郷土歴史倶楽部



中世大崎氏歴史年表


大崎氏一族歴史動向

西 暦 年 月 年代 大崎氏一族歴史動向
1354年 文和3年 ・1354年文和3年斯波家兼しばいえかねが、吉良貞家きらさだいえの死去にともない奥州管領に任じられた。斯波氏の始祖は、斯波家兼、 暦応元年(1338年)閏7月、兄高経たかつねと共に越前藤島えちぜんふじしまの戦いで、南朝方の大将新田義貞にったよしさだを討死にさせる武勲をあげた人物。
1355年 文和4年 ・1354年文和3年頃に、中奥では、管領斯波直持しばなおもちが、多賀城にいて活動を続けており、観応の擾乱かんのうのじょうらんで大敗した畠山国氏はたけやまくにうじの子の国詮くにあきらが、 芦名氏あしなしを頼り会津におり、吉良満家きらみついえ治家はるいえ石塔義元いしどうよしもと、さらには、宇都宮守氏うつのみやもりうじ氏広うじひろ父子等が、塩松しおまつ(福島県二本松市周辺)で、虎視耽々と奥州の支配権を狙っていた。
1356年 延元元年 ・1356年延元元年10月22日に、直持は管領職としての職務をこなしている。幕命を奉じて領国内の地頭に、所領の宛行や下地沙汰状の施行を行った。一つとして、大掾下総守おおじょうしもうさのかみ氏家彦十郎うじいえひこじゅうろう遵行使じゅんこうし(両使)として、八幡氏やわたし押領おんりょうを排除して、宮城郡内の余目郷あまるめのさと以下の留守領の下地を留守氏に渡すべしと命じた。しかし、八幡氏は、催促にも屈せず留守領を押領続けた。
1361年 庚応元年 ・1361年庚応元年7月6日に、直持は、泉田左衛門入道いずみださえもんにゅうどう氏家伊賀守うじいえいがのかみ(彦十郎と思われる)を両使に任命し、下地打破を八幡氏に命じたが、右余曲折した。
1364年 貞治3年 ・1364年貞治3年10月10日に、足利尊氏あしかがたかうじ下文くだしぶみと直持の宛行状あてがいじょうによって、留守氏の本領が回復された。
1367年 貞治6年/正平22年 ・1367年貞治6年/正平22年頃関東公方足利基氏かんとうくぼうあしかがもとうじが28歳で没し、幼少の足利氏満あしかがうじみつが後継に就いた。一方、同年暮れに、将軍足利義詮あしかがよしあきらが38歳で没しており、幕府も関東府も、幼い後継者を中心に新体制の構築や家臣間の軋轢の調整等を行わざるを得なくなり、遠隔地への指示も行き渡らず、奥州の地 では、中央権力のくびきから逃れ、暫くの間、奔放な活動を許す事となり、この期を逃さず、奥州探題の斯波氏は、積極的に勢力の拡大を広めていった。
この頃から、奥州においても国人の独立化が進み、幕府を背景にした探題や関東管領に対して堂々と対決姿勢をあらわし、安易に屈服するこをしなくなった。幕府の支配体制に抵抗したり、相互の紛争をお互いに和睦で解決したりする為に、国人達が一揆契約を交わす風潮になってきた。例えば、大崎探題に対して共同連携として対抗する為の 一揆契約いっきけいやくを、葛西かさい長江ながえ山内首藤やまうちすどう登米とめ留守氏るすし等が結んだことなどがある。
1371年 応安4年 ・1371年応安4年10月10日に、三代として詮持あきもちが奥州管領となった。直持の嫡子として幼名彦三郎ひこさぶろうを襲名、初めは1372年(応安5年12月2日)左衛門佐さえもんのすけとなり、 1373年(応安6年9月18日)左京権大夫さきょうごんだいぶとなり、1388年(嘉慶2年)左京大夫さきょうだいぶに任ぜられた。その後、左京大夫、奥州管領として活動して行く。
斯波詮持しばあきもちは、奥州において足利方の権力者として、石塔氏はすでになく、吉良・畠山・石橋氏が勢力を競っていた。
1372年 応安5年 ・1372年応安5年頃に、詮持が師山もろやまから小野このに移住したと云われている。
詮持の時代は、南北朝内乱の後半期から室町時代の初期にかけての三代将軍足利義満あしかがよしみつの時代で、14世紀末期であった。1353年(文和2年)5月に、宇津峯城うつみねじょう陥落後、北奥で動いていた南朝方の大将北畠顕信きたばたけあきのぶは、1362年(貞治元年)頃まで活動していたが、その後は明らかでなく、糠部八戸ぬかべはちのへの南部氏が北奥に勢力を保っていた。又、吉良氏と並んで奥州管領であった畠山氏は、1351年(観応2年)岩切合戦いわきりがっせん畠山国氏はたけやまくにうじが自刃、その後、遺児の平石丸が安達郡に逃れて再興を図り、修理大夫国詮しゅりだいぶくにあきを名乗って再び管領職を狙っていた。一方、奥州管領の吉良氏は、貞家の子の満家みついえ夭折ようせつ後、叔父貞経さだつね(貞家の弟)、弟の治家はるいえ、嫡子の持家もちいえとの間に管領職の相続争いが起こり、一族分裂、治家は幕府より追討を受けることになった。従って、吉良氏自身の権勢を失い、僅かに長老の貞経が、管領としての行動をしており、畠山国詮と対立していた。
その状況下で、吉良治家きらはるいえ追討の為、1367年(貞和6年)に尾張式部大夫宗義おわりしきぶだいぶむねよし石橋棟義いしばしむねよし)が、将軍足利義詮より大将として奥州に派遣された。が、奥州平定後も奥州に留まり陸奥守となり、所領安堵、所領預置、軍事催促等を活発に発給文書をだしたが、(父和義も同行し補佐した)管領職とは異なった職権で、軍事指揮権が主な任務であった。
前述の事は、名取郡熊野堂の一切経奥書いっさいきょうおくしょ、1380年(庚暦2年)6月1日「当国大将石橋殿源棟義」と記されていたことから認識できる。
1373年 応安6年 ・1373年応安6年12月2日に、詮持は、相馬胤弘そうまたねひろに対して将軍の命によって、高城保の赤沼郷を本領とし、元の如く知行すべくと命じた。その施行状によって、 1373年12月11日に、葛西清光かさいきよみつと留守氏が遵行使(両使)として下地を相馬胤弘の代官に渡した。
1375年 応安8年 ・1375年応安8年4月には、詮持は、葛西周防三郎かさいすおうさぶろうに対して志牛・那須郷等を「御恩」として宛行等、奥州諸氏に対して所領安堵、所領宛行、御恩宛行等の管領としての 重要な職務を果たした。
1383年 永徳3年 ・1383年永徳3年8月15日には、南奥の岩崎郡の岡本太郎おかもとたろうを伊勢守に推挙するなどの官途の職権を行使している。
1386年 至徳4年 ・1386年至徳4年12月2日に、石橋棟義いしばしむねよしが、相馬冶部少輔憲胤そうまじぶしょうゆのりたねに対して、名取郡南方増田郷下村を兵糧料所ひょりょうりょうしょとして預け置きとしたとの発給文書が最後で、当国大将としての権威を失い、40年後の1428年頃には 、南奥諸氏の末尾に記されて、在地の安達郡塩松の一領地過ぎなくなっていた 。
1388年 嘉応2年 ・1388年嘉応2年11月14日には、宮城郡の留守参河守次郎るすみかわのかみじろうの家督の相続を認可した。
1390年 明徳2年 ・1390年明徳2年には、斯波管領しばかんれい(奥州探題)大崎詮持おおさきあきもちが、長岡郡ながおかぐん(宮城県大崎市古川須賀)小野村洲賀このむらすがに拠点を構え、近隣の国人達に強引に干渉し、領地を侵略拡大していた。又、大崎詮持は、探題職を楯に、留守詮家るすあきいえに切腹を命じたり、近隣国人達に圧力をかけ続けた。
この様な情勢のなか、大崎氏に対する不満も高まり、将軍に訴状を出して訴えるじたいが発生した。
1391年 明徳2年 ・1391年明徳2年3月6日には、和賀郡の和賀伊賀入道わがいがにゅうどうに対して江刺郡内会佐利郷あいさりのさとを勲功の賞として宛行つている。
しかし、管領としての活動は、以前より少なく、発給文書も少なくなっていることから認識できる。これは、当時の社会体制が、古い荘園公領体制が崩れ、在地国人達が勢力拡大に力を注ぎ、公権力の荘園領主に反抗し始めたからである。一方、武家社会も従来の惣領制が解体し、一族、庶子が分離し在地「国人」として、自立・独立の行動を持つようになった。地方豪族領主は、在地国人を配下にし結集して大名化していった。奥州で代表的な例が、伊達氏である。
6月27日の、将軍足利義満あしかがよしみつ御教書みきょうしょでも明らかで、斯波詮持しばあきもちが、畠山氏領地を押領し抑留していることを、幕府に訴えた事にたいする幕府からの教書である。
「陸奥国賀美郡事、畠山修理大夫国詮分郡也、而左京大夫(斯波詮持)抑留云々、・・・興、同黒川郡・・国詮、恩賞之地也・・早 伊達大膳大夫(政宗)相共、・・・」 明徳ニ年六月二十七日     左京大夫(細川頼元) (花押)  葛西陸奥守(満良みつよし)殿
これは、第二次吉良・畠山合戦で、畠山氏が敗退、吉良氏が勝利し二本松に引き上後、斯波氏が両郡を「抑留よくりゅう」しためであると考えられ、畠山氏が幕府管領の交替に乗じて、失権回復を狙っての幕府に訴状したものと解釈される。
1392年 明徳3年/元中9年 ・1392年明徳3年・元中9年に、後亀山天皇ごかめやまてんのう(南朝)から神器を後小松天皇ごこまつてんのう(北朝)に移され南北朝合一がなされた。南北朝は約60年近く続いた大乱であったが、これで終息した。
1398年 応永5年 ・1398年応永5年11月4日には、関東公方足利氏満かんとうくぼううじみつが没し、嫡子足利満兼あしかがみつかねが跡を継いだ。
1399年 応永6年 ・1399年応永6年に、鎌倉府の足利満兼あしかがみつかねは、奥州支配強化の為に足利満直あしかがみつなお満貞みつさだ兄弟と関東管領上杉憲英かんとうかんれいうえすぎのりひでと共に下向させた。満貞は岩瀬郡稲村いわせぐんなむらへ、満直は安積郡笹川あさかぐんささがわに居館を設けて、世に言う稲村御所いなむらごしょ笹山御所ささやまごしょと呼ばれた。特に、従来管領の斯波詮持しばあきもちや領域拡大を目指していた奥州諸国の大名・有力豪族にとって好ましいものではなかった。
さらに、両御所の管領上杉憲英が、奥州諸氏に領土割譲を要求したことから、奥州諸氏の反発をまねくことになる。
1400年 応永7年 ・1400年応永7年に、伊達政宗だてまさむね(九代)が挙兵した頃、大崎詮持おおさきあきもちは鎌倉に出向いており、身の危険を感じて、瀬崎邸せさきていから奥州本領に逃げるべく、間道を辿たどったが、田村荘大越たむらしょうおおこしで稲村御所の足利満貞に追跡され、9月7日に自刃した。息子の満詮みつあきは、15歳であったが、伊達政宗 がかくまい、稲村・笹川御所の追及をかわし難を逃れた。伊達政宗は、政宗(九代)夫人が、将軍足利義満あしかがよさしみつの生母の妹にあたり、将軍家との血縁関係もあったことで、関東府対決も幕府の後ろ盾があったからと推測される。
葛西氏も、「葛西家譜」には、一切記されてはいないけれど、大崎氏同様幕府側についたが、関東府の大崎氏同様に征伐受けて、関東府側について大崎氏と対決する様になったと思われる。この証として、石巻多福院いしのまきたふくいん蓮昇れんしょうの菩提を弔った板碑が二枚残されている。この板碑から、1400年応永7年5月2日に 死没したと記されており、政宗の叛旗を翻した時期でもあり、葛西氏もこの事変に加わった挙句に、苛酷な処罰が課された時に、蓮昇なる大物人物が死亡したと考えられる。
この時期には、伊達軍は、何万騎の鎌倉軍に攻められるが、迎え撃つことが度々あったけれど、最後まで屈服せず戦い続けていた。 そういうなか、河内かわち(宮城県志田郡三本木町)の牛袋寺うしぶくろじの「牛袋うしぶくろのひじり」と称される高僧が、京都より戻り大崎家に、将軍足利義満より大崎氏宛ての書状を持参した。書状は、再度、奥州探題職に任ずるものであった。しかし、大崎詮持が自刃した時期でもあり、満持みつもちが奥州探題職の権限を行使 することになる。この応永七年は、全奥州が、幕府と関東府の狭間で混乱した年となった。
1401年 応永8年 ・1401年応永8年に、斯波満持しばみつもち形部大輔ぎょうぶだいゆうから父の死後左京大夫さきょうだいぶとなり、奥州探題職となり4代目として活動していた。
1402年 応永9年 ・1402年応永9年に、伊達軍に呼応し、大崎軍は老田城おいたじょう(福島県)を拠点に交戦し、その後、稲村・笹山軍と他勢力に攻められ、9月6日に伊達軍が降伏したので、本領に戻ったとある。
1413年 応永20年 ・1413年応永20年には、伊達・大崎・葛西氏の諸将は、奥羽南部氏の勢力拡大を警戒し対抗した。
1417年 応永24年 ・1417年応永24年1月には、百々氏どどし初代高詮たかあき斯波詮持しばあきもちの五男)が、鎌倉公方持氏かまくらくぼうもちうじの命を受け、上杉入道禅秀うえすぎにゅうどうぜんしゅうを征伐する為に、大崎名代として鎌倉に馳せ参じたと大崎家臣団の百々氏系図にも記されている。
1423年 応永30年 ・1423年応永30年9月24日には、左京大夫斯波満詮さきょうだいぶしばみつあき以下奥州諸氏に対して、関東公方足利持氏かんとうくぼうあしかがもちうじを討伐する御内書が発給された。
「笹川殿に合力し、至急関東公方足利持氏を討伐し、関東の政務を沙汰させるよう命じた」
この頃までには、斯波満持が没して、嫡子の満詮が跡をついで左京大夫となって活動していたと思われる。
1424年 応永31年 ・1424年応永31年12月3日には、斯波左京大夫満詮しばさきょうだいぶみつあきは、将軍足利義量あしかがよしかずに、砂金百両、馬三疋を献上し、将軍より太刀一腰、鎧一両を賜り、さらに、嫡子持兼もちかね左衛門佐さえものすけ官途かんとを許される。
1428年 正長元年 ・1428年正長元年6月27日付官途吹挙状かんとすいきょじょうが残されている。 [古川市立図書館所蔵千葉文書]
奥州探題大崎氏のものであり、この頃には、六代大崎持兼おおさきもちかねが治世をはじめていた頃と思われる。(持詮もちあきとも言われる)と考えられる。
1438年 永享10年 ・1438年永享10年に、幕府は、足利持氏討伐に踏み切ったが、持氏は、11月に出家して詫びたが、受け入れられず、翌年二月に、鎌倉において、足利持氏あしかがもちうじ足利満直あしかがみつなおが自殺して、永享の乱えいきょうのらんは終息した。 五代にわたり百年間余りの関東・東北を支配していた関東府は滅んでしまった。
1439年 永享11年 ・1439年永享11年に、葛西持信かさいもちのぶが大崎持詮おおさきもちあき千石城せんごくじょう(宮城県松山町)を攻めてきている。
1440年 永享12年 ・1440年永享12年には、大崎満持おおあきみつもち三迫佐沼はざまさぬまに攻め入ったと記されている。
この一連の動きは、関東管領足利持氏死後の、関東府側討伐の動きの中で、大崎氏が葛西氏に討伐の為攻め入ったと推測される。
1442年 嘉吉2年 ・1442年嘉吉2年に、奥州では、大崎氏が葛西領地に侵攻し、迎え撃った葛西持信かさいもちうじは敗北する。その為、葛西氏は、大崎持詮おおさきもちあきの娘を葛西持信の嫡子朝信あさのぶに迎えることで和睦を結ぶことになった。葛西氏には屈辱的出来事であった。
1460年 寛政元年 ・1460年寛政元年10月21日には、幕府が関東・奥羽の諸氏に対して足利成氏あしかがなりうじ討伐の大動員命を発した。特に、奥州探題の教兼のりかねに発給した将軍義政よしまさの軍勢催促状が残されている。その御内書には、教兼の奥州探題としての軍事指揮権が明確に示されており、奥州の国人等を召集して早速参陣すべきことや、 難渋の輩は厳罰に処するから交名を注進すべきことなどが命じられていた。
・大崎氏と葛西氏が争い、伊達氏が仲裁をしている。寛正年間は、深谷(宮城県志田郡)の長江氏が、大崎氏や葛西氏に攻められ伊達氏の旗下なった。
1465年 寛政6年 ・1465年寛政6年に、探題大崎政兼たんだいおおさきまさかね教兼のりかねかも)に栗原郡三迫の富沢河内守とみざわかわちのかみが叛いたと伝えられており、北奥・中奥・南奥でも、頻繁に戦いが起こり、特に、伊達氏は、宮城県県北部までに働きかけていることがわかる。
1467年 応仁元年 ・1467年応仁元年には、大崎教兼おおさきのりかね葛西持信かさいもちのぶとが、三迫さんはざまで戦った。
・葛西一族の清蓮きょうれん持信もちのぶの弟)が、大崎教兼にそそのかされ、葛西太守持信に叛き、吉田村で討伐される。
1469年 文明元年 ・1469年文明元年に、大崎氏と葛西氏が戦い、葛西所領を大崎氏に抑留され、伊達成宗だてなりむねが仲裁している。
1472年 文明4年 ・1472年文明4年には、大崎教兼おおさきのりかねが、磐井郡流郷ながれのさと耳壁みみかべ地区に侵入し、葛西朝信かさいあさのぶと戦うが、朝信敗退する。この時も、伊達成宗が仲裁し、「成宗調法なりむねちょうほうを持って、葛西淨連かしじょうれんにわたす」とし、遠田郡と小田郡(田尻・瀬峯・南方町) の交換をもって領域協定を結び和議を結んだ。

(留守旧記によると)
・1471年文明3年に、7代大崎教兼は、伊達成宗の仲裁を受け、遠田郡の替え地として遠田17郷・小田保荒井7郷を葛西淨連へ相渡して一件落着した。
と記されている。
1477年 文明8年 ・1477年文明8年5月には、大崎教兼の子息五人の口宣くぜん職事しきじが、叙位・任官などの勅命を口頭で 上卿しょうけいに伝えること)を幕府に申請したが、教兼はこの時期に没したと推測される。法号は龍谷寺殿りゅうこくじどの、小野城の北丘陵の西北隅に残る龍谷寺址が菩提寺と言われている。
1478年 文明10年 ・1478年文明10年には、大崎教兼おおさきのりかねの嫡子が八代将軍義政よしまさ偏緯へんきを賜り政兼まさかねと名乗り、9代目を継承し奥州探題となった。
1483年 文明15年 ・1483年文明15年頃、大崎氏9代政兼まさかねには嫡子がなく、この頃から大崎領内では、家督相続争いが起こり、一族や国人達が分裂し、国内争乱になった。
1485年 文明17年 ・1485年文明17年には、大崎領内では、家督相続争いが起こり、一族や国人達が分裂し、国内争乱になっていた。
1488年 長享2年 ・1488年長享2年に、大崎義兼おおさきよしかねが、急に伊達成宗だてなりむねに救済を求めてきた。
これは、文明年間~1488年までは、大崎氏の勢力が頂点まで達しており、葛西勢力圏を圧迫し、北上川を越え薄衣氏に従属をせまり、多くの葛西重臣の庶子達が大崎家臣に組み入れられていったが、大崎義兼おおさきよしかねの父政兼まさかねが没するや否や、後継争いが起こり、重臣氏家氏に 疎外されていた義兼が、叔父内ヶ崎義宣うちがさきよしのぶに身を寄せていたが、大崎公方を継承すべく伊達氏の後ろ盾を求めたのである。
伊達成宗だてなりむねより、宿老金沢氏しゅくろうかなざわしに命じて大崎領を鎮定し、義兼が復帰する。
大崎氏は、流地方(岩手県花泉町)、佐沼地方を攻撃し、金田島躰かねだしまたい(栗原郡一迫町)城主である狩野信時かのうのぶとき板倉いたくら(岩手県花泉町)城主である熊谷直弘くまがいなおひろが 戦ったと伝えられている。又、佐沼直信さぬまなおのぶが佐沼城を退去し、替わって米田氏が入城したとも伝えられている。
1495年 明応4年 ・1495年明応4年には、大崎内乱があり、伊達成宗と葛西氏が仲裁に入ったと伝えられる。又、葛西領内も乱れおり、薄衣氏・江刺氏が叛き、葛西太守が、柏山・本吉氏を指し向けている。
1499年 明応8年 ・1499年明応8年に、9代義兼よしかねが上洛・・・春、雪解けを待ち百騎の家来を従えて上洛と記されており、百騎の騎馬隊は宮崎など加美郡産駿馬「速きこと、風の如し」と言われる程の一団と称された程であった。上洛経路は、羽州街道を鳴子に進み、最上を経て日本海側の北陸路(新潟、富山、金沢、福井)を上り、「木の芽峠」を越えて琵琶湖を抜けて京都に入った。当時の将軍 11代の足利義澄あしかがよしずみへ拝謁をする為であった。
1505年 永正2年 ・1505年永正2年には、薄衣氏・江刺氏と柏山氏・本吉氏が戦っている。この年も、伊達・葛西氏が、大崎領内に介入したとも伝えられている。
葛西武将のほとんどが参加して、薄衣氏を大包囲し、二年越しの籠城戦になったことがわかり、又、大崎探題の権威が薄れ、実際は、氏家氏を頂点とする国人達の合議制で紛争を解決していったこともわかる。
一方、探題は、徴兵権を活用し薄衣、江刺氏に命令を下し、事件を処理するつもりであったが、葛西勢が動き出し、大崎氏を牽制する為に、薄衣城の包囲作戦を打ったものと推察される。
1507年 永正4年 ・1507年永正4年には、流郷ながれのさと(岩手県花泉町)擾乱じょうらんが起こり、大崎義兼おおさきよしかね葛西稙信かさいたねのぶが戦い、葛西領内で、松崎まつさき寺崎氏てらさきし熊谷くまがい奈良坂ならさか金沢氏かなざわしと戦っている。
1510年 永正7年 ・1510年永正7年に、彦三郎高兼ひこさぶろうたかかねは、義兼を追うように28歳で草世した。後継あとつぎとして、7歳の義直よしなおが次期当主となるが、幼い当主でもあり、後見役として一族の羽州最上領主と黒川領主が就き、補佐役 には狼塚城おいのつかじょう里見さとみ)、高根城たかねじょう仁木にき)、中の目城なかのじょう中目なかのめ)、遠朽館(渋谷しぶや)の四家老が就いた。
1519年 永正16年 ・1519年永正16年には、義直よしなおは14歳になり、室町幕府十代足利義稙あしかがよしたねから家督相続を意味する「義」の一字を拝領し、正式に家督相続をした。
1523年 大永3年 ・1523年大永3年に、梅香姫ばいこうひめ高兼たかかねの長女として生まれる。
1533年 天文2年 ・1533年天文2年に、大崎義直おおさきよしなお29歳で葛西晴重かさいはるしげと境界線争いで敵地佐沼に侵攻した。これは、義直が奥州探題命(幕府より権限委任)で葛西側の訴えを退けようとしたが、葛西が従わなかった為に戦いとなった。しかし、惨敗してしまい、奥州守護職おうしゅうしゅご(守護大名)の伊達稙宗だてたねむねの仲裁で和睦を結び、葛西側の主張通りの境界線を引いて終わった。
惨敗の敗因は、大崎軍団の統率の乱れ、騎馬攻撃を生かしきれなかったことや、義直の強引な先制攻撃が原因であった。元来、義直自身が幼いころから”我儘わがままで強引な性格”、家臣からも煙たがられた存在であった。 この惨敗を覆すかのように、その後、強引に上洛を決行する。
1534年 天文3年 ・1534年天文3年には、主君義直よしなおの横暴に怒った一門筋の新田安芸頼遠にったあきよりとうが反旗を翻した機に、義直自ら兵を引いて、氏家一党の中新田城、高城城、黒沢城を攻撃し、落城させて頼遠居城(現、岩出山町下野目)泉沢城を攻めようとして、狼塚城に陣を構えた。しかし、氏家、古川、高泉、一迫氏が反して頼遠を支援し、さらには、二迫小野松の庄にはざまこのまつのしょう二十四郷の領主上杉安芸守うえすぎあきのかみにも攻撃され、三百騎余の戦死者をだした。大崎領域内に戦火が飛び火する中、義直は大崎領内の刀剣、槍の兵器製造所がある鶯沢まで進軍、鶯沢城うぐいすざわじょうに入った。季節が、稲作の収穫時期に入る秋深まる頃に、休戦状態になる。
1535年 天文4年 ・1535年天文4年に、義直は領内の刈入れを待ち、四家老に出陣命令を下す。新田頼遠の居城泉沢城(岩出山町下野目)へ再度攻撃を加えた。その様子は、合図の狼煙のろしが打ち上げられ、法螺貝ほらがいが一斉に吹かれるとともに、 先陣の弓隊が矢を射かけ、続いて騎馬隊の奇襲攻撃、槍隊が後陣となり攻撃、対峙する反義直は、新田頼遠を中心に、氏家直継うじいえなおつぐと氏家党三百余騎、古川形部持煕ふるかわぎょうぶもちひろ高泉木工権直堅たかいずみもくのかみなおたか(義直の異母兄弟)、一迫伊豆守いちはざまいずのかみの加勢加えて二千人が抗戦したが、泉沢城は落城してしまう。
1536年 天文5年 ・1536年天文5年に、古川城内で内紛が生じた。恒例の正月儀式が古川城内大広間で催された時、宿老米谷兵部煕正しゅくろうまいやひょうぶひろまさが登城しなかったことが発端、米谷兵部は新田頼遠をかくまうことに反対し、主君古川形部ふるかわぎょうぶ諫言かんげんしたことが、反義直 派の豊島宮内としまくない仏坂ほとけざか兄弟の反抗をまねき、内乱に発展することになった。米谷兵部まいやひょうぶの館は、古川城の側にあるため、古川城内から猛攻撃を受け、やもなく、潜んで沢田館(要害)に難を逃れた。
・1536年天文5年に、氏家一党内の内輪もめから、内乱が起こった。氏家安芸守が岩手沢城の氏家清継うじいえきよつぐに夜襲をかけ、弟直継なおつぐを自害させた清継を自決に追いやった。
度々興る内乱が、大崎領内に広まるのを恐れた大崎義直おおさきよしなおであったが、伊達・葛西の外圧もあり鎮圧することができない状況にあった。重臣の中目兵庫頭なかのめのひょうごかみの助言により、あえて、伊達稙宗だてたねむねに援軍を求めることにした。
・1536年天文5年に、義直と家臣中目兵庫頭なかのめのひょうごのかみと共に、西山城(福島県伊達郡桑折)に伊達稙宗に援軍要請の為に入城、会見するには時を要したが、稙宗からは良き返事をもらった。しかし、義直動くの報が反乱軍に伝わり、先制攻撃を受けることになる。
緒絶川おだえがわで境をなしていた対岸の米谷兵部まいやひょうぶの館を、古川城内に籠っていた新田頼遠にったよりとう兄弟の反義直派が、攻撃したが米谷兵部、米谷入道冶部まいやにゅうどうじぶは勇敢に館を脱出したが、女子・稚児ちごは一人残らず斬殺された。
反乱軍は氏家安芸守うじいえあきのかみ一栗兵部いちくりひょうぶ(一栗城主)ら氏家党を率いて、米谷越前入道まいやえちぜんにゅうどうの居館李曾根要害すもそねようがい(古川市李曾捽)を攻め、妻子や家臣を斬殺した。
この戦いで反義直派に対峙したのは、四家老の一人渋谷備前守しぶやびぇんのかみが率いる渋谷党であった。反義直派は飯川二郎四朗いいのかわじろうしろうの館の要害で、氏家党と衝突したが、なかなか勝敗がつかず敢え無く退去したが、反義直派の勢いが激しく、戦火がさらに領内に 広がり始めた。この状況から、再度、義直は、伊達稙宗だてたねむねに援軍を求めるべく、西山城に向かった。
・1536年天文5年に、伊達稙宗は三千余騎を率いて西山城を出発、鳴瀬川上流に騎馬隊を進めた。(鳴瀬川は当時、松山では長世川ながせがわ色麻しかまでは四釜川しかまがわと呼んでいた。)さらに、鳴瀬川沿いの三角州の高台にある師山駿河守もろやまするがのかみの館 に入城した。
・1536年天文5年に、古川城を包囲した義直軍と伊達援軍が攻撃を開始、両軍総力戦で日没まで死力をしぼり戦った、船形連峰に日が沈むと、いずれの軍も本陣に引き上げた。
連合軍は古川城の外堀を落とし、本丸に押し迫る。反乱軍は和睦を求めたが、反乱軍の逃亡者が相次ぎ、首謀者と一握りの家臣となって和睦は許されなかった。
古川城総攻撃がかけられ結果、古川形部少輔持煕ふるかわぎょうぶしょうゆうもちひろ及び嫡子又三郎直稙またさぶろうなおたね、異母兄弟安童丸あんどうまるが切腹、他古川形部ふるかわぎょうぶ孫三郎まごさぶろう新田宮内にったくない豊島としま兄弟、仏坂孫右衛門ほとけざかまごうえもん五井伊豆入道ごいいずにゅうどう親子三人 合わせて15人切腹、古川形部ふるかわぎょうぶの弟四朗三郎しろうさぶろうら56人戦死をした。反乱軍の首謀者の一人、高泉木工権頭直堅たかいずみもくのかみは高泉城に逃れ、再築した城に火を放ち佐沼城へ引き籠った。反乱軍の氏家安芸守うじいえあきのかみ新田頼遠にったよりとうは、岩手沢城に逃れた。
・1536年天文5年に、伊達稙宗は古川城に長逗留したが、再び、岩手沢城攻略へ動く、総大将義直と連合軍は玉造郡丸山(岩出山町下野目)に本陣をおいた。岩手沢城は難攻不落の堅城でもあり、兵糧攻めの戦いとなる。二か月兵糧攻めが続いたが間もなく、伊達稙宗の援軍の分家である義直の後見役である最上義守もがみよしもりが乗り出して戦いは終息した。大崎領内の天文の乱は三年余り続いたが、この戦いの終息で終わった。
1540年 天文9年 ・1540年天文9年には、大崎地方へ領地拡大を狙っていた伊達稙宗だてたねむねが、小僧丸こぞうまるを強引に大崎義直おおさきよしなおの娘梅香姫に婿入りさせ入嗣させた。
1542年 天文11年 ・1542年天文11年には、伊達晴宗だてはるむねは、稙宗たねむね桑折城こおりじょうに幽閉するが、間もなく救出さえるが、伊達家がニ派に分かれて争うことになった。又、奥州南部国人達も二分して武力闘争を繰り広げることになった。所謂、「天文の大乱てんもんのたいらん」 の始まりである。
小僧丸こぞうまる(元服後;大崎義宣おおさきよしのぶ)は、父である稙宗派になった。
1543年 天文12年 ・1543年天文12年には、伊達内乱状態ではあったが元服し、小僧丸改め大崎義宣となった。義直嫡男義隆よしたかをさておき奥州探題職を継ぐ形となったため、大崎氏内部 で分裂を起こす要因となる。(反義直派(大崎義宣)は伊達稙宗派、義直派は伊達晴宗派に分裂して行く)
この時、義直は伊達稙宗から縁を切る為に、伊達晴宗に騎馬隊三百騎持って加勢した。大崎義宣は伊達稙宗(実父)を支援することとなり、最終的には、悲運な最後になる。
1544年 天文13年 ・1544年天文13年には、葛西氏と大崎氏の稙宗派内で争いが起こり、伊達家家臣国分能登守が、斡旋して和睦をしている。稙宗派内の争いは避けるべきとの流れで和睦の形となったと思われる。 しかしながら、当初は、稙宗派が優勢に進んでいたが、争いが膠着状態に陥った。
1545年 天文14年 ・1545年天文14年には、大崎一族の羽州山形城主10代最上義守もがみよしもりの口添えもあり、室町幕府から左京太夫さきょうだいぶ(奥州探題)に任官を受ける。任官後、小野城このじょうから中新田城に移る。
その後、義直左京太夫任官後上洛したが、将軍足利義晴あしかがよしはるに拝謁できず、足利一門でもある「大崎公方」として、著しく権威を損なわれる形となった。このことが、その後「天文の乱」の火種となった要因となった。 拝謁ができなかったのは、将軍足利義晴が当時流行した疫病を恐れ、越前国へ行き、義直と対面できなかった為であった。将軍からは書状つきの鎧一式を拝領したが、奥州諸大名からは軽んじられ、家臣からも不協和音が出始まる。
1547年 天文16年 ・1547年天文16年に、三迫戡定みはざまかんていがあり、大崎氏敗北した。
1548年 天文16年 ・1548年天文17年には、義直は晴宗方についた為、伊達脅威も少なくなり、兼ねてからの懸案であった義隆よしたか世継ぎに策をめぐらすことになる。一方、義宣よしのぶは、氏家三河守隆継うじいえみかわのかみたかつぐにより磐手沢城に幽門されて、2年余り居座ることになる。居城を長期に空けることは謀反・反逆と疑われる帰来があり、義宣も同様、小野城を長き空けたことは、殉死に値する事と、大崎氏家老 は、義直に進言するが、伊達家に配慮し、小野城に帰城の命をだす。1550(天文19年)の事である。
注)義宣が疑われたのは、氏家氏の問題が絡む、氏家氏は、当主に反旗を翻す程の危険な存在で、当主を凌ぐ勢力を誇り、天険要害の堅城で大崎領内に睨みを利かせていたからである。
1550年 天文19年 ・1550年天文19年には、義直より小野城に帰城の命が発せられるが、義宣は磐手沢城を密かに脱出をし、高泉城に入り、葛西領の石巻の葛西当主葛西晴胤かさいはるたね(伊達稙宗の子牛猿丸、義宣の弟)を頼ったが、入城認められず、最も頼りとなる伊達稙宗のいる丸森城をめざした。が、大崎側の刺客によって、飯野川辺の辻堂で惨殺される。義宣の墓は、桃生郡河北町大森辻堂にある。法名は「玉竜院殿輝山道宣大居士」
1553年 天文22年 ・1553年天文22年に、伊達晴宗だてはるむねは、叛臣の知行地を没収して、功臣に再配分する、新しい「采地下賜録さいちかしろく」を作成した。石高表示が明確に示され、石高に合わせた軍役を確定させた。稙宗以上に確固とした家臣掌握を完成させた。 この天文の大乱は、伊達氏内紛ではあったが、逆に、伊達氏の守護としての勢力圏内の統一を促進させた。
一方、葛西氏の立場は、伊達氏とって肉親的存在と呼ばれるようになり、1576年の相馬氏攻めに協力を要請されたり、1588年には黒川氏攻めに鉄砲隊の派遣を要請されたりしたが、葛西氏は大崎氏と違い、最後まで独立国として体制を保ち、実力を温存させることができた。とどのつまりが、伊達氏の北進が留守・長江領に留まり、大崎領は辛うじて馬打ち領で残ったが、葛西領以北はこれからというとこで、葛西氏の体制が温存されたということに なる。
1555年 弘治元年 ・1555年弘治元年に、大崎義隆おおさきよしたかは、大崎領内を統治するようになり、古川形部持煕ふるかわぎょうぶもちひろの子九郎に義隆より一字拝領され、古川弾正忠隆ふるかわだんじょうただたかと改め古川城主を命じた。古川形部持煕没後十五年の歳月を経て、古川城宿老米谷兵部ふるかわじょうしゅくろうまいやぎょうぶの進言で御家再興を許された。又、弟十郎は義隆より一字拝領し青塚摂津守隆持あおつかせっつかみたかもちと改め、出城の青塚城主あおつかじょうしゅを命じられた。この頃の戦国時代は、武田信玄と上杉謙信が川中島の戦いがあったり、地方の覇権争いが盛んな時であった。
1557年 弘治2年 ・1557年弘治2年秋に、大凶作となり、大崎義隆おおさきよしたかは、飢餓状態の領民(農民)に領内の未開墾の原野、湿地、川の合流の三角州の開墾出役を命じ、その報酬に食糧米を現物支給し領民の窮乏を救った。領民は、大凶作で飢餓状態に陥って為、開墾出役に積極的に応じた。大崎領内は35万石(石高推計)ではあったが、未開墾が点在したいたので義隆が窮民対策と開発を政策し実行したものであり、この年から、灌漑用水が少しずつ整備され、田畑耕作面積が増大する結果となった 。
1571年 元亀2年 ・1571年元亀2年には、伊達領国で宿老中野宗時しゅくろうなかのむねとき牧野久仲まきのひさなかの造反が起こり、内紛の兆しが生じた為、大崎領国は同族の羽州山形城主である最上義光もがみよいしみつと軍事同盟を結び伊達・葛西氏の侵略に備えた。一方、葛西領内で、本吉重継もとよししげつぐが反旗を翻したのに続き熊谷直平くまがいなおひらも背いて内乱に発展していた。この機会に、義隆は、長年境界争いを続けていた葛西領国境の遠田郡六十六郷を奪還すべく葛西に攻め入った。大崎・葛西合戦の始まり年でもあった。
大崎氏は、最上義光の応援を受け、流郷(岩手県花泉町)の入口の有壁(宮城県栗原郡)に大攻勢をかけてきた。
1572年 元亀3年 ・1572年元亀3年7月には、大崎・葛西合戦の夏の陣、義隆率いる大崎の最上連合軍3万の大軍が佐沼まで攻め上り、大崎旧家臣でありながら、葛西傘下になった薄衣一族が再び義隆に服属させ旧領奪還を実現させた。しかし、葛西氏と戦かったが、葛西氏に押し返される。
1573年 元亀4年 ・1573年元亀4年に、葛西軍は、武鑓むやり-大村まで突破口を開き、有賀-金成まで西進し、雪崩を打って岩ヶ崎へ突入し三迫を制圧した。さらに、奥大道を南進して金田荘(一迫町)まで進出した。その後、葛西軍は、ニの迫を制圧して、栗原郡(現、栗原市全域)全郡を勢力下に治めた。
三迫の冨沢氏の変幻自在の動きはあったが、大崎氏は、葛西勢により、ニ百年ぶりに大崎氏によって失なった領地、三迫の地を取り返された。
1580年 天正8年 ・1580年天正8年には、大崎義隆おおさきよしたか50歳になったが、足利幕府滅亡後も奥州大崎領内は安定、平穏な時期を過ごしていた。義隆の統治時代は、歴代当主の中で最も領内が安定、隣接大名に比べて 租税が安く、領民からは尊敬され、一族一党からも慕われ、人材登用も卒なくしており、又、侵略戦争も避けていた為、平穏安定な領内が治めた。
1581年 天正9年 ・1581年天正9年5月には、大崎義隆は、足利幕府滅亡後、織田信長おだのぶながに拝謁し、忠誠を誓う為上洛を決行、名生城には嫡子義興よしおきと城代紀伊守を残し、四家老と三百騎を従え出発した。 上洛は歴代同様、羽州街道を鳴子に進み、最上をへて日本海側の北陸路より新潟・富山・金沢・福井から「木の芽峠」を越え、琵琶湖湖岸に抜け大津をへて京都に入った。途中、安土城の織田信長に拝謁(史実には記載されてない)宮崎産の駿馬十頭、絹肌米十石(60kg入り25俵)を献上、信長より朱印状を賜る。(現存史料として存在する)
1586年 天正14年 ・1586年天正14年夏には、義隆の寵愛を受けた新井田形部少輔隆景にいだぎょうぶしょうゆうたかかげが突然に側小姓役からはずされた。若干16歳ではあったが、「謀反の企てが露見した」事が更迭の理由。色々な 憶測が流れ、同じ側小姓の伊場野惣八郎いばのそうはちの謀略とか、公方鉄砲組の主戦論者で城内から危険視されたとか、の憶測があった。義隆は、嫡子義興6歳が成長するなかで、相談相手に相応しい相談役に、この二人の側小姓から抜擢する考えであった程 、領内で有望な側小姓であった。新井田隆景は大崎一門の血筋で里見紀伊守隆成さとみきいのかみたかなり(家老職筆頭)の推挙、一方、伊場野惣八郎は中目兵庫守隆政なかのめひょうごのかみたかなり(四家老の一人)の推挙で、智謀に冨、聡明な人材が故のことでもあった。 この事態は、伴場野惣八郎の立場も危うくなり、城内では孤立同然、里見一派の厳しい監視と怒りに身の危険を感じ、磐手沢城の氏家弾正義継うじいえだんじょうよしつぐを頼り、義隆の隠密裡おんみつりに進めている「公方鉄砲隊」も等の内情を打ち明けた。氏家弾正義継は事態の 大きさに驚き、三丁目城に隠居の氏家隆継に相談をした。以前より大崎領内の内紛には、必ず氏家一党が介在することから、政略的に義隆に同族の黒沢冶部隆澄くろさわじぶたかすみの娘澄姫を義隆に嫁がせていたが、伊場野惣八郎を庇護することで、事態が再び 内乱の兆しが見えてきた。
1587年 天正15年 ・1587年天正15年には、新井田隆景の再吟味を行う為、新井田城に義隆が向かうが、里見一派の企みにより、幽門されてしまう。大崎領内は里見一派の主流派と氏家一党の反主流派の状態内紛に陥り、やがては、最上義光もがみよしみつ(山形)と伊達政宗だてまさむね(米沢)を交えた「大崎合戦おおさきがっせん」に拡大して行く。氏家隆継うじいえたかつぐ片倉小十郎景継かたくらこじゅうろうかげつぐを通して宿敵伊達(米沢)に援軍を求めたことが、義隆に内通があったこと 事から、主流・反主流に分かれて内乱状態になった。
1588年 天正16年 ・1588年天正16年に、名生城の恒例の行事が取りやめとなり、伊達挙兵にかかわる軍議が行われた。伊達軍の侵攻経路と大崎軍の守備体制をどの様にするかであった。 伊達軍の侵攻経路は、米沢から板谷峠を越えて桑折城(福島)を抜け、国見峠から、梁川やながわ経由岩沼城(、泉田安芸重光いずみだあきしげみつ)で合流し、海岸沿いに東進し利府付近で、留守上野介政景るすこうずけのすけまさかげと合流、鳴瀬川を上る事とした。
2月2日、大崎合戦が始まる。伊達軍一万数千名、泉田安芸守重光いずみだあきのかみしげみつが先陣となり、後陣が留守上野介政景となり、大崎軍の第一要塞の、師山城ものやまじょうを通過、第二要塞の、下新田城しもにだじょうも通過して、中新田城に着陣した。
5月17日付けの最上義光書状によれば、、氏家弾正忠義継うじいえだんじょうのじょうよしつぐは、家臣宮城中部等の家臣を人質にだして、最上義光に忠誠を誓ったとある。義継の伊達政宗に同調することで、大崎領国の当主の座を狙ったが、夢叶わず消え失せてしまった。 後に、、氏家弾正忠義継うじいえだんじょうのじょうよしつぐは、最上義光の仲介で大崎義隆に出仕叶うことができる様になった。
1589年 天正17年 ・1589年天正17年1月23日付けに、、氏家弾正忠義継うじいえだんじょうのじょうよしつぐより、伊達政宗に、大崎義隆が再び氏家党討伐する動きがあるとの書状が届く、政宗は再度「大崎攻め」を画策する為に大崎家臣団の諜略を進めた。結果、2月28日に最上義光を通じて和議を結ぶ、さらには、4月16日に大崎義隆が和議の使者を米沢に参向させて、和議の条件交渉をさせた。 伊達政宗の和議条件として、4月16日付けの書状の記載が残されている。内容は「大崎領を伊達の馬打ち領とし(伊達への従属)、最上義光と絶縁、氏家党の復権を求める。」であった。大崎領内では不服を唱える者もいたが、大崎義隆が領内を集約し時期を見計らうことにした。
・1589年天正17年6月5日に、伊達政宗は会津芦名を攻める為、先陣、猪苗代盛国いなわいろもちくに(芦名に不満)、二番手に、支倉小十郎はせくらこじゅうろう、三番手に、伊達成実だてしげざねと総勢ニ万三千余騎、一方、芦名軍は、冨田将監とみたしょうげんを先陣に一万六千余騎が、摺上原すりあげはらに集結、戦闘が始まったが、芦名軍は追い込まれ 黒川城(会津若松城)に籠ることになった。しかし、6月10日夜に、、芦名義広あしなよしひろは白河に逃れた。その後、落ち延びて、生家の常陸佐竹に囲われることになった。6月11日に伊達政宗が黒川城に入った。芦名攻略を見極めたかのように、2日後の6月13日大崎・伊達の和議の返書として、大崎義隆の「起請文」が届いた。
1590年 天正18年 ・1590年天正18年3月1日付に、豊臣秀吉が小田原征伐を大号令を発し、3月18日には、伊達政宗だてまさむねは評定を開き小田原参陣を決断した。一方、大崎義隆は「下剋上も極まりに達しておったの、百姓の子が天下を取る世に加担も出来まい」と静閑の態度を 取った。義隆自体は政宗によって、一度隠居をしたが再び、当主になることで、領国安堵されたが、氏家弾正忠義継うじいえだんじょうのじょうよしつぐの執事職が政事を伊達一色され、それを嫌い密かに、最上義光との密約を結び、政宗との和議を反故にし、氏家弾正隆継を弾劾するとことを踏み切らせ、伊達離脱をし、伊達との和議は実質上、表向きとなった。
この時期の情勢は緊迫を要し、小田原参陣に向け、政宗は大崎領国の守備を氏家弾正に任せ、伊場野外記や伊達に属下に檄文を送った。又、補佐役に礒田典膳正兼いそだえんぜんまさかねに命じ、氏家弾正の補佐をさせた。
・1590年天正18年に、豊臣秀吉は宇都宮に入り、伊達政宗、最上義光、木村清久を召き、”東国御出馬”を評議したし、8月1日に白河から8月9日に会津黒川城に入城することになった。8月1日に白河では、伊達政宗、最上義光が本領安堵の朱印状が与えられた。
8月9日会津黒川城では、出羽奥州総仕置の厳しい評議が為された。評議の結果は、大崎義隆(名生城主)と葛西晴信は領地没収(この事は、最上義光により宗家の大崎義隆に伝えられた。)、石川昭光いしかわあきみつ結城義親ゆうきよしちか(白河城主)も領地没収の裁定が下った。
・1590年天正18年に、大崎氏は、奥州仕置で改易となる。
8月16日には、奥羽総大将の蒲生氏郷がもううじさとが、伊達政宗を先達に、大軍を率いて大崎領国に入り、大崎義隆のいた中新田城で大崎領国没収の沙汰が下された。
8月18日には、領地没収後、大崎領と葛西領は関白秀吉の側近木村弥一郎右衛門吉清きむらやいちろううえもんよしきよ(明智光秀の重臣で丹波篠山の城代であった。)に与えられた。名を伊勢守に改め、登米城(旧葛西)に入り、嫡子清久きよひさは古川城(旧大崎)に入り、領国を治めた。 しかしながら、木村父子は関白秀吉の命で、検地と兵農分離の刀狩りを徹底的強行した為、農民の不満が爆発した。検地では生産力を米で評価し、租税をニ公一民と原則とした為、義隆統治時代に比べ対象面積を二割減じた重税を課した為であった。 又、木村氏には、家臣が少なく、中間ちゅうげん、京都周辺の浪人などを家臣にして下向した為、統制がとれず農民の不満がさらに増加した。
・1590年天正18年10月16日には、伊達軍が米沢を出発し、11月5日に留守政景の利府城に入った。一方、関白秀吉名で11月10日に、関東の徳川家康らが挙兵した。
11月14日には、蒲生氏郷が国分・松森城に至り、下草城しもくさじょうで政宗と氏郷が大崎旧領の一揆鎮圧の軍義を開いた。この後、政宗家臣須田伯奢すだほうきが蒲生氏郷の陣屋を訪ね、「政宗謀反」ありと密告を受け、一夜にして深谷から名生城を攻め落とし、翌日には名生城に籠城してしまう。
(政宗と氏郷の確執(奥州仕置で会津領地没収され、氏郷が拝領したことに始まる。)あった為である。)、伊達軍は、蒲生氏郷に遅れを取りながら千石城(松山町)に本陣を構え、中目城・師山城を攻め落とし、高泉城(高清水町)を無血開城し宮沢城攻略に入った。
・1590年天正18年に、大崎義隆は、葛西・大崎一揆が起こる10日前の1590年10月6日に、御家再興の為上洛、一か月の長旅を経て、京都逗留一か月を費やし、1590年(天正18年)12月7日に、五奉行上申を得て、聚楽第の大広間で謁見、秀吉は、義隆の器量を見抜き(秀吉の人を見抜く力は、その当時定評があった)、小田原不参を 不問にし、領地安堵の朱印状が与えれた。(大崎氏は、伊達氏の馬内領であり、伊達家の臣下にあたり、小田原参陣に関して、伊達家より命令が下されなかった旨を弁明したことも不問の理由と思われる。)
1591年 天正19年 ・1591年天正十19年秋に、大崎義隆おおさきよしたかは、蒲生氏郷がもううじさとのはからいで羽州山形城に向かい、途中旧領に立ち寄り、南城下総守隆信なんじょうしもうさのかみたかのぶを強制的に残し、下人二人と共に会津若松城下の館に帰った。義隆を庇護した蒲生氏郷は、1595年(文禄4年)4月京都で死去、跡継ぎの秀行は、1598年(慶長3年)に宇都宮に移封された後、上杉景勝うえすぎかげかつのもとに お預けとなった。新領主の上杉景勝うえすぎかげかつは、”大崎公方”と呼ばれた義隆を家臣に 取り立てるが、義隆68歳でもあり、最上義光のもとにいた嫡子義興を代わりに仕えさせた。二年後、関ヶ原合戦が起こり、豊臣に ついた上杉は敗れ以後、義隆の消息は途絶えた。
一説では、伊達家に仕えた大崎旧家臣が密かに、大崎旧領へ迎え往生寺(色麻町)へ葬った。一説では、名生城、川熊城の寺院に埋葬したとの説が様々言われている。 大崎氏が滅亡してから、伊達政宗が磐手沢城に移封されると、雪崩を打った様に、大崎旧臣は伊達へ臣下の礼を取るようになった。


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