
の文書である。
葛西晴信は、この争いを「気仙浜田安房守逆意」とか「浜田安房逆心」で言い表しているので、葛西宗家に対する浜田安房の反抗であったことは間違いがないと思われる。
晴信は、この戦いで浜田勢を討ち取ったものには、手厚い恩賞を与えた。
気仙郡軍勢を討ち取ったものには、五千苅を天正16月20日付で与えられたことが、江刺蔵内えさしくらうち及川文書に残されている。気仙郡軍勢の広田左衛門ひろたさえもんを討ち取ったので五千苅を天正16年6月2日付けで本吉郡山里邑昆野文書に残されている。また、気仙郡軍勢の矢作主計やはぎかずえを討ち取り、気仙勢の勢いを失わせたとして、勝木田村二千苅、広田村二千苅が与えられたとして、天正16年6月2日付けで本吉郡津谷菅原文書に残されている。さらには、及川弥次郎おいかわやじろうと組み合う討ち取ったとして、比類ない軍功として五千苅を天正16年6月2日に与えられた者がいたことを記された文書が残されている。
この様に、この戦いは晴信にとって、いかに大きな事件であったが思われる。
気仙郡軍勢を討ち取った者に対する恩賞が手厚くされ、恩賞の件数が40指にも及んだと言われている。
翌年、天正16年5月10日に気仙郡地頭矢作大隅守やはぎおおすみのかみに、前年の浜田の乱の戦功により、気仙郡内の総旗頭に指名された。
また、葛西晴信は、浜田氏に対しても気を配る様子が次の書簡にもうかがえる。
「内々其許様子、無心元存候処に、被及注進候事、本望候、殊更度々被得勝利候由、可然存候、髄而一両日中、束れへ可被下向候、偏に其行之ためとして如比候、於時宜、毛頭御存知有間敷候、下端自式部大輔所、巨砕可被相理候条、拗無疑候、恐々謹言、
 天正十七年弥生十七日        晴信、
浜田安房守殿           (岩手大学所蔵)

いずれにしろ浜田安房守はその後、自らの勢力回復することなく生涯を送ったと言われている。己の力を過信したのか、時代の流れを読み違えたのか、ともかく気仙郡の逸材を失ったと言える。
浜田は、晴信にとって“獅子身中の虫”と言わざるを得なかった。 「浜田の乱」は、気仙郡の葛西晴信に対しての反抗であり、葛西宗家と袂を分けた重要な戦いであった。
従って、葛西晴信がこの様に、領内の反乱に対抗奮闘中であつたことが、小田原参陣の機を失ったことには間違いなく、奥州仕置きで取り潰しにされるに至った理由のひとつではなかつたかと思われる。
この戦いにおいて、葛西宗家側に立ち、浜田安房守と一線を画した代表格は、矢作修理重常やはぎしゅりしげつね及川掃部頭重綱おいかわかもんのかみ(小友の蛇ヶ崎城主)の二人であった。この二人は実力があり、浜田安房守はまだあわのかみは手を下すことはなかった。しかし、同じ様に加担しなかった世田米の阿曽沼甲斐あそぬまかい中務重範なかつかさしげのり父子は、浜田氏の本吉出兵に反対した為、浜田安房守に呼び出され、米ヶ崎で斬首させられ“出陣の血祭り”にされたとのはなしもある。また、晴信の手紙には切腹させられたとの文書ものこされている。
「一、 気仙之事、尤家中之事と云過半降参落着の躰に候可被聞食候、 一、 遠野之事、世中切腹之故、以其首尾、此度及出馬被申候、其みぎり遠野一乱事、於陣家無了簡被存候、おん元之仰塩味可為肝要候、(後略)
   門月二日       常庵
   南部殿
      皆々仰申」

が、「気仙風土草」には、「浅沼中務墓に小男田」というくだりがある。これは、横田村小山里道に1つの石塔が立っている。その にまつわる話が伝わっている。気仙の領主浜田安房守から世田 米城に一通の書状が届けられ、「妻女を世話してやるので来い」との内容であったので、中務は喜び勇み出掛たとのことである。しかし、途中横田村に差し掛かると田んぼから突然一尺五寸ばかりの小男が飛び出し、「浜田氏にあなたに計略があって呼び出したから止めた方がよい。決して行ってはなりませんぞ」と説いた。 が、この言葉に中務殿は、少しも動ぜず米ヶ崎に向かった。安房守といかなる話が行われたか知る由もないが、その帰路横田村で浜田方の兵により鉄砲を撃たれ落命した。従者は、遺骸を世田米城に運ぼうとしたが、追手の追撃が激しく首を切り落として首のみを世田米城に持ち帰った。横田村の人びとはこれを哀れんで首なし遺骸を埋葬したという話が伝わっている。 いずれにせよ、様々な伝承や文書が残されていが、真実は定かでない。葛西宗家の思いと、浜田安房守方との思いが交差しているが、阿曽沼中務重範あそぬまなかつかさしげのり浜田安房守はまだあわのかみの本吉郡侵攻の際、浜田氏方に殺されたことは事実だと思われる。
           

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